私は猫である。
名前はかつてなかった。
「猫は百年生きれば化けるというけれども、ただ生きるだけならそんなのはざらにあることなんだ。なにしろ、お前たちには九つの魂があるのだからね」
その頃のことを思い出そうとすると、頭の中を靄が覆って、細部が覚束なくなる。あるいは今日のような冬の日に縁側で丸くなっていたところに話しかけられたのかもしれない。
「肝心なのは己を持たないことだ。なにも思わず、なにも考えず、暑い日は縁の下にもぐり込み、寒ければ竈の前を陣取る。そうして百年も経たところで初めて自分の色が出てくるんだよ。他者と交わり、多くに手を伸ばしたらいけない。色が混じってしまう。無計画に混ぜ合わせた色は最終的にどうなるか知っているかい?」
長広舌が振る舞われているかたわら、私は空腹を感じていた。どうやらずいぶんと長い間食事から遠ざかっていたらしい。ふと庭に目をやれば、きれいに刈りそろえられた芝の上を、まるまると肥えた野ねずみが駆けていった。
「ねずみ」
ねずみを捕ったことなど久しくなかったが、思わず口をついたのは、黙って耳を傾けているのにいいかげん飽きがきていたからかもしれない。
「その通り! やっぱりお前は筋がいいぞ」
喜悦の声が耳をつんざいた。
「無軌道に色を混ぜれば灰色になるばかりだ。色はいったん濁ってしまえば、もとに戻すのに長い時間が必要になる。さしもの猫の魂も尽きてしまうほどのね」
九本の尻尾をばさばさと振りながら、声の主はひどく満足そうだった。
「決めたよ。お前はこれから私の式だ。筋のいいお前のことだ。式の式どころか、いずれ式代理くらいにはなれるだろう」
その二つにどのくらいの差があるのかはわからなかったが、口振りの熱の入りようから推し測るに礼の一つもいっておいた方が賢明な雰囲気だった。
「なう」
「ははは、いいぞ、橙。そのくらいのやる気がなきゃね」
橙とはどうやら私の名前らしいと思い当たったところで、回想は途切れて後は藪の中。
以来、藍様に命じられるままに、私はマヨヒガで生活することとなった。藍様の名前をいつうかがったものか、まったく覚えがない。ふと気づいた時には、そう呼ぶのが当たり前になっていた。もしかすれば、式になるというのは、そういうことなのかもしれなかった。
マヨヒガは小さな集落の体をなしていて、いくつもの家が軒を連ねていたが、どこにも住人はいなかった。私はそこで気楽な一人暮らしを満喫し、時折藍様に呼び出された際になんということもない仕事をこなしていた。
あまり私の所作や態度に口をはさまない藍様ではあったが、ただ一つ、呼ばれた時には必ず後ろ足だけで直立して見参するよう言いつけられていた。これだけは頑として戒められていたので、破ることはできなかった。
劫経た猫は踊りを踊るというが、私はあれが苦手で、手拭いを頭に巻いて、三味線の撥の音に合わせて舞うなんて到底できない相談だった。
「これからお前にも難しい仕事をこなしてもらわなくちゃいけない。それには手くらい自由になっていないといけないよ」
なにしろ猫の体は直立向きではないこと甚だしく、無理な姿勢をとるたびに足の付け根がひきつり、猫背が悲鳴をあげそうになった。
痛みを感じなくなるまで、自由に歩けるようになるまで、前足を手と認識できるようになるまで。後のものほど長い時間をかける必要があったが、なんとか一つ一つをこなして人並みの妖怪ほどには動けるようになった。
その頃になると、藍様の前でなくとも二足歩行が常態となっていた。料理も学び、生活にはさして支障もなくなってきた。やはり藍様は特になにをいうでもなかったが、自然に献立の知識が浮かび上がってきて、式というものの便利さに改めて感心した。
そうして二足歩行に難を覚えなくなったのとちょうど時を同じくして、
「ひとつ人間の死体を持っておいで」
そんな仕事をいいつかった。
「なにも墓暴きをしろとか、だれでもいいからあやめてこいといっているのではないさ。このマヨヒガを出て、湖を越えたところに神社がある。そこに出物があるという話だから、それを引き取ってくればいいだけのことだ」
いくら人間の死体とはいえ、あまり気乗りのする話でもなかったが、命ぜられては抗う術はない。藍様の言葉が途切れるのと同時に、私は駆けだしていた。
枝のしなりを利用して木々を飛び移り林を翔け抜け、障害のない湖上を滑空し、神社の石段を一またぎに、我ながら瞬く間に目的地へ到着した。
境内は静まり返っていた。四方を見回してみても、人っ子一人いなかった。もっとも玉砂利の上に積もった雪には、無数の足跡が千々に乱れて残されていて、つい先ほどまで大勢の人間が行ったり来たりしていたらしいことはうかがえた。
人間におくれを取るほど間も抜けていないつもりだが、衆寡敵せずともいう。長居は無用と本殿に向かえば、なるほど御神体の前に布団が敷かれ、横たえられている人間が一人あった。
やはりここにも人の姿はなく、冷え冷えとした空気が板の間を満たしていた。妙に鼻をくすぐるお香が焚かれていたのだけが閉口ではあったが、それ以外はなんの差し支えもなく、布団のそばにまで忍び寄れた。
死んでいるのは娘のようだった。掛け布団の上で組まれた指は皺もなく、経帷子越しにも腕や肩の肉づきの丸さが見てとれた。髪を束ね、顔には白い布が掛けられていたため、年頃を正確に推測することはできなかったが、まず二十歳を過ぎていることはなさそうだった。
格子戸や障子は開け放たれているにもかかわらず、お香の匂いはますます強まってきた。このままでは鼻がおかしくなってしまいそうだったので、早々に用件を済ませて退散することにした。
一応だれかに断りを入れておくことも、頭をよぎらないではなかったが、そのだれかが見当たらないのだからどうしようもない。
藍様の口振りでは、話がついているようでもあったし、遠慮をする必要もないだろうと判断をした。
しかし、硬直した死体の持ち運びには思いがけなく難渋した。はじめは肩に腕をまわしてみたのだが、身長差のおかげで、ふらふらと重心が定まらず、たたらを踏んでいるうちにとうとうもんどり打って倒れてしまった。不幸中の幸いというべきか、その際に、本堂の隅に麻袋のあるのが目に留まったので、その中へ亡骸を骨折って押し込み、ようやくそれを担いで帰路につくことができた。おかげで帰りは行きの倍以上の時間がかかった。
「おかえり。早かったね」
藍様は表に出て私を待ち受けていた。地面には菰が敷かれていたので、その上に死体を横たえる。
「それで、先方はなんといっていたんだい」
だれにも会わなかったのだから、そんなことを聞かれても困ってしまう。
「なんだ、忘れてしまったのか。仕様のないやつだな」
私が返答に窮していると、藍様は一人合点に解釈して、さっさと死体を菰で巻いてしまった。
「まあいいさ、どちらにせよこれは巫女の都合。こちらにはこちらのやり方があるというものだ」
口の中でそうつぶやいたきり、藍様は巻き終わったものをひょいと肩に担いで、振り返ろうともしなかった。しかし、そのまま一歩二歩三歩と進んだところで足を止め、
「ところで、橙。お前、この死体の顔を見たかい?」
とたずねてきた。その声が、ついぞ耳にしたことのない猫なで声だったので、思わず総毛立った。
私は首を横に振るばかりだったが、それで十分だったようで、
「そいつはよかったよ」
といったきり、体を浮かせて飛んでいってしまった。
あれから幾度かの冬を過ごしたが、寒さの厳しい日には、決まって死体を運んだあの記憶が蘇って、そのたび、せめて布の下の顔だけでも拝んでおくのだったと後悔が募った。
寒い冬の夜、囲炉裏のまわりで体を小さくしていると、あのお香のにおいが漂ってきて鼻をくすぐることがある。そんなはずはないと、あたりを見回せば、決まって障子が少し隙間を開かせている。
そして夜闇を隔てて、その向こうから、だれかの顔がこちらをのぞきこんでいるのだ。
おそらく私のかついだ死体の少女だろうと思うのだが、あいにく私は判断材料を持ち合わせていない。何故なら、その顔は目鼻口を欠いたのっぺらぼうなのだから。
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東方妖々夢の内田百間風読み替え作品集『大宴会』の第2話になります。作品間の関連は薄いです。