女になりたい。洋介は昨晩そう言って突然姿を消し、今朝、ほんとうに女になって帰ってきた。
「どうしたの」
およそ洋介とは思えない、ほっそりした女の子を、私は洋介として、そう、認識して、訊ねた。
「なった」
「なりたいから?」
「そう」
洋介とは、そういう人間だった。したいと思うことがあれば、およそできないであろうことでさえも、やる人間だった。ある時は賞がとりたいと言って絵を描き出して、それで本当に金賞を貰ってきたし、またある時はクジを当てたいと言ってスクラッチくじを買い、十万円を持ち帰ってきたこともある。
「それで、どうするの」
五枚切りの食パンを二枚オーブンに並べる。洋介はダイニングチェアに腰掛けて、テレビのニュースを眺めていた。
「出かけよう。買い物とか、したい」
今日は曇り。降水確率は二十パーセント。天気予報士が言った。
「買い物」
「服とか」
マーガリンが一つ。二種類のジャム。ドレッシングとレタスサラダ。私はそれらをカウンターに並べて、洋介はテーブルに運んだ。
「服?」
「しばらく、このままだから」
ふうん、と私は言った。紅茶をカップに注ぐ。レモンを浮かべたかったけれど、無かったのでミルクを三つ、砂糖をひとつお盆に載せて、カウンターに上げた。そこでオーブンがチンと鳴ったので、中から二枚のトーストを取りだして、皿に並べ、ダイニングまで持ってきた。
「あ、ずるい」
ダイニングでは、洋介が先にサラダを食べていた。
「ごめん、お腹空いてた」
「私もだよ」
冗談交じりに腹を立ててみせながら、私は洋介の向かいに腰掛けた。マーガリンの蓋を開け、ナイフで中身をそぎ取る。
「しばらくってさ、いつまで?」
「決めてない」
向かい側で指についたジャムを舐めとり、洋介は答えた。それからしばらくして、気分で、と付け加えた。
「とにかく、食べ終わったら、出よう」
「そうだね。出よう」
会話が閉じたあと、洋介は紅茶を飲んだ。
「明日」
「明日?」
「明日は、僕も砂糖が欲しい」
その日、私は洋介をファッションビルへ連れて行った。電車に三十分ほど揺られた。思いの外人が多かったので、疲れた。
ファッションビルで、洋介は、積極的にいやがった。例えば下着屋でサイズを測ろうとしても、え、やだよ、と言ってなかなか測らせてくれなかったし、化粧品店に言っても、今はいい、と言って、結局商品を触ろうともしなかった。
「なんだよ、意気地なし」
私がそうなじると、洋介は照れながらむすりとした。それでも男か、というと、今は違うし、と返した。
洋介は、そういうのを楽しんでるふうだった。なんだよ意気地なし、と、私になじられるのも含めて。そう思うとすこし癪だったので、それからはもう何も言わないことにした。
押したり引いたりを繰り返しながら必要そうな物をあらかた買った後、最後に洋服を買いに行った。このときばかりは、洋介も率先して物を選んでいた。スカートだって、選んでいた。
急にそれまでのピントがずれて、私は不思議になった。目の前の少女が洋介であることを、疑いたくなった。けれど、それは確かに洋介だった。
何遍眺めてみても、洋介なのだった。
帰り際、私たちはソフトクリームを二つ買った。駅のベンチで、二人してぺろぺろ舐めた。甘くて、冷たくて、肌寒くなった。
「秋、終わるね」
急に洋介が言った。
「そ、そうだね」
半歩遅れて、返した。
「なんでソフトクリーム買ったんだっけ」
「ほてってるからじゃない」
「何が?」
「頭とか」
それで合点がいったらしく、洋介は中空をぼやっと眺めながら、ああ、と言うのだった。
仕事にも、洋介は行った。大丈夫なの、と私が訊くと、大丈夫だよ、力仕事じゃないし、と洋介は返した。
「そうじゃなくて」
私が質問の意図を伝えようとすると、洋介はまた、ああ、と、身勝手に納得するのだった。
「いや、それも大丈夫だよ。だって、鳴海も僕が僕だって分かるだろ」
男のころと同じ調子で、洋介がしゃべる。調子が狂うばかりで、私は、ああそうね、と無理に納得するしかなかった。
そこで音がした。炊飯器のアラームだ。炊けましたよ、と、言っている。おお、ついにできましたな、と、私はおどけた様子で言ってみた。そうですな、と、洋介も私に乗りかかるふうに言った。ただし、顔は赤らめていた。
その日、私は赤飯を炊いていた。つまり、そういうことだ。
ナプキンってすごい、というのが、洋介の感想だった。
「それだけ?」
私が訊くと、
「それだけ」
二つの茶碗に赤飯をよそいながら洋介は答えた。私の茶碗に一杯分、洋介の茶碗に五分程度。少女の身体におさまってから、洋介は食べる量がめっきり減った。燃費がいいみたいだ、と、本人は言っていた。近頃食欲ばかり張ってしまう私からすれば、羨ましい限りである。
「いただきます」
「いただきます」
やがて私たちは、赤飯と鯖の塩焼きと野菜汁を向かい合って食べた。食べてる間、私たちは黙りこくった。そうしようとしてそうしたわけではないのだけど、いざ赤飯となるとどうにも厳粛な心持ちになってしまって、言葉をうしなった。
それで、次に、ごちそうさま、と言った後、思わず私たちは大きく息を吐いた。
「止まるね、呼吸」
「止まるね」
言い合って、小動物みたいに笑った。それはとても自然で、けれどその自然さが、私にはひどくかみ合わせの悪いものだった。ぴったりとしすぎているような。晴れすぎた空、みたいな。
洋介と器を重ね合う。同じくらいの大きさの手が、小賢しく動いている。
やだな、と思った。いいけど、やだな。
「レモン、無いね」
「買い忘れた」
そっか、と洋介は言った。
二ヶ月経って、三ヶ月経って、しかし洋介は女のままだった。季節も変わり、服も少し買い足して、生活もこなれた。私はレモンを買い忘れ続け、そして嫉妬していた。
そう、私は嫉妬していたのだ。三ヶ月経って、やっと気づいたことだった。なんだか自分以外の女に、洋介を寝取られたような気分だった。
「僕は僕さ」
洋介はそう言っている。でも私にとって、それはそうじゃなかった。だって目の前の少女は洋介ではないのだ。洋介だけど、洋介じゃない。
だいぶ理不尽なことを言っていると自分でも思う。でも、洋介はひどく不条理なのだ。すこしくらい理不尽になったって、殊更不公平というわけでもない。
日曜日だった。私たちは買い物をしていた。いつもの町の、いつものビル。服や雑貨を少しずつ買った後に、地下のスーパーで食料品を品定めしていた。
洋介はスカートを履いていた。群青のプリーツスカート。私が同じ物の赤色を持っていたので、それじゃと言って、この間洋介が買った。
こなくそ、と私は思った。見せつけるように前を歩きやがって。些細な悪感情がせり上がってきて、些細なところできちきちする。
「豆腐、安いね」
細腕で、洋介は三パック五十円の豆腐を手に取った。確かに安かった。
「湯豆腐とか、いいね」
今朝テレビで見た週間天気の気温を思い出しながら私は言った。洋介は同調した。
冷蔵コーナーの食品売り場が快適じゃなくなった、と、この間洋介はぼやいてたな。二の腕をすこしさすってそんなことを思い返した。
「そろそろかなあ」
ふいに洋介がそう呟いた。何が、と訊いてみたかったけど、はばかられるようなのでやめた。
買い物の後、店を出る直前で、二人でトイレに行った。同じタイミングで個室に入り、同じタイミングで個室から出た。少し前までひとつひとつに手間取って、私よりずっと遅くに出てきていたはずの洋介は、すっかり女らしくしていた。
気にしないふりをした。二人で、並んで、手を洗った。
「あ、ハンカチ忘れた」
女の子が言った。
「はい」
私は自分のハンカチを貸した。
「ありがとう。……顔怖いよ、どうしたの、鳴海」
「べつに」
じくじくした。
次の日、洋介は早起きで、私よりも早起きで、そして、男に戻っていた。
「どうしたの」
私がそう訊くと、洋介ははにかみながら答えた。
「飽きた」
言われて、私は笑った。涙が出るくらい笑った。ほっとした。泣いた。それで、また笑った。
みすかされていやがる、と私は思った。せつに思った。やなやつだなこいつ、とも、思った。しかし私は嫌いになれないでいたのだ。
「……あーもう」
「え、どうしたの鳴海」
「うっさい」
洋介はただ微笑している。なさけなくしている。それをなじりたくて、でも、本気でそうすることはできなかった。なじる言葉を考えているうちに、それが分かってしまって、最後にはやめた。
泣き止むのに、五分はかかっただろうか。洋介が紅茶を淹れた。レモン無いよ、と洋介は言った。買いに行こう、と私は言った。今日は、レモンを、買おう。
間もなく私は洋介と結婚した。子供も、三人ほどもうけた。
そして洋介は、男のままだった。私が二度とレモンを買い忘れないことと同じく、もう二度と、女になることは、なかった。
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ちょっと前に書いたお話です。