カランコロン。重い木製のドアに付いた鈍く光った真鍮のドアノブに手をかけると、静かに鐘が鳴り響く。いつもどうやってここに辿り着くのかぼくには分からない。
「午前三時の名も無きカフェ」
そう名付けてはいるが、このカフェの名前すらぼくは知らない。
中には静かに人々の囁く声。何処からか聴こえる誰かの静かな寝息。そして揺らめく暗く赤く光るろうそくの灯火。静かなざわめきとあたたかい灯りに包まれてぼくはほうっと小さく安堵のため息をつく。
ぼくがしなやかに光る絹のソファに身を埋めるとふいにスープが運ばれてくる。暖かく優しく身体に沁みるスープ(これも名前は分からない。いつも違うスープなのだ。)を静かにゆっくりと飲み干す。ああ…染み渡る…。ぼくの身体にそのスープは巡り巡って、ぼくの冷えた心までをもあたためるのだ。
気付くと傍らに丸い瓶を抱えた男が立っている。
「ゆきさんをお持ち致しました」
男の顔は分からない。いつも同じ男のようにも思うし、毎回違う男のようにも思える。ぼくが変わっているだけなのか…。ちなみに今日の男は柔らかくまあるいイメージだ。たまに三角の男の時もある。三角の男は少し刺々しく声をかける。今日がその男で無くてよかった。
柔らかくまあるい男がおもむろに瓶を傾けると、小さな口から雌猫が一匹机の上に降り立った。ビロードのような毛並。いや、ビロード以上にしなやかな手触りだ。そして赤く青い宝石の様に光る吸い込まれそうな丸い瞳。彼女の名前はゆき。ゆきは静かに机の上に横たわり毛繕いを始める。ぼくはそっとゆきに顔を埋めると静かに息をした。
ふと気付くと周囲は繭玉のようなものに覆われている。ココにはぼくとゆき、ふたりだけ。まあるくなり静かに深くゆきの香りを吸い込む。
今ぼくは全てを忘れ全てを想い、しかし心は和らいで静かに波打つだけ。
「ここは海だ。」
いつしかゆきは形を変え美しい人間の姿になっていた。ゆきはやわらかい微笑みを向け、優しい両の手でぼくを撫でる。ふたりだけの繭の中の世界。恐れるものは何もない。ぼくはしっかりとゆきを抱きとめた。
この海の中、ぼくは時間を忘れ休息を取る。毎夜毎夜…。
そうだ。ぼくは疲れ果てているのだ。ありとあらゆる日常のあれやこれやに。生きること生きていかねばならぬことに疲れ果ててしまっているのだ。
しかし、ぼくにはここがある。あたたかいスープにやわらかい彼女、ゆき。
ぼくの心はいつしか平静を取り戻すだろう。日々もがき苦しみながらもしっかりと歩いて行けるだろう。暖かい海に包まれてぼくは今、ぼく自身の足でしっかりと立つ日を迎える準備をしている。
「午前三時の名も無きカフェ」自己をも忘れまた自己に向き合い、尚且つ静かな平安の時。きっと未来は鈍く暗闇の中にあってもぼくはその暗闇に足を踏み込み歩いて行ける。
ぼくはビロードのようなしっとりとしたゆきの肌に触れながら、静かに深い眠りについた。
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きみの夢にぼくの夢をまぎれこませて。 きみをあたたかいスープで癒させて。 ああ、ぼくにそれだけの価値があれば。