白玉楼。
その二百由旬とも言われる庭の端に、小さな長屋のような建物がある。魔理沙の事件後に突貫作業で建てられたそれは、名を『永遠亭出張診療所』という。形状はアルファベットのTに似ていて、底面が白玉楼を取り囲む高い壁にくっついている。入口は、壁を削って作られた勝手口のような扉で、中に入ればまっすぐに伸びた廊下と左手側にある6つの小部屋がある。廊下正面にある扉は、6つの病室と診察室を繋いでいる。
その診察室へと帰ってきた八意永琳は、荒々しく椅子に座ると重い顔で溜め息を吐いた。復帰した霊夢と美鈴の探索直前診察を終えてパーティを見送ったのだから、以前ならば後は自由に過ごしてよかった。しかし今では、パーティが帰ってくるまでここで待機しなければならなくなってしまった。魔理沙の事件後に結ばれた、当初とはかけ離れた変更契約によって、『パーティ探索中における出張診療所待機業務』を義務付けられたからだ。
あの事件があってから、ありとあらゆる関係者がトラブルの芽をを潰そうと躍起になっている。その中で、依頼者側が『パーティが半壊して帰ってくることを考慮して、即座に対応できるよう最高の体制を整えよう』と合意するに至ったという一連の流れ。医療における最重要人物とも言える八意永琳は、この濁流にまんまと巻き込まれてしまった。
確かに、依頼者側にとってもパーティ側にとっても、永琳が出張所にいることで不安を減じることはできるだろう。永琳としても、輝夜主導とはいえ永遠亭として契約を結んだのだから理解はしているし納得もしている。他の者に任せることを禁じている契約内容になっていることも、八意永琳という存在への信頼感を活かすためとあらばやむを得ないことではある。その理屈も、意味も、八意永琳にしか出来ないことであるという事情も、永琳自身は完全に把握している。だが、業務上のやむを得ない出張であるとはいえ、己が主と定めた者から期間不明で離れて暮らすことを強いられているというのはなかなかにして辛いものがある。しかも、そこに至った理由が実に冴えないものときているから、事を起こした愚か者どもの尻拭いをしている自身を憐れにすら思えてしまうのだ。
言ってしまえば。この業務自体は本来、永琳に任される予定ではなかった。霊夢・美鈴が麻痺状態に陥った時も永遠亭から暇な者を見繕って行かせればそれでよかった。長期の療養が必要な場合でも、知識のある他の者を常駐させればよいという話になっていた。永琳の常駐など、全くもって必要がない。誰かの責任逃れだとか、是非局直庁の知らぬ偉い方を納得させるためだとか、そういうつまらない何かのために駆り出されているのが現状なのだ。
永琳は、当初の想定よりも過剰なストレスに襲われていることを自覚している。しかしだからこそ、より早く己の住むべき場所へと帰るために万難を排して責務に忠実であろうとしている。事がどれだけつまらないことから始まっていようとも、自分だけはそれに倣わず、自分のためにも主のためにも永遠亭という看板のためにも、最善を尽くそうと努めている。痛む頭を押さえながらも、なんとか頭を回そうと、集中しようと試みている。
だから、永琳はいつも真剣に考えている。パーティを最高の状態に保つことで、一刻も早くこの茶番が終わらせようとしている。そのパーティは、先ほど探索へと向かった。ならば永琳が次に考えるのは、現在唯一の治療すべき対象である霧雨魔理沙のことである。
魔理沙が倒れた際に、永琳は当初の契約に基づいて診察へと出向いた。そして、すぐにその身の異常を感知して当局へと問い合わせた。
「どうなっている?事前の打ち合わせとは全く異なる事態が起こっているではないか!」
急を告げる永琳の言に対して、水面下で当局の調査の手が入り、このトラブルの状況を正確に洗い出すことで有力な仮説が組み上げられた。その仮説が突きつけてきたのは、『稀代のトラブルメーカー霧雨魔理沙と、有史に残る頭脳とずぼらさを兼ね備えた八雲紫。その双方の能力がいかんなく発揮されたハイブリッドでハイエンドな予測不能の事故である』という、恐ろしいほどに馬鹿馬鹿しくて、絶望的なほどに解決困難な、悪夢と言う名の現実だった。
片肘をついて手の平で頭を支える。くしゃりと前髪を潰す。眉間に皺が寄る。どれもこれも、普段は表に出すことのない姿だ。考えても考えても、考えても考えても。やはり同じところへ帰着してしまう。『この事態は、私の能力の届かないところにある』と結論しているのだから、いくら地上と月の歴史上でも有数の頭脳を駆使しようとも、当事者や責任者に改善方法を提示するくらいが限界なのだ。全力を注ぎこんだとしても、事態の解決に至る上ではほぼ無意味であり無価値である。ではなぜ、永琳はこんなにも苦悩しているのだろうか。余裕があって、含みがあって、いつでも何かを企んでいそうないつもの姿でいられない理由とは何か。
それは誇り。
医師として、薬師として、知ある者として。これまでずっと、人によっては永遠と区別がつかぬほどの時を生きてきた。数え切れないほどの者を癒し、その反面で数え切れないほどの者を見取ってきた。寿命、手遅れ、致命傷。どうあっても救えない命があることなど、誰よりも深いところで受け入れている。神ならぬ身では決して届かぬ領域があると知り、その理にだけは抗うことなく忠実に従っている。が、”倒れた者に手を差し伸べることが出来ない”というのは絶対に受け入れることができない。地上で人が社会的な生活を営み始めるよりも永く生きている八意永琳が、己の職務としている分野で任された者に対して『手を出さない方が良い』と判断せざるを得ないなどあってはならない。未体験の屈辱だ。アイデンティティの凌辱だ。己の生の根幹を、ほぼ全て否定するほどの衝撃だ。確実に癒さねばならない患者がいて、でも為せることが何一つも無い。思考を巡らせるだけでも頭痛・眩暈・嘔吐感、その他強いストレスによる諸症状が力強く襲ってくる。
「厄介なことをしてくれたわね……」
全く意図していなかった方向からの正確無比な急所攻撃など、およそ耐えられるものではない。攻撃した者すら意図していなかったのだから、真に完全なる不意打ちだ。精神の致命傷だ。不調や負傷という単純な話ではなく、己の存在証明が揺らいでいくような危険すぎる心的外傷を受けている。
「ああもうっ!」
永琳は、八つ当たりに近い感情であると理解しながらも、ボサボサの前髪越しに魔理沙の眠る病室を睨みつけた。射抜くような視線の先は、診察室横にある魔理沙専用の特別室。薬品倉庫予定であった部屋だが、改造して専用の個室へと作り変えたものだ。
その戸が、少しだけ開いていた。
魔理沙は、病室の小窓からパーティが集うのを眺めていた。表情は乏しく、変化もなかった。その様は、パーティを”眺める”というよりも、”風景が動いたから目が勝手に追っている”と表すべきなのかもしれない。
普段であれば、あの中に加われないことを悔しがったりもするのだろう。そして早く復帰できるように、復帰できなくとも何らかの方法で絡んでいけるように、いそいそと行動を始めるのだろう。誰もが知っている。事件とあらば首を突っ込み、異変とあらば邪魔をしてでも解決に向かう。それが霧雨魔理沙だ。いつも無茶苦茶で、やりたい放題で。やらかしても笑い飛ばして、それでもなおも突き進む。後でこっそり一人でへこんだりもするけれど、次に会えばまた笑っている。傍若無人のようでもあるが、どこか憎めない。これこそ霧雨魔理沙という少女のあり方なのだ。
では、今ここにいる彼女はいったい何だというのだろう。
もしかしたら。寝巻きに着替えさせられている今ならば。いつもの特徴的な服装をしていない今ならば。見慣れている者でも、この少女が霧雨魔理沙であると気づかないのかもしれない。快活な笑顔を浮かべていた表情は、欠片ほどの感情も感じ取ることが出来ないほどに薄っぺらい。トレードマークでもあるふわふわの金髪も、手入れが不足しているからか、あちこちが変に膨らんでぐしゃぐしゃだ。仮にこの姿で里を歩けば、うっかり霧雨の者に出会わない限り、間違いなく妖怪扱いされて叩きのめされることだろう。
今の魔理沙は、ただ虚ろである。
視線の先にあったパーティが、言い合いをしながら飛び立って行った。少しだけ目で追った魔理沙だったが、すぐに小窓の枠から外れて見えなくなってしまった。
そのまま固まっていた魔理沙は、どこかで『私も行かなきゃ』という気持ちでも残っていたのか、無表情のままふらふらと病室から出ていく。部屋から誰もいない診察室を抜けて、勝手口から外へ。顔色は明らかに青ざめていて、どう転んでも探索などできようはずもない。ふと顔を上げ、愛用の箒も持たずに飛び立とうとする……ように見えた。が、その動きは停止する。両手にも体にも力を込めているように見えるけれど、ぶるぶると震えるだけで大まかな視点では全く動いていない。しばらくすると、全身からふっと力が抜けて、一気に地面へと崩れ落ちた。
「魔理沙っ!」
病室の戸が開いていることに気付いた永琳は、魔理沙が中にいないことを確認するとすぐに表へと駆けだしていた。魔理沙は、帰ってくる時にどうして気付かなかったのかと思うほど入口の近くにいた。見つかったるのは早かったけれど、何かをしようとしているように見えたので様子を窺うことにした。こうなることはわかっていたけのだれど、それでも『魔理沙なら克服するかもしれない』という期待が僅かながらあった。また、虚ろだった魔理沙が何かしらの行動を示すことは回復に向けての好材料なのではないか、という判断もあった。
いかに薬学を極めようとも、人の心の病には万能薬が存在しない。精神医学やカウンセリングなどの心理的な方面は、永琳の専門からやや外れていることも災いした。素人でも明らかに異常が見て取れるほどに真っ青な顔をしてガタガタと震える魔理沙を、永琳は優しく抱きしめていた。
『冷たい体……』
肉体を癒しても、戻らないものがある。
魔理沙は、その戻らないものを大きく傷付けられていた。
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迷宮外(永遠亭出張所):苦悩する永琳とうしなわれかけの魔理沙
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