春の日曜日。目が覚めたのは12時前だった。
大きく息を吸い込んで、一気に吐き出す。カーテンの隙間から光が滲むように漏れている。曇っているか、雨が降っているのかもしれない。
車が水を弾いて走る音が聞こえた。やっぱり雨か。
寝返りを打って床に落ちている携帯電話に手を伸ばす。充電ケーブルが刺さっていて、こちらまで伸びてこない。親指と人差し指で充電プラグのツメを押し、残りの3本の指で本体を外そうと試みる。両手でやればえらく簡単なことだが、片手でやるとなかなか難しい。
やっとケーブルを外し、ブックマークしてある天気予報のサイトにアクセスする。ケーブルを外すのにはひどく手間取ったのに、アクセスする作業は物凄く早い。ブックマークしてあるのは天気予報のサイトだけだから、画面を見ずともアクセスできる。
ここまでが毎日行っている作業。
今日は、曇り時々雨。最高気温は16℃。最近は20℃前後の日が続いていたから、今日は久々に涼しい。遠くでゲームの音がする。
ベッドから抜け出し、寝巻きとして着ていたTシャツの上に厚めの上着を羽織る。襖を開けると弟がソファーに寝そべってゲームをしていた。膝に毛布を引っ掛けている。部屋がなんだかじめっとしている。外はしとしとと雨が降っているのに加え、部屋には洗濯物が干してあった。わざわざロープみたいなもので物干し竿の代用品をつくっている。こんなロープ、どこから取り出したんだ。
「なんで雨の日に洗濯なんてしたのさ」
「だって明日帰るんだもん」
「帰ってから洗えばいいじゃん」
「帰ってからだと面倒臭いんだもん」
口を尖らせながら洗濯物の下を潜り抜けて台所へ行く。コップに麦茶を注いで、また洗濯物を潜り抜けて、ちゃぶ台にコップを置きその前に腰を下ろす。「あぁ、死んだ」とつぶやくと、携帯ゲーム機を大きなバッグの上にぽんと投げ、伸びをしてから弟は毛布の中に丸まった。
テレビのリモコンをぽんと投げる。リモコンは弟の背中に当たって床に転がった。弟はぴくりとも動かない。窓に雨が当たる音がする。
「春に降る雨ってなんて言うんだっけ」
「……五月雨」
「まだ四月だよ」
「……春雨」
雨と洗濯物の湿気で気分が憂鬱だ。伸びをしたら靴下が手に当たった。
台所へ行くために、例によって洗濯物の下を潜り抜ける。ここは俺の家なのに、どうして洗濯物を気にして潜り抜けなきゃならないんだ。腹いせにぶら下がっているバスタオルにパンチを喰らわせてやるが、ふわっと手応えがなく、余計に苛立たしい。
「昼飯、何がいい」
「なんでもいい」
「なんかないの」
「…………春雨」
「200gくらいあれば足りる?」
「ごめん、嘘。俺が悪かった」
お湯を沸かして袋ラーメンを3つ入れる。袋ラーメンは大体5つセットになっているけれど、6つか4つで1セットにしたほうが便利だと思う。3つセットになっている中華麺やうどんもまた然りで、4つか2つセットにすべきだ。なんで奇数なんだ。
叉焼や鳴門や麺麻なんて冷蔵庫に入っていないから、申し訳程度にキャベツとモヤシを炒めて乗せた。
2時。雨はまだ降りやまない。洗濯物も乾かない。ソファーは未だ弟に占拠されている。昼前まで眠っていたから目は冴えていて、昼寝もできない。しかし頭は冴えていない。案の定テレビはつまらない。味の薄いインスタントのコーヒーを啜る。
やり場のない憂鬱。やり場のない苛立ち。やり場のない憂鬱。やり場のない憂鬱。
「どこか出掛けない?」
「別にいい」
「うちにいても退屈じゃん」
「でも雨だし」
弟を見限って寝室に戻る。寝室と名付けたこの部屋には、あまり大きくないベッドと大きな本棚しかない。居間と名付けた向こうの部屋には、テレビとDVDデッキとちゃぶ台と、弟に占拠されているソファーがある。それと今日は、弟の洗濯物にも占拠されてる。
本棚から文庫本をひとつ抜く。けれど、4行目「朝霞に住む僕を高速」まで読んで、本を閉じた。本を棚に戻し、同じ作者の別の文庫本を抜き取る。短編集。この本の4作目は、雨の屋上での主人公と恋人の会話が印象的だった気がするのだけど、その場面が見つからない。
結局その文庫本も棚に戻す。居間に戻ろうとするが、弟と弟の洗濯物と弟のゲームの音に支配されていたから、寝室に引き返す。服を着替えて、財布と携帯電話をポケットに突っ込む。
「出掛けるけど、来る?」
「ここにいる」
案の定。しかし部屋の鍵はひとつしかない。弟が長くここを空けることはないだろうと決め付け、弟に鍵を渡し、ビニール傘を持って部屋を出た。
雨足は、一時に比べれば弱まったが、それでも俺が起きてからは降り続いている。なにが「曇り時々雨」だ。もう一度天気予報のサイトにアクセスしてみたら、予報は「雨」に変わっていた。理不尽に裏切られた気分。
近くの本屋に立ち寄る。なんとなく雑誌を立ち読みしたあと、文庫本を1冊買った。よく行く喫茶店に入り、レギュラーコーヒーを注文する。
文庫本を開いたが、奥の席にいる学生たちの会話が気になって、なかなか本に集中できない。学生たちは他の客を気遣ってか、ひそひそと話していて、何を話しているのかは聞こえはない。だが、聞き流せるほど小さな音でもない。一番気になる音量。
ダメだ、今日は。調子が悪い。雨に毒されたか、洗濯物の黴臭さに毒されたか。こんな日な何をしてもうまくいかない。どうしようもない。
そのうちに弟からメールが来た。
『ティッシュなくなったんだけど代えどこ?』
『寝室の押入れの左下』
しばらくして、またメールが来る。
『ないよ』
『じゃあ帰りに買っていく』
いくらも読んでいない文庫本を閉じて店を出る。雨足は弱まったが、まだぱらぱらと降っている。傘を差すまでもなさそうだが、5分も歩けば髪が濡れる雨量。中途半端な雨量だの、中途半端な学生たちの会話の音量だの、中途半端なバスタオルを殴ったときの手応えだのに、いちいち腹を立てるのにも、もう飽きた。
傘を差さずにスーパーまで行ってやろうと思ったが、2分で雨に屈して傘を差した。
ホームセンターのような、雑貨屋のような、よくわからない品揃えの店の地下がスーパーマーケットになっていて、普段そこで買い物をする。地下にあるスーパーにいても、外の憂鬱さが感じられるのは、床がうっすらと濡れているからだろう。
ついでに夕飯の材料も買うことにし、あれこれ物色する。春雨が安い。一人暮らしを始めて何年か経つが、そういえば春雨を買ったことは一度もない。思い至って一旦買い物かごに入れたが、春雨を使った献立が思い付かず棚に戻した。代わりに惣菜コーナーで春巻きを買った。
会計を済ませて外へ出ると、まぶしさに目がくらんだ。さっきまでの雨は嘘のように晴れ、空には太陽が輝いている。残念ながら虹はかかっていなかったが。
と、そう思ったのもつかの間で、すぐに太陽は厚い雲に覆われた。気づけば未だはらはらと雨粒が舞っている。たまたま、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせただけだったか。俺はまた落胆した。
だけどすぐに馬鹿馬鹿しいとも思った。馬鹿馬鹿しい。洗濯物の湿気や輝く太陽に、いちいち苛立ったり喜んだり。そんなものが何になる。そう思い、つい自虐的に吹き出してしまった。すれ違った主婦に、怪訝そうに見やられた。まぁ、いいか、それは感受性が豊かってことで。どうせ明日からはまた、嫌なほど陽気な日が続くんだ。だから今日は、せっかく雨が降った今日くらいは、小雨日和だ。
雨がはらはら宙を舞う。傘を差すまでもなさそうだが、10分も歩けば髪が濡れる雨量。俺はひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込んで、心地よい…………(春に降る雨ってなんて言うんだっけ)……心地よい春雨の中を、傘を差さずに歩き出した。
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2009年頃書いた小説を少し手直ししたものです。
他のサイトでも公開しているものですが、こちらにも投稿してみました。
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