闇に包まれたウォール・ローゼの街に、しのつく雨が降る。
しっとりとしたそれは、ひび割れた大地を黒く染め上げて行く。
変色し始めた、黒い大量の黒ずんだ血と、同化するように。
彼の人が、その気性に寄らず、潔癖症だという事は知っている。
新しい配属地に赴く時は、何を於いてもます最初にするのは掃除であるし。
汚いモノを、毛嫌いする性癖だ。
特に、巨人の返り血など浴びた時は…そこまで擦らなくても、と思うくらいに肌を布で拭う。
確かに、奴等は穢れた生物だ。その血を呪うように取り除くのも、判る。
だから、奴等は血肉一つ残さず…屠らなければならない。
例え、殴る・蹴るなどの、凄まじい暴力を与えられた男であっても。それでも自分を見込み、監視という名目があっても、精鋭部隊に入れてくれた「人類最強の戦士」と謳われる、兵長の為ならば。
だから。
彼の人の、あんな…冷たくも暗い横顔なんて、見たくないのだ。自分は。
椅子に浅く腰掛けている、リヴァイ。その軍服は、至る所、血に塗れ。
黒髪にも、嫌な色に変色した血液がこびりついている。
端正な横顔にも、べっとりとした血糊。
だが、リヴァイはそれらを拭う事もなく、無言で椅子に腰かけたままだ。
既に異臭を放ち始めているそれら。だけど、指一本すら動かさない。
薄い唇が、微かに開き…何事かを、ぶつぶつと呟いている。
それが人の名前…彼の部下達の名だと気付いた途端、離れて彼を見つめていたエレンは、思わず足を一歩踏み出してしまっていた。
「兵長…」
おず、と声を掛けてみる。
と。リヴァイは、すぅ…と、冴えた視線を寄越した。
「……何だ、エレン。就寝時間は、とっくに過ぎているだろうが」
さっさと部屋に戻って、とっとと寝ろ、クソガキ。
素っ気なく言い放ち、また空を見つめてしまう。
その彼に、エレンは遠慮がちに…けれど、臆する事なく近寄った。
その手には、ハンカチが握られている。
エレンは、気持ちを落ち着かせるかのように、小さく咳払いをした。
「あの。よろしかったら、これを…」
「あぁ?」
「血を…拭かないと。凄い匂いですよ」
「放っとけ。別にいいんだ、コレは」
「……皆の、血…だからですか?」
「聞いていたのか。削ぐぞ」
ちっ、と忌々しげに舌打ちする。
エレンは、ハンカチを握り締めたまま、そこに棒立ちになった。
──今日の昼間、調査兵団特別作戦班こと、リヴァイ班、そして調査兵団は壁外で、侵攻して来た数十体の巨人と、死闘を繰り広げた。
勿論、数としては人間の方が遥かに勝っている。だが、殺傷能力は、巨人の方が恐ろしい程に優れている。
たった数十体の、巨人に…調査兵団の兵士達は、幾人もの犠牲を出した。
ある者は喰われ。ある者は、噛み砕かれ。飲み込まれて、完全に消化されず…半分、人としての形を保ったまま、吐き出された兵士もいた。
生き残った者も、五体満足で済んだのは貴重な方で。
大抵が、手足をもがれた。
大地には、血でびしゃびしゃになり。阿鼻叫喚の悲鳴と叫びが、遥か天空まで木霊した。
巨人と戦う為に造り出された精鋭部隊。それなのに、死者の数はおびたたしく。
どうにか巨人を駆逐する事はできたが…見返りは大き過ぎた。
何とか原型を留めていた遺体は、壁内に収容し。
生き残った兵士達の祈りの声と共に、墓地に葬られたのだが……
「──その内、土が足りなくなるな。死人の数が、墓より多すぎる」
己の掌を見ながら、ぼつりとリヴァイが呟く。
その、白く繊細な指先も、血で染まっている。
……一体、この人はどれだけの部下を葬って……
石のように佇んでいるエレンが、心の中で声を漏らす。
潔癖症で、粗野の言葉使いをする、俺様な兵長だが。仲間の死には、ひどく人間臭い麺を覗かせ。今もこうして…血塗れの身を清めようともせず。
むしろ、慈しむように。思いを馳せるかのように、それを眺めている。
そんな彼を凝視するエレンは、何か…身体の芯から湧き上がってくる感情に、小さく身震いした。
限られた平和だったけれど…それらを潰され。何より、目の前で大切だった母親が、貪り喰われるのを目にした時から、自分の心は半分死んだと思っていた。
欠けたその部分を埋めたのは、憎悪。
巨人を一匹残らず駆逐し、屠る。
肉片一欠片すら、消し潰してやる。
その為だったら、どれだけでも強くなってみせる。
例え、周囲から死に急ぎ野郎と、揶揄と心配を込めた綽名を付けられても。
命続く限り、奴等を殲滅させると、かたくかたく胸に誓った。
もう半分残った心を占めていたのは、仲間や友への友愛と信頼の感情。
その二つだけで、自分はここまでやって来た筈だったのに。
それなのに。
こうして、今…喪った部下達に思いを寄せている兵長の姿を見ると、心臓が疼くのだ。
自分のそこは、もう余分な想いを受け入れる余裕など、ない筈なのに。
まして、相手は…自分などよりも、遥かに心根も強く。最強の戦士であるというのに。
どうして、『護りたい』などと…考えてしまうのか。
彼は男で、精鋭で。誰よりも強靭な精神を持つ、上司なのに。
こんな事、考えるのもおこがましい。
エレンは、細く息を吐いた。
そして、ぶるぶると頭を振る。
彼は、ぎこちなくもう一度ハンカチを差し出した。
「……せめて、顔だけでも拭いて下さい。目の周りに、血が…もしかして、中にも入っているんじゃぁ…」
長身を屈めて、リヴァイの顔を覗き込む。
血は乾いてはいるが、額から頬にかけて、黒い線が流れている。
この人の事だ、仲間の血だから…生きていた最後の証だから、拭ったりする事などしていないに違いない。
しかし、リヴァイは無表情に、エレンの手を跳ね付けた。
「構うな」
「でも…」
「構うなと言ってるだろうが、ガキ」
ぎろり、と睨む。
エレンは鼻白んだが…唇をキュ、と噛むと。
おもむろに、その場に片膝を着いた。
椅子の肘掛に、指を乗せる。
そのまま、身体を兵長に近付ける。
「おい…!?」
リヴァイの言葉が、途中で切れる。
エレンが…彼の目を拭ったのだ。己の舌で。
そのまま、無心に舐める。
「……」
さすがに、リヴァイも動きを止めてしまう。
だが。
傍目には、実にアヤシイ光景に充分写るが…ぎゅぅっ、と両目を閉じて、必死になって血を舐め取っているエレンの姿は、どうした事か、リヴァイの目には、主人に忠実な大型犬にしか見えなかった。
……犬相手では、本気で怒る事もできはしない。
呆れるリヴァイをよそに、懸命にエレンが彼の額や頬に残る血痕を舐める。
リヴァイは、黙ってさせるがままにしておいたが。ややあって、少年の舌が、指先に及んだ事に気付いて、ようやく“おい”と声を掛けた。
「……てめぇ、何やってんだ」
「ふぇ?」
「ふぇ、じゃねぇ。男が男の顔や指舐めて、愉しいのか?」
お前、そういう性癖の持ち主か?
心底イヤそうに、リヴァイが呟く。
エレンは、白い指を口の中に含んだまま、ふるふるとかぶりを振った。
「違いまふ…ただ、おれ…兵長を、きれいにしたくて…」
「だから舐めるのか。犬か、お前」
「だって…」
ハンカチ、受けとってくれなかったじゃないですか。
やや不満げに言い返す。
そして、エレンは整っている爪先を、ぺろりと舐めた。
「それに…」
「何だ」
「仲間の血でも…貴方が汚れるのは、嫌です」
「……」
強くて、憧れの人で。人類の希望の翼になれる人だから……
貴方には、いつも気高くいて欲しい。
貴方がいれば、人は全滅などしないのだと。そんなカリスマだと思えるから。
「……バカか、お前は」
俺はそんな大層なモノじゃない。と、掃き捨てる。
エレンは、それでも、と続けた。
「やっぱり貴方は、俺の憧れの人だから。強くいて下さい。俺も、頑張ります。巨人化の制御、一日も早く覚えて……」
人を守る。
皆を守る。
そして……
「兵長を守ります!」
力強く言って、ニッと笑う。
その、邪気の無い笑顔に、リヴァイはらしくもなく一瞬面食らったが。
次の瞬間、ぼかっ!と、エレンの下腹部を足で蹴り上げていた。
「ぐぉ!?」
「生意気言ってんじゃねぇ、クソガキ。俺はガキに守られるほど、落ちぶれちゃいねぇんだ」
ふん、とせせら笑って、椅子から立ち上がる。
リヴァイは、床にうずくまって、ひーひー言っているエレンを一瞥した。
「まぁ、お前は貴重な戦力だからな。せいぜい努力しろ。そして…」
死ぬな。絶対に、巨人に喰われるな。
横を向いて、一人ごちる。
エレンは、涙目で顔を上げた。
「兵長…?」
「お前の血なんざ、俺は浴びるつもりは更々ねぇぞ」
背中を見せて、呟く。
そうして、そのままリヴァイは浴室へと、さっさと歩いて行ってしまった。
──部屋に一人、エレンだけが残される。
少年は、未だ痛む腹を抱えていたが。ようように立ち上がると、ふぅっ…と溜めていた呼気を吐き出した。
「……死にませんよ。俺は絶対に。もう、大切な人を失くして…たまるか」
不敵に笑う。
エレンは、暫し閉ざされた扉を見つめていたが。自分も、部屋に戻るべく、踵を返した。
口の中に残る血の味は、何故かとても甘かった。
FIN
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「進撃の巨人」より、エレリ小説です。ツッコミどころ満載ですが、大目に見て頂けると有難いです~