No.575290

フェイタルルーラー 第九話・黒き狂獣

創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。流血描写があります。19962字。

あらすじ・ソウの前にマルファスが現れ、不気味な忠告を残し去って行った。
その後ネリアへ戻ったエレナスとセレスは、ノアを見送りに行った帰り、謎の男が尾行している事に気付く。
第八話http://www.tinami.com/view/571600

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2013-05-11 20:51:30 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:539   閲覧ユーザー数:539

一 ・ 黒き狂獣

 

 森が騒いでいる。

 

 幼い頃から自然と共に育ってきたソウには、不安げな森のざわめきが手に取るように分かった。

 何かが近付いて来ている。それが何かは分からないが、明らかに彼を目指しているように感じた。

 

 ネリア領、王都ガレリオンの北にある森で、ソウは独り夜明けを待っていた。

 マルファスが示した道しるべがネリアを目指していると知り、彼は一足先にダルダンを抜けてネリア王国へと入った。森や草原の豊富なネリアは、彼の故郷である夜万斗を思い起こさせる。

 

 草原を渡る風も、木々の匂いでさえも、何もかもが懐かしい。倒木の脇に腰を下ろし、寄り掛かりながら彼は空を仰いだ。

 三日月にかかる紫雲が夏の風にたなびいている。あの夜もこんな月だった。

 子供の頃のふとした記憶が、彼の脳裏を駆け巡った。

 

 ソウは族長の一人息子として生まれ、幼い頃から文武の才能に秀でていた。

 同じ日に生まれたコクとは兄弟同然に過ごし、二人の仲のよさは誰もが知るところだった。

 

 恵まれた家に生まれたソウとは裏腹に、コクの家は両親の仲が悪く、彼が夜中に自宅を飛び出す事もしばしばあった。

 コクがどこへ隠れていても、ソウはすぐに彼を見つけ出した。水車小屋の裏、御堂の中、御神木の洞。それらは全て彼らの隠れ家だったからだ。

 

 どんな苦境の中にあっても涙を見せず、恨み言ひとつ言わないコクに、ソウは敬意の念を抱いた。

 里の大人の中にはコクの姿かたちを悪く言う者もあったが、ソウは気にせずたった一人の親友と交流を続けた。互いに十八で成人を迎えた後も交流は続き、その頃にはコクの陰口を叩く者もいなかった。

 それは体格のいいソウよりも、更に一回り以上の巨躯に成長したコクに恐れをなしていたのかもしれない。

 

 そんなコクが一人、死に絶えた村から姿を消した。

 これには何か意味があるのだろうか。何故書付を残し、自らの許へいざなおうとしているのか。

 里が全滅させられた今、残った白狐族は彼ら二人だけだ。だが何よりも誇りを重んじる彼らは、自らの信念のためならその命すら厭わないだろう。

 

 ソウは輝く三日月から引き剥がすように視線を落とした。

 一族を皆殺しにしたのがコクなら、どちらかの命が尽きるまで戦う事になるだろう。半端な感傷や感情は命取りだ。自らを戒め、ソウは目の前にある闇を睨んだ。

 

 その一瞬、闇が動いて見えた。

 

 太刀を掴み、ソウは弾かれたように立ち上がった。

 柄に手を掛けうごめく暗闇を見つめる。そこから現れたのは、黒髪にコートの男だ。スミレ色の双眸だけが煌々と輝き、睨み付けるソウを映し出した。

 

「久しぶりだね。黒森以来かな」

 

 今にも太刀を抜こうと身構える彼に、マルファスは笑いかけた。

 その様子にソウは用心深く口を開く。

 

「何をしに来た。まだ用があるとでもいうのか」

「用があるというよりは、通告に来たと言うべきかな。……もうすぐここに、キミの探している男が来る」

 

 マルファスの指す者が誰であるか、ソウはすぐに悟った。神妙な面持ちで身じろぎもしない彼に驚くそぶりも見せず、マルファスは続ける。

 

「ネリアは彼にとって故郷とも言える国。引き寄せられるように辿り着いたとしても不思議ではない」

「……我々の故郷は、夜万斗以外にはない。この国の雰囲気はよく似ているが、まるで異なる」

「そういう意味ではないよ。彼はもう人ではないからね。東大陸の生まれでありながら、この西アドナに関わる神の眷属となった、と言ったらキミは信じるかい」

 

 唐突なマルファスの問いに、ソウは押し黙った。これまで共に育ってきた親友が、人ではなくなったと言われて信じられる訳がない。

 言葉を継がないソウにマルファスは微笑んだ。

 

「信じられる訳がないだろうね。ここからは自分の目で確かめてみればいい。警告はした。僕はそろそろ帰るよ」

 

 そのまま立ち去ろうとするマルファスに、ソウは声をかけた。

 

「何故そんな事を告げに来た。まるで覚悟を決めろといわんばかりだな」

「そうだね。では僕の本心を言おうか。キミが彼に『勝ち、生き残ったら』僕に力を貸して欲しい。その時が来たら『狂』の秘密を明かそう」

 

 マルファスは振り向き様にそう告げた。

 

「あれを相手にして生き残るのは容易ではない。何しろもう、人ではないのだからね」

 

 言葉だけを残し、マルファスの姿はいつの間にかその場から掻き消えていた。予言にも似た不気味な宣託は、佇むソウの脳裏を駆け巡る。

 覚悟を決めなければならないだろう。太刀の柄を握り締めながら、ソウは再び天を仰いだ。

 

 

 

 祝宴が終わった翌日、エレナスたちはダルダンを後にし、ネリアへと入った。

 ダルダン王は快く糧食や水を提供した上に、国境まで護衛を派遣してくれた。王の心遣いに感謝しながら彼らが王都ガレリオンへ到着したのは、数日後の午後だった。

 

 リザルとローゼルは、その足でフラスニエルの許へ報告に向かった。

 二人が戻って来るまでの間、王都の中をセレスが案内した。エレナスはすぐにでも姉に会いたがったが、今は王に仕える身となっていた姉に会うには、それなりの手順を踏まなければならなかったのだ。

 市場で補給が出来ると喜ぶノアを横目に、エレナスも渋々二人について行く事にした。

 

 夕暮れに差し掛かっているというのに、王都の市場は活気に溢れている。

 国土の大半が森と草原のネリアは、酪農や牧畜、穀物の栽培に適しており、アレリア湖から引かれる灌漑用水によって大陸随一の穀倉地帯を有している。

 王都にもきらびやかな豪華さは無いものの、素朴な景観が何よりもエレナスの目を引いた。

 

 嬉しそうに買い物をするノアの後を、エレナスとセレスはとぼとぼとついて歩いた。

 彼らにはどれも同じに見える物をノアはやたらと吟味している。あれでもない、これでもないと何軒も回るうちに、二人はくたびれて座り込んでしまった。

 

「何よ、二人ともだらしないわね。後でこの荷物を全部、あたしの宿に運んでもらうんだからしっかりしてよね」

「これを全部運ぶの……? 叔母様がぼくらを泊めてくれるって言ってたけど、お姉ちゃんは行かないの?」

「さすがにあたしが王族の邸宅に宿泊するのは、まずいかなって思って。今回の仕事には入ってないから、面倒な事はしないわ」

 

 二人を立ち上がらせ、ノアは歩き出した。セレスは意味が分からずぽかんとしたが、エレナスには理由がよく分かった。

 彼女はレニレウス王直属の諜報員だ。正体が知られれば命も危うい上に、そもそもネリアに滞在しているのが想定外なのだ。

 

「まあそんな訳で、明日ここを発つわ。縁があればいずれまた会えるでしょう」

「明日……どのくらいに?」

「王都の大門が開く頃よ。別に見送りになんて来なくていいわよ。面倒なだけだし」

 

 言葉とは裏腹に、ノアは恥ずかしそうに目を伏せた。

 ふと黙り込むエレナスとノアを、よく分かっていないセレスはきょとんと見つめる。

 

「じゃあ明日、夜明け頃にお兄ちゃんと一緒にお見送り行くね」

 

 程なく宿に着き、はしゃぐセレスを尻目にエレナスはまた明日、とだけノアに呟いた。

 去り際にエレナスが手を振れば、ノアも振り返した。エレナスとセレスは斜陽の中、ローゼルの住む屋敷へと急いだ。

二 ・ 王たちの戦場

 

 ネリアに到着してすぐ、リザルとローゼルはフラスニエルへ報告するために参内した。

 

 いつにも増して城内の喧騒は大きく、何か大事があったのだろうと二人は勘付いた。

 侍従に導かれた先は、普段会議室として使用されている広間の一室だった。

 

「申し訳ありません従兄上。本来であれば一席設けたかったのですが」

 

 フラスニエルは笑顔を絶やさず、二人に椅子を勧めた。その場にはフラスニエルにリザルとローゼル、そして黒い軍服を纏った金髪の男が一人いる。

 よく見れば、男だと思ったのは髪を切ったシェイローエだ。一目では見紛うほどに髪を切り、軍服を着込めば女性であるとは気付きにくい。

 

 シェイローエはリザルとローゼルに挨拶をすると、末席へ着いた。

 フラスニエルの表情は疲れきり、ひどく青ざめている。クルゴスもリザルもいない間、相当な重圧を背負っていたのだろう。

 

「従兄上の戦果はいかがでしたか。お戻りになってすぐ参内されるという事は、クルゴスが見つかったのですか」

「残念ながら、発見出来たのは外套だけだった。それもダルダンにある神殿遺跡の中に落ちていた。恐らく本人はもう……」

 

 リザルの言葉をフラスニエルは黙って聞いていた。シェイローエは神殿遺跡という単語に一瞬反応を見せたが、一様に青ざめた顔を伏せた。

 

「そうですか……。クルゴスがいない今、残った者でどうにかするしかありませんね」

 

 フラスニエルは卓上に分厚い紙の書簡を広げた。

 封蝋にはレニレウス王の正式な印章が押され、直筆の署名がある。

 

「先日、レニレウスから先触れの使者がありました。近く王自らネリアに赴くと。こんな事態は想定していなかったので、正直参りました」

「レニレウス王が自ら動くと……? かの王は知略に長け、敵も多いと聞く。余程の窮地か策謀を巡らせていない限り、ありえない話だな」

「我がネリアはそれほど情報戦に長けている訳ではありませんので、レニレウス側に隠匿されると、非常に不利な部分があるのが厳しいですね」

 

 青ざめた顔のまま手を組み合わせ、フラスニエルは続けた。

 

「レニレウス王のご到着予定は明日……。警備の手配は万全ですが、会談内容に不備や穴があればそこを突かれるでしょう」

「不安なのはよく分かる。だがこれは他の誰でもない、お前にしか出来ない仕事だ、フラスニエル」

「……はい。分かっています。会談の場が王たちの戦場である事も。国のためには一歩も退く訳には参りません」

 

 フラスニエルの王としての覚悟にリザルは微笑んだ。

 即位して間もない頃はまだ子供だと思っていたのに、国を担うという重責はフラスニエルを一人の王として育て上げていたのだ。

 

「レニレウス王ご滞在の予定はどうなっている?」

「余程お急ぎなのか、翌日には出立されるようです。供は最小限の親衛隊のみで、懐刀と噂される将軍は国に残っていますね」

「あまり国を離れていられない状況なのか。諜報部の報告書を読む限りではそう取れるな」

 

 卓上にある報告書をめくりながらリザルは呟いた。

 

「ええ。先代レニレウス王の時代、穏健派と急進派の衝突によって大粛清が起こったという話がある程ですから、王家に恨みを持つ者が多いのでしょう。現王は名君ですが、全てを浄化しきれた訳ではありません」

「そうだな。恨みは引きずるものだ。恐ろしいまでに」

 

 リザルは王都ブラムでの一戦を思い起こした。

 赤髪の司祭アグラールが放った呪いの言葉は、レニレウス王家に対してのものだった。恐らく粛清に巻き込まれた貴族の血縁なのだろう。

 選択肢をひとつ誤っただけで、人は容易に坂を転げ落ちる。そしてそれは、誰しもが人生において避けては通れない岐路なのだ。

 

「明後日にでも、今後の話を踏まえて夕食会を開きましょう。そういえばセレスと一緒にいた、彼女の弟御も戻られたようですね」

 

 フラスニエルはそう言いながらシェイローエを見た。その言葉に彼女ははっと顔を上げ、口を開いた。

 

「リザル様とローゼル様には、本当に何と申し上げればよいか……。愚弟がご迷惑をお掛けしました事をお詫び申し上げます」

 

 深々と頭を下げるシェイローエに、二人は穏やかに返した。

 

「いいえ。私たちはあの方に助けられたの。エレナス様がいなければ、今頃ダルダンも壊滅していたかもしれない。ねえ、お兄様」

「ああ。至高教団とやらを王都ブラムから駆逐出来たのは、あいつのおかげだ。大した奴だよ」

 

 リザルとローゼルの言葉にシェイローエはほっとしたのか、ようやく微笑みを見せた。

 

「……ありがとうございます。そう言って頂けると救われます。あの子に会ったら、はぐれてしまった事を謝らなければなりませんね」

 

 春の日差しにも似たシェイローエの笑顔は、見る者を虜にする魅力に溢れている。

 だが、その美しさが必ずしも好ましいわけではない。並外れた美貌は、時に災厄すら招く。遥か昔には一人の美女を奪い合う国同士の争いすら起きたという。望むと望まざるにかかわらず、災禍は降り掛かるのだ。

 リザルは知らず知らずのうちに見惚れていたのか、妹に肘で小突かれて我に返った。

 

「ではフラスニエル様。私たちは屋敷に戻ります。そろそろセレスたちが戻って来る頃ですので」

 

 ローゼルに促されリザルは席を立った。二人は敬礼をすると会議室を後にする。

 残されたフラスニエルは彼らを見送ると、ゆっくりと席を立った。後にはシェイローエがつき従い、二人は静かに部屋を出て行った。

 

 

 

 エレナスがセレスに導かれ、くぐった門は立派な石造りだった。

 黒灰色の玄武岩を磨いて造成したのだろうか。重厚な石門にあしらわれた黒鉄柵が、そこに住まう者の威厳を表している。

 門から玄関へ至る庭にも赤い花が咲き乱れ、これが貴族の邸宅なのだと感じずにはいられない。閂が下ろされた扉をセレスが叩くと、中から使用人が姿を見せた。

 

「セレス様おかえりなさいませ。リザル様とローゼル様もすでにお戻りですよ。どうぞお客様もお入り下さい」

 

 促され足を踏み入れた玄関ホールは息を呑むほど壮観だ。

 それでいて嫌味はまるでなく、格調高い趣味が垣間見える。美術品の価値を知り趣に沿う事で、洗練された風格を表現しているのかもしれない。

 

「おじい様はお戻りなの?」

「レンドル様はここ数日お城に詰めておいでです。明日には国賓をお迎えするとの事なので」

 

 セレスと使用人の会話を聞きながら、エレナスは国賓とは誰なのか考えていた。

 ダルダン王にしては時期が早すぎ、アレリアの女王に至っては、ネリア王との婚姻が成立している頃だと推測した。だがそんな大事な時期に、王族であるリザルやローゼルが国を離れるのも妙ではあった。

 

 とりとめのない思考も、きらびやかな装飾や調度を見ればどこかへ吹き飛んでいった。廊下には一定間隔で骨董の花瓶が置かれ、それぞれに季節の花が生けられている。窓からは中庭が全て見渡せ、木々には小鳥たちがさえずりを競っていた。

 これこそが人の心にある楽園の原型なのかもしれない。柔らかい夕陽に映える庭は、いつか見た懐かしい風景を想起させる。

 

 視線を戻し廊下の突き当たりを見ると、そこには黒檀の扉があった。

 内部には毛織物の絨毯が敷かれ、色つきガラスで覆われたランプが並ぶ。室内には長い食卓が置かれ、両脇に椅子がずらりと居並んでいた。

 

「セレス様とお客様がおいでになりました」

 

 使用人の声に食卓を見ると、そこにはすでにリザルとローゼルが着席している。

 特に気取った夕食会ではないと聞いていたが、自身の汚れた衣服にエレナスは気後れした。

 

「何だ、二人とも今戻ったのか。先に着替えて来るといい。案内してやってくれ」

 

 リザルの言葉に使用人はかしこまり、二人を二階の部屋へと案内した。エレナスにも大切に仕舞われていた衣装が手渡され、着てみると驚くほどぴったりと身体に合った。

 鏡の中にいる自分に驚いていると、自室から着替え終わったセレスが現れた。小さな貴公子といった様子のセレスに、エレナスは目を丸くする。衣装だけではなく、その仕草からも、彼が生まれながらの王族だと感じずにはいられない。

 

「あ、お兄ちゃんの服ぴったりだね。お父様が昔着ていた頃のものだけど、似合うし良かった」

「そんな大切な衣装を俺が着てもいいのかな……」

「いいのいいの。不思議だなあ。お父様にもお兄ちゃんと同じ頃があったなんて」

 

 にこにこ微笑むセレスに、エレナスもふと微笑み返した。

 二人はもと来た廊下を進み、一階の広間へと戻った。エレナスの姿を見たリザルとローゼルは一瞬驚いたように目を見張る。

 

「へえ。結構様になってるな。驚きだ」

「ちょっとお兄様! 失礼だわ。あの……よく似合ってます。とても」

 

 兄を肘で小突くと、ローゼルは顔を伏せた。仄かに頬を染め、紺色のドレスを纏った姿は清楚な姫君といった言葉が相応しい。軍服姿しか目にした事の無かったエレナスには、その艶やかさが新鮮に映った。

 給仕に促されるままにセレスはリザルと、エレナスはローゼルと向かい合う形で席に着く。四人が席に着いて間もなく、夕食が運ばれてきた。

 久方ぶりに落ち着いた食事を摂りながら、彼らは他愛もない話をしている。それらの内容を耳にしつつも、エレナスはノアが気に掛かっていた。彼女は今頃どうしているだろうか。

 

「あの……エレナス様」

 

 不意に問いかけるローゼルの声で、彼は我に返った。

 声の方へ目を向ければ、そこには俯き気味の彼女がいる。目を伏せながら囁くような小さな声で言葉を切り出した。

 

「実はお願いがあって。そのうちで構いませんから、私と試合をして頂けませんか」

 

 それほど突拍子もない申し出ではなく、エレナスは胸を撫で下ろした。

 

「はい。俺でよければいつでも。ご期待に沿えるかは分かりませんが」

「手加減など不必要ですから、本気でお願いします。それで……もしエレナス様が勝ったら、私と結婚して下さいませんか」

 

 最後の一言でリザルはむせて激しく咳き込んだ。エレナスとセレスの二人は何が起こったか理解出来ず、ただぽかんとした。

 

「ちょっとお兄様! 下品ですわ!」

「ローゼル……お前、何言ってるのか分かってるのか?」

「ええ、分かっているわ。私ももう十八なの。お兄様だって十七でご結婚されたのに……。私だって素敵な方と結婚したいわ」

 

 兄妹の遣り取りに、エレナスとセレスは顔を見合わせる。

 

「ねえ、お兄ちゃんは叔母様と結婚するの? そうなったらぼく嬉しいなあ」

「いやそれは……。試合と結婚は別だと思うけど」

 

 穏便に断るにはどうしたらいいのか、エレナスは考え込んだ。試合で負ければいいのだろうが、今度は手を抜いたと怒られかねない。

 女性とは難しいものだと思いながら、未だ言い合いをしているリザルとローゼルを尻目にエレナスは席を立った。

 その後をこっそりとセレスが続き、兄妹の口論はやがて遠ざかっていった。

三 ・ 追跡者

 

 エレナスは夜明け前に目を覚ました。

 窓の外には未だ星々が瞬き、明け星の気配すら無い。

 

 ノアや姉の事が気がかりで寝付けなかったのもあるが、ここ一ヶ月ほどの旅に身体が慣れてしまったのか、睡眠をそれほど必要としなくなった気がした。

 見送りに行くために起き出し、エレナスは支度を始めた。彼のために用意された客室は居心地がよく、必要な身の回り品は全て揃えてある。

 身支度を整え、念のために書置きをして、エレナスは二階へと降りていった。セレスの部屋へ行き静かに扉をノックすると、そっと扉が開く。

 

「お兄ちゃんおはよう。早いねえ」

 

 目を擦りながらセレスはあくびをした。確かに少し早かったかもしれない。だが開門は日が昇りきるのと同時に行われるために、日の出を待っていては遅れる可能性がある。

 

「用意出来るか? 見送りに行こう」

「うん、大丈夫。ちょっとだけ待ってて」

 

 ごそごそと音を立て、セレスは着替え始める。次に現れた時には朝露も凌げるように薄い外套を羽織っていた。

 家人や使用人たちを起こさないよう、二人は静かに屋敷を出た。夏とはいえ未明の空気は肌寒く、彼らは身体を温めようと市街への坂を勢いよく駆け下りた。

 ひたひたと走る足音と伸びる黒い影は、ともすれば映し出された幻燈のように見えただろう。誰もいない明け方の街は、まるで彼らだけの世界のように感じられた。

 

 大門前に到着すると、そこにはすでに数人の旅人や商人たちがいた。開門を待ち詫びるように馬車が並び、行列が出来ている。

 行列を見渡し、彼らはノアが並んでいるのを見つけ出した。傍によるとノアも気づき、微笑んで手を振る。

 

「本当に来るとは思ってなかったわ。でもありがとう。いずれまた会いましょう」

 

 昇りつつあった太陽はすでに顔を出し、地平線を赤く染め上げた。

 門が開くと同時に最前列にいた馬車が動き出し、開門を知らせる鐘が鳴り響く。遠く小さくなっていくノアの姿を見送り、二人は東の空を仰いだ。

 輝く太陽が、新しい日の始まりを告げている。

 

 

 

 見送りを済ませ、二人は屋敷への道を戻った。

 王城と貴族たちの屋敷を放射状に囲む街並みは、他の王都では見かけない変わった造りだ。

 活気付く市場を通り抜けながら、エレナスとセレスは誰かが彼らの後を尾けてきている事に気付いた。相手は大胆にも身を隠そうともせず、一定間隔で二人にぴったりと張り付いている。

 

「セレス。分かるか? 誰か尾けてくる」

「うん……。どうしよう、このままだと屋敷までついてきそうだよ」

 

 歩く速度を上げようが落とそうが、尾行者は距離を変えようとしない。仕方なくエレナスは一計を案じた。

 

「相手は一人のようだから、一斉に二手に分かれよう。あいつを何とか撒いてそれぞれ屋敷に戻る」

 

 セレスは小さく頷き、合図と共に二人は反対方向へとそれぞれ駆け出した。

 出来ればこちらに来て欲しいとエレナスは願った。セレスの身体能力は子供にしてはかなりのものだが、大人の足に敵うとは思えない。

 振り向けばエレナスの背後には、追跡者と思われる黒い外套を羽織った男が接近していた。目深にフードを被り顔が見えない様は、王家の森で彼と姉を追って来た男を彷彿させる。

 

 ――まさか。

 

 心臓が凍りつくような恐怖を覚え、エレナスは無我夢中で走った。市場を越え軒先を疾走し、裏通りへと入る。

 薄暗い通りを走りながら振り向くと、やはり追跡者は追ってきていた。

 まさか王都で、ネリア王の膝元でこんな目に遭遇するなど彼は思っていなかった。剣も持たない丸腰で、この場を切り抜けなければならない。

 

 土地勘もなく夢中で走ったために、エレナスはやがて袋小路に追い詰められた。

 振り向けば男もその場に立ち止まっている。不意に男がエレナスへ向かって歩を進め始めた。にじり寄る影になすすべも無く、中腰に構えて様子を窺う。

 

「……君は面白い奴だな。気になって直に見に来たが、予想外の行動をする」

 

 聞き覚えのある男の声だ。あの時も薄暗い中、この声を聞いた。

 

「あなたはまさか……レニレウス王?」

 

 エレナスの問いかけに男はフードを引き下ろした。

 そこにある顔は、記念銀貨に彫り込まれている人物と同一だ。銀貨のレリーフよりも歳を重ね三十代後半に見えるが、灰色の瞳に鳶色の髪は彼を恐ろしく冷淡な男に思わせた。

 

「気付いていたのか。あの黒森を脱出するだけの事はある。ノアからの伝令を読む限りでは、君はあれと二人でダルダンを横断したようだな。まさかとは思うが、手を出したりはしていないだろうね」

「……何です? 手を出すって」

 

 言葉の意味が解らなかったのか、質問に質問で返すエレナスに、レニレウス王は言葉を失った。

 次の瞬間エレナスは顔を真っ赤にして目を伏せ、しどろもどろに答え始める。

 

「そ、そんな事してません……。そんな真似をしようとしたら、こっちが殺されます」

「そうだな、それは正しい。まあ認めるようであれば、私がこの手で斬り捨てていたところだが」

 

 顔色ひとつ変えず、腰から下げられた剣の柄を握り締め淡々と話す彼に、エレナスは心底恐怖を抱いた。

 

「君は嘘をついていない。それはいろんな人間を見てきた私がよく分かる。とりあえず君を殺さずに済んで良かった。ネリア王との会談の日を血で汚したくはないからね」

 

 事も無げにさらりと恐ろしい言葉を口にする王に、彼が冷徹王と呼ばれる所以をエレナスは見た気がした。

 

「どうしてそこまで彼女の事を気に掛けておられるのです? それならいっそ手許に置かれていた方が安心だと思いますが」

「……手許に置いておくのが危険な場合もあるのだよ。厳重にカギを掛けて仕舞っておいたのでは、みすみす弱点だと明言するのと変わらない。それよりも」

 

 レニレウス王は言葉を切った。

 

「何も無いのに、何故あんな報告を送ってきたのか……。文面の半分近くは君の話で、まるで恋文を読まされている気分だった」

 

 語尾は次第に呟きとも独白とも取れる小ささになり、エレナスは上手く聞き取る事が出来なかった。

 

「まあいい。そろそろ行かなければ。警備兵たちが気をもんでいる頃だ。……あれにはくれぐれも手を出すなよ。ではまた会おう」

 

 何も無かったかのように去り行く王の背に、エレナスは緊張の糸が切れその場に座り込んだ。

四 ・ 星明り

 

 レニレウス王が立ち去った後、エレナスは力なく帰路についた。

 

 見れば市街は国賓の到着と、その華々しい行列に歓喜の声を上げている。

 優美に造られた黒檀の馬車は六頭の駿馬に力強く引かれ、その周囲を親衛隊とネリアの衛兵が警護をしている。

 恐らくゆうべ使用人が言っていた国賓とは、レニレウス王の事なのだろう。そうでなければ一国の王が突然ネリアの王都に現れる訳がない。

 馬車の窓から見える姿はレニレウス王に見えるが、影武者のようにも取れる。そこまでして事実関係を確認しに来る王の執念に、エレナスは恐怖した。

 

 行列と人ごみを避けるようにエレナスは屋敷へと戻った。

 セレスはすでに戻っており、疲れ果てたエレナスの顔を見て不思議そうな表情をする。

 

「大丈夫だった? お兄ちゃん。何かすごく顔色悪いけど」

「ああ……。大丈夫。ちょっと疲れただけだから」

 

 昼近く忙しいせいか使用人はおらず、セレスが自ら彼のために水の入ったカップを運んでくる。食堂の椅子に座り込んだエレナスは水を受け取ると、ゆっくりと口をつけた。

 一息ついたところで横にある椅子に腰掛け、セレスは無邪気に話をし始めた。

 

「あのね、さっきお姉さんだって言う人が尋ねて来てたよ。一瞬男の人かと思ったけど、すごく綺麗な人だった」

「姉さん……。姉さんが来たのか」

「うん。少しだけ時間が出来たんだって。もし会えるなら王城裏手の中庭に来て欲しいって言ってた」

 

 セレスの言葉も半ばに、エレナスは跳ねるように立ち上がった。

 

「行かなくては」

 

 後ろも見ずにエレナスは駆け出した。途中自室に戻り、短剣を引っ掴むとそのまま屋敷を飛び出す。

 ようやく姉に会える。ただそれだけが心の全てを占めた。彼にとってはこの十年間、片時も離れる事のなかった大切な人だ。

 姉のためなら何でもする。何でも出来る。たとえ世界を敵に回そうが、姉を護れるのは自分だけなのだ。

 

 王城のすぐ傍に建てられた屋敷から中庭へ向かうには、さほど時間を要しなかった。

 果たしてそこには、黒い軍服を着込んだ金髪の男がいる。芝を踏む音に気付いたのか、軍服の男はエレナスへ振り向いた。

 

 長かった髪は切られ、着衣もまるで男のようだが、その姿は見紛う事なき姉シェイローエだ。深い緑の瞳は柔らかな光を湛え、透き通る白い肌は陽光の中にあっても艶を失わない。

 懐かしい姉の姿にエレナスは安堵した。心だけが急く中、ふと姉の表情に違和感を感じる。

 いつもの凛とした表情ではなく、何かに迷うような心が定まらない面持ちをしているからだ。

 

「姉さん! 無事でよかった」

 

 無言のままな姉に彼は駆け寄った。懐から短剣を取り出し、彼女の手に握らせる。

 

「ごめん姉さん。あの森ではぐれた時に、姉さんが約束の場所にいると思ってよく探さなかった。こんなに近くにいたのに。待たせてごめん」

「……いや。謝らなければならないのはわたしの方だ」

 

 思いがけない姉の言葉に、エレナスは彼女の顔を見上げた。黒い軍服を纏う姿は、一ヶ月前とはまるで別人のようだ。

 それは雰囲気だけではなく、姉の心中の変化だと気付くのにかなりの時間を要した。

 

「エレナス。わたしはお前に謝らなければならない。本当はいつでもお前を探しに行く機会もあったし、可能だった。だがわたしはそうはしなかったのだ」

 

 姉の言葉が飲み込めず、エレナスはその場に立ち尽くした。

 

「仮面の男……に追われた後、わたしはネリア王に助けて頂いた。怪我を負ったわたしをあの方は介抱し、傍に置いて下さったのだ。わたしはあの方が独りで苦悩する様を、見捨てる事が出来なかった」

「何が……言いたいんだ、姉さん」

「わたしはあの方の力になると決めた。もう、お前とは一緒に行けない」

「どうして……。どうしてそんな」

 

 思いも寄らない姉の告白に、エレナスは膝をついた。

 

「今現在アレリアは力を失い、ネリアはそれを護る盾となった。レニレウスとの国境を封鎖しているのも、アレリア女王が病に臥しているのも……全てわたしのせいなのだ」

「何で姉さんのせいになるんだよ。これは国家間の争いで、俺たちには何も関係が無いじゃないか」

「お前には無いかもしれないが、わたしにはある。アレリアの王冠を奪い、大陸に争いの火種を蒔いたのは仮面の男……わたしの、双子の弟だからだ」

 

 聞かされていなかった事実を突きつけれられ、目の前が真っ暗になる感覚をエレナスは味わった。

 これまで十年もの間一緒に暮らしてきて、姉にもう一人弟がいるなど、まるで知らなかった。知りたくもなかった。

 では何故姉は黙っていたのか。教える必要が無かったからなのか。それとも。

 

「十年前……。姉さんが俺を拾ってくれた時、他にも似た境遇の子はいくらでもいた。なのにどうして俺を連れて帰ったんだ……。教えてくれ」

「知りたいのか」

「言えない理由でもあるのかよ!」

 

 いつの間にか芝を握り締め、エレナスは叫んだ。爪の間には赤土が入り込み、握り締めた拳には爪が食い込む。

 本当は聞きたくない。でも聞かなくてはいけない。真実と向き合わなくてはならない。

 

「……お前が、わたしの短剣とよく似た剣を持っていたからだ」

 

 一番聞きたくなかった答えがエレナスの耳に届き、彼は息を呑んだ。大きく見開いた目は涙で曇り、ぱたぱたと落ちて芝を濡らしていく。

 

 エレナスは無言で立ち上がると、後ろも見ず駆け出した。

 その背をシェイローエもまた無言で見送る。

 城内へ戻るために踵を返し、彼女はゆっくりと歩き出した。頬には一筋の涙が伝い、細い肩が震えた。

 

「エレナス……。どうか、お前だけは生き延びて欲しい……」

 

 何もかも振り払うように、彼女は足早に階段を昇って行った。

 

 

 

 無我夢中で走り続け、エレナスはいつしかどことも判らない場所へ迷い込んだ。

 方角から察すると王城の裏手にある森だろうか。鬱蒼とした森には標識のようなものは何も無く、獣道すら見当たらない。

 

 姉の言葉が、彼の中の礎を打ち砕いた。喪失感の大きさに膝をつき、その場へと倒れ込む。

 昼を過ぎているというのに森にはしっとりと露が降り、彼の顔を優しく濡らした。

 

 これからどうすればいいのだろう。もう姉には顔を見せられない。セレスやノアにも、こんな無様な姿を晒したくない。いっそ王都を出て行くべきなのか。

 出口の見つからない問いだけが、エレナスの頭をぐるぐると駆け巡る。

 湿った夏草の匂いに包まれながら、全てから逃げ出したくなり彼は目を閉じた。

 

「……何やってるんだ、こんなところで」

 

 不意に頭上から声がして、彼は跳ね起きた。見上げればそこには、不思議そうな表情をしたリザルがいる。鎌とカゴを携えている様は、草を刈りに来たのだろうか。

 泣いていた事を気付かれまいと、エレナスは務めて冷静さを装った。

 

「何でもありません……。森に迷い込んで転んだだけです」

「……そうか」

「あなたこそ、どうしてこんな森の中に? 何もなさそうなのに」

「何もない訳じゃないさ」

 

 起き上がったエレナスに、リザルは目の前を示して見せた。見れば庭程度の大きさに森が開け、柔らかい日光が下草を照らしている。

 

「他では採れない薬草が、ここには自生してるのさ。他の誰も知らない、オレだけの小さな庭だ。まさかお前がいるとは思わなくて驚いたけど」

 

 子供のように笑ってリザルは振り向いた。

 薬草の他にも目に鮮やかな野花や野草が咲き乱れている。小鳥が飛び交いさえずる様子は、小さな楽園に他ならない。

 

「誰にも言うなよ? セレスにも教えてないくらいなんだぞ」

 

 ぐるりと見渡せば、隅には小さな仮小屋があり、その傍には石造りの標が置かれている。寒い冬は無理だろうが、春、夏、秋なら十分に過ごせそうな小屋だ。

 

「まあいずれ、セレスもここに連れて来ないとならないだろうけどな。ここにはあいつの母親の墓があるんだから」

「墓……ですか」

 

 リザルが指す方向には、石造りの標がある。近付いてよく見ると、小さく名前が刻まれていた。

 

「シエラ……さん。奥方ですよね」

「ああ。どうにも不器用で上手く彫れなかったが、何とか読めるし問題ないよな」

 

 下草を刈りながら、今まで見た事のない柔和な表情をリザルは浮かべた。

 

「あれは身寄りの無い女でな。逝った時にも肉親を探したけど、最後まで判らなかった。だから初めて会ったこの場所に葬ったんだ」

「そうだったんですか。一族の墓所には葬らなかったんですか?」

「……親父が認めなかったからな。勘当され野合とまで言われても、オレにはあいつしかいなかった」

 

 今なら彼の気持ちがよく解るとエレナスは思った。心の中にある最も大切なもの。それが無くなってしまったら、人はきっと抜け殻になる。

 

「オレは代々軍人の家系として名を連ねる、貴族の家に生まれてしまった。母親は先王の妹で王族の血まで入っている。そんな家の嫡子だから、親父の期待はすごかった。当の本人は名誉や栄光には興味も無くて、草をいじるのが好きだったものだから、本当によく殴られたもんだ」

 

 遠い思い出を語るようにリザルは呟いた。

 

「でも今は、これでよかったんだと思っている。自分が選択した結果が今だ。過去も未来も、全てが今の自分に繋がっている」

 

 リザルの言葉を、エレナスは黙って聞いていた。

 自分よりも短い刻しか生きていないが、何よりも多くを経験している彼に、エレナスは尊敬の念を抱いた。

 たとえ失うものが多くても、生きていく中で埋めていけるのだろうか。

 

 気がつけば太陽は傾き始め、森の気温はより一層下がっていった。

 

「さあ、もう帰ろう。セレスが待ってる」

 

 エレナスを促し、リザルは立ち上がった。

 

「進めばきっと道が出来る。それをお前が教えてくれた気がするよ」

 

 独白を聞き取れず、エレナスは聞き直したがリザルは笑うだけだった。

 帰路へ急ぐ彼らを露が濡らし、星が照らす。小さな星明りでも歩けるものなのだと、エレナスはふと思った。

五 ・ 光と影

 

 マルファスが去った後、ソウはただ独りコクを待ち続けた。

 だが夜が明けまた日が暮れても、彼が姿を現す事はなかった。

 

 それはそうかもしれない。

 コクはいつでも飄々としていて、ソウですら捉えどころが無いと思える男だった。

 里の者が協調を重んじる中、気の向くままふらりと消えたり戻って来る彼は、村でも異質に思われていたのだろう。そして白狐族では珍しい黒い巨躯がそれに拍車を掛けた。

 

 村にまとまりが無かったとしても、自分がまとめれば何とかなるだろうとソウは考えていた。コクを恐れる者も、彼の優しさや繊細さを知らないから怖がっているだけだ。

 とりとめの無い思考にソウは被りを振った。いつしか、コクが村を全滅させたのでは無いと信じたい自分の気持ちに気付き、心を落ち着けさせた。

 

 ふと座り込んだ自分の影に、何かの影が重なった。大きく黒く、そしてよく知る影。それが今、頭上にいる。

 ソウは大きく跳び退り、振り向き様に太刀を抜き放った。対峙する影は山のように大きく、倒木の上に屈み込んでいる。

 それは立ち上がると足元の倒木を踏み割り、ばりばりと音を立てて粉砕した。轟音に驚いたのか、森の小鳥たちは一斉に飛び立ち、早朝の空へと昇っていく。

 

「……久しぶりだなあソウ。元気そうで何よりだ」

 

 旧友が交わす挨拶のように、影は笑い声を上げた。

 

「お前がこんな場所に隠れているから、見つけるのに時間がかかっちまった。お前と違って俺は探すのが苦手だしな」

 

 木陰から現れたのは黒い耳に巨大な尾を持つ、浅黒い肌の男だ。

 懐かしく、そして捜し求めていた親友の姿にソウは悲しげに目を細めた。

 

「コク。村がどうなったか、お前は知っているのか。皆死んだ。燃えて消えた。何もかも、全てがだ」

「……ああ知ってるよ。だってあれは俺が『災厄』を村に引き入れたせいなんだから」

 

 その言葉にソウは太刀をきつく握り込んだ。目の前にいるコクは、明らかに今までとは違う。それは表情や雰囲気だけでなく、人格に対しても言える事だ。

 今のコクはまるで誰かに乗り移られているかのように見える。寡黙で思慮深い男を、何がここまで変えたのか。

 

「ひとつ面白い話をしてやろう。俺が『災厄』と出会った日の事を」

 

 薄笑いを浮かべてコクはその場に腰を下ろし、話し始めた。

 

 

 

 父親の怒鳴る声と共に、何かが割れる音がした。

 母親の金切り声。殴る音。何もかもが幼いコクにとっては日常茶飯事だった。

 

 いつからだったろうか。思えば物心つく頃にはこうだった。二言目にはお前のせいだとか、こんな子が生まれるはずがないと、そればかり聞こえて来る。

 耳を塞ぎ目を逸らすように、コクは外へと走り出た。夜の世界は彼を自由にしてくれる。

 皆とは違う姿で生まれて来ただけで、どうして自分の居場所が無いのだろうか。ソウは何も言わず傍にいてくれたが、彼はいずれ長となり里を束ねる身だ。生き方が、世界が違いすぎた。

 

 両親がケンカを始めると、コクは独りになれる場所へと隠れた。誰の支配も及ばない自分だけの世界。自分だけの居場所。心配したソウが探しに来る事もしばしばあったが、コクにはそれが嬉しかった。

 ある夜いつものように喧騒から逃れ、彼は御神木の洞へと隠れた。洞から見える三日月は美しく、コクは全てを忘れ見惚れた。

 

 いつもならソウが迎えに来る頃だ。だが彼は未だ現れず、コクは月を眺め続けた。

 不意に何かの気配がしてコクは月から目を離した。そこにいるのはソウではなく、人でもなく、黒い人型の『何か』だった。黒い顔、黒い身体のそれは、値踏みをするようにじろじろとコクを睨め付けた。

 

「これは良い。これは良い」

 

 黒い『何か』は嬉しそうに呟いた。一体何がいいのかさっぱり解らなかったが、それは更に言葉を続けた。

 

「お前からはいい匂いがする。恨み憎み苦しんでいる者の匂いだ。決めた。『次の身体』はお前にする」

「……何を言ってるんだ? 大体お前は何者なんだ。ここは獣人族の土地だ。お前のような物の怪が入り込んでいい場所じゃない」

「知っている。だから俺がその身体をもらう。これなら異存はあるまい」

 

 言っている意味の不可解さと不気味さに、コクは押し黙った。

 

「お前が大人になったらまた来る。その身体に絶対傷をつけるなよ。お前に危害を加える者は殺す。全て殺す」

 

 薄気味悪い声だけを残し、黒い『何か』は去って行った。しばらくして現れたソウの姿にコクは安堵したが、また来ると言っていた不気味な声が頭に木霊して、彼は冷静ではいられなかった。

 

 

 

「その黒いモノが『災厄』だというのか」

「ああ、そうさ。奴は自ら『狂える神』と名乗り、そして本当に来た。お前が長を継ぐために、継承の太刀を受けに発った日の夜に」

 

 意味が解らず、ソウは押し黙った。

 

「あいつは俺に害をなす者を殺すと言っていた。そしてそれは本当だったのさ。あの夜、俺は里の者たちに殺されそうになった」

「そんな、馬鹿な。多少悪く言う者もいたが、里の者は皆お前を好いていた」

「……本当にそう思っていたのか? やっぱりお前とは生きる世界が違ったんだな」

 

 驚くほど大きな声を上げてコクは笑った。

 生きる世界が違う。その言葉にソウは愕然とし膝をついた。同じ里で、同じ種族でありながら何がどう違うというのか。

 

「同じ地に存在しながら、お前は光り輝く世界、俺は暗く翳った世界に立っていたのさ。皆の理想のまま成長して生きているお前が、俺は大好きで、大嫌いだった。お前には解らないだろうな。でもそれでいい」

 

 コクは急に立ち上がり、膝をついたままのソウに近付いた。

 

「お前が今まで見てきた里は、うわべだけの世界なんだよ。誰でも好きな者には、いいところだけ見せたいもんだ。そんな中で生まれた負の感情は、全て俺に向かって来るって寸法だ。本当によくできてる」

 

 自嘲のような含み笑いをするコクに、ソウはもう何も言えなかった。

 何もかも虚構だったというのか。優しくて明るい、光に溢れた――

 

「お前が旅立ったその夜、殺されそうになっていた俺の前に『災厄』が現れた。奴は村の連中を引き裂き、次から次へと殺して回った。後は知っての通りだ。皆死んだ」

「……その後『災厄』はどうなった? 私はそいつを倒さなければならない。残された最後の長として、村を滅ぼしたそいつを倒す」

 

 その言葉にコクは一瞬押し黙った。だがその顔は口角を吊り上げ笑っている。

 

「そうか、殺すか。そうだろうな。お前ならそう言うと思っていたよ」

 

 ソウが見上げたコクの顔は、不気味なほど嬉しそうに見えた。

 

「あいつは……『災厄』は、今俺の中にいる。あいつの意思と俺の心は、もう絡み合って融和しちまってる。お前から見たら、身体を乗っ取られたかわいそうな奴に見えるかもしれないが、奴のおかげで俺は楽になれたんだ」

「……『災厄』に憑依されているのか? 何故そんな事に」

「さあな。俺にはよく分からん。だがそれが西アドナの代行者『狂』って奴なんだとよ。気の遠くなるほど長い時間、乗っ取って来た連中の魂が凝縮された存在。そんなモノが神だというんだから笑えるよな」

 

 嬉しそうな笑い声と共に、コクは鉤爪手甲の一撃を繰り出した。

 寸でのところでそれを躱し、ソウは太刀を構え直した。

 

「さあ、殺し合おう。ずっとずっと、この日を待っていた気がする」

 

 変わり果てた友の姿に、ソウは声も無く柄を握り締めた。

 

 

 

 国賓の帰国予定である日の早朝。

 この日も警備のためにローゼルは参内し、リザルも森へ出かけ、屋敷にはエレナスとセレスだけが残された。

 昨夜元気が無かったエレナスにセレスは何かを察したのか、何も訊く事は無かった。

 

「ねえねえ、お兄ちゃん。北の森におじい様のリンゴ園があるから一緒に行こう?」

 

 何も訊ねず、セレスは外出を誘った。今の時期では花も落ち、早熟種も収穫にはまだ早い。

 子供心に気を遣ってくれているのだと思うとエレナスの心は苦しかった。

 

「うん。行こう。でも勝手に入って怒られないかな」

「平気平気。今日はお客様がお帰りになる日で街に目が向いてるから、リンゴ園なんて見てないよ」

 

 意外にも大胆なセレスに、エレナスは微笑んだ。実際セレスくらいの歳の子は、いたずら三昧でもおかしくはない。

 そうさせないのは、彼の家名と立場にあるのだろうとエレナスは思った。

 

 使用人に簡単な弁当を用意してもらい、二人は北の森へと出かけた。

 セレスに袖を引っ張られながら、エレナスは自身の今後をぼんやりと考え始めていた。もう姉に自分は必要ない。そう解っていても彼にとっては姉が世界の全てだった。自分独りの足で立ち、歩き出す不安に心が揺らいだ。

 

 北の森に到着する頃にはすでに昼近く、夏の日差しはじりじりと二人を灼いた。

 園内の木々が覆う木陰は涼しげに二人を包み、灌漑に使われている川のせせらぎが清涼な風を送る。

 

 少し休もうと二人が足を止めたその時、突如辺りに轟音が鳴り響いた。

 岩盤を叩きつけるような地響きに二人はよろめき膝をつく。リンゴ園の向こうは森が広がり、それ以外は何も無い場所だ。

 轟音に呼応するように小鳥は散り散りに飛び立ち、めきめきと幹の倒れる音がする。

 

 火薬による爆発の音ではない。爆発なら土埃や硝煙、岩塊が宙を舞うだろう。だが遠目から見えるのは木が倒れる程度だ。誰かが違法に伐採をしているのか。賊を見届けてから王都に戻ろうと、エレナスは音のする方角へ駆け出した。

 背後から聞こえるセレスの制止を振り切り、エレナスはひた走った。人の気配に気付き物陰に隠れると、強烈な血臭が彼を襲う。鼻口を塞ぎながら様子を窺うと、そこには二人の人影があった。

 

 一人は成人男性の身の丈を遥かに凌ぐ大男だ。それに対峙している男も背が高くがっしりとしているが、大男に比べれば子供のようにすら思える。

 

「お兄ちゃん、独りじゃ危ないよ」

 

 ようやく追いついたセレスを物陰に寄せ、エレナスは無言で男たちを指さした。

 

「あの人……。ダルダンでぼくたちを助けてくれたキツネさんだ」

「ああ。あの人には二回も助けられた恩がある。とても優勢には見えないけど、大丈夫だろうか」

 

 エレナスが心配するのも無理はなかった。ソウの衣装は血で汚れ、そしてそれは返り血ではない。太刀を握る肩は激しく上下し、血を流し尽くして気力だけで立っているように見える。

 

「どうしよう。このままだと死んじゃうよ」

「……君は屋敷に戻って、誰か手の空いている人を呼んで来てくれ。それと馬車を。あの人は俺が何とかする」

「分かった。だけど無茶しないでね。すぐ戻って来るから」

 

 セレスが走り去るのを見届け、エレナスは神器の剣を抜き放った。結局剣に頼るしかない自分の不甲斐なさが腹立たしかったが、今彼らを止める方法は無い。

 大男がソウに近付いたのを見計らって、彼は木陰から躍り出た。大男の気が一瞬逸れたのを見て、ソウへ声を掛ける。

 

「走って! ここから離脱する」

 

 エレナスを見た大男は彼の知らない言葉を発したが、意味が解らずそのまま懐へと飛び込んだ。男の脚部へ斬り付けるが、刃は軽く傷をつけただけだった。

 

「だめだ! そいつの筋肉は鎧のように硬い。早く逃げるんだ。私に構わず行け!」

 

 空を切り薙いで来る爪に気付き、エレナスは身を屈めて横に避けた。鋼鉄製の鉤爪は轟音を立てて地面にめり込み、地響きを生み出した。

 あれを食らえばひとたまりもないだろう。それを寸でで躱しながら戦ったソウも、鋼の肉体に刃を通す事は叶わなかったのだ。

 

 地面から爪を引き抜き、聞いた事のない言語を話しながら迫る男は恐怖を煽り、更に大きく見えた。

 エレナスがすくんだ一瞬。男の鉤爪が頭上からエレナスを捕らえる。

 

 立ちすくんだまま彼は頭上の爪を見た。避け切れない。

 迫り来る鋼の塊に、エレナスは目を閉じた。

 

 金属が打ち合う鈍い音が耳に届き、鉄爪がエレナスの鼻先で止まる。

 見上げれば男とエレナスの間にソウが割って入り、太刀の鍔で巨大な爪を受け止めていた。

 

 男はソウに対して何かを話し掛けている。

 

「コク……。お前には関係ない。私はもう、目の前で誰かが死ぬのを見たくないだけだ」

 

 見ればソウの脇腹や肩には深々と切り裂かれた傷が開き、流れ出る血は音を立てて草を濡らした。

 血を流しすぎて力が抜けたのか、とうとうソウは片膝を地につけた。それでも太刀で爪を受け止めたまま、その場から退こうとはしなかった。

 

 ソウの言葉に、コクは何かを呟いた。大声で笑いながら、捨て台詞を吐くかのように何かを言い残し、彼は爪を退いた。

 森の闇に掻き消えるようにコクが去った後、ソウはその場に崩れ落ちた。顔は蒼白で、ほぼ意識も無い。エレナスは持ち合わせていた布を裂いて、腕や脚を縛り止血を試みた。

 

 何とかしなければ。だがこのままセレスを待っていたのでは助からない。

 

 心を決め、自身よりも頭ひとつ分以上大きいソウを、エレナスは背に担いだ。

 よろめき半ば引きずりながら、それでも一歩一歩彼は前進した。死なせたくない。ただそれだけを胸に、彼は王都へと歩みだした。


 
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