―――荊州南陽郡新野県
「三国志」の物語が始まる、おおよそ二百年前のこと。
当時、新野には陰家という豪族が居を構えていた。
かつての春秋時代の斉の覇者・桓公の宰相にして、「管鮑の交わり」の故事で有名な管仲の末裔であると称し、この新野の地で大荘園を保有する大豪族である。
そんな陰家の当時の当主は、
彼は、少なくとも当時の庶民や奴婢たちから見れば、羨ましいほど恵まれている男だった。
なにしろ、先祖は司馬遷の「太史公書(史記)」にも名を残している名臣。そして陰陸自身は新野どころか南陽郡でも有数の大地主にして、大富豪である。その上、彼には後継ぎとなる男子もいたし、なにより、黒目黒髪の美しい妻を娶っていた。
誰が見ても、何一つ不自由しない人生を送っているかに見える陰陸であったが、彼もやはり人間である。彼には大きな悩みがあった。
それは、正妻の
陰陸にはすでに世継ぎとなる予定の、
前妻を亡くし、途方に暮れていた陰陸を不憫に思ったのか、新野の豪族の一つにして、陰家とは親戚関係でもある鄧家が、彼に再婚を勧めた。
ちょうど鄧家に未婚の娘がいたため、陰陸の再婚相手に持って来いと言わんばかりに話が進み、かくして陰陸は、新しい妻を娶ったのである。
その娘こそが陰陸の現妻の鄧少容なのだ。
こういう親戚同士、家族同士で話を決めてしまう結婚の場合、夫婦仲が悪く、しまいには破綻するという話をよく聞くものだが、陰陸・少容夫妻には全くそんな兆しは見えなかった。
陰陸は少容のことを亡き前妻の如く愛し、大事にしたし、少容もやや年上の夫を支え、さらには実の子でない陰識に対しても、実の母親のように接し、教育した。
そんな風にうまくいっていた夫婦であったが、何故か、なかなか子どもができないのだ。
だが、悩みこそあったものの、陰陸も少容も、焦りはしなかった。
「無理はしない。気長に待つ」
二人はそう決めて、いつか、可愛い赤ん坊が生まれることを祈りつつ、のんびりと過ごしていた。
ちょうどこの頃、大漢帝国の都・長安では、「大司馬・安漢公」の王莽が自らを「仮皇帝」と称し、着々と帝位簒奪の算段を勧めていた最中であったが、嵐が起こっているのは都・長安一帯だけであり、新野の荘園の畑の
*
気長に待つこと数年、その日はついにやってきた。
生まれて初めて、かつてないほどお腹をぱんぱんに張らせた鄧少容は、その日、突然の痛みに悶え苦しみ、邸の女中たちによって寝床へと運ばれた。
すぐに医者が呼ばれ、さらには新野中の親戚という親戚が、皆駆け付けた。
少容が医者の指示の元、歯を食いしばって痛みに耐えながら頑張っている間、その枕元で、夫である陰陸、義子である陰識、そして、少容の兄である
そして、皆が息をのんで見守る中、鄧少容は、ついに念願の子を産んだ。
女の子であった。
最初の鳴き声を聞いた後、真っ先に生まれたばかりの赤ん坊を抱き抱えたのが、父親の陰陸であったことは言うまでもない。
それはともかく、ひと段落ついた後の陰家は大盛況であった。
出産を終えたばかりの少容と、生まれたばかりの赤ん坊の女の子は静かな所で休ませたうえで、一族そろっての大宴会が開かれた。その日の陰陸はたいそう太っ腹で、宴会に集った親戚・友人・知人たちにはもちろん、邸の使用人たちにも酒や肉を与え、皆で女の子の誕生を祝ったのである。
「あー、今夜は酒がうめえや!」
陰陸の義兄である鄧奉が、杯を傾けながら言った。
「おい、陸。この鄧奉の妹に、子を生ませたからには、覚悟しておけよ! もし今後、少容を悲しませるようなことをしたら、この兄がすぐに殴りこみに来るからな。覚えておけ! がーはっはっは!」
「ははは。覚えておくよ、義兄さん」
鄧奉の、到底冗談には聞こえない言動に苦笑する陰陸。
「おいおい、その辺にしておけよ、奉」
見かねてそう言ったのは、鄧奉の叔父にして、鄧家の現当主である鄧晨だった。その妻である劉元は、ついさっき赤ん坊の「兄」となったばかりの陰識少年に優しく話しかけていた。
「識くん。お兄さんになったわね。おめでとう。大事な妹さんなのだから、絶対に大事にするのよ」
「うん。もちろんだよ。俺の妹は、俺が守る!」
まだ十歳になったばかりの陰識少年が頷いた時だった。
「がーはっはっは! 次伯、それは頼もしいな、おい!」
酔っ払った鄧奉が、陰識の背中を叩きながら言った。
「腹違いとはいえ、お前の大事な妹だ! 絶対に泣かすなよ!」
「な、泣かさないよ、奉おじ上!」
「奉、それくらいにしておけ」
酔った鄧奉を諌める鄧晨。そんな彼らを微笑ましげに眺めながら、劉元が陰陸に尋ねた。
「ところで、陰陸さん」
「なんですか?」
「生まれた赤ちゃんのお名前、もう考えてあるのですか?」
ああ、そのことか、と思った陰陸は、杯の酒をぐいと飲み干すと、こう答えた。
「ああ、そのことなら、少容に任せることにしましたよ。なにしろ、少容は、ずっと前から名前をつけたがっていましたから。ま、落ち着いたら、彼女とじっくり話し合って決めますよ」
「まあ、それは良いことですね。でも、真名はともかく、諱が決まった暁には、すぐに私たちにも教えてもらえないでしょうか?」
「ははは。もちろんですよ」
そう言って陰陸は微笑んだ。
こうして、賑やかな夜は更けて行った。
*
さて、それから数日後の静かな夜のこと。
少容の容態が安定したのを見計らって、陰陸は妻と我が娘のいる寝床へと足を運んだ。むろん、先日に劉元と話したことを、妻と考えるためである。
赤ん坊の女の子は、夜泣きすることなく、母親のすぐ隣で、すやすやと眠っていた。
「よく眠ってるね。この子はきっと、よく育つだろうな」
「ええ、そうでしょうね」
陰陸・少容夫妻は微笑ましげに我が娘を見た。
「ところで少容」
「はい、貴方?」
「この子の名前は、決まったのかい?」
「ええ、もちろんですわ」
そう言うと、少容はいつの間に書いたのであろう、彼女自身の懐から、一枚の絹を取り出し、夫に手渡した。
「私、もし女の子が生まれたら、必ずこの名前にすると、前々から決めていました」
「流石だね。どれどれ……」
絹を受け取り、そこに書かれた文字を読み取る陰陸。そこには大きな文字で、こう書かれていた。
「麗華」
「なるほど、
「そうでしょう?」
「うん。ところで、どっちなんだい?」
陰陸はふいに尋ねた。阿吽の呼吸がごとく、少容は夫の意をすぐに理解した。それは、諱なのか、真名なのかという意味にほかならない。
しばらく間を置いた後、彼女はこう答えた。
「どちらでもありません。そして、どちらでもありますわ」
「なるほど……」
陰陸は何度か頷いた後、妻に意を確かめた。
「少容。君も諱と真名が全く同じだったね。それにあやかったのかい?」
「たしかに、それもあります。ですが……」
少容は、窓から見える無数の星々を見上げた後、再び視線を我が娘、麗華に向け、彼女の頭をそっと撫でてやりながら、夫の質問に答えた。
「たしかに、『真名』は大事でしょう。ですが、私は、この子を『真名』で呼ばれたくらいでカッとなって怒りだすような、そんな物騒な子に育てたくはありません。だからこそ、どんな人相手でも名前を呼んでもらえる真名を名付けたいのです」
「そういうことか……」
妻の言葉を聞いた陰陸は、しばらく考えるそぶりを見せたが、やがて穏やかな微笑みの表情になると、寝ている我が娘のおでこをそっと撫でてあげた。
「そうだね。よし、麗華。お前は誰に対しても優しくて、思いやりのある子に育つんだぞ。そして、可愛く育って、良い旦那さんに巡り合うんだぞ」
「あなた、早すぎますわよ」
「笑わないでくれよ。僕は真剣に願ってるんだから」
そんな夫婦の仲のいい会話を、星たちも微笑みながら見下ろしているかのようだった。
その後の数年間で、父・陰陸は、妻・少容との間にさらに二男(陰興、陰就)を儲けつつも、我が娘が本当に可愛く育つか心配であったが、それは杞憂に終わった。
麗華と名づけられた赤ん坊は、わずか数年後には、長くてさらさらとした黒髪と、大きくてぱっちりした黒き瞳の持ち主に育ったのだから。
美少女・陰麗華の名前は、間もなく新野一帯でたいそう評判となるのだが、それはもう少し後のお話。
*
(登場人物紹介)
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出身地:荊州南陽郡新野県
「陰皇后紀」のメインヒロインとなる少女だが、この時点では、まだ赤ん坊。
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出身地:荊州南陽郡新野県
新野の大豪族・陰家の当主にして、三男一女(識・麗華・興・就)の父親。
CVイメージ:郷田ほづみ
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出身地:荊州南陽郡新野県
陰陸の妻。新野の豪族、鄧家の一員。鄧奉の妹で、劉秀の姉婿・鄧晨の姪。
CVイメージ:鳴美エリカ
*歴史書には単に「鄧氏」としか記されていないため、少容の名は作者が勝手に名付けたものです。
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出身地:荊州南陽郡新野県
陰麗華の異母兄。陰家の次期当主。
CVイメージ:大原さやか(幼少期)
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出身地:荊州南陽郡新野県
陰麗華の母方の伯父。新野の豪族・鄧家の一員にして、劉秀の姉婿・鄧晨の甥。正義感が熱く、故郷・南陽を愛する「南陽男児」。
CVイメージ:天田益男
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出身地:荊州南陽郡新野県
陰麗華の母方の大伯父にして、劉秀の次姉・劉元の夫。新野の豪族・鄧家の当主。一男三女の父親。
CVイメージ:杉田智和
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出身地:荊州南陽郡蔡陽県舂陵郷
劉秀の次姉にして、鄧晨の妻。一男三女の母親。
CVイメージ:岩男潤子
*
極めて不定期な投稿で、申し訳ございません。
今回、完全新作の「陰皇后紀」の出だしを書いてみました。(光武帝紀本編とは外れた「外伝」的な話です)
問題は、これが続くか、ですが。
さて、この時点では、赤ん坊に過ぎない『陰麗華』ですが、後に、光武帝・劉秀の物語が進むに従って、極めて重要な人物となります。
史実でも、かなりヒロインらしいお嬢様ですので。
ちなみに、麗華の諱と真名を全く一緒にしてしまったのは、作者がどうしても、変に名前を付けたくなかったからです。
「真名を呼ばれて怒る」のが当たり前の恋姫世界において、異色なキャラを作ってみようと思った次第です。
元々男だった武将を美少女にしたキャラ達と違い、元から女性だった人物を、可能な限り、そのまま描いて行こうと思います。
ちなみに、今回登場した麗華の家族・親戚たちですが、光武帝の物語が進むに従い、彼ら、彼女らも、様々な事件に巻き込まれていくことになります。
今後も、可能な限り、書き続けてまいりたいと思います。
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『三国志』の物語が始まるおよそ二百年前。
荊州南陽の新野の地に、一人の娘が生を受けた。
「三国」の恋姫たちが乱舞する時代から見れば、遥かな昔話となってしまった、一人の少女の物語を、語っていこう。