気がつくと見知らぬ場所に寝かされていた。
ぐらり、ぐらりと床が傾くのを背中で感じながら、此処はどこなのだろうかと、重い体とうまく焦点が定まらない目をあちこちに向けながら必死に様子を探った。
薄暗い部屋の中に、様々な荷物が所狭しと置かれ、床が揺れるたびにそれらが左右に動き、板が擦れて高い
音を立てた。
きつい横揺れが体を刺激して、胃の腑が見えない手でぎゅっと絞られているかのように強く痛み、こみ上げる不快感を抑えようと、体を無意識に丸めた。
「う…あ…、」
叫びとも呻きともつかぬ声を上げると、それを聞きつけたのか複数の足音が床を震わせながら近づいてくるのに
気づいた。
「山崎」
低く張りのある声を耳にして、ふと体の痛みが和らいだような気がした。
副長、と声を出そうとしたが、喉から漏れるのは空気の音ばかりで明確な形にならなかった。
「そのままでいい。無理に体を起こそうとするな」
大きな手が自分の体に触れてきた時、強い潮の香りが鼻を刺激し、唐突にここが船の上であることを悟った。
「ふ…ね?」
喉の奥から空気を押し出すようにして疑問を口にすると、大きな手が宥めるように頭を撫でてくる。
「…ああ。俺達は今、江戸に向かっている。そこで仕切り直すつもりだ」
「え…ど」
「そうだ。お前が体張って俺を止めてくれたから、こうしてまた先に進める。…すまなかった」
苦しげな声と、優しく頭を撫でてくる感触に、目覚めてから靄がかっていた記憶がふいに鮮やかに甦ってきた。
(――ああ、そうだ。俺は薩摩の鬼と副長が争うのを止めたんだった)
発端が何かは分からない。応援要請をしていた淀藩の様子を見に行ったまま戻らぬ副長を探して走り回ってい
ると、道端で青ざめた顔をした雪村が呆然とした様子で立ち竦んでいるのに気付いた。彼女から要領の得ない説明を受けながら導く先に辿りつくと、髪を白く染めた副長が、目をぎらぎらと輝かせながら鬼と名乗る男と相対していた。
刃を合わせるときの凄まじい音と気迫に、一瞬、体が竦んで動けなくなった。
止めなければと頭で分かっていても、二頭の鬼は殺すのではなく、存在そのものを滅しようとするかのように、強
い殺意をもって向き合っていた。
震える体をどうにか支えていると、すぐ近くで同じ動作をする者の姿が目に入り、そこでようやく我に返った。
(彼女も、同じことを考えている)
間に割って入る隙をはかっているのは、己だけではないと察すると、ふいに体の震えが止まった。
(彼女には、させられない)
強くそう思ったとき、彼女の足が先へと踏み出そうとつま先に力を込めるのを感じた。
(――駄目だ!)
胸の内で叫ぶと、何も考えずに走り出し、白い髪と真紅の瞳に変わった人の前に体を滑り込ませた。
腹と背中の両面から、煮えたぎった湯をかけられたような熱さを感じ、次いで己の内部を食い荒らす獰猛な獣の存在を感じた。
二頭の獣は肉を鈍い音を立てながら食い荒らし、長い鼻面を腹と背中の両方から突き出した。
「あ…あ」
あまりの熱さと痛みに呻くと、片方の獣が小刻み震えた。
目の前の白い鬼が何かを言ったが、あまりの痛み故か、耳の奥に刃をこすり合わせたような高い音が強く響
いていて、他の音は何も聞こえなかった。
先ほどまで強い殺意に輝いていた目に、理性の色が戻ったのを見て小さく笑った。そして自分が思うことを伝え
たとき、相手の眉間に見慣れた縦じわが三つ入るのを目にして、奇妙な安堵が湧き上がってきたかと思うと、そのまま全身の力が抜けて相手の胸に倒れ込みながら意識を失ったのだった。
長い、長い片想いだった。
いつ彼女に惚れたのか、その切掛が何だったのかは忘れてしまった。
自然に彼女を好きになり、長い年月をかけてより深い想いへと変わった。
何度か想いを告げようと考えたことがある。
しかし、想いを告げてどうするのか、本来、彼女は此処にいるべきではないが、自分にとっては大事な場所であると
か、そんな答えの出ない問いという名の臆病風が、己の先走りそうになる想いを押さえつけて、結果長い片想いに甘
んじることとなった。
甘んじる、というのは語弊があるかも知れない。
俺は彼女に自分を曝け出して否定されるのが怖かったのだと思う。
あまりにも大事に抱え込み過ぎて、相手の心を知ることを望まなかった。
伝えなければ、彼女の心は分からない。伝えない限り希望を持ち続けることができる。
情けないと何度も思ったが、彼女を想うときの、静かな柔らかさが好きだった。日々の隊務で疲れた心が、彼女を想
うと甘くほどけた。
俺という男は、生き方も、愛し方も表にあらわすことを厭うのだろう。
自分を大事に抱え込みすぎて、人に曝け出すことを嫌うのだろう。
他人がそんな俺をどう思っているかは分からない。
武を尊ぶこの組織では、一段下に見られているのかも知れない、と時たま考えるときがある。
必要だから存在するのだと、己にできることをするのだと戒めても、傑出した腕をもつ組長達を見ていると、己の影
の薄さを思い知る。
「適材適所だ」
副長の言葉に救われはしたが、同時に絶望もした。
どんなに稽古をしたとしても、戦力とはみなされないのだろうとそう感じてしまったから。
この場所は、生きがいを与えてくれたが、己の器というものを自覚させられた。
夢を見て入ったが、俺はきっと皆とは違う場所からでしか夢を見られない。
それでもいい、と受け入れたときから、俺は己を隠して生きることを己に課したのだと思う。
俺は優れた者になりたかった。でも、それは無理だと分かった。だからこそ、副長に理想を重ねた。こうなりたかっ
た、と思う憧れを体現するあの人を妬みながらも心から慕った。
そんなあの人を、彼女が密やかに見つめていると悟ったとき、辛くもあったが、他の誰でもなくあの人を選んだことに深く安堵した。
彼女は俺と同じように密やかに相手を想い、幸せそうに笑った。彼女に確かめはしなかったけれど、誰よりも長く彼
女を見つめてきた俺には、彼女の恋心が痛いほど伝わってきた。
(君もきっと、長い長い片想いをしているのだろう。報われる、報われないは二の次で、想うことが大事なのだろ
う。…そう、俺のように)
幸せそうに笑う君を見て、俺もまた幸せな気持ちになる。
胸に痛みを感じないわけではないけれど、君の綺麗な微笑みを見ていると、そんな痛みはささいなことだと思える。
「君が好きだ」
独りきりのときだけ弄ぶ、彼女への愛の言葉。
伝えることは、きっとないだろうと思いつつも、いつか、と夢を見させてくれる言葉。
夢を見ることは、誰にでも等しく与えられた慰めだ。
夢は希望であり、力になる。
叶うことはなかったとしても、夢を見ている間は生きていられる。
「…夢を見る。今宵も君の夢を。安らぎを与えてくれる君の夢を――夢の中だけでも見たい」
――そうして俺は愛しい夢を見る。
「山崎!」
ほんの僅か物思いに耽っていただけなのだが、副長は切羽詰ったような声で俺の名を呼んだ。
ゆっくりと大きな手から腕を辿って、敬愛する人の顔へと目を向けた。
滲んだようにしか見えなかった目が、徐々にものの形を鮮やかに捉え始め、汗と泥と、無精ひげに覆われつつも、輝きを失わない人の顔をはっきりと映し出した。
副長、と唇を動かすと、相手の眉間に深い縦じわが入った。感情を押し殺すとき、この人は隠しきれなかった感情が眉間に現れる。
この人の中で今、どんな思いが内に渦巻いているのだろうと、しげしげと眺めた。
「おい、皆もお前のことを心配している。お前は生きて一緒に江戸に戻るんだ」
皆、の言葉に反応して周りを見渡すと、すぐ近くに息を殺すようにして俺を取り囲む仲間の姿が映った。
少し離れたところに雪村の姿を確認して、頬が僅かに緩むのを感じた。
口を開こうとしたが、舌がからからに渇いて動かすのが辛く感じた。
なんとか「水…」と息のような、声のような何とも情けない声を出すと、雪村が外に出て竹筒を持って帰ってきた。
副長が竹筒を受け取ると、慎重に俺の唇を湿らせてから、ゆっくりと口内に注ぎ込んでくれた。
甘い水が口の中に広がり、ふわふわとした幸福感に包まれる。こくり、と音を立てて飲み干すと、副長の縦じわがより深くなるのを見て、微かにくびを傾げた。
「有難う、ございます」
小さくとも先ほどよりは明瞭に言葉が出た。
俺の声を聞いて、周囲の人間がすっと目を逸した。
真っ直ぐに俺を見つめ続けているのは、副長と雪村だけだった。彼らの顔に一様に浮かぶ悲しみの色に、ようやく己が死の淵に立ち、もう後戻りできないと皆が感じているのだと察した。
(ああ、そうか)
死という言葉が胸の中にすとんと落ちて、深く納得した。
(俺はもう死ぬんだ。手の施しようがない傷を受けたのだから当然だな)
不思議と恐ろしさは感じなかった。俺はこうなることを分かってて二人の前に立ったのだと今気づいた。
(そうか。俺は死ぬんだな)
無意識に彼女へと目を向けて、そのまま瞬きもせず眺めた。これが今生で見納めになるかと思うと、見ずにはいられ
なかった。
静かな時が流れる。俺は彼女を見つめていたが、皆は俺だけを見ている。
「千鶴、お前が看取ってやれ」
ふいに穏やかな声が響き、それに呼応したように仲間達が腰を上げようと身じろいだ。
その気遣いを感じて、一瞬、そうして欲しいと思ったが、副長の優しい目と、雪村の泣くのを我慢しているような顔を見て、大きく頭を振った。
「此処にいて下さい。俺、皆に伝えたいことがあります」
皆が戸惑ったように見交わすのを見ながら、一人一人に礼の言葉を述べた。長い年月を共にしていれば、小さくとも各人との思い出がある。思い出と感謝の言葉を口にすると、受けた相手は一様に歯を食いしばるのが妙に可笑しかった。
「――それから、副長。いつも俺を信頼して下さって有難うございました。これから先、共に歩めそうにないですが、俺はずっと副長の後を追っています。俺は…大事なんです。どんな事があっても、この場所が好きなんです」
そう言って笑うと、副長の顔が大きく歪んだ。そしてがち、と音が鳴るほど強く歯を噛み締めると、小さく頷いた。
「そんな事、わざわざ言わなくても知らない奴はいねぇよ。お前は新選組を大事に思っている。当たり前のこと――言う
んじゃねぇよ」
この人らしい言い草に、声を立てて笑った。
死が迫っているのに、ちっとも怖くなかった。俺の思いが言わずとも伝わっていたのだと知って報われたような気持ちになった。
俺が笑うのを見て、皆も苦しそうな顔で笑った。
皆の頬に伝う涙や鼻水を見て、更に大きく笑った。
(俺は幸せだ。こんな幸せな死を迎える男はそうはいない)
笑って、笑い疲れて、ようやく彼女に目を向けた。
彼女には何を伝えればいいのか、笑いながらずっと考えていた。
最後なのだから、想いを伝えた方がいいのかと考えたが、俺の愛する二人の顔を見ていたら、そんな事はどうでも良
くなった。
息を深く吸い込んでから、「雪村」と呼びかけた。
肩を震わせる彼女を見つめながら、「ありがとう」とそれだけを言った。
君に出会えて幸せだった。誰かを想える自分を愛しく思った。
そんな彼女に捧げるのは、感謝の言葉しかない。
そして、もう一つは――。
「この先も、どうか君は君らしく」
きっと彼女には伝わるだろう。言葉に秘めた応援の気持ちを。険しいと分かっていても、ともにあることを選んだ彼女に、心からの祈りを。
伝えないということで示す愛もあるのだと、小さく笑った。
そして彼女の瞳に浮かぶ灯火を見つけて、心が温かくなるのを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
波の音に耳を澄ませながら、駆け抜けた長い時を思って深い溜息を吐いた。
了
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
山→千。死の描写あり。閲覧注意。