玄関先に置かれている黒のステーションワゴンのせいなのだろうか、小奇麗ではあるものの、枯れた静かさの中にたたずむ一軒家は、なぜかどす黒い空気に包まれているように見えた。その家は借家なのだが、生あるものが暮らす気配をまったく感じさせない。その家の大家ですら、開錠することを躊躇しそうな門を、あえてくぐって中に入ってみると、その室内もまた漆黒の空気が充満していた。
薄暗い室内に局所的にスポットが当てられている。この家の借主は、まるで光を嫌っているようだ。壁に貼り付けたメッシュのボードにかかる多種多様な工具。透明ビニールで密封された台所の中央には、頑丈な実験台がある。そして、その上に整然と置かれた様々な形のフラスコや試験管。
視点をリビングに移して見ると、リビングの机の上に香水を入れるようなガラス瓶がふたつ置かれている。それぞれの瓶には、頑丈に閉じられた栓の中に透明な液体が入っていた。
突然男が口元に笑みを浮かべながら、影の中から姿を現わす。そして、机の上の瓶の片方を手に取った。彼はついソマンの成分の分離に成功したのだ。地域暴力団への試みは成功したものの、ソマンをより効果的に使用するためには分離化が不可欠な要素だった。
男は、暗闇に向って男は乾いた声で笑いだした。これで二成分式化学兵器(binary chemical weapon)が、間もなく完成する。その見通しが出来たことが、愉快でたまらないのだ。
「いよいよだ。」
男は瓶を慎重に机の上に戻した。
「世の中には駆除されなければならないゴミが多いからな。」
翔子は叔母と共に、診察の順番がくるのを、病院の外来ロビーのベンチで待っていた。叔母に付き添ってきたのだが、やってきたこの病院が、偶然にも坊ちゃん先生にナンパされた病院であったことに、翔子は少なからず驚きを覚えた。ロビーで叔母と話しながらも、なぜか目は坊ちゃん先生の姿を探していた。
「ねぇ、翔子ちゃん、聞いているの?」
「えっ、聞いてますよ…。それで?」
「それでじゃないわよ、お見合いよ、お見合。練習のつもりで一回してみたらどう?」
「えっ、またその話し…。でも、お見合いに練習も本番もないでしょう。」
「とにかく一度バイクから降りて、男の人とお茶でもしなさい。」
「世話になった叔母ちゃんの命令なら何でも聞くけど、こればっかりは…。」
「なによ、こればっかりは、こればっかりはって…。」
「だって…。」
「何なの?付き合ってる人でもいるの。」
「うう…。」
「無理ね。」
「何が…。」
「お兄ちゃんの墓前で彼氏を紹介するなんて一生無理だわ。」
「そんなことないわよ。」
「あら言ったわね。なら、いつ?」
「その気になれば、次の法事にだって…。」
「ホーホホホ。笑かしてくれるわね。」
「いくら叔母ちゃんでも、言いすぎじゃない?」
「翔子ちゃんが、見え透いた嘘つくからよ。」
「嘘じゃないもん。」
「それじゃ私の、この目の前に連れてきてよ。そうしたら痛い膝ついて土下座して謝ってあげるから。」
「そんなこと言って、いいの?」
「いいわよ。喜んで土下座するわ。」
「ほんとーに、いいの、叔母ちゃん。」
「無理しちゃって…。土下座で足りなかったら、今度の法事にあなたの好きないなり寿司作ってあげるわよ。しかも五目飯でね。」
「言ったな、忘れるなよ。いいか、知らないぞ…。」
「どうした、弾丸翔子。顔が蒼いわよ。」
翔子は目をつぶると、意を決したようにロビー中に響く声で叫んだ。
「たつやーっ!」
病院の全職員が達也を見た。実は何も知らない達也は、白衣のポケットに手を突っ込み、入院患者の往診を終えて、診療室に戻るために、ロビーを横切っていたのだ。
「へっ?」
いきなり自分の名を呼ばれた達也は、驚いて声の主を見た。
「ここよー。」
「へっ?…トリニティ?」
実は翔子はすでに達也の姿を見つけ出していて、このグッドタイミングに現れた彼を利用して叔母ちゃん相手に一か八かの勝負に出たのだった。一方、事態が飲み込めない達也は、首を傾げながらも翔子の手招きに応じて叔母の前に出た。女性に冷たいはずの達也先生が、見知らぬ若い女性に名前で呼びとめられるという異常事態に、病院の全女性職員が息を潜めてことの成り行きに注目している。
「叔母ちゃん、紹介するわ。私の彼氏の上田達也さん。」
翔子が言った彼氏という言葉が病院に、翔子の予想以上の波紋を引き起こした。全職員のどよめきが、遠くへ伝わるに従い、さざ波から津波へと成長して病院内に広がると、若いナースなど涙ぐむものさえ現れた。腕を取られて紹介された達也は、驚いてその腕を引き抜こうとする。しかし、翔子がそうはさせじと抑え込む。
『何でもするって言ったでしょ…。』
『だからっていったいこれは…。』
『いいから、すぐ終わるから。』
突然彼氏を紹介された叔母は、驚きのあまり、ふたりの囁きあいなど耳に入らない。
「上田さんって?この病院のご次男の?」
「ええ、まあ…。」
そう返事をした達也は、翔子と叔母を交互に見ながら、話しの筋を探ろうとする。しかし、一向に何が起きているのか理解できない。
「翔子ちゃんたら、いつの間に…。しかも、上田総合病院の御子息だなんて…。」
ああ、トリニティの名は、翔子っていうのか…。とりあえず、達也は彼女の名前だけは知ることができた。
「ね、叔母ちゃん。あたしだって、やる時はやるでしょ。」
「やるって…何を?」
達也の声が不安で震え始めた。
「上田さん、翔子の兄の法事にはぜひ来てくださいね。美味しいお稲荷さん作りますから。」
よっぽど嬉しかったのだろう、そう言って達也の手を握る叔母の目は潤んでいた。
「法事?」
「さぁ、叔母ちゃん。達也さんもお仕事で忙しいでしょうから、お話はまた法事の時にでもね。」
「だから、法事って何?」
「そうね。翔子ちゃんの言う通りだわ。お仕事中すみませんでした。」
「それじゃ達也さん。あとで、電話するから。」
「電話って…どのでんわ?。」
「え、また携帯を新しく変えたの?どんな携帯?見せて!」
意味もわからず達也が白衣のポケットから自分の携帯を出した。
「まあ、素敵!」
翔子は達也の携帯を奪い取ると、すばやく自分に電話をかけワン切りする。
「ほら、携帯返すわ…それじゃ、お仕事頑張りましょうね。」
投げ返された携帯を、慌てて両手で受け取る達也。彼は翔子に背中を押し出されて、結局話しの筋が1ミリもわからないまま、診療室へ戻ることとなった。途中廊下でふりかえると、翔子と叔母が笑顔で自分に手を振ってくれている。考えてみれば、誰かに笑顔で手を振って見送られるなんて、久しくなかったことだ。達也は小さくお辞儀をすると、首を傾げながら診察室へ向かった。
翔子の兄の命日。達也は未だに理由が解らぬまま、フォーマルウエアにシルバーのカフスを付けて墓の前にいる。いくらブルースの命の恩人とは言え、理由も告げぬまま自分をここに立たせた翔子を理不尽に思いもしたが、ライダースーツを脱いでスカート姿で横に立つ彼女は、あまりにも可憐な女性っぽくて、鑑賞に値する。隣に居て悪い気はしなかった。
それよりも達也を悩ませたのは、同席するふたりの若者である。墓参りだと言うのに、揃いの派手なジャンパーを羽織って初めて会った時からずっと達也を睨んでいる。ジャンパーの背についているマークは『交差する雷に梅』。どこかで見たことがあると、さっきから達也は必死に自分の記憶をたどっていた。
「さあ、今日は天気もいいし、ここでお弁当を食べましょう。」
お墓の掃除、お供え物、そして住職の読経と焼香をすませ、叔母が境内の空地にみんなを誘った。ここは郊外の高台にあり、眼下に広がる閑静な住宅地が一望できる。広げたビニールシートに腰掛けると、乾いた風と暖かい陽ざしが達也の頬を撫ぜる。翔子が風になびく髪を留めるために赤いヘアピンを付けた。ヘアピンも光を反射しながら気持ちよさそうに風に揺れていた。
「さあ、たくさん作ったから好きなだけ食べてください。」
叔母が開いた弁当は、約束通り五目飯のお稲荷さんであった。
「哲平ちゃん、次郎ちゃん。今日はどうもありがとう。遠慮なく食べて。」
叔母は稲荷の詰まったお重をふたりに渡した。叔母に笑顔で小さく礼を言いながら受け取ったふたりだが、稲荷を口に運びながら、やはり達也を睨み続けている。
「達也さんも遠慮しないでどうぞ。…何やってるのよ翔子、こんな時はちゃんとお世話しなくちゃ。」
翔子は肩をすくめながら、稲荷を箸で挟んで小皿に移すと達也に差し出した。達也は受け取りながら、翔子の顔を覗き込むが、彼を無理やり巻き込んだ罪悪感なのか、翔子はなかなか達也と視線を合わそうとしない。
『次郎、あいつは誰だ。』
『自分が知るわけないでしょう。』
哲平と次郎は、稲荷を頬ばりながら囁き合っている。
「ところで、達也さん。うちの翔子とはいつからのお付き合いなんです?」
父親の質問に、達也、哲平、次郎の三人が同時に口にはいった稲荷ずしを噴き出した。達也と哲平はそれぞれの事情で無理もないが、次郎が噴き出すのは、なんでも副長の言動に追従していた若き頃の習慣がまだとれていないせいだ。
「やだ、みんな汚いわね…。お父さんもいきなりそんなこと、ここで聞かなくてもいいじゃない…。」
せき込む達也の背中を叩きながら、必死に翔子がフォローする。
「いや、翔子にボーイフレンドがいたなんて全然気がつかなかったから…。」
「そうよ、翔子とお付き合いさせていただいて、どのくらい経つのかしら…。」
「どのくらいもなにも、お会いしたのは今日で4回目…。」
話し始めた達也に翔子がいきなり肘鉄を食らわし、彼の言葉が続かぬようにした。
「バイクで知り合ったの。もう半年くらいになるかしらね、達也。」
同意を求める翔子に、達也はみぞおちをさすりながらただうなずくしかなかった。横で哲平の持つプラスティックのコップが潰れる音がした。慌てて次郎が新しいコップを渡す。
「そうなの…。どうりで、私が持ってきた見合い話しを避けるわけよね…。」
叔母の言葉に達也はピンと来た。ああ、そう言うわけ…。達也が翔子を見ると、上目使いに達也を見るそのブラウンの瞳が謝っているように見えた。
「で、結婚式はいつ…。」
父親の質問に、今度は三人が口に含んでいたお茶を同時に噴き出した。
「やめてよお父さん。まだそんなこと決めてないわよ。」
そう言いながら、翔子は顔をしかめて達也にティッシュを渡す。噴き出したお茶が自分の鼻に入ってしまったのだ。達也の鼻の穴からお茶が滴り落ちている。
「そうよ、お兄さん。こういうことは、当人どうして、ゆっくり話しをすすめなきゃ…。でも、できれば赤ちゃんができてからの結婚式は避けてほしいけど…。」
ついに我慢の限界だ。達也と哲平が勢いよく立ちあがる。ひとテンポ遅れて次郎も立ちあがった。達也は、あわてて鼻から滴るお茶を口からすすって、誤解を解こうとした。
「ちょっと待ってください。実はですね…。」
翔子が達也の足すねに裏拳を放つ。これには達也もたまらず、呻きながら崩れ落ちた。
「達也は、病院の後継問題で家族関係が複雑でね、今結婚話しを持ち出すどころじゃないのよ…。」
「そうか…金持ちには金持ちの悩みがあるもんだな…。」
父がしたり顔でうなずく。とかく父親は、娘の嘘を簡単に信じてしまうものだ。
「そんなことより、ふたりとも住職さんに挨拶はすんだの?」
娘の指摘に、父親と叔母は慌ててシートから立ちあがり、連れだってお寺へと向かった。
「哲平も次郎ちゃんも立ってないで、座ったらどう。まだお稲荷さんは残ってるわよ。」
「翔子…。」
哲平は座ろうともせず、ぎらつく眼差しで翔子に詰め寄る。
「なによ。」
「お前よくも団長の墓の前でそんなこと言えるな。」
嘘がばれた。さすがに警察官の哲平には見抜かれてしまったのだ。
「ごめんなさい。これには事情が…。」
「いいわけなんか聞きたくない。団長の言葉を忘れたとは言わさないぞ。」
「団長って…誰?」
疑問に思った達也が割り込んでくる。
「兄ちゃんは暴走族のリーダーだったのよ。で、目の前で怒って立っているのがその副団長。その後ろが族の構成員。」
達也は思わず後ずさりする。
「団長がいつも言っていたろう。翔子の彼氏になる男は、このマークが付けられる男じゃなきゃだめだって…。」
哲平が上半身をひねり、ジャンパーの背にあるマークを翔子に示した。次郎もあわてて哲平に追従する。ふたりのジャンパーの背には『交差する雷に梅』のワッペンがあった。なんだ嘘がばれたわけじゃない。翔子はピンの外れたことを言いだした哲平にすこし安心はしたものの、この嘘をどう収拾したらいいかしばらく考えあぐねた。一方達也は、そのマークを見て鮮明に想い出した。
「あ、あの時の白バイ隊員。」
「な、なんだよ…。」
自分の所属を言いあてられて戸惑う哲平。
「お前、誰だ。」
「このまえ、湾岸道路で自分のシルバーのXJRを止めたでしょう。」
「えっ…あ、お前はペケジェー。」
「あら、ふたりとも知り合いなの。」
「とんでもねぇ。ペケジェーならなおのこと、翔子と付き合うなんて言語道断だ。」
哲平はむきになってそう吐き捨てた。
「勘弁してよ、兄ちゃんが何言ったとしても、私には関係ないわ。」
「ちょっと待ってください。そのマークに何か特別な意味があるんですか…。」
達也の問いに、今まで哲平の陰に隠れていた次郎が、遅ればせながら会話に参加してきた。「交差するふたつの雷に梅…。雷、雷、梅。ライ・ライ・バイ。俺たち『暴走集団ララバイ』の神聖なマークだ。」
その答えを聞いて、達也は思わず小さく吹き出した。哲平はそれを見逃さなかった。
「ペケジェー、貴様、笑ったな。」
「副長さんだって自分の免許見て笑ったじゃないですか。」
「なんだとぉーっ!」
「ちょっと、やめてよ。どうしたの、ふたりともむきになって…。」
翔子は達也と哲平の間に割って入った。
「だいたい、なぜ自分は翔子さんと付き合ってはいけないんですか。」
さらに詰め寄る達也に、哲平は薄笑いを浮かべながら答える。
「お前にはこのマークのジャンパーを着る資格が無いからだ。」
「資格ってなんですか。」
「団長が作ったララバイコースを、4分以内で走りぬけられる男こそ、このジャンパーを身につけられる。」
次郎の答えにあわせて、哲平は指を立てて、久しぶりの『夜露死苦』ポーズを取った。
「バカバカしい、あんた達いつまで団の掟にこだわっているのよ。いい加減大人になったら。」
達也は腕をくんで、哲平の前に立ちはばかった。
「自分にそれが出来ないと言うんですか。」
「あんな走りじゃ、まず無理だな。」
「やってみなきゃ分からないじゃないですか。」
「ちょっと達也さん。あなた、なに言いだすの…。」
慌てて達也の腕を取って制止する翔子だが、彼は言うことを聞かなかった。
「自分が出来ないと決めつけないでください。」
「言ったな、ペケジェー。なら、もし4分で走り抜けられなかったら…。」
「潔く身を引いて翔子さんの前から消えますよ。でも、走り抜けられたら…。」
「翔子とペケジェーの交際を祝福するお祝いに、団長から引き継いだこのキャプテンジャンパーを進呈してやる。」
哲平は、自分の着ているジャンパーの左腕を示した。そこには、はっきりとゴールド二本線のキャプテンマークがはいっていた。次郎が着ているジャンパーとは明らかに違う。
「ちょっとあんた達、勝手に私とそんな古着ジャンパーを賭けて勝負を始めないで。」
「そうですよ。副長、ビギナーにあのコースは無茶ですよ。現に何人も怪我人を出しているコースなんですから。」
翔子が達也の腕を押さえ、次郎が哲平の腕を押さえる。しかし達也と次郎は押さえるふたりを引きずって、お互いの顔を近づけ睨みあった。もうすぐ額が触れ合いそうだ。
「おいペケジェー、次郎が言ったことは嘘じゃない。下手すれば命を落とすぞ。今のうちにおとなしく、翔子の前から消えた方が良いんじゃないか。」
「いや、翔子さんは絶対にあきらめません。」
『えっ?』
そんな達也の返答を聞いて、不思議に翔子の顔が火照る。たとえ嘘でも、男にそんなことを言われたのは初めての経験だった。
「でも…その方がおっしゃるように自分はビギナーですから、少し準備の時間をください。」
「おいおい、急に弱気になったな…まあ、いい…どのくらい必要だ。」
「できれば…1年。」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。そんだけ時間があれば結婚式あげて、子どもが産まれちまうじゃねえか。」
「ならば…1カ月。」
「わかった。」
ようやく、ぶつかりそうに近づけていた距離を離した。
「来月の今日、朝7時にララバイコースへ来い。場所は翔子が知っているはずだ。」
哲平が腕組みを解き、ジャンパーの襟を正して翔子向き直った。
「邪魔したな、翔子。先生と叔母ちゃんによろしく言っておいてくれ。おい、いくぞ、次郎。」
肩を怒らせて大股に歩き始めた哲平の後を、次郎は慌てて追った。
ふたりの姿が境内から消えると、翔子は達也の両腕を取り自分に向き直らせる。
「あなたって、こんなに短気な人だったの?」
「いえ、短気って言われたことありません…。」
「じゃ、何でそんなに意地張るのよ!」
「自分も理由がわかりません。それに…。」
「それに、何よ。」
「こんなに言い争ったことも初めてです。しかもあんな怖そうな人を相手に…。」
達也の顔がなぜか笑っていた。
「なんか気持ちがすっきりしました。」
「馬鹿なこと言わないでよ。」
翔子が首を振りながら、ため息をついた。
「ララバイコースを知らないから、そんな悠長なこと言っていられるのね。」
「どんなコースなんですか?」
「あれを4分以内で走るなんて、半端じゃないわよ…とにかく、そんなことしなくていいから。」
「いえ、こうなったら後には引けません。」
「どうして?」
「いえ…まあ…理由はとにかく、男同士の約束ですから。」
翔子は達也がこだわる理由を確かめたかったが、達也は曖昧な言葉でその問いをかわした。
「さっそく明日から特訓を始めます。」
「どうやって?」
達也はじっと翔子を見つめた。達也の目は、病院で初めて会った時と同じ目をしていた。
「ちっ、ちょっと待ってよ、私は教えられないわよ。」
「どうして?」
「どうしてって…人に教えられるような技術なんてない。」
「嘘でしょう。もとはと言えば、翔子さんがお見合い話しをかわすために、自分を巻き込んでこうなったんですから、協力してくれてもいいじゃないですか。」
翔子は口をつぐんで答えようとしない。今度は達也が翔子の両腕を取って迫った。
「お願いです。どうか助けてください。」
達也は必死に頼みながら、背中を丸めて翔子の顔をのぞき込んだ。
「あら…戻ってくるの早かったかしら。」
「おい、おふたりさん。キスはいいけど、叔母ちゃんの言う通り、子どもは結婚式の後だぞ。」
戻ってきた父親と叔母に声をかけられて、慌てふたりは身を離した。
夜が明けきれぬ早朝、赤いメットの翔子は、愛車で達也との待ち合わせ場所に向っていた。そこは波止場に近い倉庫のトラック置き場。仕事が始まる前の朝は、粗くコンクリートが打たれた空地になっている。結局、翔子は達也へバイクを教えることを承諾し、その場所としてそこを選んだのだ。
こんな展開になるとは予想もしていなかったが、もともと自分が播いた種だから仕方が無い。ただ、ひとつだけ気になっている事があった。自分がなぜ彼を巻き込んでしまったのかということだ。偶然だったのか、それとも彼でなければならなかったのか。このことが妙に気になる。
見ると達也はすでに待ち合わせ場所に到着していた。シルバーのメットを小脇に抱え、皮のジャンパーにジーパン。誰に聞いたのか精一杯のライダースタイルに身を固めているのだが、見れば見るほど似合っていない。バイクの傍に立ちながらも、バイクとのフィット感やライダーとしてのオーラが感じられない時点で、もう彼にバイクに対する才能がないことを物語っている。前途多難だな。翔子は気が滅入った。やはり、ララバイコースへのチャレンジを止めた方が良いのかもしれない。
「翔子さん、おはようございます。」
到着した翔子に、達也が元気に挨拶する。達也のバイクをあらためて見るとXJRではない。しかも新車のようだった。
「バイクどうしたの?」
「前のは変な癖があったんで、買い換えました。見てください。BMWF800ST(スポーツツーリング)です。」
ぴかぴかの新車だ。シルバーのボディが朝日に反射して光っている。翔子はため息をつきながら首を振った。
「あんた、本当に坊ちゃんね…。そのバイクのカギ渡しなさい。」
「どうしてですか?」
「いいから、渡しなさい。」
達也はしぶしぶと鍵を翔子に渡した。
「ララバイコースのチャレンジが終わるまで、私がそのバイク乗るから。あんたは、私のバイクに乗りなさい。」
「そ、そんな…。」
「あら、レッスンを始めるルールをもう忘れたの?」
翔子はバイクを教えることを承諾する条件として、達也の絶対的服従を条件にしたのだ。
「わかりました。」
達也は消え入りそうな声で翔子とバイクを交換した。
「それにルールをもうひとつ加えることにしたわ。」
「なんです?」
「あなたは私を師匠と呼ぶこと。」
お互いが会う時の目的と関係性をはっきりとさせる。それが、翔子のモヤモヤを晴れさせる方策でもあった。
「今どきそんな…。まあいいか、何でもいいですから、早く始めましょうよ、師匠。」
「それじゃ、メットを付けなくていいから、バイクに乗って。」
達也が嬉々として翔子のKLEにまたがる。
「スタンド上げて」
達也が左足の裏で、サイドスタンドを蹴り上げる。
「はい、そのまま左にゆっくり倒して。」
達也はバイクを傾けた。
「もっとよ、もっと傾けて。」
「師匠、これ以上傾けたら、バイクの重さに堪えられません。」
「いいから、言う通りにしなさい。」
達也は踏ん張る足を震えさせながらしばしの間堪えたが、ついにバイクは倒れた。力を使い果たした達也は、膝に両手をついて荒い息をする。翔子はそんな彼にはっぱをかけた。
「ほら、バイク立ちあげてもう一度。」
達也は、額に青筋を立ててようやくバイクを立ちあげた。肩で息をする達也に、翔子は矢継ぎ早に指示を出す。
「今度はそのまま、両足をステップの上に載せなさい。私が言うまで足を地面につけちゃだめよ。」
「ええ?倒れますよ。」
「何度も言わせないで。」
達也が両足をステップに載せると、当然のごとくバイクはふらつく。ふらついたすえに、右に大きく傾いたところでようやく翔子から足を外していいとの指示。達也は、両足を地面に踏ん張って何とかこらえたが、そのかいもなくバイクはコンクリートの上に横たわった。ついに、達也も力尽きてへたり込む。もうバイクを立ちあげる気力もなかった。
「はぁ、はぁ、なんで…なんで、走る練習しないんですか。」
「達也は走る以前に、バイクのことがわかっていないのよ。」
「どういうことですか?」
「バイクに乗っている時、倒れたくない、倒れると恥ずかしいと思ってるでしょう。」
バイクに乗る限り、当然ではないのか。達也は翔子の言っている意味が解らなかった。
「バイクは2輪だから、もともと倒れるものなの。走って立っている事の方が不思議な乗りものなのよ。」
翔子が倒れているバイクをひょいと立ちあげた。
「人は倒れることが最悪だと思いがちね。倒れかかった車体を無理やり立て直すことが、より最悪な事態に自分を陥れていることに気付かない。大切なことは、倒れないことじゃない。倒れても立ちあがって、バイクを起こして修理して、そしてまた走り始められる力が残っている事なの。」
翔子は達也に手を差しのばし、彼が立ちあがるのを助けた。
「金持ちの坊ちゃんには解りにくいかもしれないけど、要は、下手に借金を膨らませてうつ病になるより、はやく自己破産して生活再建したほうが良いってことかしら。」
「へっ?」
「倒れず上手く走る自信より、安全に倒れる自信を持つことの方が、ライダーを成長させるものなのよ。だから、倒れることを恐れず、恥じず、倒れ上手になりなさい。どんな状態で何処まで傾けば倒れるのか。その限界をからだで感じるの。バイクを動かすのはそれからよ。」
そう言うと翔子は赤いヘルメットを被り、達也のBMWに乗ってエンジンをスタートさせた。
「今日のレッスンはここまで、あとは自習。」
「えっ、もう終わりですか?師匠。」
すがる弟子にも目もくれず、翔子はクラッチを繋いで走り去ってしまった。
バイクのライディングと借金に何の関係があるんだ…。残された達也は、禅問にも似た師匠の教えをいつまでも反芻していた。
哲平は、バイクの白いボディを指で叩きながら、イラついていた。交差点での違反車監視の職務についている彼ではあるが、翔子のことが頭から離れない。翔子が男と付き合っていた。しかも、あろうことか相手はペケジェーである。
生前、団長と飲んでる席で、もし俺になんかあったら翔子を頼むとまで言われた哲平が、今まで翔子にそれを言いださなかったのは訳がある。団長が言っていた『翔子の彼氏になる男は、翔子を守れる強い男でなければだめだ。』の言葉を忠実に守り、彼は警察官となって、彼女を守れる男として精進することを優先した。一人前の白バイ隊員になったあかつきには、団長から頼まれたことを翔子に告げようと考えていたのだ。それが、いきなり現れた男に翔子をかっさらわれてしまった。百歩譲っても、あいつは、翔子を守れるような男じゃない。あんな男と翔子が付き合うことを許したら、あの世で団長に合わす顔がない。
いきなり、大きなタイヤの摩擦音がしたかと思うと、大胆にも一台のセダンの高級車が右折ラインに並ぶ車を尻目に、直進ラインから急に右折展開した。指定区分通行違反。よりによって機嫌の悪い哲平の目の前で違反するとは不運な車だ。
『このやろう、ナメやがって…。』
哲平はサイドスタンドを蹴りあげ、ミサイルが打ち出されたように飛び出すと、サイレンの音もけたたましくその車を追った。彼はアクセルグリップを絞りながら、できればあの車に、いじめがいのあるチンピラが乗ってたらいいと願った。そうすれば存分に憂さをはらせる。違反車は、サイレンの音にもスピードを緩めることが無かったが、彼のライディングテクニックを持ってすれば、追いつくのはたやすい。難なく違反車の後ろに着くと、左によって制止することを指示した。
「ちょっと乱暴な運転ですね。」
車のパワーウィンドが緩やかに降りると、顔を出してきたのは、紫がかったサングラスをかけた女性だった。チンピラじゃなくてがっかりだ。ブランドで固めた身なりは、どことなく生来の品を感じさせる。どうも水商売と言うよりは、どこかの金持ちの奥様といったところだろうか。哲平が一番苦手とするタイプの人種だ。つんと上げた顎が、高飛車な性格を想わせるが、今哲平を見上げる表情がどことなく焦っていて不自然だ。哲平はこの車に麻薬か何か隠されているのではないかと警戒した。
「さっきの交差点で直進レーンから右折されましたね。免許証を拝見できますか。」
「助けてください…。」
消え入るような声で助けを求める女性に、異常性を感じた哲平は思わず警棒に手を添えた。
「どうしたんです?」
「幼稚園に子どもを迎えに行ったら、急に胸を押さえて苦しがって…。」
警棒から手を外し、見ると助手席にうずくまって呻く男の子が見えた。小さな手で胸を押さえて苦しそうに息をしている。唇が青かった。
「救急車をなぜ呼ばないんですか?」
「帰りの車の中で苦しみ始めたから、もう自分が運んだ方が早いと思って…。」
確かに子どもの様子を見るとその苦しみようと顔の青さが、一分の無駄も許すべきではないことを物語っている。
「…で、どこに運ぶつもりなんです?」
「上田総合病院にこの子の主治医がいて…。」
「病院まで結構ありますよね。そこまで、そんな運転で行くつもりですか。」
「でも…苦しそうなこの子を見ると、少しでも早く連れて行ってあげないと。」
「ここで切符切っても意味なさそうですね。お子さんを寄こしなさい。」
女性は突然の申し入れに躊躇するも、哲平に再度促されて、不安そうに子どもを渡す。哲平は、プロテクターベストを緩めると自分の腹の前に子どもを抱え入れ、ベストのベルトを子どもの背中にまわしてロックした。赤ちゃんをかかえる抱っこひもの要領だ。
「自分がお子さんを病院に連れて行きます。お母さんは病院に電話して受入体制を要請してください。それから、安全運転でゆっくり来るんですよ。」
哲平は子どもを抱えたまま自らの白バイに飛び乗り、サイレンを鳴らして、またミサイルのように飛び出していった。
明らかに職務規定違反である。理由はどうあれ、白バイに傷病の子どもを同乗させて、サイレンを鳴らして疾走するなんて前代未聞だ。始末書と1カ月乗務停止は免れない。しかし、哲平はアクセルを緩めなかった。理屈ではない。彼の直感が子どもを一刻も早く病院へ届けるべきだと告げていたのだ。
サイレンが前方の車たちを左右に履き出して、一本の道を作る。哲平の白バイはその真中を疾走した。交差点では、信号の状況、車の状況、それらを一瞬で見極めて、大きなバイクを左右に傾けてすり抜ける。それは判断ではなく、彼が若い頃無謀な走りで培った反射神経であった。
「迫るー、ショッカー、地獄の軍団。我らをねらう黒い影。世界の平和を守るため~。」
哲平がライディングでゾーンに入ると、必ず無意識に口から出て来る歌だ。子どもは、息の苦しさにもだえながらも、哲平の胸から伝わるこのヒーローの主題歌を聞いていた。
「苦しいか、ボウズ。もうすぐ病院だ。我慢できるよな。幼稚園に帰ったらみんなに自慢しろよ。白バイに乗って走ったなんてボウズだけだからな。」
哲平は、彼の胸の中でこどもが小さくうなずくのを感じた。
サイレンと哲平のライディングテクニックで、驚くほどの短時間で白バイは上田総合病院の救急入口へ着いた。見ると、医師と看護師がストレッチャーを出して待機している。
「ご苦労様です。」
医師が子どもを受け取ろうとすると、子どもは苦しいにもかかわらず哲平のベストを掴んで離そうとしない。
「俺が役にたてるのはここ迄だ。あとは先生に任せないと…。」
しかしこどもはその手を、一向に離そうとしない。哲平は優しくこどもの手を解き、医師に委ねた。こどもはストレッチャーで運ばれながらも、いつまでも白バイにまたがる哲平を見つめていた。
「師匠、師匠、今日は何をやるんですか?」
到着した翔子が、赤いヘルメットを外すのも待てずに、達也はニコニコしながらレッスン開始をせがむ。翔子はそんな達也の顔を呆れて眺めた。翔子を見つめる達也は、まるで子どもそのままの顔だ。子どもの時代に勉強に時間を取り過ぎて遊びが足りなかった分、ここで取り戻そうとしているのだろうか。
「そんな慌てないで…今日はライディングフォームよ。」
「ライディングフォーム?」
「とにかく、センタースタンド立ててバイクに乗ってみなさい。」
達也はバイクにまたがる。
「バイクの動きを感じやすいライディングフォームというのがあるのよ。言い尽くされてはいるとは思うけど、それは『腕の力を抜く』と『ニーグリップ』」
翔子は何処から探してきたのか、棒の切れ端で達也の腕と膝を叩く。
「いっ、痛いですよ。師匠。」
「頭で解ってもしかたないでしょ。からだに伝えないと。」
翔子は棒で達也のヘルメットを軽く小突いた。
「まず、ハンドルを押さえない。極端なことを言うとバイクが動く部分ってハンドル回りしかないのね。フロントタイヤが車体に反応して自然に左右に切れることでハンドルが動く。これを感じるには、ハンドルに手を添えて、ハンドルを押さえないこと。押さえ込むあまり、バイクは曲がりたがっているのに、それを自分自身が邪魔していることって案外多いものなの。」
バイクの車体と達也の腕を叩きながら、翔子はレッスンを続けていく。
「次に、ニーグリップ…やってごらんなさい。」
達也が口を一文字にして、バイクのタンクを挟むように膝を締めた。その力のこめ様は、まるでプロレスリングの胴締めスリーパーホールドだ。それを見て翔子はため息をつく。
「達也は…つくづくバイクに才能ないのねぇ。」
「なんでですか!」
翔子が棒で膝をピシッと音をたてて叩く。痛さのあまり達也は膝を緩めた。
「ヒザでタンクを挟むことが、ニーグリップではないのよ。それは、単に形だけのことで、大事なのは、下半身と一体化したバイクのホールドなのよ。ホールドすることでバイクからのインフォメーションを感じ、その反応を感じてさらにバイクをコントロールしていく…。」
「師匠、禅問はもうやめましょうよ…。」
「とにかく、バイクの動きを体感しましょう。それには低速でのセルフステアがわかりやすいわ。」
翔子はBMWに乗るとエンジンをスタートさせゆっくりと前へ進む。そして、10mくらい進むと極端に速度を落とし、バイクを倒し込むように曲がった。
「いい。だらだら曲がらず、今みたいにパタンと倒れるように曲がるのよ。曲がり方としては、重心を曲がる側に寄せる感じ。大きなアクションは必要ないから。ただ、ハンドルを押さえずに、重心を曲がる側へ。」
達也が翔子についてやってみた。不器用な動きながらも達也は何かを感じたようだ。
「バイクの挙動としては、ハンドルがクット切れるような動きを感じるでしょう。」
達也は翔子の話しも耳に入らないかのように低速でパタンと曲がる練習に没頭した。
「それを感じることができたら、達也。いよいよお互いの動きにシンクロする本当のライディングの始まりよ。」
「おい、哲平。お客さんだぞ。」
倉庫で白バイ磨きとメンテナンスに励む乗務停止中の哲平に、白バイ隊長が声をかけた。油で汚れた顔を上げると、隊長の横に明るい紫を基調とした上品な身なりの女性が立っている。後から聞くとその色はラベンダーというそうなのだが、被った帽子から哲平をのぞく瞳がきらきら輝いていて印象的だった。
「隊に差し入れを頂いたぞ。お前からもお礼をしとけよ。…それでは、失礼します。」
敬礼をした隊長は女性を残して署内に戻っていった。
女性の年齢は無骨な哲平では計り知ることは無理な話だが、強いて予測するとしたらたぶん自分と同じか、もしかしたら年上かもしれない。しかし、なぜあんな貴婦人が俺を訪ねて来るのか?腑に落ちない表情で見つめる哲平に、女性が口を開いた。
「私は清野ミカと申します。」
ミカから発せられた声は透きとおっていて、しかもその声に香りすら感じた。声にもかけられる香水なんてあるのだろうか。
「はじめまして、自分は桐谷哲平です。」
哲平は、姿勢を正して敬礼の挨拶をした。敬礼はしたものの、ミカから馴染みの無い上流階級の女性のオーラを感じて押され気味だ。言葉もなくもじもじと立っていると、ミカが口に細く美しい手をあてて笑い始めた。
「何がおかしいんです。」
少し抗議口調で言うと、ミカは顔に笑みをたっぷり浮かべて哲平に言った。
「ごめんなさい…うちの子どもとおんなじお名前だったのですね。」
いかん…。香りに酔い始めた脳下垂体に鞭打って、哲平は官の口調を取り戻す。
「それが…それがそんなに可笑しいですか。」
「いえ…今日はお礼に伺ったのに失礼しました。改めまして、先日はありがとうございました。」
しばらく記憶をたどった哲平は、乗務停止となった原因の母子を思い出した。
「…ああ、あの時の切符を切り損ねた…。」
「どうします?ここであらためて切符をお切りになりますか?」
ミカの笑顔が眩しかった。
「今となってはもう遅いですよ…。でも、よくここが解りましたね。」
哲平は倉庫のベンチを無造作に進めた。女性は埃にまみれたベンチを見て、座ることをちょっと躊躇したようだが、ハンドバックからハンカチを取り出すとベンチに敷いて腰掛けた。女性に対して、そんなちょっとした気遣いができないところが、哲平に彼女ができない理由の一つでもある。
「苦労しました。叔父が警察関係におりまして、助けてもらいました。あの時の件で、乗務禁止になっているそうですね。」
一介の警察官では調べられない。その叔父が警察でもそれなりの地位の人間であることは、哲平でも容易に想像できた。
「ええ、始末書と乗務禁止。普通は1カ月のところ情状酌量で1週間に短縮になりましたが…。」
「そうですか…本当に申し訳ないことを…」
だらだらと礼を言い続けられても難儀なので、ミカの言葉を遮って哲平は話題を変えた。
「ところで、お子さんの具合はどうですか。」
「テッペイは、生まれた時から心房中隔欠損という持病を持っていまして…。動脈と静脈を分けている心臓の中の壁に穴が開いている病気なんですが、それで時々呼吸困難や強い動悸に襲われることがあるのです。あの時は、お陰さまで対処が早く出来てダメージも少なくすみました」
「その病気は治らないんですか?」
「いえ、血管内カテーテル手術で穴を塞ぐ医療機器をつければよくなるんです。今まで手術に耐えられる年齢まで待っていて、いよいよ手術の時が来たのですが…」
ため息をつくミカを見つめながら、哲平はそのまま彼女の言葉を待った。
「急に手術を嫌がって、言うことを聞かないんです。」
「危険な手術なんですか?」
「それなりのリスクはありますが、心臓にメスを入れるのとは違って、ダメージは少ないんですよ。」
「そうですか…。お父さんは何と…。」
ミカは急に曇った顔をした。
「父親はテッペイが生まれてすぐ離婚いたしまして…。」
「す、すみません。立ち入ったことをお聞きして。」
「いいんです。」
「でも手術は本人が嫌がっても親の了解があればできるでしょう?」
「法的にはそうなのですが、本人が納得せず嫌がっていると、手術もいい結果が出ないそうで…。」
「そうですか…難しいもんですね。で、テッペイ君は今どうしてます?」
「ダメージが回復するまで、病院に入院しています。早く家に帰りたいと言ってすねていますけど…。」
しばらく倉庫の隅に咲く雑草の花を見ていたミカだが、ようやく顔を上げて哲平を見た。
「でも、最近のテッペイったら変なんですよ。」
「変?」
「『迫るー、ショッカー、地獄の軍団。我らをねらう黒い影。世界の平和を守るため~。』なんてヘンテコリンな歌を繰り返して歌うようになって。」
哲平は姿勢を正してミカに言った。
「清野さん、ヘンテコリンな歌だなんて言ったら、悪と戦うヒーローに失礼じゃないですか。」
真顔で返す哲平を、ミカはキョトンとしながら見つめていた。
まだ低い位置の太陽が、港湾の街に長い影を作る。達也はコンクリートに胡坐をかいて翔子の到着をまった。レッスンの朝は、目覚まし時計をセットしなくても起きることができる。もともと朝に弱い達也にしてみれば驚異的なことだった。大チャレンジを前に、緊張していることは確かだが、同じ大チャレンジでもかつて医学部へ受験の準備をしている時とは、だいぶ気持ちの在り方が異なっていた。
バイクが楽しくてしかたがないのだ。バイクそのものに魅了されたのだと考えていたが、果たしてそれだけであろうか。その時は翔子とともにバイクに乗れることが楽しいのだということに気付けなかった。しかし今が楽しけばそれでいい。楽しさの理由を無理に分析する必要性はないのだ。
見ると、翔子が赤いヘルメットを朝日に輝かせながら、こちらへ向かってくる。女性であるということがわかってみると、その相変わらずの雄姿に剛さというよりは、ある種の孤独感を感じる。彼女も普通の女の子として生まれ、育ち、沢山の女の子の友達を持っていたはずだ。それが友達の輪から外れて、今ではバイクを駆って日々を暮らすちょっと異質な女性となっている。兄の影響があったとしても、どういう心の軌跡をたどればそうなるのであろうか。考えてみれば、翔子の家族にはお会いしたとしても、翔子自身ことはまるで知らない自分に気付いた。単なる師匠と弟子の関係ではあるものの、達也は翔子のことをもっと知りたくもなっていた。
到着した翔子は、メットを外さずに達也に言った。
「今日の練習は、タンデムよ。」
「タンデム?」
「メットを付けて、私のバイクに後ろに乗って。」
達也は翔子に言われるがまま、後部シートにまたがった。
「私がライディングするから、意志を持たない荷物になって頂戴。たとえ、ブレーキングで前のめりになってもその荷重を自分で踏ん張らないで私に預けるのよ。そして私の体とひとつになって、ライディングでのからだの動きを感じて欲しいの。そのためには…。」
翔子がいきなり達也の両手を掴み、自分の胴体に巻きつけた。
「私の体に、できるだけ密着して。」
ライダージャケットとはいえ、後ろから抱きつけば翔子の身体の形や柔らかさが、もろに感じられる。女性を抱くと言う経験に乏しい達也は、戸惑ってつい腕を緩めてしまう。
「だめよ、そんなんじゃ。もっときつく腕を締めて、体を密着させて。」
そこまで師匠がおっしゃるなら…。達也は腕を絞り、体を密着させた。朝から女性を抱きしめるなんて刺激的だ。体のどの部分も変化させるなと言っても、まだまだ若い達也には難しい注文だ。生地の厚いデニムパンツを履いてきて助かったと、安堵する達也のヘルメットに、いきなり翔子が自分のヘルメットをぶつけてきた。
「なんか変なこと考えてない。」
「な、な、な、何言ってんですか…。」
達也が慌てて打ち消したものの、少しどもり気味になったことが、その言葉の信ぴょう性を台無しにしていた。
「そう…。」
疑わしい翔子の声。
「…まあいいか。」
翔子はエンジンをスタートしギアを繋いだ。空地内に大きな八の字を描きながら、バイクをロールさせる。
最初は、翔子に意識させられたせいもあって、バイクよりは翔子の体を意識してしまい、達也は巻きつける腕にも力がはいらない。そんな彼に気付いたのか、翔子が自分に巻きつけられた達也の腕を叩く。
「もっとしっかり…目をつぶって…私の身体とひとつになって…。」
達也は目をつぶり、神経を集中した。『目をつぶって…ひとつになって。』そう呟くうちに、ようやく翔子の身体の感触が消えてきた。
そうすると、徐々に翔子の体の動きに反応して、バイクが動いていくのを感じられるようになった。翔子の達也を受入れる気持ちも助けとなって、達也の身体が翔子の身体と同化したのだ。ハンドルを握っているのは確かに彼女だが、バイクをコントロールしているのは一体化した達也であるということを、達也自身が実感するまで、翔子は何度でもロールを繰り返した。はじめはぎこちないロールが、段々とスムーズになってくる。やがて達也は、自然なロールの仕方を覚えて、フロントブレーキの解放のタイミングに合わせてバイクをロールさせることが出来るようになった。
ロールにぎこちなさが消えると、翔子は空き地から出て通常ドライブに切り替えた。翔子が右に体を寄せれば、バイクは翔子についていくように右に曲がる。翔子が体重を後ろに寄せれば、地面にグリップしたタイヤが加速を始め、前に寄せれば、サスが沈んでブレーキがかかる。バイクは翔子の身体にシンクロして生きていた。達也はそれをあたかも自分の身体として実感することが出た。
今まで自分がバイクに乗って感じていたものとは、異次元の感覚だ。運転するのではなく、体の一部としてバイクが動いてくれるのを感じた。いつしか達也は、バイクをコントロールしているのが、翔子なのか自分なのかその区別がつかなくなるほど、翔子との身体の同化を深化させていた。
一方ゾーンに入った翔子は、達也が背中に張り付いていることをとっくに忘れていた。自分の動きとシンクロするバイクに酔いながらも、自分の心臓の鼓動に波長をあわせてくるもうひとつの鼓動があることを不思議な思いで感じていた。それは優しい波動で、包み込むような温かみがある。翔子の心に心地よい風が吹いた。常にひとりでバイクに乗り続けていた翔子には経験のない感覚だ。それは無理やり言葉にするとすれば『ハーモニー(調和)』であろうか。
『気持ちいい。』
『そうですね…本当に気持ちが良い。』
翔子が心の中で言った言葉に、心に直接帰ってきた声があった。それは、達也の声だった。翔子が驚いて振り返ると前髪を風に遊ばれながら達也が立っていた。
『あなた、なんでこんなところに居るの?』
『なんでって…翔子さんが呼んだんじゃないですか。』
『呼んだ覚えはないわよ。』
『またぁ…でも、なんでそんなところにひとりでいるんですか?』
『私の勝手でしょう。』
『いつから?』
『よく憶えてないわ…』
『憶えてないって…。』
『でも…最初に来た時はお母さんが死んだ時のような気がする。』
『えっ、そんな昔から?』
『その時は、お兄ちゃんが来て、連れて帰ってくれたの。』
『ふーん…それならなんでまたここに?』
翔子は返事のしようがなかった。自分でも訳がわからない。
『とにかく、帰りましょう。翔子さん。』
『嫌よ。』
『どうして?そんなところにひとりでいても仕方が無いですよ。』
『放っておいて。お兄ちゃんが来るまで待ってるの。』
翔子の言葉に、達也は驚いたような顔をしてしばらく黙っていた。
『わかりました…それなら、お兄さんが来るまでそばに居させてください。』
『なんで?』
『翔子さんを放っておけないですよ。』
『なんでそんなに私のことを心配するの。』
『なぜって…。』
達也は出かかった言葉が口から出ない。
『なぜって、自分は医者だから…。』
バイクの急ブレーキの音で我に返った達也は、バイクが止まってようやく翔子とタンデムレッスンしていた事を想い出した。ライディング中とは異なり、翔子の胴に巻き付けた両腕から伝わってくるのは、許容ではなく拒否の頑なさだった。ゆっくりと巻き付けた腕を解くと、翔子が振り返りもせず冷たく言った。
「レッスンは終わりよ。降りて…。」
「えっ、こんなところで?」
「いいから降りて。」
翔子の強い口調に押され渋々バイクから降りた達也。翔子は彼を残し何も言わずに走り去ってしまった。
タンデムでの一体感が度を過ぎてしまったのだろうか。達也の魂が翔子のこころの潜在的部分まで到達してしまったようだ。達也はずかずかと翔子の心の中に入り込んでしまった無神経な自分が腹立たしかった。
黒の男は、ある民間の総合医療検査センターに勤めていた。アレルギー検査、遺伝子・染色体検査、薬毒物検査、薬物乱用検査。いわゆる一般臨床検査から特殊検査にいたるまで、広い範囲の医療検査に対応できる大きなラボである。
毎日、窓の無い部屋に閉じ込められ、検査着にフェイスマスクと医療用のゴーグルそしてゴム手袋を装着して、送られてきた生検体に検査薬を振りかけ、顕微鏡をのぞき続ける。先進的なイメージとはかけ離れた気が遠くなるような単純作業の繰り返しの中でも、この男はこの仕事が気に入っていた。作業中は誰とも話さなくて済むし、特にこの無菌という自然界ではありえない職場空間が気に入っていたのだ。いつからかわからないが、彼の感性の中では無菌であることが当然化していて、それが有菌である自然空間への嫌悪を産んでいた。
したがって、彼の自宅もほぼ無菌状態であることは言うまでもない。最近の彼は、仕事を終えて自宅に戻ると、この密封化した室内のラボで、殺人兵器の完成にむけて最後の実験を繰り返していた。
静寂であるにも関わらず、男がはなつ邪悪なエネルギーは部屋中に充満し、顔が火照りながらも背筋が寒くなると言う不思議な空気で満ちている。しばらくすると、その邪気に押しつぶされたように、机の上にあるビニール袋が破れて中のミネラルウオーターがこぼれ出た。その時彼のストップウオッチは2時間を示していた。
「もう少しだ…。」
地域暴力団の排除を狙った彼の試みは成功したが、ここまで騒ぎが大きくなると、もう不審な配送物は開封してもらえない。今後さらに駆除を進めるとしたら、封を開けずともある一定の時間になると、二成分化されたソマンが合成され垂れ流れる工夫が必要だ。彼が考えた方法は、ビニールを浸食するウィルスをビニール袋に付着させる。その付着させる量で、袋が破れる時間を調節するという方法だった。しかし、彼が満足する時間に調節するには、まだまだ実験を重ねる必要があるようだ。
男はピンセットで破れたビニールを汚物入れに投げ入れると、使っていたピンセットを壁に貼ってある新聞の切り抜き記事に突き立てた。
『遺族の訴え退けられる。医療事故に病院の責任なし。病院側全面勝訴。』
「無力な庶民を泣かせる奴は、即刻排除だよな。」
男は次のターゲットが決まって嬉しそうだった。
「そこの赤いヘルメットのバイク便ライダーさん。左に寄せて停車しなさい。」
白バイの指示で翔子は仕方なくバイクを止めた。
「違反はしていないはずですけど。」
メットをはずしながら強い口調で抗議する翔子に、グローブを取って近づいてきたのは乗務停止が解けたばかりの哲平だった。
「翔子、会社のバイクか。ホンダのCB400か…。あいかわらず地味だなぁ。」
「哲平…あたしなんか違反した?」
「別に…その後ペケジェーはどうかなと思ってさ…。」
「知らないわよ。あんな人…。」
実は、あのタンデム以来、翔子は達也に連絡を取っていない。あの時翔子の身体との一体化を許したのはいいが、何か自分の知られたくないものを知られてしまったような気がして、気が臆していた。
「そうか、ペケジェーも翔子に見捨てられたとなると、いよいよララバイコースでお陀仏だな。」
「もうコースチャレンジなんて辞めない。」
「俺はいつでもやめて良いんだぜ。あいつが翔子の前から消えると言うなら…。」
翔子は呆れたように哲平を眺めた。
「哲平は達也さんに恨みでもあるの?」
「別に…ただ、団長の言葉を大切にしたいだけだ。」
「またその話し…。」
「ペケジェーが好きなのか?」
翔子は答えようがない。
「そんなこと哲平に言う必要はないでしょう。」
「そうか…しかし、ペケジェーはお前にべた惚れだぞ。」
翔子は哲平の意外な言葉に、思わずヘルメットを落としそうになった。
「な、なんでそんなことわかるの?」
「男はな、惚れた女の前では、たわいもないことに意地を張るもんだ。」
そうだ。なんで達也は、大怪我をしかねないコースチャレンジにこだわるのだろうか。翔子にもその理由がはっきりと解らないでいたのだが…。
「そんなわけないでしょう…。」
「俺にはわかる。」
居心地の悪くなった翔子は黙ってメットを被り、バイクにまたがった。しかし哲平はそのハンドルを押さえる。
「いずれにしろ、翔子が付き合う男の条件として団長がそう言ったのは事実だろ。団長の言葉は尊重してもらうぞ。」
「兄ちゃんの言葉に、なんで私たちが振り回されなきゃならないの?」
「団長の言葉は絶対だ。」
「あ、そう。それなら他に言い残したことはないの?」
強い口調の翔子に哲平も強い口調で応酬する。
「昔、団長と飲んだ時な、団長にもしものことがあったら…。」
哲平のメットにあるトランシーバーから緊急応援出動の要請が入った。哲平が思わずハンドルを離し、イヤホンからの指示内容を注意深く聞いているうちに、翔子はエンジンをスタートさせて走り去ってしまった。
『俺も翔子の前では精一杯意地を張ってるんだがなぁ…。』
哲平はそう呟きながら、応援出動のために白バイにまたがった。
仕事を終えた翔子が家に戻ると、台所からいい匂いがする。見ると忙しく叔母が立ち働いていた。
「叔母ちゃん、来てたんだ。」
「ええ、肉じゃがをたくさん作りすぎちゃったから、少し食べてもらおうと思って…。」
翔子は叔母が嘘をついていることがわかっていた。わざわざ父と自分のために余分に作ってくれたのだ。心に負担を掛けないようにとちょっとした気遣いが出来る叔母だからこそ、翔子は頭が上がらない。
「翔子ちゃん、お腹空いたでしょ。ついでにご飯炊いておいたから、夕ご飯にする?相変わらず兄さんは飲み屋だろうし」
「ありがとう、叔母ちゃん。」
手と顔を洗って戻ると、温かいご飯と肉じゃがが、食卓で湯気を立てて翔子を待っていてくれた。叔母は両肘をついて頬に手を当て、箸を動かす翔子を眺めていたが、ついに我慢が出来なくなったように口を開いた。
「その後、達也さんとはどうなの?」
「どうって?」
「会っているのかってことよ。」
「前の週はよく会っていたけど、最近は会ってないわ。」
「喧嘩でもしたの?」
「別に…。」
「実は達也さんから電話があってね…。」
「えっ、なんで叔母ちゃんの電話知ってるの?」
「あたし…達也さんの病院に通院してるでしょ。」
「あいつ…。」
「ねえ、達也さんからの電話にも出ないって…本当?」
翔子は答えずに肉じゃがを頬張っていた。
「達也さんが浮気でもしたの?それで怒ってるの?」
「そんなんじゃないわ。」
「電話の様子じゃ、達也さんだいぶ困っているみたいで、土下座でも何でもしそうな勢いだったわよ。」
「やめてよ、叔母ちゃん…。」
話しが段々こんがらがっていく。もともと達也を恋人などと嘘をついた自分のせいだ。そして嘘に巻き込んだ達也に悪いことをしたとはわかっているのだが、自分の心に意味不明な気持ちを運んできた達也になぜか苛立っている。彼に会いたくない。もう叔母に嘘をつき続けるのも限界かも知れない。
「一度話しを聞いてあげなさいよ。」
「実はね、叔母ちゃん…。」
翔子が箸を置いて叔母に、本当のことを告げようとした時、ドアチャイムの音がした。叔母が慌ててドアフォンに走る。
「どなたですか?」
「上田達也です。翔子さんいらっしゃいますでしょうか?」
叔母が翔子に振りかえって愛想笑いをした。
「ごめんね、私が呼んじゃった…。」
ダイニングテーブルに、肉じゃがを挟んで座る翔子と達也。叔母はそそくさと自分の家に戻ってしまった。しばらく黙ったままのふたりだったが、沈黙に耐えかねた達也が口を開いた。
「おいしそうな、肉じゃがだなぁ。」
翔子は黙ったまま、台所から小皿と箸を持ってくると、肉じゃがを盛って達也の前に置いた。そのまま、黙って肉じゃがをつつくふたり。倦怠期にはいった夫婦の食卓ってこんな感じなんだろうか。達也は何となく思った。いや待て、ふたりは夫婦でもなんでもないんだから、やることやらなきゃ。達也は思いなおして箸を置く。
「翔子さん、なんで電話に出てくれないんです。レッスンしてくれる約束でしょう。」
「もう嫌になっちゃった…。」
「なんてことを…自分を見捨てる気ですか。」
「コースチャレンジなんか辞めればいいじゃない。」
「そう言うわけにはいきません。」
「どうせ私たち偽の恋人でしょ。意味無いじゃん。」
「もうそんなこと関係ありません。前にも言いましたが、これは副長との約束であり、自分の意地ですから。」
『男はな、惚れた女の前では、たわいもないことに意地を張るもんだ。』
翔子の頭を哲平の言葉がよぎった。
「チャレンジしてどうなるの?成功したら私と付き合う気?」
翔子の問いに、達也は天井を仰いだ。翔子はそんな彼を見つめなぜか緊張していた。どんな返事を期待しているのか自分でも解らなかった。
「自分は…優秀な兄貴を持つだめな次男坊です。贔屓とは思いませんが、父は兄貴に優しく、自分には厳しかった。訳もわからず自分は兄貴の後を必死で追いました。今考えるとそれは、追いたかったのではなく、追わなければいけないと父から言われたからのような気がします。気付いたら医者になっていましたけど、今になって思うんです。自分は本当に医者になりたかったのかって…。」
達也の口から出てきたのは翔子の問いに対する答えではない。翔子は拍子抜けしたものの、意外な話しの展開にじっと耳を傾けた。
「何でもそうなんです。今までしてきたことは自分で本当にしたかったのか。自分でやるって決めたことなのか。いつも悩んでました。そんな朝、自分はブルースの頭を超えていく翔子さんのバイクを見ました。物凄くカッコ良かったでした。ああ、あんな風にバイクに乗りたい。その時初めて、自分でやりたいと思えるものを見つけたんです。」
達也は食卓にあるお茶を一口飲んだ。
「自分は決して翔子さんの真似をしているのではないですよ。本当にやりたいことを考える機会を、翔子さんが与えてくれているのだと思っています。だから、このチャレンジも自分が本当にやってみたいことなんです。どうかその機会を奪わないでください。」
翔子は達也の話す瞳を見ながら、彼は本当に純粋なんだと感じた。少し頼りなくはあるが、その瞳には少年の輝きがある。達也は自分をさらけ出すことを恐れず、偽りの無い姿で翔子に接していたのだ。自分は何を恐れていたのだろう。自分も無心で彼に接すればいいのだ。達也の話しを聞くうちに、なにか心のモヤが晴れていく気がした。
「ところで、達也が本当にやりたい事をしているのを、その怖いお父さんは知ってるの?」
達也の声が急に小さくなった。
「知りません。知ったら許すわけありません。」
「いろいろ言う割には、結局意気地なしの坊ちゃんなのね。」
「そんな…。」
「明後日の土曜にツーリングするから1日開けとくのよ。」
「えっ、ホントですか?」
心の晴れた翔子は自らの笑顔を隠し、立ちあがって喜ぶ達也にわざと無愛想な表情で箸を差し出した。
「ほら、肉じゃが残ってるわよ。残さないで食べなさい。」
師匠の威厳は保たなければならない。
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
バイクで出会った翔子と達也。弾丸翔子と異名を持つ彼女にバイクビギナーの達也が教えを請う。バイクを通したふたりの心のふれあいが、心の同化に深化していく中、毒ガスを使ったテロが発生。ふたりの命が危険にさらされる。真の勇気とはいったい何なのか…。恐れを退け、お互いの命を守りあうふたりは、本当に自分たちが求めている道先を見い出していく。女性には厳しいかもしれないけど、読んでいるうちにバイクが乗りたくなる恋愛小説です。