「時間は残酷だ」
そういった時の彼の表情が忘れられない。
荀彧。
清流派士大夫の代表格にして、曹操政権の重鎮。
二十年に渡り曹操を支えつづけてきた、右腕的存在。
もし彼がいなくば、曹操はとうの昔に滅んでいただろうとは知識陣の間では当然として受けとめられている。
しかも彼を慕う士大夫は多い。
逆に彼を疎んじるものがいるのも事実だ。
自分はどちらだ、問われたことがある。
「さて、自分の身の振りにしか興味がありませんので」
軽くはぐらかしたと思われたらしい。
だが実際そうだ。
自分には無関係である。
彼もまた自分とは関わりの無い、あたりさわりない地位を与えてきた。
ある人に言わせれば、自分の才能を買い殺しにしているという。
だが自分から見れば、恐ろしいほどの采配ぶりだ。
太子の教育を預かるということは、その実非常に難しい仕事である。
おもねるのは簡単だ。
自分の操り人形にするのも。
けれど、そんなことのために太子と自分を近づけたのではない。
太子の友人の一人は彼の娘婿だ。
そのことだけでも充分察して余りある。
監視しつつも仕事をさせる。
適材適所の難しさをさらりとやってのける彼が、今の今までどうして曹操の傍にあれたのかよくわかる。
人材を好む曹操。
その人材を最大限活かす荀彧。
この両輪があって、始めて人材は有効に使われるのだ。
そんな彼が、今その地位を失おうとしていた。
曹操との圧礫は宮廷の誰もが知るところとなり、実際曹操は彼を疎んじていた。
野望を阻む壁として彼を捉えたのである。
今まで曹操政権を支えつづけてきた彼が、曹操のわがままともとれる人事を聞いて何を思うのか。
軍の慰労と称して、節を携え戦場に来いといわれた彼の心境が知りたかった。
普段、これほど好奇心を刺激されることはめったに無い。
関わるとろくなことにならないことを身に染みて知っているからだ。
他人のことに必要以上に介入することは身の破滅を招く。
だが、その理性を押しのけるほどの存在を目の前にして、自分は今まで封じ込めてきた好奇心を抑えることはできなかった。
偶然を装い(だが彼は偶然でないことに気付いていただろう)、彼に接触を測った。
すると彼は、すんなりと自分との席をもうけてくれた。
自分は彼に嫌われていた、という自覚はある。
彼だけではない。
曹操政権に古くから関わる重鎮たちからも煙たがられていることも気付いていた。
だから、こうして二人きりで話すのはそれこそ今までほとんど無かったことだった。
無論自分はどうという感情は抱いていない。
嫌われて結構。仕事に支障がなければ、それ以上は望まない。
それでも、きっと彼は自分の好奇心を刺激してやまない存在であったことは確かだ。
彼の執務室に招かれ、彼は席を進める。
目の前には白湯。
彼の素朴な一面を覗いた気がした。
「あなたは面白い人物ですね」
目の前に腰をおろし、荀彧は真っ先にそう切りだしてきた。
「あなたに善悪はない。正否もない。あるのは成功か失敗か。ただそれだけではありませんか?」
的確な言葉だと思う。
そう、自分の行動理念はそこにある。
だから無駄が嫌いだ。
無駄を絶対に無駄にしない努力はしてきた。
「ええ、そうです。しかしそれは重要ではありませんか?」
「問題はその先に見据えているものです。一度聞いてみたかった。貴方は、成功の先に何を夢見るのですか?」
尋ねられて困った。
さて、なんだろう?
安定した政権か。
天下統一か。
いや、どちらでもない。
「成功を積み重ねることにしか意味を見出しませぬ」
すんなりと、正直な答えがでてきた。
すると彼は意外にもわかっていたかのように一つ肯いた。
「そう、そうだろうと思っていました。それが、あなたを信用しなかった一番の理由です」
「信用ですって? あなたが信用するのはご自分だけでは?」
「手きびしいな……」
そこで彼はくすりと笑う。
この年にして女官たちが彼に心寄せる理由がわかった気がした。
実際整った顔立ち。
そして全くイヤミの無い表情。
穏やかな空気を纏い、けれど決して一定以上は立ち入れない。
「信頼して仕事を任せるのが私が今まで心がけてきたことです。それは貴方にも当てはまる。だが私は夢見ない人材だけは信用できない。その夢がたとえ自分と相反するものだったとしても、夢持つもののほうが理解しやすいし、何より扱いやすい。そういう意味では貴方はまるで私の手のひらに乗らなかった。全くもって扱いづらかったですよ」
「そうでしたか。夢見れる男をうらやましく思いますよ」
「それは半分本音で、半分は呆れているのでしょう?」
「……あなた相手に嘘はつけませんね。ええ、そうです。夢など現在を生きるための糧の一つにすぎない。いくらでも別のものにすり変わる」
椀を手にとり、一口白湯をすすった。
熱すぎず、けれど冷えていない。
不思議にあまい味がした。
すると彼は、
「時間は残酷だ……」
ポツリと呟いた。
ふと彼を見やれば、揺れる灯りに照らしだされた彼の顔。
不思議な顔をしていた。
諦めにも見える。
されど、諦めていない希望に満ちた顔にも見えた。
「残酷とおっしゃる。その理由は?」
「簡単です。時間は平等ではない」
「面白いことをおっしゃるものです。さて、私には時間こそが誰しもに平等に振りかかるものだと思っております」
「私も昔はそう思っていました。しかしそれは違う。それは、時間という物に対して理解が足らないものの言うことでしょう」
「こう申すのもなんですが、私は貴方よりも長い時間を生きています。それでも理解が足らぬとおおせられる貴方の考えが知りたい」
「時間は……」
彼はそこで一度言葉を切った。
どう言ったものか、悩んでいるのだろうか。
一度椀の白湯を飲み、ゆっくりと息を吐きだした。
彼が何を言うのか、まるで想像が付かない。
だからこそ興味が湧く。
自分の想像を超えることを言って欲しいという心境でさえある。
すると。
「時間は、敵にもなり得るし、味方にもなり得る」
「………」
なんて、ありきたりで、つまらない答えだろう。
拍子抜けした。
そんな感情が顔にでたのだろうか。
「そうつまらない顔をしないで欲しいものですね。私とてどう伝えたものか困ったのだから。私は時間を味方にすることができなかった。最終的に、時間に敗北したということです」
「違う。あなたは時代というものに敗北したのです。時代は人によって作られる。となれば、あなたは人々に負けたということです」
とっさに反論していた。
彼は時代に逆行していると、自分でさえ思う。
漢王朝などもはやがらくたでしかない。
今の曹操にとって、更に求心力となるものが必要とされるなら、その漢王朝を滅ぼすことこそ必須ではないか。
時代の変遷において、これほど穏やかに移行する術は他にはない。
徐々に漢の求心力を衰えさせ、入れ替わりで曹操が台頭する。
それの何をもって彼は反対するのか、自分には理解できない。
「それが、今の宮廷のほとんどの意見なのでしょうね。夢のない男たちのつまらない未来図だことで」
「面白いことをおっしゃる。曹公が王となり、この天下の覇者となることを夢見ることがつまらない未来図だとするならば、いったいなにをもって素晴らしい未来だとおっしゃるつもりか」
「戦争も混乱もない太平な世。それが、素晴らしい未来だと確信しています」
「なっ!?」
混乱することばかり口にする。
一度深呼吸をし、頭を整理してから反論を試みた。
「つまり、曹公が王となることが混乱を、戦争を招くと、太平の世に反すると仰せか! 馬鹿な!」
「馬鹿は貴方ですよ、そんなこともわからないとは。誰も彼もが主公に酔いすぎている。主公とて万能ではない」
「そんなことは当たり前だ。それを補うために我らがいるのだから」
「そうですか? 本当に解っているのです? どうして主公が王となって増長しないと考えられるんです? 主公には蓋が必要なんです、いざというときのためのブレーキとなりうるものが」
「……?」
「それが漢王朝であり、強大な敵です。私はその天秤が傾くことを恐れている。強大な敵と漢王朝の両方が同時に消滅するならば私も文句はいわない。しかし片方だけというのが問題なんです。両方の天秤がつりあいを取っているからこそ、主公はまっとうであれる。私はこの二十年でそれを嫌というほど思い知ってきた。強大な敵を倒せば倒すほど主公はバランスを失っていく。私は、主公がご自身で滅ぶことを恐れているのです」
そのとき、外から風が舞いこみ灯りを揺らした。
揺れる影のせいか、彼の顔が恐ろしいほどゆがんでみえた。
ぞっとするような笑み。
底知れぬ彼の懐の深さをかい間見た気がした。
それはすぐに灯りの揺らぎとともに消え去ったが。
「貴方も分かっているでしょう。劉備も孫権も、雑魚ではない。しかし主公を滅ぼすに値しない程度でしかないことを。主公を滅ぼせるのは、もはや漢王朝のみです」
「それは……」
「その緊張を失えば、主公が暴走しかねない。かつての外戚しかり、かつての宦官しかり、かつての……帝しかりです。自分を滅ぼすものがいるということが、どれほど理性を保つに役立つか、わからぬ貴方ではないでしょう? 傍で見てきたのでしょう?」
「!!」
そこでようやく理解した。
彼が何を危惧しているかを。
彼は……。
かつての長安を恐れているのだ。
董卓を、王インを、呂布を、そして……。
「漢が滅ぶのは当然の理。長い腐敗はもはや滅ぼすより他ない。しかし、敵が健在なまま太平の世を築くには、大変な忍耐を必要とするのです。その緩慢な緊張に耐えることなど誰にもできはしない。……私にだって無理です」
「荀令君」
「だがもはやどうにもならない。時間は残酷だ。主公にそれを許しはしない」
「年齢の焦り、ですか?」
「そうです。そしてそれは私も同じこと。残念なことに、身体が許さない」
「……」
苦笑する彼を改めて見やる。
彼は疲れた顔をしていた。
影のせいだろうか、酷く痩せたように見える。
「たぶん、私は今度の戦へと赴けば、二度とこの許の地を踏むことは叶わないでしょう」
「病ですか?」
「……」
自分の問いに、彼は複雑な、悲しそうな笑顔を浮かべた。
それだけで充分だった。
「どうして……」
「時間が残酷だと気付いたのは、奉孝の死を目の当たりにしたときです。彼には時間がなかった。与えられるべき男に時間は待ってはくれなかった。そして私もやりのこしたことが山とあります。だがもはやどうしようもない」
「主公はそれを?」
「さて、どうかな? 知っているかもしれません。知らないかもしれません。どのみち関わりのないことですけれど」
彼の諦めにも似た言動に、突然腹が立ってしかたなくなった。
思わず身を乗りだしつめよる。
「どうして、どうしてそこまで分かっていて何も言わないんです?! 何故、主公とて耳はおもちだ!」
「無駄です。あなたとて言ったではありませんか。主公にも時間は残されていない。もはやいつ倒れてもおかしくはない。そして微妙な安定は心のバランスを崩すに充分な理由となる。そして時間は、人を変えるに充分な理由にもなり得るのですよ」
「荀令君は、」
「だから、夢を持たぬ男は信用に値しないのです」
もはや言葉を失った。
彼に言うべき言葉は、何もない。
彼は全てを理解したうえで、今、この世を捨てようとしているのだ。
長年、曹操の傍らにあって、彼の変遷を、変貌を見てきたからこその倦怠。
諦め。
『時間は残酷だ』
その言葉を今ようやく理解した。
「何故、もっと早く私たちは話しあわなかったのか」
「今だからこそ話せることもあります。それに私は次代に期待をしてさえもいるのですから」
「それを預けると?」
「そなたなら巻きこまれずに次代を育てられる。常に傍観であれるから」
彼はそこまで見ぬいて次代を預けたのだ。
何と言う思慮遠謀か。
同じ時代を生きる男のなかには、こんな、こんな男もいたのだ。
かなわない。
正直な感想。
今日、好奇心を刺激されたことはおそらく彼のこんな一面を知るためだったのかもしれない。
長い間、同じ陣営にありながら接触することさえ恐れてきた彼の、こんな純粋な一面は、誰もが驚くだろう。
そして……。
誰もが憧れてやまない。
もしかしたら……曹操その人でさえ。
「貴方の期待にどこまで応えられるかわかりません」
「一度くらい戦乱のない世を見たかったものだが、いたし方ないでしょう。その時代は子供に、孫に委ね、死後の世界で聞き知るとしましょう。さあ、もう話すことは無い。違いますか?」
「……ええ」
「では仕事に戻ってください」
「はい」
彼の促すままにゆっくりと立ちあがる。
立礼をし、そのまま去ろうとして、
「一つだけお尋ねしたい」
「答えられることであれば」
「私に夢がないという。その考える理由は?」
「簡単です」
彼は一度キョトンとしてから、すぐに苦笑しつつあっさりと答えた。
「他人に夢を委ねている男に、自分の夢などない」
充分だった。
満足な答えを貰ったと思う。
そう、自分は他人の夢をかなえるために力を貸すことに人生を見出していた。
だから。
何も言わず、もう一度深々と頭をさげ、そのまま部屋を出た。
外に出れば、月は中天を飾り、その周囲をまぶしいほど星々が輝いている。
そして今。
その中の一つの星が消えようとしている。
それが。
残念でならなかった。
(おしまい)
【あとがき】
曹操は夢がなかったんじゃありません。
けれど時間とともに夢が変わってしまったのだと思います。
年齢の焦りによって夢の形がゆがんでしまった。
荀彧はそう捉えたという話。
あくまで荀彧本人の考えであって、実際曹操がどうだったかというのとは別の話なのです。
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曹操に疎まれた荀彧の心境に興味を持った賈クは接触を試みる。