「こっちこっち。気付かれなかったか?」
「うん。大丈夫だと思う。母さんは出かけてるし、姉さんも気付いてないよ」
小声で話す声が耳に入ってきて振り向くと、少年が二人、すぐそばの家の敷地から鉄柵を乗り越えて出てくるところだった。
ひとりは身軽にひらりと飛び降りたが、背が低いほうの少年は足場になりそうな部分を探りつつ慎重に下りてきた。だいぶ低い位置にきてようやく飛び降りる。危なっかしい足取りで着地すると、駆け出そうとしていた友人に急かされて後を追うように走り出した。
ここは世界でも有数の学術都市であり、なかでも研究者や教員などが多く住む区画である。必然的に親の教育方針も学業優先になるのか、賢く大人しい子どもが多いイメージがあった。そのため、いまのような柵を乗り越えて駆けていくなどという、いかにもやんちゃな子どもの姿はむしろこのあたりでは珍しいことのように思えた。
たしかここから少し行って角を曲がると広場があったはずだ。
まだ日の高いこの時間なら露店が並んでいるだろうし、路上パフォーマンスなども行われているかもしれない。
子どもの好奇心を満たすにはちょうどいい。
私も彼らが向かったであろう先に、同じく立ち寄ることにした。
陽気なバンドネオンの音色にあわせて、道化の人形がカクカクと滑稽な動きで踊っている。観ていた幾人かの見物客が口元に手を当ててくすくすと笑った。どこか控えめな感情表現は、とくに上品ぶっているわけでもないのだろうが、何か自分たちの立場やこの町に住んでいるという事に矜持でもあって、理想の人間を無理して演じているかのように映る。
そんな大人たちの中において、さっきの少年たちは興味津々といった様子で人形の真ん前に陣取っていた。その目で見たものや肌で触れたものは、本で得た知識や人づてに聞いた話よりも、彼らの心にたしかに残るはずだ。この広い世界に飛び出そうと思っても出来ない人もいる。ぜひ彼らにはそんな人たちの分までいろいろな経験を積んでほしい。
そんことを考えつつ彼らの背中と、糸で繰られ、まるで生きているかのように軽快に動き回る人形をカメラにおさめた。
この写真も、否応なく籠のなかの鳥となった人の、せめてもの慰めになればと思う。
はじめは遠巻きに眺めていたのだが、しばらくして少年らの横に立った。
ひょろりと背の高い青年が吊り手を器用に動かし、あるいは糸を指でひっかけて人形の微妙な動きを表現する。こうして観ていると、大人でもなかなか楽しめるものだ。
脇で演奏する女性も、人形に命を吹き込む青年と、まさに人のように動く人形の両方を交互に見ながら、呼吸を合わせてバンドネオンのボタンを押している。曲の抑揚や緩急に従って糸を繰る青年も間をぴったりと合わせるので、見ていてなにか心地よい。
少年らも夢中で熱い視線を送っていた。
と、人形が一歩、二歩と前に歩み出した。相変わらず人形遣いは曲に合わせて小刻みに首を振りながらリズムを取りつつ、吊り手や指でうまく人形を操っている。そして、人形は背が低い方の少年の前まで来ると、その木で出来た硬く小さな右手をそっと差し出した。
少年ははじめ、どうしていいかわからず戸惑っているようだった。上目づかいに見上げると、人形遣いの青年が優しく微笑む。その笑みに後押しされるように、腰をかがめてそっと人形の小さな手を握った。
友達が「いいなー」とポロリと洩らす。
小さな道化と握手を交わした少年は、はにかんだように青年に笑って返した。
人形はもう一人の少年のほうにも手を差し出す。羨んでいただけあってこちらはもう嬉しさがその顔にまで溢れていた。勢いよく握ろうとしたが途中で思い直し、ゆっくりとやさしく人形の手を人差し指と親指でつかむ。二、三回軽く上下に振って慎重に放した。
こういうちょっとした体験さえ、いつかは思い出になるものだ。
青年も子どもたちに喜んでもらうのが何より好きなようで、満足げな表情で元いた場所まで人形を歩かせていった。
不意に鋭い声が響いたのはそのときだった。
「ちょっと、こんなところで何してるの!?」
「あっ……」
小さいほうの男の子が振り向くなり身を竦ませてうつむいた。
友達もその声の主が誰か認めると、すぐばつが悪そうに目を落とした。
「母さん……僕……」
「家でお勉強してるはずでしょう!?」
少年の母親であるというその女性は、つかつかと息子のそばまで寄ってくると、手を引っ張って強引に連れて行こうとする。
「おばさん、そいつをここまで連れてきたのはオレなんだ。だから、怒らないでやってよ」
友人が慌てて取り繕うと女性は鋭い視線を向けた。今にも怒鳴りつけてきそうな形相に少年が怯む。彼女は喚き散らしたいのを飲み込むようにくっと咽を鳴らして歩き出した。
「さっさと来なさい!」
忌々しいものでも見るごとく少年に一瞥をくれると、引きずるようにして息子を連れて行く。少年にはまだ大人の力に抗うだけの腕力もないのだろう。困ったような悔しいような、複雑な表情を残して行ってしまった。
その間も人形劇は淡々と続いていた。
一人残された少年は、さっきまでの愉快さなどどこへやら、人形に目をくれることもなくひとりしょんぼりと立ち尽くしていた。
劇はクライマックスに差し掛かったようで、陽気な曲に合わせて道化の人形と子どもの人形が一緒に踊り狂う。何か、見えない壁を一枚隔てたところで行われている現実感のない光景に、今となっては空々しささえ感じた。
ゆっくりと最後の音が響くなか、人形と人形遣いが丁重にお辞儀をする。
まばらな観客たちがパチパチと乾いた拍手をして、木箱に投げ銭を放り入れていく。そうした大人たちに、にこやかな表情で何度も頭を下げる青年は、しかし、私の目には人形よろしく道化のように映っていた。
顔に笑顔を貼り付けているが、さっきまで子どもたちに向けていた本当の笑みとは違う。あれは意図的に作られたものだ。
観衆は去り、少年と私だけが残された。
青年は少年のもとまで歩み寄ると、視線の高さを合わせるようにかがみこんだ。
それまで虚ろな目で動かなくなった人形を見ていた少年が、はっとして青年を凝視した。
「彼は……」
おもむろに青年が話しかけた。思いのほか低い声が耳へと届く。
「君の友達はなぜ連れて行かれたんだい?」
「オレがあいつの勉強中に外に連れ出したから。あいつのとこ、父さんが偉い学者なんだ。だからあいつの母さんからすれば、あいつも同じように勉強をしていい学校を出て、人の上に立つような先生になってほしいんだよ」
「なるほど。……つまり彼はそこにある操り人形と同じなんだね」
後方で、壁にもたれてくたりと尻をついている人形を見やりながらさらに続ける。
「親の操る糸に絡め取られて、理想どおりの人間になることを強要され、自分で好きに動くこともままならない、と」
どこか冷たく言い放つ青年の口元には嘲笑さえ浮かんでいた。比喩は少し難解かもしれないが、感情の機微を鋭く察知する子どもには、ちょっと衝撃が強いのではないか。現に少年の顔は引きつり、涙を浮かべていた。
このままではまずいだろうと私が口を挟みかけたところで、一転青年の様子が変わった。
かき消すように嘲笑はなくなり、逆に少年を慈しむような優しい顔つきになった。穏やかな横顔にどこか悲哀を帯びているように見えたのは私だけだろうか。
「けれどもね、君の友達はこめられた期待と同じだけ、親から愛されてもいるんだよ。操り人形の糸は自由を制約するようでいて、実は命をつなぐために必要な物でもあるんだ。糸の切れた人形が動けなくなるように、彼だって親から見捨てられたら生きていけない。将来立派になってほしいと願うのも道理さ。社会に認められた方が生活は安泰だからね」
少年にはまだ難しいかもしれない。しかし、青年は気にせず続ける。
「もし君の友達が糸に絡まって身動きが取れなくなったときには、さっきボクの人形に握手したように、君が彼の手を取ってあげるといい。当然、その家にはその家の事情があるから、ちゃんと話し合って、外出するなら時間を決めてね。真摯に話せばたまの息抜きくらいは許してくれるはずさ」
人形遣いは少年の頭をくしゃくしゃと撫でると、今日のところは帰るように促した。
少年も、彼なりに青年の言ったことを理解したらしく、頭を下げて走り去った。
「ボクはこれが生業なんで蔑まれることには慣れてますが、子どもにあの目を向けるのはいただけませんからね。話し合って少しでもわだかまりが取り除かれるなら、そのほうがあの子のためにもいいでしょう」
振り返りながらおどけたように言う。
私は感心していた。やはり、彼こそが真の道化だ。人形のガラス球の瞳を通して、世間の善いところも悪いところも見てきたからこそ、やさしくも厳しくもなれるのだろう。
あるいは道化の人形の魂が、今の彼を道化のように仕立てたのかもわからないが。
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2013年4月3日作。偽らざる物語。