彼女は、俺の事をはたして一体どう思っているのか。
好いていてくれている、と勝手に思っているのだが、時々不安になってしまう。
それもそのはず、顔を合わせる度に、「馬鹿なの? 死ぬの?」 といった調子で罵声を浴びせられたのでは、流石に嫌われているのではないかと思わずにはいられない。
最初に会った時よりかは、随分とマシになったとはいえ、堪えるものは堪えるのである。
心身共に疲れている時というのは、どうにも人恋しくなるのである。
連日連夜、三日三晩に渡った政務の疲れも祟って、今思えば、あの日は魔が差したのだと、言い訳をしておきたかった。
許される嘘と、許されない嘘があるというのは、重々に承知していたつもりではあったが、頭がまわらない時もあるのである。
四月一日。
世間一般では、エイプリルフールと呼ばれ、午前中の間は嘘をついても良いとされる日である。
これ幸いと、彼女の真意を確かめるべく、一人奸計を巡らせたのは、我ながら酷く浅ましく、女々しくて卑劣この上ないと言わざるを得なかった。
思い返すだけで反吐が出そうである。
間違いなく、あの日の自分は最低であった。
こんこんと扉を叩く。
どうぞー、と彼女にしては珍しく間延びをした返事が返ってきた。
ドアを開け、「やっ!」と小粋に挨拶をしてみれば、部屋の主は出来得る限りに好意的に解釈をした所で、とてもとても突然の来訪を喜んでいるようには見えなかった。
「何しにきたのよ?」
不機嫌そうな顔を隠しもせず、桂花は言った。
暖かくなったからか、トレードマークである猫耳を姿を消し、亜麻色の髪がさらさらと風に流れている。
「ちょっと、ね。」
「アンタが暇でも、私は暇じゃないの。用が無いならさっさと出てきなさいよ。」
「いや、まるっきり用が無いってわけでもないんだ。」
「じゃあ、何よ。……まさか、アンタ真昼間からヘンな事考えてるんじゃないでしょうね? アンタの頭って、本当にそれしか無いの?
同じ桃色でも少し、ほんの少ーーーしだけだとしても、役に立つだけ春蘭の方がまだマシだわ。
この変態ッ! 嫌ァァァァァァ! 犯されるゥゥゥゥゥゥ!」
「いやいやいやっ! ちょっと待てって!」
慌てて桂花に駆け寄り、その口を塞ぐ。
むー、だとか、うーだとか声にならない叫びが漏れ出る。腕をぶんぶんと振り回し、彼女はこれでもかと言うほどに抵抗を見せた。
その内、数発が見事に顎や鼻へと命中し、俺の目はちかちかと瞬く真昼の星を捉えることとなった。
そうした数分間の攻防の後、残ったものは、息を荒らげぐったりとした両者の姿と、不毛な時間を過ごしたことへの後悔だけである。
「で、アンタの用って、何なのよ。」
浅い呼吸を繰り返しながら、彼女は問うた。
「ああ、そのことなんだが……。」
果たして、本当にいいのだろうかと迷いが生じる。
彼女の真意を確かめるため、なんて目的はこの上なく矮小ものに他ならないのでは無いだろうか。
「はっきりしないわね。そんなんじゃ、本当に救えないわよ。」
彼女にとっては、何一つ変わらぬ、いつも通りの口の悪さであったろう。
しかし、すっかりと参っている時には、優しい言葉の一つや二つ掛けて欲しい、なんて思ってしまうのも人の業なのかも知れぬ。
いつもと同じ言葉を投げかけられた所で、どうにも耐えられず、思わず口をついて言葉が出てしまう。
後は、勢いのままに、ごろごろと何処までも続く坂道を、転がり落ちていくだけであった。
「挨拶に来た、って所かな。」
訝しげに彼女は言う。
「挨拶ってなによ。」
「帰ろうと思うんだ。」
「答えになってないじゃない。帰りたければさっさと帰りなさいよ。アンタ、おかしいんじゃないの?」
いまいち言っていることが分からないわ、と桂花は呆れ果てた風情で言い捨てる。
「帰るっていうのは、向こうにだよ。」
僅かの間、彼女は呆気に取られた様な顔をしていたが、その言葉の意味するものを理解したのか、その表情は検を増していった。
痛い程の沈黙の後、桂花はゆっくりと口を開く。
「アンタ、それ本気で言っているの?」
鋭く射抜く眼光にたじろぐ。
何も言わずにいる俺に、彼女は溜息を一つ零す。
そして、思いのよらぬ言葉を口にした。
「いいじゃない。帰れば?」
「え?」
「アンタにも事情の一つや二つ、あるんでしょ? もう充分じゃない。後は好きに暮らせばいいわ。」
凡そ、罵詈雑言の嵐に見舞われるだろうと、踏んでいた。
それだけに、彼女の言葉は胸を酷く抉る。
罪悪感で一杯だ、などと陳腐な言い回しをしたいわけでもないが、最早それ例外に自身の心情を言い表すものはなく。
「それと、帰るならさっさとどっかに行きなさい。アンタが消える所なんか、好き好んで見たくないわ。」
――ああ、もう駄目だ。
俺は一体何をしているのか。
自身の情けなさに、女々しさに、そして卑劣さに泣けてくる。
嘘をついてまで、他人の心を覗き見るなど、人として越えて良いラインではない。
ましてや、自分のついた嘘が、どういう意味を持つのかを知らぬとは、口が避けたとしても言えるわけがない。
「済みません。さっきのは嘘です!」
両手と頭を地に擦り付けて許しを請う。
謝罪の念は、ここに至ると態度で示す他になかった。
「は、はぁ? ちょ、ちょっと、それってどういう意味よッ?」
「帰りません。ずっとここに居ます。いえ、居させて下さい。」
「つまりアンタは私が、
アンタみたいな馬鹿で変態で下半身に脳味噌があって人として最下層にいる人間と言ってもいいのか悩ましい生き物のことを
どう思っているのかが知りたいが為にこんな下らなくて何の足しにもならない正に不毛と言っていい時間を過ごさせたって言うの?」
「……はい。その通りでございます。返す言葉もありません。」
「そもそも何よ、エイプリルフールって。何でそんなに建設的でもない風習があるのよ。天の国って、アンタみたいな馬鹿ばっかなんじゃないの?」
「一応、嘘ついていいのは午前中だけなんだよ。」
そんなこと聞いてないわよッ!
と、彼女は顔を茹でた蛸よりも真っ赤にして叫んだ。
「済みません。要らない口を挟みました。」
ふぅふぅと、彼女は鼻息を荒くしながら、分かればいいのよ、と頷く。
「はぁ……。何だかどっと疲れた。今日のことは聞かなかったことにしてあげるわ。さっさと行きなさい。」
しっしっ、と桂花は手で追い払うような仕草をする。
そして視線を手元の竹簡へと向けると、もうこちらへと戻すことはなかった。
自室へと戻ると、溜息が留まる勢いもないままに、次から次へと零れ落ちていく。
こういう時は眠るのが一番だと、よろよろと体を引きずりながら寝台へと向かう。
彼女には、明日もう一度謝ろうと布団の中に潜り込む。
何てことはない。悪戯が見つかった子供のように、問題を先送りにしただけであった。
どれほどの時が経ったろうか。
寝苦しさを覚えて目を覚ました。
既に日は落ちたのか、室内は夜の帳に覆われている。
腹が減ったなと、寝ぼけ眼を擦ろうとするのだが、何故か体が動かない。
それで先程の寝苦しさに思い当たった。金縛りか。
道理で先程から胸の辺りが重いわけである。
「……起きたの?」
そんな、小さな声を聞いたのは、放おって置けば解けるだろうと、再び瞼を閉じようとした時であった。
「誰だ?」
頭だけを起こし、胸部へと目を向けると、何やら人影らしきものが蠢いていた。
暗がりの中、短く揃えられた髪が揺れる。
ふわりと、甘い匂いが広がった。
この香りは――
「桂花?」
呟いた言葉に、影はぴくりと震えた。
よくわかったわね、と平坦な調子で彼女は答えた。
「何してんの? こんな時間に。」
「朝、アンタ言ってたでしょ。今日は嘘をついて良い日だって。」
「そりゃ、言ったけど。」
「アンタに嘘つかれたままだと、何だか癪じゃない。だから私もつきに来たのよ。」
「それはまた、物好きなもんだ。」
ふん、と彼女は鼻を鳴らした。
「なぁ、桂花。」
「何よ。」
「今日は、悪かった。」
「何のことよ。」
「だから、帰るって、言ったこと。」
「聞かなかったことにするって、いったわ。」
「それでも、済まない。」
「そんなの、知らない。私は、嘘をつきに来ただけ。」
ありがとう、と思わず笑みが零れる。
何笑ってるのよ、と彼女は頰の辺りを強く抓った。
「それで、どんな嘘をつきにきたんだ?」
彼女は黙りこむ。
暗がりの中、その表情を窺い知ることは叶わない。
桂花が口を開くことを静かに待つことにした。
「今日は、嘘をついていい日。間違いないのね?」
「ああ。」
「アンタのこと、嫌いじゃないわ。勿論、好きでも無いけど。」
「それが嘘?」
「ええ。」
「もうちょっと、好意的でもいいじゃないか……。嘘なんだから。」
「これが精一杯よ。」
「手厳しいなァ。」
再び沈黙が訪れる。
暗い室内には、互いの吐息以外の音は存在せず、世界でただ二人きりだと、ロマンティックなセリフを吐きたくなる程に静寂の中に包まれていた。
不意に、思い浮かぶことがあった。
そういえば、と口を開く。
何よ、と桂花は答える。
「嘘をついて良いのは、午前中だけだって、俺、言わなかったっけ?」
――そんなの、知ってるわよ。
至っていつもと変わらぬ調子で、彼女はそう言った。
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一日遅れですが桂花編です。
ちなみに、前回の華琳編とはパラレルワールドです。世界線の向こう側です。
読んで頂ければ分かるとは思うのですが、華琳様と話した後にこんな嘘をついたら一刀君はド外道過ぎると思うのです。
というわけで今回は、「こんな嘘一刀は言わねーよ」、といった話かも知れないので、その辺りだけご了承して頂ければなと思います。