僕がこうして曲がりなりにも文章を書きだすきっかけは何だったろうか?
記憶は時間の経過とともに錆付き、勘違いや美化といった不純物を混入させる。
だからあまり信頼できないが、年が離れた友人の言葉がきっかけだと思う。
「君はいつも世界が今にでも終わりそうだという顔をしている。恋でもして少しでも喜びを知るといい。そうすればこの世界が少しは好きになれる。」
僕は頬杖をしながら友人の言葉を聞き流していたと思う。
今も昔も変わらないのだが、僕は個人や個性というものに一切興味を持てない。
逆に、認識の信頼性や理性や善性の実在といった人間一般の性質には興味がある。
勿論、上のモノに関しては懐疑的ではあるが、心のどこかであったらいいなと希望を持っていな いわけじゃない。
実行したことがないのだから、友人のアドバイスが果たして有効か否かは現在も分からない。
自分が誰かを愛せるとはとても思えないし、もし出来たとしても歪な恋になってしまう。
兆が一の確率を追いかけて、シミュレーションをしてみることにした。
現実からもっともかけ離れた妄想の世界に浸かる程の快楽を僕は知らないから。
誰かを好きになる代わりに僕は自分が好きになれそうな人を思い描いてみることにした。
それが物語を書くきっかけだと思う。
生身の人間を相手にしようと四苦八苦しなかった僕はやはり極度の人間嫌いなんだね。
結果は惨憺たるものだった。
恋は盲目とは良く言ったもので恋愛とは主観がものを言うらしい。
どんなに眉目秀麗でも嫌いは嫌い。
ハエの死体みたいに醜くても好きは好きらしい。
論理は関係ないらしい。
しかし、人物を作ることは主観の対極に位置する。
つまり、人物を客観視することなのである。
人物を見過ぎるあまりに却って好きになれない。
それは、恋人の鼻毛で恋が冷めてしまう心境に似ているかもしれない。
子供がカップルに「どうしてキスする時に目をつぶるの?」と尋ねた。
その際に女性は「顔を見ない為よ」と答えた。
この冗談は恋をよく捉えていると思う。
話を変えよう。
登場人物はほぼ例外なく自殺するのは、僕が彼らを嫌いだからかというと全く違う。
世の中には絶望している人がいる。
その証拠に毎年、東京マラソンに参加する人数と同じだけの自殺者がいる。
何かを作るという行為の本質は「弔い」にあると思う。
こんな惨劇を絶対に二度と起こさない。
あの悲劇を忘れない。
この「弔い」が核だからこそ同じ主題は繰り返される。
ギリシア悲劇が今も上演されるのは、芸術の根幹が「弔い」だという証左でしょう。
僕は1人でも多くの人々に絶望した人間が誰にも顧みられなくあっけなく命を落とす惨状を見て 欲しい。
これが現実だと人の心に古傷になるくらいの深い深い傷を刻みこみたい。
世の中がおかしい。変えなきゃと人に感じさせるために「弔い」を続けている。
異常を仕方ないと片づけてしまう僕らの醜さを弾劾したいのだ。
話の中で辛い、苦しいと言わせても人が絶望しているようには見えない。
だから、殺す。
躊躇なくコロス。
世界の重みに潰れて自ずから命を投げ出す人を何度も登場させる。
これで世界が少しでも良くなればいいと願わずにはいられないのは、
僕がロマンチストだからだろうか?
ある劇作家は、作家、狂人、恋をする者は想像力の塊だと言っていた気がする。
僕の想像力は、それぞれがどのくらいの割合を占めているのだろう。
恋をすれば僕でも少しは良いものが書けるのだろうか?
親愛なるMさん、今日は貴女の命日ですね。
貴女に渡すはずだった指輪はもう錆びてしまいました。
今日こそはせめて貴女の墓前に。
臆病な僕をどうか許して下さい。
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自伝的なという修飾句が付くものは、自分嫌いな僕は自然には書かないので実験として書いてみました。