「よかったら、どうだい?」
コンビニのバイトが終わり、アパートへ帰ろうとするボクの肩を
叩いて、六条さんはボクに缶ビールを差し出した。
今のボクにはどんな言葉も慰めにはならない。こんな小さな
気遣いが、かえって心にしみる。
恋人が山で遭難し、既に6日。悪天候のため捜索は中断している。
絶望的な心にかける言葉などありはしないのだ。
もうテレビでも、ネットでも彼女の捜索に関する情報は伝わってこなく
なっていた。
(「いってきまーす!」)
電車のガラス越しに手を振った彼女の笑顔は、まだ克明にボクの胸に
あるというのに。
でも、もうそれは二度と見ることは出来ないのだろう。
その思いが一日に何度も、波状的にボクの心臓をわしづかみにする。
ボクはすっかり心が疲弊していた。
コンビニの脇で缶をあけ、しばらくの間、ボクと六条さんは交互に缶を傾ける。
沈黙が気まずくて、ぼくは口を開いた。
「ところで六条さん、急にここ辞めてしまうんですか?」
「ええ、どうやら昼間の生活に戻る勇気が出来てきたのでね」
ひげに付いた泡を拭きながら六条さんは言った。
「昼間の生活?」
六条さんは、ぼさぼさの頭をぽりぽりかきながら、恥ずかしそうに笑った。
「まあ、いろいろあってね、昼間の生活が出来ない体だったんですよ」
「まさかバンパイアだとか言うんじゃないでしょうね」と、冗談めかして言ってみた。
確かに六条さんは体型が細く、ひげをそって髪を整えれば、それっぽくなりそうな
人ではある。
「うーん。まあそれに近いかなあ」
六条さんは星を見上げた。
ボクが言葉に詰まっていると、六条さんは続けた。
「ところで宮本君は『魔法のチョーク』というお話知ってる?」
「ええ、知っていますよ。描いたものが本物になるって言う。」
「そうそう、でも日の光を浴びると元のチョークに戻ってしまう」
「ずいぶん昔に小説で読みましたけど…」
「実は、私、それ持ってるんです」
えっ?
ボクは一瞬驚いたが、すぐに冗談でしょうと否定した。
「実はね…」
六条さんは真剣な面持ちで話し出した。
「ここしばらくの宮本君の様子を見ていて、こういうときのために、
私の手に来たのじゃないかと思うようになったんですよ。」
そう言いながら、彼はポケットからチョークというにはあまりにもきれいな
琥珀色の細長い結晶を取り出した。
「見ていてください」
六条さんはかがみこむと、結晶をアスファルトの上に走らせ始める。
出来上がると、それは小さな蛾だった。
六条さんは立ち上がる。
と、アスファルトの絵の周りがキラキラ輝きだし、小さな蛾がひらひらと
舞い始めたのだ。
ボクは夢のような光景に唖然としていた。
蛾は僕らの周りを飛び回る。
そして、それを現実として認識したとき、ボクの中に強烈な願望が膨らんでいた。
「六条さん!」
ボクが何を言い出すか察していたのだろう。六条さんはうなずいて、公園のほうへ
歩き出した。
ボクらが公園に向かった後、蛾は防虫灯に吸い込まれ、ジジジと青い炎を上げた。
つづく
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青年の恋人が山で遭難して6日。捜索は打ち切られ事態は絶望的。
そんな時、描いたものが本物になる「魔法のチョーク」に彼が
願ったことは… ちょっぴり切ないラブストーリー