最速の伝え人
翠色の草の海を、赤茶けた土の原を、群青に透ける海と空とを駆けて行く。
どこまでも、どこまでも、世界の淵の、その真理を追い求めるかのように走る。
どこへでも、どこへでも、追い風を受けて、決して止まることはなく。
駆けながら翔けて、見知らぬ空気をいっぱいに吸い込んで前に進んだ。
泳がなければ生きてはいられない魚のように。
ただただ、自分のしたいこと、するべきことのために。
一章 黒。森の中。流れる血
鬱蒼とした密林の中を、二つの影が見え隠れしながら進んでいる。
一人は身長百四十にも満たない小柄な少女。もう一人は人並みかそれ以上に長躯だが、必要最低限の筋肉を付けただけのスマートな青年だ。
現在、この密林の至る所には兵隊が配置されており、罠も無数に仕掛けられている。と言うのも、この場所を挟んで二つの勢力が対峙しており、もう一週間、硬直状態が続いている。一色触発の状況下で、遂に少女達が所属する方の軍が動きを見せた。斥候を放ち、相手方の最前線の布陣を確認。木々に紛れて強襲をかけ、一気に主力部隊を倒し、残る分隊の士気を削ぐ。それでも尚戦うと言うならばそれも殺し尽くし、降伏するならばそれで良い。
単純だが、成功さえすれば大きく戦局は変わる。この密林での戦いは各地で起こっている小競り合いの一つに過ぎないが、敵を大敗させることが出来れば、その勢いに乗って国そのものを滅ぼすことも視野に入って来る。
年若い斥候兵の二人の両肩には、数万もの命があるも同然だった。
「なあ、相棒。あんたはどれぐらいこの軍にいるんだ?」
「静かに。敵に気取られる」
先の見えない林に、驚くほど緊張感に乏しい青年兵の声。やや高めのそれは確かによく通り、敵兵が近くにいればすぐに位置がばれてしまう。
「なに、どうせこの辺に敵はいないさ。地雷やブービートラップは知らないけどな」
「三年」
「は?」
「だから、私は三年ここで斥候をしている」
「あ、ああ、そうか」
発声するために息を吐く、その行為さえも煩わしそうに、少女兵は小さな声で最小限の言葉のみを口にする。平常時であれば口数が多いであろう青年斥候とは正反対な気質であると言えるだろう。
「しかし、三年か。あんた、まだ十代だろ?青春をぜーんぶこんな軍隊に捨てたのか?」
「青春」
「そう、あんたは器量も良いし、しっかりしてる。町に繰り出したら、男なんていくらでも寄って来るだろ?で、誰を選ぶかなんてあんたの好み次第だ。三十人フッても、泉みたいに男は湧いて来るぜ」
少女は答えない。ただ前方を確認し、周囲の生物の気配を探り、足元にあるかもしれない罠に目を凝らす。行く手を遮る枝や蔦は可能な限り迂回して避け、どうしても邪魔な物はナイフで取り除いた。
「私は、他に生き方なんて選べなかった」
「……辛いなら、無理に話さないとは言わないさ。悪かったな。お詫びと言っちゃナンだが、俺の話もするよ」
「しろとは言ってない」
「こんな陰気なトコにずーっといて、いい加減気が狂いそうなんだ。ちょっと話して発散させてくれよ」
斥候という役目を担っているにしては、不釣合いなほどに長い白髪の少女は、妙に馴れ馴れしい態度の青年に眉をひそめる。
「俺はまだぴっかぴかの一年目。男所帯だと思っていた軍隊に、あんたみたいな可愛い娘さんがいて驚いたぜ。しかも――そういうための女じゃない」
「………………」
「気を悪くしたか?」
「気にしてない」
「いや、本当、申し訳ない。男友達にしかしちゃいけない話って、ちょっと考えればわかるよな」
「他の男の人は、もっと直接的に言って来る。……実際に、されそうになったこともあった」
「……悪い」
前だけを見つめる少女の表情は、青年にわからない。それに、見えたところでそれは相変わらずの無表情なのだろう。実際、声音には動揺が一切感じられなかった。
逆にその作業化したような反応が、彼女が今まで隊で味わって来た屈辱を言葉よりも鮮やかに、凄惨に語っていた。
「しかし、斥候なんて初めてするけど、いつもこうなのか?」
「こうって」
「鎧も付けずにさ。たとえば、あそこの木に狙撃兵が隠れてたら、俺もあんたも仲良く天使の身分だ。こんなうっすい服だけなんて、死にに行ってるようなもんじゃないか」
「鎧を身に付けたら、音でばれる。機動力も削がれるし、斥候の代わりはいくらでもいる。放った斥候が帰らなければ、また放てば良い」
「……装備もおかしいだろ?なんで武装もしないで敵の前線の偵察に行かされるんだよ」
「ナイフがある」
「刃渡り十センチのナイフで何が出来る?敵は銃でも爆弾でもなんでもござれだぜ」
「大きな武器は偵察の邪魔になる。それに、被弾しながらでも肉迫すれば、最悪でも刺し違えられる」
「あんた、自分の命が惜しくないのか?」
しばらく、返事はなかった。
一度会話は途切れてしまったが、足音を殺して二人は前進を続ける。
「逆に聞く。あなたは命が惜しい?」
「当たり前だよ、そんなもん」
「じゃあ、どうして軍に?」
「強制徴兵だよ。お偉方が決めたんだ。各町村から若者を規定の人数、兵隊として出さなければならない。で、厳正なるくじ引きの結果、俺が文字通りに貧乏くじ引かされたって訳だ。俺、昔からくじ運ってないんだよな」
「それなら無理もないか……」
「俺の質問に答えてもらって良いか?」
「私は、この軍に生かされた。だからこの軍のために死ぬ。それだけ」
「事情があるんだな?」
無言。すなわち、肯定。
青年兵は早くも、この可憐な相棒の悲劇的過去のあらましを、予想することが出来ていた。
そしてそれは、大きくは外れていないのだろう。今は、どんな悲劇だって起こる時代だ。
「もう一つ良いか?」
「後十歩も行くと、危険な所に出る。手短に」
「あんたはこの戦争、どう思う?」
「どうも思わない。私は駒の一つ。生かされようと殺されようと、何も思わない」
「……あんたは、下僕の鏡だよ」
「………………」
兵隊の鏡、と言うことに青年は抵抗があった。だからこそ、あえて皮肉をこめた言葉を使った。
少女の持つ死生観はあまりにも諦観しきったもので、自我はなく、そこにいるのが一体の人形のようにすら思えた。いや、その予想は間違ってはいないのかもしれない、と青年は考える。
骸骨に薄く肉を張り付け、可愛らしい顔に整えた物、それが彼女だと言われても疑えないぐらい、彼女は可憐で美麗だった。
「静かに」
少女は首にマフラーを巻き直し、その一部分で口を隠した。息遣いさえも聞かれないように、という配慮だろうか。それにしては、密林の中を行くというのに長いマフラーをするのは疑問だ。だが、マフラーはまるで実体を持っていないかのように木々の間をすり抜け、少女兵は一切の音を立てることがなかった。
青年は青年で奮闘するが、どうも足手まといになっている感が否めない。
やがて、木の向こうに兵隊の群れが見えた。間違いない、ここが敵の最前線。整然と配置された兵の数は、自軍と同程度だ。
まず、騎馬隊の突撃を食い止めるための槍兵。その後ろに無数の銃兵。更に後ろには銃を装備した騎馬兵、つまり竜騎兵が配置されており、軍団の最後尾は伺えなかった。
『かなり多いな。これを強襲で落とせるか?』
『それは上が決める。このまますぐに戻る。気を抜かないで』
一歩ずつ、敵に気取られないように後ずさりし、十二分に離れたところで振り返り、足早に引き返す。急ぎはするが、尚も足元の警戒は緩める訳にはいかない。斥候は足を失う訳にいかない。
「あんたは、どうして斥候に?」
気を抜ける所にまで戻って来て、再び青年は少女への質問を始めた。
「足が速かったし、小柄なのは発見されにくくて良い。……それから、女は色々と都合が良い、と」
「……そっ、か。どうして軍隊って、こうも最悪なんだろうな」
「軍は皆で遊ぶための集まりじゃないから」
「どうだろうな。落とされた村の器量の良い娘は、皆消えて、後から汚い死体だけが発見されるって言うぜ」
「あなたは、軍隊に向いていない」
「あんたは、軍隊に向き過ぎていて怖いよ」
皮肉に返される言葉はなく、少女はまた淡々と歩き出す。
「そのマフラー、お気に入りなのか?」
腰まである長い白髪のポニーテールと共に、真っ黒なマフラーは少女のトレードマークと呼べた。
どちらも斥候の役目を果たす上では邪魔になりそうなものだが、青年はとりあえず今日まで、彼女がマフラーを外しているのを見たことがない。
「別に。温かいし、ナイフを取り落としたとしても、これを強く引けば死ねる」
「……自分自身の口封じのためかよ」
「生きながら穢されるのも嫌。死体になってからなら、私の意識はないから」
「あんた、いちいち言うことが可哀想過ぎるよ。どうして二十歳にもなる前から、そんな風に全てを諦められるんだよ……」
怒りは哀れな少女斥候ではなく、彼女を生かしたという軍に向いていた。大方、侵略した先の村の娘だったのだ。
そして、その器量の良さから「使用」しようと思ったが、まだ幼過ぎて使い物にならない。ならば、地雷撤去の捨て石にしようとでも考えたが、そこで彼女の足の速さがわかった。では斥候だ、と兵隊の一員にされ、今日に至るのだろう。結局のところ、彼女は未だに捨て駒でしかない。死んだところで誰も悲しまない。あるいは、悔しがるかもしれないが。
「どうせなら自軍の陣地で死ねば使えたのに」
と、痰を吐きながら。
「なぁ、あんた、名前は?俺はエリクって言うんだ」
「リーディエ」
「そうか、奇麗な名前だな。愛称は何かあるのか?」
「ない」
「じゃあ、そのままでいっか。リーディエ、改めてよろしくな」
「どうして、こんなところで名前を聞く」
「いや、とりあえず一仕事終えただろ?……最初に名前を聞いて、あんただけが死んだりしたら、嫌じゃないか」
今回は生き永らえたが、明日はわからない。それでも、今日この時の作戦の成功を祝い、青年エリクは手を差し出した。
リーディエはその手を見て、何をすれば良いのかわからず、なんとなく青年の顔を見返す。
「握手だよ。それぐらい知ってるだろ?」
はっとしたように目を見開き、あくまで静かに少女の手も伸ばされた。真っ白な手と、それより二周りも三周りも大きな手が不器用に握手を交わして、エリクは目を細め、リーディエは不思議そうにその顔をまだ見ていた。
極限状態には違わないが、こんな時に結ばれる友情こそ、真に強固なものとなるのかもしれない。異性を恋愛、あるいは性愛の対象としか見たことのなかった軟派な青年は、そんな風にモノローグを締め括った。
そこに、静寂を打ち破る轟音が響く。方向は敵軍の布陣位置とは間逆。つまり、自軍の本隊のある方角だった。
「敵襲か!?」
「慌てて出ないで。私達二人が行ったところで、どうにもならない。それよりも冷静に状況を分析する」
「くそっ、まさか自分の軍を偵察することになるなんてな」
二十歩行った所から、自軍の様子はよくわかった。辺りの林は焼かれ、本隊もまた火に包まれていた。そこで激戦が行われてはいるが、味方の敗色は濃厚。だがよく訓練された兵達は、降伏など選ぶはずもなかった。そして、焼き討ちの強襲に出た相手が、地に膝を突いた相手を許すとも思えなかった。
「敵は、相手の正規軍じゃない。傭兵軍か、別勢力」
「いつの間にかに、挟撃に遭ってたのか……」
「後方に斥候を出す話もあった。けど、その意見は握り潰されていた」
「ちっ、無能な隊長だ」
「味方を罵る暇があるなら、ここを脱出する。別の部隊に、この隊の壊滅を伝えないと」
「直近の部隊は――確か、川向こうに布陣していたっけか。すごい距離だろ?」
「でも、行かないと味方が全滅する」
「……本当、味方想いの兵隊さんだよ」
リーディエは素早く三年間所属していた部隊に見切りを付けると、来た道をまた引き返し、ほぼ中間の地点を選んで九十度方向転換。密林を横断するルートを選んだ。
この中間地点には、敵味方両方の仕掛けた罠が多い。しかし、それだけ敵の追跡も困難だと言える。茨の道を進む価値がある、ということだ。
「はっ、はっ……あんた、よく息が続くな」
「あなたの体力がない」
「そりゃあまあ、あんたと比べたらな……」
「不用意に踏み出さないで。たとえばそこの土、どれだけ自然に盛ろうとしていても、辺りとは葉や枝の落ち具合が違う」
「地雷が埋められてる、ってことか」
リーディエの言葉を受けて青年兵士は注意深く辺りの地面を観察してみる。すると、上手い下手に違いはあるが、どこもかしこも地雷が埋められているのがわかった。ここを歩いて突破するのは難しいだろう。
「木に登って行く。でも、よく注意して。枝や蔦に糸が張られていることがある。ある程度以上の振動を受けると」
「矢か何かが飛んで来る、と。なんで緊急脱出用の道を用意しないかね」
「こういった罠は使いきりだから、一人でもかかれば次からは安全になる」
「なぁ、いい加減に吐き気がして来たんだけどな」
「吐くなら穴を掘ってから。臭いで発見される」
「もののたとえだよ。ま、あながち嘘でもないんだが、恐ろしいところだぜ……」
緊張状態の中、二人は木々の上を行軍する。実際に無数のワイヤー・トラップが仕掛けられており、それ等は鳴子や矢を発射する装置に繋がっている。一度でもひっかかれば、命はないものと考えて相違ないだろう。
つい最近までただの町人だったエリクにそれ等を上手に避けたり、解除したりといった技術はないが、リーディエは魚から小骨を抜き取るのに似ているほど日常的な動作で全てを解除。矢尻に毒が塗られていると思われる物を一つ、念のために回収してから更に森の出口を探して進んだ。
「そんなの、どうするんだ?もう自殺用の武器は十分だろ?」
「森を出た先にも敵がいることが予測される。これを使えば私達の位置を偽装し、注意を逸らすことが期待出来る」
「遠くから罠を起動させて、自分達はずらかるのか。本当、よく頭が回るな」
「戦場で生き抜くための必要最低限の知識」
「それを、自分の命をこれ以上がないほど粗末にしようとしてる奴が活用するんだな」
「………………」
返事はやはりない。そして、言ってみてからエリクは酷い自己嫌悪に襲われた。
少女の凄惨な死生観、それを形成させた軍隊、どちらも軽蔑していたが、ここまでリーディエ自身に嫌みを言って辛く当たることはなかった。彼女は顔色一つ変えないが、それは痛みを受け過ぎて、痛覚が鈍化してしまったからだ。
その上から更に打撃を与えても痛みはないかもしれないが、怪我を負わないという訳ではない。
「ごめん、あんたを悪く言うつもりはなかったんだ」
「気にしてない。それがきっと、正常な感覚だから」
「なぁ、もうここにあんたを監視する軍人はいないんだ。今ぐらい、そういう悲しいことを言うのはなしにしてくれないか?普通の女の子らしく、が難しいなら、せめて俺の話を聞いて、素直に感想を言っていて欲しい。つまらないなら、つまらないって言ってくれても良いからさ。それがあんたの、素直な感想なら」
「………………」
返事は、なかった。肯定と判断し、言葉を続けるしかない。
「俺はさ、半年前まで町で、石工をしてたんだ。石の大工な。なんか面白いだろ?石工が今となっては斥候をして、更にそっから敗残兵になったなんて。石工って言うと、地味な仕事だと思われるだろうけど、これが案外楽しかったんだ。それに、これは単純に趣味なんだけど、彫刻もやってみたりしてな。ああ、石像なんて大それた物は作れないけど、ちょっとした彫り物のデザインとかは、俺がしたりしたんだ」
「黙って」
「うっ、何でも言えとは言ったけど、黙れってのは結構クるものがあるな……」
「違う。敵兵がいる」
「な、本当か!?」
「静かにっ。一人や二人じゃない。見つかったらどうしようも出来ない」
「す、すまん」
敗残兵狩りだろうか?こちらも正規軍ではなく、どこかみすぼらしい装備は傭兵か、あるいはただの山賊くずれにも見える。それぞれが剣やボウガンといった武器を持ち、やはりリーディエと似たように手馴れた動作で罠を解除しつつ、人影を探っていた。
『息を潜めて。すぐ近くまで来たら、息遣いでも気付かれかねない。特にああいう手合いは正規軍よりも手強い』
『でも俺、そんな長く息を止めるなんて無理だぜ……。静かに息するのはもっと無理だし』
『だったら私のマフラーを使えば良い』
『わ、わかった』
近くに垂れ下がっていた黒のマフラーを手に取り、口をそれで覆ってしまう。これなら息は漏れることがないし、なんとかなりそうだ。……だが、エリクには、そしてこのマフラーには、一つの問題があった。
「(なんだこれ、ただのマフラーなのに、すげー良い匂いが……)」
まるで眠気と劣情を催す新手の薬品が染み込ませられているかのように、布地から香る甘い匂いは青年の脳を刺激すると同時に、蕩けさせていく。この分なら、確かに物音を立てずに済むだろう。ただし、同時に睡魔と淫魔とが襲って来てしまう。これは間違いなくリーティエ自身の匂い。年端も行かない少女の、男を魅了する香りに他ならない。
そんな風にエリクが自分の悪魔と戦っている間も、敵兵は二人の下を通過して行き、彼等は頼まれていないのに南から来たことを話して、二人に有益な情報を授けてくれた。
南と言えば、二人の所属する軍の戦略拠点のある方角だ。つまり、多くの兵がこの密林での戦闘に駆り出されている中、拠点が落とされ、その勢いのままこの密林も敵の手に落ち、ひいては国自体が全面敗北することを暗示している。
「エリク。彼等の話を聞いていた?」
「え?あ、いや」
「……情報収集は基本」
「ごめんなさい、先輩」
暴力的なほどの誘惑に耐えていたのだから、エリクに敵兵の話まで聞く余裕はなかった。当然と言えば当然だが、そんな一人の青年兵の葛藤を知らないリーディエにとっては、この新兵が命の尊さを説きながらも、自分自身では生きる努力をしていない未熟者にしか見えない。
「南の拠点が落とされたらしい。味方陣営がほぼ壊滅の被害を受けている以上、いよいよ川向こうの部隊に情報を届ける必要性が出て来た」
「撤退を勧告するのか?俺達みたいなただの斥候の言葉で、一部隊が引き下がるとは思えないけどな……」
「それでも、なんとか話を付けるしかない。向こうも独自に斥候を放ち、各地の自軍が敗退していることを知っているかもしれない。それなら、実際に自身の部隊が襲われるところを見た私達の言葉は、信用に値するものとなる」
「……なぁ、あんたは軍を恨んでないのか?生活を壊されたのは軍のせいだろ。なのに、どうしてそこまでその役に立とうとするんだよ?今なら上手くやりゃ、逃げてしまえる。俺もあんたも、軍の装備はナイフ以外に持ってないからな」
「………………」
やはり、その言葉に回答は得られない。改めて、彼女は軍の奴隷なのだと、青年は認識させられた。
最早、軍は利害関係から手助けしている相手でもないし、恩があるからそれを返している相手という訳でもない。家族を失った少女が唯一帰ることの出来る場所だから、頑なに守ろうとするのだった。
この少女斥候は、その見た目からは想像も出来ないほど気丈な娘などではない。むしろ弱いからこそ、一つのものに依存することでしか平静を保てないのだ。――その平静も、軍という異常なものに親しみ過ぎて狂信者のそれと相違ないが。
「リーディエ。逃げよう」
「また数百人が死ぬ」
「……今更、それぐらい被害が増えてどうだ?」
「数百人に両親の二と、きょうだいの一を足してかける。被害人数は数千人になる。あなたはそれを見捨てると?」
「っ……!けど、あんたはその倍の人数を今までの斥候の任務で救って来たんじゃないか?」
「何を言っても、私は任務を完遂する。逃げるならあなた一人で」
「くそ、やっぱあんた、融通が利かないな」
木の上を更に行き、森の出口も近くなった。足場が不安定であることを嫌い、再び地に足を付ける。当然のことだが、いつ折れるかもしれない枝の上よりずっと安心感があった。
もちろん、罠の警戒は依然として怠らない。さっきの傭兵が通ったから罠が撤去されるかと言えば、むしろその逆で、万が一現れるかもしれない逃走者を狙い、新たな罠が配置される危険性を考慮するべきだろう。実際、後から自分達にわかりやすいようにだろう。大雑把に隠された地雷が見えた。
「何はともあれ、もうすぐだな……」
「………………」
「ああ、あんたはこの仕事が終わるまで、俺の相棒だからな。置いて逃げるなんて真似はしないから、安心してくれよ。男として、そんなことやったら末代までの恥だ」
反応はないが、無表情と無言は満足している証なのだろう、そう一人で解釈してエリク青年は彼女の後ろをついて歩いた。やはり、前を歩いて先に罠を探るなんて出来そうにない。これからも軍に所属し続けるのなら、ずっとこんな感じなのだろう。もし単独任務をやらされるようなことになれば、生きてはいられない。そうなれば、なんとかして脱走する腹積もりでいた。
エリクはリーディエとは違い、軍に一切の感情を抱いていない。いや、負の感情はあるが、その役に立ちたいだなんて、一度生まれ変わったとしても思わないだろう。むしろ積極的に毒を吐く対象だ。
従順な兵士として上官に頭を下げる暇があったら、なんとかしてこの悲劇の少女兵を救うことを考えた方がマシというものだろう。
「ふー、やっと抜けたか」
森の出口。地雷もなければ、怪しげな糸も張られてはいない。遠くを眺めても敵兵の影はなく、空は晴れ渡っていて……少しだけ、この絶望的な状況の中にも希望が見えていた。
「私が先行して安全を確保する。あなたはそれから」
「いや、俺が先に行くよ。ここまで世話になったんだから、最後ぐらいはな」
もしも人生にやり直しが利くならば、未来のエリクはここから人生をやり直したかもしれない。
どれだけ行っても、ここは戦場には変わりなく、新米兵士が無用心に歩くには危険な地域であるということが変わりはしない。
しかし、エリクだけならまだしも、リーディエも油断してしまっていた。長く張り詰めていた心の緊張が、やっとほぐれたということもあるだろう。また、自分の部隊の壊滅は、少女の鈍化した心にも、小さくはない衝撃を与えていたのだろう。
強くは止めず、青年が先に行くことを許してしまった。それゆえに、悲劇は起きた。
「なんとか、上手くいったな。あんたとなら、どんな所からも抜け出せそうな気がするよ」
「そんな訳がない。私には何もかもが足りていない」
「奥ゆかしいねぇ。いや、確かに俺も兵士の端くれとしては、下手に安全を保障されるより、それぐらいの方がかえって安心出来るけどな」
青年が一歩踏み出す。同時に、近くにあった小さな茂みが揺れ、葉が数枚落ちる。青年がそれを蹴った訳でも、強い風が吹いた訳でもない。それなのに、見えざる何かが衝撃を与えたように茂みが動いたのだ。
「エリク!」
いち早くそれに気付いたリーディエが、自分より圧倒的に大柄な青年の体を、全身を使って突き飛ばす。それとほぼ同時に、茂みから一筋の光が発射された。矢ではなく、人の小指ほどの太さのある針だ。矢羽根がないので飛距離は期待出来ないが、ワイヤー・トラップにかかった人間を刺し殺すぐらいは十分に出来る。
仕掛けは丁度、平均的な身長の成人男性の、心臓か肺の部分を狙っていた。極太の針が突き刺されば、どちらであっても致命傷だ。
「な、リーディエ!?」
不意に受けた体当たりによって、エリクは地面に横転する。さっきまでエリクの立っていた地点にはリーディエが残されることとなり、針は彼女の左目の辺りを通過して行った。――いや、通過などではない。声にならない悲鳴と共に、周囲に血液が飛び散ったのだ。他でもない、少女斥候自身の鮮血が。
「お、おい、リーディエ、大丈夫か!?」
「うっ、ぐっ、直前で、身は逸らした。命に別状はない」
「で、でもな……」
閉じられた少女の片目からは、血液が流れ続けている。背丈の低い彼女にとって、男性の心臓の位置は、すなわち目の位置だった。気丈に振る舞ってはいるが、その激痛と、目に受けた怪我から導き出される結論は、平和な日々を送って来たエリクにだって想像することが出来てしまう。
「目をやられた以上、私はもう斥候として働けない。戦闘訓練はほぼ積んでいないし、私はこれ以上軍の役には立たない。その心配はわかる」
「馬鹿が!そんなこと考えてる訳ないだろ!?」
「じゃあ、何を考えている」
「身を挺してまで自分のことを守ってくれた相手を気遣うのなんて、当たり前だろ?直撃じゃなかったとはいえ、かなり痛いんだよ、な……」
「痛いには痛い。でも、あのままならあなたが死んでいた。味方戦力を多く生存させようとするのは、当然のこと。結果として私は戦闘不能になったけど、あなたは男だし、体格も恵まれている。将来的に大きな戦力になるのはあなたの方だから」
「なぁ、あんた、さっきまでの俺の話を聞いてただろ?俺は、すぐにでも軍を出たいと考えているような奴なんだ。あんたからすりゃ、それを救うのは無意味な行為だ。なのに……」
「あなたは一年目。私はもう四年目。先輩が後輩を守るのは普通のこと。そこに利害関係は関係しない」
「あんた、言ってることが滅茶苦茶だって自覚してるか?」
「わかってる。恐らく、毒物が塗られていた。もうまともに頭が働かない。だから、意識を失う前に言っておく。私のことは、その辺りに隠して、あなただけが逃げて。多少なりとも時間は稼げると思う。弾除けに持って行っても良いけど、全身は重さから推奨出来ない。下半身か上半身、どちらかだけを持って行くべき」
「ばかやろう!俺に、怪我してる女の子を見捨てて一人で助かれって言うのか?弾除けなんて、もっと最悪だ。何が悲しくて、まだ生きている人間を身代わりに……おい、リーディエ!?」
「………………」
返事がない、のではない。既に少女の意識は肉体から剥離し、深く深く落ち込んでいた。毒のためなのか、激痛のためなのか……どちらでもあったのだろう。
「くそっ、こんな糸、見えるかよ……」
忌々しげに足にひっかかった透明の糸を睨み付け、青年は白髪の少女を抱き立ち上がった。もう罠を確かめる余裕は心になかったが、幸運なことにもう一度も罠に足を取られることはなかった。無残にも潰されてしまったであろう、少女の青い眼球からは点々と血が垂れ、それが敵にとっての道しるべになったとしても、彼女を囮にするような考えが、エリクにあるはずもなかった。
「リーディエ。あんたの考えは知らない。あんたを軍から遠ざけるのは、あんたにとって酷なことかもしれないけどな……。俺はもう、こんなのこりごりだ。それに、あんたにもこれ以上は傷付いて欲しくない」
青年の足は、川の方角に向くはずがない。非戦闘地域に逃れ、そのまま船か行商人の馬車に安く乗せてもらい、どこか知らない国へと渡る。国内ではもう、戦乱から逃れることは出来ないだろう。しかし、他国にまで行ってしまえば、脱走兵二人に追っ手など差し向けられない。安全は約束されるのだった。
青年はがむしゃらに、平和と自由を求めて歩き続けた。
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ファンタジー要素をあえて極限までになくし、自然と人の描写に特化させた小説です
激しい動きはありませんが、リーディエが自分の人生を「取り戻し」「成長していく」姿をお楽しみいただければ
◆アイデアメモはこちら→ http://ameblo.jp/kansuityo/entry-11491688182.html