この世にもしも、魔法という荒唐無稽な物が在ったなら
この夜にもしも、そんな物が輝くのなら
君は何を願っただろうか
何も願わなかっただろうか
+++++++
魔法使いと弟子
+++++++
ね子だるま(ぽんたろ)
「待って」
銀の奔流が夜空を駆ける。
流れ星。
彗星の到来はまだ遠い、満天の夜空に輝くそれは大気圏に突入するスペースシャトルでもなければ解体された人工衛星のデブリでもない。
少女はマウンテンバイクを深く踏み込む。
荒ぐ息。白い呼吸の軌跡が彼女の白んだ頬を撫で、夜空に吸い込まれてゆく。
少女の切なる願いは聞き届けられない。
銀の光は細く余韻を残し、消えた。
時は進む。
寒さが強まり始めた10月、午後3時。飲食店で言うアイドルタイム。
ランチタイムの客足は遠のき、喫茶店『露光』の店内は閑散としている。
狭い、とはいえ喫茶店としてはそこそこな広さの店内にはレコードの小気味よいジャズが流れる。鼻をくすぐる珈琲の匂い。
いかんせん建物がそこそこ老朽化している為に暖房の効きが悪いことを除けば、過ごしにくいことも無い。……多分。
喫茶を楽しみに来る客もいないことは無い、というよりある程度固定客はいるのだが、こと平日に店内で食べて行く客は多くない。大概がテイクアウトで済ませる。
。
今日の売り上げも微妙だがこの時期はこんな所だろう。
繁忙期ははこうはいかない。せいぜい閑散期を楽しむことにしようと俺、望月朔は読みかけの文庫本をカウンターの下から引き出す。ページを捲る音が不規則にノイズを刻む。
からん、からん、と入り口のベルがなった。
俺はいらっしゃいませと言うと次のページに視線を移す。
俺の接客はいつもこんなものだ。そのためかとりわけ女性客は居着かない。自覚があるからすぐどうにかなるものでもない。
入り口に視線を遣る。
「ん?」
誰もいない。
強風でもないのに、と疑問を感じながらも読書を続行する。
「あの」
声。
「誰だ」
声はせども姿は見えず。
「暖かいコーヒーをお願いします
カウンターの下からひょいと頭と手が覗いた。
俺は少しだけ驚いた。
身を乗り出すと小さな女の子がそこにいたのだ。
身長は大きく見ても120cm程だろうか。多少高めに作られているとはいえ少し屈んだ程度でバーカウンターの下に収まってしまうほどの身長である。
女の子の髪型は一見ショートカットで、もみあげだけ伸ばしている。横を向いたとき一房だけ後ろ髪を伸ばして束ねているのが見えた。
椅子に載ったことで覗かせた顔も幼い。歳の頃は10歳に届くかどうかといったところか。
近燐の小学校の下校時刻まで精通してはいないが、いささか小学生が訪れるには早すぎる時間に思えた。
「その歳でサボりはよくないぞ」
喋りながらコーヒーの準備を始める。客は、客だ。俺とて品行方正にここまで生きてきたと言う訳でもない。誰しもそういう時期があるのかもしれない。もし何か事情があり、客でないにしても茶の一杯程度振る舞っても構うまい。ここは俺の店だ。
カップに湯を注ぎ温め、コーヒーポットにてきぱきとフィルター等をセットする。
焙煎された豆が蒸らしの蒸気を吸い、膨れ上がり、濃い匂いが立ちこめる。
「大丈夫です。テストが終わったので、今日は早帰りなんです。」
今日日小学校でもテストで早帰りがあるのか、と考えながらソーサーをカウンター下から取り出す。
コーヒーカップの湯を捨て、カップをソーサーに載せてコーヒーを並々と注ぐ。
「お待ちどうさん」
女の子の前に珈琲を置くと、彼女は迷い無く口に運ぶ。
眉をしかめる事なく数口含み、感嘆の息を漏らす。
「ブラック飲めるの?ませてるね」
些か年寄りじみた発言だったかと軽く後悔しつつも俺は口が緩むのを自覚する。美味そうに飲んでくれれば店主冥利に尽きると言う物だ。
「あの、今日はお話があってきました」
女の子は俺の言葉には応えず。しかし目を真っ直ぐ見つめながら切り出した。
「…」
どうぞ。と俺は仕草で促す。
「私を、あなたの弟子にして下さい」
「……………はぁ…」
俺は溜め息をついた。
「真剣なんです。」
女の子の瞳はきらきらと輝いている。それほど珈琲が美味かったというのだろうか。
まぁ、悪い気はしないのだが……。
「珈琲の煎れ方ならもっと上手い奴は幾らでもいると思うし、俺に習わなくてももっと良い人がいると思うよ。で」
「違います」
否定の言葉にもためらいは無い。
「私を、魔法使いの、あなたの弟子にして頂きたいんです。」
たっぷりと時間が流れた。気がした。
秒針の動きがスローモーションの様にゆっくりとしたものに感じられる。
「…お嬢さん。ここは喫茶店だよ?」
俺は、占いの館とか、その手の店ならそういう仕事の奴も居るだろうに。というニュアンスで述べたつもりだった。
「はい、存じています。喫茶店『露光』の店長さん、望月朔さん27歳。血液型A型。身長176cm体重」
「ちょ、ちょちょっと待ってよ!?」
女の子は俺の個人情報をつらつらと並べて行く。
身長体重は健康診断の時の数値か。生年月日、資格、学歴。まぁよく調べた物である。
「そして、この街にいる、おそらく唯一の魔法使いです。」
彼女はカウンター下に置いていた鞄から封筒とアンドロイド端末を取り出す。
封筒の中から取り出されたのは写真と、地図。
「何だ、これ」
俺の背中に汗が滲む。
写真の中の望月朔は、光っていた。
良く出来た画像加工ですね。とでも笑い飛ばす所だったが、俺は言葉を失った。
写真の枚数はざっと見積もっても数百枚。
広げられた地図には写真の撮影場所が細かく記録されており、少女はアンドロイド端末に記録した動画を再生し始める。
ワイヤーで釣られている以外説明のつかない跳躍をする俺の姿。
屋根の上にふわりと着地する俺の姿。
「いつ、撮ったんだ。こんな」
意図せず肯定の言葉が口を次いで出る。ありえない。あってはいけない。
店内には俺と彼女の二人だけ。
まるで外界から完全に切り離されたかの様な空気の滞留を感じる。
「今のやり取りも録音しています。写真と動画の原本は別な場所で保存してあり、私に何かあれば公開してもらう手はずになっています」
女の子は淡々と続ける。
ジャズの音が遠い。壁にかけられた振り子時計の音が酷く耳に障る。
「なんだ、これは」
「脅迫です。録音も既に別所に転送してあります。」
彼女は俺をもう一度見つめる。
子供にしか見えない女の子が化物に見えた。
「私を、弟子にして下さい。」
逃げ道は、無い。
「嵌められた」
「はい。嵌めました」
俺は頭を抱えた。
「あなたは甘いですね。終止笑い飛ばしていれば子供のいたずらで流せたのに」
彼女は女の子の、年相応な笑顔を浮かべる。
「それで、俺の弟子になりたい君の名前は?」
俺は頬杖をついて訊ねる。
「植物の芦に原っぱ、環状線の環と書いて、あしはらたまきです。」
環はにっこりと笑った。
「よろしくお願いします!」
そう。俺、望月朔は魔法使いであった。
店の入り口にClosedの看板をかけ、二階に上がる。
狭い店の二階は居住スペースになっている。
環が腰掛けたのを確認し、テーブルの上に緑茶と菓子を置いて俺は溜め息をつく。
「どうやって知った」
「緑茶派なんですね…存じ上げませんでした…」
「人の話を聞け」
俺もテーブル向かいに腰掛ける。
「私があなたを見つけたのは三年前です」
「さ…」
ストーカー歴3年
なるほど、写真もあれほど溜まる訳である。
「屋根の上で天体観測していたら頭上を通過されたんです。このお店を見つけるのに苦労しました……」
少し話した内容をまとめると、環は夜間に似た様な発光体を根気強く観測し、出発点を逆算したと言うのだ。
「…つまり、君には俺の姿が最初から見えていたのか」
「はい」
俺は腕を組み替え環を見る。
メモ帳とボールペンを持ってにこにこと笑っている。
「…」
その真意は計り知れない。
俺は見ず知らずのこの少女にはっきりと恐怖としか言えない感情を抱いていた。
「やっぱり才能とかも必要なんでしょうか?」
「本当に何も知らずにここに来たんだな…」
俺は溜め息をつく。若白髪が増えそうだ。
「世の中の、少なくとも俺の知る限りの術師は100%才能で魔術師になっている」
「ひゃく……」
「そうだ。才能の無い奴が魔法使いになれる可能性は無い」
「努力しても…駄目なんですか…?」
「無理だ。」
環はメモ帳を握りしめる。
「才能というのは、どうやって分かるのでしょう」
「遺伝だ」
「また断言されるんですね……」
「俺が生まれる前から、それこそ何百年もかけて研究し尽くされてきたことだからな」
俺は息をつき茶を啜る。
「君の親か祖父母が魔術師か、あるいは陰陽寮の系統なら可能性はある。違うなら諦めろ」
「……少なくとも両親祖父母は普通の家庭だと、思います」
環はがっくりと肩を落とした。
「ただし伝えなかった可能性もある」
「そうなんですか?」
「事情はそれぞれ色々あるさ。伝統を重んじる風習も廃れつつあるからな。まぁ、迷彩操作していた俺を補足出来たんだからその可能性は0ではない」
「!?」
環の顔が晴れやかになる。分かりやすいのか分かりにくいのか謎な娘である。
俺は環の顔に手をかざす。
「君が構わないなら才能があるか位は見てやれるが」
「お願いします!!」
「……はぁ。目を瞑れ」
環は目を瞑った。両手を握って祈る様に俯く。
「いいと言う迄数字を数えろ。1から、等間隔に」
「はい」
1、2、3と環は数字を数え始める。
「俺が何をしても数字を数え続けろ」
「4、5、6」
いいだろうと呟いて環の顔の前で指を動かす。
俺の指がぼんやりと光を放つ。
「才能と言ったが、魔法だとか魔術だとか言われるこの術を使うには体質が重要なんだ」
「41、42、43」
「今からそれを確認する」
俺は光の軌跡で環の顔の前に図形を描写していく。
「51…ごじゅ…2…ごじゅうさ…ん…」
環の言葉がとぎれとぎれになる。
「俺はこの手の診断に秀でてはいない。すまないが耐えてくれ」
「ななじゅう…71……、72……」
部屋の電気が点滅する。
口許が緩んだ。
「すまないな」
軽い破裂音がして部屋の電気がおちた。
同時に環がゆっくりとテーブルに倒れ伏す。
記憶の改竄。
目が覚めれば朔に関する記憶はすべて忘れているだろう。
後は環の家を調べ全て抹消しなければ。
知られてはいけない。
明らかにしてはいけない。
子供一人程度の人間関係なら殺さずとも証拠隠滅は難しくはない。
ネットを介していたとしても、俺にはその手段がある。
俺は環の鞄に手をかける。
学生証。北新涼高等学校生徒学生証。
「………」
貼付けられた写真と気絶する少女を見比べる。
薄暗い中でもわかる。同一人物だ。しかも二年生、17歳らしい。
なるほど、テストは額面通りか。とひとりごちる。
写真と地図。アンドロイド端末を取り出す。他は財布と携帯とハンカチ、手帳等が入っている。
手帳をぱらぱらと捲り、自身に関係ありそうな箇所に触れると文字が紙から剥離されて行く。
浮かび上がった文字は空中に並び端から瓦解して行く。
全く末恐ろしい娘だ。
本来であれば術式展開中の術者を一般人がカメラで補足する等考えられないことだ。
調べずとも無意識下で看過系の術を発動できるのなら才能はあるのだろう。
鍛えればそれなりな術士になるかもしれない。
ただし、俺は弟子を取る気もなければ自身を脅迫してきた娘の面倒を見る気もない。
そんな余裕はない。
この娘もこんなことは諦めて学業に勤しんだ方が後々のためになるだろう。
写真と地図は触れた瞬間燃え上がり灰になる。
アンドロイド端末は初期化した。
バックアップも削除しにいかねば。
何かあれば公開、と言っていたからには連絡が有れば公開か。もしくは無ければ自動公開か。
単身乗り込んで来たことを考えるとおそらくは後者。
朔は携帯を取り出し学生証に載っていた環の住所を調べる。
隣町だが、大した距離ではない。
「さて」
この少女をどこか交番か病院の近くに転がしておくか、と朔は環に振り向いた。
そして、硬直した。
「…あ…れ…」
少女の瞳が虚ろに開かれている。
「………」
俺は言葉を失った。
環がゆっくりと起き上がる。
「どう、でしたか……」
術が効いていない。
本来ならば半日は意識を失っているはずだった。
「何故……」
無意識下で対抗術を使ったとでも言うのか。
汗が背筋を伝う。
「あたま。いたいので、今日はもう帰ります」
環は鞄を持つとゆっくり階段を降りて行った。
からんからんと、ベルが鳴る。
+ + +
魔法使いとは何であろうか
俺、望月朔はルーズリーフにペンを走らせる。
「俺たちが術やら魔法と呼んでいるこの能力は、境界内定理崩壊現象と呼ばれている」
「崩壊現象…ですか?」
環は紙を凝視している。
俺が環の記憶消去に失敗してから一週間余が経っていた。
日曜午後の昼下がり。ランチタイムの客が帰ってから。
ブラインドを閉め、店の前にCLOSEDの札を掛け、客席で俺は環に授業を行っていた。
通常であれば喫茶の時間だが、俺がこの時間店を開けているのはそもそも稀である。
特に、環が来てからは。
逃げるように不規則な営業時間を更に狭めていたが、日曜に朝から開店前の店の前に居座られてはどうしようもなかった。
「核反応みたいな意味じゃないぞ。」
喋りながら思考する。
環のバックグラウンドは依然として謎が多い。
本人が無自覚である以上。記憶操作については話す必要は無いだろう。
状況から彼女が自己防衛を自らの意思でやってのけたとは考えづらい。
彼女の周囲に対抗術。すなわち脳のプロテクトハックをかけた人間…いや、術士がいると考えるのが自然だ。
俺は冒険はしない。面倒な物件はその手の適当な奴に預ければ良い。
今俺がするべきは、眼の前の少女と敵対もせず。過度になれ合わないこと。
俺は水の入ったグラスを環の前に置いた。
「グラスの中の水を手に触れずに動かすにはどうすれば良い?」
「息を吹きます」
「まぁそれも正解だ。」
"手"を触れず。というルールは守られている。
「師匠ならどうするんです?」
「…し…」
環はじっと朔の目を見ている。俺は視線を逸らす。
「師匠はやめてくれ」
環は首を傾げた。
「では…先生で…」
「う、うむ。まぁ、良いだろう。暫定だが」
念押しして朔は掌をグラスの上にかざした。
「俺はこうする」
水面が一瞬光り瞬時に水が消える。
蒸発の挙動すら無い。
「今のが魔法だ」
環は目をぱちぱちと瞬きさせ、空になったグラスを凝視する。
「水を…蒸発させたんですか?」
「電気分解だ。電圧を掛けて水を水素と酸素に分解した。理屈は、分かるか?」
本当に高校生か?というニュアンスを知ってか知らずか。環は冷静に答える。
「……一応は本で読んだ事があるので知っています。でも、どうやって発電するんです?」
朔は掌の上にテーブルの上に置いてある紙ナプキンを一枚載せ、軽く息を吸う。
ふわりと紙ナプキンが浮き上がる。
「静電気だ」
「説明になっていません。非接触で静電気を操作するプロセスがわかりません」
環が軽く頬を膨らます。まるで子供である。
いや、子供で良いのだろうか。微妙な年頃だけに判断が難しい。
「そうだ。物理現象には過程が必要だな」
紙ナプキンをより高く飛ばしながら朔は続ける。
「それを埋めるものが俺たちにある《才能》だ」
頭の高さ程に浮いた紙ナプキンがくしゃりとつぶれた。
「やっている事は何て事は無い。脳内で物理現象と折り合いを付け、それを」
つぶれた紙ナプキンが広げられ、浮かんだまま鶴の形に折り畳まれる。
「反映させる。静電気による初期浮遊からの重力の解放」
指をついと動かすと鶴は燃え上がる。
「紙繊維の変形と、燃焼」
環の目がきらきらと輝いている。俺は視線を外したまま話し続ける。
「今可視化してやる」
更に指を動かすと俺の周りに光る糸が出現する。
「なんですか…これは」
環が手を伸ばすが糸を掴む事は出来ない。糸は空気に溶ける様に消える。
「これが今の俺が展開した領域だ」
「領域…?」
「境界、もしくは領域。この範囲で俺たちは仮想力場を構築し、物理法則を埋める事が出来る」
「埋める…先程の折り合いの話ですか?」
「そうだ。少なくとも俺と俺の知る数人の術士は難しい事なんてしていない。ただ自然に起こりうるには足りない部分を能力…概念的に魔術素子と呼ばれるものの消費で補っているだけだ」
灰が集まり鶴の形になる。
「俺は紙を消していない。飽くまで燃焼させただけだ。火は圧力で」
鶴をゴミ箱の上まで飛ばし、離す。はらりと灰は崩れゴミ箱に収まる。
「さっきの水みたいな分解や再構築はそれなりに消耗するから、もっとシンプルな術の方が使い勝手が良いな。さっきの水は熱で蒸発させても良いし普通ならそっちの方が圧倒的に楽だ」
今度は椅子をもちあげて離す。椅子は落下せずその場にとどまっている。
「今度は理屈は簡単だ。落下を止める為に上向きに力をかけている。重力とベクトルは分かるか?」
「はい…魔法とかじゃないのなら…」
確か数学Bと物理の範囲だったか?今の高校の授業範囲は把握していないが、分かるのであれば問題は無いだろう。
「お前が撮った写真は大体これとベクトル操作の応用で移動していた時のものだ。方向に掛かる力の相殺と加重。椅子を停滞させるだけなら吊したり椅子の下に何かを作るって手もあるんだが…まぁ引力、ベクトル、重力の順で消費は大きい」
手を払う動作をするとすとんと椅子が落ちる。
「術を使うにはさっき見せた領域の展開が必要になる。」
肩をすくめ俺はボールペンを手の中で回す。
「ここまではなんとなく分かったか?」
「境界っていう範囲の中で現象をねじ曲げられる…ってことでいいのでしょうか…?」
「概ねは。他にも言語魔術系やら阿賴耶識やら宗派によっても術の使い方はかなり異なるんだが、大体は範囲を決めてその中で行われる、そして魔力素子を消費するってことだけ覚えておけ」
「はい」
環は熱心にメモを取っている。
「で、だ。今日の本題だ。おま…君の指導者についてだが、術者の協会があるからそこで紹介してもらう」
環の動きがぴたりと止まった。
「魔法使いって…沢山いらっしゃるんですか…?」
「総数は知らんが全世界になれば数万はいるだろうな。」
「数万…」
俺も実のところそこまで界隈に詳しいわけではない。とりわけヤバい事、必要な事以外には特に疎い。
そもそも術士というのは大概、無関係の他人に対して興味を持たないものだ。
それに…
「あなたじゃ…駄目なんですか?」
「…駄目だ」
ぱっちりとした瞳がこちらを見つめる。
「どうしても…ですか」
「ああ」
環はがっくりと肩を落とした。
「そう落ち込むな。俺より指導者に向いている奴は五万といる」
「……」
「兎に角だ。先方に話をしてあるから。連絡があるまで待て」
「それってもうここには来るなってことですか?」
「……俺の言葉を丸のまま信用するか?」
「……」
「来る事は構わん。ただ毎日は勘弁してくれ。ここは普通の店だ」
俺はカウンターの中に回るとガステーブルに火を入れた。
「はい……」
俺が慣れた手つきで湯を沸かすのを環はじっと見ていた。
「飲み方は」
急に話し掛けたせいか環は目を丸くする。
「え?」
「紅茶。俺のおごりだ」
「あ、はい…じゃ、じゃあ…ストレートで…」
ふわりと茶葉の香りが立つ。
環は椅子の背に体を預けて零すように呟いた。
「とても、綺麗でした」
「?」
「先生の飛ぶ姿。きらきらして」
「本来は見える物ではないが、君は見える体質だったみたいだな。」
可能な限りはぐらかし、俺は紅茶をティーカップに注ぐ。
「ほら、砂糖は…いらないんだったか?」
「いえ、紅茶は入れた方が好きです。ありがとうございます」
少し多く淹れてしまったので自身もカップに残った紅茶を注ぎ、口を付ける。
「そもそも、なんで術士になりたいんだ?空を飛びたいのか?」
好奇心。
というほども無い、とても些細な疑問。
「違います」
「何がしたいんだ?それによって勉強する内容も変わるだろう?」
「記憶……を」
俺はぎくりとするが、環はこちらを見ていなかった。
「私は、昔の記憶をなくしているので。それを思い出したいんです」
「それは、君自身が術士になる事とイコールでは無いんじゃないか?」
精神科、脳外科。まず環が頼るべきは医学方面なのではないだろうか。
「違うんです。いいえ、お医者様にはもう相談したんですが、どうにもならないだろうと言われてしまったんです。それに……」
環の顔には悲壮感と、確信と、絶望があった。
何が高校生の少女にこんな表情をさせるのか。朔は知らない。
「私は、私の記憶が消された瞬間の記憶があるんです」
+ + +
意味が分からなかった。
「記憶が…ある?」
先程記憶が無いと言っていたのはなんだったのか。俺は思わず顔をしかめる。
環は鞄に付いた猫の様なマスコットを指先で弄りながら更に表情を暗くした。
「私の記憶はくっきりとある瞬間から途切れているんです」
「何故それが消されたと分かる」
「犯人……だと……おもうひとに……そう言われたので」
また、背中に嫌な汗が伝う。
俺も環の記憶を削除しようとした事には違いない。
もし万が一バレた場合、この少女がどんな凶行に及ぶか定かではない。
「私が目を覚ましたとき、目の前に男の人がいました。知らない人でした」
「それは…割と最近の事なのか?」
「…9年前です」
全く最近ではなかった。
「…何歳の時だ?」
「8歳の時です」
17歳。改めて見てもとてもそうは見えないが17歳と言い張るからには恐らく17歳なのだろう……。
「今でもはっきりと覚えています。と言うよりその後の事はすべてはっきりと覚えているんです」
「すべて?」
誇張はあろうが、それはそれで異常に感じる。
「男の人が立ち去った時、私は何故か出血していて失血死寸前まで血を失っていました。」
その状態で記憶が明瞭だったと言いはるのか。この娘。
「意識を手放す直前、その人が去り際に言ったんです。「良かったな奪ってやったぞ」って」
「それが記憶だと何故わかる」
むしろそれは失血状態の朦朧とした意識が生み出した幻聴を疑うのが先ではないだろうか。
「他にとられる様な物がなかったからです」
「……」
「言い辛いが、乱暴されたとかそういうせいではないのか?そのショックで記憶が飛んだとか」
環は首を振る。
「私は失血していましたが外傷は一切無いという診断でした」
「は?」
「傷はなく、私の血だけが服に付着していたそうです。それもかなり大量に。念のために血液を調べました」
ちょっとしたホラーである。
だがしかし、なるほど環という少女が魔術や魔法を信じたくなる気持ちも分からないではない。
「目が覚めたとき…私はそれまでの、男の人が去っていくまでの自分の事を全て忘れていました」
「…」
ショックによる記憶障害であればそういうこともあるのではないだろうか。
「でも、自身について、以外の記憶は一切失っていなかったんです」
「?」
「つまり、万里の長城が中国にある、だとか。リンゴの英語のつづりはapple、だとか。そういう記憶には一切の影響がなかったんです」
「それは、8歳の思考か?」
真剣に話している相手に申し訳ないと思いつつも口許が緩んでしまう。
何もかもが作り物臭い話だ。
「自分でも、どうかと思う点は多々あります。ただ」
「ただ?」
紅茶が冷めてしまった。
しかし、環の話が気になる。
「弟が居た気がするんです」
「そういえば、他の家族は?」
「父、母、兄がいます」
「聞いたのか?」
「弟なんていないだろう。と」
「家族はしっかりしてるんだろう?じゃあ居ないんじゃないか?」
「でも……」
「弟がいた気がする。というそちらの思考が後付けでついてしまった幻覚症状の一種なんじゃないかね」
「それでも…それを確かめる為にも…記憶を取り戻したいんです」
「精神科の領分だろ」
生温い紅茶を口に運ぶ。渋みが出てまずい。
確かに、妙な話だ。
ただ、一つの仮説が生まれた。
環の頭に対抗術を張っているのはその男かもしれない。ということだ。
ただし、本当に環は記憶を消されたのか。
消したとすれば、何故そんな半端な消し方をしたのか。
何故、環を傷つけた上で殺さず生かしているのか。環を生かしておく必要があるのか?
そもそも血を抜いてかけるという行為がまず分からない。
何か儀式的な意味でもあったのだろうか。
疑問は尽きない。
「君の家は何か特別な稼業でもやってるのか?」
「いいえ?普通です。父は雑誌のライター。母はスーパーで働いています。兄は商社の営業です」
「お父さんの書いている雑誌は?」
「オカルト雑誌です。あまり大きな出版ではないのですが、月刊ストーンヘンジ。知りませんか?」
「悪いが、知らん」
環は苦笑いを浮かべた。元から期待もしていなかったようだ。
「嘘だと思いますか?」
「ああ」
「お医者さんにも同じ返答をされました」
「……」
「そういうことです」
確かに、家族が他にもいて、それを自分しか覚えていないかも知れない。というのはなかなかキツい状況だろう。
兎に角、環の家庭環境を調べる必要はありそうだ。
環が店を出るのを見届けてから、俺は携帯のアドレス帳を開いた。
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最初Pixivで書いていたんですが二次アカウントと言っても良い状況なのでこっちにもってきました。鋼もそろそろ続きをうpしたい
→2:http://www.tinami.com/view/853043
とりあえず①はこれでおk(2022・9・2)