No.549314

ウ・テ・ル・ス - 2

代理出産という違法ビジネスに引き込まれた真奈美。そこで出会ったった秋良に、真奈美は命を賭けてのメッセージを送り続ける。母性とは、出産とは、親子とは…。そしてその関係の中で生まれる根幹的な愛に、はたして秋良は気付くことができるのだろうか。妊娠から出産のプロセスで作り上げられるガチな男女関係。先端の医学的知識と共に語られる未婚男女必読の恋愛小説です。「2012.12.06.鈴子誕生記念作品」

2013-02-27 18:47:58 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:728   閲覧ユーザー数:728

 翌日、早速真奈美のスマートフォンに担当からの連絡が入り、検査の日時と場所が告げられた。婦人科ドックに入る当日、担当に出迎えられたが、その担当と言うのが、以前オフィスの中に入れてくれた失礼な男であり、三室という名であることを知った。

「君がスカウトされるとはね…。」

 真奈美を見た三室は、開口一番そう言って彼女を出迎えた。

「ここで脱いだら納得してもらえます。わたし、裸になったら凄いんです。」

 三室は笑いをかみしめながら、真奈美を守本クリニックの婦人科ドックへと導いていた。

 真奈美へのメディカルチェックの項目は半端ではなかった。身体測定、X線骨密度検査 (DEXA法)、眼科、聴力、尿、血液などの一般的な検査から、真奈美が今まで見たこともないような最新機器を使用しての循環器、呼吸器、消化器の各検査。特に婦人科に関する検査は、子宮体部細胞診(子宮体がん検査)、黄体形成ホルモン・卵胞刺激ホルモンなどの女性ホルモン検査、エストラジオール・クラミジア・トリコモナス・カンジダ感染・淋菌・ハイリスクHPV検査・HIV抗体検査・梅毒反応などのSTD検査、そして各種腫瘍マーカー、遺伝子検査、染色体検査など、思いつくありとあらゆる検査が彼女を待っていた。

「これをクリアできたら、わたしは完ぺきな女性ってことね。」

「センス以外はね…。」

 真奈美の独り言も聞き逃さず、三室がちょっかいを出す。真奈美が気分を害して三室に応酬した。

「体力測定はないんですか?あたし凄い自信があるんですけど…。」

「看護師さん、いつもはやらないけど、この娘には性別判定のDNA検査を特別にお願いします。」

「ウギーッ!」

 悔しがる真奈美を尻目に、三室は笑いながら彼女を看護師に引き渡した。

 実のところ真奈美は、まるで競売される食用牛が、値段をつけられるために検査されている気分になっていた。これから自分の身体に振りかかることを考えるとやりきれない気分ではあったが、そうすると決めてしまった今では、もう自分の不遇を嘆き続けていても仕方がない。今日家を出る時には、努めて明るく元気に振舞おうと心に決めていた。

 ところで、この検査で不合格になったらどうなるんだろうか。また、今日をのたうち回る泥沼の生活に後戻りだ。マンモグラフィで乳房を挟まれた痛さに耐えながらも、合格していいのか、しない方がいいのか、複雑な心境に陥っていた。

 一日かけてすべての検査を終えると、豪華なお重のお弁当が真奈美を待っていた。検査のため前夜から食事を抜いていた彼女は、着替えもせずにお弁当にかぶりついた。

「その食べ方見ても、なんで社長が君を欲しがったのか、不思議でしょうがない。」

 真奈美は、海老フライをくわえながら顔を上げた。ドアに三室が寄り掛ってこちらを見ていた。

「この仕事に食べ方なんか関係あるんですか?」

「あるよ。遺伝子が適合する複数の候補の中から、最終的には、クライアントが見て自分達の代理母を決めるんだ。そんな食べ方してたら、選んでもらえないよ。」

『もしかしたら、良いこと聞いちゃったかも知れない…。』

 箸を置いてそんなことを考え込む真奈美に、勘違いした三室が悪いことしたような気になって言葉を継ぎ足した。

「まだ合格したわけではないんだから、今は好きに食べればいい。今日はこれで終わりだ。食事が終わったら帰っていいよ。検査の結果は2、3日後に伝えに行く。」

 三室は、お疲れさまというように片手をあげて部屋を出て行った。真奈美は、そんな三室に軽く挨拶すると、また考えにふけった。そうだ、少なくともこの世界に入ったなら、経済的に家族のことを心配する必要はなくなる。身軽になった分、これからはこの世界でどうやって自分を守り抜くか、そのことだけに集中すればいい。真奈美は、そう考えると少し気が楽になった。さあ、やがてやって来る地獄に備えて、体力を養おう。真奈美は食事を再開した。

 

 週に一度、秀麗と乃木坂のフレンチレストラン・フウ(FEU)でランチを取ることが、秋良の習慣であった。会議で話せないこと、話しきれなかったことを、食事をしながら話すのだが、話すのはもっぱら秀麗の方であって、秋良は耳を傾けながら、相槌を打つか、イエスかノーかの返事をするだけなのだ。

 ベジタリアンの秀麗は、サラダをナイフとフォークで器用に切り分けながら、口に運ぶ。

「会議でも話したけど、新しい受入国としてフィリピンを検討したいんだけど、いいかしら?」

「根拠は?」

「日本からの距離、物価、それに法規制が柔軟で私たちにとっては都合がいい。」

「そうか…。」

「ねえ、いっその事、マニラに病院建てちゃおうか。」

「それもいいかもな。」

 大して関心もなさそうな秋良の返事にため息をつきながら、秀麗はしばらく黙って宝石のようなプチトマトをフォークで突いていた。

 秋良から持ち込まれたこのビジネスは、順調に利益を産んでいる。しかしこのビジネスを作った当初からのパートナーでありながら、秀麗はこんなビジネスが成立することが不思議で仕方が無い。自分に置き換えてみれば、自分は子供なんて必要ないから、大金を払ってまで子供を欲しがる親の気持ちが理解できないのだ。今は需要が絶えないものの、このままマーケットが拡大するとはどうしても思えない。

 それに長年ウテルスの出産に立ち会い、彼女たちがもがき苦しむ姿を見ているうちに、さすがの秀麗も、女性の身体を商品化するこのビジネスに対して、複雑な思いをいだくようになっていた。

「秋良も感じているでしょう。私たちのビジネスも8年も続けて黄金期を迎えているけど、もう斬新なビジネスではなくなっているわ。男女平等法に無関心な国では、各国とも代理出産の法的認可とビジネス化の準備もしているし…。国内でも今後は競合も増えるでしょうし、所轄の監視の目も厳しくなってくる。」

「そうだな…。」

「ねえ、ふたりで新しいビジネスを始めない。北京、ハノイ、台北、ニューデリー。アジア各国に病院を建てて、ネットワークで結び、華僑を始めとしたアジアの大金持ちや政治家を相手に、ヘルスコンサルをするのはどうかしら。」

「金持ち専用の病院と言うよりは、都合が悪くなった時の隠れ家になりそうだな…。」

「それでも、今みたいに違法ビジネスではないわ。利益率は高いけど、捕まりそうになったらさっさとたたんでしまうような、腰掛けのビジネスとは違って、一生かけて育てられるビジネスよ。」

 秀麗はナイフとフォークを置いて秋良に向き直った。

「あなたとは、一生のパートナーでいたいの。」

 熱い眼差しの秀麗とは裏腹に、秋良は食事をする手を止めもせずあっさりと受け流した。

「新しいビジネスの話しは、今度の会議の時にでも話し合おう。他に話しはあるか。」

 秀麗にしてみれば、それなりの勇気を振り絞って、このランチで初めてプライベートな話題を切り出したのだ。しかし、秋良は何事もなかったように振舞う。肩すかしを食らった失望感で、噛み切ったセロリがやけに苦く感じた。

「久々に、お金に糸目はつけない超VIPからのオファーよ。自分でも妊娠できるのにオファーするなんて、動機に不純なものを感じるけど…。」

「いつも言っているだろう。俺たちのビジネスに動機なんて関係ない。」

「そうでした…でもね、超VIPだからこそ胸騒ぎがするのよ。決しておとなしいクライアントじゃなさそうだから…。」

 秋良のスマートフォンがテーブルの上で震えた。秀麗に『すまない。』と手のひらを向けると、スマートフォンを取った。三室からの電話だった。

「この前、社長が結果が判ったら教えろと言ってた、宅配便のお姉ちゃんの検査ですが…。」

「ああ。」

「見事に合格ですよ。」

「そうか…。」

「これから彼女に連絡します。」

「いや…俺が行く。書類を机の上に置いといてくれ。」

「えっ、また社長がですか?」

「不都合でもあるか?」

「いえ、別に…。それではよろしくお願いします。」

 不服そうな返事に、秋良が電話を切りかけると、三室が慌てて話しを継いだ。

「あっ社長、ちょっと待ってください。」

「なんだ?」

「どうでもいいことなんですが…。」

「だから、なんだ?」

「彼女はあの歳で珍しく…処女のようですね。処女なのに受胎するなんて、まるで聖母マリアだ。」

 秋良は三室の余計な無駄口に、何の返事も返さず電話を切った。秀麗はそんな秋良の口元に、わずかながら微笑みが浮かぶのも見逃さなかった。

 

 真奈美はスーパーの野菜売り場で悩んでいた。家に戻ってきた母も、そろそろ病人食ではなくてまともな家庭料理が食べたいに違いない。今夜は肉野菜炒めでもと思ったのだが、思いのほかネギが高い。なんとか今月の返済日は乗り越えたものの、財布の中にお金が無いのは変わらなかった。これからわずかでも豚バラも買わなきゃいけないし、まさかもやしだけの野菜炒めと言うわけにはいかないし…。財布の中身を覗き込みながら、思案に暮れていた。

「そんなに悩んでいたら、夕食に間に合わないぞ。」

 突然背後から声を掛けられて、驚いて振り返るとすぐ間近に秋良がいた。あまりにも近づいて立っていたので、真奈美は後ろに飛び下がり、その拍子に、野菜が置いてある台に足をひっかけてよろけた。秋良はその逞しい腕で、そんな真奈美をしっかりと抱きかかえた。男性の腕に抱かれたことのない真奈美は思わず赤面しながらも、その腕の中に居ると、いままで感じたことのないような安心感を覚えるのを禁じ得なかった。この腕ならこのまま失神しても、きっと軽々と自分を抱き上げてくれるだろう。

「なんでここに?」

 真奈美は慌てて体制を立て直して、わが身を秋良の腕の中から離した。

「電話にも出ないし、家に寄ったらここだと言われた。」

「家に寄ったんですか?」

「なんか問題でも?」

「別に…良いですけど…。」

「何を悩んでいるんだ?」

「久しぶりに、お母さんに家庭料理を食べさせたいんですけど、結構野菜が高いから…。」

 そう言いながら財布を覗き込む真奈美。しばらくそんな彼女を見ていた秋良が真奈美の腕を取った。

「来い。」

 秋良はスーパーの入口へ戻ると、一番大きなショッピングカートを引出し、真奈美の腕を取って各売り場を引きまわした。有機野菜の白菜、椎茸、長ネギ、ニンジン、高級豆腐、葛切り、うどん、そして高級だし昆布。食材の買い物など滅多にしないはずの秋良なのに、解っているのかいないのか、どれもが、大陳のお得品ではなく、今まで真奈美が手を出したことのない高額な棚にあるものばかりだ。高級なスーツ姿でカートを押しながら食材を買う秋良が、妙にアンバランスで、真奈美の顔にも自然に笑みが浮かんだ。値段も賞味期限も見ずに、次々とカートに投げ込む彼は、ちょっとかっこ良いかも…。いやいや、たいした買い物ではないのに、そんなことを感じるのは、自分の身体によっぽど貧乏が身に着いてしまったのだと、慌てて打ち消した。

「いったい晩御飯は何を…。」

 真奈美の問いに答える代りに、秋良は彼女を精肉売り場へ引き連れて行く。そこで、高級国産和牛を指定して、薄くスライスするように注文した。

「今夜は、しゃぶしゃぶだ。」

「そんなこと言っても…ガスコンロも、しゃぶしゃぶ用の鍋もないし…。」

 秋良は呆れたように真奈美を見つめると、今度は彼女を日用品売場へ引きずっていき、カセットコンロと鍋をカートに投げ込む。真奈美もこの際だからと、秋良の豪快な買い物に便乗して、切れていたラップとかトイレットペーパーとか、はたまた食器洗剤などをこっそりと投げ込んだ。当然カートは満杯。カートを押してレジに行こうとする秋良に、今度は真奈美が待ったを掛けた。

「これを忘れては、話しになりません。」

 真奈美は、味ポンとゴマだれを手に、にっこりと笑った。

 カートの買い物を、秋良がカードで清算すると、真奈美はホクホクしながらスーパーの袋に買い物を詰めた。はちきれんばかりに膨らんだスーパーの大袋が四つ。こんな大量な買い物なんて久しく経験していない。やっぱり買い物って楽しい。しかしその楽しさが、秋良と一緒に何かをするということからきているのだとは、認めたくはなかった。

「ひとつ持ってください。」

「なんで俺が…。」

 結局、パンパンに膨らんだスーパーの袋を両手に提げて、ふたりは肩を並べて家に歩き始める。どちらも黙ったままで、相手の息づかいを感じながらただ黙々と歩いた。秋良にしても、こうした真奈美との沈黙のひと時が案外心地よくて、仕事の話は出来るだけ最後にしたいと考えていた。やがて、ふたりは家の前にたどり着く。お互いが向かい合うと、真奈美は黙って秋良の言葉を待った。

「家族との食事も当分できなくなるな。」

 真奈美は、買い物の楽しさが徐々に薄れていくのを感じた。

「合格…ですか…。」

 秋良はスーパーの袋を真奈美に手渡した。

「明日中に宅配の仕事のけりを付けて荷物をまとめろ。すでに部屋の準備は出来ている。明日の夜に迎えの車をこさせるから、会社で会おう。契約はその時だ。」

 真奈美は覚悟を決めたかのようにひとつ息を吐くと、今度は悪戯っぽく笑って秋良に声をかけた。

「あれ、一緒に食べていかないんですか?しゃぶしゃぶ以外にも、おいしいご飯作るのに…。」

「たとえ餓死しても、お前が作った料理なんか食うもんか。」

 秋良はそう言い捨てて、大股で去っていく。真奈美は、秋良の姿が見えなくなるまで、その背を見守り続けた。

『絶対にあたしの作った料理を食わしてやるからね…。』

 真奈美と秋良の壮絶な闘いが、今火ぶたを切ったのだ。

 

 真奈美の不思議な生活が始まった。まず三室から精細な生活上の規制とスケジュール表を渡されこんこんとレクチャーを受ける。

 あてがわれた部屋は、住みこみ宿舎と言うよりは、セキュリティのいき届いた豪華なマンションだった。女性らしい小奇麗な内装が施され、毎朝定時に起床すると、かすかに漂うアロマとBGMが脳下垂体を心地よく刺激する。規則その1.規則正しい生活を維持し女性ホルモンの天敵であるストレスを回避する。

 フリージングされた料理が支給され、毎日の食事は徹底的に計画された栄養食を食べた。特に鉄分の多い食事の摂取が意識され、貧血を防ぎ、疲れにくくなる身体づくりが心がけられている。まあ、料理をする楽しさはなくなってしまったものの、味はなかなかのものだったのでなんとか我慢できそうだ。規則その2.バランスの良い食事で内臓の働きを改善し、体内臓器の血行促進をはかる。もちろん一番活性化させたい臓器は子宮である。

 食後しばらく休憩した後は、ウオーキングだ。歩数が決められていて、毎日それを消化することが義務付けられていた。ランニングやジムなどの強めの運動は回避。自分に規定体重が設定され、ホルモンバランスを崩す原因となる、痩せすぎ、太りすぎは罪悪とされていた。規則その3。適度な運動で適正体重を実現し、維持し続けること。

 部屋にいても薄い半袖Tシャツやショートパンツで過ごすことは許されなかった。身体を冷やしすぎて生理のリズムが狂うことも少なくない。常に長袖とタイツ系の肌着を着用。エアコンの使用も極端に規制され、入浴の仕方もこと細かくマニュアル化されている。どちらかと言うと熱い風呂が好きな真奈美は、体温くらいのぬるめのお湯に、30分もつからなければならない入浴方法になかなか馴染めず苦労した。規則その4。血液循環を悪くする冷え性を徹底的に避ける。

 外出時には、ハードサポートのパンスト、ガードル、タイトなズボン、ウエストをしめつける衣服やハイヒールは厳禁。特に腰回りが楽な服装を着用することが義務付けられている。骨盤の変形を恐れての規制で、骨盤が広がったり、ガッチリ固まってしまうと内臓の位置が全体的に下がり内臓下垂という状態に陥り、臓器の機能低下を招く。規則その5.内臓の受け皿としての骨盤に悪影響のある服・装身具の排除。

 嗜好品については、お酒とコーヒーは摂取限度が規定されており、タバコは厳禁。ケーキなどの甘いお菓子は、食事後に支給されるデザートの範囲。ジャンクフードなどの間食は禁止。そして、当然のこととしてセックスは厳禁されている。規則その6。ストイックな生活に耐え、妊娠しやすい身体づくりに励む。もっとも、今まで極貧に耐えていた処女の真奈美にしてみれば、どれも何の苦にもならなかった。

 真奈美も何日か過ごしているうちに、住み込みでなくてはならない意味が理解できるようになっていた。機密保持の点もあるが、徹底した生活管理をすることで、生理周期の管理と妊娠しやすい身体づくりを図る必要があるのだ。疲労困憊の毎日から一変して、そんな生活を2週間も続けているうちに、真奈美の身体に効果が現れてきた。血行が良くなってきたせいか、肌の白さと潤いが増し、毎日のお手入れで髪の毛にも輝きが出てきた。特に体型の変化が著しい。いき届いた栄養と適度の運動で、全体的に柔らかな丸みを帯び、それでいて絞れるところは絞れているから、くびれのある本当に女性らしい体型になって来たのだ。彼女の日々を管理する三室は、女性らしく変わっていくそんな彼女を見て少なからぬ驚きを覚えていた。

 

 一方、雇用契約の主なる業務が代理出産としても、一日中部屋にいて、日々のんびりと暮していくわけにもいかない。働いていないのに、なぜ暮らせていけるのかと近所の住民や税務署に不審に思われてもいけないので、彼女にも建前上の仕事があった。秋良がオーナーの会員制高級プライベート倶楽部のフロアスタッフだ。

 富裕層の楽しみのひとつに、高額な会費を払って、会員だけでエクセレントな空間を共有する「プライベート倶楽部」ライフがあるが、秋良達はそんな倶楽部のひとつを経営していた。代理母の契約をした女性達は、表向きは皆ここで働いている。もちろん秋良達の裏稼業を知らず、本来のスタッフとして働く人間がほとんどであるが、代理母契約の女性達はビーナスグループと称され、それらスタッフとは異なる就業形態で働いていた。ビーナスグループは、週に3回程度の出勤。また、10カ月近い長期休暇が許されるのも大きな特色だ。主な仕事は、特別室のドリンクカウンターに待機し、時折やってくる品のいい夫婦や豪華な装飾品に身を固めた夫人へのティーサービスを担当する。働く曜日と時間はローテーションで割り振られ、不要な情報交換を防ぐため、出来るだけビーナスグループ同士が顔をあわせないようにしていたが、時々複数のビーナスグループのメンバーに特別招集がかかる時がある。かわるがわるゲストのテーブルサービスを担当させられるのだが、真奈美は、これが以前三室の言っていた代理母選定の最終選考ではないかと直感していた。

 死刑執行の日を待つような気分で毎日を過ごす真奈美ではあったが、出来るだけ代理出産の事は考えずすむように、以前のように忙しい毎日を取り戻そうと心掛けた。もともと借金に追われ、倒れそうになるまで身体を動かし働いていた真奈美にしてみれば、こんな暇な仕事とか時間に余裕のある暮らしには慣れていない。仕事場ではカウンターの掃除から食器の片付けまで、私生活ではトイレの掃除から窓の拭き掃除まで、あちこちで仕事を見つけてはせっせと動き回った。三室はそんな真奈美を見て、余計なことをするなとたびたび叱った。

 しかし忙しい毎日を作っても、代理出産への恐怖と同様に、打ち消せないもうひとつの気持ちがあることも真奈美は意識していた。心の片隅で疼く小さな気持ではあったが、秋良に会いたかった。自分の管理担当である三室には毎日のように顔を合わせるが、ベルヴェデーレのアポロン、秋良の顔は滅多にお目にかかれない。秋良は倶楽部にはほとんど現れないので、実のところ、契約した日以来彼とは会っていなかった。だから、突然特別室のドアを開けて1カ月ぶりに現れた秋良の姿を見た時に、真奈美の足が震えたのも無理はない。

 

 秋良は真奈美に一瞥もくれずに、黙ってテーブルに着くと書類をめくり始めた。真奈美は、対応マニュアル通りにコーヒーを煎れると、彼のテーブルに持っていく。

「なんで…震えているんだ。」

 書類から目も上げずに秋良が言った。確かに真奈美の持つコーヒーカップが、小さくカチカチと鳴っている。

「震えてなんか…いないわ。」

 真奈美は投げ捨てるようにカップをテーブルに置いた。

「それに…なんで未だに俺とタメぐちなんだ?」

 秋良は顔をあげて真奈美を見た。痩せたんじゃないかしら。久しぶりに秋良の顔を間近に見た率直な印象だ。もともと彫刻のような顔だが、あごの先がとがり、彫りも深くなって、緑がかった眼光がさらに険しさを増したような気がする。きっと満足に食事も摂っていないんだ。真奈美は、彼が少し心配になって返事を返すのを忘れていた。秋良は、彼女からまじまじと見られてばつが悪くなってきたのか、視線を書類に戻した。

「もういい…持ち場へ戻れ。」

 ドリンクカウンターに戻った真奈美は、手持ち無沙汰でもあるので、たいして汚れてもいないのにせっせとグラスを磨き始めた。磨きながらも、チラチラと秋良を盗み見する。秋良は、その後は書類に集中して、真奈美が居ることも忘れているようだった。

「秋良、待たせてごめん。」

 しばらくすると勢いよくドアを開けて、秀麗が入って来た。秀麗を初めて見た真奈美は、とてつもない美人がいるもんだと感心するがあまり、接客対応もせずしばらく彼女を眺め続けた。

「前の打合せが長引いちゃって…。ホントにごめんね。」

 真奈美は自分以外に、秋良にタメぐちの女が現れたことがちょっと腹立たしかった。

「ねえ、あなた、ぼうっとしてないで、私にもコーヒー頂戴。」

 秀麗に催促されて、職務を思い出した真奈美は慌ててコーヒーをサーブする。カウンターに戻ってグラス磨きを再開した真奈美は、ふたりの会話に関心が無い振りをしながらも、耳はダンボになっていた。

「秋良、彼女なの?三室マネージャーに毎日報告させているウテルスは。」

「ああ…。」

「そんなに気になる?」

 秋良は返事をする代わりに、荒々しく席を蹴って立ち上がった。

「超VIPがクリニックに着く時間だ。いくぞ。」

「ちょっと…コーヒー一杯飲むぐらいの時間はあるでしょう。」

 抗議にもかまわず秋良が大股で部屋を出て行った。仕方なくコーヒーを諦め、秀麗も慌てて彼を追った。

『ウテルス?毎日報告?気になる?』

 テーブルのカップを片付けながら、真奈美はかすかに耳にした秀麗の言葉を何度も反芻していた。

 

「確かに彼女は他のウテルスと違っているわよね。」

 クリニックへ向かうタクシーの中で秀麗が秋良に言った。

「なんだ、また彼女の話か?」

「普通のウテルスは、遊ぶ金を使いすぎてカード破産なんてケースがほとんどだけど、彼女の場合、病身の母親とまだ高校生の妹を抱えて、父が残した負債を必死に返している。まるでドラマのヒロインよね。」

 秋良は黙って外を眺めている。

「それに、決して美人とは言えないけど、清楚な感じだし…。」

「秀麗。何が言いたいんだ?」

「はっきり言えば、彼女が他のウテルスと違っていると言うよりは、彼女へのあなたの対応が他のウテルスと違っているのが心配なのよ。このビジネスを始める時に、あなたが彼女たちをウテルスと名付けた理由を忘れないで。」

「何をばかなことを。」

 秋良は吐き捨てるようにそう言うと、窓の外を見ながら口をつぐんでしまった。

 

「私どものレディースクリニックは、国内でも最新の設備を有しておりまして…。」

 守本ドクターが超VIPである夫人をアテンドしながら、クリニックを案内していた。

「こちらをご覧ください。ここは受精卵を育成するドックですが何か聞こえませんか?」

 守本ドクターは、耳に手をあててドックに近づけたが、正直説明を受ける夫人はたいして興味もなさそうだった。

「そうなんです。クラシック音楽をドック内に流しております。当クリニックでは、特にモーツアルトが受精卵に安心感を与え、安定した初期分割を促すという実証例に基づき、このような設備を設けております。学術発表はされておりませんが…。」

 守本ドクターが次の部屋へゲストを導く。

「ここは、奥様には直接関係ありませんが、精子採取ルームです。ここでも、精子を採取する場合、オルガニズム時における興奮度が高ければ高いほど元気な精子が採取できるという当クリニックの実証例に基づき、ご覧のように大型のモニターとサラウンドスピーカーで、多大な臨場効果を演出できるシステムを構築しました。」

「ソフトはどうされるの?」

 夫人が初めて口を開いた。

「良いご質問ですね。いわゆる正規市販モノでは高い興奮度が得られないので、イリーガルでも高い興奮が期待できるモノを採用しております。」

「あら、そんなものどこから入手されるのかしら?」

 守本ドクターは、夫人の耳に口元を近づけて囁く。

「ここだけの話ですが、地域暴力団が市民にもたらす唯一の社会貢献ソフトです。」

 夫人は呆れて首を振った。守本ドクターはかまわず夫人を次の部屋に案内する。そこは薄暗い部屋で、四方を囲む壁面全体がスクリーンになっていて、クジラが海中を泳ぐ映像が映し出されている。室内はクジラが鳴く環境BGMが響いていた。

「ここはリラクゼーションルームです。奥様、どうぞここにお座りになってください。」

 守本ドクターは、カプセルのような椅子を指さして、夫人を促した。座って見ると身体全体がカプセルに包まれ、身体が浮いているようにゆったりと動く。

「リラックスできますでしょう。このように当クリニックでは生殖補助医療最先端の技術と設備で、不妊で悩む皆様に幸せな赤ちゃんづくりをご提供いたしております。」

 守本ドクターは、ひと通りの説明を終えて、夫人を応接室に導いていく。応接室では秋良と秀麗が待ち構えていた。

「ご紹介いたします。当グループのCEOの小池とゼネラルマネージャーの戴秀麗です。」

 それぞれが夫人と挨拶の握手をすると全員が席に着いた。夫人はこの座のイニシアチブは自分にあると主張するように、誰よりも先に口火を切った。

「主人の凍結精子は持ち込ませていただきますので、私の卵子を抽出してはやく赤ちゃんを作ってください。とにかく私にとって重要なことは、スピードです。事情は説明する必要はないかと思いますが…。」

「進め方といたしましては、奥様の卵子を抽出して、解凍した凍結精子と体外受精をさせます。その時の遺伝子データで、適正代理母をリストアップし、奥様の最終確認の後、代理母の排卵日に合わせて受精卵を子宮に着床させます。少なくともこの段階迄に1カ月は要しますので、その後を考えますと、すべて順調にいって1年以内にクアラルンプールで新生児を受け取ることができるでしょう。」

 守本ドクターが簡単に流れを説明した。

「はっきり申し上げます。今日からぴったり1年後に、私の自宅のベビーベッドに赤ちゃんが寝ていなければ、契約違反とみなし、損害賠償を請求いたします。」

「しかし奥様、凍結精子の体外受精の成功率は低いですし、遺伝子異常の有無の問題もあります。それに、受精卵の着床も100%成功するとはいえません。それなりのリスクは必ずありますから…。」

 慌てて守本ドクターが発言するも、夫人は受け付けなかった。

「そのリスクをクリアする額を提示しなさい。」

 今度は秀麗が夫人に向って発言する。

「それに損害賠償といわれましても、法的保護のある契約締結でもありませんので係争には…。」

「係争なんて低レベルなこと言ってないのよ。大臣級の国会議員の夫を持つ私にしてみれば、法的保護のない契約での損害賠償は、夫の力を利用しての徹底した報復こそが一番ふさわしいと思っているの。」

 正真正銘のインテリやくざだ。秀麗の膝がわずかに震えた。

「そう言うことでしたら奥様、残念ですが今回のご依頼は…。」

 しかし夫人は、秀麗に最後まで言わせなかった。

「お嬢さん、勘違いなさらないで。私の顔を見て依頼を聞いた時点で、契約は交わされたも同じなのよ。」

 

 夫人をクリニックから送りだした三人は、すぐに院長室に集まった。代議士夫人とのやり取りの緊張から解放されて、秀麗と守本ドクターの口も幾分か軽くなっている。

「とんでもない客に捕まったわね。」

「それにしても、あんな額が承認されるとは思わなかったよ。」

「実際に、お金を積めばリスクを低めることができるの?」

「科学的には無理だね。ただ、従事者の気合いは高まるけど…。」

「成功させれば、この仕事の発展どころか、新しいビジネス開発への強力なコネになるのは間違いない。でもその逆を考えると、身体の震えが止まらないわ。」

 秀麗と守本ドクターのやり取りを聞きながら、秋良が口を開いた。

「あのVIPの旦那は、厚生労働省と外務省の大臣経験者だ。それに裏では右翼団体との強力なパイプがあるとも噂されている。断れないと解ったからには、とにかく成功させるよう前に進むしかないだろう。」

 秀麗も守本ドクターもうなずくしかなかった。

 

 真奈美が今日の仕事を終えて帰宅しようとしていた。従業通用口を出て駐車場を抜けようとした時、秋良の姿を見つけた。はっとして、慌てて車の陰に身を隠したが、なぜ隠れなければならないのか自分でも理解できない。彼は見覚えのある高級外車の運転席ドアを開き、健やかに伸びた長い左腕をドアの縁に掛けてスマートフォンで話し込んでいる。薄暗くなった駐車場の淡い光で、細かいディティールは解らないが、全体的にシルエットが浮き上がり、そのまま動かないでいてくれたら、ピオ・クレメンティーノ美術館(バチカン博物館)にあるベルヴェデーレの中庭を囲む彫像そのものである。

 真奈美は全身の勇気を振り絞って、秋良の車に近づくと図々しく助手席に座りこんだ。スマートフォンで話していた秋良は、真奈美の姿を認めてわずかに驚いたように言葉を飲んだが、重要な用件だったのか、話を中断させずにただ真奈美の行動を眼で追うだけだった。

「雇用主の車に勝手に上がり込む理由を聞かせて欲しい。」

 話を終えた秋良が、運転席に腰掛けながら真奈美を睨みつける。

「契約の中に、会社は私の安全に対して最大限の配慮をするという事項があったわよね。」

「ああ。」

「最近帰宅の途中で、変な視線を感じるの。家まで送って。」

 前を見つめたまま秋良と視線も合わせぬ真奈美。実際のところ、勝手に上がり込むことにすべての勇気を使い果たした真奈美は、これ以上助手席に居座ることを拒否する言葉が秋良から出たら、それに対抗するなんて力は残っていなかった。幸いなことに、彼女の横顔をしばらく眺めていた秋良は、諦めたように何も言わずに、スマートキーのボタンを押し、エンジンをスタートさせる。それで真奈美もやっと安心できた。身体の緊張を解いてシートベルトを装着すると、黙ったまま車窓から流れる街の風景を眺めていた。

 秋良は運転をしながら真奈美を盗み見た。特別室で久しぶりに会った時も感じたのだが、本当に彼女は変わった。身体測定の数値と行動報告で、その変化を知ってはいたものの、こうして手で触れる範囲で彼女に接すると、前には彼女から感じることがなかった女性美のオーラが、香って来る。しかし、秋良の仕事では女性の美を求めてはいないので、真奈美にこんな変貌を期待していたわけではない。必要なのは出産できる機能だ。秋良はあらためて、彼女を最初に見た時を思い出していた。あの時、彼女に妙なこだわりを感じたのはいったいなんだったのだろう。真奈美が家族や周りの人々をあたたかく包む時に発していたものが、いったい何であったのかその時の秋良に解るはずもなかった。

「さっき言っていたことは…、本当なのか?」

 秋良が唐突に口を開いた。

「えっ?ああ、本当よ。実際に姿を見たりはしていないんだけど、難か見られているみたい。」

「そんなものを怖がるような人間だっけ?」

 真奈美は本心を見透かされまいと必死に抵抗する。

「会社から女の身体になるための餌づけされているうちに、心もか弱くなったのかしら…。」

 秋良から話しかけられた嬉しさで、真奈美の口が軽くなった。

「ところで、ちゃんと食べているの?」

 秋良は、真奈美の問いに返事を返さず黙ってハンドルを握り続けた。

「なんか、痩せたんじゃない。」

「君が気にすることじゃない。」

「外食ばっかりなんでしょ?」

「余計な御世話だ。」

「たとえ質素な食材でも、自分の為だけに作られた料理って大切なのよ。」

「偉そうに…。」

「あなたには家政婦さんが必要ね。なんなら、これから家に行って食事を作ってあげましょうか?」

 秋良は突然ハンドルを左に切ると急停止した。

「それ以上母親の真似ごとを言うと、車から叩きだすぞ。」

 ものすごい剣幕で真奈美に迫る秋良。さすがの真奈美もちょっと調子に乗り過ぎたと反省した。

 それから真奈美のマンションに着くまで、秋良は口を一文字に閉めて、ただひたすら前を見て運転していた。真奈美も一切の会話を拒否するような彼の様子に、これ以上声を掛ける勇気が出ない。真奈美のマンションの前に車を止めても、秋良は相変わらず黙ったままだ。真奈美は仕方なくシートベルトを外した。

「送ってくれてありがとうございました。」

 真奈美が車のドアを開けて出ようとすると、秋良の口がほどけた。

「ちょっと待て。」

「はいっ?」

「スマートフォンを出せ。」

「なんで?」

「いいから、出せ。」

 真奈美はしぶしぶ自分のスマートフォンを秋良に渡した。彼は真奈美のスマートフォンに番号を入れて、どこかに電話をかけたようだった。すると、秋良の胸ポケットにあるスマートフォンが鳴った。

「いいか、ちょっとでも危なそうな奴を見かけたら、自分で何とかしないで、必ず連絡しろ。いいな。」

 そう言いながら秋良は、スマートフォンを投げ返した。

「行け。」

 スマートフォンを握りしめながら呆気にとられる真奈美を残して、秋良の車はタイヤをきしませて走り去って行った。

 

 真奈美は特別室のカウンターで待機しながら、ため息をひとつついた。先日秋良に送ってもらった時のことを思い出していたからだ。あの日で怒鳴られたのは2回目。私は、冷静な彼を瞬時に沸騰させる特別な才能があるのかもしれない。彼を怒らせる原因は、私にあるのか、私が話す内容にあるのか…。2回の経験をどう思い返しても、真奈美は怒鳴られた理由となる共通点が見いだせなかった。要するにあいつは私が嫌いだってことなのかしら、でも…。真奈美は自分のスマートフォンを取り出すと、あの日秋良が登録した電話番号を眺めた。嫌いな相手に自分の個人番号を教えるとは思えない。連絡したら本当に彼は飛んでくるのだろうか。真奈美は彼の番号を表示させたまま、発信ボタンの上に親指をのせた。試しに電話してみようかしら。

 その時突然特別室のドアが開いた。さすがの真奈美もそこから秋良が顔を見せた時は、正直驚いた。しかし、彼はひとりではなく、その後に続いてすぐに夫妻が入って来るのが解ると、真奈美も仕事モードに切り替わる。

 秋良は、夫妻に椅子を勧めた。どうも彼にとっては大切なお客様らしい。よく見れば、初老の夫には、かなり年の差がありそうな妻だ。ふたりの身なりから、かなりの富豪と予測できたが、脂ぎった夫と着飾った妻のカップリングは、およそ品という言葉からは遠い位置にいた。

 秋良がアイコンタクトで、真奈美にコーヒーサービスを促す。真奈美は、秋良の顔を潰さないようにと、失礼が無いように丁寧にサービスに努めた。その間、夫妻はジロジロと真奈美を見つめ、まるで何かの品定めをしているようでもある。真奈美は直感した。自分の直感で、自分自身の足が震えた。いよいよなのか…。サービスも終わると、秋良がまたアイコンタクトで、部屋の外に出るように指示を出した。真奈美は静かに礼をして部屋を出た。

「彼女が代理母になる予定の女性です。」

 秋良の説明に、夫人が不満を呈す。

「あんな田舎くさい娘が…。」

「ご夫妻の血液型や遺伝子の適合から考えて、彼女が一番出産成功率の高い代理母です。」

「あの田舎臭さが、私たちの赤ちゃんに移ったら、堪らないわ。」

「医学的に言っても、彼女の遺伝子情報がおふたりの受精卵に伝達されることはありません。」

「でも…。」

「いいじゃないか。彼はプロなんだから、彼の選択に従おう。」

 いよいよ夫が口を開き、妻の不満をなだめた。仕方なく夫人は白旗を上げる。

「あなたがそう言うなら…。」

 夫人は改めて秋良を見据える。

「この私たちが従う以上、プロとしての結果は必ず出してもらいますからね。」

 夫妻はコーヒーカップに口を付けることなく席を立った。秋良が夫妻を送り部屋を出ると、真奈美が待機しており、出てきた夫妻に深々と礼をした。真奈美が顔をあげると、夫妻を送りにいく秋良と一瞬目があった。その緑を帯びた瞳の奥に、今まで見たことのないような憂いがあることを、真奈美は見逃さなかった。

 

 社長室の会議デスクに、マネージャー達が集まっていた。秀麗だけは、海外出張だったので、秋良の報告に対してウエブのライブカメラを通じて発言していた。

「それで、あのインテリやくざの夫人は納得したの?」

「ああ、なんとか…。」

「そうか、いよいよ彼女も本当の聖母マリアになるのか…。」

 秋良の答えを聞いた三室が軽口をたたく。秋良は無視して言葉を続けた。

「ドクター、今後のスケジュールは?」

「受精卵が子宮内膜に一番着床しやすいのは排卵日であることは、みんなもよく知っているだろう。彼女の排卵日は2週間後なので、そのタイミングに合わせて、受精卵を解凍し、彼女の子宮に流し込むよ。」

「それで、彼女には告示したの?」

「いやまだだ。三室、彼女に伝えておいてくれ。」

「あれ、彼女に関しては、いつも社長が直接やってたのに、告示だけは私ですか?」

 秋良が怒ったように三室を睨むと、三室は首をすぼめてうなずいた。

「みんなも知っての通り、この案件については失敗が許されない、各担当分野で細心の注意を払ってすすめてくれ。」

 秋良の言葉を聞いて、各マネージャーは席を立った。秀麗はラインをオフし、他のマネージャーも部屋を出て行くと、秋良はひとり社長室に残り、バーカウンターで、ハイボールを作った。

 今日の仕事は終わったと言うのに、どうもすぐ家に帰る気分にはなれない。グラスの中の氷を転がすと、カラカラと乾いた音が響いた。秋良は、作ったハイボールに口を付けることなく、いつまでも氷を転がしながら、自分の胸の中にあるモヤモヤとした気分はどこからきているのだろうかと考えていた。

 このビジネスを始めて8年間。イリーガルでありながらこの高収益な事業を維持できたのは、彼の緻密で冷静な洞察力と大胆な決断力があったからこそだ。どんなトラブルも、冷静に分析し、大胆に決断し、考えうる最善の策で対処して来た。しかしそんな自分が、今胸に飛来するモヤモヤとした気分をまったく分析できないでいる。分析できないから、対処の方法が見つからない。こんなことは初めてだった。秋良は学生時代に読んだ本の一節を思い出した。『どうしても理解できないものは、存在していないことにするのが一番いい。』その言葉通り、今夜は倒れるくらい大酒を食らおう。そう決意して握りしめたグラスを、口に運んだ。その時、秋良のスマートフォンが鳴った。

 

 真奈美は、なぜか秋良の家のソファーに座っている。そして部屋の様子から、秋良を理解する一端をなんとか見つけ出そうと試みていた。

 秋良の家は、高級マンションの最上階にあり、夜の帳がおりた今では、リビングから都市の瞬きが一望できる。インテリアはモダンでシンプルだが、真奈美に言わせれば無機質過ぎて、生活の場としてはふさわしいとは思えない。確かにこんな部屋では食欲なんて起きっこない。

 真奈美は今自分がここにいる経緯を思い返して見た。今日仕事を終えた真奈美は、帰る路でまた視線を感じた。初めて視線を感じてから、その視線は日に日にそのねばりつくような不快感を増していたのだが、今日はあきらかに違っていた。真奈美の身体のあちこちを、鋭い刃物のように刺してくるのだ。その視線の変貌に邪悪な決意を感じた真奈美は、振り払うように、足を速めると自分の部屋に逃げ込んだ。

 ドアにチェーンロックを掛けて、とりあえず一息つく。さて、秋良に連絡したものかどうか悩んだ。今日、接客していた彼の様子では、仕事が大変そうで自分なんかに構う暇なんてないのではないかと感じていた。スマートフォンを手にとりあえずリビングへと入っていった真奈美ではあったが、自分の寝室のドアを見て戦慄を覚えた。締めていたはずのドアが、わずかに開いていたのだ。今度は躊躇なく秋良に電話した。

 彼は飛んでくると言ってはくれたものの、彼を待つ間自分はどうしたらいいか解らなかった。外に出た方がいいのか、家にとどまっていた方がいいのか。しばらく思案していると、寝室の方から物音が聞こえた。真奈美の身体が凍りついた。同時にドアにチェーンロックをしてしまったことを悔やんだ。全神経を寝室の方向に集中しながら、音をたてないようにゆっくりと出口の方向に進む。一歩。二歩。三歩目だった。寝室のドアがゆっくりと開いた。寝室から獣の殺気がドライアイスの煙のように床を伝わって真奈美の足もとに絡んできた。来る。そう感じた瞬間。

「真奈美!」

 ドアを叩きながら叫ぶ秋良の声がした。その声が邪気を追い払った。家具を蹴散らして逃げる音が寝室から聞こえてきた。真奈美も秋良の声に弾かれるようにドアに駆け寄り、震える手でチェーンロックを外してドアを開けた。飛び込んできた秋良は、何よりも先に真奈美を腕の中にかくまうと、逞しい腕の力からは想像できないほどの優しい声で彼女に囁いた。

「もう大丈夫だ。」

 あぁ、誰かに守られるって素敵…。秋良の胸の中で震えながらも、真奈美はそんなことを感じていた。秋良は、彼女の部屋の中を確認もせず、そのまま真奈美を抱きかかえるようにして自分の家に連れてきたのだ。

 

 真奈美は、秋良が着替えから戻る間、興味津々で部屋を見回していた。普通は家主の過去の断片でも知れるようなものがあるはずなのに、そんなものは一切見つからない。

「なんか探しものか?」

 部屋着で出てきた秋良が、殺人現場の鑑識官のように振舞う真奈美に釘をさした。

「いえ、別に…。」

 あらためて秋良を見ると部屋着と言っても、このままクラブへ行けそうな装いだ。こいつは何を着ても似合いやがる。真奈美はぶつぶつ言いながら、長い脚を投げ出してソファーに座る秋良をチラチラと横目で見ていた。

 こうしてひとつ部屋の中で秋良とふたりきりでいると、胸がドキドキしてなんか落ち着かない気分になる。そんな自分を悟られまいと、真奈美は盛んに秋良に話しかけた。

「お茶でもいれましょうか?」

「俺の家で何言ってるんだ。動くな。」

「…お腹空いたでしょ。何か作りましょうか?」

「いいから、動くな。」

「…なんなら洗濯でもするけど…」

「信じられないこと言うやつだな。」

 やがて三室がやって来た。あちこちを駆けまわって来たのか、多少息が上がっていた。

「どうだった?」

「確かに侵入の痕跡があります。あのマンションのセキュリティは固いはずなのに、それを破って侵入してくるなんて…。」

「どうぞ。」

「ああ、ありがとう。」

 真奈美が水の入ったグラスを小盆にのせて、三室に差し出した。秋良のキッチンの冷蔵庫を勝手に開けて、ミネラルウオーターを見つけ出したのだ。

「勝手に何やってるんだ!」

 この家の新妻のように振舞う真奈美に、秋良が呆れて罵声を浴びせるも、彼女は平然として、ちょこんと秋良の横に並んで座った。三室は笑いをかみ殺しながら、グラスの水を一気に飲み干した。

「ところで、偶然なのか、それとも狙われたのか?」

「侵入するなら他にもっと楽な部屋があるのに、わざわざ難しい部屋を選んでいます。あきらかに彼女を狙っていますね。どこかで彼女を見染めたストーカーの仕業ですよ。若奥さん、犯人に心当たりは?」

 三室の軽口に、苦虫をかみつぶしたような顔をする秋良。真奈美はそんな彼に気を使いながら小さな声で返事をした。

「まったく…ありません。」

「正体不明なストーカーに狙われるなんて…。君は今では、会社にとって一番重要なウテルスだよ。何かあったら大変だ。」

 三室の話を聞いて、真奈美の顔つきが変わった。

「私にオファーが入ったんですね。」

 正式な告示前に彼女に悟られてしまった自分のミスに、黙りこむ三室。仕方なく秋良が返事を返した。

「そうだ。」

「それで…死刑の執行はいつなんですか?」

「嫌なことを言うな…。二週間後の排卵日だ。」

「そうですか…。」

 リビングに気まずい沈黙が流れた。真奈美は陶器のように固まって、考えこんでしまっている。

「いずれにしろですね…。」

 三室が気まずい沈黙のきっかけとなった自分の失言を、挽回しようと無理に口を開く。

「今夜は、彼女をひとりにするわけにはいかないでしょう。」

 秋良が三室を見た。

「僕は駄目ですよ。今、同棲中なのは社長も知ってるでしょう。」

 三室が秋良を睨み返す。

「どう考えたって、ひとつ屋根の下で暮らしても、冷静に彼女を見守れる安全パイ…いや、適任者は、社長以外にいないでしょう。」

 三室の言葉に今度も真奈美が反応した。ゆっくりと顔をあげると弱々しい笑みを顔に浮かべてじっと秋良を見つめていた。その時はその表情が意味している事がわからなかったが、やがて秋良は真奈美の奇行によってその意味を知ることになる。

 三室が出て行った後も、リビングに残された真奈美と秋良は、しばらくの間黙ってお互いを見つめ合っていた。

「これからのことは明日考えるとして、とにかく、今夜は俺のベッドで休め。シャワーを浴びている間に、パジャマを出しておくから…。」

「あなたはどうするの?」

「このままソファーで寝る。」

「そう…。」

 真奈美は、ため息をひとつつくと、リビングで服を脱ぎ始めた。

「何やってるんだ!」

 驚く秋良にも、真奈美は服を脱ぐ手を止めない。

「あなたが、本当に安全パイなのかどうか試しているのよ。」

「馬鹿なこと言ってるんじゃない。」

 秋良は、慌ててクローゼットからガウンを取り出してきた。そして下着姿の真奈美の身体をガウンで包むと、抱きかかえてバスルームに連れて行く。

「おとなしくシャワーを浴びて寝ろ。」

 秋良は荒々しくバスルームのドアを閉めた。

ひとりになった真奈美は、ついに我慢できずに泣き崩れた。激しいシャワーの水滴に身体を打たれながらも、嗚咽は止まりそうにない。覚悟していたはずなのに、身体の震えが止まらなかった。

『セックスもしたことがないのに赤ちゃんができるなんて…。いっそのこと、あいつにレイプされて出来た方が、よっぽど気が楽なのに…。』

 真奈美は人生で初めて、自分の身を思って泣いた。

 

 ミナミは久しぶりにゆったりとした気持ちで表参道を歩いていた。母を群馬大学重粒子線医学センターへ送ってきて昨日家に帰って来ていた。母は今回の照射が終わるまで、医学センター近隣の療養施設に泊まり込む。家を出た姉の代わりに、母の看護、高校生活や家事に追われていた毎日だったが、今は久しぶりの自分の時間を楽しんでいた。

 豪華な晩御飯を家族みんなで楽しんだ夜、突然姉が新しい仕事のために家を出ると言いだした時は驚いた。泣きながら留まるようにお願いしたが、姉は悲しそうな顔で荷物をまとめると母や私を振り切って出て行った。しかしそれからというもの、不思議なことに何処からか金が湧いてきて、生活や母の治療がスムーズに運び始めた。時折見せていた下品な男達の姿もまったく見なくなった。

 家を出てからも、姉は2日に一度は連絡をくれて、母やミナミが元気なことを確認すると安心して『また連絡するから』と言って電話を切る。姉は一方的に病気ことや高校のことを心配そうに尋ねるだけで、何処にいるのかとこちらが聞いても、決して自分の居場所を明かすことはなかった。

 姉の経済的支援で、今ではお小遣いも多少余裕が出来るようになり、ミナミは新しい服を買った。今までなら、表参道を何往復か歩いていれば、どこかの芸能プロダクションがスカウトしてくれるかもしれないと考えるところだが、一度騙されそうになった経験のあるミナミは、もうそんな妄想に浸ることができない。『明日の安室さまになる』という夢は、誰も運んできてはくれない、自分で掴まなければならないのだ。そのためには、アーティストになるための訓練をすることがどうしても必要だと考えていた。それも、出来るだけ早く…。高校を卒業するまで待っていたら実力がつく頃にはおばさんになってしまう。母の看護、高校生活、家事と忙しい毎日ではあったが、睡眠を減らしてでもそれをやり遂げる意欲と自信はあった。しかしながら、いくら小遣いに余裕が出てきたからといっても、ミュージックスクールに通えるだけの額を工面することはできない。

 そんな焦燥感を募らせていても、現実はどうにもならない。とにかく今日は表参道のウィンドーショッピングを楽しもうと、ミナミは気持ちを切り替えた。見ると、街路樹から差し込む木漏れ陽のシャワーを浴びながら、長身のイケメンがこちらに向って歩いてくる。モデルのように長い手足に均整のとれた体躯。それに高級なスーツをセンス良く崩して着こなして歩く姿は、まさにファッション誌から抜け出てきたかのようだ。

 しかし、あまりにも完全な人間は、得てして自分以外のものを愛せないものだ、そのクールな眼差しで相当な女を泣かせているはずだとミナミは勝手に想像した。ボーイフレンドとしては自分の手に余るが、連れまわる便利な兄としては最高だ。金持ちそうだし、あんな兄の腕にぶら下がり無邪気に買い物ができたら、皆から羨望の眼差しを向けられて、きっと強烈な優越感に浸れるに違いない。

 妄想上の兄が、ミナミに何の関心も示さず横を通り過ぎていく。すれ違う瞬間、間近に妄想上の兄の顔を見たミナミはハッとする。見たことのある顔だ。そうだ、あの人が家を訪れた夜に、いきなりお姉ちゃんが家を出ると言い出した。ミナミのモードが、ウィンドーショッピングを楽しむ少女から、容疑者を追う女刑事に切り替わった。

 

「待たせて悪かった。」

 秋良は、三室が待つテーブルに腰掛けた。そこはちょっと歩道に突き出た開放感のある席で、秋良のお気に入りの席だ。長い付き合いで三室もこの社長の性格も好みも、熟知しているのだ。彼の着席にあわせて、およそこの高級なカフェに似つかわしくない少女が背を向けて横の席に座った。一瞬秋良の目を引いたが、そんなことに構っていられない。さっそく自分達のかかえる大きな問題について話し始めた。

「彼女はどうしてます。」

「ストーカーに狙われたり、いきなり告示されたり…。混乱するのも無理はない。ゆうべはしばらく泣いていたが、やがて寝ついて、今はまだ俺のベッドで寝ているはずだ。」

「宅配便の姉ちゃんだった彼女が、ストーカーに狙われるほどの女になるとはね…。」

 彼らの横の席の少女がピクリと反応した。

「それでどうします?」

「誰か面倒を見てくれる奴はいないか?」

 秋良はすがるように三室を見た。

「だめですよ。ゆうべも言ったように自分は同棲中ですから…。ドクターも家庭があるし、秀麗さんはほとんど出張で家にいないし…。それに自分達の仕事を知らない第3者に彼女を預けるわけにもいかないですよ。」

 三室はしばらく思案するように腕を組んで空を仰いだ。

「…ここはやっぱり、社長と暮らしてもらわないとだめですね。」

「しかし…」

「たった2週間じゃないですか。」

「そう言っても…。」

「冷静でいられる自信がないですか?」

「そんなことはない。しかし、ゆうべ彼女が服を脱ぎ始めて…。」

「えっ?」

「いや…。お前も知っている通り、俺は、ガキの頃から今まで、ずっとひとりだった。だから、誰かと暮らすなんていう免疫を持ち合わせていないんだ。自分のものを勝手に触られたり、音もなく部屋をウロウロされるなんて、考えただけでゾッとする。きっとストレスで病気になるに決まっている。」

「いやー、こんなにうろたえている社長を見るなんて初めてだぁ。今日はツイてる。」

「嫌みを言うな。」

「彼女は今となってはただのウテルスじゃないんですよ。会社の存続が懸かっているのは社長もよくご存じのはずです。わがままは言わずに滅私奉公。腹を決めて、彼女と期間限定の新婚生活してください。」

 秋良は軽く舌打ちすると、ミーティングの終わりを告げた。

「いいか、このことは他のマネージャーに言うんじゃないぞ。」

 秋良達は席を立った。チェックをすませ外に出ると三室が囁く。

「ところで、告示を受けて彼女、逃げたりはしませんよね。」

「大丈夫だ。彼女は自分を捨てても、家族を見捨てるようなことは出来ない。」

 三室は秋良の言葉に、わずかながら彼女に憐れを感じた。

「そうですか…彼女のために甘いものでも買って、落ち着かせてあげてくださいよ。」

 三室が先程までいたカフェのショーケースを指差す。中には、綺麗なスウィーツが入っていた。

「なんで俺がそんなこと…。」

 再度三室に促され、仕方なくカフェに戻る秋良。そこのレジで少女が慌てながら財布の中身を確かめているのが目に入った。秋良はカフェのスタッフにケーキを注文する。

「あの、学生証を置いていきますから、お金は明日持ってきてもいいでしょうか?」

 少女は、困り顔のレジスタッフに懇願している。このカフェはコーヒー一杯でも、ホテルのランチに匹敵する値段がついている。だからこそ、落ち着いて過ごせるカフェなのだが、少女は何も考えずに身の丈に合わないカフェに飛び込んしまったようだ。

 秋良は何も言わず、彼女の持つテーブルプレートをつかむと、ケーキ代とともに支払った。少女は、ちょっと大げさだと思えるぐらいの驚いた表情で秋良を見ている。

「あっ、ありがとうございます。」

 少女は消え入りそうな声でお礼を言ったが、彼は軽くうなずいただけだった。カフェのスタッフからケーキの小箱を受け取り、立ち去ろうとする秋良。

「あの…」

 少女は意を決したように呼びとめる。

「必ずお返ししますので、お住まいをお聞かせいただけないでしょうか?」

 しばらく秋良は少女を見つめていた。

「結構だよ。一度あげたものを返してくる女に、これ以上悩まされたくないんでね。」

 そう言い残して、秋良は大股で去っていった。

 

 世の中にあんなにカッコが良過ぎる男がいていいのだろうか。ミナミは秋良の後ろ姿にしばし見惚れていた。彼らの話しのほとんどは理解できなかったが、あのカッコ良過ぎる男とお姉ちゃんがなぜか一緒に暮らし始めたのだということはわかった。住所を聞き出そうと機転を利かせたが、それも彼のクールさに阻まれた。しかし、ここで彼を逃がすわけにはいかない。彼は一度家で会っている自分のことは忘れているようだが、カフェで面が割れてしまったので、さらに慎重に秋良の後を付けた。

 やがて秋良はジュエリーショップに入る。外から観察しているとブレスレットのようなものを手にとって何やらスタッフに注文をつけている。清算をしてショップを出たので、何かを買ったのだが手にはケーキの小箱以外何も持っていなかった。商品は送りか、それとも後で取りに来るのか…。ミナミは秋良の後を付けるのをやめて、ショップに飛び込んだ。秋良に対応していたスタッフを呼びつけると呆れたような顔をしながら話し始める。

「お兄ちゃんたら、ほんとにドジね。お義姉ちゃんの好みを説明したのに、ちゃんと聞いてないから自信なくしちゃったみたい。商品が間違いないか確認してくれって…。さっきお兄ちゃんが頼んだものをもう一度見せてくれる。」

 スタッフは、心得たようににっこりほほ笑むと、注文票を確認して商品を取りに奥の部屋へ消えて行った。ミナミは、注文票をのぞき込むとそこに表記された住所を頭に叩き込む。すぐにスタッフが商品を手に戻って来た。

「間違いなさそうね。」

 商品を確認するふりをするミナミに、聞きもしないのにスタッフが笑顔で答える。

「この製品に鈴を付けると言うお兄さまのご注文でしたが、本日お受け取りにいらっしゃるお時間までには必ず終わらせておきますので。」

「そう、よろしくね。」

 スタッフにウインクをしてミナミは店を出た。彼女はアーティストになるより、スパイになった方がよっぽど大物になれる。

 

 真奈美が眠りから覚めて、ゆっくりと目を開けた。見覚えのない大きなベッドにひとり。寝ぼけている彼女は、自分が何処にいるのかなかなか把握できないでいる。やがて、ぼやけている像が少しずつ焦点をあわせていくように、自分がなぜここに寝ているのかを思い出してきた。自分が誰かの赤ちゃんを産まなければならないということは、単なる悪い夢では済まされなかったようだ。しかし一夜明けた今では、だいぶ心が落ち着いている。実のところ、この心の再生能力こそが、彼女が借金の泥沼生活で生き抜けた最大の武器なのだ。いつまでも悲劇を引きずらず、朝になれば今日と言う日を新鮮に迎えられる。

 ふと真奈美は憶えのある『香り』に気づいた。初めて彼のオフィスを訪れた時、真奈美の髪に触れようと近づいてきた秋良からかすかに感じたものだ。それが今では、秋良のパジャマを身につけ、秋良の枕に頭を横たえ、秋良の寝具にぬくもる。真奈美の全身が秋良の『香』に浸かっていた。不思議なことに、こんな状況なのに、妙な安心感が湧きあがってくる。理由はどうであれ、昨夜あいつは私を守ろうと、必死になって飛んできた。そして何よりも先に、私を胸の中にかくまったのだ。その時彼の腕に抱かれ、しびれるほどの安心感を覚えたことが、この香りとともに起想されるのだろうか。

 真奈美はベッドから出て、寝室にある姿見の前に立つ。顔がむくんで酷い顔だ。泣いたせいか、まぶたも腫れあがっている。ベッドを整え直し、寝室のドアを少し開ける。誰もいる気配が無い。パジャマのままでリビングに出た。水を飲みにオープンキッチンへ行くと、テーブルの上にメモがあった。

『仕事に行く。家でじっとして待っていろ。冷蔵庫にあるものは好きに飲み食いしていい。ただしそれ以外のものは決して触るな。』

 真奈美はクスッと笑った。彼らしい文章で、高慢そうな彼の表情が浮かんでくるのだが、真奈美はこの文章に書ききれていない彼の気持ちが手に取るようにわかる。メモの文章の最後にかっこで(と言ってもお前は俺の言うことをきかないだろうな。)という文字が見えてくるのだ。

『そう、あなたの思うとおりにはならないわよ。』

 真奈美は、冷蔵庫にあった間に合わせの食材で軽い食事終えると、家事大作戦を決行した。洗濯、布団干し、そして、ドックから放たれたお掃除ロボットとルンバを踊りながらの大掃除。観葉植物に話しかけ彼らが一番気持ちいいと言っている位置にプランターをずらし、キッチン収納の中をのぞきこんでは、調理具や食器を効率的な場所に収納し直す。

 考えてみれば家事をしながら男の帰りを待つなんて初めての経験だ。もともと家事が嫌いではなかったが、いつもより何となく楽しいかも知れない。わずかな期間しかないが、誰か知らない人の受精卵が自分の身体に流し込まれる日まで、出来るだけ、忙しく楽しく暮らしたい。室内のあちこちが綺麗になっていく達成感で、彼女も建設的に物事が考えられるようになっていた。

 キッチン、リビング、寝室での作業をひと通り終え、さて裸になっていよいよ風呂掃除だと、バスルームに向おうした時、リビングのドアに呆れて立ち尽くす秋良に気づいた。

「たった数時間、家を空けただけなのに俺の部屋ではなくなっている…。お前は魔法使いか?」

 

 秋良は、真奈美をリビングのソファーに座らせた。

「メモは読んだよな。」

 真奈美はどこから探してきたのか、秋良のジャージの上下を身にまとい、長すぎる袖と丈をまくりあげている。だらしなくもあり、可愛らしくもあり…。頭を掻きながら言い訳する真奈美を、秋良は不思議な面持ちで眺めていた。

「だって、面白そうなDVDもないし、ただ待っていてもつまらないし…。」

 秋良はじっと見つめたまま黙っている。

「それで…私はこれからどこで暮らしたらいいの?」

「不本意だが…出産が終わるまで俺の家だ。」

 真奈美の目がクリッと光った。嬉しいことがあった時の彼女の表情だ。

「仕事に支障が起きないように、俺が監視する。」

「監視?あなたは本当に適切な言葉を選べない人よね。こういう場合は、見守るって言うのよ。」

「好きにしろ。」

「でも当然ね。私の初めての代理出産だから…。最初から最後までをしっかりと見届けるのが、この世界に引き込んだあなたの最低限のマナーだわ。」

 真奈美の口から出てきた辛口な言葉に、秋良はふざけるなと言いかけたが、あわてて言葉を飲み込んだ。薄眼になって鼻をふくらませて、しばらく秋良は黙っていたが、やがて気を取り直したように、小箱を彼女の前に差し出す。いつもは怒鳴り返してくるシーンで、プレゼントを差し出してきた秋良に真奈美が戸惑う。

「あらケーキ?…嘘でしょう…。私のご機嫌をとりたいわけ?」

 秋良がキッチンに小皿とデザートフォークを取りに行くが、収納場所を真奈美が変えてしまっているので途方に暮れる。真奈美は、笑いを噛み殺しながら新しい収納場所から小皿を取りだした。

「自分の家で何もできなくなった俺を見て嬉しいか?」

「別に…。」

 真奈美はケーキを口に入れながらも、まだ笑っている。

「俺の家のルールを言っておく。」

「どうぞ。」

 何か言おうとした秋良だが、真奈美の悪戯っぽい笑顔を見て話すのをやめた。

「どうしたの?」

「どうせ言うことを聞かないお前に、言うだけ無駄だ…。気に入らなかったらその都度怒鳴るから覚悟しろよ。」

「はーい…。ところで私はどこで寝るの。」

「今夜は仕方ないが、明日折りたたみベッドが来るから、書斎に入れてそちらで寝ろ。」

 真奈美は、秋良のゆったりとしたベッドが気に入っていた。それに彼の香りに包まれて寝るのもそう悪くない。一度味を占めた自分が、いまさら小さくて固いベッドに潜り込むのは気がすすまない。自分に対する今日の秋良の対応が、微妙に我慢系に変化している印象を持った真奈美は、勝負に出た。

「わたしは寝室の大きなベッドが気に入ったわ。なんなら一緒に寝てもいいけど…。」

 秋良が薄眼になって鼻をふくらませている。ああ、こいつは耐えようとする時こんな顔をするのか。

「わかった…寝室を使ってくれ。俺が書斎に寝る。」

 やった。やはり代理出産が決まった今、彼と自分とのパワーバランスが変わってきている。これなら、ここでの暮らしも楽しめそうだ。

「それからこれ…。」

 秋良はジュエリーショップの名前の入った小箱を差し出した。真奈美が恐る恐る蓋をあけると、中にプラチナの輝くブレスレットが入っていた。

「ちょっと…、なにもここまでご機嫌取らなくても…。」

「勘違いするな。足を出せ。」

 秋良は真奈美の片足を無理やり引きとると、その足首にそのブレスレットを付けた。よく見るとプレスレットではない。アンクレットだ。しかもその一端に銀の鈴が着いている。

「俺の家では必ずこれを付けてろ。」

「なんで?」

「これでお前の居場所がわかる。」

「いい加減にしてよ。ペットの猫じゃあるまいし…。」

 真奈美と秋良の奇妙な生活が始まった。


 
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