第8話~
【side イサク】
その招かれざる客人はなんの前ぶれもなく、突然やって来た。
イサクは顔を赤くして、ハリルが必死に弁解しようとしているのをぼーっと見ていた。 目の前にあるのは普通の女の子の日常だ。
だがその時、さっき聞いたマーシャの叫びよりずっと大きな叫びが三人を凍りつかせた。
「キャァァァ!!!!」
その悲鳴を皮切りに、少し離れたところにある、露店が集まったエリアがたちどころに騒がしくなった。 あのエリアはアラディフィスのシンボルである大山“サンベルク”のふもとで、いつも人で賑わっている。
マーシャがその方向を見ながら、イサクに言った。
「ねえ、イサク。 今の…」
「ああ」
間違いなくさっきのは危険信号だ。
「ハリル! レイピアは持ってきてるな?」
「え? う、うん」
ハリルが懐のレイピアを軽く持ち上げた。
都市間の道中は少なからず危険が伴うため、剣士は基本、武器を携帯する。 イサク達の任務には護衛もあるくらいだ。
マーシャは今日は所持していない。 ってことは、頼れるのはハリルだけだ。
イサクは家に向かいながら早口で二人に指示した。
「二人は先に向かってくれ。 俺も剣を持って後から行く!」
何かイヤな予感がする。
小柄なフェンサーにもう一つ指示を飛ばした。
「ハリル…。 任せた!!」
その一言で理解したらしいハリルが、イサクの目を真剣に見つめて頷きながら立ち上がる。
イサクは走り出す二人の背中に小さく声をかけた。
「気を付けろ…」
【side マーシャ】
人とざわめきの流れの中をマーシャとハリルは逆走していた。 誰もが必死に我先にと走り、転んでしまった人は無残に踏まれ蹴られて足場と化してしまった。 中には切り傷で血にまみれた人もいる。
ひどい…。 これじゃあ地獄絵図だわ…。
そんな中、逃げ惑う彼らが共通して口々に言っている言葉があった。
ーー怪物だ。 怪物だ。
怪物……。 マーシャの頭に不吉な考えがよぎる。 だがきっとその心配は杞憂だろう。 ここは強固な壁に囲まれた都市内部だ。
しばらく進むと、敵に近づいてきたからだろうか、流れが弱まり、逆に聞こえてくる悲鳴が激しさを増した。
隣のハリルが心配そうにマーシャを見つめる。 マーシャはその肩に手をおき、ギュッと握った。
今頼れるのはこの子だけだ。
「大丈夫よ。 あなたは強いんだから。 それに、イサクに信頼されてるんだから、負けるわけにはいかないでしょ?」
ハリルはこくんとうなずくと、ぎこちないながらも笑ってみせた。 本当に、可愛らしい笑顔で。
とその時、何かがマーシャの肌を駆け抜けた。 殺気と言うか、狂気と言うか、とにかくピリピリした嫌な感覚。
姿は見えないがはっきり分かる。
……来る!!!
「ハリルちゃん!!!」
「うん!」
ハリルが腰に下げたレイピアに手をかけた。
そして次の瞬間ーー
ザワッ
突如人の群れから黒い影が飛び出してきたかと思うと、恐ろしいスピードでハリルに襲いかかった。 鋭い爪とレイピアがぶつかり合い、甲高い音を響かせる。
「…っ!!」
その攻撃は相当な重さがあるのだろう。 ハリルがギリギリで抑えていることがその表情から分かる。
「…ッアァァ!!」
何とか敵の攻撃を返すと、彼女はすかさず得意の突き攻撃を連続で浴びせた。 下段突きから剣を斜めに構えて突き上げる。 敵がそれを後ろに大きく跳ねてかわしたのを受けて同じように踏み込んで突きを放ち、追撃の手を緩めない。 敵の攻撃をそう何度も受け切れないと判断したのだろう。
彼女は隙をついて放たれる敵の苦し紛れの攻撃も危なげなく躱し、逆に猛烈なカウンターを仕掛けていく。
ハリルは臆病だが、いや臆病だからこそ、誰よりも速く敵を見つけることができ、誰よりも深く敵と自分の力の差を認識することができる。 そして彼女はそれだけでなく、その差を知った上で、それをカバーしながら挑みかかる判断力と勇気を同時に持ち合わせている。 剣術の腕前もマーシャに劣らない、とても立派な剣士だ。
小さな剣士の刺突が豪雨の如く敵の肢体を斬りつける。
押している。 ……けどーー
何なの? この嫌な感じは…?
ハリルの刺突は何度も敵の体にヒットしている。 それなのにその赤黒い身体には傷一つつけることができていなかった。
その身体を包む皮膚が鎧のように硬いこともあるだろうが、それ以上に、敵はダメージを受けるギリギリの度合いを楽しんでいるような気がする。
得体のしれない嫌な不安。
ハリルもそれを感じ取っているのかもしれない。 敵の懐が完全に空いても、不用意に攻めることはしなかった。
何度かの衝突の後、違和感に乱されないようにするためか、彼女は牽制しながら一旦敵から離れた。
最大限の注意を払いつつ、マーシャも彼女の元へ駆け寄る。
「大丈夫?」
マーシャはそう声をかけてからハリルの様子が少しおかしいことに気付いた。 呼吸が乱れている上に、小刻みにその身体を震わせている。 頬には大きな雫がポツポツと浮き上がってきていた。
「……ハリルちゃん!?」
見ると、右脇腹に血が滲んでいた。
まさかあの剣戟の中で、いつの間にか斬られていたのか。
「…このくらい、だいじょぶ」
息を整えながらハリルが呟く様に言った。
だが、平気を装っているが、明らかに無理をしているのが分かった。 出血は少なくない。 これじゃあ、全力の攻撃はあと二、三回が限度。
「次の攻撃で、剣技を使って一撃で決める」
同じことを考えていたのか、ハリルがじっと敵を睨みながら言った。
しかし、まだ本気を出していない可能性もある敵に対して、それはあまりにも危険すぎる。 かと言って背を向ければ間違いなく仕留められてしまう。
選択肢はあるようでない。
だったらせめてー
「私が誘導するから、その隙に…」
「だめっ!!!」
「えっ?」
囮役をかおうとしたマーシャは、ハリルの強い言葉に思わずたじろいてしまった。
彼女は少し恥ずかしそうに視線を落としながら、小さく言う。
「イサク君に、マーシャを頼むって言われたの。 だから…だからね…」
彼女は一瞬言い淀んだが思い立ったように顔を上げると、澄んだその黒い瞳をいつになく静かな決意に燃やしながらはっきりと言った。
「マーシャを守れなかったらイサク君に嫌われちゃうし、それに…何より弱い自分が嫌いになっちゃう。 マーシャは私の、大切な友達だから」
健気で一途な誓いの言葉。 だがマーシャはその言葉に、場違いながらも吹き出してしまった。
顔をほんのり染めて訝しげに見上げるハリルに言うともなく、空を仰ぎながら呟く。
「私も、ハリルちゃんに守られるようになっちゃったか…。」
マーシャはハリルのサラサラな髪に手を置き、その幼さの残る顔を見つめながら続ける。
「でもね、ハリルちゃんだって、私の大大大好きな友達なんだよ」
自分でも驚くくらい自然と、笑顔と言葉が溢れた。
「おんなじだね」
少しの間があったが、その言葉に納得したのかどうだか、ハリルも諦めようにふふっと小さく笑って、敵に視線を戻した。
マーシャは近くに落ちていた、露天の骨組みだったであろう鉄パイプを手にし、何度か軽く空を斬って感覚を確かめた。
精神を落ち着かせてから、敵を集中して見据る親友の隣に並び立つ。
すでに二人の心に“迷い”という言葉はなくなっていた。
「行くわよ!!」
「うん!」
【side ハリル】
マーシャの合図と共に、ハリルは敵に向かって駆け出した。
待ちくたびれたとでも言うかのように首をグルリと回す敵に対して、二人は左右に分かれ、挟み撃ちのような体制を取る。
まずはハリルが敵に攻撃を仕掛けた。
喉元に威嚇の刺突を放ち、かわしつつ反撃に出ようと振り上げられた敵の右腕を、振り下ろされる寸前で弾く。
本気の刺突は後数回しか使えない。 だが六十パーセントほどの力でも完璧に攻撃の出鼻を挫くことができれば充分な隙をつくることが出来る。
目に神経を集め、敵のモーションから攻撃を予測しながら闘うのには恐ろしい程の集中力を要するが、そのかいあって、敵は思うように攻撃できないことに苛立ちを感じ始めているようだ。
そして、敵の神経が自分一点に集まっていることを確認したハリルは、わざと敵の攻撃半径に大きく踏み込んだ。
ここぞとばかりに両の腕がハリルに襲いかかる。
だが、もとより攻撃に視点を置いていなかったハリルはすぐにバックステップし、危なげなくそれを回避した。
目標を失い、むなしく空を斬るだけになった敵に大きな隙が生じる。
ーここっ!!!
ハリルがもう一度前へ飛び出すとほぼ同時に、敵の背後に素早く駆け寄る人影。 鉄パイプを両手で握りしめ、すでに横一閃のモーションに入ったマーシャだ。
ハリルに意識のいっている敵は、それに気づかなかった。
ゴォォォッン!!!
彼女の横薙ぎ払いが見事に頭部に命中し、鈍い音をたてて赤黒い体がぐらっと揺れた。
生まれた更なる契機に、敵の懐に潜り込んだハリルは全力の二連続攻撃を放つ。
「ハアアッッ!!!」
胸部を狙った刺突は、敵の一瞬の回避行動に目標を外したが、確かに深々とその脇腹を突き刺した。
「ググオオォォォォッッッ!!!!!!」
敵が狂ったように鋭い爪を振り回したため、二人はもう一度離れて様子を見る。 さっきまで見せていた余裕はすでにその目から消えており、代わりに憤怒の色が燃えていた。
横にきたマーシャが視線を逸らさずに言う。
「次ね…」
「うん」
彼女の言うとおり、次が勝負だ。
ダメージを受けたことにより、敵は本気になっただろう。 だが、ゆっくりしていることはできない。 ハリルは先の攻撃で、全力の刺突はあと一発がギリギリだと悟った。
次の攻撃で全力の剣技を叩き込む。 これが最善で最後の手段。
「ハリルちゃん、私の心配はしないで剣技に集中して」
マーシャが念を押してきたので、ハリルはそっちの方が心配してるくせに、と思いながら「努力してみる」と返事を返す。
マーシャを守りたいと思うなら、私が今本当にすべきことは、きっとその身を案じることではなく次の一撃であの赤黒い肢体を倒すことだ。
ハリルは一瞬だけ目を閉じ、心の中にイメージした“強い自分”に向かって決意を叫んだ。
絶対に、決める!!!
自分を鼓舞して目を開けると、ちょうど敵がドウッと、地を激しく蹴りながらこちらへ突進を始めた。
先よりも威圧感の増した敵にひるむことなく、ハリルも真正面から突っ込む。
すれ違いざま、敵の右腕が予想通り鋭さをまして襲いかかってきた。 くらったらひとたまりもないであろうその攻撃をハリルは身体を低くして何とかかわすと、すぐさまくるりと身体を翻しながら剣技のモーションに入った。
胸の前に構えたレイピアに冷気が凝縮されていく。 そしてそれは次第に螺旋の渦を成して細い刀身を取り巻き始める。
だが剣技が発動する直前、身の危険を感じたのか、敵が振り向きざまに回し蹴りを放ってきた。
刺突の構えに入ってしまっている今のハリルでは防ぎきれない。 だがーー
「セアアッッ!!!」
振り切られる寸前の巨足とハリルの間にマーシャが割り込んだ。
彼女は渾身の力を込め、押し返されまいと必死に地を踏みしめる。
「ンンアアアッッ!!!」
力では完全に負けているのに、気迫が勝ったか、マーシャは見事にその攻撃を相殺してみせた。
同時に、それに応えるようにハリルの剣技も発動する。
「つっ!」
一瞬脇腹に激痛が走ったが、ハリルはそれを振り払うように叫びをあげ、弾かれた反動でバランスの取れていない敵の肢体めがけてレイピアを突き出した。
「《フローズン・スラスト》!!!」
ーーガキィィィン!!!!!
金属と金属がぶつかる音と強い衝撃が、閑散とした広場に響き渡った。
《フローズン・スラスト》は単発だが、単純にして今ハリルが打てる中で最速の刺突だ。 さらに敵の重心の偏りも把握した上での攻撃だったので、かわせるはずがない。 手応えも充分だった。
「これで決まっーー」
「ハリルちゃんっ!!!」
突如、マーシャの裏返った叫び声が安堵に気を抜こうとしたところに突き刺さった。
頬を打たれたように気を取り戻したハリルは状況を理解する前に大きな違和感に気づき、凍りついた。
ーー剣が動かせない。
理由はすぐに分かった。 だが、頭がそれを受け入れられないでいた。
ーー何であれを受け止められるの!?
そう、ハリルのレイピアは敵の赤黒い手に阻まれ、その身体に届いていなかったのだ。
まさかあの一瞬で弾かれた反動をそのまま利用して身体を回転させ、エネルギーを逃がしながら止めたとでもいうのか。
「くっ!!」
ハリルは我に帰りとっさに手を振り払おうとするが、剣が折れてしまうのではないかと思うほどに固く掴まれており、ピクリとも動かすことができない。
敵が獰猛な笑みを浮かべ、もう片方の腕を振り上げた。 鋭利な長い爪がギラリと光る。
と、その時。 硬直したハリルの前にマーシャが飛び出した。 彼女は敵の攻撃を弾こうと、身体を最大限利用し鉄パイプを振るう。 だがーー
ーースパッ!!
「なっ!?」
敵の鋭い爪はまるで木材を切るかのようにあっさりと鉄パイプを両断した。
かろうじて軌道は逸れたが、唯一の攻撃と防御の手段を簡単に絶たれてしまったマーシャの目に恐怖がよぎる。
敵は振り抜いた腕をすぐさま固め、マーシャに狙いを定めた。
「マーシャ!!!」
ハリルはとっさに愛剣を離しマーシャを引き寄せようと手を伸ばした。
ーー届いて!!!
なににすがるともなく祈る。
瞬間、その念が届いたのか、ハリルの掌は敵の拳が打ち出される寸前でマーシャの色白で華奢な手に合わさった。 そして、離すまいと強く握ろうとした時だった。
ーートンッ。
ハリルが握りしめるよりも早く、マーシャの掌がそれを押し返した。 突然の行為にハリルは簡単に押し返されてしまった。
「えっ?」
疑問符を浮かべる間もなくマーシャの細身の身体が、敵の手掌により瞬く間に視界から消えた。
そのまま彼女は露店に激突し、土煙を上げながら骨組みもろとも崩れ落ちてしまった。 その身体は全く動く気配がない。
「…マー…シャ……?」
容量を超えた動揺の中で、ハリルは先の彼女の行動の意味をはっきりと認識した。
彼女は間に合わないことを悟り、ハリルを巻き込まないために助けを拒んだのだ。
ハリルの頭に、吹き飛ばされる直前のマーシャの表情が鮮明に呼び起こされる。
彼女は微かに微笑んでいた。 必死に不安を与えまいとしているような、そんな無理をした悲しげな笑み。
そこに込められていたのは励ましであり、意志であり、希望であったのだろう。 絶対に後ろ向きな精神の委託ではないはずだ。
『ハリルちゃんなら大丈夫』と、どこからかそう聞こえてくる気がした。
だが、ハリルはセメントで全身を固められたように動くことができなかった。
恐怖、絶望、無力感。 そして怒りでさえも、鈍色の鎖となってハリルを縛り付けた。
私は……私はマーシャをーー
その時、目の前にできた大きな影が、腕を振りかぶっているのが分かった。
動かなければいけない。 それでも足は地にへばりついたように動かなかった。
「あ……ああ」
だが、ハリルが諦めかけたその時だった。 突然背後からどっと疾風が押し寄せたかと思うと、何かが敵の顔面に激突し、轟音と共に遠くへと吹き飛ばした。
その人物が勢いを殺しながらハリルの側に着地する。
「イサク君…」
彼の藍色のコートが怒りを表すかのように揺れた。
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今回は打って変わってシリアスです。
後三話ほどハリル達が主体になりますが、レイヴンとカイトもお忘れなく。
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