1
阪急六甲駅の改札口横にある、コンビニの中。
コートを腕にかけ、雑誌に視線を落としながらも冴子は、時々顔を上げて通りに目を
やると店内の時計に視線をはしらせて、再び雑誌に戻るのであった。
何度目かに顔を上げた時、赤いマーチが止まっているのに気づいてあわてて雑誌を元
の場所に戻すと、足元に置いていたバッグを取り上げて出口に急いだ。
自動扉が開くのを待つ間ももどかしく、足踏みをする。しかし、落ち着いた足取りを
取り戻すと、顔に笑みをたたえてゆっくりと近づいて行った。
助手席の背もたれに右手をかけて駅の周辺を窺っていた小塚滋は、冴子の姿を認める
と外に飛び出し、手を上げて助手席側に回った。
「ごめん、ごめん。渋滞しとったんや。だいぶ待っとったんか」
と言いながら、冴子の持つバッグとコートを受け取って後部座席に放り込むと、冴子の
背中に手を当て、もう一方の手で助手席のドアを支えて坐らせてから、そっと閉めた。
運転席に着いて発進させた滋に、冴子は顔を向けて微笑んだ。
「山中教授のインタビュー、うまくいったみたいやね」
「先生は、ノーベル賞が決まってから一段と忙しなったから、アポ取るんに苦労したけ
ど、待った甲斐あったわ。おかげで貴重な日がつぶれてしもたけどな」
滋は冴子に顔を向けた。
「誕生日、おめでとう」
「ウフッ、ありがとう」
嬉しさに、ちょっぴり恥ずかしさを感じて、冴子は肩をすくめてからシートにもたれ
た。
小塚滋は、大手新聞社が発行している子供向け科学雑誌の編集に携わっている。冴子
の誕生日をふたりで過ごすために早くから休暇届けを出していたのだが、スウェーデン
から戻ったばかりの山中教授から、
「この時間やったらちょっとだけやけど、空けれるけど」
と、急に連絡が入ったのである。
山中教授が子どもの頃過ごした東大阪市の家は、滋の母の実家近くにあり、家族どう
しのつきあいがあったことから親しくなっていた。
京都大学のiPS細胞研究所には頻繁に訪れており、子供向けに分かりやすい記事を
書いてきて、今も続いている。
今回の記事は、ノーベル賞授賞式とその後のレセプションに関することや、子どもた
ちへのメッセージを含めた話をまとめるつもりでいる。
「ねぇ、クローン人間、て、将来誕生するかなぁ」
「技術的には可能やろけど、細胞の癌化なんかの副作用の克服が難しいそうや。それにぃ
良識ある人類は、そんなこと許さへんやろ。自由に命を作り出せるようなったら、悪用
する奴が必ず現れよる」
「生殖医療だけとちごて、科学の進歩はどこまでいくんやろね」
「人間には制御しきれんとこまで、きてるかもな。そのまま突っ走ってしもて、好奇心
と欲にブレーキがかけられんようになってしもてる・・・もぅお、フィクションだけの
世界とちゃうで」
車は住宅街を抜け、ヘアピンカーブの続く道を上っていく。
クリスマス前ということもあって、対向車はほとんどない。
展望台から、海へと広がる街々の、電飾によるイルミネーションを見ようとする者た
ちの車が、前にも後ろにも続いていた。
まだ4時過ぎだが、すでに夜の帳が下り初めている。同時に冷気が強まってきた。
滋は冴子をチラ、と見てから暖房を強くした。
今流れている、フジコ・ヘミングが奏でるピアノ曲は、冴子の好みである。
冴子はそれに聴き入っているかのように黙ったまま、目を閉じてシートにもたれてい
た。実のところは、車酔いしていたのである。いつものことだがそれによって、車の中
では会話は弾まなくなる。
「♪パンパ~カパンパ~カパッカパッカパン~~、長らくのご乗車ありがとうございま
した。まもなくぅ~六甲山ホテルに到着いたします」
車は、すでに半分方埋まっている駐車場に滑り込んだ。
「どや、気分は」
「ウ ン、目が回りそうやったわ、ああぁしんど」
「外の空気吸うてから入ろか、まだ食事には早いし。ぬくいかっこしときや。俺、ちょ
っと確認だけしてくるさかい・・・そや、荷物も預けとくわ」
滋はダウンを羽織ってふたりのバッグを手にすると、走るようにしてホテルの玄関に
入って行った。冴子は、その間にゆっくりとした動作で滋が手渡してくれたコートに腕
を通してから、車を出た。
喧騒の市街地からわずか30分ほどで到着できる、標高800メートル近いここには
静寂が広がり、空気は身を切るほどに冷たく、澄んでいる。冷気によって身が引き締ま
り心がしゃきっ、とするようなのだが、まだ気分が悪くて、のろのろと展望台の方へ向
かった。
「今日はすまんかったな、サエが行きたがってた須磨に行けんようなって」
冴子は展望台に立って、赤く燃えているような雲や、大阪湾に浮かぶタンカーや客船、
運搬船、小さな漁船などの、いろいろな形をした船を眺めていると、滋が近付きながら
声をかけてきたので、振り向いて言った。
「しゃぁないわ、仕事、一生懸命頑張ってもらわな。そやけど絶対近いうちに行こ。ペ
ンギンが外を散歩する時間があって、触れるねんて。そや、海遊館でもええよ」
滋は笑みを浮かべている。
「でぇ~、今日のこと、ご両親は知ってるんか?」
「うん、まあ・・・母は楽しんでらっしゃい、って。血の繋がりがないさかい、気安う
ゆうてるんかもしれんけど」
「で、お父さんは?」
「・・・言えんかった。多分、母さんが伝えてると思うけど。この前、滋さんが挨拶に
来てくれはった時、えらい剣幕で怒ったやろ。あの後もね、冴子にはワシが選んだ医者
でないと認めん、て。えらい古臭いこと言うんやわ」
「フーッ、そっかぁ」
冴子の父高科保は、池田市で自宅と棟続きの『たかしなレディースクリニック』を経
営している産科医である。
生みの母は、冴子が3歳の時に交通事故で亡くなり、小学生になった頃、今の母君子
がやって来た。
一人っ子の冴子は医学には興味はなく、幼少時に音感に優れていることを見い出され
たことから音楽の道に進み、大学在学中から自宅でピアノを教えている。
小塚滋は、冴子が大阪芸大で親しくなった小塚麻由の4歳上の兄で、職場に近い、大
阪市北区のワンルームマンションで一人暮らしをしている。神戸にある家に冴子がよく
やって来たことから親しくなり、卒業するのを待って先月、ようやく冴子にプロポーズ
をした。
冴子の父に会う時には、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張していた。それでもま
さか、あれほどの剣幕で反対されるとは、思ってもいなかったことである。ほうほうの
態で辞去するしかなかった。
母の君子とは数度会っており、その日も始終ニコニコして、「冴ちゃん、ええ人を見
つけたね」と喜んでいたのだが。
残照がすっかりと消え、陸地の光の帯は大阪湾をくっきりと際立たせている。瀬戸内
海を挟んで淡路島のシルエットが浮かび上がり、沖に停泊している船は光を点滅させて
いた。時折、関西空港から飛び立った飛行機からの点滅が、それらに加わってくる。
古くから言われ続けている『100万ドルの夜景』の素晴らしさに息をのんで、滋を
見た。
「滋さん、素敵な誕生日プレゼント、ありがとう」
滋は照れから、そっけなく返した。
「ァあぁア、腹が減ってきたぁ~、そろそろ行こか」
冴子は滋の腕にもたれるようにして、ホテルの方に向かった。
冴子が滋に送られて家に帰ったのは、翌日の昼前である。日曜日でもあり、たかしな
レディースクリニックは閉じられていた。
病院の建物の裏手に、住まいの玄関口はある。
「ただいま」と言って、玄関を入ったところにある階段を上がり、自室に入った。
君子は、土曜日はいつも実家に戻っている。母、つまり冴子の祖母の介護を手伝って
おり、日曜日の夕方に帰ってくる。
父とは今は、顔を合わせたくない。
家の中は静まり返っていた。
12時を回った頃、何かを食べようと思い1階に下り、台所に通じている廊下から、
扉が開け放しになっている応接室に目をやった。
ソファの上に、横になって寝ている父の姿があった。前にあるガラステーブルの上に
は、ファイルなどが散乱して置かれている。書類が床の上にも、木の葉のように散って
いた。
来客があってそのままここで、遅くまで仕事に熱中していたのかな、と思いキッチン
に行こうとしたが、思い直して部屋に足を踏み入れた。
応接室で仕事をしていたことなど、かつてなかったからである。
「とうさん! とうさん?」
部屋の中は暖房でムッとしており、生臭い臭いがしている。
父の肩に手をかけようとして、そのまま固まってしまった。
ヒッ、と喉をつまらせて目を大きく見開き、差し出した手をひっこめ胸に当てた。声
が出てこない。
どのくらいの時間そのままでいたのか、「キャ――ッ」と叫び声をあげると、ようやく
電話をかけなければならないことに気付き、部屋を飛び出した。
2
大阪府警池田警察署刑事部の村田巡査部長は、数人の巡査と共に現場に駆け付け、本
庁捜査1課の捜査員が来るまでの間に周辺を封鎖し、現状維持に努めた。
上空ではヘリコプターが大きく旋回しており、時折ホバリングしては爆音を響かせて
いる。
次第に人々が集まってきて、囁きながら中を覗き見ようとしている。
――ちょっと、なにがあったん?・・・えっ!? 殺人?
「もう少し下がってください」
「ちょっと、誰が殺されたんですか?」
――え~っ、また殺人!? 付属小学校の事件があったのにぃ~。
――あれも残虐やったねぇ。犯人はすぐ捕まったけど。
――今回もすぐ捕まってくれな、こわぁ~て歩けんがな。物盗りやろか。
数人の女性がかたまって、張られたロープのそばに来た。
「ちょっと、にぃちゃん」
と言って、手をひらひらさせている。
警備にあたっていた警官はあたりを見回してから、自分の鼻を指差して顔を傾けた。
「そや、にぃちゃんゆうたら、あんたしかおらんやろ。あとはおっさんばっかりやんか。
誰が殺されたん?」
と言いつつ、ロープをくぐろうとしている。
あわてて警官は強い口調で咎めた。
「関係者以外は入れません! 下がってください」
「私ら、関係者ですねん。ここのお姉さんに、孫がピアノ習ってますよって」
「つい最近、ここで子ども産んだんです」
別の女性の言葉に、若い警官は不可解な表情をした。
「うちの娘が」
「すんまへん、ちょっと道開けてんか」
ジロリと睨み据える
人もいる。男たちはまっすぐ、家の中に消えていった。
大きなカメラを肩に担いだ男のいる放送局らしき一団も現れ、一帯は騒然としている。
「すみません、僕、高科冴子さんの婚約者で小塚いいます。電話もらいました。入れて
もらえませんか」
「聞いてます。こっから入ってください」
――ちょっと、婚約者やて、おっとこまえやなぁ、知ってた?
――知ってる、知ってる。先生がえらい反対してはって、ひと悶着あったらしいわ。
――あんた、よう知ってるなぁ。けどひょっとして、それが原因やったりして・・・。
――ほんなら、殺されたんは先生で、今の福山雅治が犯人かも・・・。
「すみません、テレビ局ですけど、ご存じな事ありましたら、話していただけますか?」
「まぁ、どうしよ。えぇ、よろしございますわ、存じている事でございますれば、なん
なりとお聞き下さりませ」
「ちょっと、今これ、動いてんの? 今映ってんのん? ちょっと待っとってや、あん
た、櫛持ってへん?」
などなど・・・と、周辺の状況など。
たかしなレディースクリニックには入院設備があり、個人病院としては立派な設備が
整っていた。不妊治療で実績を積んできていることで有名でもあり、時には北海道や鹿
児島からも相談に訪れる人たちがいる。
冴子は、タクシーで帰りついたばかりの君子と肩を抱き合って、リビングのソファに
座って啜り泣いていた。
父の胸に、ナイフが突き刺さっていたのである。
ふたりのそばには、村田巡査部長が立ったまま付き添っていた。
コンコン、と軽くノックして、まず現場を見てきた強面の男がひとりで入って来た。
村田巡査部長が深くお辞儀をして招き入れる。
「ご苦労様です。奥さんと第一発見者で娘さんの高科冴子さんです」
立ち上がろうとしたふたりにそのままで、という素振りを示して続けた。
「本庁捜査1課の森主任(警部補)です」
「御心中お察しします。お楽にしてください。村田刑事と捜査に当たらしていただきま
す、森です。ちょっと失礼」
ひとりがけソファに腰を下ろし、手帳を取り出した。
「お答えにくいこともあろうかと思いますが、出来るだけ詳しくお話しいただけたら、
それだけ早く犯人逮捕に繋がりますんで、よろしくお願いします」
そこに巡査に付き添われた小塚滋が入って来て、再度挨拶を繰り返した。
「高科冴子さん。高科保氏の娘さんで、お父さんが刺されてるんを最初に見つけられた。
その時の状況を、詳しく話してもらえますか?」
「はい」と、すがるような眼差しで滋を見てから、赤くなった目にハンカチを当てなが
ら話し始めた。
滋は冴子の横に歩み寄って、肩に手を置いた。
「昼食を取るためにキッチンに行こうとしたら、応接室の扉が開いてたんです。なにげ
なく見たら、ソファに横になってる父が見えました。そのままキッチンに行こうとした
んですけど、なんか気になって中に入ってみたら、寝てるんじゃない、死んでる、と分
かって・・・ナイフが、胸に、胸にナイフが、刺さってるんが分かって、死んでる、と、
血が出てるんが分かって、生きてるかなと、死んでるなんて、どうして、どうしてなの
か、父さんは病院ですよね。生きていたんですか?」
「大丈夫ですか? 少し興奮されてるようなんで、また後にお聞きしましょうか」
「いえ、大丈夫です。父は、病院にいるんですか?」
「残念ながら・・・司法解剖に処してる最中です。ざっと見たところでは、死後12時
間から24時間経ってるとみてるんですが、その時間帯に、おふたりは御在宅で?」
「いえ、ふたりとも出かけてました。私は母が寝たきりなもんで、土曜日の午後から日
曜日にかけては毎週、実家に戻ってます」
「ご実家は?」
「高槻です。週一ぐらいは兄嫁を開放せんと」
「昨日は何時に、家を出られました?」
「昼食だけ用意しといて、2時ごろに」
「その時ご主人は?」
「診察は12時までですが、私が家を出るちょっと前に病院から戻って来て、食事を始
めました」
「念のためにお尋ねしますけど、何を」
「土曜日は私も急いでますんで、たいていは焼きめしを」
「誰かとお会いになる、ちゅうことは、お聞きで?」
「いえ、聞いておりません」
「それでは冴子さんは、昨日は?」
「六甲山ホテルにいました。1時ごろに家を出て、阪急六甲駅で小塚さんを待ってたん
です」
「お帰りは?」
「今日の11時過ぎ、かな」
「僕が車で送って来ました。11時です」
「ははあ」と、森警部補は滋に視線を投げてから冴子に戻した。冴子は恥ずかしさから、
ハンカチを強く握りしめてうつむいた。
「犯行は、昨日の午後2時以降から深夜、ということになるようですが」
村田巡査部長の言葉を引き取って、森警部補が続けた。
「犯人について、なんか心当たりはありませんか? 恨まれてたとか、関係がうまくい
ってなかった人がおったとか、あるいは金銭トラブルなんかですけど。どうやら、誰か
と会っておられたようですな。後ろからも2カ所刺されてますんで、よく知った人物と
思われるんですわ・・・刺し方からみて、おそらくは女性」
「さあ」とふたりは顔を見合わせて、首をひねった。
「分かりました。今、現場検証中なんで、また詳しいことが分かってからお聞きします。
念のために、おふたりの指紋を取らせて欲しいんですが。それと口内粘膜も。いや、犯
人の遺留物と区分するのんに必要なんですわ。後で係のもんを越させますんで、ご協力
をお願いします」
部屋を出ていこうとした森警部補は、思い出して言った。
「肝心なことを忘れるとこでしたわ。現場に残されてるファイルについて、詳しい方は?」
「さあ、どんなファイルなのか、まだ」
「ま、それも後ほど見てもらいましょうか。では失礼」
昨日は入院患者はなく、最後まで残っていたらしい看護婦に連絡を入れたが、まだ現
れない。森警部補が現場検証に加わっている間に、村田巡査部長は若い刑事を伴って、
付近の聞き込みを始めた。
近所の家を数軒回ったが、これといった情報は得られなかった。
そんな中、高科家の裏にあたる2階建て集合住宅8軒の中の1軒で、昨日はずっと家
にいたという、話好きの女性にいき当たった。
「そうやなぁ、ま、ちょっと上がって、外は寒いでな」
「いえ、私らはここで」
ふたりは扉の内側に入って、ドアを閉めた。
女は、椅子を上がり框に持ってきて座った。
「足が痛いさかい、坐らしてもらいまっせ。
裏の病院はな、そやなぁ、建ってから18年、になるかな。うちの下の子がぁ大学に
入る時、でっさかい。うちらその頃は、こっから少し離れたとこに住んでたんです。子
供らが独立して、主人も亡くなってひとりんなると、一軒家では広すぎますわな。そん
で3年前に引っ越してきてな。子供らは結婚したら、ほとんど帰ってけぇへん。孫が時々
遊びに来てくれますけど、ちっこい頃はそりゃぁかわいい子でなぁ、最近は憎たらし」
「奥さん、高科さんの話」
「あ? すんまへん・・・そうや、ピアノの音がしょっちゅうしてましたな。下手で聞
いてられへん。なんや娘さんが教えてはったんですか、時々はええ曲弾いてはりました
なぁ・・・それでぇ、昨日の4時ごろにも弾いてはりましたわ」
「ほんまですか!? 午後、4時ですか?」
「はいな、いつも弾いてはる、きれいな曲」
「どんな?」
「ほれ、有名な、映画で弾いてた」
「なんちゅう曲か分かりませんか? あるいは何の映画やったか」
「あれはなぁ、『ある愛の詩』やったかなぁ、ちょっと待ってや・・・『愛と死を見つ
めて』ちゃうなぁ・・・愛、あいぃ忘れた」
「いつも弾いてはるんですね? じゃ、本人に聞きますわ」
「初めからそうゆうてぇな」
「他に何か、大きな声が聞こえたとか、大きな音がしたとかは?」
「さあ・・・」
「見知らんもんをやたらに家に入れるんは、やめときや」
と言い残してその家を辞去すると、足早に高科家に戻った。
張られたロープの周りには、数人の人々が、おそらくは報道関係者が残っているだけ
だった。
小塚滋はまだ残っていた。冴子と並んで黙ったままうつむき、腰かけている。
村田巡査部長は音たてて部屋に入って行くと、問いかけた。
「冴子さんは、よくピアノを弾いてるそうですね。その曲はなんといいますか?」
「刑事さん、それが事件と、関係してるんですか?」
と、問い返したのは滋である。
滋は、少しでも冴子の不安を減らしたい、と思っている。
「昨日の4時ごろ、高科さんが普段からよく弾いておられるとかいう曲が聞こえてた、
との証言を得ましてね。誰か、心当たりはおありで?」
冴子は、青白い顔色から一層血の気が引いていき、卒倒しそうだった。犯人かも知れ
ない見知らぬ誰かが自分のピアノを触っていた、と思うと、不気味さが増したのである。
ピアノは応接室にある。
「そんな・・・まったく、分かりません」
「なんの曲?」
「ショパンのノクターン第2番作品9の2。この曲、大好きなんです。気持ちが落ち着
いてきて。でも、私じゃありません!」
「そうですよ。昨日は僕と一緒だったんですからね!」
家族以外の指紋は、どこからも検出されなかった。
凶器は果物ナイフで、付着している血液のDNA鑑定の結果を待つこととなった。
それと、誰がピアノを弾いていたのか。
ピアノからも、新たな指紋は検出されなかったのである。手袋をしては弾けないだろ
う。
情報提供者である女性にショパンのノクターン第2番を聞かせると、「いやぁ、その
曲でんがな」と自信を持って言った。
ファイルの書類で、無くなっている物があるのかないのか。
ファイルに付いているタイトルは、『未受精卵の核除去による細胞融合』と、そうい
った関連タイトル名が多い。
レポートに使われている用紙には、山梨大学医学部の名が入っており、どれも黄ばん
でいる。
家族も看護師たちもその論文類や、過去にどんな研究あるいは専門に携わっていたの
かを知らない。
長い間継続している研究があるからと、病院は非情勤勤務医にまかせて、2カ月に1
度山梨大学に行っていたのだが、その内容に付いて問いかけたことはない、と皆が答え
た。
3
高科保は、18年前に山梨県から池田市に転入し、いきなり『高科産科医院』を開院
している。
「係長、害者の過去を洗い出したいと考えてるんですけど」
大阪府警本庁は大阪市中央区にあり、大阪城のすぐ近くである。
森主任はたばこを咥えて、大阪城天守閣に視線を向けていた。考え事をする時は、い
つもそうしている。
西村係長(警部)は、森主任が提出した捜査書類に見入っている。
「そうやな、そうしてくれるか」
「つきましては、山梨への出張の許可をお願いします」
「ん? あちらさんに頼むことはできんのか」
西村係長は渋面を作った。ここのところ事件件数が多くて予算が残り少なくなり、経
費削減がうるさく言われているからだ。
森主任は言いなおした。
「いずれはあっちぃ行く必要はある、思います。とりあえずは、調査依頼事項として送
っときます」
「ん、そうしてくれるか。やぁ村田はん、ごくろうさんでんな」
村田刑事が会釈して入って来た。捜査会議が午後から行われるからである。
村田刑事は巡査部長ではあるが、西村係長の先輩である。
8人が集まった捜査会議では、捜査事項の確認と報告が順次なされていった。
DNA鑑定結果は、思ってもみない展開をもたらした。
「ナイフに付着してた血液は、2種類でした。害者のもんと、おそらくはホシのもんな
んですけど」
捜査研の係官は言い淀んだ。
「どないしたんや、かまへんゆうてみぃ」
「高科冴子のDNAと一致しました。それと、高科保と冴子とは、血縁関係は全くあり
ません」
「なんやて!」と会議室は騒然とした。
「高科君子は後妻や、ゆうてたが、ほんなら冴子は保の実の娘やない、ちゅうんか。そ
んな話は全く出んかったが」
「冴子も母親も、全く知らんことやったんちゃいますか。そんなことより、冴子がホシ
やったとしたら、全くの役者でんな」
森主任の言葉に、村田刑事が返した。そして続けた。
「早速、パクりますか」
「いや、待て。もし高科冴子がやったとして、つじつまの合わんことが多すぎる。まず
はもっと情報を得てからや。DNA鑑定も、100パーセント信頼できるもんやないか
らな。もうこれ以上、警察の失態は許されん」
と言って、西村係長はぐるりと一同を見渡した。
「村田はんは所轄で地取り(周辺の聞き込み)と冴子に関することの調べ、出生も含め
てな、頼むわ。あ、それから、生みの母親のことも調べといてくれるか」
「分かりました!」
「森君は、山梨の方急がしてくれ。場合によったら、行ってもらうさかい」
西村係長は肘を机に置き、組んだ手を額に当ててうつむいた。
捜査員たちは急いで机の上の書類をまとめると、部屋を駆けるようにして出て行った。
村田刑事は山梨県警の協力を得て高科家の戸籍を調べると、冴子の不在証明(アリバ
イ)にも取りかかった。
冴子の生みの母、旧姓長岡葉子は山梨県出身で、山梨大学医学部の再生医療研究室で、
高科保の助手をしていたが、1985年に高科氏と結婚。1990年12月15日に、
山梨大学付属病院で冴子を出産している。その3年後、自ら運転する車をガードレール
にぶつけて死亡。わき見運転による前方不注意となっていた。
高科保は冴子を連れて1994年に池田市に転入し、今の場所に『高科産科医院』を
開院している。
葉子の姉が現在も山梨県に在住していることが分かり、念のために協力を得て口内粘
膜を採取し、DNA鑑定をしてもらっている。結果はまだ出ていない。
ただ、葉子の死後姉たちの家族・親族は、高科家とは絶縁状態にある。高科保から絶
縁を言い渡されたのである。理由が分からず、問うても答えてもらえなかった、という。
そして、引っ越し先も分からず、今回の報道によって初めて、大阪にいたのだと知っ
た。
不妊治療によって日本全国で有名になっている、と伝えると、全く知らなかった、と
言って驚いていた。
というようなことが、山梨県警の近藤刑事から受けた報告である。
一方、池田駅と阪急六甲駅の監視カメラの映像を解析してもらった結果、冴子の足取
りは確実となった。阪急六甲駅のコンビニの防犯カメラにも、3時13分頃に入店して
いる、おぼろげに映っている姿を冴子と断定した。
「デカ長、高科冴子は双子やった、ちゅうことも? そやないと、ナイフに付いてた血
痕の説明がつきません」
「双子やったら、DNAも指紋も同じなんか?」
「さあ? 瞬間移動が出来るんかもしれませんね」
「それとも分身か、か・・・あほか、マンガちゃうやろ」
村田刑事は若い刑事たちの冗談につきあって、少しの間息抜きをするのだった。
犯人の目星は全くつかず、捜査は行き詰まっていた。
誰かと会っていたことは確かなのだが、その人物の遺留品が何も見つからない、とい
うのも不思議である。唯一の手掛かりは、果物ナイフの血痕なのだが。
高科保が持っている携帯電話の通信記録からも当たっているが、不妊治療に関わった
人たちなのか、遠方に住む人たちとの通信が多い。彼らのアリバイ調査に、苦慮してい
るところである。
そんな折、森主任が山梨県警に依頼していた高科保についての情報がもたらされ、再
び本庁の会議室に集まった。
医事班からもひとり、参加してもらっている。
「まず申し上げておきますが、高科冴子の伯母に当たる人物のDNAは、冴子と血縁関
係は全く示されませんでした。ところが、旧姓長岡葉子が、体外受精をして冴子を生ん
だんは事実であります。
そこで考えられるんは、他人の受精卵を着床させたということです。ただ当時のカル
テを調べてもらいましたけど、その事実は見当たりませんでした、ということで」
森主任は見ていた書類を置いて、顔を上げた。
「主任、赤ちゃん取り違え、とかは?」
「当時、その産科での出産はひとりだけで、取り違えようがない、と」
「う~ん」と唸っている一同を見回している森主任に、若い刑事が言った。
「高科保の残してたファイルのタイトルは、『未受精卵の核除去による細胞の融合』と
あります。なんやよう分からんけど、今主任が言いはったことと関係してるようですね」
「確かに。で、考えられることは、高科保は、クローン技術を持ってたのではないかと」
「ち、ちょっと待ってぇな。突飛なこと、言わんといてや。高科冴子はクローン人間ち
ゅうことかいな。まだ人間では実現しとらんし、倫理的にも許されてへんことやで!」
森主任が口から出した『クローン』という言葉に、西村係長の声は裏返っていた。
医事班の係官が答えた。
「『未受精卵の核除去による細胞の融合』ね。それはまさしく、クローンに関する研究
ですよ」
若い刑事が、パソコンを睨みすえたまま言った。
「ええ~っと、今調べてるんすけど、哺乳類でクローンが初めて成功したんは、199
6年7月5日に誕生した、ドリーと名付けられた羊ですわ」
「冴子は1990年に生まれてますさかい、それより6年も前に、成功してた、ゆうこ
とになりまっせ」
別の刑事が発した言葉に皆は、まさか冴子がクローンということはないやろ、という
表情で顔を見合わせた。
4
大迫
件の現場に、犯人に繋がる証拠が全く残っていなかった、という報道に首を傾げた。
そこで急いで週刊誌を買って来て、パラパラとページをめくって記事を捜した。
捜し当てた記事をじっくり読もうと、テーブルに載っている湯呑茶碗に手を伸ばした
が、そこに載っている写真を見て、茶碗を引っ繰り返してしまった。
『不妊治療で輝かしい実績』と大きく書かれた見出しの下に、掲載されている写真。告
別式の様子と、高科保と共に、仲睦ましく微笑んでいる女性が写っている。
説明には、[5年前、娘の冴子さんと幸せの時間]とある。制服姿の冴子は卒業証書
を持っている。
希は急いでこぼしたお茶を拭き取ると、目を近づけてじっくりと見入った。
冴子の容姿は、10年前の高校卒業時の希と全く同じだった。
記事によると、希は冴子より5歳年上となる。告別式で写っている冴子の沈痛な顔は、
希が元気なころと瓜二つだ。
希は過去の出来事や、母から聞かされていたことを思い出そうとした。
両親は音楽家で、父はチェロ奏者であり、母はハープを演奏していたが、今はいない。
ふたりとも事故で死んでしまった。11歳離れた姉
っている。
空気が澄み景観の良い、山梨県小淵沢に居を構えていた。
姉にとって、そこでピアノを弾くのが唯一の楽しみだった。騒音として近所からの苦
情など気にせずに、好きな時に好きなだけ、演奏することが出来たからである。
お気に入りは、ショパンのノクターン。
姉は小学2年生の時、学校の3階から転落し、その時に受けた衝撃によって内臓を損
傷、入退院を繰り返すようになっていた。生体腎・肝の移植に望みを託していたが、適
合者はなかなか現れない。
姉を溺愛していた父母は、もう一人子供を産むことを選択し、希が生まれたのである。
希は母から、何度も聞かされていたことがある。
「希ちゃん、大きくなったらネ、おねぇちゃんに、片方の腎臓と肝臓を少し分けてあげ
てね」
その意味がよく分かっていなかったが、小学生になり、いろいろな知識を学ぶうちに、
自分はドナーになるべく生まれてきたのだ、と悟っていった。自分の体が切られて、腎
臓や肝臓が取られてしまうことに恐怖を感じていたが、それでも父と母から愛されたく
て、褒められたくて、「いや」とも「こわい」とも言えないでいた。
しかし父母の願いはかなわず、希が中学生になった頃に姉歌音は他界した。両親の落
胆ぶりは、言葉では言い尽くせないほどだった。
姉のことは大好きだったが、ほっとした気持ちがあったことは否めない。
希は、当時のことをさらに思い出そうとした。
姉と希は一緒に出かけたことはない。姉は、病院へ行く以外はほとんど家を出なかった。
また、姉の写真は残されていない。
希は洗面所へ行き、自分の顔を鏡に映し、姉の顔を思い浮かべた。
じっと鏡に見入る。
今は病気でやつれているが、姉に似ているというより、そのままの容姿である。
何度も角度を変えて、鏡に映してみた。
そして再び、週刊誌の写真に見入った。
それは、希とも、姉の歌音ともいえた。
山梨大学付属病院で希は生まれ、その時に担当した医師が高科保だった。どういうい
きさつかは知らないが、当時再生医療を研究していたという高科医師は、姉の担当医で
もあった。
ドナーでもある希は年に数回、高科医師の診察を受けていた。それは希が誕生してか
ら、そして姉の死後も続き、先月にも受けていたのである。
高科医師は大阪から山梨までやって来て、病院ではなく、誰もいない研究室で診察を
する。
先月のこと、血液を採って、顕微鏡を覗いていた高科医師は、「失敗したな」と、ぼ
そっとつぶやいた。そしてあわてて希を振り返ったのだ。まずいことを口走った、とい
うふうに。
「どういうことですか?」と聞き返した。
「いや、赤血球の奇形型が異常なほど増えている」
希は、全身に癌細胞がまん延していた。それは半年前の検査の時に初めて分かったの
だが、その進行が異常に速い。
「いつ死んでもおかしくない状態だ」と、高科医師は伝えた。
「君は体外受精で生まれたことは、聞いているね」
「はい、母から聞かされていました。でも、技術的に安全性は実証されていますよね」
「君の場合は、特殊なんだ」
「どういう」
「うっ・・・まぁ、今だから言っておこうか。だが、口外しないことを約束して欲しい。
できるか?」
「はい、約束します」
それで、恐るべき言葉が高科医師の口から発せられた。
「君は・・・クローン体なんだ」
希はその意味することが、すぐには分からなかった。
高科医師は続けた。
「君の姉さん、歌音君への臓器移植を成功させるために、君の母親の卵子の核を除去し
て、歌音君の髄液から分離した細胞の核を移植し融合させ、その結果誕生したのが君だ」
「そんなこと・・・クローン人間って、この世に存在しないはずなのでは? ずっと前
に話題になった羊のドリーが、初めての成功例だと。それより何年も前になる」
「そう、私が最初の成功者だ。副作用がないと分かれば、いずれは世間に公表するつも
りだった。だが細胞の癌化、という課題が残っている限り、君という成功例は闇の中だ。
研究者としては、結果の最後までを見届けていかなければならない、と思っている。そ
れに・・・いや、それだけだ」
希の高科医師に対する殺意が、その時から徐々に芽生え、次第に膨らんでいった。
私は、姉のドナーになるために生まれてきただけでなく、研究のための試験体にすぎ
なかったの?
私は、ホントの幸せなんて感じたことがない。幸せな振りをしていただけ、母さんに
愛されたいがために。
恋すらしたことがない。癌細胞が全身をむしばんでいき、近いうちに死んでいくだけ。
高科先生は、恐ろしいことを研究してきたのだ。よもやクローン人間に副作用がなか
ったとしても、命を異常な状態で、作り出してはいけない。
この悲しみ、恐怖を味わうのは、私ひとりで十分だ。
高科先生を、このまま存在させてはいけない。
そして、クローン人間を研究し生み出していたという事実も、世に知らしめてはいけ
ない。
そう考えた希は、高科医師に来訪の意思を伝えた。
「私が誕生するまでの経過を教えてほしい」
と、お願いしたのだ。
電話口の向こうで、なかなか了承しなかった高科医師に対して、
「私には、クローンに関する研究の経過を知る権利がある」
希は強く言い放った。
事を終えた希は、恐れも後悔もなかった。
手と顔に付いた血を洗い流して応接室に戻ると、高科医師が見せてくれた自分に関す
る書類を抜き取り、あたりを見回した。
その部屋に置かれている、グランドピアノに釘付けとなった。
それまではそこにあることすら、気づいていなかった。いや、目には入っていたのだ
ろうが、認識していなかったのである。それなりに緊張していた、ということか。
おそらく、すぐに捕まるだろう。
指紋も、誤ってかすってしまった顔から出た血も、そのままにしておこう。それで構
わない。まもなく、死ぬのだから。
この書類だけ、私がクローンだということが分かるこの書類だけを、処分しておけば
いい。
両親が死んでから中央市のアパートに越してきてピアノも処分していたので、最後に
お気に入りの曲、ノクターンを奏でたくなった。
もうこれが最後の演奏だ。姉の歌音は私なのだ。希は歌音。
ノクターンを奏でるのは希であり、歌音である。
椅子を引き寄せ、鍵盤の蓋だけを上げて鍵盤を撫でさすると、指を軽く曲げその上に
置いた。
ひと呼吸して、指に軽く力を込める。
目を閉じていても、腕はしなやかに振れ動き、それに合わせて指は鍵盤の上でステッ
プを刻む。
ゆっくりと優しく、また細かく足踏みをするように。
時々高く跳びはね、力強く踊り舞い続ける十指。
すべてを忘れさせ、ピアノの澄んだ音色は全身の神経を振るわせ、心の奥底に浸透し
ていった。
5
高科冴子が1通の封書を受け取ったのは2月1日、ようやく気持ちが落ち着いてきた
頃である。
警察の捜査は、行き詰まっているらしいことは感じていた。問い合わせても、犯人に
関する情報は、何も教えてもらえなかった。犯人の遺留物が見つからなかったことだけ
を、聞かされていた。
封筒の上書きを見て首を傾げ、広げて見た便箋の文字に、目を見開いた。冴子の書く
文字に、癖までがそっくりだったからである。
読み始めた途端に、手が震え背筋にも震えを感じ、坐っている事さえつらくなり、読
み終えると眩暈を感じてベッドに横たわった。
高科冴子様
初めまして。大迫希と申します。
私が、あなたのお父さまを殺害しました。
高科先生は、あなたの血の繋がったお父さまではないと思います。
そして私はおそらく、あなたの姉に当たると思います。もしかしたらあなたが私自身
なのかもしれません。
手紙では詳しいことは述べられません、証拠が残ってしまいますから。
本来なら、私が大阪まで出かけて行くべきなのですが、もうそんな体力が残っていな
いのです。全身に、癌細胞が回っている為です。
会ってお話したい。
申し訳ありませんが、おひとりで、山梨の私宅までお越しいただけないでしょうか。
お願いします。警察には知らせないでください。
いつでも構いませんが、時間があまり残されていないため、出来るだけ早くにお願い
します。
一方的な申し出で、ごめんなさい。
大迫 希
冴子は文面と文字から、大迫希は自分の双子の姉であり、父を殺した犯人であること
を確信した。
私は双子だったのか、それで指紋が出なかったのかもしれない、と考えた。双子の場
合、指紋が同じかどうかは知らないが。
一刻も早く会って、真実を知りたい、と思いすぐに、小塚滋に同行することを頼んだ。
滋にも真実は知っておいてほしい。その結果どういうふうになろうとも、すべてを受
け入れる決心をしてのことである。
仕事が忙しいはずの滋だが、快く同意してくれた。
山梨大学付属病院に近い、小さな台所とバス・トイレが付いただけの8畳の洋室1部
屋のアパートで、大迫希はいつも一人ぼっちだった。
まだ元気な頃はスーパーのレジのバイトをしていたが、今は、親が遺してくれたお金
でつましい暮らしを続けている。
大阪から戻ってからは、コンビニですぐに食べられる食料品をまとめて買っておき、
ほとんどの時間は伏せっている。といっても、ほとんど食べることが出来なくなってい
た。
全身に回った癌細胞は、どうすることもできない。
どの医学書にも記載されていない状態で、初めから治療のすべはなかった。特定の臓
器が、というのではなく、すべてが、全身のすべての細胞が、わずかな変異をしている
らしい、と聞かされていた。
ただ進行するままに、高科医師は記録を取るだけであった。
冴子に手紙を出すことに、かなり躊躇いもした。
しかしもし、冴子が歌音のクローンだとしたら、自分と同じようにいずれは細胞が癌
化し、原因が分からないままに死んでいくことを思えば、放っておいてはいけない、と
考えたのだ。
冴子は、やって来るだろうか。
天井を眺めながら、そのことばかりを考えていた。
コンコン、とドアを小さくノックする音。
「ごめんください、大迫、希さんのお宅でしょうか。高科冴子です」
ドアノブを回して、少しドアを押し開いて中の様子をうかがっている気配がし、希は、
来てくれたんだ、と安堵した。
「どうぞ、そのまま上がってください」
冴子は滋とともに上がり込んで、ベッドの上に起き上がろうとしている希の横に立っ
た。
希は滋を見て、冴子に非難の眼差しを向けた。冴子はすぐに滋を紹介した。
「希さんですね、高科冴子です。こちらの小塚滋さんは、私の婚約者です。滋さんにも
知っておいてほしい、と思ったもんですから」
希の眼差しが和らいだ。そして軽くうなずく。
「そこの引出しをあけて、中に入っている書類を取り出してください」
冴子は希を見つめたまま、言われたとおりにした。
黄ばんだ紙からまだ新しい紙まで、書類は5センチほどの厚みがあった。
「高科先生が研究されていた、クローンに関する記録です。検体は私。そしておそらく、
あなた」
希と冴子は双子だ、というような話が出てきても、覚悟を決めていた冴子であるが、
クローン、という言葉がいきなり出てきたことに打ちのめされた。
「クローン!?」と小さくつぶやくと、話の先を促して黙って聞くことに努めようと
した。
心臓は早鐘を打ち始めている。
滋は床の上にあぐらをかくと冴子から書類を受け取り、1枚ずつめくっていった。冴
子はその隣に座った。
「知っておられる事を、すべてお話しいただけますか。滋さんは、クローンに関するこ
とには少し詳しいんです」
声は上ずっていた。
希は、知る限りのことを話していった。
「希さんとサエとは、五つ離れてるんや」
滋は、書類に視線を落したまま言った。
「希さんは、この書類を読まれたんですか?」
「読もうと思いましたが、さっぱり分からなくて・・・数字と英語の羅列で、図の部分
を眺めていっただけです」
冴子は今聞いたショッキングな内容に、黙ったままうつむいていた。
今まで知らなかった本当の、血の繋がった家族が、全く知らないところで生きてきて
いた事。
今まで両親と信じていた人は、それでも自分を生みそして育ててきたふたりだが、そ
の複雑な関係。
それよりも、自分がクローン人間であること。
そして、あと5年したら癌で死んでしまうかもしれない。
滋さんと結婚することなんてでけへん、というような、一度に多くの思いが押し寄せ
ていた。
部屋の中はエアコンがうなる小さな音と、滋が時々めくる紙の音だけがしていた。
希は目を閉じて、仰向けになって寝ている。もう思い残すことはないという、満足げ
な表情をして。
「サエ、ここに書いたぁること、ゆうてもええんか」
滋はかなり気遣って、冴子を見た。冴子は黙ってうなずいた。
「希さんが言いはったように、希さんのお母さんの卵子から核を取り除いて、歌音さん
の髄液細胞から取り出した核をくっつけてる。それを培養して、細胞が8分裂したとこ
で、2つに分断。
ひとつは、希さんのお母さんの子宮に。
ひとつは・・・培養液に1日浸けて、その後は凍結保存。5年後に解凍して、サエの
お母さんの子宮に着床さして、生まれたんがサエや。
サエは希さんと双子、とも言えるけど、歌音さんのクローンになる。よう聞けよ」
滋は言葉を区切るようにして、続けた。
「培養液ちゅうんは、中にT細胞を入れてる。T細胞ちゅうんは、癌細胞のキラー細胞で、
お父さんは多分、クローン体の癌化を、ようく知ってはったちゅうことや。確かに、恐
ろしい人体実験をしたことになる。
5年後、サエはどうなってるか、今んとこ、分からんのんや。サエの培養中の卵細胞が、
ガンマ24、ちゅうタンパク質を取り込んでたとしたら、希さんとは、違う状態になっ
てるかも、しれん」
冴子は、希の様子を窺いながら言った。希は聞いているのかどうか、目を閉じたまま
でいる。
「うちの体は、どうなるか分からん、ゆうことやね。癌になるか、ならんのか」
「ああ、けどな、どっちにしてもサエには、俺が付いてる。ず~っと、一緒や」
冴子は再び、希を見た。
「うち、なんで生まれてきたんやろ」
希は目を開いて、冴子に顔を向けた。
「冴子ちゃん、それは私が言う事。ドナーとして生まれて、生かされて、生きてるのが
ずっと怖かった。ねぇちゃんが死んでも両親にとっては、私はねぇちゃんの代わりでし
かなかった。今まで、恋をしたこともない。なぜ生まれてきたんやろ、っていつも考え
てた」
希は微笑んで言った。
「写真がな、その下にある。お父ちゃんとお母ちゃん。ねぇちゃんのは、お母ちゃんが
処分してしまったみたい。けど冴子ちゃんは、ねぇちゃんそのままや」
冴子は、小さな本棚に立てられているフォトブックを取り出して、広げた。滋も肩越
しに覗き込んでくる。
「サエは、母親似、やな」
「笑った時の顔は、お父ちゃんに似てると思います」
と、希は冴子を見つめて言った。
母は黒いロングドレスを着て椅子に座り、ハープの弦に両手を添わせて演奏している姿。
父はチェロを構えて、やはり何かを演奏している、弓を弦に当てている姿。
それと、希がピアノの前に座っている姿と3人が一緒に演奏しているところ。
他に数枚、家の外でバーベキューをしている写真。
仲睦まじい様子がしのばれる。
「ここに写ってるんは、希さん? それとも歌音さん?」
「その頃はねぇちゃんはもういない。両親の私を見る眼差しは、ねぇちゃんを見てる時
の眼差しでした」
希は目を閉じ、再び沈黙があたりを支配した。
しばらくして沈黙を破った声は、か細く沈んでいた。
「ねぇちゃんは、ショパンの曲が好きでよく弾いていました。特に、ノクターン第2番
オーパス9の2。それで私もそれが得意で、よく弾いていました」
「私もその曲、しょっちゅう弾いてます」
その日は、冴子は滋と共に、大阪に帰って行った。
希と滋の前ではまだ深く考える余裕がなく、普段どおりに取り繕っていたが、家に帰
ってひとりになると、その意味するところの重大さがどっと押し寄せてきた。
自分の出生の秘密と、これから起こるであろう事柄に、恐れと悲しみと辛さが襲いか
かり、狂わんばかりに泣き続けた。自分の力では、いや誰の力によっても、どうするこ
とも出来ないのだから。
母が「どうしたん?」と問いかけても、答えられるものではない。
滋は毎夜メールをくれるが、気丈な言葉を返すだけだった。
1週間すると、恐れと悲しみは怒りへと変貌し、怒りは父への憎しみへと変わってい
った。
そうしてようやく、希が父を殺した気持ちを理解し、共感することが出来るようにな
った。
希をひとりで死なせてはいけない、ということに気付いた。
山梨から帰宅して10日後、今度はしばらく滞在するつもりで、ひとりで希のアパー
トを訪れた。
希の最後を看取るつもりである。
希は冴子の存在を喜んだ。そして、すべてをまかせることにした。
冴子は、自宅のグランドピアノで演奏した、ショパンの曲数曲を録音してきており、
希に聴かせた。
「冴子ちゃんの演奏は、おねぇちゃんの演奏と全く同じ。それは、私自身の演奏でもあ
るのね・・・哀しみに、満ちている」
希は、録音したピアノ曲を聴きながら、閉じたまなじりをいつも濡らしていた。
「大迫さん」と呼びかけながら、ドアをノックする音が聞こえた。
「は~い」と言いながらドアを開けた冴子を見て、その訪問者は驚いた。
「高科さん?」
驚いた冴子。
池田署の村田刑事が、もう一人の男と並んで立っていた。男は、「山梨県警の近藤で
す」と名乗った。
「いやぁ、驚いた。高科さんがここにいてはるとは、思いもしませんでした。高科先生
が山梨大学に時々来られてた、という事でちょっと調べたらね、大迫希さんに行き着い
たんですわ。それで、伺いたいことがあって来たんです。大迫さんは?」
「具合が悪くて伏せってます」
「おっ、これはショパンの曲やな。ショパンは僕も好きなんです。ええ曲が多いですなぁ。
上がらしてもろて、よろしぃか」
部屋には、録音した、冴子が弾くピアノ曲が流れていた。
「刑事さん、上がってください」
希の言葉を受けて、どうしたものかと思案していた冴子は、ふたりを希のそばに導い
た。
「刑事さん、私が先生を刺しました」
村田刑事が口を開こうとする前に、希は告げた。
ふたりの刑事は顔を見合わせて希に近づこうとしたが、冴子がそれを押しとどめた。
「刑事さん、待って。希さんはもう長くはないんです。お願いします。ここで死なせた
ってください」
「病院へ入れましょう」
「いいえ、お願いします。ここで、私が最期を看取ります」
「冴子さん、でしたな。なんでここに?」
「理由を話したら、ここにおらしてもらえますか?」
「かなわんな。被疑者は、警察病院に入ってもらうことになってるんやが。ここで事情
聴取せんならん。近藤はん、どないしまひょ」
「逃走の恐れはないようなので、それでよろしいのでは」
大阪府下では殺人や傷害事件が頻発していて、捜査1課の人員を多くは投入できず、
捜査にも行き詰まっていたところで、山梨県警に依頼していた高科保に関する経歴と、
彼の周辺の人間関係の調査結果を受け取った。
高科保は2カ月に1度、山梨大学医学部の再生医療研究室で、経年継続研究として、
ひとりの女性を診察しているという情報を得た。ほとんどの研究員たちは知らなかった
のだが、20年来所属していた女性補助員がもたらした情報である。
診察していたというその女性、大迫希に関するわずかの情報も付いていた。
また彼女の携帯電話番号は、高科保の携帯電話の通話記録にも残されていたのである。
捜査1課の西村係長は森主任でなく、高科家の内情に詳しい、所轄の村田刑事に出張
を命じた。
朝6時に家を出た村田刑事は、新幹線で名古屋まで出ると特急しなの3号に乗り換え、
さらに塩尻で特急あずさ12号を利用した。
信州に来るんは何年振りやろか、学生の頃は夜行列車で、仲間らとスキーによう来た
もんや。徹夜明けのままスキーをし、民宿でまた騒いで・・・あの頃の体力はすっかり
失せて、今では徹夜勤務は、体にこたえるなぁ。
後10年で定年か。
定年なったら嫁はん連れて、またスキーでも再開しようかな、
などと雪景色の車窓をぼんやり見ながら考えていると、電車は甲府駅に到着した。
駅に降り立つと寒さが身にしみ、身震いしながら苦笑いした。これやと、スキーは無
理やな、と。
山梨県警は駅のすぐ近くにあった。連絡を入れていたので車の迎えがあったが、歩い
てもしれている。
依頼した調査などを請け負ってくれていた近藤刑事が、聞き込みにも同行してくれる
ことになった。
山梨大学で高科保がいつも出会っていたとかいう唯一の人物、大迫希から何かが得ら
れればいいのだが、と考えていた程度だった。
冴子は、希から手紙を受け取ったことを告げ、それを見せた。
生まれた年は異なるが、同じ受精卵から生まれた双子なのだ、とも。 クローンであ
ることは、誰にも言ってはならないことなのだと、滋も含めて確認し合っている。
「私が殺意を抱いたのは、高科先生から『5歳違いの双子の妹がいる』と教えられ、実
験に使われたのだと思って、憎しみが芽生えてきたからです」
と、希は弱々しい声で付け足した。
「トイレを借りる風を装って、書類に見入っている先生の後ろから刺しました。すぐに
振りむこうとしたので、も一度背中を突いて、体を反らせた時に前に回って、心臓のあ
たりを刺しました」
「なんで、大阪の高科さんの家まで行ったんや」
「・・・双子の妹のことを、教えてもらおうと思いました」
希は顔を背けて言った。嘘を言う時の癖である。
だが刑事はそれを信じ、追求しなかった。希がしんどそうにしていたからでもある。
その場で指紋が取られ、冴子と同じ指紋だったが、自白を得たことから殺人犯と断定
した。ただし、逮捕勾留は猶予し、在宅起訴がなされることになった。
村田刑事は、帰り際に冴子に告げた。
「あんたのお母さんのことも調べたんや。すでに知ってのように、高科保氏とは血縁関
係になかった事が、はように分かったからや。それにお母さんともな。これで疑問は解
けたわけやな」
「なんで、母とも血が繋がってない、て分かったんですか?」
近藤刑事が代わって言った。
「あなたのお母さん、長岡葉子さんのお姉さんが、忍野村におってやでな、DNA鑑定
に協力してもろたんじゃ」
山梨県警に戻ってから村田刑事は、直属上司である池田署刑事課課長に、産科医刺殺
犯人を確認したことの電話を入れた。
『そうか、これでひとつ解決したわけやな、ご苦労さん。どうなることやと思ったけど、
短期間に片が付いて助かったわ。すまんがな、はよ帰って来てくれるか。事件が立て込
んでるんや。今日、管内でのひったくりで重傷者が出たんやが、犯人は逃げてる最中や。
どうも常習犯らしいて、こいつを追ってるとこでな。
今年こそは大阪名物、[全国ひったくりワーストワン]を返上せんならん。署長が意
気込んでるよってな。他にもあるし、待ってるで』
帰りの車中で村田刑事は、大迫希と高科冴子との会話や表情を思い起こしていた。
何かを隠していることを確信したが、簡単な家捜しをしただけで深くは介入しなかった。
指紋確認の上で犯人と断定できたし、自供まで得たんやから、この事件の捜査はこれ
で打ち切ったらええ。
そやけど、大迫希は高科保の元から、何らかの書類を持ち出したはずやと思うんやが。
おそらくは、継続研究してたとかいうレポート。殺されるまで継続してたんやから、新
しい用紙に記入した記録があって、しかるべきや。それが見つからんかった。
やっぱり、クローンに関する研究やろか。
ひょっとしたら、高科冴子は大迫希のクローン? いや、それはおかしい。ふたりが、
誰かのクローン。それやったらつじつまは合いそうやが・・・フッ、何を妄想にふけっ
とるんや。
さ、帰ったらまた仕事が追いかけてきよる。ちょっとは、眠っとくとするか。
希は冴子の弾くノクターンを聴きながら、笑みを浮かべたまま静かに息を引き取って
いた。
約束通り柩の中に、希が父から奪った書類と希が持っていた写真を入れた。
希が父から奪った書類は、滋に預かってもらっていた。
ただ1枚、両親と希が楽しげに写っている写真だけは、焼いてしまうことが出来なか
った。それを見る限り、父母は希を愛していたことを感じる。希は高校生だろうか、普
段着姿の3人である。
その希に冴子自身を重ねてみた。
そして滋とふたりで、希を見送った。
拾骨するはずの骨は、形をほとんど残していなかった。骨まで癌細胞に侵され、ボロ
ボロになっていたのか。
痛ましい気持ちで、いっぱいだった。
もっと早く、希の存在を知っていたかった。事件が起こる前に。
もっと一緒にいれば、そうすれば希に、生きることの幸せ、を感じてもらえたろうに。
冴子は、自分の数年先のことを思った。
自分には滋さんがいる。そばに付いていてくれる人がいれば、何も怖くない。
自分の運命を、そのまま受け入れていこう、と思う。
ま、しゃあないわ、というあきらめの境地が、希と共に過ごすうちに芽生えて来てい
たのだ。
存在してはいけないのだろうが、生まれてきたからには、幸せになる権利はある。
冴子はひとりで電車を乗り継ぎ、富士急行線の富士山駅に到着すると、タクシーで叔
母の家を訪ねた。
3月、道端には、ここそこに茶色くなった雪が積み上げられていた。
雄々しく両翼を広げた冠雪の富士は美しく、身震いするほどに魅力的な姿を見せつけ
ている。
農家風の家に訪いを入れると、伯母と思われる人物が割烹着姿で出てきた。
「高科冴子です」と告げると、体をのけぞらせて吟味するかのように、上から下まで何
度も視線をはしらせていたが、「あの、ちっこかった冴子ちゃんずら~、えらいおっき
ゅうなったこってぇ。まっ、上がれや」と、腕をとられた。
座敷にある掘りごたつの炭を掘り起こしていた伯母に、「ささっ、温まってくれ」と
そこに座らされて、干し柿を勧められた。
「保さんは、気の毒んことなったな。冴子ちゃんも大変やったろう。犯人が捕まったって、
やれ安心なったずら」
「母のことが知りたくて、来たんです。刑事さんから、ここのこと教えてもらいました。
伯母さんがいるなんて、ちっとも知らなくて」
「遠いとこ、よう来なすった。あんたのおかぁちゃん、葉子はな、あんたを産んでから、
ノイローゼ、ちっか。ち―っとも自分に似とらんあんたのことで、悩んでおった様子だっ
たわ」
「うちが生まれた時のことは?」
「そうだなぁ、たもっしゃんは、種がなかったちゅんこって、体外受精ゆうんかや、そ
んでもって生まれたんが、冴子ちゃんずら。たもっしゃんは自分のこともあって、不妊
治療に力入れるようなったんだと、聞いとる。
けぇらしかったでぇな、あんた。んだども、でぇにも似とらんで、保育所行っても皆
そぉんな話するだで、辛かったんだろうに。保育所に連れてった後、ギャードレールに
車ぶつけてしもうて、なぁ・・・」
伯母は、割烹着の裾を目に押し当てた。
「冴子ちゃんが生まれた時ンは、そりゃ皆して喜んだって。綺麗ェなったずら。誰に似
よったかよ」
その後、近々結婚することなどを伝えて辞去した。
母の写真を見せてほしい、とは言えなかった。見てしまったら辛さが一層募る、と思
ったからである。
その日は希のアパートに戻り、すべてを片づけてから翌日、大阪に帰った。
『たかしなレディースクリニック』は名を変えて、経営者が変わったことを伝えていた。
産婦人科だけでなく、美容にも力を入れているようである。
顔のしわ・たるみ、を取るために来ているのだろう。中年女性の出入りを、多く見か
けるようになってきた。
隣接していた家屋は取り壊されて、今は更地になっている。
村田巡査部長は勤務中にその前を時々通り過ぎるのだが、ふっきれない思いがよぎる
時がある。
高科冴子は、父高科保殺しには無関係やったんやろか。大迫希と共謀していた、とい
うことが考えられる。動機までは思いつかないが。
それと、高科冴子は大迫希のクローン、ということ。今の科学力からゆうて、クロー
ン人間は、実は存在してるんやないやろか。
自転車に跨ったまま立ち止まって、しばらくの間思案に暮れるのであった。
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レディースクリニックの院長が、自宅で刺殺体となって発見された。
現場からは、犯人の遺留物が見つからない。
犯行推定時間帯に、娘の冴子がいつも弾いているピアノ曲が聴こえていた、
という聞き込み証言を得たが、家族以外の指紋は検出されなかった。
凶器に残されていた血痕からは、2種類のDNAを認めた。