第7話~俺にできること~
【side イサク】
「よう、イサク。 久しぶりだな」
日向に座り真剣に何かを読んでいたその人物は、イサクに気付いても見向きもせず、響くようなバリトンで再会を喜ぶ言葉を口にした。
「はん! 元気そうで何よりだ。ファティナ」
イサクはその隣にどかっと腰を下ろし、彼が読んでいた本を奪う。 内容は…まあ、ここでは言えないようなピンク色のものだと言えばわかってくれるだろう。
イサクはため息をつくと、それを思いっきり遠くへ投げ捨てた。
「あぁーーーっ!!! てめえ、弟子が師匠の私物になんてことしてんだ!!!」
「うっせー。 こんな朝っぱらから堂々とエロ本読んでるやつを師匠なんて呼びたくねーよ」
舌打ちをしながら本を取りに行くために立ち上がったファティナを、イサクは呼び止める。
「俺が休日に早起きしてまであんたの所に来た理由は、分かってんだろ?」
彼がゆっくりと振り返る。 赤く長い髪に隠れたその目は真剣なものに変わっていた。
「亜獣について、あんたならずっと前から知ってたんじゃないか?」
「………」
二人の間に少しの沈黙があった。 ファティナはイサクを静かにみつめていたが、やがて吐き出すように呟いた。
「レイヴンか……」
「!!!」
なぜレイヴンから聞いたことを知ってるんだ。
「まあ待て。 先にどこまで知ってるか教えろ。 話はそれからだ」
ファティナがイサクの疑問を見透かしたかのように遮った。
聞きたいことは山ほどあったが、焦っても仕方ない。
イサクはあの獣達が“亜獣”と呼ばれていること、数ヶ月も前から出現していたこと、この少しの間に恐ろしい進化を遂げていることを知っていることとして挙げた。 考えてもみると、知らないも同然の情報量だ。
目をつむり、じっと聞いていた彼はどこからか取り出したタバコに火をつけると、静かに言った。
「正直に言うと俺が、いや、上層部も含めて、知っているのはお前と同じようなところまでだ」
イサクは少なくとも驚きに身を浮かせた。 それほど未知の生物だということだ。 しかし、それだけではないことはファティナの目を見れば分かった。
彼が声を若干低くして続ける。
「だだ、ある友人から聞いた情報がある。 それから俺は、一番辿り着きたくない仮説へと辿り着いたってわけさ」
イサクはゴクリと唾を飲んで問うた。
「それにレイヴンが絡んでるってことか?」
ファティナは肯定こそしなかったが、悲しげにイサクを見た。 同じように大切な弟子であるレイヴンのことを詮索した自分を責めているのかもしれない。
しばらくの沈黙のあと、彼は口から煙を吐きながら驚くべき事実を語った。
話を聞いている間、イサクは蝋細工の人形のようにピクリとも動かなかった。 それほどイサクにとって衝撃的で悲しい内容だったのだ。
【side ファティナ】
「………」
話が終わり、場に完全な沈黙が漂った。
イサクがまだ信じられないという顔で、一言ずつ絞り出すように聞く。
「つまり、その時が来るかもしれないと、あんたは考えてるわけだ」
「ああ。 そして…」
ファティナは滅多に見せない心配そうな表情をしている彼に近づいて行き、なるべく優しい声で言った。
「その時はお前にすべてを任せる。 俺にできることはそれくらいだ」
「俺にできるのか?」
「お前だからこそだ」
イサクがじっと考え始めたのを機に場がまた重たい闇へと落ちそうになる。 ファティナは立ち上がって今までとガラリと調子を変えて言った。
「何だよ。 リビングで父と息子がテレビのエロいシーンをたまたま見ちまった後みたいになっちまったじゃねえか」
「んな微妙な状況じゃねぇよ」
「よし。 いつも通りのツッコミだ」
ファティナは大げさに頷くと、近くにおいてあった練習用の片手剣を手に取り、イサクに
「久々に稽古つけてやるよ。 愛する弟子だからな」
彼の顔に一瞬だけ戸惑いの表情が浮かんだが、すぐに普段の生意気な笑顔へと変わった。
その様子を見てファティナも続ける。
「お前が迷ってちゃ始まらねぇ。 『“強”とは曲がらぬ意志であり、楚は剣そのものなり』。 忘れたわけじゃないよな?」
ファティナも思いっきり笑顔をつくる。
「いくぞ、イサク」
「オッス、師匠!!!」
【side ハリル】
「くしゅん」
もう本日何度目かのくしゃみが出た。 その鼻はすでに寒さでトナカイの様に真っ赤になってしまっていた。
彼が中にいないのはわかっていたが、叩いた分のものすごい勇気をチャラにするのがなんとなく嫌だったため、ハリルは微かな希望を信じてそこで待っていた。
しかしいくら待ってもイサクは帰って来そうになかった。
時計は後数分で十時を指そうとしている。
「さすがにもうそろそろマーシャの所に戻ろうかな…」
ハリルが諦めて名残惜しくその扉に背を向けようとした時だった。
ーザシュ。
背後で何かが立ち止まる音がした。 ビクッと肩が大きく波打つ。
その音は全く動かない。
ひょっとしてマーシャ? 絶対に怒ってるよね?
ハリルは首を小さくしながら恐る恐る振り返った。
瞬間、ピタッと周り全ての時間の動きが止まった気がした。
ああ…。 神様はまだ私を見放してなかったんですね…。
目の前に立っていたのは、紛れもなくイサクだった。 何故か体のあちこちに包帯やら絆創膏やらを貼っていたが、その綺麗な藍色の瞳と、灰色の艶のある髪の毛はいつも以上に輝いて見えた。
ハリルは動揺した心の中でもどかしく消えていく言葉を必死に紡いで口にする。
「あ…イ、イサク君…。 どしたの? こんなところで」
「帰宅。 一応そこは俺ん家のはずだからな」
彼はハリルの天然な質問にも、苦笑いしながら優しく対応した。 そしてゆっくりとハリルの方へ近づいてきた。
わっ。 そんな近づいてきたら…
ハリルが顔を真っ赤にしながら慌てていると、彼が顔を歪めて突然よろめいた。
「…ッ!」
「イサク君!」
反射的に彼を助けようとハリルも飛び出したが、寒さですっかり体か動かなくなっていることを忘れていた。 悲しいことに、思いっきりつまずいてしまった。
「きゃっ」
二人はなす術もなく、もつれてそのまま転んだ。 静かな寒空に、どさっという音が響く。
「イタタタ…」
ハリルは大した痛みもなかったことに驚きながら、何か柔らかいものの上に自分が乗っていることに気付いた。
ん…?
目を開けてみると、綺麗な肌が目に映った。 その主が声を出す。
「…ててて。 大丈夫か、ハリ…!?」
彼が状況を理解して目を丸くするのとほぼ同時に、ハリルは言葉にならない叫びをあげて飛び起きた。
「ごごごごご…ごめんなさい!!!」
首がもげるのではないかという速度で、顔を上下させる。
先の状況から察するに、二人は抱き合うようにして転んでしまっていたのだ。
謝意と恥ずかしさの天秤が、一気に後者に傾いてしまう。 恐らく今ハリルの顔は、双方の感情ゆえに、形容しきれないほど真っ赤に染まっていることだろう。 嬉しさがないと言ったら嘘になると思うが…。
ああ…でも、これって神様がアタックしろって言ってるのかも…。
イサクに促され、振るのをやっとのことでやめた頭の中に、不意に自分でも信じられない考えが浮かんだ。 それに突き動かされるように、意思に反して身体が動き始める。
「イサク君…」
ハリルは限界以上の興奮のためにぼーっとした頭に全部任せることに決めた。 こうなったらなるところまでなれ、だ。
馬乗りのような状態のまま、顔をイサクに近づけていく。
「ハ…ハリル…?」
心なしか、ハリルの影で暗くなった彼の顔が赤くなっている気がした。
拒否しないってことは…大丈夫ってことなのかな? …そうならいいな…。
どんどん二つの唇の距離が縮まっていく。 それに呼応して、彼の服を握る手に力が加わった。
あと少し…。
ハリルがそっと目を閉じたその時だった。
背後で小さな悲鳴が聞こえた。 二人とも勢いよくくそちらを向く。
さっきの声…
「ハ、ハリルちゃん…。 一体どんな方法を使ってそんなとこまでもっていったの…?」
視線の先ではマーシャが肩を上下させながら、大きな瞳を目一杯開き小刻みに震えながら立っていた。
すぐにハリルの中の性格スイッチが、羞恥へと転換される。 考えるよりも早く、バッとイサクから飛びのいた。
マーシャの視線から逃れるように顔の前で両手を高速で振りながら、必死に弁解を図る。
「こ、これはべべ、別にやましいこととかじゃなくて…」
「いや、さっきのあなたは、“やる”女の顔だったわ」
そんな風に見えてたの!?
イサクの方を見ると、頭に手をやりながら恥ずかしそうに下を向いていた。
「あー、何というか。 ごめんね、邪魔しちゃって。 それにしても、イサクを腑抜けにするとは…」
「違う!!!」
いくら言い訳しても、説得には丸々一日かかりそう…。
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前回の続きです。
イサクが向かった先とは?
そして、可愛くて可哀想なハリルの運命やいかに。