その、冴え光る緑の目を見た時に。
自分でも意識しないまま。“……い”と、思ったのかもしれない。
静寂が、和室に溢れている。耳が痛くなるような、物音一つしない部屋。
それは、いつもの事。大して珍しくもない。
承太郎は、久しぶりの寝具の感触に、高い天井を見上げて息を一つ吐いた。
留置所の中も、自ら望んで入っていたという事もあって、居心地はそうまで悪くなかったが。ラジオで、大相撲中継も聴けたし…しかし、やはり質が格段に違い過ぎる。
自宅である、この屋敷は広大で。だが、周囲を高い漆喰の壁でぐるりと囲まれているお蔭で、耳障りな雑音は、容易には入って来れない。東京とはとても思えない、穏やかな夜だ。
子供の頃は、この静けさを怖いと思う事もあったが。年を重ねるごとに、肝は据わり。
今では、けたたましい声や物音を聞くと、露骨に顔を歪めてしまうようにまでなった。
殊に、女の嬌声は苦手だ。と言って、女は元来弱いモノであるから、邪険に扱うつもりはないが…それでも、うるさいのはやはり遠慮したい。
……女と言えば、昨日の取り巻きの一人は、その後どうしただろうか。
傀儡から解き放った後、特に手を貸す事もなく。自分は、さっさとその場を離れてしまったが。まぁ、別に砂漠のど真ん中という訳でもないのだし。無事、学校に行っただろう。
「……」
そこまで考えて、承太郎はちらり、と視線を横に流した。
自分のすぐ隣。寝具の上に横たわり、硬く目を閉じている男。
ある朝、突然己の前に姿を現し。幽波紋…スタンドと呼ばれる能力を使って、命を狙って来た人物。
「花京院…」
ぼそりと呟く。
己が通う高校に、転校してきた人間。刺客としての為だけに、わざわざこの地に姿を現した者。
ご苦労な事だ、と皮肉っぽく内心でごちる。
だが、今の彼はもう敵ではない。膿み腐るような“呪縛”から解き放たれ。
人としての心を取り戻したのだから。
もう、その秀でた額には、醜い『肉の芽』は残ってはいない。
──自分達、血族に怨霊のように関わってくる化け物…DIOというおぞましい吸血鬼野郎。呪われた運命で絡み合っている、最強の敵。
先祖の肉体を奪い、生首と合体させ。殺戮と破壊を好み、人間を下等な生き物と嘲り、犯し、殺し。ヒエラルキーの最高峰を手に入れようとしている、下種な生物。
己の祖父に当たる異人から、その話を聞かされた時は、正直半信半疑だった。
けれど、『悪霊』とばかり思っていた、モノ…が、実はスタンドと呼ばれる異能力、つまり超能力の一種だと説明され。その力は、クソ忌々しいDIOの復活によって、共鳴するかのように発現したとのだと断言されては、眉唾モノと嗤う事も出来なくなった。
何より、突如姿を現したこの花京院の存在が、戦いの幕が切って落とされたという事を、証明してくれたのだから。
DIOによって、ヤツの細胞の一片を埋め込まれ。魂を凌辱され、操り人形と化していた男。
生まれつきその身に備わっていたスタンド能力のせいで、駒として利用されてしまった。
自分が肉の芽を摘出しなければ、遠からずDIOによって脳を喰らい尽くされ。
成す術もなく、死人となっていただろう。
だからと言って、別に恩を売るつもりはない。だから、彼はここから…この戦いの舞台から、降りても構わないのだ。ジョースター一族とは、何の関係もないのだから。
けれど、母親の。ホリィの命を救う為、エジプトへの旅に自ら身を置くと言い切った。
自分とは違い、彼女はスタンドを支配下に置く事が出来ない。故に、守護である筈の力は、制御できない呪いとなって、宿主の命を奪おうとする。
それを回避する方法は、ただ一つ。根源である、DIOの命を絶つ事。
そして、その悪魔は遥か彼方…エジプトにいるという。
情報をもたらしたのは、花京院だ。洗脳から解放され、彼は喉から手が出る程欲しかったカードを開いてくれた。
勿論、己のプライドを踏みにじり、肉の芽を植え付けた男に復讐したいという思いもあっただろう。と、同時に、ホリィの母性と、天真爛漫な性格に心を動かされたらしい。
だが、もう半分は、命を助けて貰った借りを返したいという所だろう。
妙に義理堅い男だ。
けれど、その一本気な性質は、嫌いじゃない。
承太郎は、微かに口元を緩めた。
……と、その時。
「……ッ」
しん、と静まり返っていた室内に、小さな苦鳴のような物音が響く。
承太郎は、眉を潜めた。
くぐもった呻き声。それは、隣で休んでいる花京院の口から零れている。
目を凝らして見れば、端正な貌は何時の間にか苦痛のようなモノで歪み。
額には、汗がうっすらと滲んでいる。
羽根布団を掴んでいる五指は、血の気を失い。薄闇でも判る程の、病的な白さだ。
「……おい」
流石に気に掛かって、承太郎が花京院の左肩に手を伸ばす。
肉の芽による影響は無い筈だが……?
と。
突然、彼は肩に置いた手を、激しく弾かれていた。
「!?」
容赦なく殴打され、承太郎が目を見開く。
しかし、花京院は瞼を閉じたままだ。どうやら、無意識の行動らしい。
そして。
「さ…わるなぁ!離せッ……!ディオっ…」
低く…けれど、はっきりと拒絶の色を含んだ呻きが、耳朶を打つ。
食い縛った唇から、つぅ…と、紅い糸が一筋零れ落ちる。どうやら力を入れ過ぎて、皮膚が破けたようだ。
羽根布団を掴んでいる指の関節が、ひくひくと痙攣している。
激しく左右に振られる首。長い髪が、音を立てて宙を舞う。
「おい!」
あからさまな異変に、承太郎がもう一度肩を掴み、強く揺さぶる。
……すると。彼は、ハッとしたように目を開いた。
「……ぁ…?」
呆然とした囁きが漏れ。緑の瞳が、うつろに瞬かれる。
が、それは一瞬の事で。すぐに花京院は、洞のようだった双眸に、強い意志の光を灯らせた。
「……承太郎…?」
己を覗き込んでいる男の顔を見止めて、小さく名を呼ぶ。
花京院は、横たわったまま大きく息を吐き。そうして、ゆっくりと身を起こした。
「大丈夫か?」
短く承太郎が問う。
花京院は、薄く嗤った。
「済まない…うるさかっただろう?」
額に片手を当て、小声で謝る。
その表情は、いつものようにクールさを取り戻してはいるが。心なしか、こめかみがピクピクと震えている。見かけ程に、落ち着きは取り戻してはいないらしい。
夜着に包まれている肢体が、戦慄いている。
承太郎は、細かく震えている肩を抑揚の無い目で眺めていたが。
やがて、素っ気ない程の口調で、“風邪でも引いたら洒落にならねぇから、さっさと寝ろ”と返した。
ぶっきらぼうだが、何処となく心配の色を含んでいる台詞に、花京院が口元を小さく吊り上げる。
らくしないな、と言わんばかりの視線。
承太郎は低く舌打ちをすると、さっさと布団に戻ろうとした。
しかし。
「……僕は、何か…言っていたかい?」
という声に、動きを止めた。
──両膝を立て、顔を埋めている男の姿。
まるで、傷付いた獣が、それでも必死で弱みを見せまいとしているようだ。
承太郎はもう一度、花京院の方を見つめると。あぁ、と頷いた。
「触るな、と言ってた。ヤツの名も口にしていた」
「……はは。やっぱりね」
嘲りに満ちた言葉。表情は見えないが、多分嘲笑を浮かべている事だろう。
花京院は、顔を埋めたまま、くぐもった呟きを漏らした。
「これから話す事は、独り言だから気にしないでくれ。君は、眠ってしまっても構わないから…」
「……」
「ディオに初めて遭ったのは、エジプトに家族で旅行した時だと言ったよね?その異国の血で、僕は奴の奴隷になった…」
あの悪魔は、目を付けた駒に、忠誠を誓わせる為…自分の細胞の一つ、肉の芽を脳に埋め込んで、隷属を強要する。
おぞましい事に、アレを植え付けられると、ディオに対する反抗心は喰い尽くされ。
ヤツのカリスマに惹かれ、心酔してしまう。忠実な下僕に、自らなってしまう。
それに疑問を抱く事もしない。何もかも、コントロールされてしまうから。
……だけど。
「どうしてだろうね。僕は…ほんの一瞬、まともな精神に戻る時があって。もっとも、それは長くは続かないのだけれど。とにかく、正気に還る瞬間があった。そんな時、ディオは…物珍しい玩具を見付けた、と言わんばかりに…僕を……」
屈辱に満ちた呻き。
口ごもった花京院を、承太郎が深い色の目で見つめる。
……皆まで聞かずとも判る。先ほど、彼が漏らした言の葉で。
この男は、DIOによって、文字通り…全てを奪われ、穢されたのだろう。
殺戮を好み、弱者を虐げる事に、何のためらいも持たぬ悪鬼。
あくまで想像に過ぎないが、そういう性質の生き物は、凌辱嗜好もさぞおぞましいぐらいに豊富に違いない。
美しいモノ、愛らしいモノ、清らかなモノを貶める事に、至高の悦びを見い出し。
破壊し尽して…そして、ようやく一時の満足感を得るのだ。
相手のプライドをずたずたにして、屈辱の涙に塗れる様を観察して、歓喜に浸る。常人には理解できない、歪んだ性愛。美しいモノを貶める事によって得る、充足感。
DIOにとって、正にこの男は、そういった性癖を堪能させる獲物だったに違いない。
美しい外見。瑞々しい若さ。裡に秘めた、気高いプライド。
それらを足蹴にするのは、ヤツにとっては何よりのエクスタシーだっただろう。
碌に拒む事の出来ない人間を、嬲り犯して。そうやって、身体も精神も凌辱したのだろう。
──考えるだけで、反吐が出そうだ。
胸糞悪い思いが、胸中に渦巻く。
肉の芽を抜き取ったとはいえ、花京院の心に深く刻まれた記憶は、そう容易には消え去りはしない。
だからこそ、彼はこうやって悪夢にうなされるのだ。
承太郎は吐息をひっそりと零すと、おもむろに花京院の肩口に触れた。
途端、びくりとそれが揺れる。
しかし、彼は気付かぬ素振りで、とん、と身体を押した。
「承太郎?」
「寝ろ。明日も早ぇんだからよ」
エジプトに出立する為、明日は早朝から家を出なくてはならない。
休める時に休んでおく必要があるのだ。敵は何と言っても、人外のモノなのだから。
制限時間のある旅。一時も気を休める事など出来ない、困難な道行きが自分達には待っているのだ。
「お前自身の借りを晴らす為にも、休んでおけ。足手まといはごめんだ」
殊更、無愛想に言う。
……何故か、内心に芽生えた、ぢりっと焼けるような、苦い感情を押し殺して。
花京院は、横たわったまま目をぱちりと開いていたが。ややあって、クスリと苦笑した。
「……そうだね。つまらない話をした。悪かったね」
「……」
「お休み、承太郎」
特に返事を期待していない口ぶりで言って、花京院が瞼を閉じる。
一呼吸置いて、承太郎も寝具に戻り、羽根布団を頭までひっ被る。
彼は闇の中、小さく舌打ちをした。
我ながら、言葉の足りなさに腹ただしさを感じてしまう。
もっと他に言いようがあっただろうに。
男が男…しかも悪魔などにレイプされたのだから、その心情は押して知るべしだろうに。
まともな慰めも掛けられなかった。
いや…花京院とて、下手な同情などして欲しくはないだろうが。それにしても、己の口のまずさには、閉口してしまう。
元々、感情を表すのは豊かではない。母親のように、喜怒哀楽を素直に出すタイプではないのだ。
そのせいで、周囲の人間に誤解を与える事もおおく。威圧的な態度に、決して友好的ではない性格、無表情でぶっきらぼうと来ては、喧嘩を売られても無理はないし。
だが、こういう時にすら気の利いた台詞の一つも言えないものか、と自嘲してしまう。
と、同時に。先ほどの、焦げるような鈍い疼きを思い出して、再び胸が重苦しくなる。
DIOに対する嫌悪は当然だが。花京院の、過去の陰惨な話を耳にした時に感じたモノは、それよりももっと強く、焼けるような憎しみを伴っていたように思う。
例えるならば、明確な…憎悪。
それは一応、友となった彼への憐れみから起こった感情だろうか。
それとも…もっと別の……
「……チッ」
憎々しげに、歯を鳴らす。
気分が悪い。DIOが、花京院にその血に塗れた手を伸ばし、好きなように嬲ったのかと想像するだけで…脳が沸騰するかのような怒りが湧いてくる。
そして、それに戸惑ってしまう。
自分には関係ない事だ。ヤツの過去がどうであれ…今の己が第一に考えるべきなのは、母親の命と、先祖代々に渡る、呪縛を断ち切る事。
ただそれだけの筈なのに。
承太郎はもう一度舌を鳴らすと、考える事を放棄するかのように、目を無理やり伏せた。
こんなくだらねぇ事、考えている暇などない。とにかく眠らなくては。
余計な事に気を掛ける余裕があるのなら、DIOをぶちのめす方法でも思い付く方が、よっぽどマシだ。
承太郎は己を叱咤しつつ、硬く瞼を閉じた。
……いつしか、隣の寝具から、先刻とは違い、安らかな寝息が聞こえて来た事に、心の何処かで安堵しながら。
どうしてあの夜、こんなにもイラ付いたのか。
何故、あんなにも心がざわめいたのか。
その答えが明らかになるのは、熱砂の国で、果てしない死闘を繰り広げ。
長い旅路の果て…掌から零れ落ちるように消えてしまった彼、を荼毘に付し。その遺骨を胸にした時に明らかになるという事を、今の承太郎は知る由も無い。
自分は、光の中で柔らかく微笑む彼を欲しかったのだ、という単純な想いだった。
だから、それを穢した化け物を、心の底から…あの夜、憎いと思った事に。
ただ、それだけだった。
FIN
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「ジョジョの奇妙な冒険」3部、承花小説です。ジョジョは初書きの為、ちょこっと矛盾点もあるかもしれませんが、目を瞑ってやって下さいv(この小説は、他サイトでもUPしております)