「い、いったいどうしたですか!? 敵の兵たちが全員消えたわけではないのですぞ! そのように慌てて行動しては敵に気取られるのも時間の問題‥‥!」
「ごめん、でも嫌な予感がするんだ、少しでも早く戻らないと‥‥!」
俺は反対するねねを押し切って井戸から脱出すると、長坂橋へ向けて走り続けていた。
あの時感じた胸騒ぎは、気のせいじゃない。証拠なんてないけど、確信がある。
本当は敵兵がいなくなるのを待つか、夜になって行動するつもりだったけど、そんな悠長なことをしている余裕なんてなかった。早く、橋で恋たちと合流しないと。
「見つけたぞ~~~!! 敵の大将だ!!」
「やばっ!!」
「だからいったですよ!!」
「んなこと言ってる場合じゃないだろ!!」
ねねを抱えて走り出すものの、数で大きな差がある以上、逃げられるのは困難。追い詰められるまでに時間はかからなかった。
「へへ、間違いねぇ。天の御使いとかいうやつだ」
「運が良いな。みすみす他のやつらに手柄を渡すことはねぇ、俺たちでやっちまえば褒美も貰い放題だ」
敵はおよそ10人。
台詞から考えれば、ここにいるやつらさえ倒してしまえば、後はどうにでもできる。
けど、一般の人たちならともかく、魏の兵士たち相手に勝てるかどうか‥‥。
ねねを背中に、引き抜いた剣を片手に覚悟を決めて踏み出した瞬間、がさがさと茂みが大きく鳴った。
一瞬の注意の逸れ。その後にやって来たのは、数名の男たちが地面に倒れる音。
わけも分からず、剣を構えていれば、為すすべもなく残りの男たちも胸や腹を貫かれ、次々と地面に倒れてしまう。
「ご無事か、ご両人?」
聞き覚えのある声と服装。
その人物に、俺とねねは歓声を、そしてすぐ後に驚きの声を上げた。
■暁と覇
「久しいわね、呂布。私のこと、覚えているかしら?」
五十万にものぼる軍団が大地を黒く押し潰していた。
長坂橋と呼ばれる橋がかけられた崖を境に、赤と黒、二色に分けられた世界。
その境目で対峙する、血だらけのケモノと一人の王。
「‥‥‥‥曹操」
「あら、貴方のような者でも人の顔を覚えるだけの頭はあるのね。感心したわ」
息を呑むほどの威圧感は、曹操も負けては居なかった。恋が夕焼けを背負うならば、華琳が背負うのは覇王の名。幾万もの人間たちを統率するその姿は果てしない荒野しか広がらない恋の背中とは相反するものだ。
「つまらない時間稼ぎに付き合う気はないわ。命令は一度だけ。そこを大人しく退くというのなら、命だけは見逃してあげましょう。どこへなりとも好きに消えなさい。ただし、命令に従わないというのなら、容赦はしない」
不思議だった。
流れ出ていく血がどこか心地よかった。
熱くてたまらなかった身体が、目の前の少女と向き合うことで冷めていくのが分かる。
どうしてだろう。浮かんでくる言葉はなく、答えはない。
「‥‥恋、曹操に聞きたいがある」
気付けば、そう口にしていた。
ずっと聞きたかった内容じゃない。今ここで、こうしてこの場所に立っていて、どうしても聞かずにはいられない。聞かなければならない。そんな気がした。
「‥‥いいでしょう、言ってみなさい。質問の内容次第では、答えてあげても構わなくてよ」
「華琳様、このような獣の言うことなどに耳を貸す必要はありません。すぐに攻撃のご命令を!」
詰め寄る春蘭を、無言のまま、片手で制した曹操が恋へと向き直る。
それを認めてから、恋がゆっくりと口を開いた。
「‥‥曹操は、どうして戦うの?」
「‥‥‥‥‥‥はっ」
小馬鹿にするように、曹操は瞳を伏せた。曹操にとってそれは上に立つ前の前提。それを世に知らしめずして、この場所にはいない。
「愚問ね、呂奉先。そういう貴方は何故戦っているのか、いえ、何故『そこ』にいるのかしら?」
そことは恋が立っている場所ではない。もっと大きな場所。対立する桃香と華琳。なぜ桃香の味方となっているのかを指していた。
「‥‥ご主人様が、いるから」
「では、その『ご主人様』がいなかったら、貴方はそこにいないと?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
恋は答えなかった。答えられなかった。その意味がわからなかったからではなく、そこに何の意味も見出すことが出来なかったから。
「‥‥恋は」
言葉に出来なかった恋は、ゆっくりと目を閉じた。暗闇の中に浮かぶ言葉ではなく、気持ち。一刀たちと出会い、自分が感じてきた心の全てを口にするつもりで、恋は語る。
「‥‥恋はご主人様が好き。桃香も、愛紗も、鈴々も、朱里も雛里も星も皆みんな大好き。だから、死んで欲しくない」
みんなのように上手くは喋れないけど、言いたい。
「一人は寂しい。みんなでいれば、温かい。戦いは、怖いこと。大切な人たちが傷つくのは、嫌なこと」
「‥‥呂布、貴方は何故自分がそうやって一人なのかと、考えたことがあるかしら?」
曹操の口調に、変化はなかった。荘厳に満ちた響きは諭すようなものとは違う、鋭さと冷たさを秘めている。
「純粋さ。それは尊いものであると同時に、異常なものでもある。人が持つ殺意、憎しみ、憎悪、それらの感情の方がまだ人間らしく、そうあるべきでもある。貴方の持つその純粋さは、紛れもない狂気。常人が持ち得ないもの。血塗れのその戟は、汚れを持とうとしない純粋さの証拠でもある」
握り締めた右手。一刀よりも細い指先は、鋼の柄をしっかりと掴み取り、その冷たさと同時に敵と自分の血で真っ赤に染まっている。
「狂気の武人とはよく言ったものね。人は己の醜さを他者に投影するからこそ生きていられる。だが、あまりに自分を映しすぎる鏡は必要ない。だから貴方は一人なのよ」
なぜかはわからない。けど、身体がおかしかった。
頭がくらくらした。理解できない言葉だらけなのに、それを否定しようとする感情の波が、胸のどこから咽びあがってくるのがわかる。堰を切ったように出てきた感情は、幼いことから溜まっていたものだろうか。
「私は人間というものをよく知っている。人は利己的で、己本位動く。だからこそ、争いはなくならない。貴方のような存在は有り得ないし、貴方もまた不完全で壊れたもの。そして、それを失くすために、私は乱世に立った」
「‥‥‥‥それが、曹操の正義?」
「正義? そんなものは存在しないわ」
初めて強まった華琳の感情の波。王者としてではない、別の何かの存在に、零れそうになっていた恋の心の滴がぎりぎりのところで踏みとどまった。
「私が歩むは覇道。大陸を統一し、平和と安寧を齎す者。正義など、その者の立場によっていくらでも変わってしまう。劉備がいう『全ての人が笑って暮らせる世の中を作る』なんていう甘い理想は、正義とはいわないのよ」
「‥‥‥‥‥‥難しい」
「貴様ぁ!! 華琳様、最早問答など不要、この私がいますぐにでも斬っ‥‥」
「違う」
他人の言葉を遮ったのは初めてだったんじゃないかと思う。
それくらい否定せずにはいられなかった。
「‥‥‥‥‥難しいけど、わかる」
前にみんなで同じことを話したことがあったけど、あの時もちゃんとわかっていた。
「曹操にとって、恋たちは悪。恋たちにとって、曹操たちは悪。正義は一つじゃないこと、分かる」
誰にでも当てはまる正しい答えなんてない。全ての人が平和に暮らせる世の中なんて出来ない。ずっと一人で、人らしい日々を送れなかった恋だから、誰よりもよく知っている。人が食べ物を奪うのは欲しいからじゃない。それがないと生きていけないから。生きたいから、何かを奪う。戦場と一緒だ。
「‥‥恋も曹操と一緒。今まで色んな人と会ったけど、助けた人なんてほとんどいない。誰もしない。誰かが一つにしないと、一生誰も変わらない。だから、それをしようとしてる曹操は偉いと思う」
「‥‥犬コロと思っていたけど、少しはまともな考え方ができるようね」
向かい合ってどれだけの時間が経っただろう。未だ沈まぬ夕日を背負ったまま、屹立する恋の瞳を、曹操の眼光が初めて真正面から捉えた。
「では問いましょう、呂奉先。この乱世の時代、覇道を貫き、天下を統一する。そして腐敗した朝廷を斬りおとし、最早無用の長物となった漢に終止符を打ち、新たな時代の王となる。それが私の正義。
貴方にとって、正義とは何か?」
答えを出すまでに要した時間は短くはない。
ぽつりっと出た言葉は、あの人がいったもの。
「‥‥ひーろー」
「‥‥‥‥‥は?」
「‥‥正義の味方」
「‥‥‥‥‥‥???」
曹操だけでなく、あちこち上がるのは完全なる疑問符だ。
「‥‥‥‥‥ご主人様」
誇らしそうに笑うその表情は、とても嬉しそうだ。
「ええい、単語で言うな! もっと分かりやすく喋れ!!」
「‥‥‥‥‥(コクッ)」
律儀に頷いて、恋は少しだけ落としていた視線を曹軍の全ての将兵に見えるよう押し上げた。
やっとここまでこれたのだと、そう自分を誇りたかった。
「ご主人様が言ってた。弱きを助けて、悪を挫く、正義の味方。朝ごはんを食べるときにやってきて、子供たちに正義の大切さを教えてくれる人たちがいる」
生きる意味を教えてくれた人がいる。
空っぽだった心に、こんなにも愛しい想いを吹き込んでくれたあの人。
「その人は朝ごはんの時にはやってこないけど、恋に、たくさんのご飯をおごってくれる。食べてるとき、ずっと隣にいて、いつもにこにこしてる。優しくてあったかくて、何もしらなかった恋に、大事なことを教えてくれた」
「‥‥‥‥大事なこと?」
頬を赤らめたまま、頷き、また顔を上げる。
目を閉じれば、いつも嬉しそうに微笑むあの人は、きっとこうしただろうから。
「恋に、正義を教えてくれた」
みんなで手を繋ぐなんてこと出来るはずがない。誰かと分かりあうどころか、話し合うことすら難しいこんな自分たちが、本当に笑い合うことなんてできるのか。
「ご主人様がいってた。たくさんの人たちのために、頑張るのが正義だって。たくさんの人たちが仲良くしていけるように、頑張るのが大切だって。みんなが平和を望むなら、戦いはおこらない」
「だから、そんなものはただの幻想だと‥‥!!」
「でも曹操も、この大陸を平和にしたいって言った」
「―――――――!?」
吐き捨てるはずだった言葉が、喉の奥で行き場を失ってしまい、無意識に曹操は顔を上げていた。
「‥‥大勢で話し合うの、大変。皆で手を繋ぐのも、難しい」
吸い寄せられてしまう、輝き。
夕日は沈みそうで、夜と夕の境目に見える二色が交じり合った金色の帯。
沈み行く太陽は最後の輝きを見せていた。
不意に乾いた音が鳴った。
地面に落とされた戟は転がり、曹操へ差し出されたのは、恋の右手。
「恋の左手、もうご主人様と繋がってる。でも、恋の手、もう一つある」
お世辞にも、綺麗とはいえない手だ。戟を握り、幾万回と振るい、傷ついてきた掌は歴戦の傷に泣いている。
「恋は頭が良くない。人とも上手く話せない。でも、手を繋ぐくらいなら出来る。
ご主人様が恋や桃香や、たくさんの人と繋いでる。たくさんの手を持ってる。だから、恋と曹操が手を繋げば、皆、幸せ。曹操が言いたいこと、恋がご主人様にいう。それからご主人様が桃香にいえば、みんな仲良し」
差し出した指先から真っ赤な雫が零れ始めていた。肩から溢れ出た血液は肘を伝い、指先へと流れ出る。
それは例えるなら、恋が歩んできた軌跡。真下に垂れ下がっていたならば、大地は血に染まり、余すことなくその身で濡らしていただろう。一方で、水平に持ち上げられた腕からでは、時間がかかってしまう。早いか遅いか、それだけの違い。しかしそこには明白な差がある。それが、現実。
手を差し出したまま、恋は少しだけ震えていた。血で一杯の、返り血と自分の血に染まった身体は寒く、しかし早鐘のように鳴り響く音が身体を常に温める。それは怖いという感情。幾千の刃を向けられるよりも、誰かと向き合うことがこんなにも勇気のいることなのだと、恋は初めて知った。
曹操には、目の前の人物が取っている行動が理解できなかった。
なぜ笑っているのだ。
そしてそれを取らないとする自分と、それを拒もうとする自分がいることに気づく。
手は取らない、取れるはずがない。
取ってはいけないのだと、そう言い聞かせる自分が、胸の片隅で喚いていた。
「‥‥曹操」
まるで怯えたように、曹操は身体を振るわせた。
怯えている? 何に? 自問自答するが、答えはない。
「‥‥曹操はすごい。でも曹操が一人で頑張らなくても、大丈夫。恋が助ける。恋がだめなら、皆で頑張ればいい」
にっこりと、笑って。
「――――――みんな、一緒」
夕日はほとんど沈んでいた。大地を埋め尽くす軍勢の向こう側では、既に太陽を見失ったものさえいるだろう。その恩恵に気付くことなく、日を終えた者もいるかもしれない。
(‥‥‥‥なんだ、これは)
「‥‥華琳様?」
(なぜ‥‥)
既に消えつつある暁の空が、暗闇の中に溶けていく。まるで青と赤の空なんて最初からなかったように。まるで魔法が解けるみたいに。
何もかも終わって、消えてなくなっていく。今日という時間の中に吸いこまれて、新しい日々を迎えるための準備が始まっている。
だからだろうか?
こんな、
こんなにも、
‥‥こんなにも、涙が止まらないのは。
涙に濡れる瞳で、華琳はもう一度顔を押し上げた。
ここが戦場であることを、本当に少しだけ忘れてしまった心が意志とは関係なく、眼前の光景を胸の奥底で泣いている女の子に見せ付ける。
傷ついた体を引きずって、それでも笑って、柔らかな手を差し出す姿は、まるで‥‥。
「華琳様、もう時間がありません。これ以上時を長引かせれば、劉備に追いつくことが難しくなりましょう。急ぎ追撃の命を」
流れていた涙に気付いたのは、秋蘭だけだった。
今は必要ない。
そんな気持ちでそれを拭い去り、王に戻った華琳が大きく右腕を上げた。それに従い、集結していた軍勢が一斉に戦闘態勢を取った。
既に意識が朦朧としていた恋は、腕を振り落とすこともなかった。足元に零れ落ちた戟に、自分の血が降り注ぐのを見送ることもなく、ただ、ぼやける視界に思いを馳せる。
全ての未練を捨てて、覇王を取り戻した曹操が、大きく号令をかける。
それに呼応した全軍がいよいよ最後となる突撃の合図を待ち、
華琳の右腕が、あらゆる未練を切り裂くよう、大地に振り下ろされ―――――――
■出陣、華蝶仮面!
乱戦に満ち満ちた戦場を小高い丘から見下ろす騎馬が二つ。
一騎に跨るのは、どこぞの(というか本物の)学生服を身に包んだ北郷一刀。
そしてその前に進み出て戦場を観察する騎馬に乗っているのは二つの影。一人はねね、もう一人はきみょ、ゴホンッ、カッコいい仮面に身をつけた女性だった。
「何だか、戦場が荒れておりますな」
「なぁに、大方別働隊として駆けつけた愛紗と鈴々の隊が奇襲をしかけたのでしょう。これを逃す機はありませんな。一気に敵陣を駆け抜けますぞ。良いですな、主」
「それはいいけど‥‥‥‥なんで仮面なの?」
「仕方ありますまい。敵陣に単騎で主たちを救出しに来たのです。ある程度の変装をしなくては」
「いやいや、変装‥‥は百歩譲ってわかるとして、それ余計に目立たない?」
「おや、そうですかな?」
「そうですかなって、なぁ」
「お前に同意するのは癪ですが、そこは同じ意見ということにしておくのです」
促されたねねもさすがにこれは同意してくれた。だって、ねぇ‥‥。
「無駄話はそれくらいしておきますぞ。援軍が来てくれたとはいえ、数はたかがしれております。奇襲によって敵陣が乱れている今しか機会はござらん。私が道を拓きますゆえ、主は私の後ろを離れぬようしっかりと付いてきて下され」
「りょ、了解!」
「遅れても、拾ってやらないのです! せいぜい落ちないよう気をつけるのですな」
「ねね、てめっ、このやろ!」
「行くぞ!!!」
「うわわっ!?」
「わっ、ちょ、ま、待って~~~!!!」
「状況は!? どうなっているの!?」
「さ、左右から押し寄せてきた敵部隊の奇襲を受け、各隊の伝令網が分断されています! 組織だって反抗をするためには、まだ時間が‥‥」
「泣き言はいいわ。すぐに対応策を練りなさい。秋蘭と春蘭は‥‥」
「華琳様、後方の部隊より伝令です!!」
「凛、何事?」
敵軍襲来の報を聞き、安全な陣地へと移動した曹操たちは各部隊からの情報を整理していた。そして齎された一つの報はある意味で強烈なものだった。
「敵軍の首領たる北郷一刀を確認したのですが‥‥」
「それがどうかしたの? すぐに部隊を回し、捕縛なさい。無理なら殺しても構わないわ」
「い、いえ、それが、その道を作るように我が軍内を単騎で駆け抜ける者がいるようなのです。何でも奇妙な仮面を身に着けた者だという話とかで‥‥」
「どういうこと? 桂花、理解できる?」
「は、はぁ、何となくですが」
「‥‥いいわ。私がこの目で直に確認します。案内なさい」
「は、はっ!!」
「はーっはっはっはっは! はーっはっはっはっは!」
戦場を真っ直ぐに突き進む一人の戦士。
白馬に跨る姿は、華麗。まるで己の身体の如く扱う槍は、流麗というほかない。
その進路を阻もうと前に出る者は、悉くその槍の前に身体を貫かれ、敗れ去っていた。
「可憐な花に誘われて、美々しき蝶が今、舞い降りる! 我が名は華蝶仮面! 混沌の都に美と正義をもたらす‥‥正義の化‥‥って台詞の途中で邪魔をするな!!! 何と無粋な!!」
「そういうのは後でいいから、さっさと先を急ぐのです!!」
「俺もそう思う!! 頼むから、急いでくれ!!」
「いや、そうは申しましても‥‥」
「いやマジで! 何でもいいから本当に急ごう、ホントにヤバイ!!」
「むぅ、主がそこまで仰るならば‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥な、何なの、あの悪趣味な変態は?」
「さ、さぁ。報告を聞く限りでは、華蝶仮面と本人は名乗ってるらしいですが」
曹操は絶句。桂花はあんぐりと口を開け、凛も自分で説明しながらあきれ返っている。
一方、風はといえば‥‥。
(‥‥‥‥星ちゃん?)
正体に気付いていたりする。
「中軍より連絡!! 既に中軍は突破され、残すは前曲の部隊のみ、それを越えられれば、橋に到達されてしまいます!!」
「な、何をやってるのよ! すぐに包囲網を強めなさい。春蘭と秋蘭は? あの二人に対応するよう命じなさい!」
「は、はっ!」
「見事なものね、あの技術、そして馬術。どれも一級品だわ」
「か、華琳様?」
「手に入れることは出来ないまでも、せめて正体くらいは知りたいわ。誰か、やつの仮面を剥ぎ取ってみせなさい!!」
「‥‥あのぉ、華琳様」
「前曲より連絡! 既に前曲中央まで敵は侵入、その速さは疾風の如く、包囲網が追いつきません!」
後ろから進み出た風の声も、伝令の野太い声に吹き飛ばされてしまう。
もう一度、と試して見るものの。
「あの、実は‥‥」
「あ~もう何やってるのよ、早くあいつらに連絡を取りなさい! 何だったら親衛隊の者を使っても構わないわ!!」
「は、ははっ!!」
「あのぉ‥‥」
「緊急連絡、前曲突破されました!! 残すは長坂橋のみ、夏候惇、夏候淵将軍が待機しておりますが、奇襲により陣形を乱されているため、対応は難しいかと!」
「‥‥ん、風、どうかしたの?」
漸く気付いてくれた華琳だが、時既に遅し。
「ぐぅ~‥‥」
「寝るな!」
「‥‥おうっ!?」
とりあえず寝た振りをしてみた風だった。
■小さな御伽話
「はーっはっはっはっは!! どけどけぇい!! 主、橋が見えてきたぞ!!」
「恋殿、恋殿~~~!! ねねが参りました~!!!」
「‥‥くそっ!」
完全な闇ではないとはいえ、夕日も沈み、当たりは暗くなり始めている。ましてやこんな大混乱だ。この距離から人を判別することは困難だ。
「恋は主にお任せいたします! 私はこのまま先陣をきって暴れ、敵の注意を引き付けます! 勝負は通り過ぎる一瞬ですぞ!」
「ああ、わかってる!!」
「‥‥‥‥っとそうだ、主、少しこちらへ!!」
「えっ、なっ、ちょ、ちょっと星!?」
「いいから、じっとしていなされ! 我に秘策あり!!」
「いや、すぐ後ろに敵が来てるんだから、そんなことしてる暇はな‥‥」
「大人しくして下され、落馬しますぞ!」
「大人しくするのは星のほ‥‥いや、ちょっ、なっ、何でこっちに、おい!!」
「こ、こら、星、何をしているですか!? いくら敵を振り切ったからって。おい、聞いているですか!?」
「落ち着け、慌てずに陣形を直し、橋を確保しろ! 出口を塞いでしまえば、袋のねずみだ。姉者、霞!」
「く、わ、分かっているのだが、ええい、どけ、どかぬか!!」
奇襲によって陣形を乱され、混乱に陥っている状態ではまともな指揮もとれるはずがない。春蘭、秋蘭は橋より離れたところで指揮におわれ、季衣もそれどころではなかった。
「‥‥‥‥‥ご主人、様?」
遠くから聞こえてきたのは、幻聴ではなかった。怒声や罵声が入り混じる戦場でも、その声だけは絶対に聞き間違えるはずがない。
ゆっくりと身を起こそうとした恋が、影に気付く。
倒れた自分の前に立ち塞がっていたのは、槍を持った霞だった。
「‥‥‥‥うちは何も見てへん」
「‥‥霞?」
「勘違いするんやないで。一騎打ちに水を差してしもうた、これはそのお返しや。ここで恋に死なれてもうたら、続きが出来んようになってまうしな」
ぶっきらぼうに、自分の言葉を証明するかのように、霞は少しも視線を合わせようとはしない。
「あれが‥‥お前のひーろーっちゅうやつか」
「‥‥‥‥‥‥(コクッ)」
こちらに駆けつけてくる二つの騎馬。先頭を走る奇妙な仮面はおいておくとして、お世辞にもその後ろを追うみたいについてくるさまは頼もしいとはいえない。
「あんなんが、恋のいうご主人様かぁ。あれのどこがいいんや?」
「‥‥全部」
きっぱりと。
「‥‥ははっ、あはははははっ、そうかそうか!!」
ここまで断言されれば、清々しいというものだ。
「そうか~、そらぁ敵わへんなぁ」
「‥‥‥‥‥?」
「何や、恋っちってば、そんな真名しとるくせにしらんのん? 昔からよく言うやろ。『恋する乙女は無敵』ってな」
「‥‥‥‥‥‥‥??」
分かったような分からないような、そんな顔を浮かべる恋にも、霞は笑顔を変えなかった。
「まぁ、恋らしいっちゃあ、恋らしいか。ほら、はよ行きぃ。うちの気は短いんや、気が変わるのも早いんやで!」
「‥‥‥‥本当に、いいの?」
橋の傍らにどっしりと腰を下ろして、柱に背中を持たれかける。気の抜けた身体は、どうやらもう戦う気がないらしい。
「これも昔から良く言うやろ。人の『恋』路を邪魔するやつは、馬に蹴られて地獄に落ちるって。うちはそんな無粋なまねはせん主義やからなぁ」
こっちの意味はどうやらわかったようで、少しだけ恋は頬を赤らめる。
そんな様子も可愛く感じた霞もまた、実に楽しそうに笑みを作った。
「恋――――――――――――――!!!」
「‥‥‥‥来たで。お出迎えみたいや‥‥‥‥って、馬が入れ換わっとる。何しとんのやあいつら」
ぼろぼろの身体を駆使して顔を上げてみれば、恋にもわかった。
いつも星が跨っているはずの真っ白の馬には、ご主人様が乗っている。星が先頭という配置こそ変わっていないが、何か意味があるのだろうか?
「はは~ん、な~るほど、粋なことを考えるやん。ご主人様ってば」
「‥‥‥‥?」
分からないことばかりの恋が、再び疑問符を浮かべれば、霞はにやり。
「白馬の王子様がお姫様を迎えにきてくれたんや。これは帰らんわけにはいかへんなぁ」
今度は、ぼんっと耳まで真っ赤になったのを見て、霞は大満足。
すぐそこまで近づいている二騎に気付き、ふっと目を閉じた。
「また会おうや、恋。次は出来れば、戦場じゃない場所やったらええなぁ」
名前を叫べば、すぐに分かった。
無理矢理乗り換えさせられた白馬を駆使して、俺は橋の間近まで来ていた。
かすかにこちらに向けて立ち上がろうとしている姿が見える。ざわめきかえる数百人の中でも、あの姿だけは間違えようがない。
星が抉じ開けてくれた道を滑るように貫いて、俺は右手を解放する。
いつも恋が握ってくれていた右手。
勝負は一瞬。失敗は許されない。
でも、恋ならきっと、こちらの意図に気付いてくれるはず。
手綱を左手に絡め、上体が傾くくらいに、右手を大きく地面の方に伸ばして走る。
近づいてきた俺の姿を認めた恋も、戟を支えに身体を起こすと、辛うじてこちらに左手を差し出してくれた。
「恋―――――――――!!!」
馬術の心得なんて素人同然の俺が、上手くできる確率なんてほとんどない。これを失敗すれば、俺も落馬してお終いだ。けど、恋ならきっと大丈夫という気持ち。恋を助けるためなら、絶対に成功してみせるという自信がどこから湧いてくる。
橋の前で交叉する瞬間に、重なり合う右手と左手。
ばらばらになっていたパズルのピースが、やっと重なり合ったような瞬間。
一緒だったのが普通だったみたいに、しっかりと嵌め込まれた二つの手は離れることはなかった。
一瞬の急停止に伴って俺の手を支えに、ぼろぼろの身体で懸命に浮き上がろうとする恋と、引き上げようとする俺の力が相乗して上への力を引き出し、強引に恋を俺の背中へと張り付かせた。
もう、それからは何も考える必要もない。
やっと手に入った宝物を背中に、俺は馬を走らせた。
「‥‥‥‥陣内を抜けていった敵の様子は?」
「‥‥申し訳ありません。すぐさま追撃隊を送りましたが、見失ったとのこと。橋に陣取っていた呂布も、どうやらその者たちに連れられ、戦域より脱出したようです」
「‥‥そう」
奇襲を仕掛けてきた部隊も消え、戦いはひとまずの終わりを迎えていた。
軍への被害は大きくないものの、大魚を逃してしまったことには違いない。
「華琳様、己の失敗は私自らの手で償いたく思います! どうか今一度私に追撃の命を!」
「それには及ばないわ」
「華琳様!」
華琳が優しく微笑みかける姿に、春蘭は言葉を失ってしまう。こんな姿を見るのは、いつ以来だろう。
「いいのよ、春蘭、貴方はよくやってくれたわ。それに、今からやつらを追っても到底追いつくことはできないしょう」
「し、しかし‥‥‥‥!」
「焦る必要はないわ。劉備を捕えることは出来なかったけど、ただ振り出しに戻っただけ。やつとの勝負はまた今度ということでしょう」
集まっていた武将に振り向き、曹操が撤収の合図を出すと、呼応した者たちが次々と行動を開始していく。
そんな中、一人残された曹操がじっと瞳をある方向へ向けた。
それは橋の向こう、夕日が姿を消した場所。
黙した曹操が何を思ったかを、知ることはできない。
長い長い沈黙の先に、その口元へと小さな微笑の名残を残して。
華琳は再び、己の歩む道へと戻っていった。
果てしない荒野を走る影が二つ。
「いやぁ、良かったよ。皆無事で」
「愛紗と鈴々もすでに引き返した頃でしょうから、もう暫く走れば合流できましょう。桃香様たちも、主のことをお待ちしております」
「しかし、今回はさすがに死ぬかと思ったのです。それもこれも、こいつが無茶なことをするのが悪いのです!!」
「俺のせいかよ!?」
「当然です! あんなところで軍の頭であるお前が敵陣に飛び込むなど、愚の骨頂なのです!」
「あの場合は仕方ないだろ。他に誰もいなかったんだし。それともねねだけの方が上手くできたのか?」
「う、それはわかりませんが‥‥」
「だろ。だったら、いいじゃないか。皆無事なんだしさ」
「はっははは、今回はねねの負けだな。たまには主に花をもたせてやれ」
よっぽど悔しいのか、ねねは子供みたいに唸ると後ろを振り返った。
「恋殿~、恋殿も黙ってないで何とか言って下され~!」
「‥‥‥‥‥‥」
「何だ、恋、寝ちゃったのか?」
「まぁ、あれだけの大軍を一人で相手していたのだ。疲労が溜まっていたとしても仕方のないことでしょう。ゆっくりと休ませてやったほうが宜しいかと」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥恋?」
何とはなしに、背中にもたれかかっていた恋の身体を揺らす。すると、腰に回っていた腕からすっと力が抜けて後ろに行くのがわかった。
「何だよ、起きてるなら、返事くらい‥‥」
ドサッ
「‥‥‥‥‥‥れ、ん?」
わけのわからない状況に、俺は馬をその場で停止させた。
すぐにまた抱きついてくるものと思っていた恋の腕はそのまま風に流されるように後方に下がると、それにつられるように恋の身体は馬から落下したのだった。
「恋!?」
「恋殿!?」
「これ、は‥‥」
そこで俺たちは初めて気付いた。恋の身体中に刺さった矢の存在と、白と黒の服が真っ赤に染まっていることに。
「恋、聞こえるか、恋!?」
「‥‥‥‥‥ご、しゅじ、ん、さ、ま?」
「ああ、そうだ。聞こえるな、恋!?」
やっと意識を取り戻したみたいに、恋は何度もあちらこちらへと視線を送っている。
「鈴々‥‥は?」
「鈴々なら、既に桃香様と共にこちらに向かっている。難民たちも無事だ。お前があそこで敵を食い止めてくれたおかげだ」
そういいながら、星が恋に刺さった矢を確かめていく。余りの時間が経過していることから、抜くことは容易ではなく、また急所に刺さっているものも多い。下手に抜けば、出血で死んでしまうだろう。
いや、そうでなくとも‥‥。
「‥‥主」
耳に直接投げかけてきた星の言葉。それは信じたくないもの。
立ち上がった星の瞳はまっすぐの武人の目をしていた。
否定しようとする俺の言葉は、静かに首を振られてしまう。
「‥‥‥‥ご主人、様」
「ん‥‥ここに、いるよ」
矢でハリネズミのようになった身体を抱きしめる。二人の距離を邪魔する矢は、星が丁寧に一本一本折っていくものの、簡単にはなくならない。
「‥‥恋、曹操とお話しした」
「‥‥どんな、話をしたんだ?」
震える声は必死に押し隠す。上手に隠せたかはわからないけど、恋は照れたみたいに笑ってくれた。
「‥‥ご主人様がひーろーだって、恋、話した」
「俺が、ヒーロー?」
「‥‥‥‥‥(コクッ)」
頷く恋に、迷いはなかった。
「ご主、人様、恋に色んなこと、教えて、くれた。ご主人様がいなかったら、恋、きっとこんな、気持ちにならなかった」
満面の笑みを浮かべる恋が、あの綺麗な瞳をこっちに向けてくれる。
‥‥そんな満足そうな顔するなよ。
俺は、そんなんじゃない。
「恋の方がよっぽどカッコいいよ。恋がいなきゃ、俺たちはみんな死んでたかもしれないんだ」
「‥‥‥‥恋、偉い?」
「ああ、すごく偉いぞ。今まででも一番だ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥やった」
再び見せる笑みに、力はない。
目元に浮かんでいるのは涙だろうか。それとも、俺が泣いているから、そう見えるんだろうか。
「‥‥ねぇ‥‥ご主人様」
右手を握り締める指に力が入るのを感じ、俺は代わりにその指を、掌を握ってやった。いつもは痛いくらいの力が今はもうほとんど感じられない。
「恋は、一人じゃないって、思ってもいい?」
「そんな、の、当たり前だろ。なに、言ってんだよ」
「そうですぞ、ねねだっております! 星だって、桃香殿だって!!」
堪えきれず飛び出してきたねねが、くしゃくしゃの泣き顔を恋の耳元で晒していた。そんな顔を見て、恋の小さな指がその目元を拭っていく。
「‥‥‥‥恋、時々分からなくなる。でも、ご主人様から、聞くと本当にそうだって思える。やっぱりご主人様は、すごい」
「‥‥‥‥そっ‥‥か」
そんなことはないと、おもいきり叫びたかった。謝りたかった。俺がヒーローだったなら、何で恋がここで死ななきゃならない。何でこんな小さな女の子一人守れない。そう口にしたかったけど。‥‥けど、こんな風に自分を誇っている恋を見るのは初めてで、そんな恋を前にして弱気を吐きたくなかった。
「ご主人様‥‥お願い、してもいい?」
「‥‥何だ、またご飯でも食べたいのか? あんまり高いのはなしにしてくれよ。また愛紗に怒られちまう」
「‥‥‥‥大丈、夫。これ、お金、かからない」
力を感じたのは、右の掌。弱々しく震える唇が、砂のように零れていく命の欠片にしがみ付いて、懸命に俺に何かを言おうとしている。
「‥‥いい子いい子、して」
何回も失敗してやっと口した言葉は、そんな短い言葉。
「それからぎゅって、して。身体、寒いから。手を握って、ぎゅって‥‥‥‥恋、眠い」
瞼にもう力が感じられない。こっちを向いているのかもわからない瞳はもしかしたらもう何も見えていないのかもしれなかった。
「眠いって‥‥こんなところで寝たら、風邪、引くぞ。もしかしたら、置いて、いっちゃう、かも」
言われた通りに身体を引き寄せてやれば、身体は氷のように冷たかった。そのことが、この願いが恋の最後のものだと悟らせてしまい、心を激しく動揺させる。
「‥‥ご主人様、優しい、から。恋を、置いていったり、しない」
「そんな簡単に、信じちゃって‥‥いいのか?」
その恋の頷きにも、迷いはない。
「‥‥‥‥‥‥‥っ」
もう限界だった。痛いくらいに、涙が目の下から溢れ出てくる。嗚咽を意地で堪えて、目を瞑ってしまった恋には分からないよう、声だけは平静を保たせる。
「恋、‥‥寝ちゃだめだって。こんなところで‥‥寝ちゃ‥‥」
本当に眠るみたいに、恋は瞼を閉じていた。
胸にもたれかかってくる重みから、恋の身体から力が抜けていくのがわかる。
「恋、おい、恋ったら!」
強く揺さぶってみても、返事はない。
呆気ないくらいに、途切れてしまった会話。頷いたのを最後に、まるで城の庭で昼寝するみたいに、恋は腕の中で眠り始めている。
「恋殿! 恋殿!!」
「‥‥‥‥っ」
名前を必死に呼びかけるねねと違い、覚悟していた星はただじっと唇を噛んだまま。
握っていた恋の左が、ずるりっと掌から零れ落ちて、冷たい地面の上に転がってしまう。
「恋殿!!!」
「恋‥‥!!」
焦るように余っている左手で恋の頭をなでてやっても返事はない。さらさらと指の間から零れ落ちていく髪の海からは、お日様の臭いがして‥‥。
「まだ、最後のお願いの途中だったんだぞ。それなのに、そんな嬉しそうな顔、するな、よ‥‥」
本当に寝ているみたいだった。
お日様の下で寝るみたいに。セキトや張々やねね、他の家族たちと眠るみたいに。
全部に満足したみたいな表情を浮かべていたんだ、恋は。
抱き寄せて、もう一度左手を握ってやると、仄かに残っていた温もりが、掌に伝わってくる。
いつものように腕に抱きついてくる温かさだけが足りなくて、
「‥‥あ」
浮かんできたのは、恋とすごしてきた日々。
寝ている俺の隣に潜り込んでいて、朝起きれば突然恋がいることにびっくりした。
日向で寝ている恋につられて一寝入りすれば、夜遅くまで寝てしまって、夜中に遊んでとせがんできた恋に手を焼いたっけ。
街を歩いていれば、商店街のおっちゃんたちが進んで食べ物をくれて、それを手品みたに根こそぎ平らげた。ぱんぱんに頬を膨らませる姿はまるでリスで、でもたまらなく可愛くて何度も抱きしめてやった。
政務に忙しい俺をほとんど強引に誘って、夕日の中を歩いたあの日。悩んでいた俺に、大丈夫だといってくれた、恋。
散歩のときに恋がいってくれた。恋は天下無双だと。俺の側にいれば、誰にも負けないと。どこにもいかないでほしいと。絶対に、自分が俺を守ってみせると。だから‥‥一緒にいようって。
もう一度、俺は恋の頭を撫でてみた。
一緒にいようって、そう言ってくれた恋をなでてやると、恋は頬を赤らめて、嬉しそうに笑ってくれたけど。
「‥‥‥‥」
今、それが、ない。
「――――――――――――――っ」
俺はその時初めて、人間は喉が張り裂けるほどの悲鳴を上げることができるんだと、知った。
■ひーろーの在りか
俺たちが蜀を平定して、長い時間が流れた。
当初はどうなることかと思っていたが、徐州からいっしょにやって来た人々や現地の人々の協力もあって街は順調に発展を続けている。これなら、徐州の都を追い抜くのも、そう遠くはないだろう。
午前の政務を終えて、気分転換と腹ごしらえに街に来たのはいいものの、最近は次々と店が立つせいで何がどこにあるのかわからない。区画整理の必要があるのかも。
「う~~、腹減った」
店の種類は実に豊富で、これだけあればどれにするか迷ってしまう。
前なら、何を食べようかと考える前に、恋が適当に決めてくれていたからよかったが、最近はそうもいかない。‥‥右手がからっぽなのにも、もうだいぶ慣れた。
店が増えるということはそれだけ人も増えているということ。人が増えれば、喧嘩事も増える。そうなれば、警備隊の出番なのだが、その全てに対処できるだけの人数も規模も確保できていないのが現状だ。
‥‥となれば、
「はーっはっはっはっは! はーっはっはっはっは!」
‥‥この独特の高笑いを聞けば、それとわからないものはこの街には最早いるまい。
こんな所を見られれば、また愛紗に何と言われるか。
(さっさと逃げた方がいいな‥‥)
恋が演じていた『恋華蝶』がいなくなったせいで最近はすっかり姿を消したと聞いていたが、そろそろ出てくる頃だと思っていた。大方、星に弱みを握られた誰かが開いた穴を塞いでいるのだろうが、気の毒に。星は名誉な役目を与えているとのたまうかもしれないが、俺から言わせれば、生贄といってもいい。鈴々や桃香あたりなら、喜んでやりそうだけど。
そういえば、今度から出動時間を朝からにしてもらいたいとかいう案がきてたな。あんなに早いと、街の人もまだ朝食を食べてる頃だろうから、騒動すら起きてないと思うんだが。
「はーっはっはっはっは! はーっはっはっはっは!」
「‥‥‥‥‥」
今日は随分笑い声が長いな。久しぶりだから、気合が入ってるのか?
「にゃーっはっはっはっは! にゃーっはっはっはっは!」
「‥‥‥‥?」
な、何だこれ。にゃ、っていつの間に星は猫キャラになったわけ。
「はーっはっはっはっは! はーっはっはっはっは! なのです!」
なのです! ってなんだよ。
明らかに自己紹介するのが面倒臭いから、語尾で簡単に自己主張してるだけだろ!
生贄か本人が希望したかはしらんが、とりあえず絡まれればややこしいやつらが加わったことは理解した。迅速かつ安全に飯を確保したいなら、この戦域から即時の離脱をする必要があるだろう。
「‥‥‥‥‥‥はーっはっはっはっは。はーっはっはっはっは」
「‥‥‥‥‥なに、このやる気があるのかないのか、わからない笑い方」
屋根の上に、堂々と身を翻す星。その両脇でない胸を一生懸命に張っているのは鈴々とねねだろう。更にその後ろの方に、ひょっこりと姿を現したのは、遠くからだからよくわからないけど、おずおずとしたあの出方と身長でだいたい予想がつく。
朱里は好んで高笑いしたりしないし、他の三人はすでに高笑いを終えている。
あの微妙なやる気をはらませている口調と声は、まさか‥‥。
「可憐な花に誘われて、美々しき蝶が今、舞い降りる! 我が名は華蝶仮面! 混沌の都に美と正義をもたらす‥‥正義の化身なり!」
ばっと愛用の槍を持ち直したところで、道に溢れてかえっている悪党どもを一瞥し、四人の仮面たちに小さな合図を出した。
「星華蝶!」
「朱華蝶!」
「鈴華蝶!」
「音華蝶!」
「‥‥‥‥恋華蝶」
まさしく朝のご飯時にある番組と同じ。
いつもより二人多い、五人組の登場に、街中からおおお~~~~という歓声が上がりまくった。
あまりの顔ぶれに、俺も思わず手を叩いてしまう。
「‥‥じゃなくて!! 恋、何やってんの!?」
「‥‥‥‥‥ひーろー」
「いや、そうじゃなくて! お前絶対安静だったろ! もしかして抜け出してきたのか!?」
フルフルッと元気なときと同じように首を振って。
「‥‥詠にちゃんと言ってきた」
「詠に‥‥?」
あの詠がよく許可したな。
「‥‥‥‥‥‥追いかけてきたけど、振り切ってきた」
「それ抜け出してきたより、余計悪いだろ!!」
長坂の戦い後、瀕死の傷を負った恋は数ヶ月に渡り、絶対安静の治療を行うことになっていた。普通なら死んでいた傷も、恋の強靭な体力が命を繋ぎとめたらしい。
‥‥いえ、俺もあの時本当に死んだと思ったんですよ。だってあの場面で眠いっていったら、普通そういうことって誰だって思うじゃん。桃香たちと合流して医者に見せたら、『ご臨終です』じゃなくて『寝てます』だもん。もう泣くことも笑うこともできなかったよ。
「‥‥っていうか、鈴々はともかく、ねねまで一体何やってんだよ!?」
「誰がねねですか! そんな人とは一切全くの無関係なのです!」
名前に反応している時点で、既にご本人様って言ってるようなもんじゃねぇか!
「おい、せ、ゴホンッ、星華蝶! お休み中の恋華蝶の代わりに、人を入れるのは許可したが、二人も増やすなんて聞いてねぇぞ!!」
愛紗との一件があってから、桃香直属の警邏隊として活動を認められたものの、一応メンバーを増やす際にはこちらに許可を取ることになっているのだ。
こちらを仲間と思ったのか、荒れくれものたちが屋根の根元にいた俺のところに群がってくる。当然、それを遮るように、華蝶たちが屋根から降り立った。
「細かいことは気になさいますな。病み上がりの恋を登場させるのは些か躊躇ったのですが、恋がどうしても早く復帰したいと申しましてな。ならば補充の二人は不要かとも思ったところ、恋が味方は多いことにこしたことはないと申したので、こうして5人で参った次第」
「‥‥降りてきたのが5人中3人しかいないんだけど」
「朱里は作戦を考えるのと名乗りをする役なのだ」
「‥‥ねねは、応援係」
「応援‥‥ね」
「な、何ですかその憐みに満ちた目は!! 恋華蝶殿、悪党をやっつける前に、諸悪の根源であるそやつをやってしまってくだされ!!」
「諸悪の根源って‥‥おれ、何かしたっけ?」
「乙女の心をかどわかす悪党! 心当たりがないとはいわせないのです!!」
「そんな‥‥」
否定できない部分があるのも事実だけど‥‥。
「天下の往来で庶民を脅し、金品を巻き上げるとは、不届き千万。この星華蝶が、貴様らを地獄に送ってくれよう!」
「弱い人を虐める悪いやつらは、この燕人張」「おい、鈴々」「おほんっ、正義の使者であるこの鈴華蝶がけちょんけちょんにこらしめてやるのだ!!」
「恋華蝶! 何をしている、さっさと加われ!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥肉まん」
「わかったから、いつもの量でいいな!」
「‥‥‥‥‥‥‥アンマンも」
「好きなだけ食え!!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ラーメンも大盛りでいい?」
「まだ食うのかお前は!?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥できれば、チャーシューも」
「わかった、わかったから!!」
‥‥何か前よりも交渉が上手くなってるな、恋のやつ。もしかして一番得してるのって恋なんじゃないか。
すぐに始まる正義の味方と悪党たちの戦いに、観衆から大きな声援と歓声が鳴り響く。まるで遊園地かどこかであるヒーローショーを間近で見ている気分だ。観客のうち、子供だけなく、大人たちも大興奮しているのが大きな違いではあるが。そうはいっても、この熱気は嫌いじゃない。純粋な熱と温かさに満ちたこの空気は、もう子供とはいえなくなった俺の中にまだ潜む、熱いものを呼び起こしてくれる。
やっぱ良いな、こういうの。
「でえぇぇぇぇぇぇい!!!!」
八つ当たり気味に豪快に振るわれた星の槍が、一人二人と悪党を叩きのめした。
(安心しろ、星。俺も慣れたんだ。そのうち、お前も慣れるって)
私的なものがほとんど買えなくなるけどな!!
星の財布に軽い合掌を捧げていると、右手に温かいものを感じた。
目を向ける必要もない。ずっと感じていた感触と、頬をくすぐった香りは目を瞑っていても言い当てる自信がある。
「恋は行かないでいいのか?」
「‥‥‥‥(コクッ)」
頷いた恋は、大きな戟を構えると、俺を護衛するような位置に立った。
「‥‥ご主人様を守る、恋の役目」
肩や手の甲には、あの時の矢の痕をまだ見ることが出来る。きっとそれは、二度と消えることはないだろう。
だが、それとは反対に、そう言い切った恋の言葉は、これまでよりも力に満ちていた。
「ご主人様はたくさんの人たちを助ける。恋にしてくれたみたいに、みんなのひーろーになる」
こちらに背中を向けたままでは表情を見ることはできないけど、その顔はなんとなく、笑っているように思う。
何度も見舞いに行っていた時に思っていた。
恋はあの戦いを越えてどこか変わった。これまで通り、得意の大食いでみんなを癒すポジションは変わってないし、相変わらず仕事をさぼって昼寝するのも変わってないけど、並んで街を歩いていると思うんだ。
「だから、恋はご主人様を守る。ご主人様がみんなのひーろーなら、恋はご主人様のひーろーになる」
あの戦場で何があったのかは知らないし、知ろうとも思わない。それは恋だけが知っていればいいことだから。
ただ、あの戦場が恋の何かを大きく成長させたように感じるのは気のせいじゃない。
俺に寄り添って歩く足並みは優しく、見上げてくる視線は前以上に暖かく、力強い光に満ちている。
自信とでもいうんだろうか。
たくさんの物事に向けられるようになった瞳は、受け取るだけじゃない、大切なものを与える側の光だ。
「‥‥それが、恋の正義」
「‥‥‥‥いいのか、そんなこといっちゃって。これから先、もっと苦しいこととか、悲しいこととかがあるかもしれないんだぞ。もしかしたら、どっちかが死んじゃうかもしれない」
本気で言っているわけではないけど、恋がどんな答えを返してくれるのか、予想がつきながらも楽しみで。
「ご主人様がいれば、恋は天下無双。誰にも負けない」
ようやくこちらを振り向いてくれた恋の瞳に、やっぱり迷いはなかった。
それも予想していた俺は軽く吹き出し、俺の笑顔を見た恋も、一緒に笑ってくれる。
軽く引き寄せて戟と反対の手を握ると、当たり前のように恋が握り返してくれる。
その当たり前の反応が、嬉しく、何よりも心強かった。
ぐぎゅるるるるる~~~~~~~~っ
‥‥天下無双でも、やっぱり腹は減るんだな。
「いってこい、恋! 俺はここで、恋の帰りを待ってるから」
「‥‥‥‥‥恋、ご主人様を守る」
「大丈夫だよ、鈴々や星だっているんだ。それに一応、上にはねねがいるし」
「一応とは何ですか!! やはりお前にはちんきゅーきっくをお見舞いしてやる必要がありそうですな!」
「出来ればそれは悪党たちにしてくれ。正義のためにも、俺の身体のためにも」
「あ、あのぉ、私も忘れないで下さい~~~」
頬を膨らませるねねの横では、外れそうになっている仮面を押さえながら、こちらを覗きこんでいる朱里の姿が見えた。そんな二人の一生懸命な姿に、俺たちからは自然と笑みがこぼれる。
「それに、ここを片付けないと、いつまでたってもご飯が食べられないぞ」
「‥‥それは、大変」
「うんうん、だから早く片付けて来い。終わったら、一緒にご飯食べに行こう」
「‥‥‥‥‥‥(コクコクッ)」
しきりに頷いて駆け出していく恋の背中が、眩しく目に映る。
きっと俺たちは、こんな風に生きていくんだろう。
幾つもの苦難を経験して、傷ついて、悲しんで、泣いて。
その度にもうこんなことはこりごりだって、そう悔やみながらも進んでいく。それが、お互いに望んでいることだから。
この乱世が終わる前に、もしかしたらどちらかが先に果ててしまうかも。その可能性だってないわけじゃない。
けど、そう簡単には死なないと胸を張って言える。
ある苦難を乗り越えるたびに、俺たちは一つ一つ強くなっていくから。
どちらかが先に死ぬなんて分からない以上、それまで走り続けるしかない。
走り続けるだけなら、諦めずに歩き続けることなら、出来るはず。
俺たちは一人じゃないから。
「‥‥‥‥ご主人様」
不意に振り向いた恋。
少しだけ離れたところで、俺のひーろーが笑う。
「―――行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
沸き起こる歓声に、暁の髪がふわりっと浮き上がる。
持ち上げられた戟に呼応して、周囲から割れんばかりの熱気が上がり、天へと昇っていく。
志気を呑みこみ、天空すら突き刺す戟は、無敵。
それを振るう姿は、天下無双。
ずっと続いていくんだろう。
きっと。
こんな時間がずっと。
戦が終わって、平穏な日々が訪れても。
なぜかって?
答えは簡単だ。
ヒーローは、休日の朝ごはん時に必ず現れるから。
‥‥もっとも、俺のひーろーはそんなに甘くないだろうけど。
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前編の続きです。
ネタバレにご注意下さい。
誤字指摘感謝です!!!(泣