月も沈まぬ早朝の研究所の一室で、短い睡眠から槍の妖怪は眼を覚ました。
この妖怪、今まで一度も横になって寝たことが無く、いつでもすぐに主の元に駆けつけられるように座って寝ているのだった。
槍の石突を地面に突き立ち上がると、銀の髪の青年はいつもの服である小豆色の胴着と紺色の袴を脱ぎ、全く同じもう一着を着用する。
この格好、街中ではメチャクチャ浮くのだが、本人は全く気にした様子が無い。
なお、永琳からもらった黒曜石のペンダントは、片時も肌身離さず身につけている。
着替えると、青年は槍を持って洗面所へ。
槍を常に持ち歩いているのはその本体が槍であり、それから一定距離以上離れることができないからである。
青年は洗面所でその精悍な顔を洗うと、そのまま中庭へ出る。
「……はっ」
中庭に出た青年は眼をつぶって精神統一をすると、カッと目を見開いて槍を振るい始める。
彼はこの日課を、生まれてこの方一日たりとも欠かしたことは無い。
この弛まぬ鍛錬の結果、青年の槍捌きは更にどんどん上達していったのだった。
「……ふっ」
なお、最近では自分なりに槍の振るい方を変えてみたりして更なる高みを目指すべく奮闘している。
また、自らの分身を仮想の対戦相手として作り出し、それを相手にすることで何か欠点が無いかを探ったりもしていた。
「…………」
そして、そんな青年を横で眺めるのがその主の日課となっていた。
この時ばかりは余程のことがない限り、永琳が声をかけるかひと段落つくまで手を止めないのがこの場の暗黙の了解である。
そしてひと段落ついたのか、青年は槍を振る手を止めて槍を収める。
「お疲れ様。今日も調子が良さそうね、将志」
「……ああ、おはよう、主」
永琳が笑いかけると、将志はそれに対して右手を上げて返す。
そうやっていつも通り挨拶を交わすと、研究所の中に戻っていく。
研究所の中に入ると将志は真っすぐに調理場に向かい、朝食の用意を始める。
将志は手にした『六花』と銘打たれた包丁でリズミカルにキャベツとトマトを切り、水煮にしたコーンを添える。
それから玉ねぎとジャガイモをコーンと一緒に炒めた後に生クリームと水を加えて煮込み、出来あがったものをミキサーにかけて鍋に戻す。
煮込んでいる間にパンをトースターに入れ、卵とベーコンを焼き始める。
今日の献立はベーコンエッグにコールスローサラダ、コーンスープにトーストである。
なお、将志は高度な調理器具は使わず、ほとんどを手作業で行っている。
どうやら彼の頭の中では『手作業>>>>(越えられない壁)>>機械化』の考え(偏見を多分に含む)が強く根づいているようだった。
朝食の準備を終えると、将志はラボで論文を読んでいる永琳を呼びに行く。
永琳が台所に入ると、そこではいつも将志が気合を入れて作った朝食が並んでいるのであった。
「それじゃ、いただきます」
「……ああ」
二人は同時に席に着き、朝食を食べ始める。
永琳が食事をしながら笑みをこぼすところから、将志の努力は報われているのだろう。
将志もそれに満足して微笑を浮かべた。
「将志、今日の予定は?」
「……いつも通りだ。主もいつも通り研究か?」
「そうね、もしかしたら午前中出かけることになるかもしれないから、午前中はここに居てくれないかしら?」
「……了解した」
食事をしながら一日の予定を確認する。将志は永琳の予定を聞くと、自分の予定を微調整する。
そうして雑談交じりの食事が終わると、将志は後片付けをして槍を持って外へ出て、食後の運動を始める。
この運動は自分の能力の扱いの練習も兼ねていて、将志にとって最も重要な運動とも言えよう。
「……はっ」
将志は抜き手で目の前の金属の塊をつらぬく。
二メートル四方の巨大な金属の塊は日々の特訓によって穴だらけになっていて、将志の努力の程が窺える。
「……せいっ」
将志がしばらく突き込んでいると、金属の塊が限界を迎えて崩れ落ちた。
金属塊が音を立てて自らに手を突き入れている将志の上に崩れ落ちる。
「のおおおっ!?」
「将志、またなの!? そうなる前に言いなさいって何度も言ってるでしょう!?」
その際に金属片に埋もれて気を失い、将志の断末魔を聞き付けた永琳が血相を変えて飛んでくるのもいつものことである。
さて、永琳の治療によって眼を覚ました将志は、今度はテレビが置いてある部屋に向かう。
そこで将志は小型のメディアを取り出して、プレーヤーにセットする。
「さあ、今宵の料理の超人はどのような物を出してくるのか? そしてそれに対し挑戦者はどんな料理で対抗するのか! 今ここに世紀の料理対決が開宴します!」
中に録画されていたのはプロの料理人同士が料理の腕を競う料理番組だった。
将志はその番組の料理人が調理している風景を食い入るように見つめる。
そして料理人が技を繰り出すたびに巻き戻し、その技を目に焼き付ける。
「……ふむ」
料理人の技をしっかりと覚えた将志は、早速実践すべく料理場へ向かう。そしてその料理人が作っていた料理を自らの全力で持って作る。
全ては主に喜んでもらうためであり、将志はそのための努力を惜しまない。失敗作をいくつも作っては、自分が納得のいくまで作り直すのだった。
「……ま、また随分作ったものね……」
「……そうだな」
その結果、将志は昼食に大量の失敗作を処理することになり、永琳がそれにひきつった笑みを浮かべるのが常となっている。
なお、永琳には一番上手く出来たものを昼食に提供しており、かなり好評である。
将志がプロ並みの料理人になる日は近い。
「……主、出かけてくる」
「ああ、行ってらっしゃい。どれくらいで帰ってくるつもりかしら?」
「……少し遅くなりそうだ」
「そう、分かったわ。それじゃあ晩御飯は先に食べてるわね」
「……夕食はいつも通り冷蔵庫に入っている。それでは、行ってくる」
午後になると将志は決まって町に足を運ぶ。
永琳からもらったペンダントのおかげで将志が妖怪だとバレることは無い。
……もっとも、周りが洋服を着ている中、一人で和服を着て布を巻いた長物を持ち歩くその姿は途轍もなく目立つが。
将志が向かった先は摩天楼群から少し離れたところの路地にあるログハウスの喫茶店。
いつの日か永琳に連れて行ってもらったあの店である。
「あ、将くん待ってたよ。さ、早く着替えて手伝ってくれるかい? お客さんが多くて手が回らないんだ」
「……了解した」
将志はマスターにそう言うと店の奥に入っていつもの服から店の制服に着替える。
黒いズボンとベストに白いワイシャツ、そして赤いネクタイと言う格好で厨房に戻ってきた。
「来たね、それじゃあこれを五番テーブルに運んでくれないかい?」
「……了解した」
将志はマスターから品物を受け取ると五番テーブルまで運んで行く。
「……ブレンドと紅茶のシフォンだ」
将志は仏頂面で、しかし丁寧に仕事をこなす。
そう、将志はこの喫茶店で昼から夕方までバイトしているのである。
その理由は、料理の練習に使う食材の代金を稼ぐためと、ここのマスターのコーヒーや紅茶を淹れる技を盗むためである。
なお、無愛想だがその丁寧な仕事ぶりから客には割と受け入れられているようだ。
え、主大好きの彼が主を放り出して何でそんなことを出来るのかって?
またまたご冗談を、あの忠犬槍公が主を放り出していけるわきゃねえのである。
じゃあどうしているかと言えば、
「……主を頼む」
「君が笑顔になるならお安いご用さ♪」
と言う訳で、将志がバイトに言っている間は愛梨が留守を密かに預かっていたりするのである。
閑話休題。
夜が近づき喫茶店から客足が遠のくと、将志とマスターは二人でカウンターの前に立つ。
マスターの前で将志は自らの手でコーヒーを淹れる。
香ばしい匂いと共にコーヒーが淹れられ、将志はそれを二つのカップに注ぐ。
マスターはそれを受け取ると、それを口に含んだ。
「うん、結構良くはなってるけどまだ少しお湯の温度が高いかな? ちょっと香りが飛んじゃってるね」
「……そうか……」
「でも、これくらいのレベルならあと少しでお客さんに出せるレベルのものが出来ると思うよ。頑張ってね」
「……そうか」
マスターの評価を受け取り、改善点を確認しながら自分が淹れたコーヒーを飲む。
このコーヒーは日によっては紅茶だったりするが、そちらも将志は勉強中である。
「……指導に感謝する」
「どういたしまして、次も宜しくね」
それが終わると買い物をして研究所に戻る。
研究所に帰ると真っ先に愛梨の元に行き、引き継ぎを受ける。
「……主に変わりは無いか?」
「無いよ♪ それじゃ後でね♪」
それを済ますと次は緑茶を淹れ、永琳のラボに持っていく。
「……主、茶が入った」
「あら、ありがとう。今日の晩御飯もおいしかったわよ」
「……そうか」
永琳の感想に頷くと、今度は自分の夕飯を作る。今日の様に永琳と別に食べる場合、やはり料理の特訓が始まる。
なお、永琳と一緒に食べる場合は何事もなく雑談をしながらの夕食になるのだった。
そうして出来た料理を腹に収めると、三度槍を持って鍛錬をする。
「やあ♪ また来たよ♪」
陽気な笑顔を浮かべた顔なじみのピエロがボールに乗ってやってきたら槍を収めて、今度は妖力を操作する特訓が始まる。
「う~ん……だいぶ良くなってるけど、数が増えるといまいち制御が上手くいかないみたいだね♪」
「……む」
将志は愛梨に妖力の操作を一から教わっていて、妖力を形にするところからその変換や数の増加など幅広く習っている。
その結果、こちらも槍術程ではないが進歩していっているのだった。
「それじゃあ、ちょっと遊んでみようか♪」
「……良いぞ」
愛梨はそう言いながら妖力で大量の玉を作って将志に向けて飛ばす。将志もそれを同じように妖力で弾丸を作って愛梨に向かって放つ。
これは二人の間の特訓を兼ねた遊びで、妖力操作の特訓の最後に必ず行っているものだ。
これをすることで将志は妖力の操作、愛梨は攻撃の回避の練習になるのだった。
「……っ」
愛梨の複雑な攻撃を、将志はすいすいと潜り抜けていく。
初めのうちは避けきれずに槍で受けることもあったが、最近では槍を使わずとも愛梨の攻撃を避けられるようになっていた。
しばらくすると、愛梨からの攻撃が止む。
「……終わりか?」
「そうだね♪ また全部避けられちゃった♪」
愛梨が可愛らしく舌を出してはにかみながらそう言うと特訓終了。それと同時に二人は真っすぐ台所に向かう。
この時間になると夜も遅く、永琳もとっくに就寝しているので音を立てないように注意して向かう。
なお、将志は愛梨を研究所に立ちいらせることの許可を永琳から台所と通路限定でもらっている。
「……出来たぞ」
「わぁ♪ これはまたおいしそうだね♪」
ここでも例によって例のごとく料理の試作品を作る。
将志にとってここは自分の料理の意見が貰える貴重な場所であり、やはり将志は気合をいれて料理を作る。
愛梨にとってはおいしいご飯が食べられるところなので、愛梨はこの時間をとても楽しみにしている。
なお、毎夜毎夜ここで出される料理のせいで段々と愛梨の舌が肥えてきているが、二人とも特に気にしない。
将志はそれならそれでそれを納得させられるように努力するし、愛梨は愛梨でどのみち将志の料理の腕が上がってくるので問題は無いのだ。
……将志が槍の妖怪なのか料理の妖怪なのか分からなくなってきている気がするが、瑣末な問題である。
「ん~♪ おいしい♪ この魚、塩味が良く効いてておいしいよ♪ オリーブオイルの風味もいいね♪」
「……そうか」
にっこり笑っておいしそうに食べる愛梨の顔を見て、将志は満足げに微笑を浮かべる。
「はい、笑顔一つ頂きました♪ 良い笑顔だよ、将志くん♪」
「…………そうか」
愛梨にそう言われて将志は気恥ずかしげにそっぽを向いた。
それを見て、愛梨は浮かべた笑みを深くした。
「キャハハ☆ 照れた将志くんは可愛いなぁ♪」
「……うるさい」
こうして料理の品評会が少し続いた後、食後のお茶会が開かれる。
今回は今日教わったコーヒーを二人で飲む。
「ふぅ♪ 食後のコーヒーもおいしいな♪」
「……まだまだだな」
笑顔でコーヒーを飲む愛梨の横で、将志は自分の淹れたコーヒーを飲んでそう呟いた。
すると愛梨はキョトンとした表情を浮かべる。
「えっ、これでダメなのかい?」
「……マスターのコーヒーには届かん」
「本当に自分に厳しいなぁ、君は♪」
少し苦い表情を浮かべる将志に、愛梨はニコニコと笑いかける。このようなやり取りが大体毎夜行われるのだった。
そうしてお茶会が終わると、将志は愛梨を見送る。
「将志くん、また明日♪」
「……ああ」
その後はサッと風呂に入って、部屋に戻るとベッドの上に座り壁に寄りかかって眠りに就くのだ。
……こんな日々が何年か続いたある日、将志は永琳に呼び出された。
「……主、どうかしたのか?」
「将志、月に行くわよ」
唐突にそう言われて、将志は首をかしげた。
「……月に行く? 何故だ?」
「近年の妖怪の被害やその他諸々の問題から、議会でこの都市を放棄することが決まったのよ。その移住先が月なのよ。今までは理論上永住が可能であるとなっていたのだけれど、実地試験で確証が得られたから、本格的に移住が始まることになったというわけ」
「……俺の扱いはどうする気だ?」
「あなたは私の連れと言うことにしてあるからちゃんと月で暮らせるわよ。その代わり、これまで以上に妖怪だとバレないようにしないとならないけどね」
永琳は将志の処遇を淡々と説明した。
それを聞いて、将志は小さく頷いた。
「……そうか。いつ発つのだ?」
「一週間後よ。それまでに将志も準備をしておきなさい」
「……了解した」
将志はそう言うと永琳の部屋を後にした。
月に行くことに関しては将志は特に異論は無かった。主が月に行くと言うのだ、それについて行くのを断る理由は無いし、その気もない。
将志はそう思いながらその一週間の間ですることが無いかを考え始めた。あれこれ考えていると、ふとあることが脳裏によぎった。
自分は地球には何の未練もないはずだ。だが――――
『それじゃ、将志くん♪ また明日♪』
――――あの太陽の様な笑顔がもう見られないのは少しさびしいかもしれない。
「……せめて挨拶くらいはしておくべきか」
将志は次に愛梨にあった時に、別れについて話すことを心に決めると、その日の夕食を作るべく調理場に向かうのだった。
* * * * *
あとがき
全ての基準が主のためと言う忠犬槍公。
調理スキルはどんどん上がっていきます。
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人間の主と妖怪の友人。そんな二人に槍妖怪は何を学ぶのだろうか。