「慧音、無事!?」
人里の上空を駆けるアリスは、人が溢れる竹の広場で立ち往生する慧音の姿を見かけた。すぐに、アリスは声を張り上げて呼びかけると、慧音も即座に応え、同じ高度にまで飛翔してきた。
「アリスか! お前は正気か?」
「その物言い、貴方も正気と信じていいわね?」
「そう願いたいところだ……一体全体、なんなんだこの状況は」
慧音はアリスと共に変貌した人里を見下ろす。竹の広場には、人里の住人と幻影の人妖達が入り交じっていた。その様子は、あたかも祭りの日そのものであるが、何かがおかしい。
アリスの幻視力は、この広場に見える姿のうち、半分以上が幻であると見抜いた。だが、現実に生きている人々は、そういった幻達を何ら違和感なく受け入れて、話をしたり、あるいは酒を飲み交わす者達もいた。
ここにいる、アリスと慧音以外の誰しもが、この状況を変だと思っていないのだ。
「ふとした違和感があった。そして気づいたらこのように幻であふれかえっていたんだ。幻達と普通に会話する人々に呼びかけても、異変に気づく様子さえない」
「……ちょっとした悪夢ね」
隣人達と、見えているものが違う。これは筆舌につくしがたい恐怖と言えた。実際、慧音は普段の気丈さが嘘のように、表情が青ざめている。
「これが、巷に噂として流れていた、異変そのものか」
「間違いなく……ところで慧音、貴方、死んだ人間の幻を見たかしら?」
「!」
慧音は目をむいてアリスを見た。予想が的中した、とわかったアリスは、険しい表情でもって言葉を続けた。
「見たのね?」
「み、見た。今年に息を引き取った近所の長老や、もっと昔に流行病でなくなった子供……私が知る限りの、すでにこの世にはおらぬはずの人々が、姿を現しているんだ」
語るうちに、慧音の表情は一層青ざめていった。弔ったはずの死者が目の前に現れるというのは、この幻想郷では、生者側の葬儀の不手際を意味する。死者は正しく弔わなければ、死体を妖怪に持ち去られたり、あるいは死者が妖怪や亡霊と化してしまうからだ。
「そう、この異変のキモは、死者の姿が再現されているということ」
「どういうことだ!?」
再現されている? 蘇っているのではなく? 慧音はアリスに詰め寄った。
「落ち着いて。まずはっきりさせておきたいのは、今私たちが見ている死者の姿は、全て幻であるということ。妖怪や亡霊ではないということよ」
「あ、ああ……そうなのか」
「人里の様子を見回っている間、人形を何体か遠隔操作で飛ばしたけれど、大なり小なり、似たような現象は幻想郷中のあちらこちらで起こっている。何でもない平原や森林に、亡者めいた姿が見えた。だから、今のこの状況が、人間に依存するだけの異変ではないことがわかった」
「……その口振りだと、お前は、人間の記憶にある故人の姿が、何らかの異変によって再現されたと見ていたのか?」
アリスは、少し自信なさげに頷いた。
「そういった点で、予測は半分あたりで半分外れってところ。人間の記憶以外に、もう一つ、重要な要素があると考えているんだけど、それは正直さっぱりね」
「原因を考えるのも必要だが、しかし、現状をどうするかも考えねばなるまい。人間の記憶がトリガーの一部分であるならば、私の歴史食いは意味をなさない。一個人の認識にまで、私の能力は及ばないからな」
「むしろ、一般人の共通の認識を揺るがせて、パニックを誘発させるかもしれないわね。かといって、死者と対話し続ける状況が健全とは思えない。生きとし生ける者は、死を恐れるのと同じくらい、死に魅入られやすいわ」
喋りながら、アリスは、はたと気づく。
「上海人形からの連絡がないわ……阿求、無事かしら」
「おい、阿求がどうした!?」
慧音が血相を変えてアリスの肩を揺さぶると、その動揺がアリスにも伝搬する。
「あ、あの子と夕方まで一緒だったんだけど、はぐれちゃって、一応上海人形を護衛につけたんだけど……なんてこと、捕捉もできやしない」
「なんて、なんてことだ!」
慧音はアリスから手を離し、ぶんぶんと頭を振った。多くのことが起こりすぎて、さしもの彼女も情報処理能力の限界に達しているようだった。
アリスとて、この異変の有様に、神経が緊張でちぎれそうな悪寒を首筋にちりちりと感じている。はっきりいって、異変の正体が判明しようとしまいと、彼女には対策方法など思いつかない。
アリスは残り少なくなってきた人形のうち、足の速いタイプをトランクから放ち、東の空へと飛ばす。
唯一思いついた最終手段、それは博麗の巫女に助けを求めること。
どれだけ当てになるかはわからないが、やらないよりはましだ。既にもう動き出していれば御の字といったところだろう。
後は、自分達はどうするべきか。このまま人里に止まっていても、いずれアリスも慧音も死者の幻影に魅入られてしまうかもしれない。今の人里で、正気を保ち続けるのは難しかった。
「……」
アリスは、混乱する慧音の手を引いた
「アリス?」
「ちょっとついてきて」
慧音はアリスに手を引かれるまま、彼女に従う。慧音と共に、アリスは人里のあるポイントを目指した。
唐突に、アリスの脳裏に去来するものがあった。何故そんなことを思い至ったのか、アリス自身論理的に説明できなかった。強いて動機を求めるならば、今日は元々メンテナンスのために人里を訪れた上に、遠隔操作で人形を飛ばしているため、手元の人形の数が心もとないことだ。
手元には――だが、人里には、一つ、人形があったのでは? アリスは、それをメンテナンスに来たのだ。
そうして、アリスと慧音が降り立ったのは、龍神のほこらであった。
「アリス、こんなところに来てどうするつもりだ?」
「……慧音、周囲を見てみて」
「……あれ?」
アリスに促されて周囲を見渡す慧音は、気づいた。
「何故だ? この周辺には、幻影がないぞ?」
「ちょっと失礼するわよ」
アリスは、会釈するようにほこらに立ち入る。
龍神像を背に、『彼女』が筆を動かしていた。メンテナンス中の『彼女』の体は、アリスが作業を中断する前に一旦元通りに復元しておいたので、動いていること自体は不思議ではない。
しかし、問題は、その筆の運びだ。
「……なんだ、あの動きは」
慧音も、ここ最近の『彼女』の異常については把握していたが、今の『彼女』はさらにおかしな動きを見せていた。
『彼女』は人間の姿を精巧に真似、人間の動きをそのまま再現する。なおかつ河童の技術力が良い方向に作用したことで、人間の姿をしながら人間を超えた動きを行うこともできる。
その『彼女』が、常軌を逸したスピードで、ひたすら何かを書いていた。その筆さばきは残像を伴うほどだ。今は紙がセットされていないので、紙の厚さ分だけ筆が浮いた状態であり、実際に何かが描画されているわけではないが、それでもものすごい速度で、何かを描き出そうとしている。
アリスは『彼女』の背後に回り込んで、同じ目線でその筆さばきを観察する。
数秒後、何かを決意したように、アリスは慧音を見た。
「慧音、家からありったけの紙とインク持ってきて」
「へ?」
「早く! もしかしたら、この異変を抑えることができるかもしれない!」
「わ、わかった!」
わけもわからず、しかし躊躇することはなく、慧音は踵を返し、駆けだしていった。
それを見届けた後、アリスは再度『彼女』の筆先を目で追う。『彼女』が動く度に、アリスは不思議な確信を深めていった。あるいはそれは、魔法使いとしてはあるまじき、神の導きのようなものを感じたためであろうか。
『彼女』が何故動いているのか、それは異変の原因と直結していることだろう。人形が、異変の影響でもって動き出すということは、アリスも幾度となく経験してきた。それ自体は理不尽であっても驚きには値しない。
しかし、『彼女』の動きは、単なる暴走とは考えがたい。『彼女』は何かを伝えようと、何かを成そうとしている。一人形師として、アリスは思う。
「貴方、本当はもう、とっくの昔に自分の心を持っているのではなくて?」
アリスは語りかける。『彼女』は答えない。ただひたすら、みじろぎもせず、筆を動かすのみだ。
いや、それでいいのだろう。行動はなによりも雄弁だ。
一心に――心が在るのか定かではないが――筆を走らせる『彼女』の横顔に、アリスは尊い感情を覚えた。
疾走する。波打つ竹をスクリーンに仕立てたキネマのようなトンネルを、さとりは疾走し続ける。
その腕に抱えられた阿求は、さとりの体にしがみつきながら、必死に道を探す。動きながら道を確かめるのは、記憶力よりも動体視力が求められるため、困難を極める。
しかし、さとりが走るのを止めることはできない。先ほどの亡者の一群こそ距離を離したものの、それ以降も四方八方から幻影が二人に覆い被さってくる。
「!」
さとりは、突如虚空から突き出てきた斜めの切り口の竹を、すんでのところで避ける。直撃は回避できたが、そのとがった切っ先が、僅かにさとりの右頬をかする。
瞬間、鋭い痛みが走った。ガーゼそのものは変化していないが、その内部のさとりの右頬には、すっぱりとした切り傷が生まれたのである。これは、何を意味するのか。
こんな話をご存じだろうか。
例えば、事情の知らない人物に、見るからに高温をたたえる熱した棒を見せたとしよう。被験者は、それを当然「熱い」と思う。
その後、「この棒は熱い」と言いながら、何の変哲もない普通の棒を対象に押しつけると、被験者は火傷のような熱さと痛みを覚える。それと共に、棒を押しつけた箇所には、火傷のようなミミズ腫れが生じるのだ。
強いイメージや暗示は、例え物理現象として関係がなかったとしても、本当にそうであったかのような変化をもたらすことがあるということだ。
自身も催眠暗示などを使いこなすさとりが、幻だとわかっているものによって肉体的ダメージを被る。これは、今竹林に発生している異変の幻影が、それほどまでに強力なイメージを見るものに植え付けている事実にほかならない。つまり、幻影に捕まったら命の保証はないに等しいのだ。
だから、さとりはひたすら幻影から逃げ続けるしかない。阿求と出会う前から、既に傷だらけであったが、今はさらに走りながら阿求をかばっていることで、一層ダメージが蓄積されていた。それは確実にさとりを消耗させていく。
幻影による影響は、ある種の精神的ダメージでもある。元々、竹林に来た時点でさとりのコンディションは劣悪だった。走りながら、さとりの視界はかすみ、ぶれ始めていた。
「さ、さとりさん、道が!」
「はっ!?」
そんな中、阿求の声でさとりは目の前の異常に気づき、とうとう立ち止まる。
正面の道が、竹で塞がっている。道を間違えた? いや、違う。幻影の竹が、二人を足止めするように、めきめきと発生している!
本物でも幻影でも、かき分けていけばいい、という話ではなかった。幻影の影響化にある今の二人にとっては、幻であっても物理的障壁となんら変わらない。かき分けて進むにしても、速度を一気に落とさざるを得ない。
そして、その間に、亡者達が彼女を取り囲むだろう。そうなってしまえば、詰みだ。
「――くっ!」
さとりは、決断的に地面を蹴り、飛翔を始める。
「さとりさん!?」
「上空に逃げます!」
真っ直ぐに高度を上げていくさとり。竹林を脱出するには、ある意味それが一番手っとり早い。
だが、それを猛追するように、竹はしなりをあげて蠢きだす! さらには、竹の群生の隙間から、亡者の手の数々が、螺旋を描いて襲いかかってきた。
幻影は、己が胎内に生者を押しとどめようとしている。さとりは、弾幕を避ける挑戦者の如く、全包囲から迫る竹槍と笹の葉と黄泉路の使者を回避していく。
攻撃を受けているというより、それは地獄が意志を持って世界をひきづりこもうとしているかのようだ。後ろ髪におぞましい引力を感じながら、さとりは歯を食いしばって飛ぶ!
だが、現実は無情だった。幻影はさとり達を追い越すほどに竹の節を伸ばし、膨れ上がった笹の葉と竹の花が天を仰ぐさとりの視界を塞いだ。
そして、その非現実的な美しさを破るように、獄卒が投げつける鎖付きの枷めいて、亡者の腕達が殺到する。
「あああー!」
さとりは、上空への飛翔をやめ、重力に身を任せる。すんでのところで忌まわしい手のひらから逃れ、そのまま阿求を抱きしめながら自由落下。
地面に落着する直前で、さとりは再度重力中和を行い、自由落下エネルギーを己の体の中で相殺する。それにより、さとり達は落下の衝撃を被ることなく、無事地面に降り立つことができた。
「はぁ、はぁ――」
しかし、今までの無理な動きが祟り、さとりは地面に着いた瞬間に膝を折った。危うく、腕に抱えた阿求を取り落とすところだった。
ゆっくりと阿求、そして上海人形を地面におろしたところで、さとりは体中から力が抜けていくのがわかる。ふぬけた上半身は、ぐらりと後方に倒れ、そして堅いもので止められる。本物の竹の節がさとりの背中を支えた。
立てない。立とうと思っても足が崩れたままだ。
そして、周囲は竹に閉ざされた。どれが本物でどれが幻かはもはやわからない。せいぜい、今背中を預けているのが確かな実体を持っていることがわかるだけだ。
「さとりさん、しっかり――」
言いつつも、阿求にもさとりが力つきたことは歴然だった。ガーゼの隙間から見える白い肌は青ざめ、脂汗が滴っている。大きく肩で息をしても、全く酸素が足りていないように、喉がぜいぜいと音を鳴らしていた。
「ごめん、なさい。これ以上、は……」
息が整わないために、さとりは言葉を紡ぐことも困難であった。
「ち、違うんです! そんなんじゃ、なくて」
ぼう、と二人を閉ざす竹の檻が、にわかに燐光を強めた。また何かしら幻影が現れるサインだ。
阿求とさとりは同時に身をすくませる。何かが襲いかかってくれば、もはや二人に為すすべはない。
「ヤッテヤル、ヤッテヤルゾー!」
上海人形だけは、抵抗するように極彩色の弾幕を放つが、いくつかの本物の竹をなぎ倒しただけで、道を開くことさえできない。上海人形にどれほどの確かな感情があるかはわからないが、まさしくやぶれかぶれというほかない。
「どうすれば、どうすれば……」
阿求は悲痛な声音でさとりに泣きすがる。さとりは感じた。胸元で嗚咽する阿求からの恐怖と、残悔の念を。
さとりもまた、絶望的な心地に浸りつつあった。だから、阿求を励ましたりするような言葉の一つもかけられない。
ただ、さとりは阿求から伝わってくる感情を、無念に思う。
抵抗する手だてもなければ、逃げる手だても存在しない。唯一働く思考だけが、絶体絶命か、と歯噛みして、首筋を這い上がる無力感に必死であらがった。
そもそも、あの幻はなんなのか。思えば、一番最初にアルフレッドの姿を見た時から、ずっと解消されていない謎だった。
死せるペット達、移りゆく竹の一生、数多の亡者の姿……共通するのは、かつて生き、そして死に至った者ということ。
そこでさとりは疑問を覚えた。さとりは、確かに今まで何匹ものペット達の死を看取ってきた。しかし一方で、竹の一生など眺めたことなどなければ、今まで目にしてきた亡者達とは、一切何の縁もゆかりもない。
例えば、この異変が、かつてここにあった存在の再現であるのならば、その事実はどこに由来するのか? 地霊殿であれば、さとり達の記憶にあると考えられるが、さとりは初めてこの竹林を訪れたのだ。仮定と条件が当てはまらない。
迫りくる死の気配の中で、不思議とさとりの思考は加速していった。
さとりは思考しながら、我知らず胸元の阿求を抱きしめた。かつては、阿求が持つ膨大すぎる情報が、さとりにとってとてつもない驚異だった。だが、今は、彼女の存在こそが、さとりにとって暗闇に灯された唯一の光明だった。
強い負荷にさらされながらも、心を読んだことで、さとりは阿求がどのような人間であるかが、少しずつわかってきた。一度見たものを決して忘れず、記憶し、書き表す生業の少女。その力は、常人では区別すらままならない、何の変哲もない地面の違いすら見分けられるほどだ。
記憶……記憶。情報は普遍的に存在し、生命は、ただ生きているだけで、周囲からありとあらゆる情報を受け取る。だが、それを留める方法、留められる量は、情報量の総体に比べれば、ごくわずかだ。
燐光が揺らめいた。とうとう、さとりの目に見える範囲に、亡者の影が現れ始めた。
だがさとりは身じろぎしない。
留められた情報、それこそが記憶。今さとりにすがりつく少女は、途方もない記憶を抱えられる。
故に、阿求には理解できるものがある。その阿求の心を覗いたことで、さとりは新たなる認識を得た。
「そう……そうか」
見えてきた。さとりは、迫る恐怖と戦いながら、答えへと至る式の論述を進める。
「生命だけが、記憶を止めているわけじゃない」
阿求が、地面を見て正しい道を選ぶことができたのは、彼女が全てを記憶しているからだけではなく、道の方も彼女の記憶と同じ情報を留めていたからだ。
「阿求さん」
「ふぇ……?」
さとりは、阿求の顔を、その涙で滲んだ瞳をのぞき込んだ。頭をがんがんとたたき割るような情報量がさとりに流れ込むが、構わない。それでもなお、さとりの思考は澄み渡っていた。
「もう少しだけ、貴方の心を」
破滅的ですらある記憶の荒波にダイブし、さとりは式を補う項を探す。
深く潜ることで、ことさらにさとりは阿求の特異性を思い知った。本当に、受信した情報全てを顕在意識に保持したまま、それでいてそれらを好きなタイミングで取り出せる記憶機構。それを、超人と呼ばずしてなんと言えばよいか。
その特異な仕組みを認識したことで、さとりはすぐさま検索を終えることができた。
――世界には、三つの層が存在する。物理の層、心理の層、そして、記憶の層。記憶の層は万物が出来事を覚え、記憶は増える一方で減ることはない――。
(これだ!)
式が、完成する。
瞬く間に、さとりの心を蝕んでいた怖れと絶望は洗い流された。妖怪は精神に依存する生き物だ。精神が弱まることで身体も弱まるのであれば――その逆もしかりなのだ。
さとりは、顔面を覆っていたガーゼを、煩わしそうに、一気に引き剥がした。
「さとりさん!?」
驚く阿求が目にしたさとりの顔は、いくつものひっかき傷で痛々しく覆われていた。
だが、その表情の、そのまなざしの、なんと力強いことだろうか。
「もう、大丈夫です」
さとりは阿求の髪を撫でて、優しくおしのけると共にゆっくり立ち上がった。流石に肉体的に蓄積した疲労はごまかせないため、足下は生まれたての子鹿のように心許ないが、背後に確かに存在する竹の堅さが、彼女を支えてくれた。
そして、上着の内側から、第三の目を取り出す。さとりは手を添え、第三の目と共に、幻影達を決然的に見やった。
「さぁ、貴方達の記憶を晒け出しなさい!」
第三の目が大きく瞼を開いた。それと共に、眼球からは赤紫色の光の帯が幾筋も迸り、あらんかぎりに世界を走った。
一瞬、阿求もさとりも、世界が止まるような錯覚を覚える。それに伴い、せわしなくうごめいていた竹林の変貌が、緩やかに減速していった。亡者の行軍も停止する。
阿求はその光景に驚愕すると共に、さとりの行動を訝しんだ。実体を持たず、霊魂でもない存在を、さとりの読心能力が及ぶのか? その認識は疑問だった。
確かに、さとりは幻影一つ一つの心を読むことはできない。魂のない存在の心など読めるはずはない。しかし、さとりが視野に収めたのは、目の前の幻影だけではない。その背景にある、『世界の記憶』だ。
人間をはじめとする、意志を持った存在の心を読むことだけを考えてきた今までのさとりには、想像だにしない行動だった。仮に思いついたとしても、実行できるとは考えられないような、大それた業である。
それを可能としたのは、稗田阿求というサヴァンのおかげだった。
新たなる視野がさとりの感覚に広がる。とたんに押し寄せてくる驚異的な情報量。それは阿求の心を覗くよりも、さらに比べものにならない負荷だ。世界の記憶とは、それが存在し始めた時から現在に至るまでに累積されて続けてきたものだからだ。
さとりは、押し寄せる破滅的情報量を巧みに受け流した。まともに受け止めれば自滅するのは、はじめから予測済みだ。
彼女が知りたいのは、ひとつひとつのパッケージングされた情報ではない。今現在この異変を引き起こしている、直接的な仕組みについてだ。あまりにも凄まじい情報量の中で、それを見つけだすのは、本来であれば困難どころの話ではないだろう。
しかし、ここで再度、阿求の心を覗いたことがカギとなる。彼女の精神構造を知ることは、情報量に関係なく望むものをくみ出す、とっかかりとなったのだ。
目論見通り、さとりはたやすくゴールへとたどり着いた。そして閃光のような速度で理解する。自分が何をするべきかを。
さとりが、一度第三の目を閉じる。それと共に拡散した光は収束し、周囲の明るさは元に戻った。
阿求の目からは、さとりの第三の目が突如発光し、何秒もしないうちに収まったようにしか見えなかった。いったい何が起こったのか、見当もつかない。
状況は、阿求の思索を待たなかった。
今まで竹林を覆っていた青白い燐光が、にわかにさとりと阿求の周りに発生する。思わず身を竦ませる阿求だったが、それに対してさとりは、微笑んですらいた。
「さとりさん――?」
「安心して、阿求さん」
さとりは、微笑みながら、両手を広げた。
「私のかわいいペット達が、仕事を引き受けてくれるわ」
その言葉と共に、燐光は密度を高め、そして弾ける!
強い光を感じて、反射的に阿求は袖口で顔を覆う。だが、目が眩むほどではなかった。
おそるおそる袖を降ろし、様子をうかがい――阿求は、もう何度目かもわからない驚愕で、開いた口がふさがらなくなった。
さとりの前方、彼女を幻影から守るように立つ二つの幻影。
後ろ姿だけでも阿求にはその正体が瞭然だ。暗緑色のゴシックロリータ衣装に、赤毛のお下げと猫の耳の少女。幅数メートルに及ぶ巨大な黒い翼と白いマント、もっさりとした黒いロングヘアーと緑のリボンに、剛健な八角形の棒を腕につけた少女。
火炎猫燐と、霊烏路空。数多いるさとりのペットのうちの二体だ。
そればかりではなく、その周囲には、様々な動物由来の半獣型を取る妖怪達が並んでいる。阿求は知らないが、それらもまたさとりのペット達だ。
「さぁ、みんな」
さとりの号令が、竹林一杯に響き渡る。
「全てをまやかしから、解き放ってあげて」
「おっおっおっ!?」
「……これは!?」
紅魔館大図書館サーバルームで、鉄火場に従事するパチュリーとはたては、システムが訴える奇妙なサインに目を奪われた。
サーバルームでは、バイオネットの通信網として使っている地脈の状態をモニタリングしており、異変が起こったこともそのステータスから判断していた。
それが、先ほどまでモニタリングできる範囲全域に広がっていたレッドアラートが、人間の里、そして竹林を中心に、少しずつ、さざ波のように、グリーン――つまり正常を示すサインへと移り変わっているのだ。
「え、なにこれ、プログラムが効果を現してきたの?」
「だと思いたいけど、なぜこの二ポイントで――」
「はい次!」
「ああ!」
慧音が素早く紙を引き抜き、そして返す刀で新品をセットする。
その紙には、物凄いスピードでインクが文字を成して叩き込まれていく。
瞬く間に紙がびっしり文字に埋め尽くされると、『彼女』の背後で魔法の糸を手繰るアリスが、『彼女』のペンが握られた右手を操作する。『彼女』は紙から筆を離して、すぐそばのインク壷にペン先を入浴させる。
その間に、慧音はまた紙を引き抜いて、真新しい紙を『彼女』の前に差し込む。
「死者の、記憶」
慧音は、紙に書かれた文字を眺める。そこに書かれているのは、人名と、その人物がいつ生まれ、いつ死んだかの日付の羅列だった。それも、現代から遡って、いにしえの昔に至るまで。
「幻想郷が閉じて百三十年近く。特に、結界隔離前後は、その混乱で住民の情報の管理などはおざなりになっていた。まともに弔われなかったり、そもそも名前さえ残されなかった者も決して少なくはなかった」
「きっと、今も人里に幻という形で、出てきているのね。成仏していたとしても、記憶の残滓として」
「妖怪や、妖精はもっと悲惨かもしれない。やむを得ぬことといえ、退治とともにその存在を抹消された者たちだっていたはずだ」
「――この娘は、そういった存在もいたんだって、訴えようとしているのかしら」
糸を手繰って『彼女』を動かしながら、アリスは不思議な感傷に浸っていた。
動かすといっても、アリスがやっているのは、『彼女』のペンにインクを補充させる動作のみだ。それ以外は、全て『彼女』が自立稼働で行っている。
『彼女』のこの所行によって、アリスと慧音は、異変の正体、少なくともその一端を理解した。異変を根本的に収めるには、記憶を再現する何らかの機構を止めるしかないだろう。
しかし、その一方で、アリスと慧音は、次々現れる名簿を見て気づいたことがあった。
記憶というものが、どれほど多く、そしてどれほどこぼれ落ちやすいものであるかを。
それを、『彼女』は己の可能な範囲で、教えてくれたのだろうか? それ以上はセンチメントの域であり、明らかになるとは思えないが。
「よし、次!」
「おう!」
アリス、そして慧音は、異変を止めるよりも、『彼女』の手助けをすることを選んだのだった。
無数のペットの幻影達は、さとりの号令に色めきたち、めいめい散開する。そして、押し寄せてくる亡者の一団へと一斉に飛びかかった。
ある者は爪を振るい、ある者は牙を突き立て、ある者は角を突き立て、ある者は尻尾を薙払い、ある者は吐息を叩きつけた。
彼らの攻撃は、次々と幻影を分解し、淡い燐光へと霧散させていく。
しかし、そういった行為は、亡者たちを拒絶し否定するわけではない。
遠い昔に死出の旅路に赴いたはずの精神が残した、無念の記憶。生への恨みでもって具現化してしまった、かの者達を、再現という形で呪縛しているという事実を、粉砕しているのだった。
幻影は、物理的、霊的な攻撃のどちらも通用しない。そもそもが、記憶の層にしか存在し得ないものだからだ。それを打ち破るには、幻影を幻影たらしめる、異変の仕組みを攻撃するほかない。
火炎猫燐の幻影は自慢の猫車を最大に加速させ、幻を次々と曳き倒し、そして砕かれ漂う記憶の粒を回収していく。
霊烏路空の幻影が上空へ舞い上がり、頭上に地底の太陽を生み出して、幻の竹を滅却していく。それとともに、ちりぢりとなった粒子は天空へと舞い上がっていった。
さながら、北欧神話のヴァルキュリアの到来だった。戦乙女達は、戦場跡で死者の魂をヴァルハラへと導くというが、ペット達の幻影は、もはや魂すら存在しない思念を、いずこかへと導くというのか。
呪縛から解き放たれた後の記憶の残滓がどこにいくのか、そこまではさとりにはわからない。
だが、これ以上恐怖や絶望や無念の記憶を蓄積することだけは、止めたいと思った。ペット達の幻影は、異変の仕組みを破りたいというさとりの意志の象徴だった。
「あらゆる記憶を再現してしまう異変、ならば、私の記憶にあるものもまた、再現ができる」
第三の目を掲げ、さとりは高らかに謳った。
「名付けて――〔拡張幻術〕!」
ワァァァァァァアアアア!!
幻影のペット達が、勝ち鬨を上げた。まるでその雄叫びで目を覚まされたように、竹林に満ちていた幻影は次々と解れていき、青白い燐光の粒へと還元されていく。
「これは――」
ここにきて、阿求もなにが起こったかを少しずつ理解し始めた。阿求にも見える。この満ちあふれる燐光が、世界の記憶の構成要素なのだと。あるいは、そういう風に見えるような錯覚が働いているだけかもしれないが。
粒子は嵐を巻き起こすように渦巻き、夜空に融ける空の幻影の、天を指す指先に集う。次第にそれらは、二重螺旋を描いて天蓋へと上っていく。
その有様は、掛け値なしに美しかった。
『オーケー、なんとかなったみたいだぜ』
『大したパレードだったわね』
――こちらでも、現象の収束を確認いたしましたわ。
『とんだお祭り騒ぎなもんだ。ま、ついこの間の末法と黙示録をミキサーで混ぜたようなのに比べりゃ、可愛いもんだったね』
『なにそれ、どこの新興宗教の終末予言?』
『まぁ、いろいろあるのさ。君んところでもある意味似たようなもんだろ』
――ミスター001010101、麗しき電霊、そして多くの客人。皆様の助力には、感謝の言葉もありません。
『いいってことよ。あのおチビちゃん達と童心に帰って遊べたのは、向こう一万年は自慢できる』
『こっちも退屈してたしね。この世界で、色々面白いものが見れたのは、まぁ、悪くなかった』
――そう言っていただければ幸いです。貴方達のような愉快な方々であれば、幻想郷もまた、快く受け入れてくれるでしょう。
『それはそれは残酷――ってか? ハハッ、俺は詳しいんだ』
『でもまぁ、それもいいかもね。じゃ、バーイ』
――ええ、それでは、さようなら。
「うはぁぁぁぁぁぁ……」
はたては、両腕を左右に投げ出し、机の上に顔を突っ伏した。
すぐ目の前にある投影板は、一様にグリーンのサインを示していた。
異変は、収束を迎えたのだ。
「お疲れさま。飲み物をあげるわ」
「あーい、いただくわ」
パチュリーが栓を開けた瓶をはたてに差し出す。はたてはのっそりと体を起こし、受け取った瓶の中身を一気にあおる。
「ゴクゴクゴク……ごっぼぉ!?」
そして、口にした中身をぶちまけながら、盛大にのたうち回った。危うく、投影板やキーボードにかかるところであった。
「ちょっと、汚れるから吐かないでよね」
「な、なにごれ……」
酸素が足りない鉢の中の金魚のように、はたては半分白目をむきながら口をパクパクとさせて喘いだ。口の端に伝う液体は、ドドメ色のマーブル配色で、かつ水銀のような光沢を放っていた。
「やはり、咲夜の作った飲み物は信用ならないわね。飲まなくてよかった」
「人を実験台にすんな! 天狗の麦飯ドリンクの五百倍はやばかったわ!」
「そんなのあるんだ……」
「妖怪の山きってのゲゲボドリンクね。今度差し入れてやるわ」
「遠慮しとく」
パチュリーは、はたてから視線を逸らして、投影板の表示を見やる。
そして、悩ましげに嘆息した。
とんだ大失敗だ。サービス開始から五ヶ月。準備期間を考えればそれよりも前から、今日に至るまでの多くの時間を費やした結果が、積み木をひっくり返した上で、ゴミ箱に投下するはめになったようなものだ。
パチュリー達が実行したプログラムは、端的に言えば、バイオネットの破棄だった。地脈に敷設した、情報交換の術式を、全て取り除いたのだ。プログラムを実行すれば、バイオネットが使用不可能になってしまうのは、パチュリーもはたても承知の上でのことだった。
「しっかしまぁ、これでバイオネットもおしまいかぁ……幻想郷を席巻するはずだった花果子念報の花道も、志半ばとは寂しいもんよ」
「あんたの脳内お花畑ロードマップなんて、しったこっちゃないけど」
パチュリーは、脇に携えた百科事典型端末を開いて、強く宣言した。
「このままでは終わらないわ。必ず、今度はより完璧なシステムを作ってみせる」
パチュリーのアメジストの瞳の奥には、静かだが、彼女のキャラに似つかわしくないほど、熱い闘志が燃えていた。
失敗は終了を意味しない。良い結果も悪い結果もひっくるめて、今まで蓄積されたノウハウを用い、次のステップへと進む。パチュリーにも、企画発案者としての意地があった。
まず、そのためにも、近いうちに、また八雲紫との会合が必要であろう。パチュリーは、異変の原因を突き止めたとしても、そのロジックにはまだ完全に納得がいっていない。
また、異変収束のためのプログラムも、不可解な点が感じられた。バイオネットの術式を取り除くのならば、パチュリーの考える限り、もっと簡単に迅速にできたはずだ。にもかかわらず、キーボードなる機械を使わなければならないような複雑な操作が、なぜ必要になったのか……。
問いたださねばならないことは山ほどある。かの妖怪が冬眠で狸寝入りを決め込む前に、捕まえなければならないだろう。
「んーまぁ、あんたが乗り気なんなら、ほどほどに再開を期待させてもらうわ。プレスリリースの委託も、引き続きよしなにしてもらいたいわね」
パチュリーの覇気を感じつつ、はたては脱力した。そして、声を自重することなく、大きく伸びをする。
「さって、そろそろ帰りますかね。夜の間に終わったのは幸いっちゃ幸いね」
「……寝床くらいなら借してあげるわよ」
今晩の異変収束の手伝いと、先ほどの咲夜特製ドリンクの実験台の報酬として、そのくらいは便宜を図ってもよいだろうと、パチュリーは提案する。
それを聞いたはたては、すぐさま目の色を変えた。
「え、まじで? モーニングついてる?」
「それは咲夜に頼みなさい。あ、ついでに顔を合わせたら、もう二度と自力で飲み物を調合するなって言っておいて」
「やりぃ! ライ麦パンにハムと目玉焼き乗せてもらおうっと!」
「あんた、卵平気なの?」
「カラスじゃないんならいいでしょ」
「あっそ」
現金なものだ、とパチュリーはしつこく言及するのをやめた。
パチュリーとはたてはサーバルームを後にして、図書館に戻り、パチュリーは呼び鈴を鳴らした。
「今小悪魔を呼んだから、後は頼んで案内してもらって」
「おっけー、じゃ、お先~」
すぐに小悪魔の姿が通路の先に見えたので、はたては軽い足取りで向かっていく。
その後ろ姿を見送り、パチュリーは辞典型端末を開き、紫宛にメッセージを作成し、送信する。この端末は、かつて地底の異変の際に使った通信機と同じ技術が使われているので、バイオネットが使えなくなっても問題なく連絡が取れる。すぐ返信をよこしてくるかは定かではないが。
「さて……」
メッセージを打っている間に、小悪魔とはたては遠くに消えていた。
事態は収まったが、パチュリーは休息する気はなかった。これからのことで頭がいっぱいであり、とてもベッドに横になれる状態ではない。
こういう時こそ、読書だ。
普段、本を探すのは小悪魔の仕事であるが、たまには自力で拾ってくるのも良いかと考え、パチュリーは、大図書館の奥へと歩みを進めていった。
「――ん」
「お目覚めかしら」
瞳を開いた八雲紫の視界一杯に、西行寺幽々子の朗らかな顔が広がっていた。
「寝ていたわけじゃないわ。まぁ、生命維持以外の肉体の活動は止めてたけれども」
言ってから、仮死状態であった肉体の血流がゆっくりと活性化する感覚に、紫は目眩を覚えた。
「相変わらず、わけのわからないことをするのねぇ、紫は」
「わからないといえば、私、なんでこんな姿勢になってるの?」
紫は目眩に顔をしかめながら、己の体勢に違和感を覚え、幽々子に訊ねる。
紫の仰向けの頭は、幽々子の膝の上に――膝枕をしてもらっていた。
「布団がなかったから、仕方なくこうしたのよ」
「嘘おっしゃい。貴方、ちょくちょく飲みつぶれた客を布団の上に転がしてるじゃない。妖夢に準備させるのも億劫だったの?」
「妖夢なら、夕飯のときに、今日はお化けがいっぱい出ちゃうわよって教えてあげたら、部屋から出てこなくなったわね」
「もう少しまともな追い払い方をしなさいな」
紫は嘆息する。動機ははぐらかされるか、と判断し、何か別の話をしようとしたところで。
「紫がね、いつもどういうことをしているのか、試しに観察してみたかったのよ」
幽々子は、微笑を浮かべて、そのように言った。
「……つまらなかったでしょう。私のやることなんて、大抵今日みたいな、目に見えないことだらけよ」
「いいえ。紫の寝顔は可愛かったわ」
「あら、そう」
それで紫は納得した。幽々子と会話するとき、紫は言葉より幽々子の表情や仕草、醸し出す雰囲気を見る。それで、幽々子がどう思っているかを紫は判断する。なので、会話が成立していなくても、紫は幽々子の言いたいことがなんとなくわかった。
「それに、目に見えることもあったわ」
幽々子は、右手を掲げて、紫の視線を誘導する。
その先には、白玉楼の自慢の庭があった。が、様子がいつもと違う。
行灯の明かりでも、幽霊の蛍火でもない、青白い粒の燐光。紫は合点がいった。
「きれいでしょ?」
「ああ、これね。もう少ししたら見えなくなるわ。妖夢にも見せてあげればよかったのに」
「今のあの子じゃあ、狐火と勘違いしてなおさら怖がるわ」
「そうし向けたのは貴方じゃない」
紫は苦笑しつつ、そろそろ体を起こそうか、と考えて、上半身を動かそうとする。しかし、思ったよりも体が重く、幽々子の膝に頭がはまってしまったような錯覚を覚える。
「まだ仕事があるの?」
身じろぎを感じた幽々子は、たおやかな手先を、紫のおとがいに添える。まるで、紫が立ち上がるのを抑えるように。
「決着はついた……けれど、後始末は山ほど残っているわ……後始末、か」
紫は苦笑を通り越して、苦虫を噛みつぶしたような表情を見せる。
「流石に、今回ばかりは閻魔様の追及は免れそうにないわ……」
「あらまぁ、身から出た錆とはいえ、ご愁傷様」
幽々子も、微笑みから悩ましげな顔つきに変わる。お気の毒様、と言わんばかりである。
バイオネットの通信媒介を担った、地脈を利用しての情報伝達術式。それが直接的な異変の原因だった。
当初の見積もりでは、術式が地脈に及ぼす悪影響は、誤差の範囲のはずだった。しかし、様々な異変の兆候、そしてバイオネットを一時休止しての調査の結果、術式は世界の根本の仕組みの一つである、記憶の層へと干渉していることが発覚したのだ。
自然界……物理と心理の層の常識で術式を組んだパチュリーには、世界の持つ層構造についての知識と認識が、いささか不足していた。それが故の失敗といえるかもしれない。
しかし、認識不足は紫自身にもあった。むしろ、本来ならば紫の方が監督すべきポイントであったかもしれなかった。
結果として、大事に至らなかったとはいえ、幻想郷全土に広がる異変と発展したのは、重大な過失であった。いくら顕界の出来事とはいえ、閻魔の知るところとなれば、小言では済まされないだろう。
「それにしても、紫は一体どうやって異変を抑えたの?」
「何で貴方が、異変が収まってるのを察知しているかは、スルーするわよ」
唐突な質問を、紫はうまく受け流すと共に、説明を始めた。
「単純に言えば、バイオネットの仕組みそのものを取り除いたのよ。まっさらにね」
「じゃあ、もう使えなくなるの?」
「ええ。新たに作り直さないとね」
紫がパチュリーに飛ばした指示。それはバイオネットのリセットではなく、シュレッドのプログラム。地脈を通じて敷かれたパチュリーの術式を、完全に取り除いたのだ。
異変が収束したということは、パチュリー側のプログラム手順が完璧であったことの証である。
「あれ? あの紫色の子が仕事をしたのであれば、紫はなにをしていたの?」
「それはね……」
だが、そのプログラムを実行するには、バイオネットのサーバマシンをフル稼働させなければならない。
その際ネックになるのは、半年にわたり稼働したバイオネットに保存された、膨大な情報だった。その情報量を抱えたままでは、プログラムの実行処理に十分なリソースを確保できない可能性があった。
「というわけで、私自身をバイオネットのサーバマシンと同等のものに置き換えて、処理を分散させたわけ。どちらかというと、主にバイオネットに保存された情報の、一時待避先になったといったほうがいいかしら」
「……意味がわからないわ」
「わからなくていいわ。どうせグッドノウハウが欠片も得られない、ただの力技だから」
パチュリーが実行したプログラムの一部は、紫とバイオネットとの間の、接続プロトコルの切り替えを担っていた。が、急を要したために、パチュリーにはプログラムの説明を省いているので、彼女は詳細を知り得ないことだ。
「白玉楼に来たのは、ここが静かで集中するにはもってこいだったのと、再現されてしまった記憶の行き場を確保するためのバッファを確保するためね。庭に光があふれているのは、そういうことよ」
「ひどいわね、うちの庭を勝手に使うなんて」
「それに関してはすまなかったわ。許して」
「許すかどうかは、次の宴会のメニュー次第ね」
「……今度はなにがお望み? 最近どこもかしこも天然ものは乱獲で少なくなってるから、そういうのは勘弁してよね」
「じゃあ、養殖の最高級にすればいいじゃない」
「言ってくれるわね……でも仕方ないわ、幽々子の頼みだものね」
紫はまたもや苦笑を浮かべた。幽々子の昨今のグルメ趣向には、紫もたびたび手を焼いている。
苦笑しながら、紫は顎で幽々子の添えられた指先をつつく。
「で、この手はまだ離さないの?」
「離してもいいの?」
紫は、一秒だけ思案した。そして。
「……もうちょっと、このままでいいわ」
「そうね。このままにしておきましょう」
紫と幽々子は、同時に白玉楼の庭を見た。
枯山水に、ちかちかと青白い粒が瞬く。非現実的な世界の、さらに非日常的な情景。
二人は、それが元に戻るまで、静かに眺めていた。
竹林に満ちる燐光は、徐々に薄れていった。
それに呼応して、さとりが編み上げたペット達の幻影も、静かに粒子へと還元されて消えていく。
侘びしささえ感じる情景の中に、さとりと阿求は、こちらに向かってくる者を見た。
「あれは……」
「アルフレッド……」
軽快な足取りで、ラブラドールレトリーバーの幻が二人の元に駆け寄った。音はないが、ハッハッという息づかいが聞こえそうなほど、その姿や仕草は生前そのものだった。
さとりはその場に屈み、両手を広げてアルフレッドを迎える。アルフレッドはすぐさまさとりに飛びついて、顔をすりあわせる。
「貴方が、私達を引き合わせてくれたのね」
アルフレッドからの返答はない。しかし、肯定するように、アルフレッドはさとりの顔をなめ回した。さとりもまた、アルフレッドの小麦色の毛並みを、本物と同じように優しく撫ですさった。
一迅の風が吹く。燐光はさらにかき消えてゆき、アルフレッドの姿もまた、風にさらわれていった。
そうして、全ては元に戻った。竹林は、絢爛な月明かりと控えめな星明かりだけが降り注ぐ世界となった。
阿求とさとりは、共に竹林のギャップから夜空を見上げた。阿求にとっては見慣れたいつもの空だが、さとりにとっては、もしかしたら初めてかもしれない景色だ。
少しの間二人はそうしていたが、やがて、阿求の方から切り出した。
「あの、さとりさん」
「なにかしら」
さとりは、くじいた足を伸ばす姿勢で、上海人形を抱えて座る阿求の前に、自然に対面した。さとりの顔を見るのに気恥ずかしさを覚えた阿求は、目を泳がせながら。
「……ごめんなさい」
か細く言った。
「なにが?」
一方のさとりは、澄ました表情で、真っ直ぐ阿求を見つめる。
「その、色々、です」
言わなければいけないことがたくさんある。しかし阿求はそれらをうまく声に出すことができず、ただぐるぐると思考を回すのに手いっぱいだった。どんなに多くの記憶を保持していても、出力できるものは、本当にわずかなものだ。
「大丈夫よ。貴方の想いは、ちゃんと伝わってるから」
それがわかったから、さとりは意地悪することなく返答した。
「え? あ、はい」
「そう、十分に」
さとりは包帯に巻かれた手のひらを、何かを確かめるように開いては閉じる動作を繰り返す。穴の中から阿求に引っ張りあげられたときの、あの暖かみを思い出していた。
言葉にした通り、さとりには、あの時の阿求の気持ちだけで十分だった。どんなに恐れてもなお、その先に進もうとした勇気は、眩しいくらいだ。
「それと、こんな時になんですけれど、一つお願いしたいことが」
「ええ」
相変わらず阿求の心を読むのは負荷がかかるので、さとりは阿求の心にフォーカスをあわせず、阿求の言葉を待つ。目を逸らすことでまともな会話が成立するというのは、皮肉であり滑稽でもあった。
「また、文通してくれませんか?」
「!」
そして、相手の発した言葉に驚くという感覚を、さとりは久方ぶりに味わった気がした。
「バイオネットは休止していますけど、何とかすれば、人里と地霊殿の間に手紙のやりとりはできると思うんです。前よりも間隔は開くことになりますが、ご迷惑でなければ……」
願ってもないことだった。さとりは、もはやあのような体験をすることは叶わないと、思っていたから。
「……ええ、こちらこそ、喜んで」
「ヨカッタネー」
雰囲気を察し、上海人形は二人を祝福した。
阿求とさとりが互いを知るきっかけになった、バイオネットでのやりとり。いくつも交わされた書状で、二人が得た情緒は、今も二人にとって大切な記憶だ。
「手紙の受け渡しは、お燐にでも任せましょう。場合によっては、命蓮寺に通うこいしに預けることもできるかもしれないわ」
「お燐さんは、こういうのもちょっとあれですけど、人里で葬式が行われてないときに来ていただくことになるかなぁと」
「……あの子、何度か人里から持ち去ってますからね」
阿求とさとりは共に苦笑する。そして、阿求は内心でほっとした。切り出すのに迷ったが、話してみれば思いの外簡単なことだった。
「さぁ、こいしを探さないと……やはり、竹林の案内人の方に会ったいいかしら」
「あ、そうですね。私達だけでこの竹林を歩くのは厳しいものがありますし、それに……」
阿求は足を見る。くじいた足は、けがをした直後の独特の熱感が引いて、より明確な痛みを訴えだしていた。立つことすらままならない状態であった。
「肩を貸してもらっても、あまり長くは歩けそうにないです……」
「……どうしましょう」
「ナンテコッタイ」
異変が収まっても、厄介な状況は払拭されていないのでは? と二人と上海人形が頭を悩ませ始めた、その前に。
「おーい、誰かそこにいるの?」
今日、初めて聞いた声だ。さとりにとっては全く覚えのない人物の声だが、阿求にはすぐ誰かがわかった。
笹の葉をかき分けて走る音が聞こえる方へ、阿求とさとりは素早く振り返った。
「阿求!」
「藤原さん!」
白髪紅眼の少女の姿に、阿求は安堵を覚えた。
藤原妹紅は、怪訝な顔で阿求とさとりの元に駆け寄る。そして、その妹紅に追随する人影がいた。
「――こいし!」
「――お姉ちゃん!」
なんという奇跡的な運命の巡り合わせか。妹紅の背後についていたのは、ほかならぬこいしである。
「あら、こいつがあんたのお姉ちゃんかい」
と、妹紅がこいしに確認を取るのもかまわず、こいしは一目散にさとりに飛びついた。
「おねえちゃーん!」
叫びと共にこいしはさとりを全力でホールドし。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん!」
「ああ、こいし――」
「おねえちゃ、おね、え……うわぁぁぁぁぁぁぁん!!」
恥も外聞もなく、あらんかぎりのエネルギーを解き放って、こいしは泣き叫んだ。
「ごめんね、こいし。心配かけて、ごめんね」
「うぅぅ、ぅぅぅぅぅ――」
さとりも、強く強く、こいしの小さな体を抱きしめた。阿求と話をしていた時は、随分と精神的に落ち着いていたものだが、いざ実際に再会を果たしたことで、抑えていたものが堰を切ってこみ上げてきた。涙がにじんでくる。
「夕食の支度をしてたら突然この子が家に飛び込んできてね。とりあえず保護したんだが――まぁ、ついさっきまで身動きがとれなかったわ。ありゃ一体何だったのやら」
妹紅も、竹林の異変を感じ取っていたようだった。しかし、表面上はあまり動じてないあたり、ただ者ではないなと改めて阿求は思う。
「なんにせよ、ご無事で良かったです」
「まあね。それよりもあんたたちの方が気がかりなんだが――阿求、あんた、足でもくじいた?」
阿求の座っている姿勢から不自然さを見抜いた妹紅は阿求に訊ね、阿求はそれに対して首を縦に振った。
「恥ずかしながら、今ちょっと満足に立ち上がれませんで――」
「まったく仕方ないな。このままおぶって永遠亭につれていくからね」
「そうしていただけると助かります――ああ、そうだ」
強く抱擁しあう古明地姉妹の邪魔にならないようにするかの如く、阿求は声を少し潜めた。
「あの二人も永遠亭に案内していただけますか? 元々、永遠亭に用事があって来られたそうなので」
「じゃあ一緒に連れていけばいいか。しかしあのお嬢ちゃん達、ぱっとみ怪我してるようには見えないが、なんかの病気?」
「――あれ?」
そこで、阿求は記憶と現実の差異に気づき、思わずさとりに声をかけた。
「さとりさん、確かお顔に傷が――」
「え――あっ」
片方の手でこいしを抱きしめながら、もう一方の手でさとりは自分の顔を撫でる。
鏡が無くても、手触りでわかる。さとりの顔には、もはや、一筋の切り傷も存在してはいなかった。そして、包帯を指でゆるめてみると、手のひらの怪我も完治していたのだった。
「おねえちゃん……怪我……治ってる……?」
「本当……そうみたい」
姉妹も、阿求も驚くほかない。あれほどに痛ましく刻まれた傷が、跡形もなくなっていたのだ。
驚きながら、阿求はふと想像する。異変が完全に収まる直前、さとりの前に姿を現したアルフレッド。さとりは彼に顔を舐めてもらっていたが、もしかしたら、その時にはもう治っていたのではないか。
その瞬間を見たわけではなく、またあまり論理的でもないので、確かなことはいえない。しかし、なんとなく阿求にはそう思えた。もしかしたら、さとりも同じことを考えたかもしれない。
一方で、事情のわからない妹紅は、驚くというよりもクエスチョンマークを浮かべて彼女の様子を眺めるしかなかった。
「……まぁ、なんだ。何の用事にしろ、今の時間じゃ、永遠亭で厄介になる選択しかないと思うよ」
「確かに、一晩休ませてもらったほうがいいでしょうね。古明地のお二人も疲れているでしょうし」
「……よろしいのかしら。私達は、妖怪ですよ?」
しかし、妹紅は一切悪びれることもなく、ひらひらと手を振った。
「あーあー、大丈夫。元々あそこは妖怪兎小屋だし、バカ亭主は暇を持て余したもてなし好きだから、医者に用がなくても転がり込むのは問題ないでしょ」
「ぐず、ぐず……うさぎ?」
「わらわらといるよ。一匹二匹連れ帰っても多分文句はいわれないんじゃないかな」
「うさぎはともかく……そうですね。今から家に帰るのもつらいですから、そうしましょう。ね、こいし?」
「うん……お姉ちゃんと、うさぎさんと一緒に、寝る」
そういうことになった。
妹紅は阿求を背負い、古明地姉妹は二人三脚でもしているかのように密着し堅くお互いの手を絡み合わせて、夜天光降り注ぐ竹林を進む。
長くなりそうで、長くはならなかった夜が。しかし、とてつもなく多くの出来事が、記憶が溢れかえった一夜が、ゆるやかに更けていった。
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twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。
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