武田軍甘利隊・横田隊は矢の雨を降らせる位置を限定していた。降らせるのは主に信州勢の本陣回り。七里岩の上から見下ろす形なので上から俯瞰する立場。霧などもなく、状況はとてもよく見てとれた。
「武川衆め、さすがにようやっておるわ」
「戦わずして中山砦をくれてやったのは連中には腹に据えかねるものがあったようですな」
虎泰は高松をそばに控えさせて状況を逐一自らの目で確認していた。信州勢の慌てようは離れていても明らかだ。武田軍は主に甘利・横田の両隊が矢で中央を狙い撃ち、武川衆は信州勢の外回りを囲うようにして攻撃していた。一揆勢が拠点としていた七里岩の北側ならば平野もあるが、この南側の台ヶ原口は七里岩と山々に挟まれた狭い回廊だ。おまけに七里岩側は急流の釜無川があるため、鎧をまとった兵たちは下手に逃げ込めない。信州勢でまともに戦えるのは外側に陣取っていた部隊だけ。
「少し突出しておる者もおるな……高松。調子に乗るなと警告してやれ。至近に矢が落ちてくれば理解もできよう」
「はっ」
横田隊が高松の指揮でやや中央から外寄りの位置へと矢を打ち込む。すると近くで戦っていた武川衆の騎馬兵が慌てたように馬を返して引いていく。
「しかしまあ、5000の兵がわずか500程度の我らと武川衆にここまで見事に動揺するとは……この光景、他の者にも見せてやりとうございますぞ、大将殿」
うむ、と虎泰も同意を示す。そして老将は静かに後ろを振り向いた。
そこにいるのは兵……ではない。
あるのは、ただの木製人形。それらしく兜や鎧を着けてはいるから遠目にはそうは見えないだろう。それらが旗を背中に当たる部分に背負い、拳に当たる部分には弓を持って構えている。ちゃんとした兵もいるが、彼らは人形と人形の間に配置されており、なお一層離れた場所から人形だと気づかれないように工夫されていた。
「少なくともこの2倍の数に見えているのであろうな、信州勢には」
「甲斐はけだし木工技術が優れておりますが……よもやこんなものを用意するとは、いやはや何とも」
「本来なら民衆を動員するつもりであったが、信繁様はそのあたり、非情になりきれぬ嫌いがあるのう」
もちろん、ここで武田が民衆を戦に総動員したとあれば余計に民衆感情を刺激してしまいかねないという理由もあるが。
「高松。信玄様は間に合いそうか?」
「さすがに韮崎から間に合わせるのは難しいでしょうな。ただ先鋒の原殿らは間もなく到着するでしょう。それでも小笠原軍5000には及びませんが」
「構わぬ。諏訪の動きからしてすでに連中も笹尾砦が陥落したことは伝わっていよう。退路も補給路もなくして三方から攻め立てられれば、いかに兵力で勝るとは言え小笠原も諏訪も平気ではいられまいて。長時めはともかく、頼重ならばその程度は理解していよう」
――『諏訪頼重は慎重に慎重な男と聞き及びます。一か八か前へ進もうと博打を打つより、確実な一手を打つ人間です。そうですね、虎泰?』
――『左様。組んでいるのが村上義清であらば諏訪頼重も前へ進むやもしれませぬが、小笠原長時ではそこまで頼れぬでございましょう』
これまでの諏訪との戦、小笠原との戦での経験が物を言った証である。虎泰の太鼓判まで出た以上、信繁と信玄の意見に異を挟む者はいなかった。
「しかし恐ろしゅうございますな……策の大元を考えられた御館様も、それを正確・瞬時に理解し、さらに策を上乗せした信玄様も」
高松の言葉にはまったくを以って同意するほかない。
最悪、虎泰の独断という形で甘利家と横田家の領内の民衆に旗を持たせて大軍を集めたように見せかけるという策を虎泰は提示した。そこを信繁が民衆ではなく、代わりに甲斐の木工職人たちに可能な限りの人形を作らせ、これを利用するという形に。
虎泰と高松が信廉と共に一揆勢の元へと向かったのもこれを隠すための陽動に過ぎない。甲府に主だった将がいなくなることで甲府への警戒は薄れる。甲府に兵が500ほど残っているのも、武田の家宝である御旗楯無を守るためという名目がある。自然、そこで作業をしている木工職人たちから目を逸らすことができる。
しかも一揆勢と接触後に虎泰と高松だけが甲府へと逃げ帰る真似をすることで、信廉が捕まったという憶測を信州勢に与えることができ、そうなれば信廉と山県ら4将への意識も薄れさせることができるという付録付き。加えて言うなれば、信玄に主力を与えているのも、『鬼美濃』原虎胤を始め名のある将の多くを揃えたのも、信玄率いる武田軍主力に信州勢の意識をとにかく集めることにある。そして信廉が捕まったとあれば、虎胤たちが夜の間に本隊から離脱して一揆勢の方に向かったのを見て、信廉救出の方を優先したという判断を信州勢の物見たちに与えることもできる。
「小笠原長時はともかくも諏訪頼重は警戒せよ……御館様のお言葉は実に正しかったということじゃな」
「ここまで搦め手を重ねるのは少々やりすぎにも思えますが……」
しかしそれらがすべて功を奏しているからこそ、この状況がある。文句のつけようがない。
足りないのは兵力差。だがそれを補って余りある策略が今まさに目の前に展開している。北条が上杉を下した川越夜戦ほどの兵員規模ではないが、それでも比率的には似た状況で武田が圧倒的多数の小笠原軍を押している。
「諏訪はどうじゃ?」
「こちらに引き返して来たという合図の狼煙は……上がっておりませぬ。とするとまだ知らないのですかな」
「…………どうかのう」
虎泰は険しい顔で笹尾砦の方向を見据えた。
諏訪のためなら盟約を破る男でもある諏訪頼重。この状況が高遠に伝われば諏訪本国の危急ゆえ、知らぬ存ぜぬで通す可能性もある。もし戻ってくるようならば笹尾砦から打って出る手筈である信廉たち約1000と共に虎泰たちで迎撃することになっている。
「小笠原と諏訪の分散こそが戦略目標……所詮、信濃の勢力は離合集散の繰り返しじゃ。本気で小笠原を助けに戻る諏訪でもあるまいて」
言ってしまえば烏合の衆。諏訪頼重が本気で甲斐侵攻を企んでいたわけではないことなど、武田はすでに気づいていた。所詮は小笠原長時によって脅されただけ。そんな集まりが連合を組んだところで、その番を外してしまえば各個撃破は容易い。
そのために、まず慎重な諏訪頼重を狙った。彼は諏訪の安定を第一に考える性格。武田と高遠の接触を図り、謀反を起こす手筈であることを示唆して頼重の不安を誘う。事が事実にせよ虚偽にせよ、頼重は必ずそれ以上の進撃を躊躇うことだろう。だが長時はそうはいかない。自尊心の強い男だ。こうすれば元々大した信頼関係などない長時と頼重の意思疎通は完全に乱れる。そこで信廉による笹尾砦の奪還は、必ず頼重を動かす。
問題があるとすれば頼重がそれでも長時と強硬に前進しようとする可能性について。
そのための一揆勢。一揆勢の兵力はおおよそ5000。これを率いていたのは山県ら3将であり、彼らが信廉と行動を共にしたと知った以上、武田が一揆の民衆を強引に徴兵したのかもしれないと思うだろう。なれば、連合軍が勝る要素であった兵力を上回る。この可能性を否定できなければ、頼重がそれでも進むと言い出す確率はほとんどない。慎重に慎重な性格ゆえに。
もちろん本当に一揆に参加した民衆を動員などしない。必要なのは動員したと思わせるだけの『事実』と、それを印象付けるだけの『証』。動員した『事実』としては、すでに山県たちが一揆を起こしたことがある。いい加減、信州勢も一揆はただの芝居であったことなど理解しているだろう。だから実は武田を裏切ってなどいない山県らの行動は武田が民衆を動員したと同義と思っていてもおかしくはない。そして民衆を動員したのなら、必ずいるはずの頭数。それを木工人形で偽装し、当初より明らかに武田軍の頭数が多い光景を見せてやることで真実味を持たせる。
――『嘘を嘘と見抜かせぬためには、嘘の中に真実を散りばめておくことです』
軍配片手に笑う信玄の姿が思い出される。あれを前にした教来石景政たちは身震いしていたなと虎泰は苦笑した。
――『……なぜ皆揃って引くのですか? 信廉に兄上まで』
――『え、ええと、ごめんなさい、姉上……何と言いますか、反射的に……』
――『けだし、私はどんなお前を見ても変わらないとは言うたが……信玄、年頃の女子がそのような邪笑を浮かべるは如何なものかと思うのだが』
――『兄上が少しずつ自分を晒していけばよいと言ったのではありませんか!』
――『今のが少しなのか? ううむ……少々自信がなくなってきたな』
――『失礼な! この性格は兄上譲りでしょう!』
――『私のせいなのか?』
――『今の兄上のような方を性悪と言うのです! 兄上がそのような性悪だから私まで性悪になってしまったのです!』
――『……つまり姉上はご自身が性悪であることは否定なさらないんですね』
――『う……信廉、今のは言葉の綾というものであって……!』
――『やれやれ。躑躅の花を差し出してくれた心優しき純粋な我が妹は今や記憶の中だけの存在とは……そこばく、わびしきものよのう、虎昌殿』
――『いや、そこでわしに振られても困るというもの。のう、信方?」
――『だからと言って私に振るな!』
――『……信方?』
――『ひいっ!? し、信玄様、落ち着かれませ! おい、お前も何とか言え、虎昌!』
――『ぴーぴー』
――『吹けもしない口笛で誤魔化そうとするな! あ、甘利様!』
――『……そこまでになさいませ、御館様、信玄様』
――『『ぶははははははははははは!』』
――『……虎胤、忠次。お前たちはお前たちで笑っとらんで止めんか』
――『いや、くははは……! だってよう爺さん、この、いい歳したでかいおっさんが、唇突き出して口笛真似してぴーぴーって……しかも吹けてねえし。くっ……!」
――『あーっはっはっはっはっは! ひぃ、腹が痛い、腹が……あははははははははは!』
――『心外じゃ。激しく心外じゃ。よし、相わかった! この虎昌、馬鹿にされて黙ってはおれぬ! これから毎日口笛の練習をして必ずや皆の前で吹けるようになって見せようぞ! ぴーぴー、とな。ぴーぴー』
――『『ぎゃははははははははははは!』』
――『い、いい加減にせんか、貴様らああああああああ!』
――『……御館様』
――『ふむ。少々場が和めばと思うたのだが。和みすぎたか』
――『さすが御館様でござるな! だーっはっはっはっは! ぴーぴー』
――『虎昌殿には負ける。というかやめてくれ。さすがに私もそろそろ我慢できん……くっ、はーっはっはっはっは!』
――『というわけですので、私のせいではありません……く、ふふふ……!』
――『兄上、姉上、お2人揃って性悪です……ぷっ……あはははは!』
――『御館様は飯富殿の悪影響を受けておるようじゃのう……もはやお手上げじゃ。ふっふっふ……!』
――『御館様も大将殿もお手上げである以上、我らにはどうしようもありませんな。というわけで諦められよ、板垣殿……申し訳ない、私も限界だ。ふ、ふははははははは!』
――『ふ、ふ……ふざけるなああああああああ!』
まあ、その後にあった微笑ましいやり取りのおかげで穏やかな雰囲気のうちに軍議は終わったのだ。
……信方だけは疲れ切っていたけれども。
「……ふっふっふ」
「大将殿? 如何なされた?」
「いや、すまぬ。何でもない」
思い出し笑いをしてしまい、虎泰は不思議そうな高松に返す。
こんな状況で思い出し笑いをするとは。別に余裕があるわけでもないのに。今までにこんな経験はない。
だがこれが、きっと新しい世代の武田家なのだろう。こんな老骨がいては、とも思うが、しかしまだこの空気に浸っていたいとも思う。そのためにも、この戦、何としても勝たねばならない。
「しかし作戦のためとは言え、領内奥深くまで侵攻を許すというのは、やはり肝が冷えますな」
「やむをえまい。この兵力差で正面からぶつかれば苦戦は必至。兵力を極力損なうことなく、迅速に勝敗を決するためじゃ」
喉元にまで刃を突きつけられるのを敢えて許したようなもの。高松と言えども冷や冷やものであったらしい。
この作戦を実行するにおいては諸将からも反論は出た。
第一に領内奥深くにまで侵攻させねばならない点。国境付近で事を起こしても、効果的に敵戦力を分散できないからだ。領内に侵攻すれば敵は占領のために戦力を分ける。極力本隊と守備隊の距離を取らせなければ、事を起こしてもすぐに救援が戻ってきてしまう。逆もまた然り。
第二にやはり寡兵に過ぎるというもの。だから韮崎で迎え撃つのは無理。寡兵で大軍を相手にするには、やはり地の利を活かすに限る。ならばやはり台ヶ原口を通らせ、特にこの釜無川に別の川が合流し、かつ左右は山と七里岩によって狭まっているこの位置が一番いい。
「今はよしとしても、時を置いてはいずれ居もしない兵力のことも気づかれよう。故に大事なのは――」
「勢いと速度ですな」
「その通りじゃ」
ここで小笠原軍を押し切ることができなければ……武田の敗北は避けられない。
どんなに策を整えようが、どこかでつり橋を渡るが如き賭けも必要になる。だがその時こそ武田の力の見せ所。
総大将が僅か500の兵で自ら北条の一隊を食い止めているのに、ここで自分たちが負けてどうするのか。
そんなことでは甘利虎泰の名が泣く。出来ずして何が武田四名臣か! 何が武田一の宿老か!
虎泰だけではない。高松も虎胤も忠次も、皆が皆、奮起している。
老骨と侮るなかれ。甘利虎泰、まだまだ現役の武田が将よ! 今ここで奮起せずして武田の将を名乗る資格はない!
左側、韮崎の方へと視線を向ける。すると戦闘状態の戦場へ向かってくる新たな勢力が映った。翻る武田菱。その先頭を行く4人の将の姿。
原虎胤・初鹿野忠次・秋山虎繁・諸角虎定。
まだ見えないが、後方には可能な限りの早さで進撃する信玄と板垣信方の主力もいる。
「遅い。あの4人、遅すぎじゃ。帰ったら説教せねばならんの。じゃが今は小笠原めを蹴散らすのが先じゃ。ふっふっふ……血が踊るわ」
「大将殿。ご無理をなされませぬよう……」
「わかっておる。わかっておるがのう……この甘利虎泰、久しく大暴れしたい気分じゃ。信虎様に斬られること覚悟の上じゃったが結局生き延びてしもうた。ここで何もせずにおったら、亡き4将に顔向けできん。本当ならばわしこそが一番に死ぬべきところであったというにのう。この老骨の命、ここで賭けずしていつ賭ける」
「縁起でもないことを仰られますな。大将殿にはまだまだ生きてもらわねば」
「若い者が情けないことを言うでないわ。いい加減、老いぼれは隠居させてもらいたいものじゃというに」
「大将殿は縁側で茶を啜り和歌など詠む日々で満足できる方ではありますまい。軍務なり政務なり、とかく戦場にて生きる方。死に場所は布団の上ではなく、戦場のごつごつした土の上。この高松、そのように心得ております」
「わしに雅は合わぬと?」
「大将殿が一番ご理解されていることかと。加えて言えば、小笠原など最後の相手としては不充分では?」
「ふっふっふ。言いおるわ。さすがは高松よのう」
恭しく頭を下げる高松に、虎泰はその皺の多い相好を崩した。だが今の虎泰を見て『老いた将』と受け取る者はいないだろう。その顔は精悍。笑みは生気に満ち満ちている。
虎胤たちが小笠原軍に突撃していく。ここから見ていても彼ら4人は良く目立つ。彼らが溜めていた鬱憤が発散されていく様を感じる。それを見ていると、虎泰は槍を持つ手が忙しなく動くのを止められなくなってしまう。結局は自分も甲州兵。猛々しく、荒々しい、武骨な田舎侍。虎泰は老兵ゆえ、ある意味で最もその気質を色濃く宿していると言ってもいいかもしれない。それが一方的な矢の雨を降らすだけで満足かと言えば……そんなわけがない。
高松の言うことは実に的を得ている。甘利虎泰という男は、老いようが甲州の侍。とかく戦場に身を置くことで活きる者。枯れた甘利虎泰など、ありえないのだ。枯れるときは死ぬ一瞬。その一瞬まで、甘利虎泰という侍は生き続け、そして活き続ける。
「む。大将殿、あれを」
高松の指差す方向を見やると、中山砦の方から下ってくる旗が見えた。諏訪の旗だ。まっすぐに戦場へと向かってきている。おそらくは小笠原軍を援護するつもりなのだろう。
そうはさせじ。
「この場は任せるぞ」
「承知」
「甘利隊はわしに続けい! 増援を潰して小笠原に更なる打撃を与えてくれる! 我らが甲斐の地を荒らした報い、目に物見せてやろうぞ!」
――オオオオオオオオオオオオオオオオ!
虎泰は手勢を引き連れて馬を走らせる。この周辺には下りる道が無いので回り込まなければならない。それがひどくもどかしくもあるが、そのもどかしさをも虎泰は楽しんでいた。早く戦いたい、若い者には負けたくない……そんな歳甲斐もないことを思って。
武田四名臣にして武田一の宿老、甘利備前守虎泰――参戦。
未だ精気衰えぬ武田の古老が、牙を剥く。
武川の合戦、ひいては対信州勢方面は信繁と信玄の策が見事にはまり、武田優勢で事が進み始めている。
戦場より韮崎方面に少し離れた道中を、戦場に向かって進軍する武田軍主力の2000がいた。
率いる信玄は、優勢の報を聞いても無言を保っている。それがまだ年若い少女を威厳ある将へと兵たちに見せ、味方の優勢に士気が上がる兵は少女を頼もしく思い、そして気丈な少女が強く振る舞っていることに微笑ましさも感じたものである。
その中で1人、信方だけは信玄の斜め後ろにつきつつ、信玄の背中を見ていた。ただ、その眼に映るのは頼もしさや自身が傅役を務めた主の背中に誇りを感じているといった類のものではない。心配そう、それでいて声をかけるにかけられない困惑。信方の真面目ぶりとやや神経質で高慢な一面は多くの者が知るところだ。そんな彼女が信玄を奉じるときはとても心配性であることも。だから気負っているのではないかどうかを案じているというところだろうと、誰もがそう考えて苦笑する。
(いかん、信玄様がこうも泰然としているというのに、私が動揺していては……!)
兵たちの予想は的外れというわけではないが、心配の内容は全く笑っていられるものではなかった。だからと言って信方がここで兵たちに怒鳴りつけるわけにもいかない。そんなことをすれば信玄が『泰然』としている意味がなくなってしまう。
「信玄様……せめて信玄様だけでも向かわれては? こちらは私が……」
「なりません」
「しかし」
「くどい」
「……申し訳、ありません」
取り付く島がない。まるでつい先日まで当主になることに頑なだった信玄にまた戻ってしまったような錯覚さえ覚える。信玄は相手の言を聞こうとしない信虎とは違う。信方の言を無碍にすることはない。そのくらいの信頼はされていると信方も自負している。それでも、今の信玄は頑として受け付けなかった。黙る信方も不満を抱いたわけではない。信玄ならばこう言うだろうと、そうわかっていた。だから信玄が本気で怒鳴りそうな一線で身を引いているのだ。
真っ先に向かいたいのは、信玄とて同じなのだろうから。
いや、きっと誰よりも。いの一番に自分が向かいたいはずだ。
信繁の元へ。
その報が届いたのは早朝。すでに先鋒の虎胤たちが本隊より離れてかなり経ち、さあこれより信玄も進軍を始めようという、まさにその支度が整ったときであった。
御坂山にて北条綱成率いる北条軍を抑えていた信繁勢が崩れた。
さらには綱成勢に追撃をかけられ、北条軍はついに御坂山を越え、武田の支配する国中へと侵攻したらしい。
城も砦もない御坂山にて、わずか500の手勢で抑えられる時間などそう長くはないだろう。それは当初より予想していたことで、撤退も作戦の範疇であった。決して無理をせず、引き際を見失わず、無理なら早々に撤退を開始する……その手筈だった。目的は足止め。死守ではない。
だが信繁勢の撤退模様は戦略的な撤退行動ではなく、明らかな『敗走』状態。本来なら防衛戦から撤退戦へと移行して敵の追撃を妨害しつつ、ここでさらに時間を稼ぎながら撤退するはずであったのに、現状は撤退戦どころではない状態のようで。逃げるので精一杯のようだ。
――『……いくら一騎打ちをしていたとは言え引き際を見失うなど、兄上がそんな失態を犯すはずがありません』
――『信玄様。北条の攻勢は予想以上です。まさか別働隊単独で国中にまで踏み込んでくるとは……』
――『何か理由があるのか、それとも電撃的に甲府を制圧して私たちと兄上の合流を阻む算段か……』
想定外は2つ。
武田軍、甲州兵の性質だ。猛々しく、荒々しい。それは正面から勇敢に挑み、大軍相手でも怯むことなく立ち向かうことに長けている反面、搦め手に対する考えが足りず、個々の動きに邁進しがちになることが欠点だ。ただでさえ、戦という命のかかった場面において、人間が冷静であり続けることは難しい。死にたくないと必死になり、我武者羅に敵を倒そうとする……そうなれば他人の指揮など聞き入れられる状態ではなくなる。
これはどちらかと言えば、想定外と言うより浅慮の結果と言えよう。これまで正面からの力ずくに拘り続けた武田が、いきなりここまで策を用いて兵法の教本の如く動くなど、無理があったのだ。
そしてもう1つは北条軍、特に綱成勢の動きだ。
早すぎる。
小山田は北条と明らかに通じているようだが、それでも出兵しないだけでどちらに味方もしないという消極的な態度で日和見を続けている。つまり北条に寝返る可能性があれば、武田に従う可能性とてある。そんなことくらい、氏康や綱成がわかっていないはずがない。だから信繁や信玄たちは、氏康と綱成は進軍速度を合わせてくると踏んでいた。つまりどちらか片方の足を止めれば、もう片方も止まらざるを得ないと。お互いがお互いの背を見張り合い、小山田が武田についたらすぐに片方が取って返して小山田の後背を突き、もう片方と挟撃してこれを叩く……そんなところだろうと予想していた。事実として両将は氏康が岩殿城に至るまで歩調を合わせていた節がある。
ところが氏康が岩殿城を包囲して攻撃を開始するや否や、綱成は急激に進軍速度を上げた。当初は信繁も信玄も、信繁が御坂山に布陣しようとしていると察して御坂山を先に取ろうとしたためと思っていたのだ。だが綱成は信繁勢に対してすぐに攻撃を開始した。そして今や信繁勢を叩き、御坂山を越えて国中にまで兵を進め、その進軍が停止する気配もない。背後の脅威を考えれば3000の兵力ではかなり心許ないはずだが。
(いま我らが引き返して、もしも小笠原や諏訪がそれを察知すれば……くそ)
勢いと速度。それが大事なのは言うまでもない。いま信玄たちが軍を取って返せば、せっかく押しつつある小笠原や諏訪がこれに乗じてと盛り返しかねない。彼らを追い返し、再侵攻しようにもできない、少なくともすぐには不可能な状態にまで追い込まなければならない。
この情報を小笠原や諏訪が手に入れている可能性は否定できない。だとしてもこちらにとっては別に予想の範疇であるという態度を通さないと、途端に勢いが覆ってしまいかねない。
「…………」
信玄が黙りこくっているのは、それが理屈として理解できているからであり、同時に納得はできていないことへの鬩ぎ合いの結果だ。
このことを諸将は知らない。兵たちも知らない。知っているのは信玄と信方だけ。現状が下手に諸将や兵に知れればそこから不安が伝播し、戦局に影響を与えかねない。信繁もそれがわかっていたからか使者には佐五を指名しており、佐五は決して信玄の陣で取り乱さず、ただの定時報告のように振る舞った。
――我が身は無事にて、援軍は無用。戦勝を企図し、如何なる場合もまずは西方の戦況を確たるものとせよ。
佐五は状況を伝え、最後に信繁からの指示を御館様の命令だと強調した。釘を指しておけとでも言われたのだろうか。
伝え終わった後は早々に信繁の元へと帰ってしまったあたり、佐五も気が気でならないのだろう。
彼のようにすぐにでも信繁の元へ行けたら……それが信玄の本音のはずだと、信方は信玄の背中を見ながら思った。
「申し上げます!」
進軍する軍勢の前方から早馬がやってくる。彼の顔には爽快そうな笑みがある。戦況は上々ということだろう。だがそれを察しても気持ちが晴れないのはどうしてだろうか。
「横田様は続けて七里岩より矢を射かけております。原様に至っては敵将を2人、仕留められました。我が軍は圧倒的優勢で事を進めております」
「そうか。小笠原は川を渡ったか?」
「敵大将、小笠原長時は真っ先に渡って逃走。一部の将が残って我らと戦闘を続けております」
「中山砦の敵守備隊は?」
「城を出て小笠原軍の撤退支援を始めた模様です。これには甘利様が迎撃に当たっておられます」
信玄は相変わらず黙ったままなので、信方が早馬の兵と話す。
中山・笹尾の両砦に配備されていたのは諏訪の兵。撤退支援ということは積極的に武田と戦うつもりはないのだろう。小笠原軍が撤退すれば中山砦守備隊の諏訪兵500は敵中に取り残されることになる。城に残って中山砦の占領を維持するという選択肢は捨てたのだろうと信方は読んだ。
「諏訪頼重は?」
「未だ戦域には現れておりません」
すでに戦闘が開始されてそれなりに経つ。急げばそろそろ頼重が舞い戻ってくることも可能だろう。それでも戻ってくる気配がないということは、笹尾砦奪取の方を優先したか。仮に小笠原長時が加勢を頼んでいたとしても、きちんと中山砦の守備隊を出したのだから、諏訪が加勢したという事実はきちんと残る。
笹尾砦には奪還した信廉と山県ら3将が指揮する1000が籠っている。対する諏訪軍は2000。攻城戦を行うには兵力差に不安がある。笹尾砦がすでに戦に晒されたことによる損傷があると加味しても、早々容易く落ちることはないだろう。
「これで高遠に少しでも動きがあると助かるのですが……」
「…………」
信玄のだんまりは意固地か、それとも思考を巡らせている証か……信方にはわからない。
高遠がここで動いてくれれば、頼重は直ちに兵を引くことだろう。寡兵に追われて逃げ出した長時に、信州勢の士気は大きく削がれたはず。ここで立て直して再侵攻をしても、今度は笹尾砦にも中山砦にも士気が盛り上がる武田軍が籠る。これで戦を続けるほど、頼重も愚かではあるまい。むしろ高遠がほんのわずかな動きでも見せてくれれば、頼重としては兵を引く口実が出来る。元々乗り気でもなかったであろう出兵であることも鑑みれば尚更だ。
「信玄様……どうか、今少しばかりの御辛抱を」
「……わかっています」
「し、信玄様! 板垣様!」
突然、兵が横から割り込んできた。何だか驚いたような様子だ。何か良くない報告だろうか。
こんなときに、と信方はその兵に罪はないとわかっていながらも睨みを抑えることはできなかった。
「何だ?」
「の、信廉様が……!」
「! 信廉に何かあったのですか!?」
ようやく信玄が大きく反応する。さすがに信廉の身に何かあったとなれば。
だが兵は首を振った。信玄も信方も安堵しつつ、ならば何だと言おうとして――
「いつまでこんなところにいるつもりですか、姉上!」
唐突に怒鳴られ、そこへ目を向ける。
そこには……いつもと違う、軽装を纏っただけの信廉が、息も荒くそこにいた。
「信廉様!? な、なにゆえこのような所に!?」
「そんなことよりも、信廉、貴女怪我をして……! 見せなさい!」
信廉は左腕を抑えていた。軽装の鎧はあくまで胴体を守る程度のもので、腕の部分に甲冑はまったくない。信廉は左腕を抑えていた。肩口に近い部分の衣が、赤く染まっている。斬られたのか、それとも矢が当たってしまったのか。よく見れば信廉の顔もやや赤く、息が荒いのはここまで急いでやってきた疲労もさることながら、その傷によるものもあるのかもしれない。笹尾砦は奪還してからまだ1日と経っていない。奪還してすぐにこちらに向かってきたと見ていいだろう。だとすればこの傷はその際の戦闘によるものなのかもしれない。満足に治療もせずに馬を走らせてきたのか。無茶なことを、と信玄は眉を寄せて馬を下り、信廉の腕を取った。
「そんなことはいいんです! 姉上、早く……っ……早く兄上の元へ!」
振り払おうとして、しかし信廉は腕の痛みに顔を顰めた。それでも言い切る。
「……わかっているでしょう、信廉。ここで私が兵を取って返せば、諏訪はともかく、小笠原が追撃をかけてくるかもしれないのです」
「わかっています! でも姉上――!」
「『我が身は無事にて、援軍は無用。戦勝を企図し、如何なる場合もまずは西方の戦況を確たるものとせよ』……それが兄上の命令です」
まるで自分自身に戒めるように。信玄は信廉に振り払われた手を力なく下ろしながら信繁からの命令を口にした。
「姉上こそわかっているでしょう! 兄上を捨ておいてはいけないことくらい!」
「っ!」
信廉の言葉に反応したのは信玄だけであった。信方も周囲の兵たちもよくわかっていない様子だ。
もちろん戦なのだから、総大将が死ぬ覚悟もないというのは話にもならない。この武田が不利な状況下、兵に戦えと言うのならば。長時のように真っ先に戦場から逃げるような将に誰が付いてくる。
しかし信繁は総大将なのだ。総大将が死ねばそれこそ全軍の士気に関わる。死ぬ覚悟はあったとしても、死ぬ気でいるのではない……そう信方は考えていた。だが信玄の反応から見る限り、信玄も信廉と同じなのだろうか。
「なぜかはわかりません……でも兄上の言葉を聞いた時、言い知れないものを感じました。兄上は一度負けたからと言って、それで自棄になるような方ではありません。きっと今頃は立て直しを図り、何事かお考えでしょう。ですが……とにかく、気になるんです!」
別に信繁の言葉に死を感じさせるものがあるわけではない。直接信繁から聞いたわけではなく、佐五の口から聞いたことでもある。敢えて言うなれば、『如何なる場合も』という文言か。信繁の死があろうとも、という意味に取れないこともない。だがそれは考え過ぎだ。そんなことを言えば、そもそもわずか500で御坂山にて北条軍を抑えるという案自体が危険に過ぎる。それでも信繁は断行した。そして信玄も信廉も、一度はそれを受け入れた。信繁ならやってくれると、そう思えるものがあったからだ。
「本当にわからないんです……でも、何かが強く訴えてくるんです。兄上の言葉には、何かがあると」
「……言葉の裏。いえ、言葉にしていないことがある……?」
『我が身は無事にて、援軍は無用。戦勝を企図し、如何なる場合もまずは西方の戦況を確たるものとせよ』
何度も頭の中で反芻する。
繰り返せば繰り返すほどに、信玄と信廉の中で強く何かが訴えてくる。まるで自分ではないような、けれど確かに自分の中から湧き起こるもの。心が。いや、もっと熱く重く大切なものが……そう、言うなれば『魂』が。
「信玄様? 信廉様?」
信方には残念ながらそれはわからない。決して彼女に『魂』がないなどとは言わないが。けれど信玄と信廉の間には確かに通じるものがある。
しかし……だからどうせよと言うのか。信玄は静かに首を振った。
「……それでも、兵を取って返すわけにはいきません。兄上と信龍が無理を承知で僅かな手勢で防いでくれているおかげで、私たちは4000もの兵を自由に動かすことができているのです。なのにここで信州勢を勢いづかせ、甲斐西方を抑えることもできなかったとあっては、兄上と信龍に会わす顔がありません」
何のための策か。何のための抑えか。
それを考えれば、ここで心配で来ましたと言ったところで信繁は怒るだろう。いや、結局何も言わないままで終わるかもしれない。ただ間違いなく、喜びはしない。
多くの兵を動員し、勝つために動く。危険を承知の上で、その先にある勝利のために。ここで取って返せば、一揆に参加した民衆や山県ら3将の忠義、虎泰や虎胤たちの奮戦も、すべてが無駄になる。何より、信繁と信龍の踏ん張りをも無下にするだけ。そうとわかって駆け付けるなど、愚かも甚だしい。
「兄上が死んでしまっては、それこそ会わす顔などありません」
「……信廉……!」
そんなこと、言われずともわかっています!
そう言おうとして、しかしそれよりも早く信廉が制した。
「ですから、ここは私が引き受けます。姉上はすぐに向かってください」
――続く――
【後書き】
一ヶ月以上も開けてしまい、大変申し訳ありません。
年末年始ということもありましたが、年明けから職場でシステム問題が起きてあれやこれやと……orz
今年はそれなりに運のある年だとあったのに……おみくじなんてそんなものですかねえ。(苦笑
さて、今回も対信州勢方面の話でした。最後に信繁の方での話が入れ、次の話で信繁に持っていきやすいようにしました。今回で一旦、対信州勢方面は一段落です。ただこれからが信廉の密かな活躍の始まりっていうのが構想です。信繁・信玄・信龍はそれぞれで活躍してますが、信廉は信繁と信玄の策の下で重要な役を担って動いていましたが、まだ個人の功はないので。そっくりであるがゆえに彼女にできることをしてもらいます。信玄に似ているのは決して顔だけではないというところを見せられればと思います。
信繁勢が崩れた理由は今回でも少し語りましたが、次回でそのあたりを描くつもりです。今回は説明口調になった部分が大きいので、信繁勢と綱成勢の戦いの臨場感やスピード感を損なわないよう、言葉で示すのではなく文章全体から匂わせるような内容で表せるように努めます。
信繁の危機に対する信玄や信廉の悪い予感は、信繁の前世にいた信玄と信廉と同じ魂を持つ者として、という意味を持たせました。信繁は信玄から最大級の信頼を寄せられた将ですから、そういう絆のようなものがあるといいなあという私の願望の表れでしょうか。
以下はコメントへの返答です。
>シリアスばかりが続いていたので、ギャグを取りました。戦争状態ですが、武田の将はむしろ戦いだからこそはっちゃけるような気がするんです、原作の武田家のノリを見ていますと。(苦笑
原作に出てきていないキャラに関しては個性をつけるのが大変ですね。虎繁は最初はおしとやかな感じだったんですよ。でもこれでは思いきり上原昌辰とかぶるなあと。ということでああなりました。この原・諸角・初鹿野・秋山の4将に関してはギャグ要員ですね。戦となれば主力級なんですが。
それでは今回はこれにて失礼いたします。
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戦極甲州物語の19話目です。
2013/01/17 誤字修正
>トーヤ様
誤字報告ありがとうございます。修正対応を行わせて頂きました。感想含め御礼申し上げます。