考えてみればおかしな話だった。
アロームに同行した人間は全て殺されたはずだ。
そう伝えられていた。
・・・誰に?
誰も戻ってはこなかったのではなかったのか?
そう、誰も戻ってはこなかったのだ。
であればそれは、誰かが伝えたに違いなかった。
メルキス学術院は、ナフィルの想像する以上に、王都と密接な繋がりがあるように思われた。
その事実に、ナフィルは驚愕した。
繋がりがあったことにではない。
魔術が現在でもかなりの広範への影響力があったということに、だ。
ナフィルは今、それを知って初めてその現実に直面していた。
朝になって、皆は中庭に集まった。
当初から集められたわけではない。
誰もいない食堂で立ち尽くしていたアスリンの後からビジットが現れ、そこにミュエルの複製が呼びに来た。
中庭へ連れて来られると、そこにはミュエルを脇に従えたナフィルが腕を組んで仁王立ちし、剣を構えて対峙するエイブスとタウスを見つめていた。
当然、
「何ですか、 これは」
「どういうことだ!?」
と二人は状況の説明を求めた。
しかし、ナフィルは答えない。
厳しい表情をして、二人の成り行きを見守っている。
事情が分からないのはエイブスも同じだ。
だが、対峙するタウスには理由があった。
その理由、戦う覚悟が出来ていることを感じて、エイブスは理性以外のところで既に臨戦態勢を整えている。
タウスの表情は奇妙に落ち着いていて、迷いや混乱した様子は見受けられなかった。
エイブスは一夜にして変わってしまったタウスを、本能的に危険であると認識したのだ。
「そういうことか」
全員が顔を揃えたところで、タウスは何やら勝手に納得をして、ほんの少しだけ苦々しい微笑みをこぼして人間らしい表情をした。
そして、タウスは改めて剣の柄を握り直した。
双方には意識の齟齬があった。
しかし、それはタウスの一方的な思い込みによる錯誤ではない。
何が正しいのかは本人にしか分からなかったが、それは既に双方で決定的なものになっていた。
ナフィルは、少しだけ期待していた。
その可能性が極めて少ないと知っていて、それを強く願っていたのだ。
・・・そんな都合の良い結果など生まれないのに。
後始末を押し付けたわけではないが、エイブスは理由も分からないまま、タウスに対する役目を引き受けた。
そして、今までに感じたことの無い、互いが相手と交わらないという奇妙な戦いが始まった。
エイブスはタウスと初めて会った時から警戒はしていた。
何らかの思惑がある。あるいは、何らかの使命を帯びて来ている。
しかし、それは傭兵であるならば、むしろ当然のことだった。
もし、その思惑の違い、求めるものの違いで剣を交えることがあるのなら、タウスもエイブスも躊躇無く戦っただろう。
なのに、この不快感は何なのだろう?
そこに、『死』と言う概念は無かった。
無論真剣だった。隙あらば相手を殺そうという意思が、この手にする武器には含まれていた。
そして、結末も決まっていた。
相手を倒す。
生死は運に任されていた。そこで手加減をしたり躊躇をすることは無い。
タウスは良く戦っていた。
エイブスはタウスの攻撃を凌ぎ、その間隙を衝いて反撃をした。
そこで生まれるのは経験の差であり、心のゆとりの差だった。
年齢や武装の差は、結局はわずかなものでしかない。
エイブスには思い詰めるほどの集中力は無かったが、その豊富な経験を生かしきるだけの余裕があった。
それは、ナフィルと出会ってから、特に顕著となった。
面倒を見ているような感覚は、ナフィルには常識的欠陥があるからだったが、実はその存在感に依存していたのは自分なのかもしれなかった。
人としての日常、人としての常識的な感覚や知識を打ち砕かれたことは、それまでの自分を完全に否定したものだった。
ナフィルと共にあれば、自分は普通の人間には考えも及ばないような経験が出来る。
それは傭兵として求めたものとは違っていたが、エイブスの持て余す好奇心を満たす恰好な『嗜好品』だった。
酒や女、あるいは食事や麻薬、中には殺傷で欲求を満たす者が居る。
エイブスももちろんそうだった。
女よりも酒、殺すことよりも殺し合うのが好きだった。
が、今ではそれはあくまでも生きている上でのついでに過ぎない。
これが、魔術師と共に生きることなのか?
もはや、目の前のタウスは人ではない。
魔法生物や魔獣と同じ。
人間同士の、傭兵同士の戦いでは無かった。
タウスの背後に、佇む少女が居た。
何を思っているのか、無表情で礼儀正しく立っていた。
だが、タウスの背後を護っているという感じを、エイブスは受けていた。
そこにはしっかりとした意思が感じられたのだ。
エイブスは、それを認め、しっかりとした意思を持って、タウスを倒すことを覚悟した。
「おい、何故止めんのだ?」
ビジットがナフィルの肩に手を掛ける。
それを、ナフィルは払った。振り向きもせず。
「黙って見てなさい。理由はタウスが自分で話すわ」
「理由だと?」
タウスはナフィルに応じて答えた。
タウスは今や防戦一方だった。
しかし、エイブスは手を抜いてはいない。それは中々の腕だと思わせた。
「俺は気付いただけだ。このまま黙って殺されてなどやるものか」
「何のことだ? 奴は何を言っている?」
ビジットが理解できないと、声を荒げた。
だが、状況はそれを待たなかった。
エイブスの一撃が、甲高い音を発してタウスの剣先を砕いた。
「馬鹿な」
突然の状況が理解できず、ビジットが呻く。
もう救えない。
ナフィルは、タウスとエイブスに言葉にせず心の中で詫びた。
魔術師が、人間に詫びることは無い。
それを承知したのは人間だ。傲慢ではない。相手の意思を尊重した。それが上位種としての、許される寛容さの限界だった。
「俺が得るはずだったものを、俺が得て何が悪い!」
それが、タウスの残した最後の言葉だった。
エイブスの剣は、タウスの左鎖骨を割って上半身を腹に達するほど深く叩き斬って、その役目を終えた。
静かだった。
物音一つしない。
生物の棲まない王都では、鳥の囀りさえ聞こえない。
そのタウスの傍に、少女がゆっくりと歩み寄る。
そして、無表情に見下ろした。
そのまま何をするわけでもない。ただ、じっと、そこに立って見下ろしている。
「・・・ナフィル様」
アスリンがそう呟いて、ナフィルの背後から腕に手を添える。
エイブスが、力任せに地面に剣を突き立てた。
血と脂が飛び散る。
深く深く息を吐き、そしてその場に胡坐をかいて座り込んだ。
「何てことだ。・・・何てことをしてくれたのだナフィル導師!」
ビジットの言い表させないその怒りが、ナフィルに向けられた。
「誰にだって、人を憎んだりすることはあるでしょう。誤解や行き違いもあるでしょう。ここではそれが、こうした悲劇や犠牲を引き起こすのです。安易に訪れた人間にも責任はあるはずです」
ビジットに向けられたミュエルの言葉は、しかしナフィルを気遣ったものだった。
しかし、そんな説明で納得しようものではない。
「これが当然と言うことか? こうなることが分かっていれば避けられたはずだ。知っていたのなら何故言わなかった! それとも、これが貴様たちの望むことだったのかっ!」
ミュエルが無言でナフィルを遮るようにビジットの前に進み出た。
「ビジットの言う通りよ」
ナフィルがかすれる様なしわがれた声で、そう答えた。
「こうした結果になったのも、・・・助けられなかったのも、私が魔術師だからよ。そして、こうなることはビジットにだって在った。エイブスにも、アスリンにも。ただ少し、ほんの少し、タウスは踏み込み過ぎた。言い訳はしないわ。ただし謝ることもね。それで恨まれても仕方ない。警告をしたとしても、こうした悲しくて辛いことを経験でもしない限り、分かってはくれないものよ」
ナフィルはいつに無く饒舌に語ると、庇うミュエルの肩を軽く叩いて、踵を返して建物に戻る。
ビジットは怒りの形相のまま、ナフィルを引き止めることが出来なかった。
自分にはそれ以上、ナフィルを責める権利は無かった。
書記官だった当時の自分が、ナフィルに重なる。
それだけに、怒りは激しかった。
怒りの矛先は、こうした事態になるという結果を見過ごした自分にも向けられていた。
アスリンが、複雑な表情をしてタウスを見詰めるエイブスに歩み寄った。
「エイブスさん」
そう声を掛けて、アスリンは言うべき言葉が見つけられず絶句した。
エイブスがどう思っているのか、今一体何を考えているのか、思いを巡らすと言葉など見つけようが無いのだ。
「どこかで、こうならないで済ますことが出来たはずだ」
エイブスはそうとだけ言った。
誰を責めれば良いのだろう?
そう出来れば楽だったろう。しかし、今、この王都にいる人間、たぶん魔術師も含めて、そう出来た無責任な者は一人としていなかった。
いや、こうなることを避けられたのではないかと、強く思っている人がいる。
この中で、そう出来た・・・本当にそう出来たかどうかは分からないが、そう出来るだけの力が一番あったと信じている人。
アスリンは、今頃ナフィルが深い悲しみと苦しみに暮れているだろうと思う。
恐らく、今、自分を苛んでいるに違いない。
傍に付いていてあげたかった。
でも、今自分のすべきことはそんなことじゃない。
「エイブスさん、望むことは人によって違います。私とエイブスさんが望むことも違います。私とエイブスさんが、ナフィル様に望むことも違います」
「・・・そうだな」
エイブスは、アスリンが何を言いたいのか分かった。
タウスにも望むことがあった。
それが、表に出せるものであったか、後ろめたいものであったか、今ではもう知る術は無い。
でも、誰しもあるその望みとは、自分勝手で、昏く陰湿で執着するものだ。
エイブスは、アスリンの願いや望みが、もっと純粋で綺麗なものだと思っていた。
しかし、アスリンが今言ったことは、自分の望みのためになら妥協を許さない決意のようなものを感じた。
そこに危うさは無い。それが逆に気に掛かった。
命の危険を顧みない、自己犠牲精神のようなものに陶酔しているのではないか。
そう思って、エイブスは苦笑いをした。
自分が、自分の望みのために、ナフィルを助けようと身を投げ出したらどうなのだろう?
それは、まさに今の自分ではないか。
生きていてこその望みなのに、ナフィルを失えばそれは叶わない。
そのためになら自分は失われても良いのか?
そう思った時、エイブスは、タウスがどうしてあのような行動に出たのかをそれとなく察した。
どんな望みがあったのかは分からない。
でも、きっと、タウスは自分の命を投げ出しても叶えたいものがあったに違いない。
「なぁ」
エイブスが立ち上がってアスリンに向かって声を掛けた。
「ナフィルの望みって、何だ?」
アスリンが、タウスの遺体の傍で立つ少女から目を離して振り向いた。
一瞬の間を置いて、アスリンは意を決したように口を開いた。
痛みは感じない。
先程はこれまで感じたことが無いくらい激しい痛みがあったが、それも過ぎてしまえばどうとでもなかった。
そう、どんな痛みも、どんな苦しみも、そして悲しみも、その最大の時を過ぎてしまえば大したことではない。
その代わりに、むなしさが残った。
それで得られなかったものがあった。いや、得たものがむなしさなのかもしれない。
失ったこと。護れなかったこと。与えられなかったこと。
それは別に求められたことではなかった。
だから、それを期待していなかったのかもしれない。
もう動かない視界に、少女の姿が入ってきた。
覗き込む、といった様子は無い。
無表情に見下ろしている。
しかし、タウスには分かっていた。
感情が無いのではない。抑圧されているだけだ。
その目には、確かに感情があった。
そしてそれは、タウスが期待したものだった。
そう見えただけ?
そんなことは無い。この少女が何を思っていたか、タウスは知っていた。
「どうしましょう?」
声が聞こえた。
それは、この少女の原型である、あのミュエルという女のものだ。
「これ以上は無理よ。ナフィルには辛いことでしょうけど処分してしまいなさい」
これは、あのユーリという魔女か。
「・・・そうですね。いずれにしても、そうしなければこの人間にとっても不本意なことになるでしょうから」
どういう意味なのか。頭の動きが鈍くて考えられない。
「・・・あの娘が望んでいます。処理させましょう」
そのミュエルの発言を受けて、見下ろす少女が歩み寄ってくる。
その手には、似つかわしくない無骨な短剣があった。
それがどんな意味を示すか、10才から傭兵として戦場を渡り歩いてきたタウスには容易に察することが出来た。
だが、それでもたらされる結果も、過ぎてしまえばどうでも良いことだろう。
少女が、よどみの無い動きで短剣を構える。
その瞳に、逡巡は無かった。しかし、感情が無いわけではなかった。
タウスは少女から目を離すことは無かった。
先程受けたほどの激しい痛みは、もう感じないだろう。
少女の瞳に映る自分が見える。
その時、少女の瞳にあった感情に変化があった。
結末は最悪だったが、むなしくは無かった。
少女の意志を感じ取った次の瞬間、タウスの意識は切れた。
「死、というものがどういうことなのか分からなかっただけだ」
アロームは、死霊を統べてそう答えた。
「アロームが魔術師となったのは偶然よ。そのきっかけが、あなたが自分の両親を殺したことなのね」
冷たい表情のユーリに、アロームは目を細めた。
アロームの目に宿る殺意は、益々増幅する様だった。
「殺すことに意味は無い。それで何が在るのか、何を得るのか、それが知りたかったのだ。父親を殺した時に得たのは、つまらない感情に流された、くだらない魔力の塊だけだった」
周囲に淀む、たった今殺した人間たちの魂を従えて、アロームがユーリを見据える。
「それですら使いこなせてないのね」
ユーリが右手人差し指を軽く振る。
王都に立ち込める魔力が、ユーリに従って律される。
アロームがかすかに戸惑った表情を見せた。
全ての死霊がユーリの支配下に移って、それは王都の巨大な魔力の一部となっていた。
「母親を殺して触れた魂に突き動かされた。それだけであれば変異種にしかなれないのに、どうして魔術師になれたのかしら? 私はそれが知りたいのよ。そこに、魔術師である可能性が生まれたのはどうしてなのか。アロームが死霊術師としてよりも、『闇を従えし魔神』として得た、『顕在せる能力』にね」
アロームが死霊への認識能力を得て、それが魔術師としての素質を生んだ。
しかし、そこには、何らかの意思が介在した。
それが僅かなものであったとしても、大した思惑が無くても、アロームが死者の王として顕在したことに変わりは無い。
「原初に触れて正気を保ったのは偶然ではないわ。何故なら、アロームはそれがどういったものであるのか知っていたから。死霊が得ただろうものを、アロームは全て得ることが出来た。魔術師として、と言うより、死霊をして魔術師に成さしめた」
「元々、この世界から外れていたと言いたいのか?」
ユーリは魔力を開放した。
そして敵対的ではないと、腕を広げて示した。
「死に対する恐怖はいつからあったの?」
ユーリの問いに、アロームは警戒感を解かず、
「気が付いたのは子供の頃だ。人が死ぬ。それを知った時、強烈に自分がこの世界から失われてしまうということに恐怖した。その時、この世界との境界を見たのだ。死者に別の世界がある。そう知った時、そこに答えがあるのではないかと思った。だが、俺が思っていたことはまやかしに過ぎなかった」
と、まるでユーリに対するもののように怒りをぶつけた。
「だから、求めたのね」
「そうだっ!」
怒りに顔を歪めて、アロームは吼えた。
ユーリは初めて、笑みを見せた。
それは会心の笑みだった。
「良いわ、ここで見つけると良いでしょう。アロームの望む答えを」
そう言うユーリを、アロームは奇妙なものでも見るかのように、気勢を削がれて眺めた。
その生じた怒りの理由が、この目の前の魔術師にあったのではないか?
アロームは当初から不愉快だった。
それは、この、目の前に居るモノに対する嫌悪感、つまり決して受け入れ難い、自身の存在に相反する存在に対する敵愾心ではないのか?
ユーリはそれを承知で、アロームのすることを認める、と言っていた。
アロームは、対しきれない無力さを思い知り、怒りで音がするほど強く歯を噛み締めた。
「・・・済んだわ」
「そう・・・駄目だったようね」
そう交わした言葉には、同じ魔術師としての共感が在った。
だが、思いはまるで違っていた。その向かう方向は逆。
「人間は死の概念からは逃れられないようね」
ユーリはため息混じりに、少し期待外れだというような言い方をした。
「ねぇ、どうして人は死ぬの?」
人間であったナフィルは、意識するとはなしに死というものを受け入れていた。
周りでは病気で死んでいく人は多かった。
同い年の子供でさえ死んでいった。
自分もいずれは死ぬ。それは嫌なことではあったが、どうしようもないのだと思っていた。
でも、自分が魔術師になった時、正確には、魔力抵抗と許容量の問題でリシュエス師に延命処置を施された時に、人間としての死の概念から解き放たれたナフィルは死というものを疑った。
人は必ずしも死ぬわけではない。
もっとも、永遠に、ではない。
それでも、人間とは比べものにならないほど、魔術師は長命だ。
不死というものに対しては、どれほど想像力をたくましくしてみたところで現実感は湧かなかったが、ただ、ナフィルように5年で1才しか年を取らないというような寿命の延長は、決して喜ばしいものではないということがすぐに分かった。
あの時は深く考えなかった。
喜びも無かった。後に人間よりも年を取るのが遅くなると聞いて、少しだけ優越感を感じたのは嘘ではない。
でも、周りはナフィルには合わせてはくれなかった。
自分の周りにいた人たちは、当たり前のように年を取っていく。
自分は魔術師だと思い詰めたのは、その辺りに大きな理由があったのだ。
「それはね、この世界の絶対の理、『時間』のせいよ」
当たり前のことを、さも作為的であるかのように言うユーリ。
「時間?」
ナフィルは訝しげに問う。
ユーリは面白くもなさそうな表情のまま、
「そう、時間。この時間に干渉することは、神でさえ出来ないの。どんなものにだって時間は流れる。いえ、時間が流れるからこの世界がある。生まれることも成長することもそう。そして、時間と共に使われれば消耗する。そして無くなる。つまり『死』ね」
ユーリがナフィルを見つめる。
「なら、その『時間』は誰が作ったのよ?」
気圧されるのを悟られないように、強気に聞き返す。
「原初の混沌は、混沌渦と言う様に動きのあるものよ。これが動いたからこそ、世界と神々は生み出された。混沌の渦を動かしたのは時間。つまり、この世界も私たちも、時間があって初めて存在できるの。時間はそれだけでは観測できない。ナフィルが子供から大人に成長することで、時間という理の影響を受けているのが分かる。時間によって縛られる存在は全て死ぬ。逆に、時間が無ければ、何も存在しない。そうでしょ? だって、何も無いものから何かが生み出されることは無いもの」
ナフィルは反射的に、心の内を見せないように取り繕って、
「なら、混沌の渦を作ったのは時間なの?」
と聞いた。
時間が創られた。
まるで想像の出来ないことだ。
しかしユーリは、
「水の入ったカップを傾けたら、水はカップに留まり続けるのかしら?」
と言って冷笑した。
想像が虚無に陥りそうな感覚を覚えて、ナフィルは慌てて頭を振った。
今、自分が現実に居る感覚を失いかけた。
「さて、誰が動かしたのかしらね。ともかく、動き出したこの時間は止められないのよ」
そう言って優しく笑った。
先程までの印象は無い。
それは正しく、神のようであった。
不可解なことも、納得のし難いことも、全て悟ったこれが超越者の姿なのだろうか?
もしこれが魔術師なのだとしたら、ナフィルは自分には無理だと思った。
思って、自分がどこかでそれを認めていた。
魔術師であることを捨てられない。
無知なことがどれほど幸せなことだったか、ナフィルは決定的な絶望感に満たされて、身を持って知ったのだった。
「ナフィルに一つ、間近な目標をあげましょう」
ユーリは表情を切り替えた。
ナフィルも余計な思考を止め、ユーリに合わせる。
「アルサレート実験場に行きなさい。王国末期、あそこでは人間を強引に魔術師にする実験が行われていた。もう高位魔術に対する理解や技術が得がたいものになって、魔術師は手当たり次第に様々な実験を行った。それは一部で禁忌にも触れ、世界への損失さえ与えかねなかった。巡察官が送られたのだけど、末期の混乱でここが封印されたということしか分かっていないのよ。ナフィルには願ったり叶ったりじゃないかしら?」
聞き覚えの無い名前に、ナフィルが怪訝な顔をする。
ユーリは少し頬を緩め、
「今は、トレビスと言う国にある、アデレーの森にあるわ。その森全域に広がる、現実に在る巨大で人工的な混沌とも言うべき実験場。その打ち捨てられるべきものにこそ、ナフィルにとって必要なものがあると思うわ」
何を言わんとしているのか、量りかねはしたが何となく分かった。
分かったので、ナフィルは不愉快な顔をして言い切った。
「私に似つかわしい所なのね? 良いわ、行きましょう」
ユーリは心底、慈しみを込めた笑みをした。
ナフィルのためと称して苦しめる。
一方で、嫌がらせのように助けもする。
こんな相手を苦手としない人は居ないだろう。
だが、とにもかくにも、ナフィル自身にとっては好きも嫌いも無く、必要なことに違いなかった。
それよりも何よりも、
アスリンが聞いたらどう思うだろう?
と、ナフィルは自分以上にトレビスへの思い入れを持つアスリンを思って、その感情は複雑だった。
中央広場で、腰に軽く左手を当てて立つユーリと、腕組みをするナフィルが対峙する。
ナフィルの少し離れた背後には、厳しい顔をして立つアスリンとエイブス。その二人に護られるように、ビジットが睨みを利かしている。
一方、ユーリの背後には寂しげな沈んだ顔をしたミュエルが立っていた。
そして、ユーリは飄々とした爽やかで不敵な笑みをして、
「ではまた会いましょう」
と、
ナフィルは面白くもないといった不貞腐れたような憮然とした顔で、
「出来ればごめん被りたいわね」
と言って、二人は決別した。
ナフィルが一瞬だけユーリの背後に目を止めると、すぐ踵を返して歩み去る。
3人の間を通り過ぎると、三人は三様の表情をして、ナフィルに従って背を向けた。
中央ゲートに達すると、4人は並んでこちらを向いた。
そして、
「管理者ユリエルシア・アークシオンの権限において、承認せる魔術師ナフィル・ウォンバートがゲートを限定開放する」
と言うナフィルの命令を受け、ゲートが稼動状態に入った。
1回限りの一方向への瞬間転送をその直後に行って、律された王都の魔力が開放される。
「本当に一緒に行かなくて良いの?」
ユーリが悪戯っぽく笑って、ミュエルに問うた。
ミュエルは気落ち気味の瞼を引き上げて、目をしっかりと見開いて意志の強そうなところを見せた。
そう。手にしたものは、待ち望んでいたとてもいとおしくて暖かい、今までであれば感じたことの無い未知の希望。
「必要な知識を得てから追いかけます。それで良いと仰ってくれました。例え望みが薄くても、これが私にとっての希望であれば、それに全力を尽くすのみです」
そのミュエルの言い様に、ユーリは益々含みのある笑顔をして言葉を返す。
「あなたが、もし神樹とナフィルとを計りに掛けなくてはいけなくなった時、どちらを選ぶのかしら?」
その問いに一瞬戸惑いの表情を見せたが、
「答えるまでもありません」
と即答した。
それをユーリは、あくまでも神樹に従う、という意思表示に一応は取った。そういう表情をした。
ミュエルは、その表情からユーリがそう取ったのだろうという事を確認して、自身の表情を引き締めた。
ユーリは内心の笑いをこらえて、
「そうならないと良いわね」
などと言ってみせる。
しかし、ミュエルはそれに応じることは無かった。
図書館でナフィルに必要な知識と魔術を得て、すぐ後を追おう。
それだけを考えていた。
自分が求め、そして相手が求めている。
そのことに、ミュエルは言い様のない自身の存在感を強く感じていた。
それは、神樹の端末としての一方的なものとは明らかに違っていた。
その目的に対する強い自信と冷徹さは、今では何故そう思っていたのか不思議に思うほど無くなっていた。
そしてミュエルは初めて、この王都の魔力に異質なものがあるのを感じたのだった。
ナフィルたち一向は、広いホールの8本の柱に囲まれた転移と空間固定の二重魔法陣の中に立っていた。
「どこだ、ここは?」
ホールを見渡しても、何も無いどころか出入り口すらない。
「ポルカッタの地下、かしら? ちょっと待って」
ナフィルは杖を魔法陣を構成する方陣の一角に当てた。
「転移陣が停止してる。多分、私の指示を待ってるのでしょ」
そう言った後、
「現される幻想、移ろわせる現実、この与えられたる力、指し示したるものを映し出さん」
と言いながら、杖で床を突く。
目の前に遠くから眺めやったかのような街の全景が現れる。
人が行きかっている様子や街の様子から、昼時のポルカッタと知れた。
「この周辺の風景を映してるわ。・・・うん、ポルカッタに間違いないわね。では人に気付かれないところに跳びましょう。ここは具体的な転移位置を決める仮の固定空間なのね」
ナフィルはそう言うと場所を模索し始めた。
「見られては不味いなら、代官府の管理する保護林にすると良い。あそこは非常時に避難や軍の駐屯に使われるところだ。勝手に人が入れるところではないし、役人は放ったらかしで誰かに見られる心配も無い」
ビジットはそう言って、少し警戒をしながら幻影の風景の一角を指差した。
「少し離れるな。城壁内ではあるが・・・」
「でも、ここなら確かに見られる心配は無いですね」
アスリンがそこから離れたところに居る人間を指して言う。
羊を放しているようだ。林の周辺で見える人影はその一人だけで、そこから姿を認めるには難しい距離がある。
「じゃ、そこにしましょう」
ナフィルは杖の先に光を灯すと、その示された林の中心辺りに杖の頭を当てた。
その瞬間、自分たちの周囲が緑に包まれ、4人は林間に立っていた。
強烈な土と緑の臭いがする。
だが、とても懐かしい感じがした。
「帰ってきたのか?」
安堵と疑惑の混じったビジットの言葉に、ナフィルは沈んだ表情に口元を歪ませて薄く笑った。
「の、ようだな」
ため息にも似た安堵の一息をついて、エイブスが確証を与えた。
林を抜けると、開けた草原に確かに数頭の羊と羊飼いが居た。
こちらに気付いた様子は無い。
そちらの方向を避け、4人は敢えて歩き辛い林の中を通って、大通りの外れにある見知った教会脇に出た。
まだお昼前のようで、大通りは客足よりも準備で賑わっている感じだった。
「さて、では俺は事務所に今回の件を報告してくる」
エイブスは、異界を抜け出て来て、ともすれば気が抜けてしまいそうな虚脱感を振り払うように言った。
安心感からか、はたまた現実を認識できずに呆けてしまうのか、みんなの反応も余り早くは無い。
「タウスの件は少々厄介なことになりそうだが、ここの傭兵事務所には古い仲間の伝があるから、そっちは任せておいてくれ。ただ、学術院の方は・・・」
「そっちは良いわ。エイブの考えるとおり、学院が裏にあるに違いないし」
とナフィルは言って、ビジットと向き合う。
「で、どうするつもり?」
無関心を装って言い放つ。
聞き様によっては、口封じを匂わせているように思える。
しかし、アスリンはそれを脅しとは捉えなかった。
恐らく、心配をしてのことだろう。
しかし、
「私は代官府で報告の後、国に戻ることになろう。他言はせぬが、報告はありのまませねばなるまい。信じるかどうかは分からないがな」
ビジットはそう言って、別れも告げずに背を向けた。
「上手く立ち回れるかな? どちらにせよ立場が良くなろうはずはないが」
エイブスがビジットを評して、そう心配した。
「決められたものの中で生きていくのならそうするしかないわ」
ナフィルはそう言って、アスリンを見る。
その目には逡巡が見て取れた。
そのことに、アスリンはちょっとだけ気が晴れて愉快な気分になって、ナフィルに早々の帰宅を促したのだった。
観光を終えて
戻ってから数日、ナフィルは学術院に泊り込みで、王都に関する報告と、経緯の説明に忙殺された。
エイブスはナフィルたちが戻った翌日には追いついて様子を見に来てくれたが、アスリンからの話を聞いて、専門外だと言って諦めるようにアスリンを諭した。
だからと言って、アスリンが心穏やかに待ち続けて居られる訳が無い。
アスリンは毎日面会を求め学術院に通っていたが、会えずじまいの日が続いていた。
もっとも、ナフィルは別に監禁などをされているわけではなく、また邪険に扱われているわけでもない。
単純に忙しいのだが、当然それは学術院の求めに応じざるを得ないからであって、アスリンは心配でならなかった。
ナフィルが学術院に行く前に、トレビス行きをアスリンに打ち明けた。
そして、面倒な事は全て片付けていく、と言っていた。
アスリンは、何も手伝えない自分に苛立ちを覚え、ただ待つしかない自分をなじった。
受付の、魔術が何で在るのか良く分かりもしない女性から、本人からと言ってナフィルの手書きのメモを渡されたのが前日の事。
ようやく7日目になって、一旦自宅に戻るというナフィルを迎えに、アスリンは慣れた足取りで事務棟の通用扉から中へと入った。
警備の中年男性と受付の女性がアスリンを咎める事は無い。
武装をしていないアスリンは、ナフィルの侍女と思われていた。
それはアスリンがナフィルと共に報告に訪れた際、同行を断わられて一悶着あったことでそう認識されてしまったからだ。
お陰で、訪れても忠誠心溢れる侍女くらいにしか思われず、会えはしなかったが様子などを聞けるようになっていた。
この時も、入るなり受付の女性がアスリンの姿を認めると、微笑みと共に目配せをした。
事務棟の、研究棟との連絡通路からその一団が現れたのと丁度出くわしたのだ。
その中に、一際小さい姿が見える。
小さくて童顔な少女が一人、老人に囲まれている様は何とも異様だ。
しかも、その中に3賢者と言われる学術院の最高権威が一堂に会していることに、アスリンは驚いた。
その少女、ナフィルがこちらに気付いて、僅かにほほを緩めた。
「では迎えが来てますので。ルテナン導師、あれで最後ですから、それでお願いしますよ?」
堅実を言い表したような老人が、目を瞑って少し考えた後、渋々と分かったと答えた。
ナフィルとアスリンは目で確認しあうと、二人は皆に挨拶だけをして、無言で建物を出た。
そして学術院の正門を出ると真っ先に、
「何かされはしませんでしたか?」
とアスリンは質した。
ナフィルは面食らって目を瞬かせた後、悪戯っぽく微笑む。
「私に何が出来るって言うの? 私にでさえ魔力干渉を妨げられる程度の連中よ? 後々面倒にならないよう、事前に取り決めたことに応えただけよ」
そうアスリンには言った。
しかし、事はそう簡単なことでもなかった。
今回の件では、これまでの見解が改められるような目新しい事実は無かった、と言うのが学術院の結論だった。
無論、全ての事を報告したわけではない。
隠したつもりも無いが、魔術師にしか理解出来ない事を、いくら口で説明しても伝えきれるものでもない。
むしろこの事から、学術院にもいくつかの意思、分かりやすく言い換えれば、いくつかある見解に伴う行動的意思の存在、があることがはっきりとした。
これまでも、好意、非好意、敵対、無関心といった意識に伴って、それぞれに積極的消極的といった意思が介在していた。
そういったものの中から、一部の表立って現われてはいない意思が、例えばタウスのような存在を生み出していただろうことは想像に難くない。
ただ、それがどの程度か、どの程度に深刻なのか、計りかねた。
少なくとも、この数日はそうした兆候は感じられなかったし、こちらの誘いかけにもそれを感じさせる仕草は見受けられなかった。
「これでトレビスへ行く障害は無くなったわね」
ナフィルは自身の思惑を秘めたまま、結論だけを言った。
「報告はもう宜しいのですか?」
アスリンは、学術院の拘束から逃れられたと言う意味で、ナフィルに問うた。
「要はある程度納得させれば良いわけよ。管理者の存在は現実における禁忌でもあるわけだし、いずれにしても彼らに手出しは出来ないわ。確かめようが無いものを疑ったって得るものは無い。学術院としては、このまま私が繋がりを保ち、調査に協力する代わりに報告を求める、というのが理想なのよ」
ナフィルの説明に、アスリンは感心したように頷いて納得したようだった。
もっとも、ナフィルは嘱託としての要請を断わったことまでは言わなかった。
会話が途切れて、しばらく無言で歩く。
今日の夕ご飯は何にしましょうか、と聞こうとしてアスリンが口を開きかけた時、
「ねぇアスリン」
とナフィルの問い掛けを背後で聞いた。
隣で並んで歩いていたと思ったアスリンは、振り返るようにしてナフィルを見る。
ナフィルは立ち止まっていた。
「こんな言い方は卑怯だと思うけど、あなたは何が望みなの?」
周囲に人はいなかった。
アスリンは、自分がナフィルの結界下にいるような感じがした。
もちろん、ただ二人っきりであるだけなのだが、これに似たようなこと、ナフィルの従者になりたくて訪れた際に受けた審判の時のような、自分の存在意義を問われるような重要な場面であると、アスリンは察した。
緊張からつばを飲み込んで、アスリンは一呼吸をしてから、
「私はナフィル様のお手伝いがしたいのです。これは望みではなく、私の居場所だと思っています。そんな特権が、私と私が受け継いだものにはあると思ってます」
と言った。
それは、しかし全く自分の意思とは言い切れない。
「分かったはずよ? 私は特別でもなんでもない。魔術師としてなら恐らく程度は最低。私に従うなんて事に、高尚な使命などありはしない。あなたが固執するのは、魅惑的なお伽話と、過去の私よ」
ナフィルは苛立っているように見えた。
理由が分からないようにも見受けられる。それは、アスリンの望みに応えようとするナフィルの相反する気持ちだろう。
自分に分かるのだからナフィルにも分かっていそうなのに、感情では割り切れない強いものが、ナフィルの問い掛けにはあった。
「そんな人間が一人くらい居たって良いと思いませんか? ナフィル様は魔術師です。であれば尚更です」
以前にも確かに言った事を、アスリンは再び言った。
あの時とは当然、その意味も重みも違っているはずだ。
これは本人の意思。それがナフィルの判断基準であり、逃げ道でもあった。
もっとも、これも以前とは違う。
それは逃げ道なのではなく、元から用意されている魔術師の思考の一つに過ぎない。
「私の工房に行きましょう」
どんな感情で自分がそう言ったのか、ナフィルには分からなかった。
諦め半分、そして期待半分、と言ったところだろうか?
それは、いつか訪れる悲しさを伴った、暖かな存在を確証とする嬉しさ、であった。
初めに見た光景は、非常に狭い青白い光に包まれた部屋。
「伴うは愛すべき隣人〜。我の元に従いて成さざるもの〜」
ナフィルはリズミカルにそんな鼻歌のような言葉を言いながら目の前の扉を開く。
「何ですか、それは?」
「何なのかしらね」
ナフィルは苦笑しながら、雑然とした部屋へと進み出た。
部屋の中は、あらゆる道具が置かれ、積まれた本がいくつもの山を成していた。
うわ〜っと、思わず自然に口をついて出た。
「たまにね、整理をしに来てくれるのよ。だから別に良いのよ」
ナフィルは変な言い訳をしながら奥へと進む。
反対側にある扉を開く。
そして出た通路を迷いも無く右手に向かって歩き始めた。
アスリンは、何の飾りっ毛もない整然とした石造りの通路を歩きながら、感嘆として周囲を眺めた。
こんなに綺麗に造られているのに、全く暖かさを感じられない。
商人の家に生まれたアスリンは、造られる物には造った者の考えが反映されているものだという認識がある。
勿論、魔術師の造る物にも、意匠を凝らしたものは多い。
しかし、時折このように、そうした印象や感想を全く拒絶する、単一的な思考で定められたものがあった。
当然人間が作ったものにだって、そうした目的のためだけに作られたものはある。
だが、その奇妙なまでの純粋さは、アスリンには、いや他の人間から見ても、違和感を感じるだろう。
この落ち着かなさは、多分きっと、虚飾を取り払った真実を目にしているからだ。
そこに魔術師としての思考があるのだと思う。
王都での一件以来、アスリンは自分の中に、感情とは別の不明瞭な認識がある事を意識していた。
それはもっと以前からあった。
正しいと思いながら、どこかで本当に正しいのか、と言った疑問を感じることがある。
でもこれは、正しいと思いながら、間違っているという明確な意識。
それはあり得ない事だ。
行動する時に、それと相反する意識でなんて行動できるはずがない。
それは自身に対する裏切りであり、自己の存在を否定するものだ。
目の前を歩くナフィルが突然立ち止まる。
そこは通路の末端にある扉。
通路に比べると過剰とも思える意匠が凝らされた扉で、不釣合いに浮いた印象を受ける。
「ウォンバート家の、ウェイス、リシュエスの血を受けし者。シルクスにおける契約継承者。我の理に従う者、アスリン・セイレースなる者、許可を得て求めし定められたる者、血の連なる者、伴わせし我がナフィル・ウォンバートの名をもて、この偽らざる秩序に制して抗わざぬことを誓約する」
お祈りでもするように、ナフィルは扉に向かって訴えかける。
扉の向こうの風景が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
その扉は消えたわけではなく、うっすらとまるで陽炎のようにそこにあった。
「さ、入って」
ナフィルはそれを通り抜けて中へと入る。
アスリンはまず触れてみようと手を伸ばすが、感触も温度も感じる事は無く、手がその幻を通り抜けた。
「早く入りなさい。この結界を一時的に制限しているだけだから、稼動すれば命が無いわよ」
そう言われて、後ろから誰かに押し出されるように部屋の中へと入った。
その部屋には、隅に雑然と本や道具が置かれていたが、先程の部屋に比べればさほどの量ではない。
それよりも気に掛かるのは、中央に描かれた少々いびつな円。
「じゃ、円の真ん中に立って」
ナフィルの言われるまま、アスリンは円の中心に立つ。
なにやら気恥ずかしいというか、何か場違いな気がして、手をすり合わせてあらぬところを見る。
「そのまま立っていて。いくわよ?」
言い放つ苛立ったような言い方に、何かに身構えるようにアスリンは背筋を伸ばす。
ナフィルに話し掛けようとして、アスリンは思い止まった。
淡々とこなすナフィルは、忙しそうに見えて話し掛けるのがはばかられた。
いや、
嫌がってますね、これは
アスリンはナフィルを見て悟った。
嫌なことはさっさと済ます。
あの顔は感情を表情に出すまいとして、少し強張って虚勢を張って耐えている、まるで子供がむくれている様な感じがした。
ナフィルは、腰の意匠を凝らした短剣を引き抜くと、おもむろに左手人差し指を刺した。
その一瞬だけ、たぶん痛みだろう目を細めたが、表情に変わりはない。
血が、指を伝い、手のひらを流れて、床へと落ちた。
パタパタと。
その量が少し多い感じがして、アスリンの顔に心配と焦燥が見て取れた。
「すぐ止まるわ。それよりも気を落ち着かせて」
そう言った後、意味の分からない言葉を発し、手を払った。
血が飛び散る。その血が、床に触れるとじゅっという音と共に蒸発する。
滴った血が流れて円に触れると、円が薄い赤い輝きを放った。
輝きは綺麗な円を描き、完全な魔法陣となってアスリンを囲んだ。
「受け入れよ。全てに成す理から、与えられしこの成さざる者。我の求める僅かなるものに触れよ。その力を得よ。その力を抗えよ。我が成す契約とその理において、この者、全てを律する理から解放せん」
空気を冷たく感じる。
空気が冷えているのではなく、今初めて空気の存在を感じているような、妙に新鮮な感じだった。
赤い輝きは一瞬強くすると、徐々に弱まって消えていった。
「終わったわ。これでアスリンは魔力への耐性が付いた。魔剣を使っても悪い影響が出ないわ」
半永続的な魔力耐性は、自身の魔術行使、強力な魔力干渉をも妨げてしまう。
魔術師向きのものではなく、元は実験用に耐性を付ける魔術である。
それを聞いてアスリンは驚いて戸惑った。
「従者契約じゃないんですか?」
ナフィルは驚いた顔をした後、引きつった笑みをして
「従者なんかにしたら、アスリンはもう二度と人間として生きていけなくなるわ。それに、私には従者を持つ資格が無いのよ」
と言った。
言いながら、表情が悲痛な顔になる。
アスリンは、それ以上問い詰めることが出来なかった。
そこには、自分の先達たちがどのような運命を辿ったかが現されていた。
しかしアスリンは、従者となることと、従者にならないこととの対極にある思考には、明確な差があった。
それは全く単一的に、アスリンの人生や感情に影響されない、自分自身としての存在を確定する立場であって、自分の意思以上に尊重されるものがある事を意識していた。
そして、それは、必ずしも正しいことではなく、善いことでもないのだ。
使命感という切迫さは無い。
アスリンはいずれたどり着くであろう事を確信した。
あの、ミュエルと言う少女に対抗できるだけの意思を、対等に居られる自信を、アスリンは強い確信で持ち得ることができるだろう。
ナフィルは部屋の片隅に立て掛けられているいくつかの武具のうち、あまり飾り栄えのしない長剣を一振りを持ってきた。
「これはね、私の魔術にも干渉できるレヴァイエットの死霊を統べる氷剣。代償を伴う影響が無いし、私の支援魔法具としても使えるからアスリンが使うには丁度良いわ。軽くて扱いやすいわよ」
私も少し使っていたし、と付け加えて試すように促した。
アスリンの持つ剣よりも刃幅が広く、少し長い気がした。
しかし、持ってみると見た目よりも軽い。
そして、新しいものに対する拒否感のようなものが無い。
まるで以前にも手にしたような感覚。
「この剣はね、人に対するよりも魔力に頼る存在にこそ効果があるの。私の衝撃に対する防御や魔力抵抗に干渉して、容易に傷つけられるくらい」
そう言って人差し指と親指で刃を掴むと、ナフィルは自分に切っ先を向けた。
アスリンは眉根を寄せて
「危ないじゃないですか」
と言って抗議した。
その意図が判ったような気がして慌てて振り払うように頭を振る。
ナフィルは温度を失った微笑みをして、杖を取りに部屋の片隅へと戻っていく。
・・・答えまで後一歩。
何かのきっかけを掴んだ気がして、アスリンは刀身を見つめた。
「外を見てみる?」
ナフィルが不意にそう言った。
答えを待つまでも無くナフィルは部屋を出ると、先程の部屋のこちらとは逆の通路へ向かってしばらく歩き、円形のホールに出た。
扉が二つあり、そのひとつが玄関のようだった。
扉に杖を当て、何事かを呟く。
内側に付けるにしては大仰な閂が、ゆっくりと動いて外れる。
そして少し手前に引き、横にずれるように開いた。
向こう側は外の明かりが差し込む土がむき出しとなった通路。
そこを少し屈むように抜けて、光の中に出た。
山の中腹にぽっかりと開いた穴。
眼下には砂浜と、山裾に僅かに森が張り付いて見えた。
そして見渡す限りの海。
「ここは一体どこなんですか?」
全周が見えるわけではないが、島のようである。
じっとりとした暑さと、濃い緑が映える植生は、アスリンの知識には無いものだった。
だが、
「私にも分からない」
そう言ってナフィルは笑った。
恥ずかしげでもあり、突き放したように明るい破願した顔を、見た目の年相応の屈託の無い笑顔を、アスリンは初めて見た。
その時、何かの答えを得た気がした。
何の、かは分からない。
アスリンは、ナフィルに友人と呼べる対等な相手が求められていたのではないか、と仮定する。
そこには、壮大な計画があったように思われた。
子供の頃から、魔術師になった少女の事を話して聞かされてきた。
お伽話のようでやたら具体的だったその話に、作為的なものが無かっただろうか?
亡くなる直前に会った祖母の姉は名をフェルデと言い、自らナフィルの4人目の近侍だと名乗った。
護衛であり給仕であり、そして従者でもあったという。
アスリンから数えて5代前にあたる、エリンと言う女性から受け継がれてきた、それは魔術師ナフィルの支援者の系譜。
その理想とする目的が、友人と呼べる対等な相手だったとすれば、その想いは何て深くて大きいものだろう。
主従と言う関係ではない、血縁関係を持たない近親者。
ナフィルの言う身内という認識ではないその立場は、ある意味で一番ナフィルには得難かったもの。
何故なら、ナフィルの夫であった人は、ナフィルが魔術師であったがために命を落とした。
ナフィルの子は、老化しないナフィルをおいて、ナフィルを超えて老化をしたし、人間として普通に病によって死んでいった。
その目的を、自分が達し得たのかは、自分に分かりはしない。
ただ、アスリンがそれを確かに受け継いだのだという自覚はあった。
そして納得した。
自分の意思だろうが意思で無かろうが、それはさほどの重要性もないと言う事だ。
− あなたは何が望みなの? −
その、元になったものにはもはや意味は無い。
求められるものがあった。
それに応えられるかどうかは分からない。
何故なら、求められるものは多かったし、相反したものもあるはずだった。
アスリンもナフィルと一緒に笑った。
今までのナフィルの傍に居た人たちとは違うかもしれない。
でも、アスリンはアスリンとしての自分の意味と答えを得た、清々しさを感じていた。
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かつての魔法王国期の王都を訪れる魔術師のお話。