No.527949

ドナリィンの恋 下

ドナリィンを追ってフィリピンへ行った佑麻。カルチャーショックと想像を絶する体験に見舞われながらも、ドナリィンや様々な人々の力を借りて、自分の将来を見出していく佑麻。しかし、ドナと自分の将来は、日本にあるのか、フィリピンにあるのか。ふたりの出した結論とは…。

2013-01-05 05:46:48 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:585   閲覧ユーザー数:585

 なぜかボロボロになった佑麻が現れ、泣きながらドナにしがみついてくる。ドナは驚いて、そこで目が覚めた。睡眠不足がたたったのか、現場研修での休憩時間にうたた寝をしてしまったようだ。しかし彼が夢に出てくるなんて珍しい。妙な胸騒ぎを感じた。日本の佑麻に何事か起きたのだろうか。

 

 帰りのデルタ航空の電子チケットを確認した。帰りはオープンチケットになっている。滞在ビザは、現地で何とか延長できるだろう。機内のエコノミー席のシートベルトを外し、佑麻はニノイ・アキノ国際空港 第一ターミナルに降り立った。飛行機から出た時の熱気。今まで出会ったことないような香り。どう聞いても理解できそうもない早口のタガログ語。こちらから用がないのに話しかけてくるすべての人が、悪意を持っていそうな気がして、もう成田空港での元気を失っていた。今更ながらドナが日本でどんな思いをしていたのかが察せられる。初めて会った夜の出来事も、今まで佑麻が思っていた以上にドナには恐ろしい体験だったに違いない。

 空港出口の喧騒は、想像を絶する。到着した人々が大きな荷物をかかえ、何を待っているのかたむろしている。到着客を待つ大勢の人が駐車場の鉄格子の間から手を伸ばし、大きな声で叫んでいる。佑麻は犍陀多(カンダタ)になって蜘蛛の糸にぶら下がり、足下の地獄を眺めるような気分に浸っていた。あの鉄格子から外が下界という事になるのだが、どうやったら街へ出ていけるのだ。それにしてもこの案内の悪さは何だ。少なくともここは国際空港だろうに。ところでこれから自分はどこに行くのだっけ。まさか日本にいるドナの叔父に彼女の住まいを聞くわけにはいかなかった。そうだ、ドナの大学だ。彼女が日本滞在中に何度か耳にした大学の名前。ドナにたどり着くための情報は、心細いことにそれだけだった。

 空港でクーポンタクシーなるものを、何とか英語で聞き出し、受付カウンターで大学の名前が書かれたメモを渡す。あてがわれたタクシーの車内に落ち着いたはいいが、ラジオから流れる現地のFM局のDJのおしゃべりと歌が、聞きなれないタガログ語なのでどうも耳障りだ。さらにタクシーのドライバーはけたたましくクラクションを連発させて運転する。日本人の佑麻はクラクションを『どけ!』と解釈し鳴らす者の運転を不快に感じるが、フィリピンのそれは安全確保のための『俺はここにいるぞ!』を意味する大切なものだ。滞在1時間目の佑麻にそんなことがわかるはずもない。車道に溢れた車の群れは、割り込むがままに先を進む。他の車に道を譲るとかいう感性はどこを見ても見当たらない。歩行者も横断歩道のない車道を、走りぬける車をぎりぎりですり抜けながら平気で横断する。これでは3分おきに事故が起きて当たり前の状況なのだが、不思議なバランスで交通機能が保たれている。

 1時間ほど乗ってビルの前で降ろされた。これが大学なのか?ただの古ぼけたビルだ。ここ迄で1日が終わろうとしていたので、何か食事をして宿を探そうかとあたりをうろついた。どこでも英語が通じると思ったが大きな勘違いだった。看板を見てかろうじて飲食店だとわかるものの、何をどう頼んでいいか分からない。それにハエが飛ぶ店先に並んでいる惣菜は、この暑いのにもかかわらず冷ケースにも入っておらず、食べたらお腹を壊しそうだ。仕方ないので今夜は晩飯を抜くことにし、宿探しへ。いい宿を探すのに熱心だったのが仇となり、少し路地に入ったところで早速ホールドアップに遭遇。本物かどうか知らないが、佑麻は拳銃なるものを初めて見た。その銃口を突きつけられると、足が竦み抵抗なんて絶対無理だ。かろうじてパスポートは死守したものの、iPad、スマートフォン、電子機器、財布、時計を盗られ、最後に腹にパンチを一発食らって地面をのたうちまわった。ようやく体が動けるようになると、よろける足で大学まで戻りへたり込む。

 到着後数時間でもはやこれか。これがマニラか。これはもうロマンスではなくサバイバルだ。感動の再会どころではない。ドナを見つけられるかどうかは、自分の生死に関わってくる。佑麻は、体のあちこちを蚊に刺されながらコンクリートの上に横になり、夜空を見上げた。都市部の夜空には珍しく満天の星と月が望める。佑麻はドナとのブドウ園でみた月を思い出す。あの時の月に比べれば、赤く妖しく燃えるような月だ。彼女が見に来たらと言わなかった理由のひとつが理解できたような気がした。佑麻の頭に、後悔という文字がちらつき始めた。

 

 夢の中で佑麻に会った日以来続く胸騒ぎは、今も続いている。しかし、そんな胸騒ぎの理由を落ち着いて考えている暇もなく、ドナは現場研修で忙しい日々を過ごしていた。今日も早朝から研修現場へ直行し実習をこなしたが、その後はゼミの打ち合わせで久しぶりに大学に出向かなければならない。向かう道すがら、ドナは不思議な感覚を覚えた。大学に近づくにしたがい胸騒ぎが大きくなるのだ。見ると、大学の門の前に大きな人溜まりができている。ドナも好奇心が湧いて人溜まりに近づいていった。すると何人かがドナの到来に気づき、自然と彼女の前の人垣が分かれ、モーゼが神の力で開いたような道ができたのだ。人々はひと言も発せずただニヤニヤしながらドナを見守っている。ドナは奇妙だと思いながらも前へ進んだ。そして輪の中心に男がいることに気づく。男が座る足元には『I'm looking for Donnalyn Estrada』と描かれていた。

 この男は何日間ここに座っていたんだろう。髪はボサボサで、Tシャツも泥だらけだ。男はゆっくりと顔を上げた。ドナにとっては奇跡を見た衝撃だった。あの佑麻がここにいた。佑麻は目の前にいるのがドナだと解るとよろけながら立ち上がり、目を潤ませた。佑麻を除いてここにいあわせた全ての人々は、この涙をドナとの再会を喜ぶ涙と解釈したが、実際は要救助者が死の瀬戸際に救助ヘリコプターを発見して、思わずこぼれた涙と考えた方が正しい。弱っているとは言え周りの女子大生からしてみれば興味が尽きない長身色白のPogi(イケメン男)。その佑麻が目を潤ませてドナにしがみつこうとすると、周りの女子大生が一斉にはやし立てた。あの日本での創立記念パーティーと立場が逆の状況だ。しかしドナは毅然として、佑麻に背を向けずしっかりと彼を抱き支える。勇敢にもこの男は、遠き日本からひとりで私に会いにやってきたのだ。先日からの胸騒ぎは、実は再会の喜びの予感であったことを、ドナは心から神様に感謝するのだった。

 

 大学の近くの小さな食堂で、ドナは佑麻が3杯目のタプシログ(牛肉の甘みフライ&チャーハン&玉子)をたいらげるのを眺めていた。さっきから彼女は、本物の彼が目の前にいるという喜びで、こころが震えていた。彼に飛びつきたいほど嬉しいのだが、彼に悟られないように自分を押さえていた。佑麻は、口にタプシログを掻き込みながら、到着してドナに会うまでの悲惨な3日間を話したが、ここに来た理由をまだ聞いていない。

「ところで、何しにここへ来たの?」佑麻はスプーンの手を止めて、ストレートな質問をするドナをまじまじと見た。命を救ってくれたから文句も言えないけれど、そんな質問の前に再会のよろこびの言葉とか言うことがあるだろうに。

「大学の課題だよ。実践教育プログラムなんだ。」。

「ふーん?」

「『世界の都市から日本を考える』という課題で、自分はマニラの担当に割り振られてしまったから、仕方なくここにやってきたわけさ。」

 相変わらず佑麻は嘘が下手だなと、ドナは心の中でクスリと笑った。

「それで、一文無しでこれからどうするの?」

「…ドナの家にしばらく泊めてもらえないかな?」ドナは彼にわからないように小さなガッツポーズをする。

「それでどれくらい居るつもり?」

「2カ月程度になると思うんだけど…。」ドナの心の中で歓喜の拍手が鳴り響いた。

「マムに頼んであげてもいいけど、うちのマムは厳しいわよ。何もしないで遊んでいるだけだったら家に入れてもらえないと思う。それでも良いの?」

「もちろんだよ。」蚊に刺されながら大学の門の前で寝るのは、もうごめんだ。今の佑麻は、それが避けられるならどんな条件ものんだであろう。

 ドナは、大学の用事が済むまでここで待つように佑麻に言ったが、今までのサバイバルを考えるとドナと一秒たりとも離れるのが怖いと言ってきかない。この三日間でよほど打ちのめされたのだろう。仕方なく、ドナは佑麻を引き連れて大学校内へ。ゼミの先生との打合せの時も、講義の最中も、佑麻はドナのそばを離れない。日本人のPogi(イケメン男)にべったりくっつかれて歩くドナは、校内でたちまち注目の的となる。クラスメイトからはやしたてられ、はたまたゼミの先生からも、ドナの新しいペットかなどと皮肉を言われる始末。それでも誰も校内から佑麻を追い出そうとしないところが、この国のおおらかさでもある。

 佑麻は、ドナの家に向かうジプニーの中でも喋り通しだった。

「この国はなんでこうも道端で寝ている人が多いんだ。貧困というよりは、年中暖かいから家がなくとも生きていけるからかね。この国に雪が降ったら大変だ。きっと大勢死んじゃうと思うよ。」

「しかし、街にゴミが多いよね。見ているとみんなゴミをポイ捨てなんだ。街にゴミ箱も見あたらないし。路上に捨てられたゴミはその後どうなっちゃうんだい。もっと市民のモラルを高めないといけないな。」

「トイレに行きたくて、学校のを借りたんだけど、なんで紙がないの?バケツに水が張ってあるだけで、用を達した後どうするのかな。まさか、手で拭けなんてことないよね。」

 佑麻は、三日間の都市観察で得た感想を一生懸命に語って聞かせていたが、たいしてドナの耳に入ってはいかなかった。ドナはただ目の前に実在する佑麻の、声や体温や香りを体感できることに酔っていた。

 

 NAVOTAS, Brgy. San Roque, Champaca St.(ナボタス・シティ、サンロケ区、チャンパカ通り。) 海が近いこの下町に、ドナの住む家があった。ブロックが積まれ、薄いトタンで覆っただけの簡素な家々が密集する狭い道に、どうやって入ってきたかと不思議になる程の大きな車、客待ちに所狭しと並ぶトライシクル、そしてチキンBQなどの数々の屋台がひしめき合う。さらに、本来自宅のキッチンやバスルームにあるべき設備が、路上にはみ出していたりするので、道はもはやその本来の姿を見失ってしまったようだ。路面はコンクリートでありながら整備されておらず、いたるところに穴が開いている。そんな穴を避けながら、ドナは佑麻を引き連れて下町を闊歩する。ドナの姿を見た多くの人々が、彼女に声を掛ける。ドナは明るく返事を返すものの、『一緒に居る男は誰?』との問いには答えることなく先を急いだ。この状況は、ドナが自分の家に着く前に、はやばやとドミニクの耳に入った。ドミニクは、真偽を確認すべくドナの家に走る。佑麻といえば、訳のわからないタガログ語の渦に呑まれながら、溺れまいと必死にドナにすがりながら後を追った。

 ふたりはドナの家の門にたどり着いた。ドナはあらためて佑麻に振り返り、身なりをチェックする。汚れたTシャツはどうにもならない。佑麻のひたいに流れる汗をドナのハンドタオルで拭ってやり、手すきで彼の髪を整える。駆けつけてきたドミニクはそんなふたりをいきなり目撃したものだから、そばの自転車を蹴飛ばし、ドナと共に居る男を睨みつける。しかしドナは、ドミニクをはじめ群がる周囲の人びとには目もくれず、佑麻に言い聞かせた。

「いい、佑麻。さっきも話したと思うけど、マムは厳しい人よ。第一印象で嫌われたら終わりだからね。余計なことはしないで、私に任せるのよ。わかった。」何が終わってしまうのか質問したかったが、ドナの迫力に押され佑麻はただうなずくばかりだった。

 ドナが勢いよく鉄の扉を叩くと、暫くして開錠の音とともに門が開く。開けたのは、ドナの妹ミミであった。ミミは、知らない男の手を引いて家に上がるドナを見て驚いた。マムは、リビングの大きな椅子に座りテレビを見ていた。ドナは、母の手を取りその甲を自分の額にあてる。ドナにうながされ、佑麻も同じことをしようとしたら、マムは手を引っ込めて彼を睨んだ。

「日本でお世話になった友達の佑麻よ。マニラに来てお金を取られて困っているの。うちに泊めてあげたいんだけどいいかしら。」

 マムは、佑麻には一瞥くれただけで、その後じっと娘のドナを見つめた。ドナは自分の心の奥底を覗かれているようで、落ち着かない。マムは、ドナの瞳の奥に、小さくではあるがダイヤモンドのように光る決意を認めて、やがて諦めたように、テレビに視線を戻しながら言った。

「お前がそうしたいなら、そうすればいい。ただ、泊まった分だけのお金は入れてもらうよ。それに、そんな汚いままで家に上がるのは勘弁しておくれ。まったく、こんな臭い男を連れてきて…。だから私はお前が日本に行くのを反対したんだ。」

 佑麻は、どういう会話が取り交わされているかわかるべくもなく、それでも何とかコトの展開を探ろうと、意味のない愛想笑いでマムとドナを交互に見返していた。

 

 どうやらコトは無事治まったらしい。その証拠に佑麻はバスルームにいた。久しぶりのシャワーである。シャワーと言っても、シャワー口から勢いよく水を浴びるものではなく、水道から大きな桶に水をため、手桶で身体に浴びせる方式だ。もちろんお湯が出るなんて習慣はこちらにはないので、冷たい水に身体が慣れるまでは少し時間がかかったが、それでも水を浴びれば生き返った気分になる。やはり生物は水から生まれたのだと実感した。長い間水を出しっぱなしにしていると、ドナがドアを叩いて警告する。『マムに怒られるわよ!』

 薄くはあるが久しぶりに髭をそり、歯を磨く。その時、裸の背に人の気配を感じた。慌てて前を隠して振り向くと、両手で顔を覆った少女が立っていた。彼女が、この家に居候する十一歳のおませなソフィアであることは、このあとの食卓で知ることになる。よく見ると、ソフィアは指の隙間から佑麻を見ていた。

「いい男ねぇ。さすがアテ・ドナが日本から連れてきただけのことはあるわ…。晩ご飯よ。早く来て!」

 タガログ語だが最後の部分だけは、佑麻でも意味が分かった。

 食卓には、マムは同席しなかった。ドナはこの家に一緒に住んでいる妹のミミ、そして先ほどのソフィアを佑麻に紹介する。ミミは人見知りするタイプなのか、佑麻が挨拶しても、挨拶を返してこない。その代わりせっせと家事をして、佑麻のテーブルウエアの準備をしてくれた。

 食事の後、ドナはミミ、ソフィア、ドミニクをリビングに集めて何やら相談事をしている。時折ドミニクが首をもたげて、佑麻を睨みつけるのをドナは何度もいさめたが、佑麻はリビングにいづらくなったので、グロート(マリアの祭壇のある小庭)に出て、金魚が泳ぐ姿を眺めることにした。

 話し合いが終わると、ドミニクは不服そうに自分の家に戻り、ドナは佑麻を引き連れ2階にあがり、彼の寝床の準備をした。日本の建築基準ではあり得ないような急な階段を上がったところが、小広いフロアになっている。床はむき出しのベニヤ板であるが、その床に薄い敷布団を一枚。相変わらず蚊には悩まされそうだが、路上で寝た昨夜に比べれば天国のようだ。ドナとミミとソフィアは、一緒にドアのある奥の寝室で寝る。

 その夜、ふたりとも積もる話が山ほどあったが、ドナが寝床を完成させないうちに佑麻はもう寝息を立て始めていた。ドナは優しく佑麻の頭をまくらに添えてやり、明かりを消した。月夜に浮かぶ彼の寝顔をしばらく見入っていた。佑麻の家での看病以来、またこの男の寝顔が見られるとは夢にも思わなかった。この先どうなるかわからないが、ここまで彼を無事に導いて下さった神様に深い感謝の祈りを捧げるドナだった。

 

 佑麻にとって、マニラのスパルタンな日々が始まった。気持ち良く寝ている佑麻の足を蹴って、ソフィアが起こしにくる。家の時計をみるとまだ午前5時だ。マムに小銭を持たされてソフィアとともにパンデサールを買いに近くのパン屋まで。パンデサールは1個2ペソ。早くいかないとなくなってしまう。とにかくどの店も手造りだから作れる量に限りがあるのだ。朝食も早々に髪を濡らしたままのドナが大学へ行く。『えっ、ひとりでここで待つの?』との佑麻の抗議の視線に、両手拳を胸元で可愛らしく握って『ファイト!できるだけ早く帰ってくるからね。』と笑顔で返す。そして佑麻の横に立つソフィアを指差し『ソフィアがあなたのお世話係よ。言うことをよく聞くのよ。』と合図して家を出て行った。泣きそうな顔で彼女を見送る佑麻に構わず、ソフィアが彼の袖を引いて、まず叔母のティタ・デイジーの家に連れて行く。

 ティタ・デイジーの家は水道がないので、20リットルタンク6本を台車に積んで、細い路地を抜けて、水道のある家へ水を買いに行かなければならない。タンクひとつ4ペソ。全部で24ペソ、円で換算すると48円というところか。満タンにして総重量120キロ。デコボコの路面に台車を転がすのもひと苦労だ。帰路はただでさえ狭い道に市が立ち、人が溢れている。佑麻も怖気づいて迂回しようとするが、ソフィアが許さない。人を押しのけて台車を通す。これがこちらのスタイルらしいが、これでよく喧嘩にならないものだ。佑麻は、役に立たないとわかってはいるものの、『すいません。通ります。すいません。』と日本語でペコペコ謝りながら市場を抜けた。

 ティタ・デイジーの家でタンクの水を全てドラム缶に移し終わった時点で、彼の上腕はもうパンパンに張っている。ソフィアは非情にも、そんな彼を今度は建築現場へ連れて行く。そこにはドミニクがいた。ちょっと乱暴なボディーランゲージで指示を受け、ブロック運びとセメントの砂運びをやった。昼に現場を抜けて家に帰り、ミミからランチをもらうが、食後はまた現場に行き作業を続ける。夕方にやっと一区切りつき、ドミニクに親方らしき人の前まで連れていかれると、親方は佑麻の肩を叩きながら、300ペソを渡してくれた。ソフィアにそれを見せると、彼女はそのお金をひったくるようにして自分のポケットにしまう。

 帰り道、ソフィアの後を歩きながら、『この国は人件費が一番安いんだな。1日働いて、300ペソ、600円かよ。300ペソで何が買えるんだろう?相対価値でいうと、日本の3000円位のものが買えるのかな。』などと考えていた。

 家では、ドナがもう帰っていて、ミミとともに食事の支度をしていた。ソフィアは、佑麻から受け取ったお金をそのままマムに渡す。佑麻が家に帰るなり、バスルームにいくと

『何で日本人は毎日シャワーを浴びたがるのかね。水道代がもったいない。』とマムが文句をいうが、もちろん言葉が通じないから、彼も安らかに水を使う。

 その日の出来事をドナと語り合いながら食事をした。最初は、得体のしれない言葉を使って佑麻と話すドナを、ミミもソフィアも珍しいものを見るように見守っていたが、やがてドナが通訳となって佑麻との会話にふたりも参加するようになった。マムは、相変わらず同じテーブルに着こうとはしない。食卓で佑麻の世話をしながら、今まで見せたことのない女らしい仕草と笑顔で話すドナを見て、マムはため息をつきながら首を振っていた。

 食事が終われば、女性陣が食器を片付ける。ドナを眺めながら、佑麻はリビングで暫く休憩。しかし、マムと一緒にテレビで人気番組『Face to Face』を観る勇気はない。やがてキッチンの仕事が一段落したドナと2階に上がり、寝具の準備をする。佑麻が横になると、ドナは彼が寝つくまでそばにいた。佑麻は朝が早いせいか、午後8時半頃には寝てしまう。もともと夜型の彼には信じ難い生活リズムだ。そしてこんな毎日がしばらく続いた。劇的な事件があるわけではない。燃えるロマンスがあるわけではない。しかし、お互いを身近なところで感じながら、静かな会話と笑顔でただ淡々と暮らす。そんなフィールドだからこそ、お互いの心により確かものがゆっくりと育っていったのかもしれない。

 

 ドナとの初めてのウィークエンド。当然ドナとふたりきりのデートを望む佑麻だったが、朝、浮き輪を持ったソフィアに起こされた。どうやら今日はソフィアとプールへ行かなければならないらしい。久しぶりのプールに興奮したソフィアが、あちこちで吹聴するものだから、家を出る時には6人ほどの近所の子供たちが門の前に集まっていて、『Sama ko!!(一緒につれてってーっ!)』と大合唱する。仕方なく自転車トライシクルに分乗して近くのプールへ。そこは、家の中に設けられた小さなハウスプールだったが、暑い日に子供たちが遊ぶには充分な水の量だ。入り口で怖そうなおばさんにひとり30ペソを支払うと、準備体操もせずにプールへ飛び込む。ソフィア以外の子供たちは、水着なんか着用していない。Tシャツとショートパンツだ。それでもプールから追い出されない。プールの水は、日本のプールのように薬臭くないが、それだけに水の中はバイ菌でいっぱいで目を開けると炎症をおこすのではないかと不安になる。実際翌日の朝になっても目には何の炎症も起きなかったが…。そんな不安にはお構いなしで、こども達はプールで大はしゃぎだ。こども達との遊びに言語の違いなんて何の障害にもならない。水に投げ込もうとソフィアを追いかけまわすと、自然に『まいった、まいった。』なんて日本語を覚えてしまった。

 やがて、ドナとミミがランチとお菓子を持ってプールサイドへやってきた。ランチボックスは、昨夜の晩御飯の残りで賄ったものだ。ドナの来訪を喜んだ佑麻が、ふざけて叫びながら嫌がるドナを抱きかかえ、プールへ投げ込む。文句を言いながらプールから這い上がるドナの服が水にぬれて、Tシャツの上に下着とボディーのラインがくっきりと浮かんだ。佑麻はあわてて他の人に見られまいと大きなタオルでドナの体を覆う。そんなことするなら、最初からやらなきゃいいのにと、ドナが笑った。しこたま水遊びしたのち、夕焼けの下町をこども達と手をつないで家路についた。その日が終わるころには、佑麻はこども達から『Kuya Yuma(クヤ・ユウマ)』と呼ばれるようになっていた。

 日曜の朝は、船に乗って運河を渡り川向うの市場へ。市場の肉屋、魚屋、八百屋、いわゆる生鮮品のどの店先にも冷ケースがない。商品は無造作に机に置かれ、ラップもされず外気にさらされて売られている。不衛生な感じはするが、この頃には佑麻も気づき始めていた。各店とも、その日にさばける数しか商品を店先に置かない。多く仕入れて冷凍して保存するとか、解凍して売るとかの技術はないのだ。それはつまり、朝シメた肉、朝獲った魚が店先に並ぶことを意味する。これ以上の新鮮な生鮮品が他にあるだろうか。ハエは飛んできても、生で食べる習慣はないので、新鮮な素材で作ったシニガン(魚介類または肉を具とした酸味のきいたスープ)やアドボ(肉を甘辛く煮た料理)は、当然食卓での絶品の一品となった。

 買い物を終えると、佑麻はギターでも弾きながら、家でドナと一緒にボケっとして過ごし、夕方にはちょっとおめかししてみんなで教会のミサへ行く。ミサが終わった後、教会に集まった友達とおしゃべりするドナ姉妹を残し、佑麻はソフィアと連れだって、生のココナツを売る屋台へ駆け寄りココナツジュースに舌鼓みを打つ。

 今まで石津家という城に守られ暮らしていた佑麻は、初めて石津家以外の人々との生活をここで体験していた。しかも鍵のある部屋があるわけでもなく、家のだれもが自由に素通りする部屋で寝て、食事をする時も必ず誰かと一緒だ。いままで固執していた自分のプライバシーに、いったいどんな価値があったんだろうと、佑麻はあらためて考えた。実際ここでは自分ひとりでは何もできない。『暮らす』ということは、家族と、知人と、そして未知の人々と、触れ合って、関わり合うこと、以外の何ものでもないと実感していた。ドナ以外に知る人のいない異国の地であることが、さらにその感を強くしているのかもしれない。

 

 月曜の朝、佑麻は、朝早くから学校へ行くソフィアを見送った。真っ白な制服が眩しい。小学校は午前と午後の2部制。ソフィアは、今期は午前の部のスケジュールになっている。この国では、公立小学校の授業料は無料なので、貧しい家庭もそうでない家庭でも皆小学校へいける。どの地域も子どもの多さに教室や先生の数が追いついていないため、2部制をとっているのだ。そして子供達の親は、どんなに貧しくともとことん真っ白なシャツと制服を着せ学校に送り出す。服の白さに対してはなにか特別な意地があるようだ。

 ソフィアを送り出すと、ドナと佑麻は連れ立って長距離バスに乗った。マムの命令で、田舎にあるドナの親戚の畑を手伝いに行かなければならない。実は、田舎はちょうど野菜の収穫期で、手伝いを理由に、マムの大好きなアンパラヤ(ゴーヤ)やタロン(ナス)を大量に分けてもらうのが目的だ。

 3時間ほどバスに揺られて、ようやく目的地であるNueva Ecija(ヌエバ・エシジャ)へ到着。親戚達から手荒い歓迎を受けたのち、早速畑へ移動し収穫作業となった。初めての佑麻は収穫作業のやり方などわかるはずもなく一向に仕事が進まない。それでもドナは辛抱強く指導し、佑麻がやっと作業のコツが飲み込めた頃には、もう昼になっていた。

 昼は、畑に食べ物を広げて作業しているみんな一緒に昼食を取る。ランチは、バナナの葉に包まれたスーマン(フィリピン風ちまき)だ。ドナは、器用にバナナの葉をむいてスーマンを渡したり、水を渡したり。甲斐甲斐しく佑麻の世話をする。その様子を見た親戚の女性達から『ドナや。仕事ができない男に惚れるとは、さぞかし他に上手なことがあるんだろうね。』とからかわれて、ドナは顔を赤くする。佑麻もなんとなくその場の空気を察して、

「だいじょうぶだよドナ。うまくやる自信あるから・・・。」と午後の仕事ぶりを安心させるつもりで囁いたが、なぜかドナは、さらに顔を赤くして、佑麻に肘鉄をくらわすのだった。

 午後、佑麻は脇腹をさすりながら日が傾くまで作業に励み、その日は親戚の家へ泊まることになった。

 

 夕食後、散歩に出ようとドナに誘われ、佑麻は喜々として後を追う。久しぶりに手を繋いで田舎道を歩いた。しばらく歩くと、平屋の立派な田舎家にたどり着く。ここもドナの親戚の家らしい。家主は品のいい初老の女性でドナの遠縁の伯母にあたる。今は引退しているが、もと大学の教授だったそうだ。二人がのぞくと、伯母は前庭で下働きの女性に髪を切らせていた。久しぶりの来客だと、大袈裟と思えるくらいの喜びようでふたりを迎えてくれた。ドナは佑麻を友達と紹介したが、

「こんな処まで連れてくるなんて…。地球上のどんな文化の常識に照らしあわせたって、そんな仲であるわけがないわ。」とまるで信じない。

 女同士のおしゃべりにしばらくつき合っていた佑麻だったが、手持無沙汰であたりを見回しているうちに、年代物のこの田舎家に関心を持ち、家の中を見学させてくれないかとドナを通じて伯母に申し入れた。もちろん伯母は快諾してくれた

 東南アジアらしい熱帯植物と石で構成されたリビング。数世代にわたり家主に仕えている家具たち。それらが、開け放れた大きな窓からわたるわずかな風にそよぎながら、百年前に定められた自らの居場所に静かにおさまっている。揺らぐろうそくの光と月光をたよりに、きっと精霊が住んでいると思えるような部屋を渡り歩いていると、やがて天井から虫除けのネットが吊られた小さなベッドルームにたどり着く。ベッドを見てはっとした。確かに精霊と見まがうような可愛らしい女の子が横たわっているではないか。しかし、よくみると様子が変だ。口を開き息はしているものの、見開いた瞳はジッと天井の一点を見つめ、微動だにしない。

「あら、紹介しようと思っていたけど、もう顔見知りになっていたのね。」

振り返ると、伯母がドナとともに、ベッドルームの入り口に立っていた。

「私の孫のメリー・ローズよ。メリー、ドナの彼氏のクヤ・ユウマよ。ユウマ、メリーと握手してあげて。」

「はじめまして、メリー。」佑麻は、メリーの手を取った。子供らしいみずみずしい肌だなと感じながらも、メリーからの生体反応は全くなかった。

「ごめんなさいね、ユウマ。メリーは6歳の時から、天使とのおしゃべりに夢中で、なかなか私たちに返事を返してくれないのよ。」

 

 伯母の田舎屋からの帰り道。近くに高い山も建物もないので、360度に広がる見事な満天の夜空に、ドナと佑麻は自分達がまるで壮大なプラネタニュウムの中にいるような気分に浸っていた。やがて佑麻がつぶやいた。

「こんな田舎でひっそりと、伯母さんとメリーは、誰の助けを待っているんだろう。」

「メリーは、おしゃべりが好きなとっても元気な女の子だったのよ。特に伯母さんのお気に入りだった。でもある日高熱が彼女を襲って、いのちは助かったもののそれ以来、ベッドに寝たきりなの。」

「大きな病院のある都会に行った方がいいんじゃないかな。・・・ところでご両親は?」

「香港へ働きに出ていて、なかなか帰ってこないみたい。」

「もしかしたら、メリーに会うのがつらいのかもしれないね。」

「だから、伯母がずっと付き添って面倒をみているの。」

「そうか、世の中にはどうにもならないことってあるよね・・・。伯母さんもつらくないかなぁ。」

「いいえ、伯母が言っていたわ。メリーがいなければ、自分はとっくに死んでいたろうって。」

「たとえ植物人間であっても、あの子が伯母さんを生かしているのか。」

「植物人間ってなに?」

「息をし、心臓は動いていても、死んでいると同じでなんの反応も見せない人のことだよ」

「メリーはちがうわ。天使とおしゃべりしていると伯母さんが言ってたじゃない。」

「そうだね。」

 ふたりは夜空を見上げた。星が溢れる満天の星座の中に、天使と楽しそうにおしゃべりするメリー・ローズの姿を見たような気がした。

 

「どこの飛行機のトイレも、なんで同じような形で、しかも狭いのかしら。」

 キャセイパシフィック航空の機内トイレで愚痴を言う麻貴は、航空会社の飛行機は、たいがいペイントが違うだけで同じ飛行機であることに気づいていないようだ。ラバトリーでメイクのチェックを終えると、勢いよくドアを開けた。あまりにも乱暴にドアを操作したので、手をドアにあててしまい化粧ポーチを落としてしまった。あわてて拾おうとする麻貴を制して、外で待っていた実業家風の青年がひざまずいてポーチを拾い笑顔で麻貴に渡す。『高そうなスーツ着ちゃって…。気障な奴だな。』そんな印象を持ったが、麻貴はさすがにそんな言葉は呑み込んで「Thank you.」とおとなしくポーチを受け取った。自席へ向かう麻貴の後ろ姿に、何か言いたげな青年だったが、彼女があまりにも早く歩み去ってしまったので、声を掛ける暇もなかったようだ。青年は香港からこの飛行機に乗り込んできた。麻貴は羽田空港から香港でトランスファー。実はこの青年は香港国際空港の乗機待ちロビーで、すでに麻貴に関心を持ち、何度も彼女を盗み見していたのだ。

 そんな視線に気づきもせずに、自席のシートベルトを乱暴に装着しバッグから写真を取り出す。佑麻が自分のフェイスブックに最近アップロードしたものだ。マニラのどこかの市場で買い物をしている。質素な身なりだが満面の笑顔。その横にドナがいた。麻貴はつぶやいた。

『佑麻のやつ、必ず見つけ出して、首に縄をつけても連れて帰ってやるからな。』

 

 田舎から帰ってきたドナと佑麻は、休む暇もなく今日はマムのおともで街の銀行へ出かける。足の弱いマムは、ほとんど街を出ないのだが、銀行預金の事務処理でどうしても本人が出向かなければならないらしい。マムがドナをお伴にしたのは当然だが、佑麻も引き連れていったのは、彼以外の男達はみな忙しくてボディーガードの役に就けなかったからだ。

 市外へ出る交通手段は、長距離バス、タクシー、ジプニー、バイク、トライシクルとあるが、地下鉄がないマニラでは、市民はそれらを距離に応じて上手く使い分けて使用する。家を出て10歩ですぐ自転車トライシクルに乗り、ジプニーの捕まえられる通りまで出る。ジプニーでタクシーが集まるショッピングセンターまで行き、さらにタクシーで銀行まで。こうして乗り継いでいけば、家からほとんど歩かずに目的地に着ける。さらにショッピングの帰りなど、お金をセーブしたければ、4人から5人の家族全員を1台のバイク・トライシクルに同乗させ帰宅することも可能だ。実際通りでは、危険だと思えるくらいの量の荷物と人を乗せた小型バイクをよく目にする。また、女性にとっては夜遅くなった帰り道、ジプニーを降りてから自宅までの暗い夜道を、自転車トライシクルを利用していくことにより、危険な目にも遭わずに済むというセキュリティ対策にも貢献している。そう考えると東京とマニラの都市交通はどちらが便利なのか、佑麻にも判断が難しくなってくる。

 銀行に着いたマムは、ドナの手助けを得ながらカウンターで事務処理をし、サインを終えたところで待合ロビーに戻り、書類ができるのを待っていた。どの国の銀行も同じと思うが、この銀行のロビーも冷房が利きすぎている。あまりにも外気との温度差があったので、さすがの佑麻も銀行に入った時は体が震えた。

 マムの異変に最初に気づいたのはドナだった。

「マム、大丈夫!」見ると、マムの顔の血の気は失せて唇は紫色になっていた。そしてロビーの椅子から床へ崩れるように倒れ込む。

 『マム!マム!マム!マム!』

 パニックに陥ったドナは、マムを抱きかかえて、ヒステリックに泣き叫ぶ。佑麻が駆け寄りマムの様子を見た。体が冷たかった。マムの状態を詳しく見ようとしても、相変わらずパニック状態のドナは、抱えたマムを離そうとしない。佑麻はドナの頬に平手打ちをした。

「ドナ、しっかりしろ。お前は看護師になるんだろ。わめいている暇があったら、救急車を呼べ!」

 佑麻の叱咤に我に返ったドナはようやくマムを離し、自分の携帯電話で救急へ電話した。

 佑麻は、マムに話しかける。反応はない。次にマムを床の上に上向けに寝かせると、片手を額に当て、もう一方の手の人差指と中指の2本をあご先に当てて、頭を後ろにのけぞらせた。気道確保を終えると佑麻は、自分の顔をマムの胸の方向に向けながら、頬をマムの口と鼻に近づける。マムの胸や腹部の動きがなく、呼吸音も聞こえず、吐く息も感じられない。

「ドナ、救急車を呼んだが?」目を見開き固唾を飲んで、佑麻のことを見守っていたドナだったが大きく「Opo!!(はい!)」と返事をする。

「ならば、AED(自動体外式除細動器)を探して来い。必ず銀行にはあるはずだ!それから、銀行のスタッフに言って、マムを周りの人から見えないようにカーテンで囲ってくれ。」

 ドナは、叫びながら銀行のスタッフに指示を飛ばすと、みずからも駆け回ってAEDを探しまわった。

 佑麻はマムの気道を確保したまま、額に当てた手の親指と人差指でマムの鼻をつまみ、自分の口を大きくあけてマムの口から空気が漏れないようにして、息を約1秒かけて吹き込んだ。マムの胸が持ち上がるのを確認すると、いったん口を離し、同じ要領でもう1回吹き込む。2回の人工呼吸の後、ただちに胸骨圧迫を開始。胸の真ん中を、重ねた両手で「強く、速く、絶え間なく」圧迫し全身に血液を送る。強すぎれば肋骨が骨折することを意識し、加減しながら胸骨圧迫を30回連続して行った。そして再び人工呼吸を2回。この胸骨圧迫と人工呼吸の組み合わせ(30対2のサイクル)を、絶え間なく続けていると、佑麻のもとにAEDが届けられた。

 佑麻は、AEDのふたを開け、電源ボタンを押す。そして「マムごめんね。」と言いながらマムの衣服を取り除き、胸をはだけた。 電極パッドを袋から取り出し、シールで胸部にしっかりと貼り付ける。心臓をはさみ、ひとつは右前胸部、もうひとつは左側胸部の位置。電極パッドを貼り付けると佑麻は「体に触れないでください!」とすべての人を遠ざける。自動的に心電図の解析が始まった。やがて、AEDが電気ショックを加える必要があると判断し、自動的に充電が開始される。数秒の後、充電が完了すると、「ショックします。みんな離れて!」と再び佑麻は周りの注意を促し、誰もマムに触れていないことを確認すると、ショックボタンを押した。マムの体が瞬間痙攣する。それを見て佑麻は、ただちに胸骨圧迫を再開。心肺蘇生法を再開して2分、再びAEDは自動的に心電図の解析を始める。同じ手順を繰り返し、2回目のショックの後に、マムがわずかながらうめき声を出した。そして、その声に呼ばれたように救急隊員が到着。マムはAEDを装着したままストレッチャーに乗せられ、病院へと搬送された。救急車には、ドナと佑麻が同乗した。ドナは心配そうにマムの顔を覗き込み、付き添う佑麻はそのドナの手をしっかり握っていた。

 

 マムが運ばれた集中治療室のドアの外で、ドナは小さく震える肩を佑麻にだかれながら待った。やがて、ドアが開きドクターが出てくると、彼女に告げる。

「大丈夫ですよ。心肺は安定しました。後遺症もないようです。」

 その言葉を受けて緊張が解けたのか、ドナは佑麻の腕の中で泣きじゃくる。佑麻も笑顔のドクターから状況を察して安堵のため息をついた。ドクターは言葉を続ける。

「汗に濡れた服で、急に強い冷気を浴びたので低体温症になったのでしょう。一般的に、心肺停止から1分ごとに救命率が約10パーセント低下すると言います。6分後には、救命率が30パーセント代になり、命を救うことが難しくなる。その点、今回の場合は、迅速な救命措置が功を奏したようですね。1週間ほど入院して安静にしていれば、家に帰れるでしょう。」泣きじゃくりながらも、ドナは何度もドクターにお礼を言った。

 

 マムは個室の一般病室に移されることになり、ふたりも付き添っていった。病室では、マムは生体情報モニタに繋がれながらも、静かな寝息を立てて眠っていた。ふたりは、しばらくマムの寝顔を眺めていたが、夜も更けてきたので、そろそろ休むことにした。病室の床に薄い毛布を一枚引いて、服も着替えずそのままふたりは並んで横になった。ホテルでもないのに、病室の床での寝泊まりを許してくれるのも、この国のいいところだ。横になりながらふたりは、生体情報モニタから発せられる規則的な信号音に癒されていた。

「ねぇ佑麻。ドクターでもないのに何であんなことが出来るの。」

 ドナはマムを救った迅速な心肺蘇生法について尋ねた。

「あれね、前に兄に頼まれてボランティアでAEDの市民講習会を手伝ったことがあるんだ。その時に覚えたことさ。実際にやったのは始めてだよ。」

「さすがドクターの息子ね。私なんてパニクっちゃって何もできなかった。看護師になるなんて言っておきながら恥ずかしいわ…。マムを助けてくれて本当にありがとう。」

「いや、一度覚えれば、誰でもできることだから。」

「それに、佑麻…。」

「なんだよ。」

「とってもカッコ良かった…。」

「そうだろ。今頃わかったのか、遅いよ。」

「ねえ…。」

「なに?」

「今夜だったら…、お礼に私のバージンあげてもいいわ。」

「…。い、いきなりバカ言うな!マムの居る部屋でそんなことしたら、殺されるよ!気持ちだけでいいから…。」

「ああそう。あとで後悔しないようにね。」それなりに勇気を出して言った申し入れを、あっさり断られてへそを曲げたドナが、佑麻に背を向ける。それを見た彼は、

「うーん…。そこまで言うなら、お言葉に甘えて、添い寝だけいただこうかな。」と、後ろからドナを抱きしめる。ドナはそれを待っていたかのように、佑麻の腕に身をゆだねた。

「…ねぇ。私 汗臭くない?」

「いいや、いつものドナのいい匂いだよ。」

「…ねぇ。そう言えばあなた、どさくさに紛れて、私の顔を叩いたわよね?」

「忘れなさい。」

「…ねぇ。ところで私の腰のところに当たる変なものは何?」

「いいからっ!寝ろ!」

 

 フィリピン華僑にもかかわらずジョンは、夜になってもなお蒸し暑いマニラの外気に辟易として、少しでも清涼な空気を襟元に導こうと盛んに扇子を動かした。

『故郷とは言え、やっぱりArnys(アルニス/仏高級紳士服ブランド)の似合わない街は好きになれないな。』

 香港からのキャセイパシフィック航空905便。 23時35分の到着予定が少し早まり、迎えの車はまだニノイ・アキノ国際空港 第一ターミナルへは来ていないようだった。大きなルイ・ビトンのバッグに腰をかけて、手持ち無沙汰にゲートを眺めていたら、麻貴が目に入ってきた。香港で初めて見た時から、ジョンは彼女が気になっていた。彼女はタクシーを探しているらしい。しばらく眺めていると、どうも口巧みな白タクの罠にかかってしまったようだ。彼女は人ごみの車寄せから、人通りの少ない裏手に誘導されてその姿を消した。危ない。ジョンは思わず腰を浮かせて、彼女の後を追った。

 彼女の消えたあたりをしばらく捜索していると、案の定、奥のビル陰で複数の男に囲まれている彼女を発見した。彼はもめ事が嫌いだ。今まで、あらゆるもめ事や不愉快なことは、直接触れることなく、彼の父親の使用人や弁護士達が処理してくれている。この時もあたりに彼らを探したが、いるはずもない。誰かを呼びに行こうかと一瞬この場を離れかけたが、男たちの様子ではひとときの猶予もないようだ。仕方がないので、財布から両替したばかりの紙幣の束を抜き取ると、彼女と男達の間に割り込んでいった。後から考えても、ジョンはあの時なぜこんな無謀なことをしたのかまったく理解できないでいる。えてして、こういう衝動的な行動がその後の人生を左右することになるのだ。

「あー…。ヒーローではないので君達とやり合うつもりはないが、私はビジネスマンなので取引をしないか。彼女に構わないでいてくれたら、交換にこれを渡すがどうかな。」

 ジョンは、指にはさんだ紙幣の束を男達にちらつかせた。札束を見せられた男達の目に歓喜の色が浮かんだが、非情にもその札束を麻貴がひったくる。

「どなたか知りませんけど、女を救う時は、金じゃなくて、体を張りなさいよ!」

「えっ!」

 信じられない麻貴の言動で驚くジョンに、札束を取り上げられて怒った男達が殴りかかる。彼はArnys(アルニス)の上着を脱ぐ暇もなく、体のあちこちをしこたま殴られることとなった。ジョンは、殴られけ蹴られながら、赤子のように背を丸めて急所を庇った。すると、ジョンに群がる男達の背後から、麻貴が鉄パイプを持って彼の救出に乗り出す。剣道の心得はなくとも、パイプを真剣のごとく扱う攻撃は、さすがに日本人の遺伝子がなせる業だ。麻貴の攻撃に、男たちは一瞬ひるむものの、今度はナイフを取り出し攻勢に出た。麻貴の鉄パイプを奪い、今度はジョンの代わりに麻貴を取り囲む。

 しかしこの間が、ジョンを生き返らせた。彼は、足元に捨てられていた傘を右手に握ると、傘の柄を半身に構え「Prêts?(プレ/準備はいいか?)」と大声で叫んだ。男たちが驚いて振り向くと、今度は「Oui.(ウィ/よし!)」と傘の柄を掲げてEn garde (オンガルド/フェンシングの基本姿勢)をとる。男たちは一斉にジョンに襲い掛かる。ジョンは「Allez! (アレ/始め!)」の掛け声とともに、傘の柄を男達に突き立てた。「Marchè!(マルシェ/1歩前進せよ!)」「Rompe!(ロンぺ/1歩後退せよ!)」「Riposte!(リポスト/カウンターの突きだ!)」「Flèche!(フレッシュ/捨て身の突きだ!)」と意味不明なフランス語を叫びながら、軽やかなステップで多彩な突きを繰り出す。ナイフを弾き飛ばし、鋭い突きで男達の鎖骨を折っていく。やがて、麻貴も鉄パイプで参戦。男たちはたまらず三々五々に逃げ出し、そこには、袖口が破れ泥だらけのArnys(アルニス)を着たジョンと、鉄パイプを握りしめた麻貴だけが残った。麻貴は、鉄パイプを地面に放り投げながら言った。

「あなた、いい仕事したわよ。」

 麻貴はジョンのスーツの泥を払い、先程奪った札束を、スーツの胸ポケットにねじ込む。

「とりあえずお礼は言っておくわ。ありがとう。それじゃ。」立ち去ろうとする麻貴に、ジョンは今度こそ逃がすまいと声をかける。

「もしよろしければ、ホテルまでお送りしますが・・・。」振り返った麻貴は、疑わしそうな目で彼を見た。

「まさか、あなたも白タクじゃないわよね。」

 ジョンは苦笑いしながら、麻貴を自分の荷物のあった場所に導く。すでに荷物は、迎えに来ていた車に積み込まれていた。豪華なリムジンに収まった麻貴は、彼が機内でポーチを拾ってくれた男であることを思い出した。『ストーカーかしら・・・。』とその警戒心を強めたが、芝居にしては彼が体中に刻んだ傷は確かに本物で痛々しかった。迎えに来ていた運転手が、ジョンの様子に驚いて、病院だとか警察だとか騒いでいたが、彼はそれを制して、まず麻貴のホテルに向かうように指示したのだ。

「人に殴られたのは初めての経験です。」ジョンが、裂けた唇を指でさすりながら麻貴に話しかける。

「フェンシングできるなら、最初からやればいいじゃない。」

「いや、こどものころに祖父に無理やり習わされただけで、今ではフルーレ(剣)も家でほこりをかぶっていますよ。僕は、John Tang(ジョン・タン)」

「私は、アサカ・マキよ。」

「日本人ですね。こちらにひとりで何しに来たのですか?観光ですか?」

「・・・いくら助けて頂いても、初対面のあなたに話す理由はないわ。」

 麻貴の返答にジョンは二の句が継げない。彼はその容姿と財力と教養のおかげで、人並み以上の数の女友達を持っているが、会話を続けるのにこれほど苦労する女性と、いままで出会ったことが無い。運転手は、笑いをかみ殺すのに苦労していた。

 Pan Pacific Manila(パン・パシフィック・マニラ)に到着すると、紳士は女性をフロントまで送るものだと、ジョンは運転手に荷物を持たせ麻貴についていった。麻貴は日本語で小さく「面倒くさい男だな。」とつぶやいたが、多少の恩義もあるし、仕方なくジョンをかたわらに置いてフロントスタッフにチェックインを依頼した。すると、スタッフからリザベーションが見当たらないとの答えが返ってきた。驚いて再度の確認を強要するも、答えは変わらない。ならば、今からでいいからひと部屋をとリクエストしたが、残念ながら満室でご要望にお応えできないと慇懃な英語で断られてしまった。見かねたジョンが、再度介入。スタッフは、ジョンの顔を見ると態度を豹変させた。必死な面持ちで、カウンター内のキーボードを叩き始める。彼は案外有名人なんだと、麻貴が感心したのも束の間、今度はわざわざ支配人が出てきて、泣きそうな顔で国際会議のせいで全室埋まっておりどうにもならない、とジョンに返事を持ってきた。ジョンがいらついた表情を見せると、支配人もフロントも頭をカウンターにぶつけるほどの勢いで詫びる。

「もうこんな時間です。他のホテルをあたるより、ミス・マキさえよければうちのゲストハウスに泊まっていただいてもかまいませんが・・・。どうでしょうか?」

 交渉をあきらめたジョンが、麻貴にそう申し出た。麻貴はもちろん固辞したが、フロントスタッフが、今夜は国際会議のせいで市内のどのホテルも満室なはずだ。それに彼の家は豪邸だから、そこに泊まれるのはとても幸運なことだと盛んに勧める。

「あなたの家は、あなた以外の人もいるの?」

「ええ、家族と使用人がいます。」

 麻貴はしばらく考えた。このままでは女性ひとり、危険な夜のマニラでどこへいくあてもない。

「それじゃ、みんなこっちに集まって。」麻貴が、ジョン、運転手、そして支配人を集める。

 フロントマンに麻貴のスマートフォンを渡して、彼女を中心とした記念写真を撮らせた。なぜここでと唖然とする男達。一方写真を撮ったフロントスタッフは、麻貴が言った「ハイ・チーズ」という聞きなれない言葉の意味をしきりに質問する。麻貴は質問を無視して、ジョンに写真を見せて言った。

「これを私のフェイスブックに載せるからね。もし私の身に何かあったら、あなたを犯人だと世界中の人が知ることになるわ。覚悟しなさいよ。じゃ、行きましょう。」

 ジョンも運転手も記念写真の意味を知って、首を振りながら麻貴の後ろに従った。麻貴は再度リムジンに乗りこんだものの、ジョンと話しもせずに自分のスマートフォンの操作に忙しい。しばらくしてジョンの家に到着した。たどり着いた家は、豪邸どころか、麻貴の想像をはるかに超えた『宮殿』だった。実際彼女も帰国後に、ジョンの家を『マニラのベルサイユ宮殿』と友達に説明したほどだ。

 

 マムが病室で目を覚ました。手を握っていたドナがそれに気づき、喜んで呼びかける。マムは、周りをゆっくりと見回して、自分の置かれた状況を思い出しているようだった。ドナは、早口に何が会ったのかを説明した。マムは、ソファに横になって寝ている佑麻を認め、口をゆっくり動かして話し始めた。

「うるさいよドナ、少しお黙り。天国でお前の父さんと久しぶりに会って楽しんでいたのに…。そこから無理やり連れ戻したのはあの男かい?」マムはあごで佑麻を指し示す。ドナはうなずいた。

「そうかい…。図々しく私の胸を触っている男がなんとなく記憶にあるが、それもあの男かい?」

「マム!」

「Sabi ko na nga ba salbahe ka eh.

(やっぱり…。こいつが悪い男だとは分かっていたけどね…。)」

 マムはそう言うと、また眼を閉じて眠りについた。

 

 ジョンの大きなデスクにある電話が鳴った。ジョンのオフィスはマカティ(Makati)シティのビジネス街にあり、その中でも人目を引く高層ビルの一画に設けられている。実はこのビル全体が彼の祖父が創業した会社のものである。会社は、彼の祖父が小さなアイスクリーム屋から全国トップシェアのファーストフードチェーンに育て上げたものであり、今は彼の父が社長、彼はマーケティング室長を務めている。電話を取ると、秘書がパレス、彼の家のことを皆そう呼ぶのだが、からの電話だと取り次ぐ。

「坊っちゃま、お連れになった女性のお客さまを何とかしてください!」執事長からの電話だった。

「どうかしたのか?」

「メイドを集めて、あちこちを掃除して歩かれているのですよ。プールにでも入っておくつろぎ下さいと、何度申し上げてもお聞きにならず、バルコニーとか、トイレとか…。いくら坊っちゃまの大切なお客様だとしても、旦那様と奥様がご旅行でご不在の時に、こうあちこち触られては、私の立場がございません!」ジョンは思わず吹き出した。

「わかった。帰ったらよく言っておくよ。」

 ミス・マキらしいな。ジョンは受話器を置きながらつぶやく。ふと思い出し、デスクから写真を一枚取り出した。朝、麻貴から渡されたのだ。

『この写真を撮った場所を調べられるかしら。やってくれるなら、家の仕事を手伝うから…。』

 ジョンは麻貴の言葉を思い返しながら、ここに写っている男と麻貴の関係を思いあぐねた。仕方ない。彼はインターフォンを押して、部下を呼ぶように命じた。

 

 麻貴はパレスの大きな庭をチェックしているうちに、隅の一画に古ぼけた離れ家があることに気づいた。家の前に荒れた庭園のある小さな洋館は、人の訪れを拒んでいるようなたたずまいだ。、またこういうものを放っておけないのも麻貴の性格だ。錆びた庭門を開けて中に入る。さらに、洋館のドアノブを握ったが、鍵は掛っていないようだった。足を踏み入れると、キラキラひかるほこりの向こうに、壁に掛った立派な額装の画が見えた。背後に若い夫婦を従え、豪華な椅子に座る自信に満ちた初老の夫婦。その膝の上にはこどもがいる。どこかで見た顔だなと、しばらく考えるうちにそれがジョンであることに気づいた。

 周りを見渡すとそれぞれの家具や室内の空気が、朽ちているとは言わないが、かなり澱んでいる感じがする。オーク材でできたキャビネットの上に写真立てがあり、見ると、幸せそうな笑顔で寄り添う老夫婦が写っていた。ああ、あの絵と同じ老夫婦か。その時背後で物音がした。

「家主の許可もなく入ってくるとは、非常識にもほどがある!」見ると、車いすに座った老人が、眉間にしわを寄せてがなりたてていた。もとより麻貴にはタガログ語が分かるはずもないので

「こんにちは、おじいさん。これからこの部屋を掃除しますから、埃をかぶらないように外に居てくださいね。」とまったく取り合わない。

「わしは、誰とも話す気はない。この家から出ていけ!この無礼者!」

 老人は、タガログ語でもかなり汚い言葉で麻貴を罵倒しているが、麻貴はいっこうに構わず、笑顔で車いすのハンドルを取ると庭に押していった。庭にあったパラソルで日陰を作り、ガーデンテーブルをどこからか見つけ出してきて老人の前に置く。老人は、何を言っても動じない、いや通じていないのだが、どこの国の人ともわからないこの女性に唖然とした。麻貴は、家の中から小さくて奇麗な絵皿を取ってきて、自分が日本から持ってきていたチョコレートを盛る。

「勝手に家のものを持ち出すでない!」と青筋を立てて、さらにがなりたてる老人の口に、麻貴は小さなチョコレートをひとつ放り込んだ。

「お口は怒鳴るためにあるんじゃないですよ。」老人はこの麻貴の意外な行動で口を封じられた。

「きゃっ!おじいさん助けて!」今度は、あろうことか麻貴が老人にしがみつく。見ると蜂が、チョコレートを狙って飛んできたのだ。老人は仕方なく、片手で蜂を追いやったが、麻貴はそれでも老人にしがみついて震えている。

 こんな麻貴を見て、おもわず老人の口元がゆるんだ。絵皿、チョコレート、蜂嫌い。これらはすべて、数年前になくした最愛の伴侶の嗜好そのものだったのだ。老人は、妻を亡くしてから失望のあまり、今は外界との接触を絶っている。妻は、世界中から集めたきれいな絵皿に、大好きなチョコレートを盛って、幸せそうに彼に微笑んだものだ。そして、庭いじりの最中に蜂に襲われると彼の陰に隠れ、いつまでも震えていた。麻貴を見ながら、そんな妻の面影を重ねて、懐かしく思い出していた。

「おじょうさんも、蜂が怖いのかい?」老人は、こんどは麻貴にもわかるようにと、不得意な英語で話した。

「ええ、大嫌いです!」

「亡くした私の妻も、蜂が大嫌いでね。私の名はトニーというのだが、ケンカした時は、『Tony Bee!! I hate you!!(トニーの蜂野郎!大嫌いだ!)』といってよく私を蹴ったものだよ。」

「その気持ち、よくわかります。」コロコロと笑う麻貴。

「それが悔しくてね、妻への当てつけで、自分が作った店の名前を『Jollibee(ジョリービー/お祭り気分の陽気な蜂野郎)』にしてやったのさ。」老人も久しぶりに笑った。

 

 マムの看病をミミと交代し、ドナと佑麻が久しぶりに街に戻ると、佑麻を見る人々の目が一変していた。『彼がマムの心臓を生き返らせたユウマだ。』『彼の一族は皆ドクターだって。』『彼は日本に幾つもの大きな病院を持っている。』『彼はいつでも心臓を止めたり動かしたりできるそうだ。』噂は街に広がるとともに誇張され、噂だけ聞けば彼はあたかもハリー・ポッターであるかのようだ。家に向かう道すがら、すれ違う人々がふたりを遠巻きに見ているかと思えば、中には感極まったように、佑麻に握手を求める老人までいた。

 家に着いて、看病から解放されたふたりは、美味しい家庭料理、久しぶりのシャワー、柔らかい寝床を満喫し、貪るように睡眠をとった。そして翌日から、異変が起きた。いつもの朝のように、佑麻とソフィアが、パンデサールを買いに行こうと門を開けると、家の前に大勢の人が集まっていて、出てきた佑麻を取り囲む。驚いてドナがその理由を聞くと、佑麻から心臓蘇生法を教えて欲しいと言う。ドナは、彼は正式のインストラクターではないから教えられないと説明し、帰ってもらおうとしたが、実際にマムの心臓を蘇らせたのだから、そんなことは関係ないと動こうとしない。実のところフィリピンの成人死亡原因のトップは心疾患で、人口10万人に対し約80の数字。それは、約250世帯にひとりの割合で、ポックリ病(心不全)で亡くなっていることを意味する。もし自分の親の心臓が止まったとしても、それを蘇生できる方法を身につけられればこんな安心なことはない。

「どうしよう?ドナ。」

「これは、やるしかないんじゃない。」

 ドナと佑麻の第一回心肺蘇生法市民公開講習は、その日の夕方行われた。開催のニュースは、チャンパカ通りからサンロケ区に広がり、参加希望者が拡大した。当初予定していたコミニティハウスでは到底収容しきれなくなり、ファーザーの理解のもと会場を急遽教会に変更。嫌がるドミニクを傷病者に見立て、佑麻が段階を追って説明し、それをドナがひとつひとつ丁寧に翻訳した。説明のあとは全員で試技。ペアになったおばさんの執拗なマウストゥマウスから逃げまわるドミニクの姿が、会場の爆笑をかった。講習が終了すると参加者の全員が佑麻とドナそしてドミニクに握手を求めてきて、彼らは心地よい疲労感とともに深い充実感を味わっていた。

 翌朝、佑麻とソフィアが外へ出ると、今度は隣町のコミュニティーリーダーが立っていた。第二回目もすぐに開催され、その後も噂を聞いた各地域から、たび重なる開催要請を受けた。繰り返し講習を実施したおかげで、ドナと佑麻がやっていることを徐々に理解してきたドミニクが傷病者から説明員にまで成長。彼の助力もあり、マムが病院から帰ってくる頃には、10回を越える開催回数となっていた。

 

 昼に講習が予定されていたある朝。例によって、ソフィアに蹴られて起こされた佑麻は、歯を磨こうとバスルームへ向かう。鏡の前で眠い目をこすりながら歯ブラシを探していると、ソフィアが真新しい歯ブラシを持ってきた。

「マムがこれ使いなさいって。」

 家に婿を受け入れる時は、まず箸と歯ブラシを与えるというが、この国も同様であろうか。佑麻はニンマリしながら歯を磨いた。

 その日の講習は女性が多かった。フィリピン女性の社会意識は非常に高い。佑麻はマイクを片手に、空調もないホールで汗だくになりながら説明する。美しい線を描くあごから滴り落ちる汗が光る。Tシャツから時折のぞかせる割れた腹筋。ドナは、そんな佑麻をうっとりと眺めた。スケートリンクで踊った時の彼も、ドナの大学の校門で拾った時の彼も、それは魅力的だった。しかし今の彼はもっと魅力的だ。時を経るごとに魅力を増す彼は、この後はどんな男に成長するのだろう。この男の明日を見てみたい。ドナの頭に初めて『この男と生きたい』という言葉が浮かぶようになっていた。

「おいドナ!なにしてるんだ。早く訳せよ。」

 佑麻に呼びかけられて、ドナは我に返った。あわてて通訳を再開する。

 今回の参加者は積極的で、質疑応答は心肺蘇生法にとどまらず育児にまで及んだ。特に子供の発熱への初期対応が彼女たちの最大関心事である。もとより佑麻は専門科ではないので、そのことはドクターに聞くことを勧めたが、母親たちは、病気になった時しかドクターと話しができないと嘆く。

 その時、会場のドアが乱暴に開け放たれた。暑いのに、黒い長靴で濃紺の長ズボン。同じ濃紺の長袖シャツに『PULIS』と書かれた制服を身にまとった男たちが乱入してきた。騒然とする場内。男たちは一直線に佑麻に突進すると、その手に錠を掛けた。驚いたドナは、男たちに猛然と抗議するが、男たちはただ黙ってドナに紙きれを示す。

「医師保健法違反の容疑(無資格者の医療行為)」

 男たちは周りの抗議に構いもせず佑麻を連行しようとした。アシスタントで来ていたドミニクも男たちに飛びかかるが、屈強な男たちに敵うべくもなく一蹴される。場内から沸き起こるブーイングで、ホールの窓ガラスが揺れた。ドナは叫びながら佑麻にしがみついて離れない。男たちは乱暴にドナを引き離すと、無情に佑麻を引き立てた。ドミニクの手を借りて立ち上がるもまだ取り乱すドナに、佑麻は目で、『無理に抵抗するな、大丈夫だから』とサインを送った。

 

 ジョンはパレスの中庭で、信じられない光景を見た。祖母の死後、かたくなに外界との接触を絶っていた祖父が、麻貴と楽しそうに庭いじりをしているのだ。しかも時折、声をあげて笑ってさえいる。祖父が気づいてジョンを呼び込んだ。

「ミス・マキから聞いたよ。どうやらわしが仕込んだフェンシングが役に立ったようだな。」

「ええ、そのようです。今更ですが、お礼を申し上げます。…ところで、外の日差しはお体に障りませんか?」

「いや、たまに麻貴さんに連れ出してもらうと、気分も明るくなるんでな。」

 麻貴と祖父はお互いを見合いながら笑った。ジョンは、麻貴の側に近づき小声で囁く。

「どんな魔法を使ったのですか?」麻貴は笑ってとりあわなかった。

「ところで、ミス・マキ。写真の場所がわかりましたよ。しかも、写っている彼の居場所もわかりました。」

「えっ、本当に!」

「彼は今、マラボン(Malabon)市警の留置所に居ます。」

 

 佑麻はなぜか灼熱の砂漠を歩いていた。どこかへ行かなければと焦っていたが、そのどこかがわからない。歩いて、歩いて、ついに体の水分を使い果たし、砂丘の底に転げ落ちた。薄く目を開けると、衰えを知らぬ太陽が容赦なく佑麻を照りつける。水が欲しい。しかし、こんな砂漠には一滴の水もあるわけがなかった。日差しの中から、ふたりのエンジェルが舞い降りてきた。ああ、いよいよ自分もお終いかと観念した時に、エンジェルの肩に水筒が掛かっているのを発見する。

「その水を下さい!」

 最後に残った力を振り絞って叫ぶ。しかしエンジェル達は、佑麻が言っている言葉がわからないようだった。

「お前らエイリアンか? その水をくれと言っているのが、わからないのか!」

 しかし、やはりエンジェルは首を傾げて、佑麻を不思議そうに見ているだけだ。ああ、言葉が通じればあの水を飲めるのに。そう思いながらも意識が遠のいていった。その時、突然どこからかメリー・ローズが現れた。メリーが佑麻に微笑みかける。そうだ、彼女はエンジェルと話せるのだ。

「メリー、エンジェルにその水を飲ませてくれと言ってくれ。」

 彼女は笑顔でうなずくと、佑麻では理解できない言葉でエンジェル達に話しかけた。ようやく理解したのか、エンジェル達は、佑麻に水筒を差し出す。佑麻は、喉を鳴らして一気に水筒の水を飲み干した。やがて力を取り戻した佑麻が立ち上がる。みると、メリー・ローズが彼の進む方向を指差していた。

「そっちにいったい何があるんだ、メリー。」彼女は佑麻の問いかけには答えようとせずに、エンジェル達とおしゃべりしながら、天空へと登っていく。

「教えてくれ、メリー!」そう叫んだ自分の声に驚いて、佑麻は目を覚ました。今度は、彼は留置場に居た。

 

 ナボタス・シティに隣接するマラボン・シティ、そこには中規模な警察署があった。今日はその入口に、ドナやドミニクとともに群衆が取り囲んでいる。それは佑麻逮捕への抗議の集団だった。するとその集団に割って入るように、黒いリムジンが横づけされた。運転手がドアを開きリムジンから出てきたのは、スーツに身を固めたジョン、軽快なデニムパンツの麻貴、そして大きな書類カバンを抱えた弁護士であった。3人は入口で止められている群衆を尻目に、警官の敬礼を受けて建物の中に入っていく。ドナは女性が日本人でしかもそれが麻貴であると認めると、さらに心が乱れた。

 麻貴は建物の奥に進み、鉄格子の中に佑麻を発見した。数週間ぶりに見た彼は、日に焼けた肌に、身体のあちこちの筋肉のエッジが鋭くなって、以前に比べると精悍さを増したように感じる。彼は膝を抱え床の一点を見つめていた。

「佑麻!」急に日本語で自分の名前を呼ばれ、彼は驚いて声の主を見た。

「麻貴!何でお前がここに?」

「何でじゃないわよ!とにかく弁護士さん連れてきたから、何でこうなったか説明して。」

 麻貴は、ジョンが気を利かせて連れてきてくれた弁護士を佑麻に紹介する。

「説明ならドナにしてもらおう。ドナを呼んでくれ。」

 弁護士の要請で、ドナが呼ばれた。部屋に入り、鉄格子の内側に佑麻を認めると、潤んだ目で鉄格子に張り付き、佑麻と指を絡ませた。そんなふたりを麻貴は腕を組んで睨んでいる。ジョンは部屋の片隅で、佑麻、麻貴、ドナの動向を見つめ、必死にその関係性を推理しているようだった。やがてドナと弁護士が奥の机で、話し始める。ドナがものすごい勢いでまくし立てているのを横目で見ながら、佑麻と麻貴は日本語で話し始めた。

「麻貴は何しにここへ来たんだ?」

「あなたを連れ戻しにきたのよ。」

「なんで?」

「行き先も告げず、急に出て行ったから、みんな心配しているのよ。」

「そうか…。心配かけてすまないが、子どもじゃないんだから、帰るべき時には自分で判断して帰れるよ。」

 そう言う佑麻の物腰に、麻貴は今までにない骨太なものを感じ戸惑った。

「それじゃ、あまりにも自分勝手すぎない!」

 戸惑いを紛らわすように一層語気を強める麻貴だが、佑麻は軽くかわす。

「ところで、麻貴と一緒にいる紳士は誰?」

「ああ、彼。こちらで知り合って、お世話になってるの。ジョンよ。ジョン、こちらはユウマ。」

 ふたりは鉄格子をはさんで握手を交わす。

「麻貴を世話するのは大変でしょう。」

「いえ、とても光栄なことと思っています。」

 ふたりは見つめ合う瞳の奥で、麻貴に対する共通な認識を確かめ合い思わず笑いあった。

「何が可笑しいのよ。変な人達ね。」

 やがて、ドナと弁護士の話が終わり、今度は弁護士が警察署長に何やら話し始める。弁護士の主張が通ったのか、話が終わると警察署長は首を左右に振りながら、佑麻を留置所から出すように部下に命じた。警察関係者以外の全員が安堵に顔がゆるむ。しかし麻貴だけは、佑麻を自分のいるパレスにとにかく連れ戻そうと、鉄格子から出てくる彼に腕を伸ばした。しかし佑麻はそんな麻貴には目もくれず、一直線にドナのもとへ駆け寄り、彼女を抱きしめたのだ。麻貴は伸ばした腕をだらりとおろして、呆然とふたりを見つめる。その瞳の奥に隠された失意を、ジョンは見逃さなかった。そして、ジョンは麻貴を取り巻く事情をようやく理解した。

「申し訳ないけど、今日はいろいろあってドナも疲れているから、このまま帰るよ。」振り返って言う佑麻の右手には、ドナの手が握られていた。

「みなさん。ありがとうございます。落ち着いたらあらためてお礼にお伺いします。それから、ジョンさん。麻貴をよろしくお願いします。」

 ふたりは、部屋に残るジョンと弁護士にペコリとお辞儀をした。自分の国の習慣にはないお辞儀を、佑麻に従ってするドナのしおらしい姿は、さらに麻貴の心を逆なでした。

「麻貴、また明日にでも連絡くれよ。」と言って、佑麻はドナとともに警察署を出ていった。外では抗議で集まった人々が、佑麻の姿を見て歓声をあげた。

 

 家で落ち着きを取り戻したドナは、その晩の料理に腕を振るう。解放された佑麻の労をねぎらうためだ。ドナが佑麻の皿に甘酸っぱいスパゲティを盛りながら言った。

「ドミニクが警官の友達から聞いた話だと、どうやら近くの病院が患者を奪っていると誤解して、警察に通報したらしいの。こんなことになるなら、もう講習会は出来ないわね。」

「このまま終わりにして良いんだろうか?」皿を受け取り佑麻が言う。

「しょうがないじゃない。人のためにやっているのに、牢屋に入れられるんじゃ、やる意味がないわ。」

「その牢屋の中で考えたんだけど…。ここは、街の人とドクターの間に距離があり過ぎるよね。」

「どういう意味?」

「みんな病気になるまでドクターと話すことができない。本当は、病気になる前に話すべきなのに…。」

「ナースがその役目をすれば良いじゃない。」

「いや、ナースはあくまでもドクターのアシスタントだよ。仮にその役目をしようとしても、今でも忙しくて大変なのに、さらに仕事が増えるなんて無理だろう。」

「日本はどうなの?」

「社会保障が確立しているから、みんな気軽に病院へ行ってドクターと話をするよ。必要のない人まで病院に行くものだから、いつも病院は人でいっぱい。ドクターに会うまで何時間も待たなければならない時もある。」

「それはそれで大変でしょう。」

「とにかく、この地域だけでもいいから、ナースに代わって街の人と病院との間をつなぐ役目の人達がいると助かるよね。」

「医療はかなり専門的な知識が必要だから、そんな人を育てるのは簡単じゃないわ。」

「いや、もっとシンプルに考えればいい。なにも難しい診断や治療に関する知識は必要ないんだ。近所のおばさん、おじさん、お嬢さんでいい。ドクターやナースが来てくれるまでの間、心肺蘇生法の方法、発熱時の対応、出血への初期対処、このどれかだけでも、身近に知っている人がいれば…。例えば、ミミが知っていたとしたら、マムはとっても安心だろう。」

「わかるけど…。でもどうやって育てるの。」

「今までやってきたことの延長線でいい。街の人を集めて講習会を開くんだ。ただし今度は、今までにはなかった三つのものが必要だけどね。」

「何?」

「地域行政に顔が利くオーガナイザー(主催者)、医学的裏付けと講習を助けてくれるメディカルアドバイザリースタッフ、そして街の人が来やすい講習会の会場設定だ。」

「うーん…。話を聞いてたら、何かドキドキしてきちゃった。そうしたら、手始めに何から始めたらいいの?」

 佑麻は話を止め、黙々とスパゲティをほおばる。

「だから、何からやったらいいの?」佑麻は、相変わらずスパゲティを食べ続ける。

「スパゲティ食べるのやめて、答えなさいよ!…まさかここまで私を興奮させておいて、この先はどうしていいかわからないなんて、言わないわよね!」

 

 麻貴は、パレスの中庭のベンチに座り込み、彼女の心に生じる切なさとプライドとの葛藤に必死に耐えていた。今は亡くなっているが、麻貴が大好きだった祖父と佑麻の祖父が同窓という縁があり、彼の家族とは古くからお付き合いを重ねてきた。幼稚園時代から今まで、彼と写っている写真がどれくらいあるだろう。おとなしい彼はよくクラスのわんぱくからいじめられた。それをいつも助けていたのは、麻貴だった。泣きじゃくる彼をおぶって、家まで連れて帰ったことさえある。そのせいか、幼い頃はいつも佑麻が麻貴の後を追ってきたものだ。それが、彼の身長が急に伸びだし、声変わりもしてくると、いつしか麻貴が佑麻を追うようになってしまった。彼女が行く高校や大学を決めた理由は、彼の存在以外の何ものでもない。それでいて、プライドの高い麻貴は、自分から告白しようと一度も思ったことが無い。

 しかし、今日の彼の態度はなんだ。危険を顧みず、彼の安否を心配してやって来た麻貴に対して、あまりにも冷たく失礼な仕打ちではないか。結局佑麻にとって麻貴は、身内でしかないのだ。異性を想う佑麻の気持ちはドナにしか向いていないということを、今日つくづく思い知らされた。

「横に座っても良いですか?」

 気づかぬうちに、ジョンが麻貴のそばに立っていた。

「ごめんなさい。今は、ひとりにしておいてくれないかしら。」

 ジョンは麻貴の断りにも構わず麻貴の横に座る。

「私の声が聞こえなかった?」

 少し語気を強める麻貴。それでも動こうとしないジョンに業を煮やし、自分が立ち上がろうとする。その腕をジョンが取った。

「失礼を承知でお願いします。2分間だけ、私の横に座っていて下さい。」

 麻貴は、仕方なく座り直したが、顔はジョンとは反対の方向にソッポを向いた。ジョンは言葉もなくただ自分の腕時計を見ていたが、やがてその時がきて指を鳴らす。

「時間です。」

 その瞬間に、庭灯りが一斉に消えた。そしてドンという太鼓のような音が遠くでしたかと思うと、夜空の天空に大きな火の華が開いた。やがて火の華はその数を増やし、麻貴が以前隅田川で見た花火大会さながらの呈で夜空を染めた。

「うわぁーすごい!今夜が花火大会だったんだ。偶然にしては出来すぎよね。」

 麻貴が、花火が放つ火の粉のきらめきを瞳に映して言った。

「いえ、偶然ではありません。」

「どういうこと?」

「この花火は、今夜だけ、ミス・マキのためだけに、私が打ち上げさせました。」

 麻貴は、呆れてジョンの顔を見た。

「あなたがいくら金持ちだからと言っても、お金の無駄遣いにもほどがあるわよ。」

「祖母が落ち込んでいる時に、祖父がやったそうです…。祖母は今のミス・マキのようにお小言を言ったあと、でも元気が出たととても喜んでくれたそうですよ。」麻貴の胸が小さくキュンと鳴った。

「まだまだミス・マキのことをわかっているとは言いませんが、泣きたい時には、いっそ泣いたほうが、早く元気が戻るかもしれませんよ。」

「私は生まれてこのかた、男に涙を見せたことはないのよ。」

「私だって今まで、同席を断られた女性の横に、図々しく座るなんて非礼をしたことがありません。」

「…私の涙を見たら、ただじゃ済まないわよ。」

「…よく意味はわかりませんが、覚悟はできているつもりです。」

 今なお盛んに打ち上がる花火。しばらく花火を見ていた麻貴の頭が傾き、やがてゆっくりとジョンの胸にあてられた。ジョンは膝においた自分の手の甲に、冷たいひと雫を感じた。

 

 マカティ・シティのジョンの会社のロビーに、ドナと佑麻、そして麻貴がいた。ドナと佑麻はジョンに先日のお礼を言いに来たのだが、佑麻にせがまれて、麻貴はそれのお付き合いでやってきた。久しぶりの都市部へのお出かけとあって、ドナはスカート、佑麻は白いワイシャツとスラックスという出で立ちで来たが、麻貴は相変わらず軽快なデニムパンツ姿だ。

「ねえ、麻貴。ジョンの会社ってすごいな。何の会社なんだ?」

 佑麻が、豪華なロビーを見回しながら言った。

「ジョリービーっていうお店をやっているらしいんだけど…。」

 麻貴の返事にドナが割って入る。

「この会社は、ジョリビー・フード・コーポレーションといって、ジョリービーというフィリピンで最大のファーストフードチェーン店を運営しているの。国内では約1300店舗、外国にも約170店舗あるのよ。あの世界のマクドナルドでさえも、この国では2番手なのは驚きでしょ。それに、ジョリービーの他にも、ピザのGreenwich(グリーンウィッチ)、中華料理のChowking(チャウキング)、ケーキ専門店のRed Ribbon(レッドリボン)、焼き鳥のMang Inasal(マン・イナサル)、それにフィリピンでのDelifrance(デリフランス/ベーカリー)のフランチャイズも運営していて、数えきれないくらいの店舗があるのよ。」

「へー、すごいな。…で麻貴、ジョンは、この会社で何やってるの?」

「日本で言う取締役マーケティング室長ってところかしら。彼のお父さんがCEOで、おじいさんが会社の創立者よ。」

「そんなすごい人たちとどうやってお友達になったんですか?」

 ドナの問いに麻貴は言葉を濁す。

「まあ、いろいろあって…。ところで、なんでジョリービーという名前にしたか知ってる?」

 麻貴のクイズの答えを聞かぬうちに、秘書がドナ達を呼びに来た。

 

 ジョンのオフィスでは、先程からシニアマネージャーからの営業報告がおこなわれていた。シニアマネージャー達は、今日は朝からジョンの機嫌がすこぶる悪いと秘書から耳打ちされていたので、報告には細心の注意を払ったが、ジョンはそれでも報告内容の不備を鋭く、いや執拗に指摘した。ジョンの不機嫌の理由は麻貴だった。パレスでの朝食の時に、佑麻の安否の確認は出来たので、自分は飛行機のチケットが取れ次第帰国すると、急に切り出してきたのだ。別に何を期待していたわけではないが、彼女の感謝の言葉を聞いているうちに、ジョンの心にのどに刺さった骨のような異物感が生まれ、それが彼をイライラさせたのだ。

 ジョンはシニアマネージャー達に、営業報告書のやり直しを命じたあと、インターフォンを通じて秘書へドナ達を呼ぶように言った。

 

 ドナ達が秘書に導かれジョンのオフィスに入った。オフィスは全体のインテリアをマホガニー調に統一し、その広さと大きな窓から街を見下せる見晴らしの良さは、まるで映画に出てくるウオール街のエリート金融マンのオフィスそのものだった。ジョンは、大きなテーブルの向こうから彼らを迎えた。ジョンにすすめられ、ドナはソファに腰かけたが、一度座ると立ち上がりたくなくなるようなソファだった。

 佑麻は、ジョンにお礼を言い、ドナは持参した手作りのEspasol(エスパソル/ココナツが入った甘いお菓子)をお礼に渡した。ジョンは、そんなふたりの息のあった言動が、また麻貴を傷つけはしないかと、ハラハラしながら、ふたりからの礼を受け取った。

「ミスター・ユウマは、いつ帰国されるのですが?」ジョンの問いに佑麻が答える。

「もうしばらくは居るつもりです。」

 ジョンは佑麻とドナを見ながら、先に帰国する麻貴の無念さを察した。

「そこで、突然ですが、ご相談したいことがあるのですが…。」

 佑麻が急にあらたまった口調でジョンに話し始めるので、ジョンは少し警戒した。

「なんでしょう?」

 佑麻は、今自分たちがやりたいと思っている事をジョンに説明するようにドナに促した。ドナは、いきなり切り出してきた彼の意図が良くつかめなかったが、先日話しあった講習会のことを説明する。その間、佑麻は日本語で麻貴に説明した。一通りの説明を終えると佑麻がジョンと麻貴に、メディカルアドバイザリースタッフについては、ドナの大学の教授がボランティアスタッフを紹介してくれることになったと付け加え、そして続けた。

「そこでご相談なのですが、ジョンさんの会社に、このプロジェクトのオーガナイザーになって頂き、店舗の一部を講習の間だけ会場として提供して頂くことはできないでしょうか?」

 佑麻の突然のプロポーザル(提案)にドナと麻貴は顔を見合わせた。ドナは心配して佑麻の腕を取り、佑麻が大丈夫だよとその手に自分の手を重ねた。ジョンは、プロポーザルの内容自体には、たいして驚きはしなかった。しかし、ドナと佑麻の振る舞いを見ながらも、それでも庇護者のごとく佑麻を見つめる麻貴の視線を認めると、今まで彼の生涯で感じたことのない理屈の無い怒りが、胸に込み上げてきたのだ。麻貴、君はこんな仕打ちをされてもまだ彼への思いが断ち切れないのか。いったいこの男のどこがいいんだ。数時間後に、冷静になったジョンはそれを嫉妬だったと認識し、下品なことをしてしまったと後悔することになるのだが、その時はまだ本能の渦の中に居た。

「残念ながら、ご期待にはそえません。」彼は、インターフォンを押すと、とげとげしい言い方で秘書に言った。

「お客様がおかえりになる。」

 

 ドナは、秘書に送られて会社を出ると、開口一番、佑麻を責めた。

「お礼に来たのに、突然相談を切り出すものだから、ジョンが怒ってしまったじゃない。」

「いや、あんなに怒る方が変だろう。別に失礼なこと言ったわけじゃないんだから。」

 ふたりの口論に麻貴が割って入る。

「私は、佑麻やドナがやろうとしている事はいいことだと思う。それにしても、ジョンの断り方が変ね。彼らしくないわ…。ねえ、この話少し私に預けてくれない。ジョリービーの名付け親に相談してみるから。」

「えっ!」

 佑麻もドナも、そう簡単に言い放つ、麻貴の底知れないネットワークに度肝を抜かれた。

 

「そうか、そんな態度をあの子は取ったのか。」

 麻貴の話を聞いたトニー(創業者・ジョンの祖父)は笑いながら言った。

「あいつは、ミス・マキに出会ってから、どんどん人間らしくなっていくな。それで、ミス・マキは、なんとかその友達に協力してあげたいのだね?」

「ええ、彼らがやろうとしていることは、意義のあることだから…。」

「ミス・マキは本当にいいお嬢さんだ…。だが残念ながら、わしも引退した身だから、会社のことで息子や孫に命令することはできないね。」

「そうですか…。」

「しかし、孫のジョンを説得する方法なら教えられないこともないが…。」

「ぜひ、教えてください。」

「それは、ミス・マキに一役買ってもらわなけれはならないよ。昔、妻に学校を建てるカネを出せと言われたことがある。そんなことに金は出せないと断ると、この方法でこのわしからまんまと金を引き出しおった。しかも、その学校にはわしではなく妻の名前がついておる…。」

 麻貴は思わず噴き出した。

「はい、私のできることでしたらなんでもいたします。」

「質問なしで、わしの言うとおりにできるかい?」

「はい、信頼しています。」

「ならば、早速準備に取り掛かろう。」

 トニーは奥の部屋に消えると、しばらくしておめかしして出てきた。部屋着を見慣れている麻貴は、身なりを整えたトニーに普段にない品と威厳を感じて、少し気後れした。

「さあ、ミス・マキ。これからわしとデートをしよう。車いすを押しておくれ。」

 リムジンで向かった先は、世界の高級ブランドが集まるファッションモールだ。トニーは、麻貴をブティックに連れていくと、店内にある服を片っ端から試着させた。もともと背が高く運動好きな麻貴であったから、体の線は悪くない。出ているところは程よく出ていて、くびれるところもはっきりしている。トニーは、そんな麻貴のボディーラインを強調でき、しかも白い肌の色に映える扇情的な色のものを選んだ。そして、ヒール。ドレスの色とあわせた13センチヒール。下着もそろえた。もちろんトニーは下着のショップには同行しなかったが…。クリスチャン ディオール(Christian Dior)、クリスチャン・ルブタン(Christian Louboutin)、リズシャルメル(LISECHARME)。それらの買い物袋を抱えて、今度はヘアーメイクの店、ミッシェル・デルヴァン・パリス(MICHEL DERVYN PARIS)のマニラ店へ。聞きなれないブランドもあったが、すべてはフランス製でトニーに言わせれば、これらを選ぶのには意味があるとのこと。 本来の目的とは別に、彼は麻貴とのおしゃべりしながらの久しぶりのショッピングを、十分に楽しんでいた。

 ミッシェル・デルヴァンのドレッシングルームから、すべての準備を整えた麻貴が現れた。ポーズをつける麻貴に、トニーは美しく成長した孫娘を愛でるかのごとく、うっとり見惚れていた。

「どうです?何とか言ってくださいよ!」

 何とも云わないトニーに、心配になった麻貴が問いかけると、彼はようやく口を開けた。

「美しい。上出来だよ、ミス・マキ。でもこれからが本番だよ。よくお聞き…。」

 トニーは麻貴をリムジンに誘い、ジョンの居る会社に向かう車中で作戦を授けた。

 

「えーっ、そんなことして本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫、絶対に乗ってくる。それにあいつは品のないことは言わんよ。」

「…わかりました。やってみます。」

 会社の前に着き、リムジンから降りようとする麻貴にトニーが声をかける。

「何とも自信の無い目つきをしておるな。これを掛けなさい。」

 トニーは、カルティエ(Cartier)のサングラスを麻貴に渡す。麻貴は、サングラスをかけ、一度大きく深呼吸すると、ビルに向かって歩き始める。

『胸を張って、腰を振って、誰の制止にも妨げられず…。』トニーのアドバイスを何度も頭の中で復唱して、闊歩する。

「ミス!失礼ですが…。」受付の呼びかけも無視して、直接エレベーターに乗り込む。ジョンのオフィスの階で降りると、通路の真ん中を進み始める。社員たちは、突然乱入してきたセクシーな東洋美女に特別なオーラを感じ、自然と道を開けた。秘書が立ち上がり彼女の行く手を遮る間もなく、麻貴は、ジョンのオフィスのドアを勢いよく開ける。

『あちゃーっ…。』麻貴は心の中で叫ぶ。部屋の中では、ジョンが大勢のシニアマネージャー達を集めてのミーティングの真っ最中だった。サングラスをしていなければ、心の動揺が読まれてしまっていたかもしれない。ジョンを含めて、部屋の中の男性陣は一斉に麻貴を見た。

『何ものにも動じず、まっすぐ彼のところへ…。』心に言い聞かせて麻貴がジョンのところへ進む。ジョンは、慌てて椅子から立ち上がろうとしたが、麻貴その肩を抑えまた座らせる。そして、驚く彼を横目にスラリと伸びた足を組み、彼の膝の上に座ったのだ。男たち全員の目が、フランス製のル・ブルジェ(Le Bourget)のストッキングに包まれた麻貴の美しい足に釘付けになった。サングラス越しにジョンを覗き込みながら、麻貴が言った。

「あなたはビジネスマンでしょう。だから取引に来たわ。わたしのお願いを聞いてきてくれたら、あなたのお願いも一つ聞いてあげる。」

 シニアマネージャーが、一斉にジョンを見た。ジョンは、初めて香港国際空港で麻貴を見た時から、すでに彼女の美しさに魅かれていたのに、こうしてフランスの香りに包まれて、エキゾチックな姿で迫られては、もう彼女の魅力の前に白旗を上げるしかない。

「わかりました。取引しましょう。ミス・マキ、私の条件は帰国を伸ばしていただくことと、これからデートをしていただきたいということです。」

「それって、ふたつのお願いよね。」

「それに…。」ジョンは麻貴のサングラスをはずしながら言った。「これからは、マキと呼ばせてもらいますよ。」

「さすが優秀なビジネスマンね。交渉がお上手なこと。」

 シニアマネージャー達は、即刻会議から解放された。

 

 ジョンはカンファレンスルームに集まった記者達に、プロジェクトのステートメントを読み上げていた。ステートメントは、ドナが書き上げたものである。プロジェクト名が『エンジェル・トーカー プロジェクト』と発表された。命名者は佑麻である。市民の側にいてナースや医療者とのスムーズな橋渡しができる人をエンジェル・トーカーと呼ぶ。そしてそのような人をひとりでも多く育てる。ジョリビー・フード・コーポレーションは、このプロジェクトのオーガナイザー(主催者)になるとともに、講習会場として各地域の店舗スペースを提供する。講習会は、開催地医療機関からのボランティアスタッフの協力を得ておこなう。また、定められた複数のプログラムの講習会を終了した市民には、エンジェル・トーカー ワッペンを支給し、市民にその役割を公示する。澱みなく説明するジョンの発表を、ドナ、佑麻、麻貴は記者席から頼もしそうに見ていた。

「さらに…。」ジョンは続ける。

「当社は、このプロジェクトの一環として、チャリティーメニュー、『エンジェル・トーカー セット』を販売いたします。これは、売上金の一部を、難病と闘うこども達とその家族を支援する基金として充当されるものです。」

「素晴らしいわ!ジョンのアイデアなの?」

 感激するドナの言葉を、麻貴が軽く受け流す。

「いいえ、私のアイデアよ。ジョンの方の要求が多かったので、私の方も一つ増やしてやったのよ。」

 ドナも佑麻も麻貴の言っている意味が理解できずに顔を見合わせた。

 ジョンの説明がさらに続く。

「それでは、ここで大切なお客様をみなさまにご紹介させていいただきます。このプロジェクトの生みの親、ミス ドナリン・エストラーダです。」

 突然の指名に驚きながらも、拍手に促されてドナは席を立って挨拶した。これは、麻貴と佑麻がジョンに頼んで仕組んだサプライズだった。

 

 第1回エンジェル・トーカー講習会は、ナボタス・シティホールの前にあるジョリービーで開催された。ドナと佑麻は家の近くの開催ということもあり見学に来ていた。会場は、近隣に住む大勢の人々で埋め尽くされていて、熱のこもった講習が展開された。やがて講習会も終わりが近づくと、会場の様子を見ながら佑麻が日本語でポツリと言った。

「そろそろかな…。」

 ドナは、彼の言った日本語の意味がわからなかった。ただ、その言葉によって言いようのない不安感が彼女に生まれ、胸が痛くなった。家へ一緒に帰る道でも、ドナは彼の言葉の真意を確かめることができなかった。

 

 ドナの身辺が急に忙しくなった。ジョンからの依頼で、プロジェクトのシンボルとなって、会社の広報へ協力することになった。開催に向けて大きな力を貸してくれたジョンの依頼は断りきれない。また彼女自身、社会や大企業を動かしたスーパーガールとしてマスコミの注目を集め、多くのメディアに対応しなければならなかった。さらに、彼女の大学は活動を評価して、将来大学での教授の座の提供を条件に、海外への留学の話しを持ちかけてきた。地域ではもちろんいつも通り、隣人たちの世話も怠るわけにはいかない。家を空ける時間が増え、家族や佑麻とゆっくり過ごす時間が持てない。先日の佑麻の言葉からくる不安もあいまって、それが彼女に大きな焦燥感を与えていた。

 

 その日は突然やってきた。ドナはラジオ局DZRH‐AMのインタビューを受けるために、局のスタジオへ来ていた。ロビーでミネラルウォーターを飲みながらインタビュー部分の台本の確認をしていると、突然佑麻がやってきた。

「忙しそうだね。ドナがここだって聞いてね。家でなかなか話す時間が取れないから来たんだけど、インタビューが終わった後、少し話しできるかな?」

「ええ、これが終わったら、次の出番まで時間があるから大丈夫よ。ロビーの奥のスターバックスで待っててくれる。」

 ドナが局のスタッフに呼ばれ、スタジオに入っていった。彼女は、佑麻がどんな話を切り出してくるのか気になって、インタビューが上の空になり何度か番組のパーソナリティに質問の回答を促されることになる。佑麻は、ラジオを通じて流れてくるドナの声に耳を澄ました。早口のタガログ語で何を言っているのかわからなかったが、いつも親しんでいるペールトーンの優しい声とちがった、はきはきしたビビットな彼女の明るい声は、それはそれで洗練されていて美しい声だと感じていた。話している声で、ドナの顔の表情が浮かんだ。それができるようになるほど、ドナを身近に感じていた数か月だった。

 

「話って何?」

 スタジオから戻ってきたドナが、佑麻のテーブルに腰掛け言った。今までラジオを通して聞いていた声の主が、実際目の前に現れるとなんだか不思議な感じがした。

「実は…。」

 佑麻が頭の後ろで腕を組んだ。言いにくいことがある時の彼の癖だ。ドナは今ではそんなひとつひとつの仕草で、彼の心のうちの一端がわかるようになっている。彼女は少し緊張した。しばらくして佑麻は言葉を口にした。

「そろそろ日本に帰ることにするよ、ドナ。」

 スターバックスの紙コップをいじるドナの手が止まった。いよいよその時が来たのだ。ドナが一番恐れていた言葉だ。彼女は努めて平静を装いながら、ひとくちラ・テを飲んだ。

「『世界の都市から日本を考える』という課題はできたの?」

「あっ、いや…、」佑麻は、ドナついた嘘を今まで忘れていた。

「まあ、なんとか…。」

「そう…。課題をやっていた様子は見受けられなかったけどね。」

 ドナの皮肉をかわしながら佑麻は続ける。

「それに、ドナのおかげでようやく将来自分が何をやりたいのか、見つけることができたんだ。」

「そう、何になるの?」

「医師になる。それも病気を治すだけでなく、病気にさせない医師を目指す。今まで、医師の仕事は死にかけた人を治すことだと考えていた。だから、人の生死に直接かかわる勇気が出なかったんだよ。でも、ここでドナといろいろなことを経験させてもらって、人の病気を未然に防ぐ仕事もあるんだとわかったんだ。だから、日本に帰って医師になるための勉強をすることにした。」

 ドナは、コップを置き佑麻の手を取り彼と向き直った。

「素敵じゃない!」

「これでようやく自分の未来を想像できるようになった。だから…。」

「だから?」

「自分の未来を過ごす相手はドナ以外に考えられない。」

 この男もまた、私と生きることを望んでいる。ドナはその言葉がこの男の口から出ることを、どれほど待ち望んでいただろうか。ドナの心臓は高鳴り、天にものぼる気分で足が地につかなかった。

「何年か後に医師になったら、必ずドナを呼び寄せるから、日本で一緒に暮らそう。それまで待っていてもらえないかい?」

 しかし、次に佑麻の口からでた言葉は、ドナを宙に浮かせていた風船を破裂させた。ドナは無残にも地面に叩きつけられた。

「あなたの未来で、あなたと過ごす私は、日本で暮らしているの?」

 ドナの表情に失望の色を見て、佑麻は慌てた。

「えっ、ダメなのかい?向こうの方が、所得も高いし、安全だし、教育水準も高いし…。」

「そう…。ごめんなさい。折角だけど受けられないわ。」

 ドナはそう言い捨てると、出番でもないのに、足早にスタジオに戻っていってしまった。ドナの後ろ姿を見送りながら、佑麻は安易な申し出を後悔した。ただ好きだからという理由だけで言うべきことではなかった。その前にもっと考えるべきことが沢山あったのだ。

 その日の晩に、佑麻はマム、ミミ、ソフィアに帰国の意思を告げた。みんなは別れを惜しんだが、彼がいつか帰らなければならないことは承知していたので彼の帰国を祝福した。佑麻は彼の意思をみんなに通訳してくれているドナの瞳に、今まではなかった無表情を感じ心を傷めた。

 佑麻はドナと距離を置き、頭を冷やそうと努力した。今後の人生で、彼女を必要としていることは自分自身の心に問うても疑いがない。自分がドナの国で暮らすことを想像し、何とか受け入れようと努力した。しかしそれはなかなか難しい決断だった。家族、文化、暮らし、宗教、言語。それくらいの違いなら、ドナの為だったら、忍耐と努力で何とか越えられそうな気がする。しかし、ここで一生を終えられるのかとなると、それはなかなか難しい決断だった。日本人の佑麻にとっては、フィリピンがホームであると、どうしても思えないのだ。何の結論も見出せずに、むなしく帰国までの日々を過ごした。

 

 今日も遅く帰宅したドナは、グロートに出て池の金魚に餌をやった。見上げると、ひしめくトタン屋根の尾根の上に、大きな月が見えた。ドナは、ブドウ園で佑麻と見た月を思い出した。あの時は、佑麻を想い出の中に封じ込めようと決心しながら見た月だ。今、同じ決心ができるだろうか。大学の門前で佑麻を拾って以来数カ月、彼は異国の知らない人たちと関わりながら暮らした。決して迎合することなく、自らのアイデンティティーを保持しながら、こちらの人と暮らしを受け入れ、そしてドナの目からは同化していったようにさえ見えていた。しかし、佑麻はこちらでの生活を望んでいないようだ。『ジャパユキの私たちにとって、日本人と結婚するということは、自らの祖国を捨てなければできないこと』以前聞いた叔母のノルミンダの言葉が頭をよぎる。私は彼とともに生きたい。彼もまたそれを望んでいてくれているようだった。しかし彼の申し出に、自分の口から出てきたのは拒否の返事だった。ここまで自分を追いかけてくれてきた男に、なんであんなことを言ってしまったのだろう。後悔とともに、だからといってあらためて答えるべき返事も浮かばず、どうしたらいいのかわからなかった。気がつくと、マムが立っていた。

「ドナかい?遅かったね。」

「マム。起こしてしまったかしら、ごめんなさい。」マムはドナの横に腰掛けた。

「最近、いつも遅いから心配だよ。身体は大丈夫かい?」

「ええ、ジョンに頼まれた仕事はもうすぐ終わるわ。そうすれば落ち着くでしょう。」

「お前の帰りが遅い理由は、それだけではないだろう?」ドナは黙って答えない。

「ユウマと顔を合わせるのがつらいんじゃないかい?」

 母親は、娘の心を見通していた。ドナは、先日のラジオ局でのことをマムに話した。

「マムやみんなを残して、ユウマについて行くことはできない。」

 ドナはついに泣き出してしまった。マムは、娘の肩をだいて言った。

「ドナや。人の幸せは、何を食べるかではないよ、誰と食べるかなんだ。ましてや、どこのどんな家に住むかでもない、誰と住むかなんだよ。明日はユウマが戻る日だ。これ以上避けていても仕方が無い。ユウマはもう寝てしまったようだが、ユウマの寝顔を眺めにいってごらん。きっと答えが見つかるから。」そう言い残して、マムは自分の寝室に戻っていった。

 

 ドナは、2階に上がると佑麻の枕元に腰掛けた。佑麻は、ぐっすりと寝ていて、ドナがいることに気づいていない。月の光が佑麻の長いまつげに絡みつく。時が止まったようだ。ドナは佑麻がこのまま目を覚まさなければいいと思った。ここで佑麻が眠っている限り、時は止まりいつまでも一緒にいられる気がしていた。

 ドナは、佑麻との出会いから今日までを、丁寧に思い返した。バス停に立っていた佑麻。スケートリンクでの佑麻。熱に苦しむ佑麻。大学の門前で涙ぐむ佑麻。水を運ぶ佑麻。畑仕事をする佑麻。講習会をする佑麻。どの佑麻ももう自分の心の一部になっている。それを失うことは、こころの一部が欠けたまま生きるのと同じことだ。この男なしでは、この後の人生がいかに空虚なものになるのかは容易に想像できた。

 佑麻が寝返りをうった。Tシャツの胸もとから、彼の母のリングが見えた。彼にはじめて抱きかかえられた時に、これが彼女の頬に当たり、佑麻の存在を意識づけたリングだ。今考えれば、佑麻の母が、ドナに送ったサインなのかもしれない。

「佑麻のママ。教えてください。 佑麻の幸せのために、私はどうしたらいいのですか?」

 ドナは、リングを見つめながら小さくつぶやいた。

 

 佑麻が目を覚ました時は、ドナはもう家に居なかった。佑麻は、今日彼女が朝早くから家を出ていくことは聞いていた。ジョンの依頼でテレビ局GMAの『Eat Bulaga/イート・ブラガ』に出演することになっているのだ。もちろん、自分の枕元でドナが夜を明かしていたことなど知るはずもない。彼は今日の飛行機で帰国する。ドナにどうしたらいいのか、どうして欲しいのか、考えがまとまらないまま今日がきてしまった。ミミの用意してくれた朝食を取っていると、家の電話が鳴った。麻貴からの電話だった。

「佑麻、帰国するんだって!」

「ああ。」

「ああじゃないわよ。いつ帰るの?」

「今日の便。」

「えーっ!あたし聞いてないわよ。ほんとに自分勝手なんだから。私がなぜここに来たのか忘れたの?」

「じゃあ、一緒に帰るか?」

「今日の今日じゃ無理に決まっているでしょ。それに…、ジョンのおじいさんがうるさくて…。エンジェル・トーカー チャリティーのお世話でジョンの手伝いもあるし…。もう少しこっちにいるわ。みんなによろしくね。」

「ああ…、ところで、今日、ジョンはどこに行ってるんだっけ?」

「確か、テレビの仕事で、ケソン・シティのお店だったと思うけど…。そうだ、ドナも一緒のはずね…。そう言えば帰国したあとドナとはどうするの?」佑麻は何も答えなかった。

「ドナと何かあったの?」

「いや、べつに…。それじゃな!」

「ちょっと…!」 

 佑麻は麻貴のしつこい質問攻めにあう前に、電話を切った。

 佑麻は帰国の荷物のチェックをし、マム、ミミ、ソフィアにお礼とともに別れの挨拶をした。ソフィアは泣きながら、佑麻にしがみついた手をなかなか解こうとしなかった。タクシーを拾いに通りへ出る道すがら、街の人々に声を掛けられ、それぞれに別れを惜しんだ。ドミニクは、佑麻を兄弟と呼び、硬く握手を交わした。このままドナに会わずに帰っていいのか。何度も自問自答するが、では会ってどうするのかわからない彼は、ただ帰国の便に間に合うように、空港に向かうしかない。

 タクシーに乗り込み、行き先を告げる。シートに落ち着いた彼は、パスポートを確認した。パスポートを開けると、メモがハラリと膝に落ちた。

『Thank you for everything, Donna.』

 あの時、成田空港でのメッセージと同じだ。自分はあの時、ドナを目の前にして何も言えず別れて、結局ドナを追いかけてここまできたのではないか。このまま帰ってはあの時と何の変りもなく、また同じことになるのは目に見えている。ドナに会って何と言ったらいいかわからないが、とにかく顔を見て心に浮かぶ言葉を伝えよう。恐れずに、自分の心の決着を付けてから帰ろう。佑麻はドライバーに行き先の変更を告げた。

 

 『Eat Bulaga/イート・ブラガ』は、視聴者参加の国民的人気番組だ。Vic Sotto/ビック・ソトと Joey de Leon/ジョーイ・デ・レオンがメインホストとなって、生放送でスタジオや屋外に集まる視聴者とゲームを楽しむ。その番組スポンサーの一社でもあるジョリービーが、スポンサーの強みを発揮して、店舗で行われるエンジェル・トーカー講習会の模様を中継することになったのだ。屋外の中継担当は、コメディアンとして人気のJose Manalo and Wally Bayola/ホセとワーリー。人気者のふたりがジョリービーへやってきたので、店舗を大勢の人々が取り囲んでいた。佑麻は、人を掻きわけようやく入口にたどり着くと、ガラス越しにインタビューを受けているドナを見つけた。

 ホセとワーリーはドナをはさみ、カメラに向かって話しかけていた。

「それでは、このエンジェル・トーカー プロジェクトを起動させた、スーパー・スチューデントをご紹介します。ミス・ドナリィン エストラーダです。」ドナは拍手に包まれた。

「ミス・ドナ すごいことをやったね!」

 メインホストのビック・ソトがスタジオから、話しかける。

「いえ、これは私だけの力ではありません。日本の友達、ジョリービーのジョンさん、その他沢山のみなさんの力があったからできたのです。」

「いやいや、そうだとしても、君がいなければできなかったことだよ。学生の君がこんな大きなことを成し遂げてしまったのだから、大学を卒業してからがまた楽しみだね。今、政府機関からの誘いや、大学では奨学金で海外留学の話もあるんだろう。将来どんなことをやりたいと考えているのか、よかったら聞かせてくれないかな?」

 ドナは、しばらく考えていたが、意を決したようにビック・ソトへ答えた。

「卒業したら私は、今日帰国する彼を追って日本へ行きます。愛する彼は日本人なんです…。」

 誰もが予想していなかったドナの答えに、さすがのベテランホストのビック・ソトも言葉を失った。進行が止まってしまいコメディアンのホセとワーリーが、あわてて言葉をはさむ。

「えー、僕たちフィリピン人を置いて、日本の彼のところへ行ってしまうって言うのかい?」

「勝手を言ってごめんなさい。」

 疑問を投げかける声、嘆く声、非難する声、肯定する声でスタジオや店舗が騒然となった。

 

「すみません。今、彼女はなんて言ったんですか?」

 佑麻は入口に配置されたスタッフに英語で聞いた。

「すべてを捨てて日本の男を追っかけるんだってさ。考えられないよな。だって…。」

 スタッフは質問された相手が日本人とわかり口をつぐんだ。

 その時…、彼はこのことを生涯誰にも言うことがなかったが、胸にかけたリングが『キン!』と鳴った。その波動が、胸に伝わり言葉ではない言葉が胸に響いた。

『私はお墓にいるのではなく、あなたの心の中に居るってことがまだわからないの。』

 何かが解けた気がした。そして、その波動は、胸から口に伝わり言葉となった。

「Hindi! Donna!(違うんだ、ドナ!)」

 佑麻は叫びながら、ガラス戸を叩いた。驚いて、ホセとワーリーが彼を見た。

「もしかして、ミス・ドナが追って行く日本人は、彼のこと?」

 空港に行っているはずの佑麻をそこに見出し、ドナは目を見張った。

「はい…。」

 ドナの、返事を聞くとホセとワーリーがスタッフに、彼を招き入れるように言った。ドナに歩み寄る佑麻がテレビに映し出された。フィリピンの全国民が固唾をのんで見守る。ドナは、足がすくんだように動けない。両手を胸で握り締め、何かを祈るような姿で佑麻を見つめた。ついに佑麻がドナの前に立った。ホセは日本語が多少わかるので、佑麻の言葉をテレビの視聴者に通訳する。

「ドナ、苦しめてごめん。やっとわかったよ。僕のホームは日本にはない。僕のホームは君の腕の中にある。君の腕の中で一生を終えることが、自分の一番の幸せだ。だから…。」

 佑麻は、首にかかるチェーンを引きちぎるとリングを握りしめ、ドナの左手薬指にはめた。

「だから、ママと一緒にここで待っていてくれ。医者になって戻ってくるから。いいね?」

 佑麻の言葉に、喜びの涙を目にいっぱいためたドナが小さくうなずく。今度こそドナは、堕ちることのないエンジェルとなって宙を舞った。

 スタジオ、店舗、そしてテレビの前、この光景を見ていたすべての人々が喝さいした。こうして、ドナリィンの恋の行方は生放送でフィリピンの全国民が知ることとなり、大いなる祝福を送ったのである。スタジオに居るビックとジョーイが叫んだ。

「Happy Donnalyn! (ハッピー! ドナリィン!)」

 

 ドナとジョリービーで会ったおかげで帰りのデルタ航空に乗り遅れそうになった佑麻を配慮して、テレビ局GMAが社用車で彼を空港まで送ってくれた。慌てて空港に飛び込むと、入口の警備員が彼の顔を見て言った。「Sa muling pagkikita!」 

 デルタ航空のカウンターでチェックインを終えると、チケットを手渡す女性スタッフが彼の顔を見て言った。「Sa muling pagkikita!」

 入管ゲートで、オフィサーが佑麻の顔を見ると、彼のパスポートに判を押しながら言った。「Sa muling pagkikita!」

 ボーディングゲートで飛行機に乗り込もうとブリッジを渡る佑麻に、エアポートスタッフ達が集まってきて彼に叫んだ。

「Sa muling pagkikita!(またお会いしましょう!)」

 佑麻は笑顔で手を振った。

 

 

 数年後、医師となった佑麻が、礼服であるBARONG TAGALOG(バロン・タガログ)を着てManila Cathedral/マニラ・カテドラル教会の祭壇の前に立っていた。ドナがパイプオルガンの演奏に合わせ、純白のウエディングドレスを着てバージンロードを歩く。そして一歩一歩彼に近づいてくる。父のいないドナは、父親代わりとなった大学の教授にエスコートされている。佑麻があの日ジョリービーで、『待っていてくれ。』と頼んだものの、おとなしく待っているドナではなかった。勉強の合間に、Viberで愛を語り、スカイプでケンカし、休みにはお互いの国や留学先を訪問し、ふたりの両親には内緒だが、こっそり香港で逢って夜を過ごしたこともある。そして今日を迎えた。

 佑麻は花嫁を見つめる列席者の顔を眺めた。ドナの母親、ミミ、ソフィア、ドミニク、かつて佑麻に平手打ちをくれた叔母のノルミンダ夫妻。フランス製の高級フォーマルウエアを身にまとったジョンと麻貴も見える。このふたりはドナ達より一足早く結婚していた。そして、エンジェル・トーカー プロジェクトに参加した多くの関係者の顔が見える。佑麻の家族関係では代表して、妹の由紀が列席していた。彼女は大学を卒業して、父の病院で医療事務をしている。佑麻の父と兄は、仕事の休みが取れなくて、この教会には来ていなかった。佑麻の父の強い希望で、この後日本で神前結婚式をもう一度おこなうことになり、父と兄はそれに出席する予定だ。

 ドナの手が、エスコートの教授から佑麻へと渡された。ふたりは祭壇に向き直りファーザーと対面した。この教会で式を挙げるために、佑麻は何日このファーザーの説教を聞いたことか。ファーザーは、神を称えたのち、ふたりに愛の誓いを促す。そして、指輪の交換となり、佑麻は準備してきた結婚指輪をはめようと左手を取ったが、ドナの薬指にはまだ佑麻の母のリングがはめられていた。

「いいのよ佑麻。この上からはめてちょうだい。」

 ドナの言葉に佑麻は、微笑みながら彼女の薬指にリングを添えた。

「ところで佑麻。いつから私のこと好きになったの?」

「六本木のクラブで、ドナを見た時からだよ。あの時危なそうな男と飲んでたんで心配して見てた…。」

「えっ!佑麻はあの男たちと仲間じゃなかったの?」

「何をいまさら…。」

 ドナはウエディングドレスのまま、飛び上がって佑麻にしがみつくと、彼の顔を両手で挟んで熱いキスをした。早すぎる誓いのキスに、佑麻もファーザーも驚き、列席者は積極的な花嫁に喝さいを送った。ようやく佑麻の唇から離れたドナは、彼だけに聞こえる声で言った。

「Hey! YUMA! I’m not yours, you are mine!!

(佑麻、もう私はオレノオンナじゃないわ。あなたがワタシノオコトなのよ)」

 ファーザーは神の御前で、ふたりが正式に夫婦になったことを高らかに宣言した。

 

 

 

「マキ、いくら君の頼みでも、これ以上寄付基金を拡大するわけにはいかないよ。会社の利益が無くなってしまう。」

 プレスコンファレンス会場に通じる通路で、ジョンは麻貴と歩きながら言った。今日は、プレスに対して会社の中期経営ビジョンを発表する予定だった。

「なに言ってるのよ。エンジェル・トーカーセットはバカ売れだし、この活動のおかげで、市から破格の条件で工場用地を買収できたのでしょう。そこで余ったお金はどこへ行っちゃうわけ?」

「いや…。とにかく、どんな取引条件を持ち出されてもマキの頼みは難しいね。」

 ジョンが秘書に促されて壇上に上がった。ジョンはステージに立ち、話し始めようと会場を見回すと、ステージの袖に立っているマキの様子が変だ。おなかをさすって、ジョンを指差す。そして、口の形が『パパ』と言っているようだった。ジョンは、麻貴のメッセージの意味を理解した。プレゼンテーションを一向に始めない彼に場内がざわつく。秘書に促されてようやく口を開いた。

「中期経営ビジョンを発表する前に、皆さんにお伝えしたいことがあります。私ごとですが、わたし、父親になります。」祝福の拍手の中、ジョンは麻貴をステージに呼びあげ。おなかを締め付けないように気を使いながら、かたく抱きしめた。今回も麻貴の仕掛けた取引が成立したことは言うまでもない。

 

「おーい由紀。次回のドナからの看護師研修生は、いつ来るんだ。」日本の病院で、佑麻の兄は、事務室にいる妹に問いかける。

「もうすぐ連絡が来ると思うけど。」

「早くしてくれないかなぁ。看護師長もアテにしているし、患者さんからも評判がいいんだ。」

「ドナも育児や仕事で忙しいから仕方がないでしょ。それに、3人目ももうすぐだし…。」

「佑麻のやつ、本当に向こうで医者やってんのか?こどもばかり作って、ドナの邪魔しやがって…。」

 由紀は、ぼやく兄を笑って診察室に追い返した。

 

「ドナとユウマが珍しいものを送ってくれたよ。」

 Nueva Ecija(ヌエバ・エシジャ)に住むドナの伯母が、ベッドに横たわるメリー・ローズに話しかけた。メリーの枕元には、エンジェル・トーカー基金のプレートが貼ってあった。最新の医療機器が彼女を囲んでいたが、依然としてメリーは伯母の問いかけに答えることがない。しかしいつも通りのことなので、かまわず伯母は話しかける。

「フウリンと言うらしいよ。日本のものですって。風に揺られていい音を出すのよ。」

 伯母は、風鈴を手に持って窓にかざした。風鈴はわずかな風を感じて、ちりりん と音を鳴らした。

「ほら、いい音でしょう。」

 その時、伯母は自分の背中にいつもと違うものを感じて、振り返りベッドを覗いた。ベットの上のメリーが、静かに風鈴を持つ伯母を見ていたのだ。伯母は、優しくメリーの髪を撫ぜた。そして溢れる涙を拭おうともせず、いつまでもメリーに風鈴の音を聞かせていた。

 


 
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