ある所に、言葉を発することの出来ない少女がいました。
彼女は少年と一緒に、人里離れた山奥のお寺で過ごしていました。
少年がなぜ話せないのか、と筆談で答えを求めても返事はありませんでした。そして彼女はその時、いつも決まって悲しい顔をするのです。その顔を見るのが嫌で、少年はもう彼女にその質問をすることをやめてしまいました。
「君の名前はなんていうの?」
最初に少年と彼女が出会った時、彼女は手に持ったメモ帳とボールペンで綺麗な字を書いて、少年に見せました。
《キミ》
「へえ、キミって名前なんだね。じゃあキミ、どこにも行く所がないなら、うちへ来る? といっても僕は住んでるだけで、僕の家ってわけじゃないんだけどね」
よく晴れた日の、寺近くの森の中で彼女は座り込んでいたのです。
寺の住職さんは優しい人でした。彼女が居座ることを二つ返事で快諾し、少年と同じくまるで自分の子どものように扱ってくれている。
少年と少女は恵まれていました。それはもう、世の中全てに不幸を捨てて、世の中全てから幸福を分け与えてもらっているように、幸せを思う存分に享受していました。
幸せとは続かないものです。
ある日少女は流行の病にかかりました。その病は人里でも死人が多数出るほどに流行っているらしく、近くの薬師を訪ねても薬は切れていました。しかし薬を作るには特別に合成した抗生物質を使用しなければならないらしく、材料を持ってきたからといって薬が出来るわけでもありませんでした。
打つ手なし。
それはずっと惜しみない幸福と笑顔の中で生きてきた少年と少女にとって、絶望といっても過言ではありませんでした。少年は苦しそうに眠る少女のそばで泣き続けました。
お寺の大仏さんに一日中拝みました。
色んな薬師さんに、なんとか出来ないのかと聞きまわりました。
気休め程度の栄養剤を作って少女に飲ませてあげました。
彼女の好きな花をめいっぱい摘んできてあげました。
得意な似顔絵を彼女にプレゼントしました。
彼女が好きな本を朗読してあげました。
料理を作りました。添い寝をしてあげました。額のおしぼりを変えてあげました。部屋の温度が一定になるよう定期的に換気などをしました。体に良いと言われるものを人里まで下りて、少ないお金で買いました。寝ずに彼女の看病をしました。彼女の調子を聞いて一喜一憂しました。人里で短時間ながらも高給な、とても危険な仕事をしました。泣きました。怒りました。笑いが出ました。大仏でも神様でも乞食でも、助けてくれるなら誰でもいいと思いました。
それでも時は流れて、病状は刻一刻と悪くなるばかりでした。
自分が死んで彼女が治るなら、進んで死んでもいいと思えるくらいに少年は必死でした。そんな少年を見かねた住職が必死に「君も休息を取るべきだ」と言い聞かせましたが、彼が首を縦に振ることは決してありませんでした。
ある夜のことでした。
少年はまた彼女の部屋で、椅子に座ったまま一夜を過ごそうとしていました。少女が寝入ったのを見て、彼も安心してうとうとし始めた時のことです。
『――、――』
「ん……誰……」
少年は自分の名前を呼ぶ声を聞きました。その声は柔らかくシルクのようで、耳にするりと入り込んでは水のように染みこむ、心地の良い声でした。
『私はあなたです』
「僕は……僕だよ……」
夢半ばの彼は自分でも何を言っているのか分かりませんでした。ただ包み込むような女性の声だけが、自分を夢へと案内している気分でした。
『ふふ、あなたにはキミと呼ばれていましたね』
「キ……キミ……?」
少年が眠たい目をこすって寝入っているはずの彼女を見ようとしますが、重いまぶたは完全に光を遮断するだけです。
『私はあなたです。きっと、住職さんもそれを知っていたのでしょう。あなたが私に色々しても、住職さんは休めと言うばかりだったのがその証拠です』
「住職さんは……意地悪で……」
『いいえ。住職さんは本当に優しい人です。こんなに私のために看病してくれたあなたと同じくらいに』
「……」
少年はもう、夢特有のもやがかかったような思考しか現実に留めることは出来ませんでした。
『きっとまた会えます。それは現実ではなく、あなたの夢の中で』
暗い視界が夢に向かって白んでゆく最中、もう少年は夢を見ているのか現実にいるのか判断がつきませんでした。
『楽しかったですよ。きっとあなたはもう、誰かに助けてもらうのではなく、自分でなんでも出来るはずです。あなたが私に一生懸命してくれたように。それは決して無駄とはなりません。私はそろそろ眠ります。あなたもこれ以上は体を壊してしまいます。ゆっくり休んでください。さようなら、また今度』
その声を聞き終えた後はゆっくりと、取り留めのないイメージが少年を夢の世界へいざないました。
「いない」
少年が目を覚ますと、少女がもう寝床にいませんでした。寺の周囲を必死に探しましたが、見つかることはありませんでした。もしや、と思って彼女と初めて出会った所へ来てみましたが、やはり誰もいませんでした。
「……」
少年は彼女が最初に座っていた所に座ってみました。
そこから上を見上げると、ちょうど満月が生い茂る木の葉の間から顔を出していました。
少しだけ優しく冷たい風は、少年の涙をさらっては森の中を駆け抜けるだけでした。
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ある日、少年はキミという少女に出逢いました。