喫茶店の閉店後、那之はエプロンを外した。マスターが聲をかける。
「今日も行くのか?」
「うん」
「何かメシ作つといてやらうか?」
「要らないよ、太つちやふもん」
「おい、育ち盛りの臺詞ぢやないぞ」
「えへへ、でも時々畑さんがおごつてくれるんだ」
「へえ、あいつがねえ?まあ、氣をつけて、行つてこい」
「うん、ぢや伯父さん、また明日よろしくお願ひします」
こんな風に、店が閉まると、新發田や畑と音樂の練習をする爲に那之は出て行くやうになつた。しかし、那之を出した後、マスターは考へんでしまふ。年頃の娘を一人で夜の巷に放つて大丈夫か?いや、娘ぢやない、あいつは男だ。だが……。
思考が堂々巡りを始めると、マスターは壁のギターを取り、彈き始める。曲はいつものチェンジ・ザ・ワールド。しかし、マスターは途中で歌ふのをやめた。
(今更俺に何が變へられるつてんだ?)
マスターはギターを置き、莨に火を點けた。
しかし數日後の朝、那之は少々浮かない顏で店に現れた。
「伯父さん、おはやう。これ、そこの棚に置いておいてもいい?」
那之は何やら紙束を掲げてさう言つた。
「ああ、構はないが、何だそれぁ?」
「うん、ちよつとね」
那之は曖昧に答へて、いつもの掃除を始めた。
晝少し前、たまたま客が退いたところで、那之は棚から紙束を取り、カウンターの隅に座つた。マスターは、紙束を見つめてゐる那之に訊ねた。
「どうした?」
「ん、伯父さん……これ見て」
「樂譜だな」
「新發田さんがね、樂譜が讀めるんだから、そんな一所懸命練習に來なくてもいいよつて、これをね……」
「さう言へばあいつら、近頃ここに來ないな」
「うん、だから何だか心配で……」
「あいつらなりに、バイトのことを氣遣つてくれてるんぢやないか?」
「さうだつたらいいんだけど……僕も一緒に歌ひたいんだけどなあ……」
そんな話をしてゐると、不意にドアのベルが鳴つた。
「あ、いらつしやい……」
マスターの挨拶を突き破るやうに、女の子の元氣な聲が店内に響いた。
「しーまーだー!」
「あ、小關!?」
白いワンピースを着た、小柄な、そばかすの目立つ子を見て、那之は叫んだ。
「良くここが判つたね?」
「お前のママから聞いた」
「何だい?ナノの友達か」
「あ、うん。同級の小關さん」
「小關です。今日は」
「さうか。ぢや、ナノ、今から晝休みにしていいぞ」
「話の判るマスターカッコいい」
マスターは苦笑した。
「おいおい、隨分お世辭の上手い子だな。お飮みものは?」
「カフェ・オレ。ホットで」
「承りました。少々お待ちを」
那之は席を移つて、小關と向ひ合せに座つた。
「ここへは一人で?」
「ううん。家族で海に來た。今は、親に斷つて來てゐる」
「ふうん」
「お待ち遠樣」
マスターが飮み物を運んで來た。
「あれ、マスター、このワッフルは?頼んでないけど」
「それは俺のおごり」
「ヤッター!いただきまーす」
小關はワッフルを食べ始めた。口の周りをクリームで汚し乍ら、時折カフェオレを啜りつつ、一言も話さない。那之は何だか居心地が惡くなつてきた。
「小關さあ」
「んー?」
「お前、何しに來たの?」
小關は口の周りを拭ひ、靜かな聲で言つた。
「江沼さん、死んぢやつた」
「本當!?」
「うん。良く知らないけど、病氣で。中學出てすぐ入院したんだけど、六月頃死んぢやつた」
「……小關、わざわざ、それを言ひに?」
「別に。でもさ、縞田」
「何だよ」
「縞田つて、普段から女裝してるんだつて?ママから聞いた」
「もう、おしやべりなんだから……」
「だから縞田。もう、女裝なんてやめたら?」
「何で?」
「何でつて……。元兇の江沼さん、もうゐないんだから」
「さうか、でも……」
那之は考へた。小關の言ふことももつともだ。しかし、パパや畑さんの手前もあるし、大體ここへは女の子の服しか持つて來てゐない……。
「まさか!いいぢやん、別に。好きで着てるんだから」
「縞田つて、變つてる」
「そんなこと言ふんなら、小關だつて……」
「何だよ」
「そのしやべり方……もしかして小關つて、男なんぢやないの?」
小關の拳骨が那之の頭に炸裂した。
「あたしぁ女だ!縞田みたいな僞者ぢやない!そら觸れ!」
小關は那之の手を取つて、それを自分の胸に押し當てた。
「本物の女は、かうだぞ!かうなんだぞ!」
控へ目とは言へ、乳房の柔らかみが那之の手に傳はつてくる。
「小關、判つた!判つたから離せ!」
「納得したか?」
「何なんだよ、もう……」
那之は机に突つ伏した。その上から、小關の聲が聽こえる。
「ご馳走樣。縞田が元氣さうで安心した」
「え、だつて、學校で會つてゐたぢやん」
「でも、夏休み、急にゐなくなるから。バイトがんばれよ」
「う、うん……」
「マスター、いくら?」
「ナノの友達なら、タダでいいわ」
「お、やつた。ぢや縞田、また新學期に」
「忘れ物ないか?良かつたら、また來てくださいよ」
「うん、ありがとマスター、大丈夫。ぢやあねー」
小關が出て行つたあと、扉を見乍ら、那之はつぶやいた。
「……何しに來たんだらう、あいつ。あ、伯父さん?何で笑つてるの?」
「ナノ、氣付かなかつたのか?」
「何に?」
「さあ、晝休みは終りだ!ナノ、立て!」
「うー、伯父さんの意地惡!教へてよー」
そんなことを言ひ合つてゐるところに、また店のドアが開いた。
「お屆けものです、ここに縞田……これは何と讀むのでせう……さんといふ方はゐますか?」
「縞田は僕ですけど」
「ああ、ぢやあここにサインを……ありがたうございました」
配送の人が慌しく去つて行つた後、那之は包みを見て言つた。
「パパからだ……何だろ?」
「自分の部屋で開けろよ。樂譜と一緒に、そこの棚に置いとけ」
「うん」
店が閉まつた後に、シャワーを浴びてトランクス一枚になつた那之は、父から屆けられた荷物を開けてみた。包みは二重になつてをり、包み紙の隙間から、ごく短い手紙が現れた。
「漫畫が採用になった!これ、モデルのお禮」
「お禮つて……?」
ナノは中の包みを破いた。するとそこから、青地に白い花柄がプリントされた、女物のワンピースの水着が出てきた。
「うわ、何考へてるのあの人!」
那之はつぶやいて、水着を部屋の隅に放つた。しかし、どうしても氣にかかる。那之は少しづつそれににじり寄つていつた。
「折角だし……ちよつと着てみようかなあ?」
那之は水着を手に取つた。背中が大きく開いてゐることが、ナノを改めて赤面させた。
「胸にパッドくつついてるんだ。ふーん……」
那之はトランクスを脱ぎ、水着を着て、鏡を見た。
「上半身はわりかし普通だと思ふけど……」
鏡を動かして、下半身をそれに映した時、ナノは考へ込んでしまつた。
「うーん……毛を何とかしないと。それにやつぱり……」
女子用水着を初めて着たことの興奮からか、那之の男の子を示す部分が、ふつくらと盛り上がつてゐる。
「あれ、買つちやはうかなあ……」
ナノは水着姿のまま、携帶電話を取り出し、どきどきし乍ら操作し始めた。
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第3章です。