「お疲れ~!」
「お疲れ、伊織。明日はオーディションだから、今夜はゆっくり休めよ」
水瀬邸の前にクルマをつけ、ダッシュボードの時計を見やると、あと数分で日付が変わろうという時間だった。
分単位で刻まれる過密スケジュール、その上、仕事の間を縫ってレッスンまで組むと、
こんな時間までかかってしまうのもしばしばだ。
しかし、その甲斐あってか、明日受ける事になる「ビジュアルマスター」に合格すれば、
伊織は晴れてトップアイドルの仲間入りだ。
「ねぇ、プロデューサー……」
伊織はクルマから降りようとせず、逆に俺を後部座席に引き入れた。
「アンタにあげたいモノがあるの……。もちろん、もらってくれるわよね?」
14歳の、大人とも子どもともつかない、背徳感さえ漂う甘酸っぱい少女の艶を含んだ瞳に見つめられ、
俺は我を忘れそうになる。
「えっ……何をやぶから棒に?」
「へ、変な想像しないでよ! はい、これ!
アンタ、前に腕時計壊れたとか言って、あれからまだ買ってないんでしょ?
仕方ないから私が買って来てあげたわよ。
仮にもスーパーアイドル・水瀬伊織のプロデューサーが、腕時計さえ買えないなんて、
周りに知られたら笑い物だもの!」
正確に言うと、買いに行くヒマがなかったり、
ネット通販で探してみてもピンとくるモノが見つからなかったり、
それに時間を知りたいなら携帯電話だってあるし、特に無くても困る事がなかったのだ。
「しかし、随分高そうな代物だなぁ。着けるのがもったいないよ……」
「ダーメ! ちゃんと着けてきなさい。もし明日着けてなかったら……
私、オーディション出ないからね!」
精一杯の照れ隠しか、勢いよくドアを閉めて、伊織はクルマを降りていった。
「1番ちゃん、合格おめでとう!」
満を持して調整を図って受けたビジュアルマスターは難なく合格。
伊織の実力あってこそだが、やはりこの瞬間はプロデューサー冥利に尽きる。
そしてこの後は、TV局の会議室でTV出演の打ち合わせだ。
会議中、ふと、ビジュアル審査委員こと山崎氏の視線が俺に、
さらにいえば、俺の袖口に注がれている事に気が付いた。
「伊織ちゃんのプロデューサーさん、その時計、ちょっと見せてもらってもいいかしら?」
会議が一息ついた頃、案の定、山崎氏から声を掛けられた。
こちらの意思表示を待たずに、彼女もとい彼は、俺の腕を取って時計を見つめては、嘆息していた。
「良い時計しているわね。コレ、日本じゃなかなか見かけないモデルよ。
私の知り合いにも同じモデルを持ってる人いるけど、実際に着けている人はあなたが初めてよ。
まぁ、クルマ一台買えちゃうくらいの代物だから、お家に大切にしまっておきたい気持ちは分かるけどね……」
俺の隣で真っ赤な顔をして高ぶる感情を抑えるが如く震える伊織が、視線を移す間でもなく想像できた。
「でも、この業界、飾ってナンボの世界だし、
時計だってアイドルだって、人に見られてこそ真の輝きを放つものだと、私は思うのよ。
オシャレとは何たるかが解っているプロデューサーさんで、伊織ちゃんは幸せね。
これからも期待しているわよ」
「……伊織、ありがとうな」
「別に礼なんか要らないわよ。
……私をトップまで連れてきたアンタへ、ほんの感謝のキモチ……なんだから」
俺の左腕に、こころなしか重みが増した気がしたが、それが今は心地よかった。
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2008年11月23日の即プロ合宿パンフに寄稿した伊織SSです。