No.516394

~渚の果て~ (1)

銀枠さん

オリジナルです。

※とはいっても、これは最近書いたやつではなく、二年前どこかの出版社の投稿用に書いた作品であり、私の処女作です。
処女作なんで出来は色々とアレです。雪鈴の黒歴史の一つです。それでもという酔狂な方がいれば、読んで、笑って下さい。なぜこれを投稿に踏み切ったかという理由については後々お話ししようかと思います。この主人公である渚は、現在、連載中のヒロインであるイヴの原型となったひな型の娘だったり。

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2012-12-08 20:38:38 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:371   閲覧ユーザー数:350

断章 『第四位の天使が笛を吹いた』

 

「人はなぜ過ちを犯すのだと思う? それはね、人が神さまの怒りを買ったからなのよ」

「なぜ人は、神さまを怒らせてしまったの?」

 少女はおそるおそる訊き返した。何かに怯えるように、そっと自分の身体を抱きしめながら。

 鏡に映る彼女は微笑んだ。目の前にいる少女が、自分の話に興味を抱いたことを喜ぶように。

「取ってはいけないと命じられた木から、リンゴを取って食べてしまったからよ。そのリンゴは、ただのリンゴじゃなかった。知恵の実と呼ばれている特別な果物だったの。自我が芽生え、頭の中に知識が浮かび上がった。善悪の判断を見分けられるようになったり、裸であることが恥ずかしいと気づくようになったの。ふふっ、今の私たちからしてみればそんなことは当然よね。けれど神さまはとてもお怒りになった。知識を身につけた人を支配することができなくなったからよ。そして、神さまは、人を楽園から追放して《原罪》という罰を与えた」

「《原罪》……?」

「そう。それこそが過ちを犯す全ての原因。その罰は子孫である私たちにも受け継がれているのよ。私たち人類は生まれながらにして、苦難の道を歩む運命を背負ってるの」

 少女の顔色がみるみる青ざめていく。その小さな身体からは熱という熱がひいていった。

「何よ……それ。その話が本当なら、人は……人は救いようがない生物だわ」

「あなただって嘘をついたことあるでしょう。目の前に階段があったら自然と足を上げるのと同じようにね。ふふっ、別に恥じることはないのよ。それは生きている限り、避けて通れない道なのだから。そうして私たちは罪という名の螺旋階段を、今でも上り続けているのよ」

「まるで……呪いみたい。どうしよう、どうしよう。みんな私のせいだ。私が生きているから……こんな取り返しのつかないことになったんだ」

「呪い、か。ふふっ、なかなか面白い例えを用いるのね。あなたの言う通りだと思うわ。現に、その呪いによって――あなたの両親は死んでしまったのだから」

 少女の顔がひきつった。死刑宣告を受けた罪人のように身体が恐怖で押しつぶされそうだった。

「私の呪いのことは、私と……叔父さんと叔母さんしか知らないはずなのに。……どうしてあなたはそんなことまで知っているの?」

 少女はそう呟いてから、急速に血の気が失せていくのを感じた。

今まで誰かに秘密を打ち明けたことはなかったはずだ。自分をいじめるクラスメイトたちや、それに見て見ぬふりを決め込む教師にさえ隠してきた。それなのになぜ、この子は自分の秘密を知っているのだろう。そう考えただけでも悲鳴を上げそうになった。

 鏡の中の彼女は口を開いた。目の前の少女から恐怖を和らげるように、とても優しい口調で。

「それは、あなたが世界でもっとも美しいからよ。白雪姫さん」

 そう言って、スカートのすそを摘まみあげると、そのまま一礼した。少女は呆気にとられた。体内から毒を抜かれたように、相手への警戒心が薄まってゆくのを感じていた。

「……驚いた。吸血鬼の正体を暴くように、鏡は真実を映す魔力があると聞いたけれど、それが本当の話だったなんて」

「いいえ、違うわ。私はただの鏡なんかじゃない。――魔法の鏡よ」

 鏡の中の彼女は、そうして目の前の少女へ笑いかけた。

 少女の身体から恐れが除々にひいていく。それどころか、相手の芝居がかった仕草に吹き出しそうになった。相手への怯えと警戒ではちきれそうだった心が、今では親しみと信頼に移り変わってすらいた。それこそ魔法のように。

少女にとっておとぎ話とは、人生そのものであり、行き先を照らしてくれる光であった。

「ふふっ、その顔は信じていないわね? 私のお話も、私自身のことさえも」

 鏡の中の彼女の問いかけに、少女はこくりとうなずいた。

「鏡よ、鏡さん。あなたが本当に魔法の鏡だと言うなら、私がなぜここに来たのかを当ててみせてちょうだい」

「そんなの簡単よ。――あなたは生まれ変わりに来た。そうでしょう?」

「そうよ。私は生まれ変わりに来たの。この悪夢から抜け出すためには、生まれ変わる必要があるのだから」

 それを聞くと、鏡の中の彼女は声を上げて笑っていた。無邪気な子供みたいに。

「あなた、本当に面白いわね。こんなマンションの屋上から身を投げたところで、状況は何一つ変わらない。この世で輪廻転生なんてものをやってのけるのは、不死鳥だけなのよ」

 少女は、その言葉であらゆる確信を得た。鏡に映るのは自分自身の姿だ。それは魔法でも何でもない、ごく当たり前のこと。それゆえに、自分が自分のことについて詳しいのは当たり前。

だから、鏡に映る自分が、おとぎ話を大好きなのも至極当然のことなのだ。

「うん。確かに私はイカレてると思うわ。だって、鏡とお喋りしているんですもの……っ」

少女は膝を折って、その場にへたりこんだ。そうして己の罪を神に懺悔するように頭を垂らす。すると、喉の奥から、発狂したとしか思えない叫び声が炸裂した。

「そのためにはこの悪夢さえ終わればいい! そしたらお母さんも、お父さんも帰ってくるはずよ! それだけじゃない。みんな元通りになる! 一人ぼっちは嫌なの――――――――っ!」

思い返せば、私の人生は上等といえるものではない。帰る家も、笑顔で迎えてくれた家族さえも、全てを奪われた。そうなったのは全て自分のせいなのだと思っていた。みんなを見捨てて、のうのうと生き続けている自分に罪悪感を抱いていた。やがてそれにも耐えきれなくて、生きることを諦めた。もう死んで全てをやり直すしかない。この終わらない悪夢から目覚めるためには。

 

星が墜ちた(ラグナロク )》――世間は私たちの事件にそんな名前をつけ、賑わっていた。

 

 ノストラダムスの予言が的中したとか、そんな勝手なことを言って面白がっていた。

 私は面白くも何ともないのに。……他人の不幸や悲しみを笑うなんて。同じ人間同士なのに。

許せない。せめて私が死ぬ前に、面白がっていたやつらをこの手でぶち殺してやりたい!

 突然、少女の狂った叫び声が止まった。

「……可哀そうに。ひどく怯えてる」

 驚くべきことに、鏡の中から伸ばされる手があった。それは宝石を愛でるような手つきで、絡みつくように少女の頬をそっと撫でている。決して少女自身がイカレてるわけではなかった。

その感触や肌触りは、夢ではなく現実だったのだから。

「とても怖い夢を見ている。終わらない悪夢にうなされているのね。でも、もう大丈夫。あなたは救われた。辛く、果ての見えない試練に耐えることが出来た。これからはもう一人ぼっちじゃない。私が夢の出口まで案内してあげる。――あなたの悪夢を終わらせるために」

少女の身体が震える。それは恐怖からではなく、身体の奥から湧き上がる歓喜からだった。

まるで、おとぎ話の主人公に選ばれたようで胸がときめいた。自分が“特別”だというあまりの感動に、湧き上がる感情の高波を押さえつけるだけで精いっぱいだった。

「本当に……この怪物だらけの世界から抜け出せる? 悪夢から目覚めることが出来るの?」

鏡の中の彼女の口元が歪む。少女が歓喜に打ち震える様子を、心の底から愉しんでいるのだ。

「ええ、あなたは選ばれた。あなたがそれを望むのならば、私が魔法をかけてあげましょう」

そして、予想通りの言葉が返ってきた。夢だとしか思えなかった。どうしようもなく心が躍った。この存在は間違いなく、不幸な自分を救済してくれる妖精、魔法使いのおばあさん――いや、なんだっていい。おとぎ話が現実のものとなったんだ。今、私はようやく報われた。

悪夢を自分の力に変える術――私の思い通りにする力を手に入れたのだ。

それが分かっただけで、私にはもう十分だった。

すると深い闇の中から、一際高い、透き通った美声が響いた。

【最高の夢を見させてあげる。ただしあなたが、一番に叶えたいと思っている願望。二番目でも、三番目でもない、一番の思い。――それが条件よ】

それはたくさんの希望に満ちていて、少女の小さな胸を優しく包みこんだ。

まさしく天使の囁きだった。もはや少女に何の疑念も抱かせることなく、魔法のように、胸の奥深くに浸透してゆく。願わくば、この魔法が一夜限りで解けてしまわないことを祈りながら、少女は願いを口にする。少女の耳にクスクスと笑い声が聞こえた。

鏡の中から伸びる手は、嘘みたいに冷たかった。

 そして――世界に、血と( ひょう)の混じった雨が降った。

 

 

第一章 ねむり姫の憂鬱な月曜日(ブルーマンデー)。

 

『犠牲者が、鋭利な刃物で切断された痕が見られることから、二週間前に起こった通り魔事件と、同一人物の犯行だということが分かりました。これで、通り魔による被害は二人目です。依然として犯人の手掛かりは掴めておらず、警察への責任が問われており――』

駅前は帰宅ラッシュで混雑としていた。商店街の一角である、その通りは学生たちや、サラリーマン、OLなど様々な人間が溢れ返っている。そこでは、電気屋に展示販売されている薄型テレビへと露骨に目を向ける人は誰もいない。それは仕方のないことかもしれなかった。

いくら人が殺されたといっても、やはり自分には無関係な話だし、悪い言い方かもしれないが、そんなのは他人事だ。何よりも、そういった事件が日常とはかけ離れており、おそろしく現実味に欠けているからだろう。それは彼らにとっては所詮、鏡の中の出来事であり、現実ではない。 みな、自分の生活を送ることだけで精いっぱいなのだ。もし、テレビに少しでも興味を示す人間がいたとしても、せいぜいすれ違いざまに画面へと目を向けるくらいだった。

ただ一人の少女を除いては。

 

「世界にとっての……最大の不幸」

 

 ぼそりと物憂げな表情で囁いた。それはこの世のものとは思えぬほど、冷たい声音だった。何かの不吉な前触れではないかと、あらぬ勘ぐりを寄せてしまうほどに。

 全体の線は三日月のようにほっそりとしており、思わず溜息がもれるほどの体つき(ライン)。同性であっても羨んでやまない脚線美を、服の上からでも余すことなく見せつけている。

 大人びた顔立ちの中には、若干の幼さが未だに生き残っていた。ときおり、九歳くらいの幼女の顔が見え隠れしている。絹のように繊細そうな柔肌。その柔い右手には竹刀袋がしっかりと携えられている。人混みのなか、少女は一人テレビを食い入るようにして見つめていた。

その鋭い眼差しに捉えられれば、たちどころもなく凍え死んでしまいそうだ。それは長年の宿敵を見つけたかのように張り詰めており、その瞳の奥には、寂寞とした氷の世界(ダイヤモンドダスト)がどこまでも広がっていて、やはり人を寄せつけない冷気をどことなく漂わせていた。

商店街で、せわしない目つきでカモを漁るセールスマンや、この上なく下品な顔つきで地べたにたむろし続ける不良少年たちや、はるばる西通りから足を運んできた、ぎらぎらとした目つきで徘徊している人攫いでさえも、慌てて目を背けてしまうほどの眼光だった。そのとき、

【やってるわ。ほとんどアタシの予想通りに】

 声なき声が響いた。それは少女にだけしか聞き取れない心の声だ。

「……状況報告は明瞭に」

 少女はぼそぼそとつぶやいた。この心の声を発信する相手――女性に対してだ。

声に出さずとも、心の中で念じれば意思疎通が可能だった。だが、少女はあえてそれをしなかった。これから成すべきことを、あえて口と耳で感じることによって意識を高めているのだ。

【とても焦ってる。初めての夜みたいにぎこちない手つきをしてるわ】

「初めて? 三人目の間違いじゃないの?」

妙に艶めかしく喋る女性を、全く気にしたふうもなく返す少女。むしろ親しさの証であった。

【相手があまりにも色男だから、緊張してるのかもね】

「不気味……何か裏がありそう」

【場所は西通りの四丁目。過疎化で空き家ばかりが密集して建ち並んでる区画よ。二人きりで密会するには、この上なく絶好の場所ってワケ。早くしないと、彼が先にイッちゃうかもよ】

「分かった。すぐそちらに向かう」

 少女の口調から親しさが消えた。テレビから目を背け、きびきびとした歩幅で商店街の喧騒から遠ざかっていく。ふと少女は立ち止まっていた。

風に、頬を撫でられた感触があまりにも心地よかったからだ。少女の黒髪がさらさらと揺れ動く。そうして夜風に弄ばれるさまは、まるで髪が意思をもって動きだしたかのようだ。少女はその躍動を愛しむかのように、髪をそっと手の平に包みこんでいた。

これまで髪を切らずにずっと伸ばし続けている。その理由は、七年前、愛しい人に、髪が綺麗だと褒められたことがあまりにも嬉しかったからだ。だから一五になった今でもずっと伸ばし続けている。風が止むと、少女からふっと表情が消え失せた。まるで、心の中でわずかに生き残っていた興味や好奇心といったあらゆる感情が、夜風と一緒に吹き飛んでいったかのように。

やがて西通りと呼ばれる区画に辿り着くと、てきぱきと小慣れた指づかいで竹刀の包みを解いてゆく。竹刀袋から現れたのは竹刀ではなかった。いや、それを正確にいうなら竹刀によく似た形状のものだった。現れたのは――黒い光沢に彩られた鞘。それは鋭い刀身を収納する筒であり、さながら凶暴きわまりない化物を鎮静化させるために施された、封印のようでもあった。

 その異様をしかと目に刻みつけると、少女の華奢な後ろ姿は、暗い路地裏へと消えていった。

 相変わらず、電気店のテレビへと目を向ける人間はいなかった。それは仕方ない。そういったことは彼らにとって所詮、鏡の中の出来事であり――現実ではないのだから。

それゆえに、テレビで報道されている殺人鬼が、今、この町で狩りの真っ最中であることも、知る由がなかった。

 

西通りの四丁目――そこはやけに閑散とした住宅街だった。過疎化の影響によって空家ばかりが立ち並ぶ通りは、家出少年やホームレスなど――帰る場所を失った者たちにとっての聖地である。そのためか縄張り争いも多く、争いごとは日常茶飯事だといってもいい。だが、いつも騒がしいはずの通りは、今夜に限って異様なまでに静まり返っていた。

「うわぁあああああああああああ――――――――――――――――――――っ!」

 突如、静謐な空気を打ち破るようにして、甲高い悲鳴があたりに響き渡った。

 こういう無法地帯に限って、薬でハイになった中毒者や犯罪者が身を隠すためにうろついていることも珍しくない。そういった輩と不用意に関わらないことが、彼らの暗黙の了解であった。たとえ、顔見知りや友人が襲われていようと、黙りを決め込み、寝ぐらから出てくることはない。それが、家を失った者たちの生き残る術だった。

「助けて! 誰かっ、誰か助けてくれよ!」

少年は必死で走り続けた。疲労と恐怖をこらえて、ただ真っ直ぐに暗闇の中を突き進んでゆく。

生き残るために。

 

(容疑者審議中――七つの星は七つの教会の天使たち。七つの燭台は七つの教会である)

 

少年の足がぴたりと止まった。

「何だよ……これ?」

 いつの間にか、袋小路へと追い詰められていた。

やがて足音が聞こえた。背後から迫る死の音に、青年の身体が震えあがった。

 背後から迫りくる影――この暗闇の中だ。相手の顔も、男か女かもわからなかった。なぜなら、全身を覆い隠すコートがそういった判別を不可能なものとしていたからだ。

 

(審議中――天使は、野を這うケモノたちにこう告げました。犯した罪を悔い改めよと)

 

殺人鬼が刃物を宙に掲げた。街灯の光を受けて、あたりに不気味な閃光が放たれる。

少年の顔がひどく強張った。あまりの恐怖で、意識が吹っ飛びそうだった。だが、少年には、全身を覆い隠すコートも、その左手できらめく包丁など、恐怖に値しなかった。

 

(審判――手に七つの星をもち、口には両刃の剣、顔は強く照り輝く、太陽のような私)

 

コートの奥から覗く――血のように赤黒い、その目玉に比べれば。

 

(最期の審判・判決――天使が七つの笛を吹いたとき、私の口の剣で怪物たちに断罪を与えよう)

 

「ふ、ふざけるな! ひ、人を殺していいと思ってんのか! たしかにぼくはクズだ。でも、でもっ、ぼくが、なんで殺されなきゃならないんだっ!?」

 唾液や汗がだらだらと垂れ流れる。それでも構わず声を振り絞った。まるでそうすることによって相手に慈悲の心が芽生えると信じているかのようだった。自分がまともな人間だとは思ったことなどない。生きていれば必ず悪いことの一つや二つくらいはしているからだ。警察にも何度かお世話になっている。しかし、それは自分が殺されなければいけないほど罪深いのだろうか。

だが、殺人鬼に情けを訴えたところで、そんなことを聞き入れる耳を持ち合わせてるはずがない。そもそも、この相手が人間なのかどうか、まずそこからが怪しかった。

 赤黒い目が青年をとらえる。そこには途方もない暗闇が広がっていた。感情があるのかも読み取れない闇。殺人鬼はゆっくりと刃物を構える。そのまま容赦なく、裁きの一撃を振り下ろす。

「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――っ!」

少年がみっともない叫び声を上げた、そのとき、風を切り裂く音が――聞こえた。

かと思うと、銀色に輝く閃光が、殺人鬼めがけて襲いかかった。

その音に、殺人鬼がとっさに振り返った。振り返りざまに包丁を構え、それを防いだ。

鋭い金属音が耳をつんざいた。殺人鬼の包丁は、その衝撃に耐えきれず闇の中へと吸い込まれていった。慌てて殺人鬼は走り去る。手からすっぽ抜けた包丁を拾おうともせず、そのまま一目散に駈け出した。殺人鬼の背中は、路地裏の暗がりへと吸い込まれていった。

脅威が去ったのを見届け、少年は心から安堵する。

「た、助かった、のか……」

緊張が解けて身体から力が抜けきっていくと、重りのような疲労が体中にのしかかってきた。

どっかりと腰から盛大にへたりこむと、尻にひんやりとした異物感があった。アスファルトとは違う固さ、冷たさ。どうやら何かを下敷きにしたらしい。転がるようにして重りみたいな体を横へどかしてみると、下敷きにしていた物が露わとなった。その馬鹿げたイチモツに。

「これは……日本刀? な、なんでこんなものが……こんなところに?」

 刀身には幾何学的な紋様が彫られており、少年にはおよそ理解できない規則性で描かれている。

 古来から武器としての役割と、同時に、美術的価値があるとされる逸品でもある。

現代においてはまず美術館でしかお目にかかれない、とんでもない国宝である。

だがそれはまぎれもなく現実であり、少年を殺人鬼の凶刃から守ってくれたものだった。

ふいに少年の背後に人影が現れた。もう勘弁してほしい。殺人鬼に日本刀。お次は何が現れるというのか。なかば諦念に満ちた思いで振り返ると、そこには血も凍りつくような美女がいた。

「――お、女の子?」

 少年はまたしても息を飲んだ。あまりにも予想外すぎて頭の中が真っ白になる。今、自分の置かれている状況を忘れ、しばしの間、目の前の少女に見惚れてしまった。

少年は知っていたのだ。この少女の顔も、年齢も、名前も。そして、高嶺の花だということも。

御巫( みかなぎ)……( なぎさ)さん? どうして、きみがっ、こんなところに……」

ぴくりと少女の肩がわずかに上下した。その反応から察するに、ものの見事に名前を言い当てたらしい。少女はまともに取り合わず、刀を拾って鞘に納める。それから少年を一度だけ睨みつけると、彼女は虚空に向かって何かをぼそりとつぶやいた。ぐっと何かを押し殺すような声で。

「わたしに関わると……不幸になるわ」

そう言い残すと、路地裏へと駆けていった。少年は、少女が何を言ったのか聞き取ることが出来なかった。ただ、とても哀しげな声だと思った。

「……ありがとう」

 聞こえているはずなどない。華奢な後ろ姿は、すでに闇の中へ溶け込んでいたのだから。

それでも、何か一言でも口にしておかないと、助けてくれた少女に申し訳ない気がしたのだ。

「いい子ね。なかなか律儀じゃない」

 いきなり女性の声が聞こえた。と、同時にむずむずするようなくすぐったさが身体中を駆け巡った。遅れて、耳たぶに息を吹きかけられたのだと気づいた。今まで体験したことのない快感の電流に悶えながらも、声のする方へ首を傾けてみると、少年はまたしてもぎょっとなった。そこにはやはり、色っぽい女性がいた。理由はよく分からないが、顔がものすごく接近している。

今夜はよく分からないことが立て続けに起こる。殺人鬼に、日本刀、顔見知りの少女、そして、露出の激しい格好をした女性が現れた。もしかして、今日、自分は死ぬんじゃないだろうか。勘弁してほしい……いや、これはむしろラッキーではないのか。そんな二律背反に陥っていると、

「あなた、やっぱりアタシの好みだわ。そんなあなたには、ご褒美をア・ゲ・ル」

 生温かい吐息が頬に吹きかけられる。いい臭い、全身がとろけてしまいそう、なんてことを胡乱とした頭で考えていると、ふっくらとした唇が、少年の目と鼻の先まで近づいてきて――

 ふわっと、やわらかな花弁が押しつけられた。おでこに。

【うふふ、奪われると思った? ファーストキス】

 女性は悪戯っぽい微笑を浮かべ、ゆっくりと唇を離した。なぜか女性の言葉は耳鳴りのように、頭の中でがんがんと響きわたってくる。まるで、魂に直接語りかけてくるような――

【この続きがしたい? いいわよ。でもそれはあなたのがんばり次第。それまではおあずけね】

 艶めかしい手つきで唇に指を当てる。口づけ(キス)の名残を味わうように。ふと、女性の顔つきが普通とは違うことに気がついた。目とか鼻の形が。東洋人とは明らかに別物だ。もしかして外国人? 駄目だ。よく考えられそうにない。なぜか頭がぼうっとする。眠気が押し寄せてくる。

【アナタが一番だと思う彼女にこれを渡すのよ。そしたら、楽園の果実を味わわせてあげる】

 ポケットの中でごそごそと手がうごめき、何か固いモノを入れられる。

【願わくば、すぐに会えることを、心から祈ってるわ。――切り札( ジョーカー)さん】

 ぱっちりとウインクを決め、投げキッスを飛ばす。それをぼんやりと眺めているうちに、頭が働かなくなり、視界がだんだんと狭まってきて……いつしか、少年の意識は途切れていた。

次に目覚めたとき、今夜の記憶を――思い出せなくなることを露知らず、深い眠りについた。

 

少女――御巫渚( みかなぎなぎさ)は、路地裏を走っていた。

前方には紺色のコートを身にまとう殺人鬼が逃亡中。そいつを捕まえる――もしくは殺すこと。それが少女に課せられた使命だった。どちらを実行するか判断するためにも目の前の不審人物を生きたまま拘束する必要がある。そこへ、心に語りかけてくる声――

【こっちの少年は保護完了。楽だったわ。一回ですぐに果ててくれたから。渚、そちらの首尾は?】

(標的を追尾してるところ。動きから見る限り、相手は素人。予言は外れみたい)

 渚は心の中で返答する。冷淡な目つきを前に向けたまま。

これまで相対した殺人鬼とは決定的に違う。自分の中にある、狩人としての勘が告げていた。

どこか手慣れていない雰囲気。

素人丸出しの一挙一動。

せいぜい人並み以上の運動神経くらい。あの知り合いの少年――と言っても一度も話したことはない――を襲っているときも、どこか怯えた手つき、躊躇うような仕草が何度も見られた。どう見ても人を襲うのは初めての経験。テレビで報道されているのとはおそらく別物だろう。

【そう。警察に引き渡せばいくらか謝礼はもらえるだろうけれど……。悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか、いまいち判断に悩むところね。でも、いくら相手が素人だからって気を抜いちゃだめよ。素人の恐ろしいところは、緊張のあまり何をしでかすか分からない危うさにある。そういう相手の場合、こっちが手取り足取り先導して、馴染みやすい雰囲気をつくってあげるのよ】

(分かってる。どんなに腕利きの猟師でも、どれだけ強靭な四肢をもつ獣であっても、優劣はあまり変わらない。変わるとすれば、どちらが狩るか狩られるのか、といった立場の逆転。狩り場においては猟師も獣も、自らの命を危険にさらしているという点においては平等ってことでしょう)

 不審者は非常階段を駆け上がった。ドアを蹴り破って内部に侵入する。渚もそれに続いた。 

そこはスーパーの屋内駐車場だった。幸いなことに無人だ。

そろそろ営業時間を過ぎる時間帯であるせいか、車は一台もたりとも停まってなかった。

しかし、相手の姿も見当たらない。どんな小さな物音でも聞き逃さないように耳を澄ます。じわじわと獲物を追い詰める猟犬さながらに、ひっそりと息を潜め、五感を研ぎ澄ます。周囲にせわしなく目を配りながら歩を進めていると、視界がちかちかとするのを感じた。蛍光灯を新品に替えたばかりなのか、やけに高い明度に調節にされており、目にはあまり優しくない。

【後ろからよ、渚っ!】

 叱咤の声が、頭の中で響く。

渚が振り向くと、そこには思わず目を覆いたくなるような光が、矢のような速さで飛来してきた。風を切り裂くようなその光に網膜を焼かれ、小さな呻き声を漏らす。

予期していなかった不意打ちに、渚は深い混乱に陥った。だがそれでも驚くべきことに、磨きに磨かれた反射神経によって身の危険を察知。ほとんど獣のような俊敏さで、すぐに姿勢を低くし、回避行動に移る。そのまま転がり込むようにして柱の陰へと退避した。

不審者はその決定的ともいえる隙を逃さなかった。

罠にかかった獲物をみすみす逃してたまるものか。

今が敵を仕留められる好機だと判断し、渚が身を潜めている柱へと駆け出す。

そして、目の痛みにすっかり怯んでいる獲物めがけ、光の凶器を浴びせてやる――はずだった。だが、不審者は戦慄することとなる。そこには何もいなかったからだ。

文字通り、影も形もなくなっていた。自分が優位にたっていたのも束の間のこと。

いつの間にか憐れな獲物へと後戻りしていた。不審者は鼻息を荒げながら、睨むような目つきで周囲を見回していた。姿の見えない狙撃手に、標準を当てられている錯覚に囚われ、気が気ではなかったのだ。あの一瞬でどこに逃げこんだのだというのか?

【光の正体は鏡の破片みたいよ。蛍光灯の光を反射して目くらましにしてる。それにしても化粧道具を武器にするなんて……自己愛(ナルシズム)って奥深いのね。そんなに自分を見てもらいたいのかしら】

(そう、安心した。目さえ守れば失明しないのね。このまま正面から突っ込んでねじ伏せる)

【いきなり押し倒すなんて大胆ね。若さを感じるわ】

微妙にかみ合っていないやり取りを心の中で交わした後、渚は柱から飛び出した。

生き残っている右目だけを頼りに、殺人鬼へと突進した。

不審者は驚愕した。全く見当違いの方角から飛びかかってきた猟犬の姿を認めて、さらなる戦慄に慄いていたのだ。おどおどとした手つきで破片をつかみ取り、それを投擲する。

渚はそれを鞘で振り払った。鏡はみごとに打ち砕かれ、砂粒のように砕け散っていった。

だが、鏡は凶器としての役割を失うことはなかった。むしろ粉々に砕け散ったことにより、無数の刃へと進化を遂げていたのだ。より凶暴化した獣が、渚の顔面めがけて顎を突き立てた。

それでも渚は立ち止まろうとしなかった。目さえ傷つかなければ、他はどうでもよかった。鏡の刃が頬を切り裂く痛覚にもめげることなく、虚を突かれたように立ち尽くす獲物へと、捨て身の体当たりを食らわせてやった。そのまま倒れこんだ相手を、身動きできないように馬乗り状態となってがっしり押さえつける。頬から血を滴らせ、相手を冷め冷めとした目で見下ろしているさまは、機械のように寒々しく、赤い涙を流しているようで、空恐ろしかった。

そして、相手の顔にかけられているフードを外そうと、渚が手を伸ばした瞬間。

《語り部》(イノセンス)――

 ふいに不審者が呟いた。同時に、フードの奥に潜む目が、赤黒い輝きを放った。

【《原罪解除》ですって!? 渚、今すぐ離れてっ! そいつの目を見ちゃ駄目よっ!】

 女の叫び声がいつにない焦りと共に放たれた。だが、それすらも今の渚には届かなかった。

【渚っ、聞こえてる? あなたも《原罪解除》を使いなさい! さもないとあなたが……!】

渚の身体が凍りついた。まるで金縛りにあったかのように、全身の自由を封じられていたのだ。

そこには血のように禍々しい眼球が覗いていた。

それに見つめられるだけでぞっと鳥肌が立った。その黒点がぎょろぎょろと蠢くたびに、身体の奥を手でまさぐられるような不快感に支配される。苦しみのあまり身体をくの字に折った。

その目を見たくない一心で、両手で顔を覆い隠す。渚の額には汗がびっしょりと浮かび上がっていて、まるで、悪夢にうなされているような苦しみ方だった。

「あ……あぁっ……――――っ!」

渚の喉から苦しげな喘ぎ声がもれた。苦痛に満ちた嬌声と共に、魂が宙に浮かんでいく感覚があった。想像を絶する激痛のあまり、これが夢か現実なのか、脳神経が混乱を起こしていたのだ。

やがて自意識が肉体を離れていくにつれて、渚の意識は夢の中に溶けていった。

 

 

とある少女の醜悪な過去( おとぎばなし)が開幕を告げる。

(異端者よ)

――わたしはお姉ちゃんが大好き。本当の家族みたいに愛してるの。

 血塗れの手が見えた。それが誰の手かは分からない。逃げ惑う人々を追いかける。家族と、おままごとでお料理をつくったときみたいに、愛をこめて、銀色にきらめく刃物を振り下ろした。

 ――お姉ちゃんの好きなところ? うーんとねぇ、笑った顔がいちばん大好きっ!

 笑顔を浮かべて、肉片になるまで切り刻んだ。二度と笑うことも悲しむことも出来ないように。

(罪人よ)

――どんなに泣きたくてもわたしは我慢するの。お姉ちゃんには笑顔でいてもらいたいから。

泣き叫びながら命乞いをする女性がいた。かつてない恐怖で泣き喚く、我が子をかばうように。

 ――わたしは泣くことが嫌い。お姉ちゃんが悲しむのは、わたしが涙をこぼすことだから。

 お腹から大腸がこぼれた。何度も刃を振り下ろす内に、二人はいつの間にか泣き止んでいた。

――お姉ちゃん、泣かないで、泣かないでよ。お願いだから笑ってほしいの!

赤い雨が降り注いでいた。愛しい人がこちらをじっと見つめている。もの哀しそうな表情で。

(己の罪を知れ)

とある少女の醜悪な過去( おとぎばなし)が、閉幕を告げた。

 

 

唐突に、夢から現実に引き戻される覚醒感が訪れた。重くのしかかってくるような眠気の中、ふわりとした浮遊感がやってきた直後、叩きつけられるような衝撃が背中に走った。不審者に、自分の身体を突き飛ばされたのだと気づいたときには、すでにコンクリートの床へと放り出されていたのだ。不審者は立ち上がると、わき目も振り返らずに、非常ドアへと駆け出していく。

渚はまとわりつく不快感を堪えながら、ふらふらと身を起こし、後を追いかけようとする。

【待って、渚。もう十分よ】

 女性の声が聞こえる。その声はすっかり落ち着きを取り戻していた。

(だめ……ここであいつを野放しにしたら大変なことになる。わたし、分かったの。あいつはただの不審者なんかじゃない。あれはわたしたちが倒さないといけない敵よ……)

渚は不審者が消えていった暗闇をじっと見つめた。

【焦りは禁物よ。今は相手のお尻を追いかけるタイミングじゃない。恋は駆け引きだっていうでしょ。それと同じよ。こうやって適度な距離感にやきもきする時間も一つの醍醐味ってワケ】

(ふざけないで。今を逃せば全てが水の泡になる。そこを分かってるの?)

渚は両足で身体を支えるのも、呼吸をするのもやっとのことであった。だが身体を蝕み続ける不快感をものともしていないように平静をよそおっており、その表情は仮面のように冷たく、相変わらず感情の機微は見受けられない。

そんな渚を一括する声が、闇の中から上がった。

【あら、質問をしたいのはアタシの方よ。なぜあのとき《原罪解除》( イノセンス)を使わなかったの?】

 渚の目が細められた。痛いところを突かれたとばかりに、そのまま押し黙ってしまう。

《現在解除》( イノセンス)とは人類がまれに引き起こすとされる奇跡の名称である。

《inocense》――無邪気という意であり、心の純粋な部分を指してもいる。

【確かに渚の刀捌きは一流よ。人間相手なら、それだけで十分に太刀打ちできる。けれど、やつらは人間じゃない。そんな相手に《原罪解除》なしで挑むのは、自殺行為も甚だしいことよ】

 渚は長年の付き合いから心得ていた。この上司が気取ってるような口調じゃなくなったとき、下手に逆らうような真似をすれば面倒だということを。まともに言い争ったところで勝ち目はないし、自分の体力も目に見えて低下している。だから黙っている方が得策なのだ。

【まあいいわ、時間が惜しいし、今の所は不問にしといてあげる。……それより、さっき保護した少年の視覚野を収集した結果、あのコートの不審者は《憑代》だということが分かったわ】

「《憑代》? まさか……あれが?」

 渚は驚きのあまりつい口にしていた。邪悪に望んで身を捧げ、傀儡と成り果てたモノの名を。

心でつぶやき返すのも忘れてしまうほどに。

【ええ。そのまさかよ。やつは人間狩りを確実なのもとするためだけに、大胆にも自分の心臓――《憑代》を使ってアタシ達の目を逸らすことに成功した。警察でもまだ非公式の情報だけど、その証拠に行方不明者が一人出てるわ。おそらく今話題になっている、本物の通り魔のせいね】

「そんな……わたしたちがあれを追っている間に、人が襲われてたなんて……」

 思い返せば、あの不審者はあまりにも不自然な点が際立つ。まず、相手がまったくの素人だということ。それにも関わらず、さも戦い慣れてるように場の特性を利用した戦術を用いたこと。

もしかして最初からあそこに誘い込むつもりだった? 本当の目的は、あの少年ではなく、渚がやって来るのを待っていた? とてもじゃないが素人が思いつくような芸当ではない。だが、それを教示した何者かがいるとしたら? そして何よりも不審なのが、あの目で見つめられたとき、渚は隙だらけだった。殺そうと思えば殺せたはずだ。それなのに逃亡を優先したのはなぜか? 

それなりに不可解な点はあるが、全ては本命が仕事を果たすまでの時間稼ぎでもあり――

人を殺すまでの引きつけ役だった。そういうことだろう。

【ええ、まさに自殺行為以外の何物でもないわ。舐められたものね、アタシ達も。やれやれ、マスコミから通り魔の人気は急上昇するし、お上は未だに取り込んでいるし、楽しみにしてた昼ドラはつぶされるし……どうして今年は、こうも不幸なことばかりが連続するのかしら】

 渚は唇を噛みしめる。少し前の自分を、殴りつけてやりたい衝動にかられた。相手は素人だ。挙動も、雰囲気も。そのせいで自分は油断しきっていた。せめて、今しがた遭遇した相手を捕まえてさえいれば、相手の心臓を掴めたも同然だった。今よりも状況は楽になるはずだったのに。

【さて、ここからはアタシが引き継がせてもらうわ。指示があるまで渚は待機しておくこと】

「待って。わたしも協力したい」

【ダメよ。渚は明日学校があるじゃない】

 渚は露骨に顔をしかめた。学校という単語にたいしてである。

「わたしは時間を無駄にしたくない。それに、学校なんて行かなくても死ぬわけじゃないから」

出てきたのは不登校の子供みたいな言い訳ばかりだった。声の主はいたって冷静に、

【そう。じゃあ、渚には警視庁の人と一緒に、検視解剖の見学をお願いしてもらおうかしら。ちゃんと医師の説明を聞き漏らすことのないよう、舐め回してやる気概で、隅々まで観察してね】

 と受け流す。渚はむっとなった。なんかものすごく子供扱いされた気がして。

【学校か保健体育の実習か。どちらか好きな方を一つを選ぶこと。これは上司命令よ】

 とても意地悪な選択だった。死者からメッセージを聞くことも重要な仕事だが、いくらなんでも十代の少女には刺激が強すぎる。切り分けられた臓器がトレイに並べられている所を想像してしまい、吐き気が込み上げてきた。選ぶまでもない。答えなんて最初から決められている。

【心配しなくても大丈夫よ。今からでも十分に巻き返せる。もちろん、必要になったらアナタをすぐに呼ぶわ。だからそれまではしっかりと休んで英気を養っておきなさい】

「……分かった」嫌々うなずく。渚にはそうする以外なかった。「おやすみなさい」

 上司の気配が消えたことを確認してから、非常階段に向かう。

階段に足を乗せた途端、ぎい、と軋む音にびっくりして足をひっこめる。よく見ると、その階段はかなり老朽化しており、いたるところに錆が浮かび上がっていて、片足を乗せただけでも崩れてしまいそうなくらい弱々しい。

上っているときは気がつかなかった。あの不審者を捕まえることだけに集中してたあまり。

ちょっと怖いかも、心の中で嘆きながら、おそるおそる足を運んだ瞬間――

脳裏で、赤黒い目に見つめられたときの悪夢が、蘇った。

階段から転げ落ちそうになった。前によろめきながらも、手すりをつかんで身体を支えた。手すりつかむ自分の手――それが血で赤く染まっているように見えた。

肉を切り裂く感触が鮮明に蘇ってくる。息が苦しい。呼吸が出来ない。恐怖でむせび泣く母親と乳飲み子の顔が、頭の中でこびりついて離れてくれない。

(指示があるまでは待機しておくこと)

上司の言葉が、何を意図するか分かった気がした。

自分を外した本当の理由は、渚の疲労を見抜いていた、上司なりの気遣いだということに。

それが意味するものは、あの悪夢を上司も一緒に体験したかもしれないということ。

あれを見られた、そう考えただけでもひどく恐ろしかった。

あんな醜いものを見られるくらいなら、子供扱いされたほうが何十倍もましだと思えた。

渚はいまや、自分の足元が崩れ落ちそうなほどの恐怖に襲われていた。

「眠るのは嫌……怖い夢を見るから」

 懸命に頭痛をこらえながら立ち上がる。そして、自分の家へと歩き出した。

 

 

 

断章『第一位の天使が笛を吹いた』

 

 

夢いっぱいの王国  古河小学校 ×年3組 こんどう……

 

 

わたしのすんでいるおうちは、おしろみたいに大きなマンションです。

まどからそとをみわたすと、じょうかまちがいちぼうできて、おひめさまになった気分。

一かいにすんでいるコウジおじいちゃんは、あたまがピッカピカだから大じんさん。おとなりさんのサイトウおばあちゃんは、やさしいので、うばさん。

 三かいにすむ、クドウおにいちゃんは、花やさんだから、にわしさん。

 二かいのはしっこにすんでいるウジヤマさんは、でぶっちょだからコックさん。

五かいにすんでいるナガタさんは、ミュージシャンなので、えんそう家だ。

 みんな、わたしの家来です。

国王はパパで、おきさき様はママ。だから、その娘であるわたしは、おひめさまなのです。

 わたしがスカートのすそをつまんで、ぺこりとあいさつをすると、

「お早うございます。おひめさま。きょうは、すてきなかみがたをしていますね」

 と、おじぎをしてくれた。

かみをほめてくれたのがなんだかうれしくって、パパとママにおはなししてあげると、わらって、わたしをだきしめてくれた。パパとママはとてもあたたかいから大好きだ。

でも、わたしの王国には一つ足りないモノがある。それは、はくばにのった……だ。

 やさしくて、かっこよくて、こまったときには、わたしを助けてくれる、うんめいの……。

 そんな人が、わたしの前にあらわれるところを考えただけでも、むねのおくがドキドキして、今にも天にのぼってしまいそう。いつかそんなすばらしいできごとがあったらいいなあ。

いつまでも、ずっとみんな、なかよしでいられますように。

 

 

   ~続く~


 
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