「7回死ねば、君は自由を手にすることが出来るよ。」
その言葉を聞いたのはいつだったろうか。朦朧とする意識の中、必死に記憶の糸をたどっていく。
(そうだ、あの日だ…。あの日、忘れられないすべての始まりの日。)
今でもその時の夢を見ることがある。炎に包まれた居間で、立ちすくむ姉。そして母親。その顔におよそ表情はなく、ただただ虚ろな瞳で自分を見ていた。
あの日、あの時おれは初めて自分を殺したんだ。
遠ざかっていく意識の中で、雨の音がやけに耳に響いた。
一日目…12月2日
「あぁーあ…まーた降ってきちゃったかぁ…」窓の外を見ると、いつの間にやら雨は降り出して、道路を濡らしている。
「梨香ちゃん、今日はもう上がっていいって。この雨じゃお客さん足遠のいちゃうからねぇ。」眼鏡がトレードマークの同僚の早苗ちゃんがそう言って飴をひとつくれた。
先日、職場の先輩が亡くなった。
自殺でも事故でもない、『殺人』。気さくで美容師の仕事を一から教えてくれた美樹先輩。
ずっとこの美容室の店長をやっていて、梨香にとっては憧れの女性であり、また目標だった。
美樹先輩を最後に見たのは、いつも通り仕事を終えいつも通りあの広い公園で別れた時の後ろ姿だった。…その数分後、彼女は殺されてしまったのだ。
最初の一週間はマスコミやら警察やらがわらわらと用もないのに来て、あることないこと聞いてきた。ひと月も経った頃には話題はすっかり移り替わりあれほどうるさかったマスコミもみかけなくなった。
おかげでこの店もすっかり客が遠のいてしまったのだ。
「駄目だな今日は。りか、最近色々あって疲れたろ?きょうはもう上がってゆっくり休みなよ。」顎にちょびっとだけ髭を蓄えた店長が黄色い淵眼鏡を拭きながらうっとうしそうに言ってきた。
「…わかりましたー。じゃ、お先に失礼しまーす。」
(…相変わらず趣味の悪い眼鏡店長だな。)
梨香は心の中で毒つきながらにっこりとあいさつをした。
美樹先輩の後を引き継ぐ形で副店長だった人が昇格したわけだが・・正直この人はあまり好きではない。上がる直前、ふと見た鏡の向こうでは、早苗ちゃんが店長の肩にもたれているのが見えた。
「ふふっ…やだもー店長ったらぁ…」
どうやらあの二人は最近から付き合いだしたらしい。…もっとも、それは梨香に対する当てつけなのだろうけど。
(…美樹先輩もいないし…店長をふったのはマズッたかなぁ・・・)梨香はほんじつ一番大きいため息をつくと、できるだけ迅速に身支度を整えた。
店を出ると、この季節特有のもゎっとした湿気が体中にまとわりつく。辟易して空を見上げると、雨は意外にも強く傘なしで帰るにしてはなかなか辛い状況だった。
近所にあるスーパーで安い傘を買ってこようかどうしようかしばし悩んだが、辞めた。従業員入口にいつまでもほったらかされている古い傘を持って、梨香は帰路に就いた。
ヘアサロン・sceneと書かれた看板の下にはクローズのプレートが貼られていた。
ガラス張りのウィンドウにはすべてブラインドが落とされ、中を見ることはできない。だが、きっと今頃中では思う存分二人はいちゃついてるに違いないだろう。
梨香が学校を卒業してこの店に就職したのは今から二年ほど前の頃。
谷村早苗はその頃一緒に入った同期の女の子で、当時はさばさばとしたショートカットがトレードマークの明るい女性だった。だが、彼女は或る時を栄に激変する。もちろん原因は現店長である飯塚正人のせいであろう。
飯塚は女性はみんな自分に惚れないはずがないと思いこむような典型的ナルシストタイプ。
職場においてもフタマタを平気にやってのけて、女性二人が自分を取り合うのを見て楽しむようなところがある。実際梨香自身も研修のときは付き合っていたりもした。だが、それをよく思わなかったのが早苗だった。飯塚の好みの髪形をし、好みの服装をし…。そして最終的には別人へと変貌を遂げ、飯塚と付き合いだしたのだ。
美樹先輩にあこがれ、恋愛よりも美容師の仕事が楽しくなってきた頃、梨香の方から別れを切り出したのだ。
それからというもの、何をどう誤解したのか、早苗は勝ち誇った様子でわざと梨香の目の前で飯塚とべたべたすることが増えてきた。精神的にも疲れ果てた時、助けてくれたのは他の誰でもない美樹先輩だった。
(美樹先輩もいないなら…あそこにいてもしょうがないかもな…)
とぼとぼと歩きながら、梨香はいつもの道を通る。事件があった公園はもうすっかり元通りの静かな公園となり天気の良い日には家族連れもたまに見かけるようになった。…さすがに今日は天候のせいだろう、人の姿は見えない。
「雨の日は…嫌い。」
梨香は一言つぶやくと空をみあげた。しん、と静まり返った公園に静かに雨の音だけがBGMみたいに梨香の耳に聞こえる。やがてその音はどんどん大きくなり、梨香は妙に心細くなった。
「雨は…大嫌い…!」
「どうして、嫌いなの?」
ふと、梨香の中の静寂が破れた。ハッとなって振り返ると、いつの間にか黒いコートに身を包んだ一人の少年がたたずんでいた。
「…あ、… …えっと。」一気に現実に引き戻された気分だった。梨香は一瞬言葉に詰まり、少年を見た。
少年はびしょ濡れであからさまに伸び放題といったぼさぼさの髪の毛は黒かった。目は半分前髪で隠れてしまっている。だが、黒髪の下にちらちら見える瞳の色は紺色で、とても美しい色だった。身につけているコートはすっかり水を吸い込んで重たそうだ。
「俺は好きだな。雨。」
傘もささずに濡れっぱなしの少年ははにかむようにほほ笑んだ。
(なんなのこの人…?)
「…傘、ないの?」
年は自分と同じか少し下だろうか?本来なら警戒するべきなのだろうが…この少年の笑顔はそう言ったものを感じさせなかった。
「傘?…ああ。そうだ、ないみたい。」
「ないみたい…って。ヘンよ、それ。…あなたこの辺に住んでないの?」
「この辺…ここってどこ?」
「…??どういうこと…??」
「わかんない・・」
少年はそういうと、そのままふらふらと梨香に倒れこむ。「??!」あわてて自分より高いその体を受け止めた。
「え?え??ちょ、ちょっと一体…」
ガシャン!
「は???」なんとか少年もろともアスファルトに倒れこむのだけは回避できたが、梨香は足元に転がったものを見て絶句した。
銀色の銃。ドラマやテレビで見るような大きなものではない、割と小さいもの。恐る恐る片手で持ち上げると…それはずっしりと重たかった。
「ほ…ほほほほンもの…?!」
自分の血の気が引いて行くのがわかる。梨香はその場で数秒、放心状態になった。ひとまず、銃(らしきもの)を急いでかばんに押し込み、倒れた彼を引きずりながら家へと戻ることに専念した。
ガチャガチャ…カチッ…
「はぁ、はぁ、はぁ…お、重…」
どさっと、派手な音を立てて倒れ込むように玄関に上がり込む。かばんも靴もびしょ濡れだ。
ひとまず、青年の重そうなコートをはがし、ハンガーに掛ける。
「あーも―、着替えどーしよ…。」
ふと、自分の服もシャレにならない状態だということに気がつき、あわてて着替える。青年にはバスタオルをとりあえず覆いかぶらせ、梨香はコンビニへと走り出すのだった。
外は相変わらず雨が降り続いていたが、先ほどよりもひどく寒く感じた。シャワーでも浴びてくればよかったかな、と思いつつも、さすがに得体のしれない眠ってる男がいる状態で風呂に入るのは危険すぎる…様な気がした。
「…って。ホント、これからどーしたらいいかなぁ…」こういうとき、美樹先輩がいてくれたら…そんな考えが頭の中をちらついたが、あわてて振り払った。
(私、結構先輩に依存していたのかなあ)
ふと、道路の反対側の向こうにパトカーが数台停まっているのが見える。そして、その前に立ちはだから警官が複数。そのうち何人かはこちらに気がつき、軽く会釈をする。
「すいませーん。この辺に20代くらいの若い男が歩いていませんでしたか?」
「え……いや、見てません…けど。何かあったんですか?」
「あーいえ、実は先ほど公園の方で本日16時過ぎにひったくりがありまして。一応、この辺の住民の方々に情報をお願いしているんです。あ、何かありましたらすぐお知らせください。」
「は、はあ…」
去っていく警官の後ろ姿を見送りながら茫然とたたずむ。
(アイツだ。きっとあの黒いコートの男のことだ…!)
警察に言った方が…と、考えたが、辞めた。だが、あの銀色の銃が頭をよぎる。
(もしかしたら、誰か殺してる…?それとも…)
のど元まで出た言葉を飲み込んで、梨香はその場を立ち去った。…胸の中に言いようもない想いがふつふつとわきあがる。
(不謹慎かもしれないけど…こういうの、ちょっと楽しい。)
誰しも繰り返す日常に満足して、どこかで刺激を、変化を求める。
それは平和な証拠なのかもしれないけど…
(… …やめよう)
梨香は手早くコンビニで必要なものを買いそろえ、帰路に就いた。
「た…ただいま~…」
そおっとドアを開けて、梨香は部屋に滑り込む。
鍵をしっかり施錠し、ゆっくりリビングへと向かう。すると、リビングには人の気配がしない。
「あれ?…嘘。いな…」
「おっかえりーおねえさん!」
ぱっと部屋の照明がつくと、先ほどの少年が満面の笑顔で迎えてくれた。
「…た。ただいま…」
口から心臓が飛び出そうなほど驚いたが、なんとか平静を保つ。
そう言えば久しぶりにお帰りと言われた気がする。なんとなくくすぐったいような複雑な気持ちで少年を見た。
するとぐきゅるうと、間抜けな音が響き渡る。
「ありゃ。そう言えばおれ何も食べてないと思う。」
照れくさそうな笑顔に梨香のうちにあった警戒心がほぐれていく。
「…あり合わせでいい?おにいさん」
「え?!いいの?やったー!」
あの銃はなんなの?とか、あのこうえんでなにをしてたの?とか、聞きたいことは山のようにあったが、梨香はとりあえずキッチンへと急ぐ。
ここのマンションはワンルームのくせにキッチンはとても立派で、対面式になっている。
そこがよくてこのへやを選んだのだけど…
「あ、ねえおねえさん、名前は?」
少年はなぜか目を輝かせながらカウンターで梨香の料理の様子を眺めている。
「梨香よ。…て言うかあなた、そうやって目の前にいられたらやりづらくてしょうがないんだけど」
なんだかいろんなことにびくびくするのがばからしくなってきた。
「そう?いやーなんか新鮮で。」
「…はぁ。とりあえず、あなたはシャワーでも浴びてくれば?風呂好きなように使っていいから。」
「え?いいの?ねーさん優しい♪」
(なんなのこの明るいノリ……)
「そう言えばあなた名前は?」
「さあ?おれ、なんか何も覚えてないんだー。」
一瞬の沈黙。
あまりにも当然のように。あまりにもさらりと言われたので。絶句してしまった。
「ちょ…ちょっとまって。どういうこと?」
「いや、だからホントに。何も覚えてない。あ、記憶ソーシツってやつかな?」
「何も…なまえは?!ていうかあの銃は?!!」
「え?銃??何それおれそんなのもってるんだ?!やべー、殺し屋とかかなぁ」
めまいがした。この少年の言ってることはどこまでホントかウソかもわからない。とぼけてるようにみえるし、本当に忘れてるのかもしれない。
もしかしたら何か重大な犯罪にかかわっていたり…
「いや、ちょ、ちょっと待って。落ち着こう。」
「俺は落ち着いてるけど…ねえねえおねえさん。この際細かいことは気にしないで…」
「いや!気にするから!っていうかこれからどうするの?!」
「うーん…あ。焦げてるよそれ。」
「焦げ…?!きゃーっ!!!!」
部屋全体に香ばしいにおいがする。すっかり焦げ付いたフライパンは水につけておき、少々焦げの交じったオムライスを二人で平らげたあと、梨香は少年と向き合っていた。
「えーと。まず、現状は…雨の日に出逢ったわけよね。私達。」
「うん、…て言うか。そこからもうおれ覚えてないんだよね…」
「う、うんまあそうね。あなたの過去はこの際知らないけど、これからどうするか考えないと。」
「…ここにいちゃだめ?」
子犬のような悲しそうな眼をされ、梨香は困惑する。…もっとも。子犬なんてかわいいものではないのでだまされることはなかったが。
「…まあそれも含めて。何か思い出せない?」
「思い出すも何も…ホントにわかんないんだよね」
「ほんっとーに?まったく?!嘘言ってないよね?」
「嘘じゃないよ。っていうか、全然。」
表情を変えずにきっぱりと答える。…それこそ、二の句が告げないほどに。
「け・・警察ってのもなんか売り渡すみたいで嫌よね…」
先ほどの光景を思い出す。今彼を警察に通報するのには非常に抵抗があった。何も知らない無垢な子供を野に放り投げる様なものに思えてしまう。
「はあ…ま、とりあえずはうちにいてもいいけど…」
「…お姉さんは一人暮らし?家族とかは?」
「いないよ。ずいぶん前に亡くなったしね。」
「そっか…。…あ、ねえおねえさん。どうせならおれに名前を付けてくれない?」
「はぁ?名前??」
何を言い出すのかと思いきや…と思ったが、実際名前はないと確かに不便だった。
「あ、ポチとかそういうのはやめてよね。おれ一応人間だし。」
「…わ。わかってるわよ。そーねー…」
言いながら、ふと昔訊いた言葉を思い出した。
子供の頃、父さんが言った言葉。
「霖雨((|りんう))…」
「え?」
「今日みたいに、何日も降り続く雨のこと。のどの渇きをいやし、植物を生育させる恵みの雨のこと。…でも雨はってのはなんか嫌だし、霖はどう?」
「りん?…へえなんかいいな。それ。じゃあそれでいいよ!」
雨とは正反対のからっとした太陽なのような笑顔を眩しく感じる。
…その時。
雰囲気をぶち壊すような玄関のチャイムと、けたたましくドアをたたく音が鳴り響く。
今思えば、この音はこれからはじまるかけがえのない日々の始まりを告げる合図だったかもしれない。
梨香にとって運命を変える七日間は暗雲立ち込める不穏な空気の中始まったのだった。
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「雨は嫌い。大切な人を連れて行ってしまうもの。」
美容師の梨香が雨の日に出逢ったのは、「自分を忘れてきた」記憶をなくした少年だった。
梨香の日常が一変、人生と運命を変える七日間がはじまる。