「まぁ、茶柱が!」
冬の寒気に冷え込む和室。朧は陽炎の前で、油断し切った顔で湯飲みの中を覗き込んでいる。
朧はそれまで見たことのない茶柱が、自分の湯飲みの中に浮いている嬉しさに、飲んでしまうのが勿体無いと白く上がる湯気を顔中に浴び続けた。
余程嬉しかったのだろう、うふふと笑った朧の息が、白い湯気を散らす。
「冷めてしまいますよ」
その様子を見る陽炎は、幼子のような朧の様子に呆れ顔になりながら、それを誤魔化すように茶を啜った。
「よく飽きませんね、顔がふやけてしまいますよ」
「だって、陽炎の淹れてくれるお茶にはいつも茶柱が立っているから勿体無いです」
「人聞きの悪い」
「どうして?」
「いつも茶を淹れてやっていると思われては堪りません」
「でも入れてくれているではありませんか、わたしが甲賀へ来る度に」
「それは客人だからで。……もう、馴れ馴れしい」
陽炎は眉を顰め呟くと舌打ちをし、ツンと顔を背けた。
こうやって朧と茶飲み友達になったのは、朧が弦之介と祝言を上げると決まってすぐであった。
顔合わせの際、伊賀から甲賀までの慣れない長旅に、弦之介が朧の身体を気遣って一時的にではあるが、所謂お世話係に陽炎を宛がったのが、二人が顔を合わせ対話する切っ掛けとなった。
始めこそ嫌で仕方がない陽炎であったが、これも縁と言うべきか。陽炎の嫌味を尽く覆していく朧の破幻の瞳ならぬ、破幻の人格は、一時は嫉妬を更に駆り立て、……そして最終的には燃やし尽くした。
早い話、疲れたのだ。恋をするのも、愛を貫くのも、それは恐ろしく、文字通り命を燃やす行為である。弦之介が朧との祝言が確実となった今となっては、陽炎はもはや燃料を燃やし尽くし、さらさらと風に滑ってゆく灰そのものである。
幸せそうな朧に嫉妬していないかと言われれば嘘になるが、こうして朧と近しくしているからこそ、今までの人生の中で史上最高に、少しだけではあるが弦之介に近しい存在となっていることが、「お世話だけでも良いから」と有り得ない希望さえを夢見た陽炎には幸福であった。
この憎まれ口だって半分本気で、半分冗談、そしてなにより照れ隠しでもある。朧はこうやって陽炎の茶の技術を凄い凄いと誉めたてるが、実際には目の粗い茶濾しが茶の葉を受け止めきらず、
通り過ぎていく葉の中に茶柱が含まれているだけだ。特に陽炎は道具の使い方なのか、なんなのか、入らざるべき葉っぱが人より多めにちらちらと混入するから余計に増える。
ゆえに、「これだけザルならば誰にだって茶柱の一つや二つくらい作れる!」と力強く説明をしたこともあるのだが朧は褒めた。
始めこそ、朧の言い分があまりにもわざとらしいので、ある日、誰でも出来るという証拠に、朧に茶を入れさせてみたのだが、急須に入れるべき湯がそこを通り過ぎ、ダイレクトに畳に湯を注ぐといった失敗例など、見事に期待を裏切らない活躍を見せてくれ、優越感というか、安心感というか、これならば、隙あらば弦之介を奪えるのではないかとささやかな期待を生んだ。心の余裕はいついかなる時も大事だ。
「今日は、朱絹は一緒でないのですね?」
陽炎は皿に乗った干菓子をつまみ、そっけなく言った。朧の身の周りの世話を任されている朱絹は基本的に常に朧と行動を共にするのだが、このところその朱絹の姿を甲賀の敷地内で見ないのだ。
朧は陽炎につられるように、自分の皿の干菓子を一口齧ると、困ったように笑うと、
「ゆうげの支度があるから、……と」
朱絹が朧に伝えたオブラートをそのままに伝言すると、陽炎はやっぱりといった様子で溜息を吐いた。
「朱絹にはいつも迷惑かけて……。全く、丈助どのの手癖の悪さには卍谷の女たちも困っております」
と、眉をハの字に曲げ、
「弦之介さまは丈助どのには甘いから」
と、ため息を吐いた。
「そうなのですか? 確かに、いつも仲良さげになされておりますが」
「どうしたってそうです」
「でも、よく弦之介さまは打って叱っておられます」
「あんなもの、叱ったうちには入りますか。あれはただのじゃれあいです」
「そうでしょうか」
「そうです、あのげんこつは一種の愛情表現。あんなこと、丈助以外がされているのを一度として見た事がない」
「……げんこつは弦之介さまの愛情表現って訳にございますね」
「だからさっきからそうだと、――」
「ならば、わたしも弦之介さまに叱られて、打たれたいです!」
言葉の調子ともに、朧は指先を温めていた湯飲みを、音を立て置き皿に戻した。その音は深々と降り積もり積もった屋根や木の枝の雪を落とすほどの威力があったのかは不明だが、その瞬間に外から雪の塊の落ちる鈍い音が、障子越しに聞こえた。
「……あの、わたし、なにか変なことを言いましたか?」
「……いえ」
陽炎は言葉を濁し、行き場の無くなった口に助け舟をと温くなった茶を音を立てて啜った。そして飲み口に付いた紅を指で拭いつつ、頬を朱色に染め、
「お気持ちご察しいたします」
と、誤魔化すように口元を隠し上品に色っぽく笑った。この反応に朧も慌てて同じように場を釣り繕おうと笑ってみたが、どうも妙な空気となってしまった。
先に言い出したのは朧であるが、真っ先に「たわけ」と言いそうな陽炎がまさか、自分と同じ考えをしているとは思ってもみなかったのだ。しかも、発端の自分より、思い詰めた様子であるから余計に。陽炎が弦之介を好いていることに未だ気付かぬ朧にとって共感を埋めたことが嬉しいような、どこか引っ掛かりが生まれたような、複雑な心境であった。
「弦之介さまとどこまでいっておられで?」
陽炎は色っぽさをそのままに唐突に言った。
「伊賀、甲賀の間くらい、でしょうか」
「……ふざけておられか」
真剣に答えた朧に陽炎はちょっと怒った様子で膝立になり朧に近付くと、顎を掴みぐいっと顔を自分の顔に向けさせ、
「弦之介さまとは?」
と、耳元で囁いた。そこで朧は質問の意図に気付くや否や、見る見るうちに真っ赤となり、熱を上げた。答えを催促する陽炎の息が、髪が、耳や首筋に当たり、くすぐったい。どうにか逃げようと身体をくねらせると、観念し、首を縦に振った。
「やっぱり……」
そう言って陽炎は悲しそうに目を伏せ、きゅっと唇を噛んだ。
そこで朧は悟った――。
「陽炎も弦之介さまを?」
「さぁ……」
陽炎は落ちた髪を指に絡ませ、耳の後ろへ掛け直し、無防備の朧をふんわりと抱き締め、顔を隠すみたいに首筋にうずめた。
「今まで相手をしてあげていたのも、弦之介さまに少しでも近付きたいから。と言えば……失望しますか?」
見上げるような、流れるような視線で朧を見れば、大きな瞳を目が合った。その眼は潤っている。
「いいえ」
「強がりを言って」
「強がりは陽炎です」
「秘めているだけです」
「……わたしは、どうすれは良いですか?」
「なにもしないでくださいませ、変わらずにいてくれなければわたしが可哀想」
そう言った陽炎の腕は微かに震えていた。それに気付かれまいとする陽炎は痛いくらいに朧を抱き
しめたが、漏れる嗚咽に肩が規則的に揺れていた。朧は陽炎の腕の中でただ身を任せ、言葉変わりに優しく抱き締め返すだけだった。
「今日も茶柱がっ、しかも二つもっ!」
朧は湯飲みの中を嬉しそうに眺め、ころころと鈴の音のような笑い声を響かせている。
「朱絹にも見せたかったですね」
「ええ、そうですね」
陽炎は気のない返事をし、手に持った湯飲みの底を見た。蒸らす時間が足らず茶葉が開ききっていなかったのか、茶こしからどうすり抜けてきたのか問いただしたくなる大小さまざまな茶の葉が、行き場もなく溜まり、ゆらゆらと揺れていた。
朧はあれから変わった様子もなく、次の日も、また次の日も陽炎の元を訪れ、陽炎の言った「変わらず」を続けていた。いつものように茶柱に一喜一憂し、記憶に残らないような世間話に花を咲かせ、可憐な笑顔を振りまいていた。「変わらずにいて」と言った陽炎が戸惑うくらいに、朧の周囲はこれまでと同じであった。
(結局変わってしまったのは、わたしだけか……)
考え込まなくとも、朧にとって自分の存在は弦之介の、大勢いる甲賀忍者の一人であって、それ以上でも、それ以下でもない。
例え、弦之介を好いている事を知ったとしても、ただそれだけ。あまりに違いすぎる立場に始めから争いが起こることすらない、そんな関係。――
それどころか、好意が他の物に知られさえすれば、こうして朧と茶を飲むなんて以ての外、二度として弦之介や朧に近付くことは許されず、甲賀を追放されてもおかしくない、陽炎はあれから、穏やかなる窮地に立たされているのだ。
朧の身の振り一つで全てが変わる――。
あの時、陽炎は己の全てを掛けて朧を試したつもりであった。ろくに修行もせず、頭領の孫でありながら体術の一つも出来ない、弱くて脆い朧の、追い込まれることにより、首を挿げ替えたかのように人が変わるのを楽しみにしていた。例え、この身を引き裂かれようと、虫すら殺さないといった無垢な顔を引き剥がし、所詮は同じ女であるのだと知らしめ、最後はその醜い姿を嘲笑ってやろうと思った。なのに、変わらない朧に苛立ちが積もった。
「何故、言わないのです。放っておけば何をするか、知りませんよ」
「陽炎……?」
殺気立つ陽炎に朧は目をまろくした。
「それでわたしを助けてやったつもりか」
「なにを言って、――」
朧が見た陽炎の顔は苦しげであった。己の感情を包み隠さず、露わにした人の顔を、女の顔を見るのはこれが初めてだった。
朧は本能的に、以前、陽炎が朧にしたように抱き締めた。
「可哀想な陽炎」
これが朧の正直な気持ちであった。だが、慈愛に満ちたその言葉は、陽炎の哀れさを強調させた。可哀想、たったその一言で己の全てが片づけられてしまったのだから。
「もう一度言ってみや」
「陽炎は可哀想です」
「――っ」
陽炎は悔しさに鼻の奥がツンとした。奥歯を噛み締めたら唇が切れ、口端から血が一筋流れた。朧は表情を隠し、痛々しく歪んだ陽炎の顔を両手で包むと、血を拭うように唇に舌を這わせた。真っ赤な、雪をも溶かす熱い舌だった。
「わたしでは陽炎を慰めることはできないのでしょうか」
「貴様っ」
あまりの驚きに陽炎は朧の軽い身体を突き飛ばしていた。勢いにきゃっ、と声を上げた朧は、床に両手を置き、弱弱しげに陽炎を見上げた。
「なにを言っているか分かっておられか」
「……分かっているから言っているのです」
「それは弦之介さまへの裏切りか!」
「裏切りではありません。……これは甲賀の為を思い己を犠牲にしようとする者への労いです」
「ふざけるな、そんなことでわたしは、――」
お前を許すと思うな、と言い掛けた時だった。勢いに任せて振り上げようとした手が朧のか細い手に絡めとられ動けなかった。
「ごめんなさい。でも、どうすれば良いか分からなくて」
そう言った朧は悲しそうな、困ったような顔をして、眼には涙を溜めていた。
「陽炎はわたしです。わたしも、――」
「うるさい」
陽炎は朧の手を払い除け、吐き捨てるように言った。そして、その手を再び自分から指を絡め握り返し、皮肉に満ちた顔で、
「こんな冷たい手で、どうして温かさを教えられましょう」
冬の寒さに悴む朧の指先の冷たさに、勝ち誇ったかのように陽炎は言った。確かに陽炎の言う通り、天真爛漫の朧も雪深い冬の寒さには勝つことは出来ない。だが、
「ひゃっ!」
陽炎は思わず声を洩らした。朧に奪われた手に生暖かい息を感じたからだ。
「なにをなさる」
「なにって、温めているのです。陽炎のことを」
そう言いながら、朧は更に陽炎の手に息を吹きかけた。陽炎はその度に背中にゾクゾクと悪寒が走り、もはや温かいのか寒いのか分からない。分かるのは為すがまま息を吹きかけられている自分の姿のシュールさだ。
だが、そんな陽炎とは反対に、朧はやけに機嫌が良く、笑顔を絶やさない。
「……なにがそんなに嬉しいのです」
陽炎が聞くと、朧は少し勿体ぶって、
「陽炎が小さな子のようで可愛らしいと思って」
ふふっ、と笑みを洩らし、だいぶ温まった陽炎の手に頬擦りをした。
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