――この風は、あの日々の風。足下の草花を、まるで小人がささやくように優しく揺らす。顔を上げると、茜色に照らされた石階段が私を招く。一歩一段踏みしめて、ゆっくり上へと登っていく。履き慣れた革靴を、コツコツと鳴らしながら。
――「……!」
――しばらく階段を登っていると、目の前が一気に開けた。その瞬間、視界が茜色に染まる。反射的に目を細め、光に慣れるのを待った。
――「……って……!」
――徐々にはっきりしていく視界。そこに現れたのは・・・。
――「「待って!!」」
「はっ……」
体をびくつかせ、一人の老人がベッドの上で目を覚ます。嫌な夢でも見たのかと思ったが、恐怖に怯えた表情は無く、穏やかな面持ちをしている。
「久しぶりに、夢を見たのう……」
ぼそりと呟くと、その歳に相応しいゆっくりとした動作でベッドから起き上がり、近くの窓から外を見た。庭の芝が朝の日差しを一面に受け、生き生きとした緑の光が老人の目を細くさせる。
(はて、どんな夢を見たのやら……)
目が覚める直前、夢のなかで誰かに強く左腕を引っ張られたのを覚えているが、それ以外のことは全く思い出せなかった。しかし、老人はなんとか思い出したいらしい。「うーん、うーん」と唸りながら、ご自慢の白いひげを撫でつつ、頭を左右に何度もかしげた。
(ふむ……起きた時、悪い夢は大抵覚えているものだが、良い夢はあまり覚えてない。つまり、思い出せないということはそういう事なのじゃろうな)
しばらく唸っていたが、いつまでも考えてはいられない。ゴホンと咳払いをし、頭の中の疑問に区切りをつけた。その後、ベッドの手すりにゆっくりと手を伸ばし、「どっこいしょ」の掛け声とともに立ち上がる。少し丸まった背中が伸び、ぽきぽきと小気味よい音を立てた。
一人で住むには広いこの家に、もう何年も一人暮らしをしている老人「ロアロ」。彼には妻がいたが、十年前に病気で亡くなってしまった。また、娘もいたが、随分昔に遠くの街に嫁いでいってしまい、今は音沙汰もない。孤独な老人の典型だが、当の本人はそれに苛まれることなど無く、元気に日々を過ごしている。
寝起きの背伸びをし終えたロアロは、顔を洗いに洗面所へ赴く。春先のこの時期、水道から出る水は目が覚めるほど冷たい。そんな水でバシャバシャと顔を洗い、目も頭も覚ました次は、再び寝室へ戻り着替えをする。アイロンのかかった黒いズボン、薄灰色のワイシャツと焦げ茶のベスト、最後に、結び目に金ボタンがあしらわれたワインレッドの蝶ネクタイをつけ、着替えを済ませた。この着慣れた服に身を纏ったロアロは、まるで上流階級の貴族のような雰囲気を身にまとい、庭のラベンダー畑に水をやるべく玄関へ向かった。
このラベンダー畑は、今は亡き妻「エルメル」の残したものだ。以前はもっと沢山のハーブや花が植えられていた。しかし、病に伏してしまったエルメルは、段々それらの面倒を見ることができなくなってしまい、ラベンダー以外の草花を諦めてしまったのだ。花やハーブを、まるでわが子のように育てていたエルメル。彼女は死の直前まで、庭の様子を気にかけていた。そんな彼女が最後に残したこのラベンダー畑を、ロアロは形見のように大事に育てている。少し古ぼけたブリキ製のジョウロに水を汲み、エルメルの思いを反映するかのように優しく丁寧に水を与えていく。
一通りラベンダー畑に水をやり終えて、一息ついた所に背後から声がかかった。
「はっはっは。今日も精が出ますねぇ、ロアロさん」
ロアロが、くるりと後ろを振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。にこやかな笑顔を彼に向けている中年の男「アロー」はロアロのお隣さんである。
「おやおや、おはようございますアローさん。これくらいしか、やることがないのでね」
「いやいや、毎朝欠かさずやることがあるというのは、それだけで人生を優雅に過ごしていらっしゃる証拠ですよ。亡くなられた奥さんも、きっと天から感謝されていると思います」
「ふふふ、だといいのですがね。水のやり方はそうじゃない、違うだなんて言われているかもしれません」
「はっはっは、エルメルさんに限ってそんなことは言わないでしょう。うちの嫁は……おお怖い」
そんな事を言いながら自宅に一瞬目を向けたアローは、ロアロに向き直り肩をすくめてみせた。
「ジェイミーさんも、そんなに厳しい方には思えませんよ。まだ、お若いのに、立派に娘さんを育てていらっしゃって……」
「ええ、嫁にはもちろん感謝していますよ。娘もすくすく育ってくれて……あ、そうそう、ラベンダーで思い出したのですが、メルア……娘がこんなことを言っていましたよ」
「ん? 娘さんが何と?」
「今年は綺麗なラベンダー見られるかなぁ、と。きっとそうだろうと言い返しましたが……どうなりますか、畑の主さん? 今年のラベンダーの咲き具合は」
アローは、じょりじょりしたあごのひげをなでながら、まるで批評家のようにわざとらしくロアロに尋ねた。ロアロは、その動作が面白かったらしく、少し吹き出してしまいながらこう答えた。
「ふふ。そうですねぇ……この子たちは、きっと今年も綺麗な花を咲かせてくれるでしょう。なにせ、エルメルが丹精に育ててきた子たちです。ただ……」
そう言って、ロアロは口ごもる。そんなロアロを見て、アローは心配そうに彼の顔をうかがいながら「ただ?」と言葉をかけた。すると、ロアロは口をもごもごとさせ、どこか恥ずかしそうにしながら口を開いた。
「ただ……その、今年も私が見られるだろうかなどと考えてしまいまして。いやはや、情けないやらお恥ずかしいやら」
言い終えて、ロアロはアローの顔を見返すと、そこには目を丸くした顔があった。やはりいけないことを言ってしまったかと思ったロアロは目をそらしたが、直後に「ぶふっ」という音が聞こえた。アローが吹き出した音である。
「はっはっはっはっは! 町一番の健康体が何をおっしゃいますか! 毎日決まった時間に起き、欠かさず花に水をやり、決まった時間に寝る……こんな健康的な生活、とても私には真似出来ません。もしかすると、私のほうが先に逝ってしまうかもしれませんよ」
最後の言葉は肩をすくめながら、似合わない茶目っ気たっぷりの顔で言った。それを聞いたロアロも、わざとらしく目を丸くしてみせる。
「そうですねぇ・・・。せめて、もう一度この花が咲くまでは、見届けたいものです。あ、そろそろ朝食をとりたいので、私はこれで」
「はっはっは。今年も来年も、綺麗に咲かせてくださいよ。ではまた」
そう言うと、お互いに会釈をかわしてその場を離れていった。何も変わらぬ、いつもの朝だ。ロアロが家に入る直前、アローの家から彼の嫁であるジェイミーと、その娘のメルアが出てくるのが見えた。ロアロはそれに気づき、二人に「おはようございます」の言葉と笑顔を向けて家に入っていった。
――「ああ、ジェイミー、メルア、おはよう」
――「おはようございます、あなた」
――「おはようパパ! ねぇ……さっきのロアロおじちゃん、何だか元気なさそうだったね。なにかあったの?」
――「え? そうだったかしら……」
――「ん? ロアロさんは今日も元気だったぞ。メルアはまだ顔を洗ってないな?ロアロさんがそう見えたのは、きっとメルアがさっぱりしてないからさ。ささ、顔を洗ってご飯にしよう!」
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
ある片田舎に、一人の老人が住んでいた。
彼の名は「ロアロ」、庭にラベンダー畑をもつ家に住んでいる。以前は一人娘も妻もいたが、娘は遠くの街に嫁いでしまい、妻も十年前に病で命を落としてしまった。ちなみに、庭のラベンダー畑は、生前の妻がたいそう大事に手入れをしていたものである。ロアロは妻の死後も、このラベンダー畑を一日も欠かすこと無く手入れをしていた。
ラベンダー畑の世話、天気のいい日は散歩にでかけ、時折、寂しさを感じるが、ロアロは日々を不自由なく過ごしていた。そんなある日、不思議な夢をみる。それはとても懐かしい夢だった。
しかし、目が覚めると夢の内容は思い出せなかった。そしてその日も、また同じような日常を繰り返そうとしていたが。そんな彼のもとに、一組の来客が訪れる…。