天高く雷鳴が轟き、暗く冷たい影を落とす暗雲は果てしなく広がっていた。轟々と降りしきる雨と大地から跳ね上がる泥に塗れながらも、俺の手は必死に手綱を握り締め、拙いながらもこの数カ月の間に漸くマトモになりかけた馬術で必死に馬首を巡らせる。
「急いで下さい! この雨、予想よりずっと強いです!!」
前方から副官に抱き抱えられた格好のまま、朱里が必死に声を張り上げる。
彼女が乗る馬を先頭に、十数騎がこの豪雨の中を駆け抜ける。
泥が盛大に撥ねあがり、顔にべったりと塗りたくられる。
それを袖で荒々しく拭い去り、その暇すら惜しむ様に俺は馬の腹を蹴った。
俺は―――俺達は、荊州へと逃れようとしていた。
洛陽で権勢を振るった十常侍と何進の争いは、俺の知る史実と未だに残る記憶に概ね沿う形で両者は共倒れとなり、後に残った金と権力に群がった賊徒の手から逃れた帝は、何進の呼びかけに一応応じる姿勢を見せつつ中央の争いに介入しない様、都の外に陣を構えていた董卓の下に転がり込んだ。
そして董卓の庇護を受けつつ帝位に昇り、自らの大恩人である董卓を相国に迎える事でその恩に報いようとした。
だが、これに待ったを掛けたのが、同じ様に洛陽の外に――地理的に董卓とは都を挟んで正反対の位置に――陣を構えていた冀州の名族・袁紹。
彼女はたまたま自分と反対の門前に陣を構えていた董卓が相国にまで上り詰めたというのに自分が権力を握れなかった腹いせに、十常侍や何進、それに賊徒連中がやらかした悪行をさも董卓がした様に嘘八百を並び立てた檄文を全土にばらまき、反董卓連合を結成。
“帝を虐げる逆賊・董卓を討つべし”という号令のもと、大陸全土から諸侯が次々と集まった。
しかし、各々が様々に思惑を巡らせる連合軍が足並みを揃えられる筈もなく、要衝である汜水・虎牢両関、そして董卓軍が誇る華雄、張遼、呂布らの猛将を前に連合軍は瓦解。
それでもどうにか曹操や袁術配下の孫策らの活躍によって連合軍が洛陽へ入った時、既に董卓は洛陽の民達の声を受ける格好で本拠地に近い長安へと遷都していた。
そしてこの時点で、連合軍内の権力争いが激化した事に辟易した曹操らは早々と自国へと引き上げた。
俺達もこのタイミングで連合軍を抜け、それから間もなく連合軍が自然解散したという報せを受けた。
それから間を置く事なく、中央の統制を完全に無視した諸侯による領土争奪戦が各地で勃発。
世に群雄割拠、戦国乱世の始まりである。
最初に動いたのは、俺達の隣国にいた袁紹。
彼女は持ち前の金と権力を存分にばらまいて兵を集め、周辺各国を次々と併合して冀州に一大勢力を築く。
そして幽州の公孫瓉を討ち、返す刀で俺達のいる平原にも襲いかかろうとした。
だが、我が軍どころか三国きっての名軍師たる彼ら彼女らが何の布石も打っていない筈がなく……
「冀州の黒山賊とやらが袁紹軍の兵糧部隊を襲って、食料を根こそぎ奪った」とか「黄巾党の残党が袁紹の支配する街や村を襲っている」とか色々な話が流れていたかと思えば、連合や平時からの名族を鼻にかけた様な傍若無人な振る舞いに憤慨した人々や、重税を課すだけ課して何ら助けてくれない袁紹軍に不満を覚えた街や村が各地で次々と蜂起し、袁紹軍は足元から瓦解。
更に追い打ちを掛ける様に、地形を活用したゲリラ戦術を駆使する北郷軍を前に、袁紹軍の士気はガタ落ちした。
どうやら連合軍に居た時に相当不満が溜まっていたのか、ゲリラ部隊を指揮して袁紹軍を蹴散らす時に仲達が「フハハハハ!!!」とか凄い高笑いしてたけど、そこら辺は割愛しよう、うん。
何かその内「チェックメイトだ」とか「お前達は……死ね!」とか言い出しそうだったけど、あんまりにテンション高くて涙目になった朱里見た瞬間全力で平謝りしてたから大丈夫だった。
で、元々兵力が少ない俺達はそうして袁紹軍の勢いを削ぐ事で自然消滅する事を望んでいたのだが。
それを大人しく「待て」していてくれる程、彼女が甘くないってのは俺が一番良く知ってる。
「鄴も落ちた、か……」
「はい……これで袁紹軍の主要な都市は、ほぼ全てが曹操軍の支配下に移りました」
報告を読み上げる朱里の言葉に、聊か気落ちした様に仲達は呟いた。
「見通しが甘かった……と言わざるを得ないな。よもや“彼女”が、これ程の兵力をかき集められたとは」
「黄巾党主魁の張三姉妹を匿ったというのは、事実だった様ですね。青州で収容した凡そ三十万の黄巾党の兵が、此方の戦線に投入されているのは間違いありません」
稟の報告に、会議室の空気は一層重みを増す。
元々、軍師陣は揃って持久戦を提案していたのだ。
というのも、そもそもにして袁紹は自国領での人気が芳しくない。重税もそうだが、彼女やその軍の傍若無人な振る舞いに辟易としていた民は結構いたのだ。
だから、戦争に時間をかければかける程、仲達や稟の巡らせた謀略の糸が袁紹軍を絡め取り、やがて自滅に追い込む筈だった。
兵力差を見ても戦力差を見ても、それが最小の被害で最大の効果を上げる策だった。
だが、そんな袁紹の足元も俺達の糸もバッサリ切り捨てる様に、彼女は颯爽と青州討伐から舞い戻って、この冀州争奪戦に現れた。しかも三十万という大軍勢をひきつれて。
「遠からず袁紹軍は潰走するでしょう、が……」
「今度は曹操軍が来るだろうな。しかも袁紹と違い、策謀の類が通じる様な統治はせずにしっかりと足場を固めてくるだろう」
「そうなると、もう本格的にお手上げですね~」
口調こそ軽いが、風も稟や仲達と同じくその表情に柔らかさはない。朱里と雛里に至っては絶望的な状況に青ざめている程だ。
天に二日なし。
初めから『天の御遣い』を利用した“華琳”なら兎も角、覇道を堂々と往く“曹操”が旗印である俺を生かしておくとは思えない。
そして――俺の自惚れかもしれないが――この場にいる誰も、俺を生贄にしてまで生き残りたいと思っていないだろう。
だけど、
「……ッ」
「俺に構うな、等とほざいてくれるなよ一刀」
俺が口を開きかけた瞬間、それを制する様に仲達が告げた。
「君を犠牲にしてまで生き恥を晒す事を許容出来る者が、この場に一人でもいると思うのか?」
仲達の言葉に、俺はぐるりと皆を見まわした。
朱里と雛里は、震えながらも手を繋ぎ合って、気丈に笑顔を作って見せる。
柱に寄りかかっていた星は不敵に笑み、戦を前に気持ちを高ぶらせていた。
風は相変わらずぼんやりとした表情だが、其処にはもう気負った様子はない。
眼鏡の蔓に指を置く稟は、安心させる様に柔らかな笑みを作った。
「みんな……!」
「―――だから一刀、君は逃げろ」
そして、そんな感動的な流れをぶった切る様な怜悧な声音で、仲達は相も変わらず突拍子もなく、そんな台詞を吐いた。
雷雨が激しさを増す中、城壁の上に立った仲達は遥か遠方を見ていた。
もう目と鼻の先まで迫った曹操軍が陣を構えたのは、一刀を逃がしてから半刻も立たない内。正に間一髪だった。
「……で、どうしてお前は逃げなかった? 風」
『おうおう兄ちゃん、折角こんな可愛い美少女が沿い遂げてやろうってのにそいつぁちょいと頂けねぇぜ?』
「これこれ宝慧、仲達さんは照れ屋さんなんですから大目に見てあげるのですよ~」
―――相変わらず何を考えているのか分からん奴だ。
真っ正直に付き合ってやるのも馬鹿馬鹿しく思えて、仲達は言葉を呑みこんで嘆息を吐きだした。
「お前といい稟といい菫といい……アレか。平時の服装が青系統中心の奴は馬鹿しかいないのか」
「それを言ったら、仲達さんなんて馬鹿の極みじゃないですか~」
「僕のこれは青じゃなくて黒系統だ。お前達と一緒にするな」
―――よかった、と風は内心で吐息を零す。
あの発言の後、あれやこれやと激論を交わした挙句、それでも納得しない一刀を最終的に「君が死んだら僕も死ぬ」的な、後でじっくり弄ぶに足る非常に恥ずかしい台詞を億面もなく叫んだ仲達を前に、漸く一刀は折れた。
そして長い付き合いの朱里と雛里に一刀のこれからの補佐を頼み、自分が城に残って曹操軍を足止めするとした。
その後、仲達は「一刀と共に生き延びてくれ」と全員の脱出を願ったが、そんなの知ったこっちゃねぇとばかりに風が城に残ると一番に発言。つられる格好で稟も残るといい、星はそんな流れをぶった切る様に飄々と「では私は一刀殿の護衛でも務めましょう」と脱出組に参加、かと思えば一刀の人となりに惹かれて従軍した菫――徐晃――は「命を賭して一刀様の城と民を守ります!!」と宣言。
結果、仲達の願いを裏切る形で実に半数近い将兵が城に残る事となった。
尚、先の仲達の発言はその殆どが自分の直轄だったり菫が率いている警邏隊だったりで鎧の色が青系統中心だからである。
―――自分が慕われてるという自覚がないんでしょうねぇ……
“参陣してから”の付き合いが短いながらも、風は仲達の人となりをある程度把握していた。
自分の大切なモノには極端に執着する癖に、それ以外の事にはとんと無頓着。特に自身の声望とか評価とか、そんなものは捨ててしまえと云わんばかりに興味がない。
だというのに微妙に寂しがり屋だったりして、拒絶されると表層は怜悧を装うが内実はかなり落ち込んでいたりする。
(ま、その方がこっちとしても近づき易くていいんですけどね……)
「……何だその眼差しは。その微妙に頭の悪い子を見る様な目を止めろ、今すぐ」
仲達の言葉に、わざとらしく「ぐぅ……」と寝ぼけたふりをしてみせる。
すると追求するのも馬鹿らしくなったのか、仲達は軽く肩を竦めて踵を返した。
「さて、ではそろそろ“歓待”してやるとしようか」
『おうおう、接待ならおいらに任せな兄ちゃん』
「支度は万全なのですよ~? 食事に舞踊、火達磨でも矢達磨でも、あらゆるニーズ……っとと、要求に応えられますよ~」
言って、風は仲達の後に続く様に階段を下りる。
と、不意に、
「……えいっ」
自身の数歩前を往くその背中に、ひょいと飛びついてみた。
多少ぐらりとしたものの、やがてしっかりと地面を踏みしめて顔を半分だけ此方に向けた。
「……何をやっているんだ、風」
「さぁ、何でしょうね~?」
雨に打たれ、良い感じに水が滴る仲達の顔を間近に見つめながら、鼻先が擦れそうな位近い状態のまま風は惚けて見せる。
きっと朱里が見たら、さぞかし頬を膨らませるだろうと思い―――そんな“平穏”が、何時になったら彼を温かく迎えてくれるのだろうかと風は想いを巡らせた。
「……常々思っていたが、お前は不思議な奴だな、風」
固く閉ざされた城門を前にして漸く地面に降りた頃、思い出した様に仲達は言った。
「不思議、ですか?」
「ああ。何を考えているのか分からんし、そもそも考えているのかどうかも分からない。猫の様に気紛れかと思えば、時折この僕も驚かせる様な策を思いつく」
雨がなお降りしきる中でもその輝きを失わない双眸が、射抜く様に風をジッと見つめた。
「風――――――君は一体、何なんだ?」
「―――風は、約束したのですよ」
ギギィ、と音を立てて城門が開く。
覇王の前に屈するかの様に雲が晴れ、日差しがその隙間から差し込む中で、
「仲達さんを一人で死なせたりなんかしないと」
何時か、何処かで言った言葉を、
「獄界の果てだろうと、ずっと傍にいると」
雨に濡れたその手をギュッと握り締めて、
「―――何度生まれ変わろうと、何度でも貴方を、愛すると」
誓いの祝詞を、静かに宣言した。
後書きというなの言い訳的な今後の展望
皆さんお久しぶりです。覚えていらっしゃらない方が殆どかもしれませんが、まだ生きてました。
本来なら以前予告した通り、反董卓編に移る筈だったのですが、実は前回の話を書きあげた直後にふと思い返しまして。
―――この話、このままちゃんと完結まで持っていけるのか?
といいますのも、6月頃からリアルが多忙になったというのも有りますが、一番の問題はこの『恋姫無双』という作品に対して、以前ほど情熱を持つ事が出来なくなった…………端的にいえば、飽きてしまったという事にあります。
無論、じゃあそれ以降に投稿した分は惰性かと言われればそんな事は決してなく、情熱捻り出して熱意込めて書いていたのですが、それでも、どうしても前の様に我武者羅に書き上げる事が出来なくなってしまいました。
こんな状態でダラダラ書いた代物は皆様の御目に触れるに値せず、かといってこのまま連載凍結で切って捨てるという事も出来ず。
結果、某週刊少年誌の漫画の様に区切りの良い所まで書き上げて「俺達の戦いはこれからだ!」的な締めにしようという結論に至りました。
誠に身勝手な話ではありますが、私の拙作は次回を以て最終回とし、この『恋姫』シリーズはこれにて完結の運びとさせて頂きたいと思います。
これまで読んで下さった方々、応援して下さった方々には地の底まで頭蓋を叩きつけるが如き土下座を繰り返しても足りませんが、どうか最後までお付き合い頂ければ幸いです。
それでは。
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話が大分飛んだのには理由があります。
詳しい事は最後の後書きをご覧ください。