私はとある湖畔によく足を向けた。
その近くには病弱で一人暮らしの私の祖母が住む家がある。少し長い休暇が取れると、祖母の様子を見に来るためにそこへ立ち寄るのだ。そしてもうひとつ、その湖畔を眺めるという目的もあった。
その湖にはこれといった特徴はない。しかし祖母の元気を確認して暇になればどうしようもなく手持ち無沙汰になってそこへ通った。風がない時でも微かに揺れる水面が私の目を奪い、気がつくと陽が傾いていたことさえあった。それほどの、表には決して出てこない魅力が、時間も忘れさせた私を湖畔に引き止めていたのだ。
秋に入りかけた時分であった。
私はまた少し休みが取れたので祖母の家へ寄った。祖母は季節の変わり目に対応しきれずに風邪を引いていた。祖母ほどの年齢にもなれば風邪でも充分気を付けなければ大事に至ってしまうので、近くの薬局で市販薬を買い、暖かいシチューを作るためにスーパーで人参などの食材を買って、ついでにあの湖畔へも寄った。
「ん?」
私は湖畔の様子がいつもと違うことに気付いた。
湖畔には私がいつも立つ場所がある。別にそこへ立つ、と決めているわけではないが、足繁く通ううちになんとなくそこがしっくり来ると感じていたのだ。その私のお気に入りの場所を占領している一人の少女がいた。
視線も意識も湖畔へ集中させているようで、私が近付いても全く気付く気配はなかった。
歳は身長から見て十かそこらの、腰ほどまである長くしなやかな黒髪をした少女であった。黒髪は白く生地の薄いワンピースに映え、その後姿は身長を忘れさせるほどに落ち着いていた。
「綺麗でしょう」
私は思わず言葉を漏らしてしまった。この湖の良さを分かってくれそうな他人がいたことに嬉しさを隠せなかったのだろう。
彼女は私の声でようやく自分以外に人がいることに気付いたようで、しかし全く動じずひどく優しい声音で言った。
「そうですね」
嬉しかった。この湖の素晴らしさを分かってくれる他人がいた。一人だけの楽しみが、共有することの楽しみを取り込むことで一気に昇華した。
幼い子どものはずなのに対等な関係のような心持ちがして、それなのに違和感はない。というよりは、それが違和としてではなく障壁のない会話ができる嬉しさとして感じられたのだろう。
それからは、私が湖畔に赴くとたびたび彼女を目にした。
彼女は深窓の佳人のように悠然な雰囲気を帯び、時には冗談を言ってくすくすと笑い、いつも私と共に静かに湖上を眺めた。
私は彼女を子どもとは思えなかった。その落ち着き払った仕草などは、高貴な麗人を思わせるもので、しかし近寄りがたくはなかった不思議な少女だった。
ある日、彼女は名前を『ハル』だと言った。日本名ではないはずなので、どこか異国の子なのだろう。それならばこのような奇妙な感じを覚えるのも仕方ないのだろうと思った。
翌年のまた秋の入りかけたころであった。
私は湖畔で彼女と話をすることが習慣のようになっていた。祖母は以前よりも頻繁に来るようになった私をからかったのか嬉しがったのか「このあたりに好きな子でもできたかい」などと柔らかい声で言ってきたので、私が彼女のことを思い出して「まあ、そんなところかな」と返すと、祖母はとても安心したように「良かったねえ」と微笑んだ。祖母の調子はこのところ非常に良かった。自分の調子が良い上に、孫が成長しているのを見て喜んだのだろう。
「湖に行ってくるよ」
「風邪を引かんようにね」
「大丈夫」
祖母の忠告にサムズアップをして意気揚々と私は湖への道を歩いた。
しかし私の期待に反して、いつも彼女がいた場所には誰もいなかった。
「……まあ、いつもいるわけではなかったしな」
こんな時もあるだろう、とその時は特に気にすることもなかった。
しかし彼女は湖が凍り、桜が芽吹き、湖畔が蒸し暑さに纏われ、また紅葉が色付くころになっても私の前に姿を現すことはなかった。
湖に行ってもすぐに帰ってきて残念そうに溜息を吐く私を祖母は心配していた。
「どうしたんだい?」
「……」
私はもう彼女に会えないような気がして、それならば、と意を決した。
私は一年ほどずっと湖畔で会っていた霊妙な雰囲気を漂わせていた少女のことを細かに祖母へと語った。
すると祖母は妙に納得したような表情を浮かばせた。そして私にまたいつもの優しい声で言うのだ。
「そのハルちゃんはね、人間じゃないんよ」
納得したような、していないような、曖昧な言葉を返したと思う。そう言われてみれば、そう思えないこともなかったのだ。ましてや祖母が嘘や冗談を言うとは思えなかった。
その後も祖母から色々なことを聞けた。
ハルという子は実際の名前を『ハルシオン』と言い、それはラテン語で幻を意味するのだという。つまり私が会っていたのは本当の『ハル』ではなかったのだ。そしてその幻の本体である子は『エスト』と言い、ラテン語では「在る」という意味を表すのだという。
なぜ祖母が彼女についてそこまで詳しいのかいうと、実は祖母も今の私のころに彼女と会っていたのだという。
湖畔に誘われるようにして足を進めると『ハル』がいたらしい。しかし彼女は私が会っていた『ハル』とは違い、ひどく情緒不安定だったという。水面が揺れているのを見ることで自分の心のブレを自然なことだと言い聞かせていたらしい。
自分が土の下に眠る『エスト』の作り出した幻だということを忘れるために。
私は翌年の春になってまた湖畔に寄ってみた。
その時、私はいるはずのない『ハル』にまだ心を囚われていたのだろう。土の下で『エスト』という少女が何を思って幻を作っていたのか知らない私には『ハル』が実在しないというのがひどく変に思えたのだ。
半ば諦めの気持ちを持って湖畔に着くと、私は一気に安堵した。
「久し振りだね」
私のお気に入りの場所に立ち、静かに水面を見つめていた彼女がこちらを振り向いた。
「なんでまた?」
彼女は私の問いに屈託のない笑みを浮かべた。
そしていつもと変わらない悠然な語調で言うのだ。
「春、ですから」
それを最後に私は彼女と会っていない。けれど私は今でも春になると、ときおり湖畔をのぞきに行く。
今日もそうだ。
「一昨日、おばあちゃんが亡くなったよ」
祖母の葬式を終えた帰りだった。
泣きはらした顔を他人に見せるのが恥ずかしくて、ここで落ち着こうとしたのだ。
老衰で天寿を全うした祖母の顔は、非常に安らかなものだった。
「一応、報告だけしに来たんだ。また来るよ」
応えるはずもない湖に向かってひとりごとをつぶやいていた。他人から見れば不審者に間違えられてもおかしくはない。
急に気恥ずかしくなってところどころに桜が浮く湖に背を向けると、にわかに強い風が一陣だけ吹いた。
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