「御使命、承らせて頂きます」
あくる朝、小海は広間に集められた月とその側近達の面前でそう言い平伏した。
昨晩に文和と一刀の行った布石が効力を発揮したのか、それは定かではないが夕餉の場で見せていた迷いの情は綺麗に消えた、そんな雰囲気を纏っていた。
月はそれに対しただ柔らかく微笑むと上座から下り、小海の真正面に立った。
「有難うございます、小海。難しい決断だったとは思いますが、私も貴女がそう選んでくれたことを嬉しく思っていますよ」
「勿体無きお言葉です」
「面を上げなさい」
小海がゆるりと顎を上げる。
不意に、月の手が小海の頬に添えられた。
「暫くは姉妹二人、都で頑張りましょう」
「え?」
「詠」
「はっ」
月の呼び掛けに文和、詠が短く答える。
ぽかんとする小海を余所に、一歩前へと出た詠は一枚の書状を突き出し読み上げ始めた。
「仲頴様の州牧兼刺史の任官式は洛陽で取り行われますので、仲頴様には洛陽へ参上するよう中央より命令が届いております」
「と、言う事です。ふふ、吃驚しましたか?」
「それならそれと、事前に言って頂きたかったです……」
悪戯っ娘の表情で微笑む月に、少し拗ねた様な口調で唇を微かに小海は尖らせた。
「ごめんなさい。ちょっと驚かせたかったのです。では、一刀」
「はい。仲霄様、仲頴様、これより配下の今回の上洛担当者と警護の担当者を奥の間にて待たせておりますので、あちらへどうぞ」
「準備はどの程度進んでいますか?」
「万事恙無く」
「宜しい。では、後のことはお願いしますね、詠ちゃん。一刀さん」
「御意」
「御意」
拝礼の姿勢を取り見送る一刀と詠に、未だ話が掴めない様子の小海は侍女に先導され進んで行った姉を慌て追いかける。
そして彼女は気付いた。此処まで全て用意周到に成されていたことの意味に。
それは詰まり姉上と配下の者の計画に沿って“小海”が動いていたと言う事の何よりの証に他ならなかった。
最後に拝礼したままの姉上の配下をちらと見る。
浮かんだ情は、とても敵わないなといっそ清々しいまでの憧れであった。
「仲霄様も決して小器の御方では無いのだけれどね……」
「仲頴様が大き過ぎるだけですとも、ええ。尤も、優れた主君よりも優れた身内の方が恨み辛みの募りやすいのが常ですが幼いころから見切り憧れに昇華させていらっしゃる仲霄様も余程優れた御方でしょう」
「血縁ってほんと偉大ね」
扉に消えた君主と妹君を見送った詠と一刀は互いに苦笑を浮かべあった。それは痛感するものことが多々あり過ぎ、苦笑しか浮かばなかったとも言えるのだが。
そして最後に一抹の羨ましさを込めた台詞を零すと、詠は表情を引き締め壁際に控えていた侍女に声をかけた。
「こちらは済んだからそこのアンタ、ちょっと他の人達呼んで来てくれない?」
「御意」
詠の命令に小さく一礼した後、侍女は音を経てず静々と扉を出ていった。
「我々は腰掛けて待つとしましょう、文和殿」
「そうね。にしても、なんで今更、と言った感じよね、仲頴様の召喚状」
「就任から一年近く経っていらっしゃるのに今の時期に召喚するという事は……」
一刀の言葉に詠が小さく頷く。
さも以前からの決まりごとの如く仲霄に月の動向を伝えた彼等だったが、実はこの召喚は予め定められたものでは無かった。
仲霄へ宛てた書状を詠が認めた数日の後、不意に中央からの使者が訪れ命じたものだったのだ。
正式に中央で任官を行っていなかったことは事実で在るものの、月は前州牧の嫡子であり、世襲した地位は当然の物であったから普段通りに手続きを送れていた現状ならば任官式などの事柄で召喚される事等あり得ないと言っても良かった。
賄賂が不足していたなどと言うニアミス的な失敗も見当たらない。
ならば、と月、詠、一刀の導き出した答えは単純明快にして等しいものであった。
軍閥化の進む月一派をここらで如何にかしてしまおう。そう考えた宦官か、或いは外戚かのどちらかが圧力をかけてきたのだと。
的とみなせば簡単に月自身を人質にとったり、暗殺してしまえるように、あわよくば、我らの派閥に利用してしまおう、そんな魂胆と共に。
「ええ。尤も、連中は仲頴様のことを辺境の一片を任された程度に過ぎない小物だと思って一応の警戒を示したとかそんな程度の認識だと思うけどね」
「文和様、お話し中失礼致します。皆様がお着きになられました」
「そう、じゃあ全員中に入れて」
呆れを交え呟いた文和に口を開こうとした一刀だったが、その声が出るよりも一寸早く、やはり静々と扉が開かれ先程詠が命じた侍女が戻り声をかけた。
それに詠は短く答えると、ゆっくり大扉が開かれ、九人の文武官がそこには居た。
「ぬおっ、なんじゃあこの部屋、でっかいんじゃなあ」
「……こんな子供が何故こんなところに」
「あんた、失礼なやつじゃなあ」
真っ先に声を出したのは一刀配下であり、正式には従事次官付き独立兵部参謀本部所属である劉徽、玖咲であった。
尤も、他の八人はこの肩書を知らぬ為に劉徽を見た目そのままの少女と取り、何故玖咲が筆頭従事である詠の直接の呼び出しに混じっているのかを疑問に思っていた。
そして次いで、劉徽に面と向かい言い放った男は魏続と言う者であった。
彼は刑部治安維持部のトップであり、僅かしか居ない優秀な文官の証拠である赤服の一員でもある男だ。
次官級でこそ無いものの年若く優秀であり、金城とその近郊の治安維持部隊の司令官でもある男であった。
多少誇り高い性格をしており、それに鼻をかけた傲慢さこそあるものの基本的に善良で且つ公平に物を見る男である。
因みに次官級の執務官は四人しかおらず、一刀以外の三人は洛陽へと同行する為この場にはいない。
「賈従事様、何故この様な子供がこちらに?」
そして彼に追随している武官女性は臧覇と言う者である。
治安維持部隊の副司令であり魏続の軍師的地位にある彼女も同じく刑部の赤服の一人であった。
「だからわっちは子供じゃあっ」
「劉徽、そこまでにしなさい。魏続、臧覇。劉徽はボクが確かに召集した内の一人よ」
「しかし賈従事様、この様な子供が政等」
「二度は言わないわよ、魏続」
「……御意」
そう言うと最初の三人は静かに円卓の席へと移った。
劉徽は一刀の横に座ると、そこは上座に座る詠に次いでの三番席であった所為か心無し後に続いた二人の視線が強まった。
「ん、およ? かっ、やなくて北郷、あんたも来とったんか」
「ああ。ほら席に漬け文遠」
次いで扉をくぐったのは張遼文遠、霞であった。
彼女は華雄に次いでの兵部序列二位に居る為、次官級と同等の待遇で、一刀の真対面、机を挟んでの上座の詠に続いた二番席に腰かける。
「失礼致します」
続き、切れのある拝礼と体育会系な挨拶を述べ堂々と青年武官が入場した。
兵部序列九位である徐栄である。
霞の入隊後序列を一つ落とし新参の霞の配下とされたが腐る事も無く正直に認め、直実に励む好青年だ。
欠点があるとすれば自発的に動く事を苦手としていることだが、本人も司令官に己が向いていない事を理解し副官と言う地位にやりがいを感じているため至って評価も高く重用されている青年将校である。
「……しつれいします」
徐栄に続いたのは、極々最近に部隊を任される事となった少女、呂布奉先であった。
羌との人材交流の折にやって来た寡黙な少女であり、霞付きの秘書として任じられていた彼女で在ったが、華雄と霞にその才を見抜かれ軍務に着くとメキメキと頭角を発揮、序列こそ無く直属の部隊を持たないものの、瞬く間に個人の武勇では一二をを争う程に育ったのだった。
因みに地位を伴わない奉先がこの場に居るのはその名を見つけた一刀が思わず叫び出す程に仰天した後、どうにかしてその才を生かすか或いは殺そうと考え詠と相談して手元に置くため霞付きの護衛武官に任じたためで在ったりする。
護衛役と言う事は理解している様で、奉先は席には着かずそのまま扉の横に立つと戟を構え微動だにしなくなった。
「し、失礼致します……」
続き誰かが入場した筈だが聞こえたのはその声ばかりで姿が見えない。
慌て見回すと、何かを察した奉先が横にずれ、そしてそこから一人の女性が姿を現した。女性にしては長身の奉先の影にすっぽりと隠れていたのは、韓胤という女性文官であった。
彼女は人事などを司る吏部からの代表者で、赤服ではないものの一般文官を統制するいわば中間管理職の女性であった。
今回も直接には関係の無い吏部へと話を持ち返る役目を任された言ってしまえば使いっぱしりである。
因みに何時ぞやの、一刀達が仕官に来た際の『事務官さん』その人であり、一刀とは地味に親交があったりする女性だ。
そして、残りの二人も韓胤と同様に、直接の関係の無い工部と礼部から送られた中間管理職の男性であった。
荀胞と張串といい、女性特有の華やかさも無くなり完全に平均顔をした特徴の無い男達である。
最後の三人を興味なさげに見送ると、へむと一つ鼻を鳴らし文和が視線を集める。
「皆、召集に応じてくれて感謝するわ。今日集まって貰ったのには一つ大事な理由があってね、北郷」
「はっ」
「従事次官兼戸部外務部部長であるこの高順北郷を長に、独立兵部参謀本部と言う新設部署を立ち上げるわ」
「新設部署、ですか? しかし何故高北郷殿に」
傅く一刀を少し睨むと魏続が挙手し詠に尋ねる。
「これは以前より董仲頴様と協議の末決定したことよ。何故、という問いに応えるならば、そうね、新たな軍隊運用の発想を北郷が持っていたから、とでもいう感じかしら」
「……分かりました」
君主の決定とあっては大っぴらに反対意見を述べる事も出来ず魏続は座ってしまった。
それを確かめると詠は次の挙手を探し視線を巡らす。
「韓胤」
「はい。吏部にも申請書類が回っていたため拝見致したのですが、これはどのような部署なのでしょうか?」
「独立兵部の文字からも分かると思うけど、これは兵部の下部組織ね。でも直接の関与権、命令権は双方組織間に一切存在せず独立組織として扱われるわ。主な役目は戦闘における作戦立案と兵糧、兵員、進路の管理。状況に応じ組織に尉位と同等の発言権も与えられ作戦指揮を執り行う場合もあるわ」
「ちょ、ちょい待ちいや、それってつまりウチら兵隊の上部組織が出来てまうっちゅうことやんか!」
「兵部は指揮下に置かれると言う事でしょうか?」
霞がとんでもないと言わんばかりに声を上げ、韓胤も不審そうに詠へと疑問を口にする。
「話をよく聞きなさい。命令権も指揮権も無いと言ったでしょう? つまり参謀部は軍事行動に対する作戦の立案は出来るけどそれを遂行するよう強制することはできないし、直接の兵力を保持しないからアンタ達を上から押さえつける様な真似も出来ないの」
「ちゅーことは、えっと……?」
「参謀部とは軍師を組織化したものだと考えてもよろしいのでしょうか?」
「そうそう、それやそれ!」
首を傾げる霞の言葉を拾う形で韓胤が詠と一刀に訊ねかける。
詠はそれに対し小さく頷いて見せた。
「そうね、徐栄の認識で正しいわよ。でも無位無官ならば唯の五月蝿い小姑になってしまうから相応の地位には封ぜられるけどね」
「恩賞などの点ではどうなるのでしょうか?」
「戦功に対しての報償は全て直接の担当武官に与えることとするわ。その代わりに参謀部では戦闘の成果等に応じ部署に一定額の報償を支払い、給金は兵部と同じ方針で支払われるわ」
「御回答有難うございます」
「もう良いかしら?」
「はい」
満足げに、一つ丁寧に拝礼をする韓胤。
尻目にそれを確かめると、詠は一刀に向き直った。
「じゃあ本題に入るわね。北郷」
「はっ。皆様方に集まって頂いたのは他でも無い、最近目立った活動を繰り広げ始めた道教系の宗教団体、太平道について重要な報告が上がった為です。
太平道は数年前から急激に華北一帯で勢力を伸ばし始めた宗教団体と見られ、また彼等は『蒼天已に死す 黄天當に立つべし 歳は甲子に在りて 天下大吉』と言った標語を掲げそれを大々的に広めています。太平道の活動基盤は冀州、豫州ですが、司隷やさらに西域にも信徒を増やし、また多くの商人も太平道に武器や食物を供給し始め物価の高騰までも見られいます」
突然降って沸いた不穏な叛乱の兆候に、思わず幾人かが目を剥いた。
それに対し何ら反応を示す事無く、一刀は落ち着いたまま話を続ける。
「つまりは、太平道の一派に蜂起の兆しあり、ということですね。推定される信者は最低でも七十万、教祖張角とその親族が直接執り行う何らかの儀式的祈祷で半死半生といった様相の病人を回復させるなどとして今なお信者の規模を拡大しています」
「そ、それでは董閣下が都へと出向くのは非常に危険ではないのですか?」
礼部の男が緊張に声を震わせながら問うた。一刀と詠は黙って頷いてみせると、小心者なのか小さくひぃと悲鳴を上げた。
「はい。しかし、董仲頴様はその報を聞いたうえで洛陽へ発たれる事を判断なさいました。それは仮にこの乱が発生したとすればそれは仲頴様の力を誇示する絶好の機会でありまた、中央が兵力を誇示し過ぎた仲頴様を失脚させようと躍起になる中で確固たる武勲を立てることができれば外戚や宦官への大きな牽制となり得る、とお考えになられたのです。
であるからして、仲頴様の上洛はそれらを踏まえたうえでのご英断に基いたものなのです。お分かりいただけましたでしょうか」
「え、ええ」
男は未だ不安の色を隠そうともしなかったが、納得はいったのか小さく頷いてみせた。
「尤も、仲頴様を畏れた中央の執拗な催促にそろそろ答えねば先方も手段を選ばなくなる可能性があり、その辺りも踏まえ以前から考えていた物に偶然好機が重なったというのが実態ですがね」
「あの……」
冗談っぽく言う一刀に、再び韓胤が小さく手を上げた。
それを一瞥すると黙って頷いて見せる一刀。
「今の太平道の一派の報告や董閣下の御意見を基にした謀は、その、北郷様の参謀部によって処理されたもの、と考えて宜しいのでしょうか?」
「ええ。概要と職務は以前より伝えてあったからね、時期を見計らってのお披露目に合わせて一カ月程度で用意させた情報よ」
詠が誇らしげに胸を張り答えた。そんな姿を一刀が生温かい視線で見つめている事には気づいていない様だが。
と、詠の言葉を聞いた霞が感嘆の声を小さく漏らした。
「はぇー……兵部でそないなこと掴んどったっけ?」
「いえ。残念ながら私も初耳です」
「魏続、アンタは?」
「……恥ずかしながら、徐栄殿と同様です」
首を振る魏続と徐栄に霞は益々感心を深めた。
夫が功績を上げ認められることは霞にとっても非常に嬉しい事だった。
「情報処理能力が高いのですね……!」
「そうよ。その為の組織だもの。さて、と。じゃあ北郷、続きをお願い」
「御意。と、先程説明したように太平道の連中に不穏な動きが見られます。仲頴様はその有事が発生した場合に直接一軍を率い交戦する権を得られるよう都へと出向くことが決まりました。
そこで、です。魏続殿には治安維持の強化を、文遠殿には練兵と実践に備えた対応をそれぞれする様にお願い致します」
「お言葉ですが北郷殿、一刻置きに巡回を行い軽犯罪を四割以上低下させた現状で何か問題があるのでしょうか」
目を輝かせ感心する韓胤に苦笑を零すと、一刀は言葉に従い二人に命じる。
すると魏続が声を上げた。礼的に感心された行為ではないが、唯命じられるだけと言う事に不満を持つのも当然かと、一刀は眉を顰める事も無い。
「ええ、残念ながら」
「ならば具体的にお教え頂きたい」
「では、先月より不敬罪に当たる文章を記した旗や幕を広げ集会を開いていたという案件が三つ程見られましたが、それらへの対応が旗没収のうえ入城禁止の措置だけにとどまっていた事です」
「しかし直接天子様等を非難した訳でもなく軽犯罪程度で……、っまさか、彼等も……!」
「その通りです。後日我らの元で尋問を行ったところ太平道の信徒だと言う事が分かり、さらにその目的が張角の業績を広め信徒を増やすという、城下での叛乱の誘発を目的と考えられる行為でした。彼等の企みがもしすんなりと進んでいたなら、後々叛乱が起きた際に都市内部より叛乱の火種が上がる事が容易に予想できます」
魏続の顔が徐々に驚愕に塗られ、そして一刀と詠の考えたであろう至極正しい方針に反感を抱いた事を彼は恥ずかしく思った。
しかし何より、多くの同僚の目前で失態を晒されたことに身の焼ける様な苦痛を彼は感じていた。
頬を染める彼に一刀はさらに言葉を続ける。
「また、捕縛された三人のほかにも金城市内だけで四人の工作員が侵入していることも分かりました。
これらの事より、各都市での蜂起を防ぐためにも治安維持の強化が必要不可欠だ、と判断した訳ですが、どうでしょうか」
「面目次第も御座いません……。謹んでお受け致します」
魏続は俯き命に従った。彼の失態で在ることは確かであったからだ。
しかし失態を公言されたことに打ちのめされたその表情は羞恥に染まり、彼の配下である臧覇も眉を顰めた形相で拝礼の姿勢をとった。
「では、体勢の強化をお願い致します。続いては兵部ですが……、華将軍代理、文遠殿、何かご意見等有りますでしょうか?」
「いんや、特にないけど。質問ええか?」
「はい」
「準備って具体的にどんぐらいすりゃあええの? 期間とか、そういうんが分からんとちょっと厳しいで」
「ああ、それらの点についてはご心配に及びません。文遠殿にはただ兵士たちに実践的な訓練を積ませていただければそれで結構です。そうですね、方針としては騎馬で歩兵を迅速に制圧することを中心にして頂ければ」
一刀の言葉に霞は首を傾げた。
言葉を疑う様子は微塵もないが、それを指定し他の具体的なことに触れなかった点に霞はすっきりとしないものを感じたのだ。
「え、でも兵糧やら物資やらの手配とか、そういうんはええの?」
「はい。それらについてはこちらで手配致します。ああ、そうですね、兵糧等の運搬を専門に任せる部隊が必要ですので代表者を見つくろってこちらに寄越して頂けませんか」
「そんくらいは別に構わへんけど。じゃあ徐栄、あんたに頼んでもええか?」
「御意。お任せください」
「では、宜しくお願いします」
ある意味に置いて二人のやり取りは茶番であった。
霞にも一刀にも、形式的な問いや率直な疑問を訊ねる姿勢こそあるものの、語り合う口調と心境は愛し合う夫婦が閨で睦言を交わし合うのと等しい。
つまりは、互いが互いに害為す事を微塵も想定していなかった、疑い、訝しむというプロセスが存在しなかった。
そして、それ故に霞は直ぐ様副官を預け、また一刀も、短い返事と共に拝礼をする徐栄を二つ返事で容認したのだ。
「済んだわね。じゃあそう言う事だから、各員体勢を整える様に頼むわ。あ、他の部の人達は変わらず業務を遂行すること、それだけを厳命しておくわね」
「は、はいっ」
韓胤がそれに対し声を上げ、残る二人も揃って拝礼をした。
それを見届けると詠は満足げに息を吐きゆったりと各々を見回す。
「じゃあ、解散ね。各員、仲頴様の元使命に励むこと」
『御意』
「文和殿、あれを……」
揃い返答をし、そして『終わった』という空気が辺りに漂う。
不意に一刀が慌てそれを制止した。
詠以外の皆は何事かと詠を注視し、ようやっと思い出したのか彼女は小さく声を漏らした。
「ああ、そうだったわ。文遠」
「は、はいな」
「おめでとう。将軍位は無理だったけど、大出世よ」
「ほえ?」
不意に呼ばれた緊張から、一瞬で間の抜けた困惑の表情に。
愉快そうにそんな霞を詠は見ると、小さく忍び笑いを含めながら笑顔で言葉をつづけた。
「今日付けで、貴女を鎮羌校尉に任ずるわ」(校は宮殿に所属する武官の意で、尉は将軍に続く指揮官の様な地位を指す)
「っ、ほんまでっか!?」
「ええ。これで貴女も立派な軍人ね。直属の上司は鎮北将軍華雄、一応禁軍所属だけどまあ実質的な地方軍副司令官だと考えて良いわね」
「ありがとうございますっ!」
ぶうん、と紫の髪が尾を描いた。
霞が勢いよく頭を下げ、満面の笑みを溢れさせた拝礼をしたのだ。
「お礼は仲頴様に言う事ね。兎も角、期待してるわよ」
「はいなっ! ウチ、頑張りますっ!」
「ええ。頼むわよ、文遠。じゃあ、今度こそ解散ね。北郷と劉徽と徐栄は着いて来て」
解散の言葉の直ぐに、韓胤がにこにこと嬉しそうな霞に声をかける。
己の事のように能面の下で喜色を全面に塗りたくりながら、一刀は詠に続いて扉へと消えた。
霞のにゃははと笑う声が明るく響く様は武骨な会議室に酷く不釣り合いであり、そしてとても楽しげであった。
**
「これは……」
「また増えたのね。いい加減誰か過労死しそうだわ」
「これは文和様、北郷様もお帰りなさいませ」
李傕、字を稚然という。
生真面目が服を着て歩いている様な、そんな彼が真っ先に上司達の帰還に反応した。
書の山を崩さないために自然と身に着いた、音も無く起ちあがる小さな特技に徐栄がぎょっとするのを、詠が懐かしそうに眺める。
「気にしないで、続けて頂戴」
「はっ」
再び音も無く気配もなく座る稚然に何故か感心する徐栄。
しかし、直ぐにこ異様な光景──武官の彼が数年がかりで処理する様なふざけた量の書簡山脈な光景──に意識を戻すと、姿勢を正し詠に訊ねた。
「文和様、これは……?」
「さっき言ってた参謀部よ。あ、その紙の山は触らないでね。崩れたりしたらガチ泣きするわよ、北郷が」
そう言われ、周囲を見回そうとした徐栄の動きが堅まった。
すると、ぎぎぎと錆びた扉の様にゆっくりと元の姿勢に戻る姿が再び詠の笑いを誘う。
「七割冗談ですからね」
「三割で泣くのですか、北郷様……」
「まあ、そんな冗談は置いといて。本題に入るわね」
「兵糧の準備等について話し合うものだと記憶しておりますが」
詠の前置きに、生真面目なクソ暗記で答える徐栄。
それに対し詠は、次は苦笑いを以って返答となした。
「あー、張り切ってるとこ悪いんだけどぶっちゃけるとね、今はまだ一応情報収集の段階だからはっきりしたことは言えないのよ。兆しがありってだけで蜂起した訳じゃないしね」
「そうなのですか?」
「一応暫定的な予想規模は出ているんだけどね。聞いとく?」
「是非」
コクリ、と素直に頷く徐栄。
妙なプライドの無いさっぱりとした清潔感が気に召したのか、稚然が少し身を乗り出して徐栄に視線を合わせた。
それに察した一刀は、稚然の方を向くと一枚の資料を手渡す。
「では稚然、頼む」
「はっ。では、今回の太平道一派の規模ですが最終的には大凡百万に届くかと思われます。その内并州、および涼州近辺で蜂起が予想されるのは現時点で十万前後、内非戦闘員が半数の五万から多くて七万」
「なんと……一介の宗教団体がそれほどの規模を?」
「はい。しかもあくまで暫定の為、増えこそすれどこれ以下になることはほぼあり得ないと思われます」
徐栄の知る敵の数は精々一万であった。それが百あるという状況を想像しようとして、早々に手に負えない事に気付くと彼は思考することを止めた。
代わりに軍人としての対応を考えると、徐栄は直ぐ様に意見を述べた。
「ならば徴発を行い相当量の兵糧を用意した方がよろしいのでは」
「いえ。そこまでする必要はありません」
「しかし……、いえ、理由をお聞きしても?」
「主だった太平道の勢力の目指す先は、洛陽であります」
「なっ……! それでは、彼等は都を直接襲撃する気なのですか!」
決して口答えしない、軍人というものに忠実な姿勢を見せる徐栄に一刀も好感を抱きながら、彼は稚然のあとを引き継いだ。
「蒼天已に死す、等と言ってしまう連中です。当然の帰結でしょう」
蒼天とは正しく漢王朝と天子を指す言葉で在り、それの死を揶揄する連中である。
何処か納得できた様な気を徐栄はその言葉に感じた。
そして直ぐ様、董卓仲頴という女傑に仕える立場として最高の優先度を誇る事柄を思い出し彼は慌て口を開く。
その姿に言葉を察し、主を真っ先に愁いそして一を聞き別の点へと話を繋げられる能力にも一刀は感心を覚えた。
「しかしそれでは、董仲頴様に危険が及ぶのでは……」
「いえ。それはほぼあり得ないと言ってもよいですね」
「何故ですか?
……問いばかりで心苦しいのですが、どうか教えて頂けないでしょうか」
過剰なまでの謙虚さに評価を内心下方修正しつつ、一刀はその真摯な問いに目を逸らさず答えた。
「畏まる必要はありませんよ徐栄殿。喜んでお教え致しましょう。それは、私達がこれほどに情報を掴んでいるから、です。おっと、問うのはもう暫しお待ちを」
表情に浮かんだ、多少の憤怒に一刀は冷静に言葉を付け加えた。
まどろっこしい謎かけの様な態度が己を虚仮にしている訳ではないと分かると徐栄も幾分か落ち着きを取り戻す。
「不穏な兆しを感じた辺境の我らでさえこれほど情報を掴んでいるのです。しかし所詮は新興組織、と言うところでしょうか、末端まで管理が行き届いてない故の内通者も出やすく間者の侵入も容易。蜂起の兆しも幾ら中央で上層部が権力闘争にばかり明け暮れる阿呆ばかりと言えど掴んでおります。加え金城で行っていた様な内応の準備を洛陽で行う者の捕捉もすでに完了しております。故に彼等の初手は既に失敗した様な物であり、迅速に帝国の喉元を一撃の元引き裂くことは既に不可能なのです」
「ならば、乱は起こり得ないのですか?」
「いえ、その様なことはあり得ません」
徐栄は、断言する一刀に首を傾げた。
それを見た一刀は一つ微笑むと説明の句を紡ぐ。
「あれほどに人が集まってしまえば、例え初手が失敗に終わったとしても誰かが暴走しなし崩しに蜂起が起きることは既に決まったことです。しかし、もし仮にそうなってしまえば、初撃で制圧することの敵わなかった彼等が地力で劣る王朝に勝つことは不可能であり、自然と洛陽近郊に集まった太平道の連中は物量に押され必ず方々に遁走するでしょう」
「──……、なるほど、流石に分かりました。残党狩りですね」
「ええ、十万前後と予想されます北方、西方に逃げて来る太平道の信者を適度に追い詰め、被害が出過ぎる前に狩るのです。それこそが我等が開く唯一の戦端でなければなりません」
数の多い死兵と戦う等は、一刀や詠はもちろん軍人たちにとっても悪夢でしか無い。
死を畏れない兵士ほど後先考えない物はないのだ。だから己が死ぬことすら厭わずただ敵を殺す事ばかり優先してしまう。
しかし、一度敗れ逃げだした兵はどうか。
銃の恐怖を知った虎は鉄パイプでさえ畏れる、人間も同様であり、一度打ち破られた軍勢は心に敗北の恐怖という楔を打ち込まれてしまうのだ。
するとそれらは非常に脆弱となり、追い詰め過ぎて窮鼠に噛まれる様なへまをしなければ容易に打ち破ることができるのである。
「成程、軍師を組織化したものとは言い得て妙で御座いますな」
「いえ、未だ独力で情報を精査することさえ覚束ない程度です」
「ご謙遜を」
「兎も角として、この様な方針で行います故、徐栄殿には是非ご協力頂きたい」
「兵部の執成しをお求めでありましょうか」
「ええ。文遠殿はともかくとして、面白く思わない将校の方々もいらっしゃるでしょうしね」
この組織の有用さを肌で感じ取った徐栄は、その言葉に満面の笑みを浮かべた。
「──ええ、お任せください」
Tweet |
|
|
34
|
1
|
追加するフォルダを選択
・名前が判明
・そう、董卓陣営編で最初に出てきた彼女です
・military intelligence ってやつです