「……全く、懲りないというかなんというか……」
テニスコートから離れた廊下で、俺は一人呟いた。
どうにも自分は、アカデミアにきてから変わってしまった。以前の自分では彼らのテンションに合わせることができなかっただろう。
——まあ、変わるってことは良いことなんだろうけど、な。
手持ち無沙汰に歩いていると、目的地が見えてきた。保健室だ。
目視できる距離まできた俺は、歩みを早めた。意味は無い。強いて理由をつけるなら、気になるからだった。
ドアの取手に手をかける前に、一呼吸つく。
——よし。
手の甲で、軽く二回ノックする。教室でも保健室でも職員室でも、部屋に入るときはノックするのがマナーだ。
一秒。
二秒。
三秒。
……返事がない。
留守だろうか。しかし、灯りはついている。鮎川先生が灯りを消し忘れるほどドジな性格とも思えないが。
もしかしたら既に件の彼女は体調が回復しており、俺がくる必要もなくなったのだろうか。そしてそれを俺に知らせようとして、鮎川先生とすれ違いになってしまった。灯りが消えていないのは、すぐ戻るからだったのかもしれない。
そこまで考えて、頭を振った。
俺がここへくることは誰にも言っていない。そして、鮎川先生には「また来ます」という旨の報告をしていない。自分の元へ連絡をするのはお角違いもいいところだ。自惚れも大概にしろと言いたい。
そう考えたところで気づいた。また思考で時間を使ってしまった。
疑問に思うと周りが見えなくなる欠点を呪いつつ、意を決して扉を引いた。
鍵などかかっておらず、あっさりと扉は本来の役目通り部屋への入室を許した。
「鮎川先生……?」
呼びかけてみるものの、返事はない。ノックに対しても反応がなかったのだから、当然といえば当然である。
仕方ない。自分の用だけ済まして寮に帰るとしよう。
そう思い、件の彼女が眠っているであろうベッドへ近づいた。
しかし、またしても違和感が訪れた。
——寝息がない?
自分と鮎川先生で運んできたときは、ただ倒れただけで寝息はなかった。しかしその後もずっと同じ状態であるとは考えにくい。故に寝ているのかと思ったが、どうやら違うようだ。
そこまで考えて、俺は自分の行動の遅さを呪った。
「…………なに、してるの?」
俺は変な声を出さなかっただろうか。
突然、ベッドを仕切るカーテンの奥から呼びかけられた。この声、覚えがある。
挙動不審になりそうなところを自分の意識で無理矢理抑え、答えた。
「倒れた君を運んできた者だけど、体調はどうだ?」
「……さっきよりは、マシね」
「それはなにより。鮎川先生はどこに行ったかわかるか?」
「職員室に呼ばれたわ。戻ってくるまでしばらく掛かるそうよ」
「そうか」
声がひっくり返りそうなほど同様しているが、それを声に出さなかっただけでも俺は誉められるべきだろう。我ながらよく我慢した。
件の彼女、龍剛院真理はどうやら体調を戻したようだった。
「その声、藤原君? なにしにきたの?」
声から苛立ちが見て取れる。体調が戻ったと言っても、まだ不調の域なのだろう。あまり刺激するのは得策ではない。
「授業が終わったから、様子を見に来た。一応運んだ者として、気になってね」
嘘は言っていない。本当のことだ。
実際は吹雪と綾小路の青春爆笑ドラマに耐えられなくなって逃げてきた、というのもあるが。
「…………そう」
呟いた後、彼女は一言付け加えた。
聞こえないようにしたつもりなのだろうけど、俺にはカーテン越しでもしっかり聞き取れた。
————……余計なことを。
「倒れても元気だな。それだけ気力があれば、保健室は必要ないんじゃないか?」
余りの物言いに、思わず言い返してしまった。
こちらとしては善意で助け、保健室まで運んだ。それを余計の一言で終わらせるのは、どうにも我慢ならなかった。
「別に頼んだわけじゃないわ」
「そりゃそうだ。喋れる状態じゃなかったんだからな」
「放っておいても先生がなんとかしたわ」
「第一発見者だったものでね。放置なんて後味悪いじゃないか」
「なにそれ? 聖人君子でも気取ってるの?」
「悪人ではないつもりだね」
皮肉の応酬、というよりはただの悪口になっている気がしないでもない。
突然、カーテンが開かれた。ベッドに座り込んだ彼女と目が合った。
「ご覧通り、私は元気そのものよ。様子を見に来ただけというなら、用事は済んだでしょう」
言外に「早く帰れ」と言っているのだろう。だが、俺はその言葉をまともに聞いてはいなかった。
改めて見る彼女の腕。白く細く、まるで病人のようでさえあった。
染み一つない白磁器のような皮膚が、人間味を更に薄くしていた。
「……鮎川先生に聞いたよ。君の倒れた原因」
「…………」
龍剛院は黙り込んでいる。その様子からして、自分でも心当たりがあるようだ。
「先生は吐きダコがあるから拒食症だろうと言っていたけど」
「貴方には関係ない!」
龍剛院は叫び、俺の言葉を遮った。
「私がなんであろうと、貴方には関係ないでしょ!?」
「関係なくない! 昨日の試験だって、泣きそうな目をしていた癖に!」
「してない! 貴方の幻覚よ! 妄想だわ!」
「ならどうして最後は」
「うるさい出てけ! 出てい、け…………あっ……」
ベッドの上で俺に殴りかかろうとした龍剛院は、バランスを崩して体ごと俺の方へ倒れてきた。その身体を、反射的に受け止める。
あまりにも軽い。同年代の女性の体重なんて聞いしたこと無いが、これは明らかに人の軽さの限界では、と思わせるほど軽かった。
抱きとめたことで、俺の頭はクールダウンする。今しがたまで熱くなって怒鳴り合っていた自分を意識の外へ追い出し、竜剛院に話しかけた。
「……まだ寝てろよ。すぐ先生だって戻ってくるだろうし」
「…………うん」
ついさっきまで怒鳴っていた彼女とは思えないほど、か細い声だった。
自分では立つこともままならないのか、その手は俺の制服をがっちりと掴んでいた。
ガラッ
「鮎川先生、吹雪のやつが頭を打ってただでさえ残念な頭が更にプリズンブレイクしてしまったんです…………け……ど…………」
何故俺はこの時気づかなかったのだろう。
ここは保健室であり、当然不意の来訪者はいる。
そんな場所で、ベッドで倒れそうな女性を抱き支えているとなれば……。
「…………」
「…………あの」
「……………………………………………………失礼した」
————誤解だああああぁぁぁぁああぁああああぁぁ!!!!
腕の中にいる彼女のため大声で叫べないが、立ち去るケイを大声で呼び止めたい。
「け、ケイ! ちょっとま——」
「キャッ!?」
思わず追いかけようとした俺に合わせ、制服を掴んでいた龍剛院のバランスまで崩れる。
軽いと言えども、その対象は人。
それが全体重をかけて自分の方へ寄りかかってくれば、どうなるか。
答えは、火を見るよりも明らかだった。
——ガンッ!
「あぐぁッ!?」
両手を塞がれていては受け身を取ることもままならず、頭から床に激突した。不幸中の幸いとでも言うべきか、龍剛院には被害はなかった。
「ぬぅぉぉおぉおお…………!!」
「……だ、大丈夫……?」
衝撃に悶絶していると、いつの間にか手を離した彼女が心配そうに覗きこんできた。
痛みで閉じていた目をかろうじてこじ開けると、平均的な顔よりも余程整った彼女の顔がすぐ近くに……。
——って、近い近い近い!?
「だ、大丈夫! 大丈夫だから、ベッドに戻って!」
「え、あ……うん」
多分今の俺は顔中に血液が巡って火照っていると思う。バレていないだろうか。
多少よろつきながら、ベッドに腰掛ける彼女。だが俺が言ったのは、座るのではなく寝ろということ。
どうにかして彼女をベッドに寝かせると、畳まれていた布団をかけた。
とりあえず、ケイは後で締めるとして、現状をどうにかするのが最優先である。
「…………ごめんなさい」
「い、いや……別に……」
——別にってなんだよ俺! ちょっと昔の女優かよ!
口をついて出た言葉に内心で突っ込んでしまう。
違うだろ俺。もっと他に、別の言葉があるだろ。
「……あの、さ。どうして、拒食症、というか、そういう体質になったんだ?」
——アウトォ!! 俺、アウトォォォォ!!
一番答えづらいところをドストレートに聞いてしまった俺の馬鹿さ加減に死にたくなってきた。
「い、いや、興味本位とかじゃなくてだな! ほら、悩みとかあるならなんか手伝えることないかなーって! 先生もストレスが原因とか言ってたし! それならストレスが減れば体質改善にも繋がるかなーって……」
口を開けば開くほどドツボにはまっていく感覚が否めない。事実、龍剛院は目を丸くしている。
互いの沈黙が、ひどく痛い。
「…………ップ」
不意に、龍剛院が肩を小刻みに震わせはじめた。
「……ククッ……フフフ……ッアハハハハハハハハハ!!」
「……えぇと……」
身体を起こして、お腹を抱えて笑い出した。
突然のことに呆然と立ち尽くす俺に対し、龍剛院はなおも笑っている。
ベッドを手で叩きながら、目元に涙がたまるのも構わず、大きな声で笑った。
「ヒー……ヒー……ククッ……! ご、ごめん……フフッ……」
抱腹絶倒というか、呵々大笑というべきか。ひと通り笑った龍剛院は、目元の涙を拭いながら笑い混じりに言った。その顔は未だ破顔している。
「い、いや……………………そんなに、おかしかったかな?」
「ち、違うの……クックッ……おかしいのも、あるけど……う、嬉しかったの」
「は……?」
ますますわけがわからない。彼女は嬉しいと哄笑する癖でもあるのだろうか。
「……ッハー! 苦しかった!」
ようやく落ち着いたらしく、そう声を上げる。
最初の険悪さなど微塵も感じられない顔だった。
「……ごめんね。変にうるさくして」
「……いや」
それ以上言葉が続かない。下手に言葉を出せば、またドツボにはまる気がして言い出せない。
「えぇと……その、嫌じゃなければ聞かせて欲しい……いや、話したくなければいいんだ! 無理に聞こうって気は……」
「じゃあ、帰ろうか」
「…………へ?」
存外間抜けな声が出た気もするが、今は問題はそこじゃない。
今、帰ると言ったか?
「『話したくなければいい』って、自分で言ったでしょ? だから、今は話さない」
「え、あ……うん」
「それに元気が戻ってきたし、もう自分で歩ける。これ以上ここにいる必要もないし、帰ろうって言ったの。鮎川先生には明日にでも報告しておけばいいしね」
はて、問題はそこだっただろうか?
どやら俺の頭は突然のことに弱いらしく、彼女の理屈を処理するにはだいぶ時間がかかった。
処理している間にも、彼女はてきぱきと帰り支度を整えた。
「……っと」
立ち上がって、またふらついた。しかし今度は本格的に倒れるわけではなく、多少よろめいただけのようだった。
とっさに手を貸そうとして、弱々しい手でやんわりと断られた。
「えーと……大丈夫?」
「ん……うん、もう大丈夫。それじゃ、色々とありがとう」
「いや…………気をつけて」
「うん」
そう言うと龍剛院は、覚束ないながらも確かな足取りで保健室を出た。
「……ねえ、藤原君」
「ん?」
「…………やっぱいい、なんでもない」
そう言い残して、彼女は寮への道を歩いて行った。
一人だけになった保健室で俺はしばし身じろぎせずにいたが、これ以上ここにいる必要もない。そう思い、保健室を出ることにした。
「……降りそうだな」
空は鈍色が重なっていて、なにかの拍子に降るのではないかと思わせるような天気だった。
この時期、夕方とは言えども暗くなるのは早い。
幸いまだ本格的に暗くなってはいないが、早く戻った方が良さそうである。
――ちゃんと帰れたかな。
一足早く寮へ戻った彼女のことを考えながら、俺も帰路へつく。
女子寮と男子寮への出口は別々で、俺達が鉢合わせすることはない。
手遅れになる前に少しでも早く。そう自分に言い聞かせ、足を動かした。
「……意外と早かったな、優介。おかえり」
「その言葉の真意について問いただしたいけど、ただいま」
校舎から寮へ入る直前に、雨は少しずつ降りだした。今はバケツをひっくり返したかのような大雨になっている。
わずかに濡れてしまい、寮のエントランスに備え付けられているタオルで体中を拭いていると、通路の奥からケイがきた。缶コーヒーを片手に持っていることを考えると、どうやら飲み物を買いにきたついでのようだ。
「………………」
「…………ケイ、俺の顔になにかついてるのかい?」
「いや、別に?」
「別にって言う奴は大体何か腹の中で思っているんだよな」
そう皮肉で返すと、ケイは静かに視線をずらした。
エントランスに置かれている長椅子に腰をおろすと、不意に外を覗きこんだ。
「雨が降ってきたな」
「そうだね」
「……時に優介」
「なんだい」
「押し倒したのか?」
タオルで頭を思いっきり張ってやった。
「なにをする」
「なにをするじゃない!」
思わず大声を上げる。幸いエントランスに人はおらず、大声を上げても誰からも非難を浴びなかった。
「いや、あの状況は明らかに襲い」
「それ以上喋ったら俺のエクスカリバー(濡れタオル)が君を討つ」
「すまん」
まったく。
自販機に小銭を入れ、紅茶のボタンを押す。当然温かいものだ。
軽快に『ガコン』という音を立てながら、目的の品が落ちてきた。
「紅茶は区別しにくいな。缶ジュースとは言いがたいが、缶コーヒーではない」
「至極どうでもいい話だね。ちなみに俺は缶ジュース統一で充分だと思うけど」
まだ熱い紅茶に口をつける。独特の風味と苦味が喉を通って行くのがわかる。
――――ピリリリリ、ピリリリリ、ピリリリリ
突然、俺のPDAが鳴った。
「…………ブフッ!?」
「ん、どうした優介。持病の癪か」
「んな持病持ってねえ! 先に部屋に戻らせてもらうよ!」
着信を受けたのはメールだったが、その内容に思わずむせてしまった。ケイが毎度のごとくふざけたことを言ってくるが、それどころじゃなかった。
階段を駆け上がり、自分の部屋に入り即刻カギをかける。
部屋の真ん中に置かれたダブルサイズのベッドに腰掛け、改めてメールを読んだ。
『龍剛院真理です。さっきぶりだね、藤原君。
いきなりメールが届いて驚いてくれましたか? どうやってアドレスを知ったかとか、野暮なことは聞かないようにね(笑)
保健室で別れる時、言いかけたことがあったでしょ?
さっきは言えなかったけど、藤原君は私の体質改善に手伝ってくれるって言ったよね。
あれ、凄く嬉しかった。恥ずかしくて、その場じゃ言えなかったけど。
私の悩みに親身になって聞いてくれる人なんて、今までいなかったから、本当に嬉しかった。
……でも、今はまだ言えない。
これは私の問題だから、できる限り自分の手でどうにかしたいから。
それでも、どうしようもなくなったら、藤原君に泣きつくことがあるかもしれない。
そうならないよう頑張るけど、もしそうなっちゃったらごめんね。
改めて、今日はありがとうございました。』
読みきった後、俺は両手を広げてベッドに仰向けに倒れた。天井では無駄に高級そうな証明が、目に痛いくらい光っていた。
手に持ったPDAのバックライトはいつの間にか消えていて、画面は黒くなっている。
それを明るくすることもせず、俺は深くため息をついた。
「…………なんだかなぁ」
やるせない。今の心情を表すなら、多分この言葉がピッタリだ。
メールでは、彼女は『今はまだ言えない』と書いている。
そりゃそうだ。ほとんど初対面に近い相手に、自分のプライベートな悩みを打ち明ける人なんて、それこそアニメや漫画の世界でしかいないだろう。
それがわかっていても、未だこの気持ちが晴れることはない。
俺の言葉は、信用されていないのだろうか。
いや、信用はされているだろう。文にも、それに近いものが書かれている。
だが信頼はされていない。
信用していても信頼がなければ、迂闊に話すわけにもいかない。理解できる。至極当然のことだ。
だからこそ、やりきれない気持ちが湧いてくる。
「…………まったく、俺の悪い癖だってわかってるのに……」
考えれば考えるほど、思考のスパイラルにはまっていく。
悪癖だ。しかも直せないときた。
いや、直す必要はない。発想の転換だ、思慮深いと捉えればいい。
そんなくだらないことを考えるくらいには、気持ちに余裕ができたようだ。
「…………なんにせよ、今俺ができることはない、か」
そう結論づけて、起き上がる。
夕食まで、まだ時間はある。
PDAを懐に仕舞った俺は、デスクに置いてあったパソコンを立ち上げる。
俺にできることなんて限られているけど、それならできることを突き詰めるまでのこと。
一つのことに集中しだした俺は、結局夕食の時間に亮が呼びに来るまで手を休めることはなかった。
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誤字脱字報告、感想等お待ちしております。■9話の続き、という何か。デュエル無しです。寝落ちしたせいでこんな時間なんだ……。