それが、夢なのか、現実なのか定かにはわからなかった。
深い眠りの果てに、秋山は見たような気がしたのだ。
美しい女人だった。
背が高く、気品に溢れたその立ち姿。揺れながら落ちる長い髪。顔のつくりまではっきり見て取ることは出来なかったが、くっきりとしたアーモンド形の瞳が、きらきらと輝いているのがわかった。
見たこともない、美人。
それが秋山の印象だった。
可奈恵にこんなことを話したら、やきもちを焼くだろうか。
いや、と秋山は思う。
彼女だって、この人の姿を見たら、納得するに違いない…。
「起きてください」
秋山を起こしているのは、少女の声だった。
「起きてください、そろそろ出発しなくては」
目を開けると、見慣れぬ幼い少女の顔があった。
「あ、君は…」
ぼんやりとした頭で、秋山は聞き返した。
「おはようございます。ユースケさん。私は、アミンターラ。ガルダンから聞いているでしょう?」
「あ、ああ」
秋山は慌てて体を起こした。寝ていた場所が場所だけに身体全体が軋む。それでも眠り自体は深かったのだろう、思いのほか頭は冴えている。
「では、話は早いわね!」
見かけとは裏腹なくらい、少女は、いや姫君は利発な印象を受ける。これがあのお人形さんだったわけだ…。
「昼の間、私はこの姿でいられます。お互い協力してやっていきましょう」
「あ、ああ、よろしく…」
恐ろしく歯切れのいい口調は、10歳前後の子供とは思えないくらいだ。それともこれが王女の威厳というものなのだろうか、小さな身体からは言いようのない威圧感すら漂っている。少女人形の高貴な姫君。
そのあまりのギャップに、秋山の寝起きの頭はついていける自信を失いそうになる。
「あの、ガルダンは?」
子供を相手にすることに余りなれていない上に、お姫様ときたらどうやって会話をつなげていけばいいのかさっぱりわからないので、とりあえず姿の見えない頼もしい相棒殿について訊ねることにした。
「私ならここだ」
と、背後から今や聞き慣れた声がした。振り向くと、生い茂った笹の藪の奥から片目のパンダが現れた。
「どうだ、疲れは取れたか?」
「いやまあ、なんとか」
もう、疲れたとか辛いとか、そんなことはどうでもよくなりかけている自分がいた。
「腹ごしらえをしたら、すぐに出発だ」
「わかった」
否も応もない。こういう生活に馴染んでいくしかないのだ。秋山はこれまで考えたこともないくらいのタフさを身に付けようとしていた。
いつの間にか、アミンターラが荷物の中から例の食料を出して、簡素な食事の用意を整えていた。
「お口に合わないでしょうけれど、召し上がれ」
アミンターラは美しく微笑みながら秋山に朝食を勧めた。
いやもう、姫様のその笑顔だけでお腹いっぱいです、と秋山は口には出さなかったが、心底そう思った。この二人は想像を絶するこんな暮らしを、ずっと続けているのだ。そしてこれから先も…。
食後、少し時間を置いて、再び旅が始まった。
「お乗りになったら?」
アミンターラが言った。彼女はすでに、ガルダンの背中にちょこんと乗っていた。それは、あの陶器の置物そのものの姿である。
「い、いいんですか?」
秋山は、おずおずと訊き返した。
ガルダンは、確かに大きなパンダだった。おそらく、動物園で見るパンダの1.5倍はあるだろう。大型のヒグマくらいあるかもしれなかった。そうはいっても、荷物の上にアミンターラ姫を乗せて、その上大人の男が乗ってもかまわないものだろうか。
「かまわんよ、ただし、乗り心地は保障せんがな。落っこちないよう、気をつけろ」
ガルダンが答えた。
ガルダンはパンダの姿になっても言葉が通じるからいいが、人形になったアミンターラ姫とは言葉が交わせない。このふたりと同時に話すことが出来るのは、昼間の時間だけということである。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
足の痛みはまだ治まっていなかったから、正直、助かったと思った。
秋山はアミンターラの後ろに、よいこらせ、とよじ登るようにして跨った。パンダの背中は思いのほか背が高く、骨ばっている。しかも、背中からお尻へと傾斜しているので、ずり落ちないように乗り続けるのは至難の業だった。なにしろ、つかまるところが何もないものだから、揺れる背中にリズムを合わせていくのは、なかなかコツのいることだったのである。
「ふふふ、いかがかしら、ガルダンの乗り心地は?」
秋山の前に陣取ったアミンターラ姫が、悪戯っぽく笑う。
「あ、ああ。まあ、歩くよりましってとこですか」
そうとしか言いようがないので、秋山は正直に答えた。
「あの、ところで」
秋山は、かねて疑問に思っていたことを、訊くことにした。
「私は、帰れるんでしょうかね?」
航空券のことは諦めた。会社は首になるかもしれない。…可奈恵は、待っててくれるだろうか。
「なにか、方策でもあるんですか」
無意識のうちにアミンターラに対する秋山の言葉遣いが、心持ち丁寧になっている。その問いに対して、アミンターラは逆に訊き返した。
「まず、あなたがどういう状況で、こっちの世界に来てしまったのか、教えてくださらない?」
「えっ」
驚きのあまりパンダの背中からずり落ちかけた。秋山がこっちの世界へ来た理由を、この人たちは知っているわけではなかったのか。
「いや、だって」
てっきりこの二人が関わっていることだと思っていたので、秋山はここまで付いてきたというところもある。いや、選択の予知がなかったのは事実だ。ここでそんなことに引っかかっている場合ではない。
軽く取り乱している秋山を、アミンターラはきょとんとした顔で見つめていた。これではまずい、と秋山は営業マンの直感で取り繕う。
「ああ、そうでしたね…」
で、どこから?と聞き返すと「とにかく。その日に起こったこと。特に、なにかいつもと違うようなこと」
気を取り直して、秋山はあの日の出来事を話し始めた。もうずいぶん昔の出来事のように思えるくらい、記憶の細部が抜け落ちているような気がした。それでも何とか、記憶の糸を手繰り寄せてみる。
――仕事が終わって、土産物を買おうと雑貨屋に立ち寄ろうとして、店から出てきた泥棒とぶつかった。そのあとホテルに戻ったが、部屋の前で何者かに後頭部を強打され、気が付いたらこの世界に来ていた…。
「それだけ?」
アミンターラが、再び訊ねる。
「他に何かなかったのですか?」
「ああ、そうだ。忘れてた」
雑貨屋の前で少年の泥棒とぶつかったあと、パンダと少女の置物が手の中にあったこと、仕方なくそれを持ち帰ろうとした、と肝心なことが抜けていたことに気が付いた。あの人形を手にしたことが、今回この事態に陥ったことと関係があるのはほぼ間違いない。
「その置物、あなたたちにそっくりでした。あれはいったい…」
その問いには答えず「あの者たちだわ」とアミンターラが呟いた。
「あっちの世界に、行っていたのね」
幼い姫君には似つかわしくない、重苦しく暗い声である。秋山は胃の腑の下が凍りつくのを感じた。
「どういうことです?」
あっちとこっちを往き来しているものたちがいるということなのか。
「あっちの世界に、行く方法を知っている人たちがいるんですか?」
「知っている人たちがいるわけではなくてね…」
アミンターラの声が、心なしか悲しみを帯びて響いた。
「そういう〈もの〉がある、と言ったほうがいいかもしれないわ」
彼女は、何かがあることを知っていた。ガルダンが言葉を濁したのは、このことだろうか。
「そういう〈もの〉?何かを使うってことですか?」
「そういうではあるけれど」
アミンターラの声は、相変わらず重い。
「じゃ、それのあるところに行けば」
いいんですね、と言いかけたところで、突然ガルダンの歩みが止まり
「簡単に言うな!」
と、不機嫌な声を上げた。
「ガルダン、そんな言い方するものではありません。この方は、私たちのせいで」
「わかっています」
アミンターラが強く諌めると、ガルダンは憮然と、しかしながら慇懃に答えた。
「すでに、そっちへ向かっています」
そして再び、ガルダンは歩き始めたが、二人ともすっかり黙り込んでしまった。
アミンターラは感情を押し殺すように、視線を右下のほうに伏せ、じっと唇をかみ締めている。ガルダンはもとより何も言わない。
ええっ、どうなっちゃったの?これって、気まずい状態ってヤツじゃあ…。
秋山は焦った。こういう状況には何度か遭遇したことがある。いや、経験もあるぞ、と秋山は思う。そうだ、痴話げんかだ。下世話な表現かもしれないが、男女間の感情のもつれが原因の言い争いだ。ついこの間、俺と可奈恵がやったヤツと同じだ(ずいぶん次元は違うような気もするが。)
しかし、この場合自分は当事者ではなく第三者である。とはいえ、原因を作った張本人と言えるかもしれないので、ある意味当事者だ。しかし、何かを言える立場にはない。たとえば、二人の仲をとりなすとか。たしなめるとか。
要するに、いたたまれないのだ。
そう思ったところで、秋山は以前から頭の片隅で気になっていたあることについて、ふいに合点がいくことに気が付いた。
ガルダンはアミンターラ姫に対して、単なる従僕としてというより、もっと何か別の感情を抱いているような気がして、それが引っかかっていた。
人形になったときの、姫に対する眼差しは、恋人に向けるそれではなかったか?
このふたり、いったいどういう関係なんだ?
秋山は、今までのことを整理してみることにした。
まず、ガルダンはどこかの国の傭兵だといっていた。
バルルク、とかいったな。
そして、このお姫様は、アヴァール国の王女様。
いま、我々がいるのが、アヴァール国で、バルルク国との国境付近らしい。
国の名前が違うということは、ガルダンはアミンターラの元からの家来ではない、ということなのか?
それに、ふたりは、追われている、と言っていた。しかも、二つの追っ手から。
逃避行。
男女ふたり組みが、逃げている。
まあ、子供と動物なのだが。男と人形なのだが。そうとも言い切れない。
そもそも、何でふたりは、同時に人間の姿をしていられないのか?
あっちの世界で私の手元にやってきた、あの置物との関係は?
……わからない。
これ以上考えても、絶対にわからないことだった。
「あの、ひとつ訊いてもいいですかね」
秋山はわきあがる疑問をどうにも抑えきれず、どちらにともなく問い掛けた。
「アヴァールという国と、バルルクという国は、どういう関係なんです?」
秋山は、一番無難な話題を選んだつもりだった。
何しろ、この世界のことは、まったく知らない。まず、言葉が通じるということが不思議だったが、今しゃべっている言葉が日本語なのか中国語なのか、そんなことはどうでもよくなっていた。
即返ってくると思っていた答えは、ところがなかなか返ってこなかった。
二人してなにか譲り合っているようにも感じたが、やがて口を開いたのは、姫の方だった。
「私の祖国アヴァールは、本当は滅んでしまったのです」
それを聞いた秋山は、ぎょっとした。
「滅んだ?」
「ええ、いえ、正確には滅ぼしてしまったのです、私たちが」
姫の小さな肩が、なんとも寂しげに、悔しげに小さく震えた。
いったいどういうことなのだ、と秋山はアミンターラの告白に息が詰まりそうになった。
「じゃあ、この国は」
「形だけはアヴァール国ということになっていますが、支配しているのは我ら王族ではなく、簒奪者たち」
アミンターラの答えは断片的に過ぎた。それはまるで、真実を語ることを避けているようにも思われたが、それは秋山という旅人が相手だからだったのかもしれない。
それにしても、と秋山は思う。想像以上に込み入っているぞ。
アヴァール国は滅んでしまったが、形だけは残っている。しかも、国を滅ぼしたのは、王族の姫君ということだが。
「で、バルルク国との関係は?」
秋山はとりあえず、最初の質問に立ち返った。
「もとはといえば、隣国のバルルクが我らの国に攻め入ったのが、ことの始まりなのですが、それに乗じて不穏分子が国の乗っ取りを謀り」
「いや、姫は被害者だ」
ガルダンが、アミンターラの言葉をさえぎった。
「あれは姫のせいではない。姫は騙されたのだ、やつらに。姫が悪いのではない」
ガルダンの声は、怒りに震えていた。
「やつら」とは、何者なのだ。
アミンターラの言った「あの者たち」、即ち、秋山を襲った連中のことだろうか。
「………」
またもや沈黙である。せっかく和んだと思った空気が、これでは元の木阿弥ではないか。
「いや、あの」
秋山は背中を冷や汗が伝うのを感じながら、とにかくなんとかしなければ、と思った。この話はこれで切り上げだ。中断!中断!それに聞いたところで力になってあげられるわけではない。何しろこれから「あっちの世界」に帰っていく身なのだから。
秋山は、余計なことに首を突っ込む意思がないことを、二人に伝えようと思った。
「これ以上訊いても、私にはあまり意味がありません。いや、興味がないわけではないけれど、余計な詮索は趣味ではないもので…」
「確かに、そのほうが賢明だろうな。それに、どうせあんたとはもうじき別れる間柄だ。我らのことに首を突っ込むことはあるまい」
ガルダンが同意した。
しかし、これほどあっさりと別れることを認められると、かえって寂しい。
たしかに、自分はこの世界では異分子で、おまけにこの人たちの明らかに足手纏いになっている。ゆえに、自分を元の世界に戻さない限り、彼らは本来の目的を達成できないのだ。自分は、どう考えたって厄介者なのだ。一刻も早く消え去って欲しい存在なのである。
しかしなあ、袖摺りあうも他生の縁、て言うじゃないですか。と秋山はぼんやりと思った。
こんな俺でも、何かのお役に立てないですかね。いや、敵と戦う、なんてことは無理だけど、なにかこう、二人に喜んでもらえるような。
そのためにはですよ、もう少しあなた方のことを知りたいと、思うわけですよ。人間として。ええ、人情として。
ガルダンの背に揺られながら、秋山は考えていた。
この二人絶対ワケアリだ、という直感はもはや確信の域に達していたが、わからないことが多すぎた。
少し整理してみよう。
ガルダンはバルルクの傭兵だといっていた。ということはつまり、このふたりは、敵同士だったということか。
敵国の姫君と、傭兵の恋?
ロマンティックに過ぎるようだが、相手は子供じゃないか。
屈強な戦士と、十歳くらいにしか見えない幼い姫君が、恋に落ちたというのか?
いや、これにはまだ何か裏があるに違いない。常識では考えられないことだが、この世界では、秋山のいた世界の常識などすでに通用しないのだ。
こういう場合は、考えないことが一番賢いやり方だ。あるがままの事態を受け入れる。 そして、嵐が通り過ぎるのを待つ。世の中、なるようにしか、ならないのだ。秋山は、自分の処世術を頭の中で反芻した。自分の今の目的は、日本に帰ることなのだから、そのことだけに神経を集中させていればよいのである。
結局のところ、この二人を信じるしかない、というごくありきたりな結論に達した。わかっているのは、この二人、信頼に足る人物である、ということである。今のところはそれで十分だ。命尽きない限り、日本へ帰れる日が来るはずだ。
旅の一行は、しばらくの間無言で歩き続けていた。それぞれが何かの思いに耽っていた。太陽が中天を過ぎようとしていた。
昼の休憩が終わったところで、ガルダンは秋山に革袋を水でいっぱいに満たして来てくれ、と頼んだ。
「少し行った所に泉があるはずだから、そこへ行って水を汲んできてくれないか」
秋山は二つ返事で了解した。ここでやっと出番になったかと、自前のポンプを取り出した。
いわれたとおりの場所に泉が湧いていた。水は清冽で手が切れるかと思うほど冷たかった。秋山はそこで口を潤し、顔を洗った。もう、何日もこんなことをしていないような気がした。髭もそっていない。湧き出た水の淀みに顔を映すと、誰かと思うボロボロの自分の顔があった。
着ているものもかなりよれよれになってしまい、そうとう惨めな姿になっているはずだったが、水面に映った男の眼は、自分でも驚くくらい炯々と輝いて、生き生きとして見えた。サラリーマンになってこの方、一度も見たことのない表情だった。俺って、もしかして生き生きしてる?と青臭い自問自答をしてしまうほどだった。
この状況を楽しむ余裕が出来てきた、ということだろうか。
まさか、とすぐさま否定する。
自分ひとりではどうしようもないありさまだというのに。
だが、秋山は笑っていた。理由はわからないが、自然と頬がほころぶのを、押さえることは出来なかった。
水汲みから戻ると、秋山の足は驚くほど軽くなっていた。
「しばらく自分の足で歩きますよ」
ガルダンとアミンターラにそう断って、秋山は歩き出した。
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眼が覚めると、幼い王女がいた。秋山はパンダの背中に乗って王女と旅を続けるが、そこでなぞに満ちた過去が語られる。
物語は中盤です。もうしばらくお付き合いください。