【21】
1
「これが――洛陽、なのか?」
洛陽は確かに広大であった。
見た限り、面積においても、人口においても、天子のおわす都として相応しい規模を有していると思われた。
けれども、活気がないのだ。
人々の貌は酷く疲れているように見えた。笑っているものでさえも、その表情の端に陰が見えた。
「これでもマシになったのよ」
華琳は呆れたように言った。
「以前に来たときは本当に街そのものが枯れ切っているように見えたものね」
「改善されたのか、これでも」
「ええ、そういうこと」
華琳が首肯する。
「何進が呼び込んだ董卓はそれなりに善政を敷いているらしいな」
虚がそう言うと華琳は肩を竦める。
「それほど善政というものでもないわ。洛陽は街そのものが力を持っている。まともに取り扱いさえすれば民は街をどんどん良いものへ育てていくでしょう。董卓は朝廷に救うゴミ掃除をしているというところかしら」
「十常侍か」
「何進との間で血なまぐさいことになっているようだけれど、とばっちりは喰いたくないところね」
華琳は軽く笑った。
「私は宿に向かうけれど」
「俺は少し洛陽の街を見て回りたい。慧と万徳を護衛に付ける。先に向かってくれ」
「分かったわ。なるべく早く帰ってきなさいよ、退屈なんだから。――それじゃあね」
華琳はあっさりと供を引き連れて、虚のもとを去った。
「さてと、洛陽の街はどんなものなのか」
――その腐り振りを堪能させてもらおうかね。
※
市場の方はそれなりに賑わいがあった。
呼び込みの商人たちは景気の良い声を張り上げ、客たちは羽振りよく金を使っている。けれども、そこに庶民の姿は少ない。一部の富裕層が集っているのだ。
何より。
あちらこちらの人影で、宦官と思わしき者たちが商店の主たちに袖の下をせびっているのが見受けられる。
やはり。
腐っている。
董卓が掃除に乗り出してもまだ、追いつかぬらしい。
ここが陳留であったなら捕えて晒してやっても良いものを。
そんなことを思いながら、ぶらりぶらりと歩いていると。
「おいおい姉ちゃん! そいつはいけねえや!」
野太い男の声が届いてきた。
何気なく視線を向けると、そこは蒸かし饅頭屋らしい。
なんだなんだと集まった野次馬の向こうから、さらに声が響く。
「今更お代がないって言われてもなあ……え? いやいや、ツケったってねえ」
困ったような声である。
何事かと虚は人だかりに歩み寄っていった。
もめているのは恰幅の良い店主と、赤い髪の女。女の肩には刺青が覗いている。
ひと目で分かった。
あの女。
悍ましいまでに、強い。
ただ、代金を踏み倒そうとすごむ筋者には見えない。
むしろ、どこかぽやっとしていて、何を考えているのかよく分からぬ。
赤髪の女はトボケ顔で、店主の顔を見ていた。
のだが。
女は、ふ、とこちらを見る。
――悟られたか。
面倒事になりそうな気配を察知した虚は、足早に去ろうとしたのだが。
「――おまえ」
抑揚のない声で、女が言葉を発した。
「お、そこの黒服の兄ちゃん、この姉ちゃんの知り合いかい!」
店主がこれ幸いと声を掛けてくる。
「いや、知らない。俺は急ぐからこの辺で――」
「しらばっくれちゃあいけないよ、兄ちゃん」
「違う、本当に知らん。おいこら、放せ」
店の親父が虚の手を引く。
相手は素人であるし、悪意は感じない。強引にふりほどいて怪我をさせたくはなかった。
「兄ちゃん、この姉ちゃんの知り合いなら代金を立て替えてくんな。見りゃあ、上等な着物だ。なあ、頼むよ」
「だから待てと言っているだろう。話がまるで見えないぞ」
「この姉ちゃんが饅頭の代金が払わねえっていうんだ」
「払わないとは言ってない。……財布を忘れた。後で払う」
女はボケラッタとした表情で言う。
「だから、後で払うってね、そんなの信用できないんだって。なあ、兄ちゃん払ってくれよ。今月厳しいんだよお」
店主は半ばべそをかいて懇願する。
饅頭代くらい構わないかと、虚は思った。何より、この面倒事から解放されたい。
「で、いくらなんだ」
「おお! へい、毎度! 饅頭百個で――」
「ん? 悪い店主。俺の聞き間違いかもしれん。饅頭は、八個だな?」
「いんや、百個だ」
「ひゃ、百個だあ!?」
何と馬鹿げた注文だろうか。
しかし、店の奥から女将が饅頭の山を運んでくる。
「本当に、百個ありやがる」
「へへ、で、代金はしめて――」
にやにやと嬉しそうに店主は、金額を口にした。
今更払わぬとは言えぬ。
「……とほほ。ついてないぜ。……まあいいか――金はあるし」
虚は財布から言い値を払った。
野次馬たちがどよめく。
軽々と支払える値段では勿論ない。
「ひええ、兄ちゃん金持ちだなあ」
「あんたが払えと言ったんだろうが。まあ、これで良いだろう。そっちの子は放してやれ。じゃあな」
人だかりに背を向けて去ろうとする。
その虚の衣の裾が、つ、と掴まれた。
振り返る。
赤い髪の女が右腕に山のような饅頭の袋を抱えつつ、左手でこちらを捕まえている。
「ん? なんだ」
「……」
「用がないなら行くぜ。百個も食って腹を壊すなよ」
――物理的に食えるのか、それ。
気にしないことにした。こちらの世界のあれこれは、考えるだけ無駄なことも多いのだ。
「ありがと」
女は呟くように言った。
「まあいい。次からは財布忘れるなよ。百個分未払いは流石に破産(しね)る。店の主人が哀れでならないよ」
適当に言って女から身を放した。
あまり遅く帰ると、華琳が喧しい。先を急がねばならない。
そう思った時。
「おまえ……とても強い」
背後から女の声がした。
顔だけで振り返り、虚はにやりと笑う。
「きみもな」
今度こそ肩を竦めて、女に背を向け、洛陽視察へと歩き出す。
――俺もどこかで何か食うかな。
そんなことを思いながら。
※
結局、日が暮れてしまった。
虚は今、屋敷街を歩いている。華琳の止まっている宿はここを抜けた先にある筈だった。
へそを曲げているだろうか。
天には青白い月が上っている。
宿に戻ったら、この月を肴に酒でも飲むことにしよう。朦朧と考える。
召喚は明後日だ。
それで全てが決まる。
――最後の晩餐には、少し早いか。
肩で嗤った。
それに、最後にしてしまう訳にはいかない。
――俺は。
戻らねばならない。
「だから頼むぜ、何進さんよ」
天を再び仰いだ。
その時である。
黒い影が五つ、視界を素早く横切って行く。
覆面装束の――恐らくは男が五人、虚の頭上を飛び越えて、走って行った。
穏やかでない。
遅刻しそうな学生がパンを咥えて走っているのとはわけが違う。
血の。
「血の臭いがしてやがった」
堅気ではない。そして、いま逃げて来た訳でもない。
あの覆面の集団は、『今から事を起こしに』行くのだ。
闇夜に紛れて、物騒なことをしでかしに行くのである。
何進と十常侍の対立が激化する中、やはり洛陽は随分血なまぐさい街になっているらしかった。
虚は足早に先ほどの集団を追った。
気配を断ち、右に左に道を折れると、覆面の集団はさる立派な屋敷の中に跳び入っていく。
虚は跳躍ひとつ、その塀にとびのった。
庭には少女がふたり、覆面衆に刃を突き付けられている。
「下がりなさい! この方をどなたと心得ますか!」
ふたりのうちのひとり、銀髪の少女が声を上げる。彼女はもうひとりの、黒髪の少女を庇うように立つ。
「よすのじゃ、月! 無手で敵う相手ではない!」
「なりません、協さま! お下がりください!」
「いやじゃ! わらわは、月を失いとうない!」
少女たちの悲痛なやり取りが青白い月の下で繰り広げられる。それを目にしても、覆面たちは無感情にじりじりと距離を詰めるだけだった。
あの連中は、有象無象ではない。
十常侍側か何進側か――どちらにせよ、大きな勢力が用意した兇手たちである。対象の抹殺のみを淡々とこなす人形たちなのだろう。
虚はひらりと宙に舞い、黒髪の少女庇う銀髪の少女を、更に庇うように立った。
「月見の席に白刃を抜くとは、風雅を解さん無粋者どもめ。一列に並べ、右から左へ屠ってやる」
刹那、虚は絶対零度の鬼気を放出する。
覆面たちは、数瞬たじろいで――次の瞬間にはもう、己の頭部を失い絶命していた。
ぼとりぼとりと、ひとつずつ、宙に舞った兇手たちの首級が地に落ちる。
虚の指先からは、生温かく生臭い体液が微かに滴っている。
――まだ、右肩が痛むな。
小さく歪めた表情を元に戻し、振り返る。
そこには銀髪の少女が黒髪の少女を抱きかかえるようにして立っていた。
仲の良い、姉妹のようである。
「宵の口もとうに過ぎたこの夜更けに、無頼討伐のためとはいえ、断りもなく御庭にお邪魔致しましたことお詫び申し上げます。私は陳留が州牧、曹孟徳が軍師――虚と申す者。お初にお目にかかります」
流れるような口上を述べて虚が礼をとると、銀髪の少女ははっとして身なりをただし、挨拶を返してきた。
「私は董仲穎と申します。大義でありました、虚殿」
虚は思わず顔を上げる。
――これが、董卓だと?
見るからに儚げで小柄な少女である。季衣や流琉の例もあったから、声さえあげなかったけれど――。
――ぶ、豚じゃない!
「どうかしましたか? 虚殿」
「いえ。よもやこちらが相国さまのご邸宅であるとはつゆ知らず。田舎者の無知とお笑いください」
「とんでもありません。陳留は治安もよく、とても発展していると聞いています。虚殿、実はあなたの噂も聞き及んでいたのです。直接お会いできて、嬉しく思いますよ」
「身に余るお言葉。光栄にございます。して董卓さま――人をお呼びになられてはいかがでしょう。いつまでも御庭を外道の血で汚しておく訳にもいきますまい」
そう言うと、董卓は小さく頷いて、その前に、と言葉を続けた。
董卓に促され、黒髪の少女が前に出てくる。
見るからに高貴な気配を漂わせている彼女は、董卓から敬称つきで呼ばれていた。
――皇族か?
そんなことを思いながら、少女を見る。
黒髪の少女はやや緊張しながらも、堂々とした佇まいで息を吸った。董卓は礼をとって控えている。
「わらわは劉協である。虚よ、大義であった」
――霊帝の娘、献帝か!
正直に言えば、心臓が跳ねた。が、それを表に表すことなく、虚はうやうやしく、深い礼をとった。
「は。この度は殿下のご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
「うむ。だが虚よ。そなた、それほど驚いておらぬの。月の下女などは初めておうた時、腰を抜かしおったものだが」
劉協は年相応に幼く笑う。
「殿下のご尊顔を拝す機会を偶然にも賜り、我が胸中、驚愕と歓喜に打ち震えております。なれど、この美しき月夜に、殿下の御前にて慌ただしく取り乱すなど無粋の極み。浅ましき私の、愚昧なる虚勢にございます」
虚の言葉に劉協は小さく笑った。
「そう固くなるでない、顔を上げよ虚。わらわはそなたにおうてみたかったのじゃ」
「――お戯れを。私がごとき取るに足らぬ小人。本来であればかように殿下の御前に参ることなど生涯叶わぬことにござります」
「わらわは謙遜は好かぬ。そなたが陳留にて打ち出した数々の賢策、全て聞き及んでおる。どの街でも、この洛陽に住む宦官どもにも考え付かぬ画期的な政策の数々、陛下もご興味を示されておる。そなた、いかにしてあの画期的な政策を考え出したのじゃ」
「勿体なきお言葉。なれど殿下、私は別段特別なことはしておりませぬ」
そう言うと、劉協は眉根を寄せる。
「戯れておるのはそなたじゃ。真面目に返答せい」
「何ゆえに殿下の御下問を蔑ろにできましょう。真実、私は特別なことはしておりませぬ」
どういうことじゃ、と劉協は問う。
「ただ民のため。そして我が主曹孟徳がため、どのような政策が必要であるか真剣に思案する――私がいたしましたのはたったそれだけにございます」
劉協は大きく笑う。
「それが出来る者が、この大陸にどれだけいようか。洛陽の宦官どもも、大半は袖の下のせびり方ばかりに執心しておる。――虚、そなた、わらわのものにならぬか」
劉協は囁くように言った。
「そればかりはお許しくださいませ」
「何ゆえじゃ、わらわのもと、この月と協力し、洛陽を陳留のように幸せの街にしてはくれぬか」
幸せの街。
中々、粋な言葉を使うものだと虚は淡く笑んだ。
虚はすっと、顔を上げる。
「この虚は曹孟徳が従僕。髪の一本から血の一滴まで、その全ては曹孟徳にささげたもの。いかに殿下の命とはいえ、主の許しなくお渡しする訳には参りませぬ。もしそれでもこの虚を所望なされるのであれば、この首切り落としてお持ちくださいませ」
虚の言葉に、劉協は満足げに笑む。
「見事な忠義。見上げたものじゃ。あい分かった、無理を言ったの虚」
「ご無用のお気遣いにございます。この虚、無理は言われ慣れておりますゆえ」
そう言うと劉協は喉を鳴らして愉しそうに笑った。
しかし、その笑いは長くは続かなかった。
駆け込んでくる足音がする。
虚は素早く振り返ってその相手を見定めた。
若い男である。息を切らしている。
「突然の報でありますゆえ、ご無礼はご容赦。しょ、相国様――ッ」
男はあからさまに狼狽した様子で董卓を呼ぶ。
「言いなさい」
「は」
そして、その男――恐らくは伝令役と思われる男はこう告げた。
「襲撃にございます! 賈文和さまのお屋敷が、襲撃を受けておりますゥッ!」
つづく
《あとがき》
ありむらです。
まずは、ここまで読んでくださっている読者の皆様、コメントを下さったかた、支援をくださった方、お気に入りにしてくださっている方、メッセージをくださった方、えっとそれから……兎に角応援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
皆様のお声が、ありむらの活力となっております。
洛陽篇開始です。
何やらコミカルな虚さんになってしまいましたがまあたまにはいいでしょう。
あと数回洛陽篇を進めた後、反董卓篇に突入していきます。
どうかお付き合いの程よろしくお願い致します
こめんとなど、どしどしください
ありむらでした
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洛陽篇開始です。
独自解釈独自設定ありの真・恋姫†無双二次創作です。魏国の流れを基本に、天下三分ではなく統一を目指すお話にしたいと思います。文章を書くことに全くと云っていいほど慣れていない、ずぶの素人ですが、読んで下さった方に楽しんで行けるように頑張ります。
魏国でお話は進めていきますけれど、原作から離れることが多くなるやもしれません。すでにそうなりつつあるのですが。その辺りはご了承ください。
あと私の描く一刀さんは悪鬼と相成りました。皆様が思われる一刀さんはもういません。ごめんなさい。
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