竜と逆鱗は、言葉では言い表せない何かで繋がっている。
その何かは竜に人間性を齎し、そして逆鱗をあらゆる厄災から守る。
まるで魔法のようなそれは、かつて劉邦を項羽という強敵から守り通した。
何らかの理由で消えてしまった竜がもしもそのまま居てくれたのならば、恐らく漢王朝は腐敗しなかっただろう。
竜は腐敗を許さない。
北郷一刀は弱さを責めはしないし、可能ならばそれを補い、最終的に克服させる。
しかし、元来竜は腐敗を嫌い、ただ焼き尽くすだけで、そこに救いは無い。
逆鱗を新たな王朝の王とするように、竜は始まりと終わりの象徴である。
全てを消し去り、そこに新たな世界を築き上げるのが竜なのだ。
そんな竜も人間性を名残惜しく思い、誰かを逆鱗を据える。
ただでさえ少ない竜は、その多くが逆鱗を見つけられないが故に滅んだと『竜の書』には記されている。
最初の竜が居なくなってしまった理由は分からないが、それ以降竜が歴史に姿を現さなかったのは全て死に絶えたからだ。
そして今、後漢の末期に再び姿を現した竜は―――本当の逆鱗を傍に置きながらも、それを貪れずに死にかけている。
北郷一刀が目を覚ましたのは、漸く日が昇り始めた早朝だった。
目を覚ました彼が最初に見たのは、見慣れぬ天井で、やけに柔らかい布団の中で寝ていることに、続いて気付く。
行軍中にこのような柔らかい布団で寝られる筈も無く、彼は自分が何処か別の場所で寝ていることを察した。
必死に劉備という誘惑を振り切って、そのまま吐血した所までは覚えているが、それ以降の記憶が彼には無かった。
今はいったいあれから何日経っているのか、ここは何処なのか、あれからどうなったのか……何一つ彼には分からない。
意識の無い者が全てを知ることなどできないのは勿論のことだが、それでも彼は何とも言えない心持ちであった。
痛みも怠さも無い一刀は、そのまま起き上がろうとして何かが自分の胸元にあることに気付く。
疑問に思った彼が少しばかり顔を上げてみると……そこには静かに寝息を立てている劉備の姿があった。
何処かやつれて見えるその姿が痛々しく、彼は無意識の内に手を伸ばし、その頬を撫でる。
「……ここは、何処だ?」
「ここは徐州にある陶謙殿の屋敷の一つです」
「! 愛紗……」
一刀は未だに上手く氣を捉えることができない感覚のブレに戸惑いながらも、劉備の後ろに居た愛紗を見遣った。
その眼はいつもの彼女からは想像もできない程に真っ赤で、泣き腫らしているのが良く分かる。
劉備の泣き腫らした眼も中々に凄まじいが、彼女も酷い。
ここまでこの二人を心配させてしまったことを一刀は申し訳なく思いながらも、同時に愛紗の言葉から事実を理解した。
既に反董卓連合は解散し、劉備達は陶謙の下にやってきていたという訳だ。
となれば、彼は既に数日処か数週間に及ぶ間寝ていた計算となる。
その事実に彼は思わずため息をついた。
「あれから袁紹殿達が洛陽に入り、曹操殿が殿下達の身柄を確保されました。董卓が暴政を敷いていたという事実は無く、我々全員罰は無いものの、褒美も無いという結果に落ち着いた次第です」
「……そうか。劉弁殿下はしっかりと妥当な判断をしてくれたか」
「……いえ、実は―――劉弁殿下はお亡くなりになられ、劉協殿下が帝に即位されました」
「成程……あれから何日経っている?」
「二ヶ月です」
二ヶ月もの間意識を失っていたことに一刀は驚いたが、嘆いても仕方ない。
漸く戻った感覚を恐る恐る確かめながら、彼はこの屋敷の大きさと人数を把握できたことで、太鼓判を押した。
氣を感じられずとも竜の感覚は十二分に危機を知らせてくれるが、氣程鋭く、雄弁には伝えてくれない。
氣を試しに練り、いつも通りの練度でそれを行えることに彼は安堵した。
武器を使っても良いが、やはり氣が尽きない限り折れない氣刃は便利だ。
切れ味に関しても、日本刀のように鎧を着ている相手に突きを必要とせず、まさしく一刀両断が可能だ。
ただ氣を練るだけではこうはいかないが、極めれば武器を持つ必要が無い。
「皆はどうしている?」
「我々は今現在陶謙殿の下で働いております。皆、頑張っていますよ」
「……思春は?」
「彼女は……寝込んでいます。一刀様が倒れたのが相当堪えたのでしょう」
「倒れている!? 思春が!?」
一刀は愛紗の言葉に驚き、立ち上がった。
思春が寝込んでいるなど、彼は思いもしなかった……しかし、劉備の姿を見て納得する。
彼女でさえここまでやつれているのだ……彼女よりも弱い思春はもっと酷いことになっているに違いない。
あの愛紗でさえもここまで目を真っ赤に泣き腫らしているのだから、彼の容体は本当に深刻なものだったのだろう。
一刀の記憶では、あそこまで大量に血を吐いたのは初めてだ。
増してや鱗を吐き出すこともなく、それが成長を竜としての示している訳ではないことは分かっている。
ならば―――あの吐血はやはりそういうことなのだろう。
「彼女は隣の部屋に居ます。今はまだ寝ているでしょうが……安心させてやってください」
「分かった。ありがとう……愛紗と劉備が看病をしてくれたんだな」
「……私は一刀様の看病しかしませんでした。彼女の看病をしたのは呂蒙殿と孫権殿です」
「それでも、ありがとう」
一刀は愛紗への感謝を言葉に込めると、劉備を起こさぬよう静かに部屋を後にする。
眩しい朝日に目を細めながらも、彼は隣の部屋の扉をゆっくりと開いていく。
その際に奥から彼の鼻腔を刺激した思春の匂いは、何処か弱弱しい。
彼はまだ寝ているであろう思春を起こさぬように、静かに隣の部屋へと入った。
「! 思春……」
朝日が差し込む部屋の奥にあるベッドの上で、丸まっている思春の姿を見つけた瞬間、一刀は顔を歪めた。
思春もまた劉備達同様に目を泣き腫らしているが、それだけではない。
明らかに最後に彼が見た時よりも痩せてしまっている。
もしかしたら、食べ物が喉を通らない程に衰弱していたのかもしれない。
一刀はその痩せこけた頬を撫でながら、己の不甲斐無さを呪う。
思春に殉ずることを決めた筈なのに、劉備に彼女以上の安らぎを見出してしまう自分が、彼は嫌だった。
思春を嘲笑うかのように、驚くべき速さで成長していく劉備が少しだけ憎かった。
全て彼女のせいにできたら楽であろうが、彼はそう思うことがそもそもできない。
「……ごめんな」
全ては一刀の弱さが招いた事態であって、劉備に非など無い。
劉備という甘い果実の誘惑に勝つ負ける云々ではなく、まずそこに魅力を感じてしまうのが彼は間違いだと考えている。
この考えがいかに歪んだものなのかを、既に愛紗は知っている。
知っていながらも、それを彼が直してくれないことが酷く苛立たしい。
竜は確かに強靭だが、完璧な存在ではない。
完全な竜になっても、そこに人間性が存在する已上は、誘惑に負けることもあるし、誰かに縋りたくなる時もある。
だから、彼の真の弱さはそこではない。
彼の本当の弱さは、誠実さを絶対だと考えていることだ。
その誠実さを他人に求めないでいるのに、彼は己にそれを求め続けている。
真名を持たないから、と過剰な誠実さを大切にして、自分を殺してしまっている。
ただ願えば良いのだ……劉備が欲しいと。
ただ認めれば良いのだ……本当は劉備の方が思春よりも逆鱗に適していると。
だが―――彼にはそれができない。
「……う?……んん……おにい……ちゃん?」
「! ああ、俺だ」
「!……本当に、お兄ちゃん……なの?」
「ああ、俺だよ。幽霊じゃないぞ。ちゃんと足もある」
偶然目を覚ました思春と一刀の目が合った。
一刀は驚きと不安の入り混じったその赤い眼を見つめて、その真紅の眼で語る。
もう自分は大丈夫だから安心してくれ、と。
そんな彼の眼を暫くの間見つめていた思春であったが……不意に一刀に抱きついた。
飛びつくように抱き着いてきた思春を受け止めながらも、彼は梳かれた彼女の髪が宙を舞うのを見る。
綺麗な濃い紫の髪は、いつものように纏められてはいない。
震える思春の体を抱きながらも、一刀は思う……彼女をここまで苦しめたのは自分だ、と。
依存的で、強がっているばかりの弱い子であるのは理解していた筈なのに、こんなにも心配させてしまった。
それが、彼はただただ悔しい。
「お兄ちゃん……良かった。本当に、良かった……無事でいてくれて、ありがとう……」
「……心配させて、ごめんな」
「ううん、良いの……お兄ちゃんが無事なら、それで」
「思春は大丈夫か?」
「私は……大丈夫。お兄ちゃんが無事なら、元気になれるから」
思春の言葉は嘘ではない……彼女は一刀が無事ならば、それだけで力を得ることができる。
精神が肉体を凌駕するのは誰にでもあることで、今の彼女はまさにその状態だ。
病は気からと言うが、彼女はその通りに倒れ、今こうしている。
心因性故に、心が治癒しなければ彼女は完治しないだろう。
そもそも、彼女が倒れる下地は既にできていた。
孫権の受け入れの日に、一刀が彼女ではなく愛紗の言葉を信じたのは、思春にとってショックだった。
彼女の弱さが招いた事態ではあったものの、彼はそれすらも受け入れてくれる筈だったのだ。
それが、愛紗のせいで一刀に拒絶されてしまった。
それから三ヶ月の間思春はどうすれば良いのかも分からず、ただただ苦しみ続ける羽目になる。
一刀が本当に彼女を拒絶していないのかは分からないし、それを確かめるのも怖かったのだ。
だから、彼女はその不安な状態のまま彼の重体を知り、倒れてしまった。
「あの日のことだが……真名という呪いなどなくとも、俺は思春の傍に居るつもりだったよ」
「! でも、劉備の方が私よりも一緒に居て気分が良いでしょう?」
「……確かにそうだな。だが――俺はもう思春を選んだ。それを覆す気は、今は無いさ」
「今はって……今後はあるの?」
「いや、単純に未来はどうなるか分からないからそう言っただけであってだな……だから、そんなに睨まないでくれ」
ジト眼で文句をつける思春に、彼は苦笑しながらもその頬を撫でた。
彼女がいかに依存的で、独占的なのかを彼は良く知っている。
だから、怒った顔をしながらも、その手が不安に震えていることも、その赤い眼の奥に捨てられることへの恐怖が見え隠れしているのもお見通しだ。
彼女を一人になどしはしない……できる限りの努力をする。
一刀は、一度約束を破ってしまった。
二度目の約束を破ってしまえば、彼は本当に思春に合わせる顔が無くなってしまう。
もしも二度目の約束さえも破ってしまえば、彼女は自ら命を絶つことさえあり得る。
彼は彼女を大切にしなければならないし、失わない為にももっと強くならねばない。
この関係が元来の竜と逆鱗の関係とはまるで違うことを、彼は知らない。
「分かってるよ。分かってるから……もっと強く抱きしめて」
「……ああ。分かった」
震える思春の体を抱きしめながら、一刀は彼を襲う眩暈に耐える。
あまり時間は無い……彼が本当の逆鱗である劉備を選ばなければ、彼は人間性を失う。
そして、そうなる前に死を選ぶように竜はできている。
もはや猶予はそう無い……もう少しで全てが変わってしまうのは目に見えているのだ。
既に彼は崩壊を始めている……人間性を失って、ただの化け物になることよりも、死を選んでいる。
愛紗はそれをさせない為に、劉備を逆鱗とすべきだとこの十年言い続けていたのだ。
彼はそれを拒絶し続け、その結果こうなってしまった。
後半年もすれば、彼は死ぬ―――人間としても、竜としても。
それまでに彼の逆鱗が思春ではなく劉備になるのならば、彼はこの世界に残ることができる。
もしも、変わることが無ければ―――彼は新たな外史に飛ばされてしまうだろう。
今まで無限に近い外史が彼を求め、その世界の者達との別離を強いてきた。
正史で肉体を失っている彼は、この世界で死ねば、以後は“世界”の輪廻で永遠にループを続けることになる。
彼に残された時間は、たったの半年なのだ。
劉備玄徳が目覚めたのは、一刀が起きた少し後のことであった。
昼間は陶謙の手伝いをし、夜は一刀の看病をしていた彼女は、彼を失うことへの恐怖とこの二週間の間戦い続けていた。
ただでさえ仕事をしながらの看病はきついというのに、精神的な負担さえも増やしてしまった彼女は大分やつれていた。
一刀にあの日拒否されたのはショックではあったが、あれには深い理由があるのを彼女は理解している。
だからこそ、彼女は彼に拒絶されたことなど少しも恐れずに、ただ彼の身を案じることができる。
これこそが、彼女の強さ―――異常なまでの精神力だ。
「あれ?……一刀、さん?」
寝惚けていた劉備であったが、不意に一刀の姿がどこにも無いことに気が付いた。
まさかあの体で何処かに行ってしまったとは思えなかった彼女は、部屋を見渡すが、やはり居ない。
そのまま少しの間考え込み―――彼女は愛紗の存在に気が付いた。
劉備と同じく殆ど寝ていない彼女ではあるが、元々そういう体質であることは分かっている。
劉備の感覚は、彼女も不完全ではあるものの一刀と同類であることを既に見抜いていた。
だからこそ、劉備は愛紗に一刀の行方を尋ねることにする。
「司馬懿さん、一刀さんは!?」
「一刀様なら、隣の部屋に行かれました。お体は大分宜しいようです」
「一刀さんの体が大丈夫?……それは嘘でしょう? あんなにボロボロになってるのに、大丈夫な訳が無いよ!」
「……貴方にはやはり隠せませんか。良いでしょう。一刀様の現状を、お話します」
本当の逆鱗である劉備は、竜である一刀の状態を正確に見抜いている。
しかし、彼女にはそういった感覚はあるものの、思春と違って知識がまるで足りない。
だからこそ、彼女はそれを欲する……一刀を救う為に。
彼が危険な状態にあることを、既に彼女は理解している……後は、その詳細を知るだけなのだ。
「まず、一刀様が竜と呼ばれる存在であることはご存じですね?」
「うん。司馬懿さんと呂布さんもそうでしょう? 二人は一刀さんと違って欠けているけれど」
「その通りです。一刀様だけが完全な竜になれる御方であり、その為には逆鱗と呼ばれる人間が必要なのです。その役目は、成長過程で人間性を失っていく竜が、それを失わないようにする為の目印と言えばお分かりいただけますね?」
「その逆鱗が、関係しているの?」
「そうです。元来逆鱗とは劉備様のように、真名に春と秋の双方を備える者でなければなりません。それを、一刀様は春しか備えていない甘興覇にしてしまった……その歪みが一刀様を殺そうとしています」
愛紗の予想では、一刀に残された時間は遅ければ後半年……早ければ、三ヶ月持つか否かである。
その間に思春を排除し、一刀の逆鱗を劉備にしなければ、彼は永遠の輪廻に引きずり込まれてしまう。
それだけは、死んでも絶対にさせたくない。
数十万の外史で世界に弄ばれ続けた彼にも、そろそろ救いがあっても良い筈だ。
愛紗は輪廻から解放されなくとも、一刀に殉ずることさえできれば良い。
だから―――彼を救いたい。
「それは―――私に、その逆鱗になれという意味なのかな?」
「流石です。簡潔に申し上げれば、そういうことになります。この世界で貴方以上に一刀様の逆鱗に相応しい御方は存在しません」
「一刀さんは、後どのくらい持つの?」
「早ければ三ヶ月、遅ければ半年です。それまでに劉備様が逆鱗とならなければ一刀様は―――死にます」
「たったそれだけ!? そんな……そんなこと――――させない」
劉備はこの世界で誰よりも北郷一刀を癒せる存在であり、彼にとっての救いだ。
偽りの逆鱗でしかない思春では彼と繋がることは叶わないが、劉備ならば可能である。
竜と逆鱗は特殊な繋がりを持ち、互いの真名を交換した時、初めてそれが繋がる。
それこそが真名の交換の始まりであったのを、多くの者は知らない。
知っているのは三人だけであり、その三人もそもそも竜の真名を知らない。
念入りに『竜の書』と『真名の書』は竜の大切な情報を隠し、完全な竜だけがそれを見ることができる。
それを知る為には、一刀本人が双方を読むしかないが、肝心の『真名の書』が何処にあるのかは分からないのだ。
『竜の書』を持っているのが思春であるのは分かり切ったことだが、『真名の書』を誰が所持しているのかは、愛紗にも分からない。
少なくとも逆鱗の真名を受け取るだけでも大分違う筈だが、最後の一押しである竜の名が分からないのだ。
それさえ分かれば、後は恋が思春を排除して終わるのだが……そうもいかないのが現状だ。
「逆鱗となるのに必要なのは、互いの真名です。一刀様の真名に関しては、とある書物を見れば大丈夫なのですが……それは二つで一つの書物でして。片方は既に見つけましたが、もう片方の行方が分からないのです」
「その書物の名前は?」
「既に手元にあるのが『竜の書』で、探しているのが『真名の書』です」
「『真名の書』……そこに、一刀さんの真名について記述があるの?」
「いえ、正確には二つの書物を完全な竜が見た時のみそれは分かるのです。私は双方を一度読む機会がありましたが、そこにそのような記述はありませんでした」
愛紗は不完全な竜であるが故、そこに書かれていた何かを見落としたのだろう。
それを一刀に読んで貰えたならば、彼が今まで苦しんでいた真名の問題も解決する。
彼は確かにこの世界の住人になれるのだ……この十年苦しんできた真名を持たない己から解放されるのだ。
だから―――愛紗は絶対に『真名の書』を見つけなければならない。
もしも見つからなければ、彼は死んでしまい、二度と会えないかもしれないのだ。
愛紗は輪廻から解放されるかもしれないが、彼はもう二度と抜け出せなくなるかもしれない。
そのようなことは彼女には許せないし、絶対にさせない。
この世界で全てを終わらせなければ、彼女が今まで重ねた数十万の別離は無駄になってしまう。
彼女が一刀と過ごして来た日々を、無駄だったとは言わせない。
「そうなんだ……それじゃあ、その『真名の書』を皆で探そう!」
「皆で、ですか? しかし甘興覇はそれを見つけても隠してしまう可能性があります」
「甘寧さんも、一刀さんには死んで欲しくない筈だよ。私が逆の立場なら、そんなの嫌だから」
「彼女は劉備様とは違います。こうなると知っていながらも、今まで一刀様に甘えていただけでした」
「でも、寝込んでしまう程思い詰めていたのなら、話せば分かってくれるかもしれないでしょう?」
劉備の言葉は確かに正しいかもしれない。
思春は一刀に死んで欲しいなどとは思っていないし、できれば生きていて欲しい筈だ。
しかし、劉備を逆鱗に据えなければ彼が生き残れないのならば、話は別であろう。
彼女を殺さなければ、一刀を救うことはできない。
元々は恋にそれをして貰う筈だったが、それも難しいかもしれない。
彼女は一刀に嫌われることを嫌がり、彼の為に己を犠牲にすることができない可能性がある。
愛紗にはできる……一刀にどんなに嫌われようとも、拒絶されようとも、彼の為に己を犠牲にすることができる。
そういう意味では、思春を殺すのに最も適しているのは愛紗か太史慈――知華であろう。
二人は一刀の為ならば血も涙も無い冷血となることができる……例え一刀が悲しんでも、彼の為ならばそれを行える。
彼が輪廻に永遠に弄ばれることなど許さないし、彼女がさせない。
「はぁ……分かりました。それでは、一度話してみましょう」
「ありがとう。今はまだ話せないけれど、甘寧さんが元気になったら話そう」
「それまでに皆に『真名の書』を探し始めて貰いましょう」
「うん、そうだね。時間は少ないから、一刻も早く探し始めないと」
竜とは元来逆鱗以外とは繋がりを持たないものだが、北郷一刀という竜は例外だ。
彼の周りには実に多くの者が集い、その優しさに惹かれ、彼を愛する。
確かに彼は恐ろしい存在かもしれない……人間にとってはまさしく天災の如きその力は恐怖の対象であろう。
それでも―――この陣営に居る皆は彼の為に動いてくれる筈だ。
ある者は愛する彼を死なせない為に、ある者は兄貴分である彼の為に、ある者は師である彼を失わない為に、彼を救おうとするだろう。
彼は居なくて良い存在などではない……確かに、ここに居る皆の心の深くに根付き始めている。
皆が彼の下に集うのは彼が竜だからではなく、彼が北郷一刀だからなのだ。
その眼に皆が吸い込まれそうになるのは彼が竜だからではなく、彼が北郷一刀だからだ。
彼が竜だから付き従っている者など誰一人としていない……愛紗も完全な竜が居ても、それが彼でなければ従うつもりなどない。
彼だからこそ皆は傍に集まり、その心に彼を刻んでいくのだ。
だから―――皆が動き出すのにそう時間はかからない。
「まださようならはしたくないもん。だから――頑張ろう」
「はい、劉備様」
彼を救う為に世界が動き出したのは間違いない……愛紗の世界と“世界”が最後の戦いを行うのだ。
甘寧興覇か、劉備玄徳か……そのどちらが逆鱗として生き残るかで全ては決まる。
一刀を死なせなどしない……絶対に愛紗は“世界”に勝ってみせる。
彼女は、その為に関羽雲長という名を捨て、更には人間すらも捨て竜になったのだ。
絶対に守り切って見せる―――最愛の主を“世界”などに奪わせはしない。
「成程、曹操達が動いたか」
「はい。それでですね……あの……」
「ああ、思春のことは気にするな。そのまま続けてくれ」
一刀は彼に抱きついている思春をちらちらと見ながら気まずそうにしている孔明に、続けるように言う。
思春のこういう姿を見るのは初めてだろうから、仕方のないことではある。
ジト目で孔明を見ている思春にも問題はあるが、そこは勘弁願いたい。
あれから思春は一刀にべったりで、何処に行く時も彼と一緒に居たがるのだ。
一刀が行く処には絶対についていくし、自分が行く処には絶対に彼をつれていこうとする彼女は、実にいじらしい。
できれば二人きりの時間を邪魔する者を睨むのは止めて欲しいものである。
一刀も劉備の家臣である已上は仕事があるし、孔明達を育てることも忘れてはいけない。
関羽と張飛は既に武以外のものは大凡完成されてきた為、愛紗に任せて一刀は現在孔明、士元、呂蒙の教育へと移行を始めている。
孫権の教育に関しても滞りなく進めているので、後半年もすれば孫権は王としての準備は完了する筈だ。
「はい……曹操さん達は劉協様を保護したことを利用して、袁紹さんに降ることを求めているようです」
「成程。そうなれば北東側は公孫賛と陶謙しか曹操の敵が居なくなり、しかも大量の兵力と物資が手に入る。帝を利用されては、袁紹も頷かざるを得ないだろう」
「この交渉……というよりも脅迫は北郷さんの予想通り、確定してしまうと思います。公孫賛さんには、既にもしもの場合の退路の確保を進言しておきました」
「ふむ……袁紹も公孫賛の退路を確保してから曹操の下に下る筈だ。二人は仲が良かったからな」
「その筈です。ですから、そのことに関しては問題ないかと」
一刀は袁紹の能力を曹操が生かし切れるのか不安を感じずにはいられない。
多くの者にとって、袁紹は大した才能も無い能無しだと思われがちだが、それは違う。
能無しがあそこまで大きな勢力を纏め上げ、高い練度を保てる筈が無い。
曹操が戦では無く、こうして帝を利用することでしか彼女を降せない程に、その力は強大なのだ。
公孫賛と袁紹は別々の勢力ではあるものの、実際は同志とも呼べる仲間だ。
冀州と幽州を治める二人の戦力は、曹操の持つ戦力の三倍以上であり、正面から戦っても勝ち目はない。
流石の曹操も真正面からぶつかるのは無理だと悟ったようだ。
「孫策達は動いたか?」
「はい。袁術さん達を騙し討ちしたようです……袁術さんはあまり有能ではありませんでしたが、決して暴政を敷かないひとでした。これはあまり良いことではありません」
「あの地域に関しては、豪族が力のある者に付き従う風潮がある……そのようなことは気にしないだろう。孫策達もヘマをやれば見捨てられるがな」
「呉に関しては、一度一新しないと天下三分の計に支障を来すのでは?」
「それも孫策達がやってくれると良いのだが……まぁ、無理だろうな。孫権に任せるしかない」
孫策達は侵略に関しては孫権など及ばない程に巧みだが、内政に関しては孫権の方が圧倒的に上だ。
力さえあれば良いのはある意味単純明快で良いが、いつまでもそのままでは呉は育たない。
もっと協力的になってくれなければ、呉の成長速度は上がらないだろう。
孫権に一新して貰わなければ、そこはどうしようもない。
一刀がするのは簡単なことだが、それでは意味が無い。
孫権が己の手でそれを行ってこそ、一刀が今まで彼女を教育ことに意味が生まれる。
そこで彼女にさせずに彼自身が行ってしまえば、孫権を教育する必要など無いではないか。
彼は王を従える王であって、人々の王にはなるつもりはない。
「さて……陶謙が倒れたと聞くが、容体は?」
「……あまり良くないそうです。このままでは長く持たないと聞きました」
「そうか……では、曹操に張三姉妹を手土産として渡して荊州に行くしかないな」
「悪戯に曹操さんの戦力を奪わない為にも、それが宜しいかと」
「ああ、そうだ……曹嵩の居る場所は分かっているか?」
曹嵩さえ救えば、曹操に無駄な殺戮をさせることは無くて済む。
青洲に残る大量の黄巾党を、張三姉妹を上手く利用して曹操が手に入れるのならば、一刀はそれで良い。
曹操がそちらに気を取られている間に彼らは荊州に向かうだけだ。
その際に追撃させない為にも、彼は曹嵩を助けるつもりでいる。
母親を助けた者を追撃するなど、それこそ評判が大きく落ちるのは必至だ。
恩を仇で返すことは今の時代では珍しくないが、だからといって皆がそれを平然と受け入れることができる訳ではない。
人間の大部分は弱い……そう簡単に全てを割り切れる者など、少ないのだ。
それを理解しているからこそ、一刀は曹嵩を救う。
「はい。ここから数理程先に別荘があるそうです。地図はこれです」
「ふむ……これは孔明が描いたのか? 良く描けているな」
「は、はい! 司馬懿さんに教えて貰った書き方を参考にしました!」
「そうか……流石だな、孔明。お前さえ居れば劉備も安泰だ」
「あわわ!? お褒め頂けるとは、あ、ありがたき幸せです!!」
慌てながらも、嬉しそうにする孔明の姿と、それを見て更に不機嫌になる思春に一刀は思わず苦笑する。
孔明は純粋に一刀の能力を尊敬し、師として仰いでいるだけだ。
それにさえも嫉妬を抱いてしまう思春の独占欲の強さには、彼もお手上げである。
孔明にとって、一刀は目指すべき目標の一人であるのだろう。
彼女は最初こそ彼に不信感を抱いていたものの、劉備達の態度や彼の能力から、いかに彼が優れているかを理解した。
その後は、純粋に師として彼を仰ぎ、そのまま教育を受けているのだ。
今まで自分よりも能力がある者と出会えなかった彼女は、漸くその存在に出会い、急激に成長している。
士元もまた、はっきりと役割を分担したことで、孔明の影に隠れずに独り立ちを始めた。
劉備の下に集った者達は、確かに成長し、一刀の必要無い強固な蜀の実現を可能にし始めている。
「そう堅くなるな。お前の能力は俺よりも上だ。感謝しなければ罰が当たる」
「そ、そんなことはありません! 北郷さんは本当に素晴らしい先見の明と内政の力をお持ちです!」
「内政に関しては荀彧の方が上だし、先見の明に関しては、愛紗の方が上だ」
「司馬懿さんも確かに素晴らしい能力をお持ちですが、やはり北郷さん程の柔軟さはありません」
思いの他高く評価されたものだな、と一刀は苦笑するが、孔明は退かない。
実際彼の思考の柔軟性は驚くべきものであり、内政に関しても彼はある意味荀彧文若や荀攸公達を上回る。
内政特化型である二人をある点では上回り、ある点では下回るのが彼だ。
基本的に何でもできる孔明と周瑜をそのまま上位互換にしたような存在である彼は、まさしく彼女にとって目指すべき目標なのだ。
孔明は確かに何でもできるが、内政に関しては荀彧には勝てないし、軍略では士元に勝てない。
全ての分野に精通し、その中でも内政を最も得意としながら、彼女はそれでさえも負けているのだ。
そんな孔明の真なる価値は、内政でも軍略でもなく、流れを予測する先見の明にある。
あらゆる分野で次点になるという状況下でも彼女が臥龍と呼ばれているのは、この未来予測の能力が非常に高いからだ。
実際、彼女は一刀が描く未来図を誰よりも早く、深く理解した。
その天性の先見の明を持つが故に、彼女こそが彼の後を継ぐ蜀の中心的な軍師となるのは既に決まっている。
「それよりも、陶謙の部下に怪しい動きはあったか?」
「はい。そろそろ動き出しそうとしていますが……狙いは曹嵩殿のようです」
「やはり、か。曹嵩が曹操の下に向かうのはいつだ?」
「確か、今日の昼頃に出発する筈です」
孔明は最も情報を重要視する軍師であり、一刀が彼女に程遠志の部下を与えたのは大成功であった。
愛紗と思春によって鍛えられた細作は、武は将には及ばないものの、隠密の腕と生存力に関しては間違いなく大陸一だ。
その細作部隊を孔明が手に入れたのは、大変良いことだ。
一刀が想像していた以上に孔明は多くの有益な情報を細作に集めさせていた。
この二週間で彼女が得た情報は竹簡に纏められており、その膨大な量に一刀は思わず感嘆してしまう。
彼でもここまで集めるのは難しいことを考慮すれば、もう及第点処か御の字だ。
情報収集に関しては彼が孔明に教えることなど、もう無い。
「今日か。あまり時間が無いな……俺が出よう」
「北郷さんが? 他の誰かでも事足りるのでは?」
「そうかもしれないが、もしものことがあっては困る」
「……分かりました。桃香様達には、北郷さんが出た後に伝えておきます」
「流石だ。話が早くて助かる」
一刀は不安げに彼の手を握る思春にそっと笑いかけながら、孔明の聡明さに感心する。
倒れて病み上がりである彼がいきなり曹嵩を助けにいくことを劉備達は了承しない。
だが、曹嵩を陶謙の部下の暴走で殺させてしまえば、曹操が徐州に攻め入る理由ができてしまう。
それをさせない為には、確実に曹嵩を助けなければならないのだ。
まだ曹嵩が生きていれば、陶謙の部下の暴走であったことを証明するのは不可能ではない。
しかし、それすらも失えば、曹操は完全に徐州を食らいに来る。
その先に待っているのは虐殺であり、曹操は徐州に百年の恨みを残してしまうことになるだろう。
「午前中には出る。劉備達にもしもの時は動けるように準備をしておくように伝えておいてくれ」
「御意。兵糧などの確保と荊州の劉表殿への連絡をしておきます」
「ああ、頼む。陶謙には悪いが、ここでまともにやり合える戦力があっては、徐州は徹底抗戦してしまうだろう。それでは死者が出過ぎる」
「心得ています。すぐに動けるように愛紗さん達に話をしておきます」
「先ずは士元と呂蒙に話を伝えておいてくれ。その上で、どう関羽達を動かすのかは決めると良い」
静かに立ち上がる一刀は、その腕に抱きついている不安げな思春を、絶対の自信で見返す。
孔明に後を頼みながらも、彼は思春がそこまで不安に思う理由を大凡理解していた。
彼の体も心もそう長くは持たない……半年持てば御の字であろう。
しかし、彼は動かねばならない。
彼が居なくとも劉備軍は強大かもしれないが、その規模自体はあまり大きくない。
袁紹を呑みこめば、曹操の勢力はこの大陸で最大の勢力となるのは明白だ。
それに立ち向かって勝てない訳では無いが、徐州に大量の殺戮が降りかかるのもあり得る。
もしもそうなれば、彼は最悪曹操を殺さなければならない。
軍どころか民さえも虐殺した王などに天下三分の計の一旦を任せることはできない。
民は恐怖し、憎み、新たな戦争の火種を生むことになるであろう。
無駄な火種を生まずに済むのならば、それに越したことは無い。
いかなる理由であっても、曹操が虐殺を起こす要素は削らねばならない。
「思春、止めても無駄だ。俺は行くよ」
「でも、お兄ちゃんの体は……私のせいで……」
「思春のせいなんかじゃない。俺が……俺が弱いからこうなったんだ」
「お兄ちゃん、私は本当は―――」
「―――何も言うな」
思春は確かに一刀を独占したいとは思っているが、彼に死んで欲しいとは思わない。
彼女は確かに“世界”の残光ではあるが、同時に一人の人間でもあるのだ。
“世界”の望む通りに、北郷一刀を永久の輪廻に閉じ込めるつもりはない。
もしも彼が拒めば、彼女はその命を投げ出して終焉を迎えるだろう。
彼女は確かに偽りの逆鱗であり、本物の逆鱗である劉備には敵わない。
北郷一刀の逆鱗となるべきは劉備であって、彼女ではないことも漸く自覚した。
それでも―――彼女は一刀の逆鱗でありたい。
逆鱗でありたいからこそ、苦しいのだ……己が偽りの逆鱗でしかないことが。
春を思う者でしかない彼女は、真なる逆鱗にはなれない。
春と秋を併せ持ち、人間との繋がりを失わないことを意味する真名を持つ劉備には勝てない。
春だけでは竜は人間とのつながりを失うことで人間性を失ってしまい、自殺する。
秋だけでは竜になれないが、春だけでは竜を自殺させてしまうのだ。
それを知っていながらも一刀の逆鱗に収まろうとした思春は―――卑怯だ。
「思春、俺は信念よりも命を大事にするのが悪いこととは思わない。だが――俺は殉ずることができないのは嫌だよ」
「そう言って貰えるのは確かに嬉しいよ? 嬉しいけれど……どうしようもない馬鹿だよ、お兄ちゃんは」
「ああ、俺は大馬鹿野郎だ。だから、思春はいつでも俺を捨ててくれて良い」
「……できないことを、知ってる癖に」
だが、一刀はその卑怯さすらも受けいれる。
彼は弱さを責めないし、断罪しようとはしない……ただ、強く在れと言うだけだ。
確かに彼は劉備の理想の危うさを、覚悟の足りなさを何度も指摘して、彼女を成長させてきた。
しかし、それは劉備が己で成長したのであって、彼はただ彼女を追いこんだだけだ。
劉備は己で成長していける強さがある。
しかし、思春にはその強さは無い。
一刀という存在に依存し、彼の求めに応じることでしかその成長はあり得ない。
故に、一刀が彼女を拒絶しない限り、彼女は一刀を諦めることができないのだ。
彼を生かす為には、劉備を逆鱗に据えるしかないというのに、彼女は自分がそこから外れてしまうのが怖い。
そんな彼女すらも一刀は受け入れ、そして己で抱え込んでしまう。
彼の心身の崩壊は、他者に甘く、己に厳しいその歪さが生み出した結果であり、同時に思春のかけた呪いが生み出した結果でもある。
一刀が変わらなければ、思春も変われない……しかし、思春が変わらねば、一刀が死ぬ。
彼女は決意せねばならない―――愛する者を生かすか、己のイドを満たす為に殺すかを。
「思春、選ぶのは君だ―――君が、決めろ」
「……酷いひと」
「まったくだ。俺は本当に酷い男だよ……だが、君が選ばなければならない。今まで逃げ続けた代償だ」
「そう、だよね……すぐには出ないけれど、考えておくね」
思春は今まで逃げ続けてきた……だから、自分で決めなければならない。
一刀の逆鱗のままで彼を看取るのか、それとも劉備にその座を譲ってしまうのか。
彼女が選べなければ、彼が決めなければならない……そして、それは既に決まっている。
思春に殉ずることを選んでいる彼に生きて貰うには、彼女が彼を拒絶するしかない。
一刀は強く在ろうとし過ぎる嫌いがある。
皆に完全性を求めず、自分も完全な存在ではないと公言しておきながらも、完全であろうとする。
竜も完璧ではない……だから、流されても良いのだ。縋っても良いのだ。死を恐れても良いのだ。
それすらもできない彼は―――まるで機械のようだ。
「……恋。そこに居るんだろう」
「……ご主人様」
「なっ!?……呂布、貴様聞いていたのか!?」
「……今着た処」
不意に一刀が角に向かって声をかけたかと思うと、恋がそこから現れた。
彼女に今までの話しを聞かれていたのかと驚く思春であるが、恋はそれを否定する。
だが、その眼が思春を非難するように鋭く細められていることから、聞いていたことは容易に分かる。
一刀も思春の彼女の存在に気付くのが遅れたのは、双方が衰弱しているからであろう。
いつもの一刀ならばもっと早く気付けたし、思春も同じだ。
一刀は残り半年という短い時間の間も、歪みによってその力を存分に揮うことはできない。
今までも全力を出したことなど一度たりとも無かったが、それ以下の力しか使えない可能性すらあるのだ。
しかも、不定期に訪れる吐血は彼を行動不能にさせるに違いない。
恋が思春を非難するような眼で見ているのは、その原因が彼女だと理解しているからだ。
恋には難しい話は分からないが、本質を理解することはできる。
要は一刀を助ける為には甘寧興覇は邪魔で、そこに居るべきなのは劉備だということだ。
飼い主である一刀を助ける為ならば、彼女は喜んで彼に嫌われるだろう。
確かに彼女は愛を失うのは怖いが、一刀を失うのはもっと嫌だった。
「済まないが、俺が居ない間の留守を任せる。二、三日で帰って来るつもりだが、何が起こるかは分からないからな」
「うん。大丈夫……皆、恋が守る」
「頼むぞ……お前のその武は壊す為ではなく守る為に使うんだ」
「分かっている。だから……待ってる」
「ああ、待っていろ。すぐに戻る」
竜と竜の間には、逆鱗と竜の繋がりとは違う何かがある。
誤解というものがまるでそこにはなく、互いの意思を直接理解できるその何かは、竜どうしの結束を強める。
竜どうしの戦いがまさしく天災に匹敵するが故に、そうやって彼らは戦わないようにしてきたのだ。
竜と竜が戦えば、その場所は地図を書き換える必要が出てくる。
出来損ないの竜でさえも、数万を一人で相手取ることが可能なのだから、無理は無い。
その氣で以て全てを切り裂き、土を削り、水の流れを新たに生み出すことすら竜は可能なのだ。
増してや、もしも完全な竜どうしが本気で戦えば一国が滅びることすら予想される。
一刀の氣刃は消耗などを考慮していつも長さを一里に留めてあるが、あれはその気になれば数理先まで伸ばすことも不可能ではない。
一瞬で数理という範囲を切り裂けば、地形が変わるのも納得できるであろう。
氣刃の切れ味は、まさしく全てを切り裂くことすら可能なレベルで、大地すらもそれには抗えないのだ。
「帰ってきたら、ご褒美をやろう。期待して待っていろ」
「……うん」
「お・に・い・ちゃ・ん?」
「いや、思春、これはだな……」
「ご主人様、嫌がってる……甘寧、止める」
「お前は黙っていろ」
一刀のご褒美という言葉に顔を赤らめながら頷く恋を見た思春は、笑顔のまま一刀を問い詰める。
そんな彼女に一刀が嫌がっていると言って更に目を細める恋と、思春の視線がぶつかった。
二人の間で火花が散っているように見えるのは恐らく気のせいではない。
一刀はこの空気の居心地の悪さにどうすれば良いのか分からなくなる。
彼は基本的に修羅場を見たことはあっても、体験したことは初めてなのだ。
まさかここまで心苦しいものであるとは思わなかった彼は、以後修羅場に遭遇しないことを密かに願う。
人の心は謎だ……己の心ですらそうなのに、他者の心まで分かる筈が無い。
恋はその気になれば一瞬で思春を殺せるし、思春では恋を殺すことは不可能だろう。
本物の天才である恋は、一刀にすらついていける程の武と野性を持つ。
その野性の前では、武を越えなければいかなる攻撃も届き得ない。
しかし、彼女の武を超える武など一刀以外には持たない―――故に、彼以外には彼女は殺せない。
「……フッ」
「おい、その顔は何だ?」
「所詮偽物……竜の絆には届かない」
「!! 出来損ないの竜の分際で、良くも――!!」
「喧嘩はそこまでにしろ。俺を失望させてくれるな」
一刀はこの状況にイライラしながらも、二人を止めた。
罵言をぶつけ合う暇があるのならば、すぐさま曹操の侵攻に備えておいて欲しいのが彼の本音だ。
曹操は必ず袁紹の戦力を吸収した後に徐州に来る……その時すぐに後退できるようにしておかなければ、後は無い。
荊州に向かう為には曹操の領地を突っ切ることになるのだから、必ず追撃の手が来る。
曹操は確かに真面目で、借りがある場合はそれを返すだろう。
だが、その部下が独断で一刀達を追撃してくる可能性もあるし、本人が義よりも利を優先する可能性もある。
曹操は覇道の為に己を捨てることを選んだ人間であり、ある意味人間味の薄い王だ。
もしかしたらを想定しておかなければ、相手にするのは難しい。
張三姉妹無しで青洲に居る黄巾党の残党を纏め上げるのは難しいが、それでも曹操はそれを行っている。
だからこそ母である曹嵩を迎え入れるだけの力を不完全ながらも得たのだ。
そこに張三姉妹と曹嵩の無事を与えてやれば、曹操は追撃する暇など無い。
「ご主人様……ごめんなさい」
「お、お兄ちゃん……ごめんなさい」
「分かれば良い。俺達にはあまり時間は無い……気を引き締めてかかれ」
「「御意」」
一刀の知る史実では曹操は青洲兵を手中に収めた後に曹嵩を招いた筈だ。
それが、青洲がまだ不安定な状況で曹嵩を迎え入れるのは元来おかしいことであろう。
史実とは違い、既に帝を抱え込んでいるからこそできたのだろうが……それでも、おかしい。
それ以外に曹嵩を迎え入れるのを早める要素があったとすれば……それは一刀達なのかもしれない。
劉備軍は史実とは異なり、余りにも強大になり過ぎた。
規模こそ五千幾何ではあるものの、その練度や武将の質を考慮すれば、既に袁紹や曹操の及ばぬ領域にあると言って良い。
関羽、張飛、太史慈、呂布、北郷一刀という絶大的な武を誇る五人の将に加え、諸葛亮、龐統、司馬懿、呂蒙という大陸屈指の頭脳まで居るのだ。
一刀と呂布――恋には数万の軍を一人で殲滅した実績がある。
それを考慮すれば、この二人が同じ場所に居るだけで数万の軍に匹敵する戦力があると考えられるだろう。
更に、今はまだ表には出していないが、華雄と賈詡という隠れた将と軍師も居る。
密かに一刀が確保しておいた董卓と賈詡の存在は、更に劉備軍を強大にすることとなった。
これ程の戦力が徐州に居たのでは、曹操も曹嵩をすぐさま呼び寄せるしかあるまい。
「お前のせいで怒られたぞ……」
「甘寧のせい……恋は本当のことを言っただけ」
「……二人共、俺の話を聞いていたか?」
「「うっ……」」
放っておくとすぐさま険悪なムードになる二人を悩ましく思いながらも、一刀は曹操の出方を予想する。
袁紹を吸収するのは今からでなくとも可能であり、徐州で陶謙の部下が曹嵩を襲えば、例え曹嵩が生き延びても曹操は好機と見て徐州に兵を向けるだろう。
その際に張三姉妹を曹操に手土産として渡した上で、劉備軍は荊州へと向かう。
徐州に曹操が来ることを見逃し、青洲兵を纏める鍵である張三姉妹を渡す代わりに、豫洲を通らせて貰うのだ。
ここで追撃をかけてきたならば、一刀は喜んで曹操の戦力を奪うだろう。
殺すのではなく、文字通り奪うのだ……それが彼にはできる。
彼は王を従える王であり、真の逆鱗である劉備を除いて、彼以外の王に負けることはあり得ない。
彼は他者の心の中に居る王を書き換え、我が物とすることが可能なのだ。
一刀はまだ彼自身の軍を持たないが、そろそろそれを手に入れても良いかもしれない。
「思春は程遠志と共に細作の準備を、恋は陳宮と共に遊撃隊の準備をしておいてくれ」
「うん」
「分かった……ご主人様の言う通りにする」
「頼むぞ。俺は……腐敗を焼切ってくる」
竜は腐敗を許さない。
一刀は弱さを責めはしないし、できる限りそれを克服させるように動く。
だが、それにも限界があるのは、竜が完全ではない証拠であろう。
彼は己の利にならない者を助けたいと思う程優しくはないし、そうあるつもりもない。
全員を救いたいのならば、神にでもなれば良いのだ。
彼は現実的で、救える者のみを救い、救いたい者のみを救う。
どんなにその基準が他の者よりも緩く、劉備と同じ理想を持つ者だとしても、やはり選り好みはしているのだ。
全てを受け入れることなど、人間にも竜にもできはしない……だから、選ぶしかない。
そして、彼は今回も救う人間と排除する人間を選ぶのだ。
それは劉備の理想に反しているかもしれないが、実際正しい。
より良い未来を目指す時点で選好みをしているのは明白であり、選好みしなければ皆生きていけない。
腐敗と選好みは違う……だが、新しい風が入らないことは同じであろう。
世界は王朝が滅びて新たな王朝が築かれる、の繰り返しであり、永遠の平和はあり得ない。
それでも、少しでも長い平和を望むのは罪か?―――否、罪であって良い筈が無い。
「それでは―――行ってくる」
人間は幻想の中で生きている。
互いを理解できない故に、こういう人物だという幻想を心に抱いて互いに相互関係を持つ。
それは酷く脆いものだが、この幻想を否定すれば人間は共に生きていけないものである。
独りで生きられる程強ければ構わないが、そのような人間など居ない。
幻想を捨てるのは、現実を捨てることと同義だ。
だから、例え幻であっても……劉備は平和を求めている。
平和を求める心を失ってしまえば、平和は永遠に訪れないで、混沌だけが残るのだ。
確かに限りなく不可能に近い願いだが、求めなければその可能性は零だ。
限りなく零に近い可能性を零とするか、零ではないとするかの違いである。
そして、一刀ならば――その零を限りなく百に近づけることもできる。
慈愛と恐怖と秩序が揃ってこそ、長年の平和は成り立つのであり、一刀はその秩序と恐怖を担う。
限りなく零に近い可能性を求めることができてしまう劉備ならば、残る慈愛を担ってくれる筈だ。
彼女は強い……だからこそ、彼女が王となり慈しむ。彼が竜という暴風であり続け、恐怖と秩序を齎す。
生きて夢を追うのが罪ならば―――彼は喜んでその罪を背負おう。
かたり、かたりと馬が歩くのに合わせて揺れる馬車の中で、曹嵩巨高は物思いに耽っていた。
彼女が現在向かっているのは兗州に居る娘の下であり、漸く落ち着いてきた娘からの招待に応じたのだ。
その際に陶謙から護衛をつけられたのは実に有難いことで、非常に助かる。
娘である曹操孟徳から護衛として曹仁子孝と許褚仲康が派遣されたのも助かるが、やはり護衛は多い方が良い。
実は寂しがり屋な曹操は本当ならば曹嵩にもっと多くの護衛をつけたかったに違いない。
しかし、袁紹の戦力を吸収し、青洲の黄巾党を手懐けようとしているのだから、あまり多くの戦力を回せはしない。
だからこそ、あまり目立たないものの素晴らしい実力を持つ曹仁と許褚が選ばれたのだろう。
「巨高様、御加減は宜しいですか?」
「ええ、御蔭様で非常に快適な旅になりそうだわ」
「巨高様がそう言ってくれるなら、ボク達も嬉しいな! ね、子孝さん!!」
「そうですね、仲康さん。子龍さんと公達さんも逆方向を目指している筈なのに、態々ありがとうございます」
曹仁は左側で金髪を纏めており、胸があるなどの差異はあるものの、大凡は曹操と同じ姿だ。
それ故に、その胸の差異が目立つのは仕方のないことであり、密かな曹操のコンプレックスであったりする。
そんな彼女が謝意を込めた礼をした相手は、まさしく彼女達にとって行幸となる存在であうる。
常山の昇り竜こと超雲子龍と、内政においては荀彧文若と並ぶと荀彧本人が認めている荀攸公達が曹嵩の護衛を手伝ってくれているのだ。
二人は徐州に居る劉備に謁見を求めていたそうだが、向かう方向は逆なのに、潔く護衛の手伝いをしてくれた。
一騎当千と名高い超雲と大陸屈指の頭脳である荀攸が助けてくれるのならば、まさに千人力である。
「お気になさらず。我々もそこまで急いではおりませぬが故」
「曹操様が次に攻めてくるのは間違いなくここですよ? 巨高様を人質に取るくらいはできるのでは?」
「そのような手は下の下です。私ならば曹巨高殿本人に取り入るでしょうね。曹操殿の歪みを利用させて貰うまでですから」
曹嵩達には、何故二人が敵方である曹操の母である曹嵩の護衛を手伝うのか理解できない。
しかし、この二人は嘘をついて誰かを陥れるようなものではない筈だ。
そのような者を劉備と北郷一刀が受け入れる筈など無い。
もしもそのようなことがあれば、劉備陣営は崩壊の危機にあると言って良いだろう。
荀攸公達は、頭の回転が速過ぎる。
曹操の持つ歪みなど曹仁達でさえも理解できていないのに、それをたった一度しか曹操に出会っていない彼女が見抜いているのは中々に不気味だ。
この不気味さ故に、荀攸はその能力を存分に揮う機会が無かったが、その相手が漸く見つかった。
それこそが北郷一刀であり、彼の噂は曹嵩さえも良く知るものだ。
その圧倒的な武はかの無双と謳われた呂布をねじ伏せ、相当な知も併せ持つと言われている。
どの程度のものなのかは噂では分からないが、劉備軍の中枢を担っているのは間違いない。
彼を攻略できなければ、劉備軍を攻略することは不可能であろう。
そんな彼が居る劉備軍に向かっている二人が、曹嵩の護衛をしているという事実は、実に恐ろしい。
「あの子の歪み、ね……公達さんは本当に聡明ね」
「はい。この頭脳を生かせる人物はこの世界にただ一人しか居ないと自負する程度には」
「あ~……このように少し傲慢の気はあるが、公達殿は決して悪い者ではござらぬ。無礼をお許しください」
「娘で慣れているから、大丈夫よ」
実際問題、曹嵩は娘である曹操が事実しか言わない人間であることに慣れている。
曹操は間違いなく天才であり、能力を正当に評価できる人間だ。
故に、己がいかに高い能力を持っているかを知ってしまっている……多くの者を泣かせたその才能は彼女を孤独にしている。
余りにも完璧に近い能力は、彼女を一人の人間ではなく王にしようとするのだ。
王は寛大で、しかし公平であらねばならない。
腐敗を完全に切り離し、完璧なシステムを構築して国を運営するという点においては、曹操は北郷一刀の次に王に相応しい人間であろう。
しかし、彼女も人間である以上は一刀のように強くあることは叶わない。
竜でさえも揺れるのだ……人間である彼女が揺れない訳も無い。
荀攸が言った曹操の歪みとは、その心と能力の齟齬である。
曹嵩も分かってはいるが、曹操を止めることは彼女には叶わない。彼女では止められない。
曹操は余りにも真面目で、余りにも完璧に近く、曹嵩では同じ目線に立てないでいる。
だから、彼女では曹操を変えられない。
彼女では、心の痛みを隠しながら、己を殺しながら覇王になろうとしている娘を止められないのだ。
「それは良かった。ここで公達殿が罰せられては――」
「えっ?」
「我々の行いは仇で返されることになる訳ですからな」
趙雲はニヤリと笑ったかと思うと、不意にその赤い槍で何かを弾いた。
その何かは、もしも趙雲が弾かなければ間違いなく曹嵩に直撃する軌道を取っており、その存在に趙雲以外はまるで気づいていない。
否……荀攸だけは、その冷たい眼で静かに辺りを見渡して何かを確認している。
その直後にぞろぞろと現れる兵達の姿に、すぐさま曹仁達は身構えた。
陶謙のつけた護衛も皆驚いていることから、この伏兵達が陶謙の差し金でないことは容易に分かる。
しかし……ならば、いったい誰がここまで詳しい行き先を知っている?
その答えは一つ―――陶謙の部下の誰かだ。
「敵襲ね……しかし、何処の誰?」
「数は二百程……よくもまぁ、たった数十人を相手にここまでの戦力を集めたものです。それでも不十分ですけど」
「公達さん? まさか貴方はこれを――」
「ええ、読んでいました。だからこうしてここに居るのです。子龍殿、やってしまってください」
「任された……この趙子龍、この戦いを主への手土産にしようぞ!!」
趙雲子龍は昂っていた……この戦いで曹嵩を守り切れば、それが主への手土産になるからだ。
彼女が主として仰ごうとしているのは劉備玄徳であり、ここで曹嵩を守り切れば大きな手土産になる。
徐州に曹操が攻め込む理由をここで潰せば、それは最も良い土産であろう。
曹操は間違いなく今現在大陸一の戦力を持っている。
その最大戦力に攻められては、徐州など堪ったものではないし、その理由を作る訳にはいかない。
だが、何処かのバカが早まって曹嵩を殺してしまえば、あっという間にそれは現実になってしまう。
曹嵩を襲った時点で曹操は徐州に兵を向け兼ねないのだ。
そして、既にそれは現実のものとなり始めている……陶謙の部下の暴走によって。
それを止めなければ、確実に徐州は曹操に飲み込まれてしまうに違いない。
こうなることを予見した荀攸の導きに応じ、趙雲はその赤い槍を更に赤く染め上げることにした。
ここで曹嵩さえ守り切れば、その借りを利用して劉備達だけでも逃れることは可能なのだ。
「子孝殿、仲康殿……しっかりと巨高殿をお守りくだされ。私は――狩りに行く」
「了解しました、子龍殿……感謝の言葉もありません」
「巨高様はぼく達が守るから、あんな奴らやっつけちゃって!」
「いざ……参る!!」
趙雲は掛け声と共に、跳んだ。
華麗な跳躍に誰もが見蕩れる中、その手に握られた赤い槍――龍牙は緩やかな弧を描いたかと思うと、軌道上に居る物を切り裂いていく。
業物と常人の比ではない腕力、技能が一体となり生まれるその威力は、人間を容易く両断し、貫通する程のものだ。
その驚異的な威力の一撃で、趙雲は手短に居た五人を一瞬で屠った。
そのまま彼女は流れるように踊り、新たに彼女の間合いに入った者を切り裂いていく。
時に突き刺し、時に切り裂くその槍は鮮血を吸い取ることで益々赤へと染まり、恐怖を植え付けていく。
襲撃に来た筈が、逆に良い様に遊ばれている事実に、兵達は気づいた。
しかし、もう遅い……趙雲は止まらない。
驚異的な頭脳を持つ荀攸と出会い、その勧めに応じて曹嵩というエサの裏に隠れていた獰猛な獣は、止まらないのだ。
あっという間に二百も居た兵はその四分の一を失い、未だ尚趙雲の勢いは止まらない。
関羽、張飛と並び立つ武人である彼女を止めることは、雑兵二百人では叶わないのだ。
「死にたい者はかかって来い! 死にたくない者は武器を捨てて、投降しろ!!」
「ば、化け物だ……」
「こんなことが……あって良いのかよ!?」
「に、逃げ――「逃げられると思うなよ」ひっ!? お、お前はいった――ぐひゃっ!?」
「な、なんだ、こいつ!?」
趙雲の圧倒的な戦闘力に尻込みした後続はすぐさま撤退を始めようとしたが、不意に後ろから現れた何者かの鉄拳によってその頭を失った。
頭部を失った者の胴体を漆黒の馬が蹴り上げ、その射線上に居た者が纏めて倒れる。
その地獄の業火のような炎を宿す黒馬の上に乗っているのは――白い鎧を身に纏った男だった。
黒馬が一歩進む度に何かが放たれ、兵達が死んでいく。
その中心をゆっくりと進む黒馬と、その上に居る白い鎧を纏う男の存在感は別格だった。
曹嵩、曹仁、許褚、荀攸、そして今まで華麗な舞を見せていた趙雲までもが、その姿に目を奪われる。
それ程までに、その存在感は圧倒的で、余りにも異常だ。
ただただ目を離せない彼女達の前で、彼の周りに居る兵達は突然倒れて果てていく。
いったい何が起こっているのか分からない程に、彼は圧倒的だった。
何が起こっているのかは誰にも理解できていないが、それを行っているのが彼であることだけは容易に理解できる。
まさしく人外の如き力を彼から感じない者など、恐らく居ない。
「ほ……北郷殿」
「趙子龍殿か……久しぶりだな。曹巨高殿の護衛を手伝っていたのか……誰の差し金だ?」
「私です」
「!……荀公達か。久しいな」
突如現れた北郷一刀という大物に、思わず趙雲達は足がすくんでしまう。
ここまで圧倒的な存在感を感じさせる者など、彼以外には呂布奉先くらいしか居ないだろう。
その呂布さえも彼に負けたのだから、この大陸で最も強い者は彼だ。
身に着けている鈴にちなんで『鈴将軍』と呼ばれるくらいには、彼は有名人である。
実を言えば、趙雲はこの北郷一刀が苦手だ。
多くの者が彼女の能力を今まで評価してきたが、彼の評価は余りにもキツく、現実的だった。
彼女の甘さと弱さを的確についてくる一刀は、まるで彼女の全てを掌握しているようで恐ろしいのだ。
しかし、趙雲は彼の能力を高く評価しているし、嫌いではない。
ただ、彼が常に身に纏っている分厚い心の壁が不満で、ただこちらだけが見透かされるのが嫌なのだ。
まるで彼女が人心に関して鋭い勘を持つことを知っているような、あからさまな壁が彼女は気に入らない。
自分は他者の奥深くをいとも簡単に見る癖に、自分だけは見せようとしない彼が、彼女は苦手である。
確かにその能力は認めるが、その人格を好きになるのは彼女には難しかった。
「この荀攸、確かに北郷様の言いつけ通り曹操殿に会いましたが……やはり、私にとって最高の主は貴方でした」
「……そうか。ならば、拒否するつもりはない。約束通り、お前も加われば良い」
「はい! 私の真名は梅花と申します! この真名にかけて、北郷様への忠誠を誓います!」
「……確かにその真名受け取った。今後、お前は内政の主力として組み入れる。孔明の指示に従え」
「御意!」
一刀と荀攸――梅花の約束は、再会したら配下に加えても良いというものだった。
それを今彼女は満たし、彼は彼女の願いを受け入れたのだ。
一刀は元々、孔明を内政に集中させるつもりだったが、彼女の加入があるのならば、それは変わる。
軍略は士元が担当し、内政は荀攸が行い、それらを孔明が統合する……そういうシステムに書き換えられたならば、蜀はより強固になる。
荀攸公達は史実では曹操の配下であるが、この世界は既に史実に反している。
流れは大きな部分は史実通りだが、その時期などがでたらめであったりするのだ。
だからこそ、一刀は梅花を受け入れることで、更に劉備の力を強大にすることにした。
孔明の先見の明を最大限に生かし、細かい部分を士元と梅花に任せることで、より確実に劉備軍は強くなる。
梅花は内政に関しては間違いなく天性のものを持ち、そこに一刀の天の知識が合わされば、もはや内政はこの大陸史上最高のものとなるだろう。
稀代の天才が三人加わり、更にここに徐庶すらも加えたならば、劉備は怖い者無しだ。
後はその後継をどう育てていくかの段階に踏み入ることも可能と言って良いだろう。
「これはまた……面妖な光景ですな」
「正直な感想をありがとう。それで、趙雲は劉備に仕えに来たのか?」
「はい。その途中で巨高殿達とお会いしまして、公達殿の薦めで護衛していたのです」
「ふむ……梅花、お前もこれを読んでいたのか。流石だな」
「大したことではありません。北郷様もここにいらっしゃるということは、それを予見されていたのでしょう?」
梅花はいとも容易いことだと言ってのけるが、それをできる者はあまり居ない。
曹操がいかに強力な勢力を持っているかを知っていれば、普通は曹嵩を襲おうなどとは考えないものだ。
しかし、人間は時に思いがけない行動に出ることがあり、今回はまさにそれだった。
陶謙の部下が暴走するなどと、誰が理解できただろうか。
一刀達は少し考えれば分かることではあるが、それは膨大な情報量あってこそのものだ。
実際、彼は一度本当に曹嵩が襲われるのかを色眼鏡無しで考慮したが、やはり辿り着いた結論は同じだった。
これは彼が曹操、陶謙について良く知っているからこそであり、その知識が無ければこの予想はできなかっただろう。
必要な情報を得ることは、それなりの力が居る。
それを持っている時点で、普通ではないことを彼女は分かっているのだろうか?
余りにも能力が高過ぎるが故に、他者に望む最低限が高過ぎるのは、彼女の問題点だ。
そこを解決しなければ、彼女は孔明達と上手くやっていけない。
「確かにそうだ。さて……そちらは無事ですか?」
「あっ……はい。お蔭様で、巨高様も私達も無事です」
「ありがとう、北郷さん!」
「そうか……それは良かった」
一刀の異形の眼が曹仁、許褚、曹嵩を静かに見遣る。
それはまるで爬虫類の眼のように酷く鋭い筈なのに、妙な安心感を三人に齎す。
中でも、実はかつて彼を少しだけ見たことがある曹仁は酷くその瞳に吸い寄せられてしまう。
その瞳の奥に見える何かは、まるで深淵のようで、同時に限りの無い空にも見える。
主である曹操が何故北郷一刀を欲するのか漸く彼女は理解した。
彼は余りにも強く、底が無い……故に、曹操が目指そうとしている覇王の手本になり得る。
個人を殺しきれない曹操が、その苦しみから解放され、完全な覇王になる為に、彼は必要なのだ。
曹操は妙な処で高潔であろうとする己を殺そうとしている。
「曹巨高殿、曹孟徳殿にお伝えいただけませんか? この借りはいずれ返して貰う、と」
「成程……確かにその言葉あの娘に伝えましょう。命の恩人のお願いを断るつもりは無いわ」
「巨高様!? 宜しいのですか!?」
「ええ、構わないわ。それに……そうしなければ、あの娘は負けるもの。そうでしょう、北郷さん?」
「……中々どうして、曹孟徳殿の母親だけのことはありますね。巨高殿の読み通り、場合によっては――屠ります」
曹嵩が感じたものは、曹操が北郷一刀の足元にも及ばないという事実だ。
確かに知略や他の面では迫る部分、勝てる部分もあるかもしれないが、王としての器という一点において、彼女は完全に敗北している。
北郷一刀はその一点においては、曹操が赤子のように思える程に強大だ。
もはや誰も勝てないと思える程に、その武と人身把握能力は絶大的と言える。
その気になれば彼は今ここに居る曹仁と許褚を曹操から文字通り奪って自らの家臣にすることすら可能だろう。
その眼に隠している何かを曝せば、ここに居る者を皆骨抜きにしてしまうことは不可能ではあるまい。
それ程に、北郷一刀という男は恐ろしく魅力的なのだ。
まるで人間ではない……否、まさしく人外なのだろう。
その異形の眼も、その冷たさの奥に秘めている火傷しそうな熱も、全てが彼の人外さを現している。
最も特筆すべきは、その精神構造にあると曹嵩は感じている。
この余りにも違う何かは、人間には真似できない程に真直ぐで、強い。
曹操が欲しているものはこの強さなのだろう。
しかし―――この強さを手に入れてしまえば別の弱さを得ることになるに違いない。
「北郷さん、貴方は何故劉元徳さんの下に居るのですか? 私には、貴方はその程度に収まる器には思えません」
「某は、ただ劉備こそが仕えるに足る人物だと思ったまでです」
「私の娘よりも、かしら?」
「ええ、そうです。率直に申し上げますと、曹操殿は某に似ているのです。彼女が居るのならば、某は魏に必要ありません」
「成程……貴方は実に賢く、優しいわね」
曹操がもしも捨てきれない甘さを捨てきれたのならば、彼のようになる筈だ。
詰まる所、北郷一刀は言葉を濁したものの、曹操は彼の劣化版と言える存在になる。
武も知も曹操は彼に負けているし、何よりも人間的な魅力さえも、彼には勝てない。
曹操の下に集っている者達も、先に北郷一刀に出会っていれば彼の下についていた可能性すらある。
それだけならばまだ良いが、彼は曹操の影響下に居る筈の者達を奪うこともできるかもしれない。
既にここに居る曹仁と許褚はその求心力に無意識の内に吸い寄せられ始めている。
元来この状況では彼を警戒すべきなのに、二人は脱力しているのだ。
彼程の者が殺気の無い攻撃をできない筈もないし、それを考慮すれば二人は気を抜いてはいけない。
それに気を抜かせてしまう彼は、まさしく生まれながらの王なのかもしれない。
「とんでもない。優しければ、このような願いはしますまい」
「ふふ……貴方は強いわ。だから、安心して暴れてみたら如何? 私の娘のことも考えてくれているのでしょうけれど……そのような甘さは捨ててしまわれては?」
「……検討しましょう」
「貴方がこの先どのような未来を描くか、楽しみにしています」
一刀は気づいた……曹嵩の言葉の意味にすることに。
娘である曹操孟徳を降すつもりならば、手抜きをせずに本気でかかれと言っているのだ。
それをすれば、魏の戦力は壊滅に等しい状態になる上に、劉備達を成長させることにもならない。
一刀が本気を出せば、彼以外は一人たりとも必要無いのだ。
本気を出すつもりならば、彼は初めから劉備ではなく己が王として立っていた。
そんな彼に、娘を潰すならば本気で潰しに来いと言う曹嵩は中々に残酷だ。
しかし、それがいかに残酷な言葉であるかは彼女には理解できないし、一刀もそれを期待してはいない。
理解し合えないことの方が多いのだから、気にしていてはキリがない。
北郷一刀はただ言葉を鵜呑みにすることはとうの昔に止めている。
それがいかなる意味を秘めているかを理解し、自分の利害に一致するかを考慮して初めて意見を変えるのだ。
そのプロセスが余りにも迅速過ぎるが故に迷っていないように見えるが、彼はいつも迷い続けている。
「そうですか。では――――近い将来、その描いた未来をお見せしましょう」
彼は既に思春が本当の逆鱗でないことを知っているし、彼女がかけた魔法も解けている。
確かに思春は卑怯だったかもしれないし、彼の人生を滅茶苦茶にしたかもしれない。
それでも、彼女は確かに彼にとって大切なものを授けてくれた甘家の末裔だ。
彼女が居なくなれば、彼を最初に迎え入れてくれた家族は居なくなってしまう。
一刀にとって思春を失うことは家族を失うことに等しいのだ。
だから、彼は必死に彼女を守り続けようとしている……守れなかった約束を守ろうと足掻いている。
その約束の為に己が死んでしまっても構わないと思える程に、彼は思春と甘家に殉じようとしているのだ。
思春が拒絶しなければ、彼はこのまま殉じることを選ぶ。
ただ、彼がこの家族という呪いから解放される時が来るのだとすれば、それは思春の死のみであろう。
彼女を失えば彼は壊れてしまうかもしれないが、彼女が居なくならなければ、彼はこの地獄から抜け出せない。
それでも、彼は殉じようとするのだ―――思春が悲しまないように、笑顔で居られるように。
あの日彼を見つけてくれた彼女の、太陽のような笑顔を失わせない為に。
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蛇足感満載の話。
そろそろ桃香さんが本気を出し始める……筈(
今更ですが、この作品では一刀がチートなので、そういうのが許容できる方のみご覧ください。