ホテルといっても、中国の地方都市のホテルであるから、たいしたサービスがあるわけではない。従業員も仏頂面だ。営業用スマイル、という言葉はこの国の辞書にはないらしい。
とはいえ、スプリングのあまり良くないが清潔なベッドと、小さな書き物机に手元明かりのスタンド、バス・トイレ付き、というのが揃っているだけでも、贅沢というものだった。この国では奇跡といっていいことに、トイレの水はちゃんと流れてくれるし、シャワーからは何とかお湯が出る。温度を調節するのに、コツが要ったが。
とにかく、そんな宿でも入ってしまえば我が家も同然である。
フロントで鍵をもらって、エレベーターで部屋のあるフロアまで上がり、人気のない廊下を歩いて、部屋の前に立った。ドアに鍵を差し込む。
鍵穴に鍵を差し入れた瞬間、後頭部に強い衝撃を覚えた。
目から火花が飛び散り、瞬時に視界にシャッターが下りたように、真っ暗になった。激しい傷みと共に、秋山はその場にうずくまった。
――あの小僧…!
どういうわけか、さっき雑貨屋から飛び出してきた少年のことを思った。
あのときに秋山に押し付けたあの人形を、取り戻しにきたのに違いない。返して欲しけりゃ、そう言えばいいものを。こんな手荒なまねしやがって…。
――困りましたね、どうしたものかしら。
――こんなところまで、付いて来られるとは。…いっそ、おいて行くというのは?
――そういうわけにはいきません。これは、私たちの責任でもあるのですよ。
――では、どうしようと?
――探すしかないでしょう、出口を。
暗闇の中で、見知らぬ男女が会話を交わしていた。
女の声は、凛として涼やかに響く、どこか高貴な印象の漂う声。
男の声は、粗野に聞こえるが、優しさと強さをたたえた低い包み込むような声。
誰だ。俺を襲った連中か?
消し飛んでいく意識の中で、その声は奇妙なくらい鮮明に秋山の脳裏に焼きついた。
昏迷の帳がふいに開けると、秋山はかっと眼を見開いたまま、わが身に起こったことを順番に思い返そうとしていた。
ホテルのドアの前で、昏倒したのまでは憶えている。後頭部がずきずきと痛むのはそのせいだ。恐る恐る手を当ててみると、血が出ているわけでも、激しく腫れているわけでもなかった。少年時代にリトルリーグでデッドボールを喰らったときほどの衝撃だったのかもしれない。たいした怪我がなくてラッキーだったと思う。
そこではっと気が付いた。
ああ、手は動くのだ。足は…。
秋山はおもむろに脚を動かしてみた。大丈夫。身体は動く。まったく無事なのだ。
横たわったまま目玉だけを動かして、秋山はようやく深い呼吸を一つついた。
――俺は、物取りに遭ったのか?
ゆっくりと身体を起こして辺りを見回す。薄ぼんやりとした光の中に、キャスターつきトランクが転がっていた。
持ち手を取って引き寄せたところで、異変に気がついた。
ここは、ホテルじゃない。
そこは、安物で染みだらけのカーペットの敷かれたホテルの廊下ではなかった。少し湿り気を含んだ土の上だった。薄明るいのは天井の電灯ではなく、霧か霞で遮られた光がわずかに差しているに過ぎないせいだった。
ということは、今は昼?
――ここはどこだ!俺はどこに連れてこられたんだ!あれから何時間経った?!
意識が戻って落ち着いたのも束の間、秋山は今や完全にパニック状態に陥っていた。強盗に頭を殴られてホテルから連れ去られ、町外れの森の中に置き去りにされたのだ。やつら、盗れるものだけ盗って行ったに違いない。しかし、命までは盗られなかったのは幸いだ。いや、財布は、パスポートは、商売道具は!
秋山は震える手でトランクのキーロックをはずし、ケースを開いた。
商品のパンフレット、小型の水脈探知機、ポンプの二分の一レプリカ。若干の着替え。退屈なときに読むための司馬遼太郎の文庫本。同じく携帯型音楽プレーヤー。
薄暗い中でも、見たところ無くなっているものは見当たらなかった。きっとケースのロックを外せなかったのだ。簡単だが暗証番号とキーが必要なタイプだからだ。
とりあえず、ビジネスに必要なものは無事だった。
水脈探知機は、井戸のない土地に水脈がないかどうかを調べるためのものである。商談先で水脈が見つかれば、そこを地元に人たちで掘ってもらえばいい。
ポンプのレプリカは、パワーこそ違え実物とほぼ同じ機能持たせてあった。付属のバッテリーをつければ、かなりのパワーを出すことが出来た。
そのバッテリーも無事である。(こういう土地では、バッテリーのほうが、商品価値が高いのだ。)
安心するのはまだ早い。
背広の内ポケットや、ズボンの後ろのポケットなど、財布やパスポートの在り処を確認した。どれも無事だった。腕時計も、プラチナ製のタイピンもちゃんと着いていた。
物色された形跡は、何もなかったのである。
――何も盗られてない。どういうことだ?
秋山の混乱は収まる方向に向かいそうになかった。というより、いっそうわけのわからない事態に流されているのだ。
わかることといえば、ここは森の中らしい、ということくらいである。
もう一度落ち着いて、時計の文字盤を見た。
針は4時10分あたりを指していた。それを見て秋山は思わず吹き出した。
「こんなときアナログは!」
ははは、と情けなくなり笑い出した。アナログ時計は秋山の趣味である。可奈恵が海外出張に行くのなら、カレンダー機能の付いたデジタル時計を持って行けと言ったのを断固拒否したのだ。そういえば、喧嘩の発端はこれだったっけ。ちくしょう、可奈恵、おまえの言うとおりだったよ。これじゃ、昼か夜かもわかりゃしない。
時間の感覚が失われると、人間はとたんに不安な気分になる。自分がどこにいるのかということより、これからどうしていいのかわからなくなって、アイデンティティーさえ失ってしまったようにさえ感じる。秋山はその瞬間とてつもない孤独感に襲われ、身動きできなくなっていた。
白い空気の中に意識も身体も溶け出して、自分という存在が消えていくのではないかと思う。
――俺、帰れるのかな?
視界がぼやけてきたのは、霧のせいか、それとも…。
可奈恵、ゴメンな。俺、わけのわかんないところまで来ちまったみたいだ。こんなことならおまえの言うとおり…。
がさっ。
乾いた音が、秋山の意識を引き戻した。この世界で初めて「音」というものを聴いたような気がした。それほど、その音は明確にその存在を主張していた。
がさ。
草木の枝葉がこすれあう音。そして、何者かが近づいてくる気配。
霧の中からふいにそれは現れた。
パンダだ。
なぜ、パンダ?
しかもそのパンダ、よく見ると、左目が十文字の傷で潰れている。
そして、その背中には、小さな女の子。
「あ」
思わず声を、上げていた。
あの、パンダだ。少女はあの人形と同じ姿をしていた。
いや、そんなはずはない。あれは、玩具だ、置物だ、と頭の中で声が響く。目の前にいるのは、本物のパンダだろう?あの動物園にいるヤツ、四川省に生息しているヤツ。
じゃあ、ここは四川省の山奥なのか?
いや、そんなところに来た覚えはないぞ、と秋山の頭は、再び(いや、三度?)パニックに陥る。
じゃあ、あの少女は。
しかしその混乱は、次の瞬間、止めを刺されることになる。
「気が付いたか、異国の人」
パンダがしゃべった。いや、パンダはふつうしゃべらない。だが、声がした。人間の男の声である。しかも、日本語。
日本語をしゃべるパンダ。ありえない。秋山は、これは夢だ、夢を見ているに違いない、と思い込もうとした。声なんて、出るわけがない。さっき、頭を打ったときに気を失って、それから眠ってしまって夢を見ているのだ。そうに決まっている。
秋山は、無意識のうちに、目をしばしばとさせた。そうすれば、目が覚めるような気がしたからである
「大丈夫か?」
もう一度、パンダがしゃべった。いや、そんな気がしただけだ。そうに違いない。それはともかく、パンダはのそりのそりと、秋山のほうに近づいてきた。
大きい。
動物園で見たことのあるやつより、かなり大きい。
「ひ」
秋山は、再び気を失った。
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海外出張先で秋山が巻き込まれた【災難】。続きです。