花の冠という物を女の子なら誰でも作ったことがあるだろう。実際活発だった僕の妻でさえ作ったことがあるのだから。久しぶりにとれた休日、遠出して来たシロツメクサ畑で妻と娘は楽しそうに花の冠を作っている。無邪気な娘の笑顔に僕の疲れは癒された。たまにはこういう休日の過ごし方もいいものだなと思った。緑の多い場所を選んで横になる。草のにおいが鼻腔をくすぐる。いいにおいだ。幸せそうな二人をよそに、僕は仰向けになり、空を見上げる。青い空に、少量の雲がゆったりと移動している。五月のおだやかな気候はとても過ごしやすくて心地がよかった。時折吹き抜ける風が涼しげで、日頃の仕事疲れも相まって何だか眠くなってきてしまう。眠い頭で、妻と花冠について少し思い出す。そういえば僕も、幼稚園の時にもらったことがあるなと。
もともと引っ込み思案で、内気だった僕はいつも彼女に振り回されていた。成田綾、現在は家庭に入って落ち着いたが、当時の彼女は活発でとても落ち着きがなかった。家が近所ということもあり、僕とは幼馴染だったのだが、彼女の武勇伝は数知れない。冒険と称して隣町まで徒歩で行き、迷って帰れなくなったり、木の上に乗った子猫を助けようとして落下したりと、色々な人に心配をかけてばかりだった。僕はいつも付き添わされて、そのたびに巻き添えを食らっていた。彼女が木から落下して意識を失った時も、僕が大声で泣いて知らせなければ、どうなっていたかわかったものではない。そのくせ本人は悪気もないようで、回復した翌日にはすでに、
「冒険行くよ」
と全く懲りていないようだった。半ば呆れつつも、僕は内心で楽しんでいたのかもしれない。僕一人では出来ないような事を、平然とやってのける彼女と一緒に何かをすることを。
確か僕が花冠をもらったのは、遠足で山に行った時だった。最初は何事もなく、順調に山を登り、楽しい遠足となるはずだった。しかし、お昼休憩で弁当を食べている時、彼女が鳥を追いかけて走って行ってしまったのだ。僕はそれにぎょっとして、彼女を追いかけた。
「しあわせの青い鳥よ、あれを持ちかえれば、どんな病気も治るの」
当時の僕には何を言っているのか、さっぱりわからなかった。もともと行動も言動もよくわからなかったが、今彼女を見失うわけにはいかない。茂みの中を駆けると、靴が泥だらけになっていく。ああ、この靴お気に入りなのに。そんなことを思いながら彼女を追いかける。その時は何故か、連れ戻すことではなく、彼女を追いかけているのを楽しんでいる自分がいた。ただの遠足では、やはり満足できなかったのだろう。見知らぬ土地を彼女と冒険することに、いつの間にか僕は夢中になっていたようだ。
五分くらい走っただろうか、茂みがだんだんと深くなってきた。一体ここはどこなのだろうか。冷静に考えると、かなりまずい状況なのではないのか。そう思い始めた時、ふいに彼女が足を止めた。突然の事に彼女を追い越してしまったが、僕も止まって、荒れる呼吸を整えながら彼女に話しかける。
「どうしたの、綾ちゃん?」
僕が息切れしているのに対して、彼女は肩で息もしていなかった。根本的な体力差を感じた。
「見失っちゃった、珍しい色してたのに」
相変わらずのんきというか、彼女らしいと思えた。しかし、表情はとても残念そうだ。彼女は表情の変化がとても激しい。実に楽しそうに笑い、本気で怒ったりするのだ。そういえば、泣いているところは見たことがなかったかな。表情にあまり出ない僕とは大違いだ。ここで現実に戻ったというように、彼女がきょろきょろし始めた。
「ここどこ?」
そんなこと僕に聞かれてもわからない。ある程度予想していたとはいえ、聞きたくない言葉だった。そういえば隣町に行った時も、同じことを言っていた気がした。
「綾ちゃんがひとりで勝手に行くからこんなことになったんだ」
僕が文句を言うと、彼女はしゅんと小さくなる。普段あまり見せない悲しそうな表情の時だけ、彼女はとても女の子らしく見える。いつもの活発な様子とはまた違った、女の子らしい一面は少し、新鮮だった。
「どうしよう……。鳥も見失うし、最悪の展開だわ」
状況を楽しむかのように彼女が言った。どうしてこうもすぐに気持ちが切り替えられるのだろうか。しかし、誰のせいだと思っているのだ。半ば呆れつつも僕も周りを見渡す。……あれ、本当にここどこだ。走ってきた方角も、茂みが深くてわからなくなっていた。
「完全に迷子ね、私たち」
「そう……だね」
彼女を追いかけている時の楽しい気分は消え、不安でいっぱいになった。
「だいじょーぶ。私に任せなさい」
戦隊ヒーローが子どもたちにいうような台詞を彼女は言った。どの口がそんなことを言うのか。しかし、不安でいっぱいだった僕には本物のヒーローに見えた。
「うん」
単純にそれだけで元気になった僕は、彼女に手を引かれ歩き出した。
最初はそれでよかった。隣町に行った時も、泣きやまぬ僕の手を引いて近くの交番まで導いてくれたり、彼女はとても頼りになったのだ。しかし、今は見知らぬ山の茂みの中。近くに交番もなければ、こんな道を歩く登山者もいないだろう。三十分くらい歩いただろうか。それだけ長い間歩き続けていたが、視界は変わらず深い茂みの中だった。
「ねえ綾ちゃん、本当にこっちなの?」
あまりに不安になり、尋ねた。
「……」
彼女は答えない。ずんずんと歩みを進めるだけだった。僕の先を行く彼女の顔をこちらからは確認できない。しかし、ちらっと彼女の横顔が濡れているように見えた。もしかして、泣いているのか。僕からすれば彼女が泣いているところなんて想像できなかった。あれだけ活発で、強い彼女が泣いているなんて。だから思わず、足を止めた。
「待って綾ちゃん」
彼女の手を引く。その場に止まる彼女はやはりこちらを見ようとはしない。もしかしたら本当に泣いているのか。
「綾ちゃん……泣いてるの?」
びくっと肩が震えるのが分かった。ずずっと鼻をすする音が聞こえ、彼女が腕で顔をごしごしと擦り振り向く。赤く充血した目からは涙が浮かび、両の目から、頬を濡らすラインが出来ていた。
「泣いてない」
どうしてこうも意地っ張りなのだろう。もしかして、僕の前で弱い所を見せたくなかったのだろうか。ずずっと鼻をすすりながら、大きく息をしている。泣くのをこらえているのが一目瞭然だった。彼女の泣き顔を見て、僕の中で何かが変わった。小さくなる彼女を見た時から、彼女が女の子であることを自覚していた。僕が守ってあげないと。そう決心した僕は不安を押し殺すように、親指を突き立て胸の前に持ってくる。
「あ、安心したまえ、君が困った時にはいつでも僕が助けになるさ」
不安より恥ずかしさの方が大きくなってしまったがまあいいだろう。そんな僕の様子を見て彼女が吹き出した。
「あははははは」
おなかを抱えてひーひー言っている。何もそこまで笑わなくたっていいじゃないか。
「それ、ニジレンジャーの真似? 全然似てない」
泣き笑いで流れた涙を拭いながら彼女が言った。彼女を気遣ってこんなことを言ってしまった事を後悔した。でも、笑ってくれてよかったと思った。
「大丈夫僕に任せて。君は目を閉じてじっとしているだけでいいよ」
これもニジレンジャーの台詞だ。僕はこのときだけヒーローになっている気持ちだった。近くでニジレンジャーがついているような、何でもできそうな気分だった。
「無理しなくてもいいのに……ありがとね」
はにかむ彼女の表情に僕はどきりとした。見たことのない照れた彼女の表情を見て、僕はかわいいと思ってしまった。照れ隠しするように顔を逸らし、歩き出す。大丈夫、今の僕にはニジレンジャーがついているのだ。女の子一人守ってあげられなくてどうする。ニジレンジャーの力を借りて、闇雲だったが僕は彼女の手を引いて歩いた。疲れで足が重かったけど、ヒーローは弱音なんて吐いたりしない。何より、彼女の前で弱い自分をもう見せたくはなかった。そして、ついに茂みを抜けることが出来た。
そこは一面の野原だった。茂みのむしむしとした空気とは一転して、さわやかな風が吹いていた。
「やった、脱出だ」
ありがとうニジレンジャー、僕は心の中でお礼を言った。勇気を出せば無理なんてことはない、なるほど彼らの言った通りだなと思った。
「やったね、ゆうちゃん。何かすごく頼もしくて、かっこよかったよ」
かっこよかったよ。
その言葉に思わずにやけてしまった。今までかっこいいだなんて言われたことがなかった。かっこよさに対するあこがれはあったけど、面と向かって言われたのはこれが初めてだった。しかし、茂みから脱出できただけで、ここがどこだかわからないままだ。見覚えのない場所であることに変わりはなかったが、脱出できたと安堵すると先ほど歩いた疲れがどっと来てしまった。
「ちょっと休憩しようか」
「うん」
僕と彼女は野原に座り込んだ。草のクッションがやわらかくて心地よかった。僕は疲労困憊で足が結構痛かったのだが、彼女は平気の様だ。さっき泣いていた彼女とは打って変わって、いつもの彼女に戻っていた。その証拠に、辺りに生えているシロツメクサで冠を作っていた。いつもの彼女に戻ってよかったと安心するのと同時に、先ほどのかわいい表情はどこにいったのかと残念に思う自分がいた。
「ゆうちゃん」
顔を上げると、頭に花の冠が乗せられた。
「今日のゆうちゃんかっこよかったから、わたしお嫁さんになってあげる」
花の冠をかぶるのはお嫁さんの方だとか、今日のってどういうことだと思ったが、彼女の赤く紅潮した頬と、照れたような微笑みに言葉を失ってしまった。見間違いじゃなくて、かわいいと思った。今まで見たことのない表情に、僕は見惚れてしまった。
「わたしじゃ、いや?」
どこかしら不安そうな顔で彼女が聞く。
「いや……じゃ、ない」
恥ずかしさで、目の前の彼女を直視できない。なんだかすごくどきどきしていた。今まで味わったことのない感情。誰かを好きになる、そんな感情。幼い僕にはまだどういったことかわかってはいなかったが、顔が赤くなっていくのが分かる。
「わたしのこと、好きじゃないの?」
言葉が出てこない、恥ずかしくて言えなかった。好き、なんて。今まで憧れでしかなかった彼女が違った見え方になってきている。その急速な変化に幼い僕は対応できなかった。恥ずかしさで黙っていると、彼女の手が僕の頬に当てられる。何だろうと思ってぼんやり見上げると、そのまま顔を軽く持ち上げられて、キスされた。やわらかい感触にびっくりして目を見開く。何が起こったのかわからなくなって、そのまま固まる。唇が離れて、恥ずかしそうに彼女がはにかむ。
「私はゆうちゃんの事、ちゅーしちゃうくらい大好きだよ」
それ以降のことはよく覚えていない。キスされてから頭がぼっーとしてしまって、どうやって無事に帰ることができたのか。彼女に手を引かれて、下山するようにして先生たちに合流できたのはわかるのだが、その時頭にかぶっていた花の冠を男子にばかにされたのが記憶に強くて、他の事があまり印象に残っていなかった。その後先生や両親にこっぴどく叱られた。でも僕は彼女の事が気になってしまって、どうしようもなかった。あの一件があって以来、特に珍しいことも起きず、いつものようにまた彼女に振り回される日々に戻っていった。しかし、確実に以前より彼女が僕に頼る場面が多くなったような気がした。彼女が僕を頼る時は、いつも決まってこう言った。
「大丈夫僕に任せて。君は目を閉じてじっとしているだけでいいよ」
「パパー」
娘の声が聞こえて、僕は飛び起きた。どうやら回想をしているうちに眠ってしまっていたようだ。気が付くと辺りはもう夕暮れ時になっていた。
「パパみてー、これつくったの」
そう言って娘は自慢げに花の冠を持っていた。
「おー、すごいなー。よく出来てるじゃないか」
そう言って娘の頭を撫でる。嬉しそうに娘が微笑む。天使の微笑みだった。
「そりゃ私が教えたんですもの、上手にできてるわよ」
妻も自慢げにそう言った。幼い頃から全く変わらない、自信に満ち溢れた顔で。今思い返してみても、彼女はずっと変わっていないな。彼女はもう覚えていないかも知れないが、僕は言わずにはいられなかった。
「しあわせの青い鳥は、身近にある幸せに気付きにくいってことで、別に青い鳥が病気を治すとかそういう話じゃないぞ」
「はあ?」
妻が首をかしげる。娘も真似してかしげる。母と娘だなと思った。
「何言ってるのか、わからないねー」
「ねー」
一人だけ除け者にされているみたいでちょっと拗ねた。やっぱり覚えてなんかいないのかと。少しさびしく思ったが、まあそれはそれで仕方ないと思えた。
僕の運転する車での帰り道、娘は遊び疲れてぐっすりと眠っている。そんな時不意に妻が言った。
「しあわせの青い鳥って、幼稚園の遠足の時の事でしょ?」
「なんだ、覚えていたのか」
そういうと妻はため息をついた。
「あの子の前でその話をするわけにいかないじゃない、千佳もちょうど五歳だし」
「え? 何でさ」
意味は分かっていたが、あえて聞いた。
「だから……私がお嫁さんになってあげるって言って、ちゅーした話よ」
あの頃と何一つ変わらない照れた表情を見て、僕はやっぱりかわいいなと思った。信号待ちになるタイミングを見計らって、妻の肩に手を回す。
「ちょ、ちょっとここで? 千佳が起きちゃうかも」
狙い通りの台詞に僕はにやりとして、こう言った。
「大丈夫僕に任せて。君は目を閉じてじっとしているだけでいいよ」
それを聞いて妻がはにかむ。あの頃と、変わらぬ表情で。
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三題噺 「花」 「鳥」 「風」 作成日 6月10日