遠く、校歌が聞こえてくる。
約束の時間まではあと数分あった。
三年生の教室はしんとしていて、もう主の座ることのない机たちが片隅で縮こまっている。誰もいない。いるはずもない。桜の花びらを乗せた風がふわりと吹き込めば、視界の端で黄緑色のカーテンが軽やかに舞い上がる。
とんでもないことをしたと、思った。行動を起こした後に後悔することはしょっちゅうであったが、それでも、今回の行為については後悔なんて言葉じゃ片付けられないくらいだった。何度逃げようと思ったことか。あのことは気のせいにしてしまって、それで、逃げてしまおうと、幾度逡巡したことか。
逃げるなってこと、だよね―
手紙を放り込んだのは、怖かったからだ。直接話しかけでもしようものなら、きっと約束を取り付けるまでもなく、いつもの楽しい会話の中に消されてしまうからだ。この決意を…小さな覚悟を、埋もれされるわけにはいかなかった、だから。
―
その名を思い出すとき、いつも先行するのはまぶしいくらいの笑顔だった。太陽に咲く向日葵のような、はじけるような笑顔。
クラスの中でも人気者で、彼の周りにはいつも人だかりが出来ていた。何をするにも積極的だったし―少々実力不足でずっこけることもあったが―、嫌な顔ひとつもしない。人当たりがいいのもあって、頼りやすいのだろう。かくいう自分も、そうやって彼を頼っていたのも事実で、
―あのときだって、そうだ。転校生で、クラスから完全に浮いてしまっていた僕に、一番最初に話しかけてくれたのは幸弥くんだった。高校二年生の二学期だなんて中途半端な時期だったから、勉強にもついて行けなくて…元から運動も苦手で、それなのに幸弥くんは僕に構ってくれて勉強も教えてくれて、いつも側にいてくれて、笑っていてくれて、だから、いつしか僕は、かれのことを
「あー、何だ、お前かよ。」
考えを遮ったのは、そんなのんきな声だった。
はっと環がそちらを向いたときには、彼は心底がっかりしたように髪を掻いている。そうしてにやっと、笑った。そのやんちゃそうな目。まっすぐな光。
あっ、と言ったきり、環は押し黙った。幸弥、くん、とそれだけを口の中でもごもごと呟いて。
「どこの女子かと思ったぜ。今時古風な手を使うなって。」
あーあ、がっかりだ、と、揶揄するような響きに、けれど責めるような感じはどこにもない。幸弥は笑いながら、積まれた机の上に手をついた。その手がさらりと机を撫でて、指を立て、風をすくうようにひらりと空を舞う。
「っ、…ごめん。」
そんな言葉が口をついて出た。語勢が弱くなったのを感じたのか、幸弥がきょとんとしたようにこちらを見た。一瞬だけにやりと口の端をあげると、あはは、と笑った。
「別に怒ってねぇって。そんなにびくびくするなよ。」
「うぅ。」
でも、と繋げようとして、うっと黙る。眼前に、すいとその目が近づいてきたからだ。
切れ長で、少し茶色がかった瞳。綺麗な澄んだ色。いつもまっすぐで、折れることを知らない光を湛えた目…
彼は―幸弥にはそうやって間近で人を見る癖がある。それに気付いたのは、たっぷり五秒ほど見つめ合い、耐えきれなくなって視線を逸らせた後だった。
「で?何の用事なんだ?話したいことって。」
「―っと…」
きた。きてしまった。とうとう、このときが。
どきんと高鳴った胸を、心臓をぎゅっと押さえながら、環は顔を上げる。目の前で幸弥が笑っている。にこにこしている。
言って良いものか、それとも…留めておくべきなのか、この、おもいは
「っ、の、あの、ね。だ、大学合格、おめでとうって。」
…口から転げ落ちたのは、全然違う言葉だった。言った後にしまった、と思ったが、幸弥はそれ以上に呆気にとられた表情で、はぁ、とだけ言った。
「む、難しいところだったんでしょ?大変だったって聞いたよ。先生も反対してたんでしょ。それなのに、やっぱり幸弥くんは凄いな、って―」
「あぁ…まぁ。」
勝手に動いてしゃべり続ける口とは裏腹に、環は泣きたい気持ちでいっぱいだった。違う、そうじゃない、幸弥くんに言いたいのはそういうことじゃない、そう思っても、まるで留め金が外れてしまった水道のように関係のない言葉の羅列だけが先走っていく。
「僕もね、嬉しいな。幸弥くんの頑張りが認められたみたいで嬉しい。幸弥くん、クラスの人気者だったからきっとすぐに友達が出来るね。大学生活、楽しいだろうなぁ。」
「―環。」
「っ、僕はね、僕は、…僕も大学行くことになったけど、でも、幸弥くんとは違う大学だし、その、あの、」
「―おい、環。」
「きっと、幸弥くんにはすぐに可愛い彼女とか、すてきな友達とか、出来るんだろうなって…もがっ!?」
急に伸びてきた手が、自分の口を覆ったまでは分かった。
だから、しゃべり続けたその言葉の破片が勢いづいて、彼の指の隙間から漏れてぼふっと変な音となってこぼれたときには、幸弥は、いたずらが成功した子供みたいな顔で嬉しそうに笑っていた。吃驚して、どきどきして、その手が離れた後も、環はしばらく二の句が継げないままに黙った。ただ、目だけをぱちぱちさせて。
「違うだろ、環。そうじゃないだろ。」
まだ、幸弥は笑っている。けれども、その目は笑っていない。じっとこちらを見ている。見据えている。
こんなまっすぐな目をしたことがあっただろうかと、環は戸惑う。視線だけがきょろきょろと世界を泳いだ。どうしよう、怒らせてしまったのだろうか。それとも。
「お前、そんなくだらないことを俺に言いたいがばかりに呼び出したのか?違うだろ?」
「幸弥、…くん。」
「言えよ。どうしたんだよ。ほら。」
聞いてやるからさ。そう言った。言ってから、口からも笑みを消した。
分かったのだろうか。
分かっているのだろうか。
彼は、全部、…僕の気持ちも全部お見通しだと、
そうなのだろうか。
だとしたら、…。
「あのっ…!」
もう、どうにでもなれだ。
彼の手を、幸弥の手を、環はぎゅっと握った。破れかぶれだ。もうどうにでもなれ。どうせ今日が終われば僕と彼は離ればなれになる。二度と会えない。それなら、それならば。
彼の目がはっと見開かれる。僕を見る。その目に映る僕は、意を決したように口を開いて、
…キーン、コーン。
チャイムが、鳴った。
は、と二人は顔を見合わせる。その間に流れる、無機質な声が、
『…卒業生の皆さんは、そろそろ校庭にお集まりください…在校生一同によるフラワーアーチで、皆さんの旅立ちを見送りたいと思います…』
「…だと、さ。」
あぁ。
…あぁ。
もう、泣きたかった。泣いてしまいたかった。言えなかったその単語が喉を通り越し、胃に落ちて溶けていくのを感じた。もう出ない。何も出ない…。
仕方なげに笑う幸弥に、環はくるりと背を向けた。涙が出そうだった。潤んだ瞳を見られて、糾弾されたらきっと泣いてしまう。沈んだ言葉が黒い感情を吹き出し、心が重くのしかかってくる。重く、…ただ重く。
「環?」
「卒業、おめでとう、幸弥くん。」
震える声で何とかそれだけを言い、すぅっと息を吸った。うん、大丈夫…笑える。笑うことは、出来る。
「それだけだよ、僕が言いたかったのは。」
…嘘だ、嘘だよ。本当は、そうじゃなくってね。
…君が好きだよ。大好きだよって、…本当は。
「ふぅん…」
まるで気のない返事に、環は頷いた。それから、振り返った。幸弥は、納得のいかないような、不思議そうな顔で首を傾げている。それを見て、うん、と思った。
良いんだ。きっと。こんな想いは、しまっちゃった方が良いんだ。その方が、…良いんだ。
「行こ、幸弥くん。みんな君を待ってるでしょう。」
「…うん、…あぁ。そう、だな。」
幸弥は、それだけを言うと、はぁ、と息を吐いた。
それに気付いたのか否か、環は、先に行くねとだけ早口に言って教室を飛び出していく。ぱたぱたと遠ざかる足音…それに被るように聞こえる歓声…
窓際から校庭を見下ろせば、正門から校門へ続く人の波が見えた。色とりどりの花で覆われ、桜の色にも負けじと咲き誇ったフラワーアーチ…その先頭で女子が泣きながら抱き合い、男子は肩を組み卒業証書を片手に往来を闊歩していく。
その中、ひとつの小さな影が、正門から飛び出してきた。目元を袖で覆って、泣いているようにも見える。それが立ち止まり、ぐしぐしと腕を動かし、そうして顔を上げてこちらを見た。早くおいでよとばかりに、大きく手を振った。
…無理をしているような、無理矢理にほほえませたような、そんな痛々しい笑顔で。
「ったく…意気地なしめ。」
壁から背を離し、幸弥は歩き出す。歩きながら、ふぅと、大きく息を吐く。そうして、自嘲気味に笑う。
意気地なしは、どちらか。何かを言おうとして、けれども言えなかった環か、それとも、
…これだけのチャンスがありながら、お前が好きだって言えなかった、自分自身か。
「…、まぁ、いいか。」
これから始まる生活の中で、多忙の中にきっと消えてしまうのだろう。
彼のことも。この想いも。言い出せなかったことも。全部。何もかも。
「いや、違うか。」幸弥は笑う。「忘れたいんだ、きっと、俺が…。」
言葉尻は、歪んで消えた。頬にこぼれた一筋の雫を拭き取って、彼は前を見た。
良いんだ、きっと。こんな想いは…閉じ込めてしまった方が、きっと楽なんだ。そうに決まってるんだ。
そうして、正門を出て、見上げたその空は、
舞い上がる花びらに映えて、ひどく…ひどく青く、とても澄んで見えた。
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