No.492099

ハーフソウル 第十四話・大罪

創作歴史と創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。武器戦闘をメインにしてあり、魔術はあまり描いていません。男主人公。10362字。

あらすじ・神の箱庭・西アドナ大陸。古の神をその身に内包した少年セアルは、自らが箱庭を破壊するために作られた存在と知り、神の代行者と対立する道を選ぶ。

懐かしい人々に別れを告げ、宰相を追うセアルとラスト。統一王の足跡を彼らは辿る……。

2012-10-04 20:09:56 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:372   閲覧ユーザー数:372

一 ・ 緑柱碑文

 

 打ち捨てられた廃墟の中に、マルファスはいた。

 

 古代建築様式で建てられた主柱は折れ、石畳は砕けている。創世神を象ったレリーフも崩れ落ち、人が足しげく通っていた頃の面影はまるで無い。

 

 聖堂だったと思われるホールは跡形も無く、ただ樹齢数千年を越える巨木が天をついている。

 陽光は柔らかく巨木を照らし、朝露はその葉を滑り落ちた。

 

 マルファスはおびただしい数の人骨を踏みしめ、祭壇と思しき場所へ歩み寄る。そこには人の背丈ほどもある石碑が、朽ちること無く据えられていた。

 緑柱石で造られた板状の碑文には、古代文字がびっしりと刻み込まれている。気が遠くなる程の年月を経ながらも、それは一切の色を失わず光を放っていた。

 

「もう二度と、ここへ来る事は無いと思っていたのに」

 

 碑文に触れながら、マルファスは呟く。

 

「自らの死を願いながら、血を継ぐ者たちを見守りたいと思う僕は……。『罪』の名を冠するに相応しい」

 

 彼は自嘲の笑みを浮かべると剣を抜き、碑文へと打ち下ろした。

 緑柱石の碑はやすやすと砕け、無数の破片となって散らばった。

 

 マルファスは破片のひとつを拾い上げ、大切そうに懐へとしまい込んだ。

 

 

 

 

 セアルとラストが帝都を発って二日が過ぎた。

 

 神殿遺跡への道のりは、存外平坦な往路ではあった。

 ダルダン領内でありながら領境で多少緑があり、木々が荒れ狂う風を弱めてくれる。

 

「殺風景なところだよなあ。人っ子一人いないぜ」

 

 ラストがぼやくのも無理はない。

 見渡す限り瓦礫と枯れ木、まれに小さな森や川がある程度で、今彼らが歩いている道すら、すでに公路からはずれているのだ。

 

「それよりも、道はこっちで合っているのか? そのカラス、何もしていないように見えるけど」

 

 セアルの目線に気づいたカラスは、小さく鳴き声を上げる。

 案内役というからには、先頭に立つものだと思っていたが、この黒い物体はラストの頭上に乗ったまま動こうとしない。

 

「さあな。まあ何とかなるだろ、多分」

 

 実際道を違えそうになると、カラスが髪を引っ張るので、間違ってはいないと判断できた。

 

「まるで御者だな、そのカラス」

 

「うるさいな。乗られる身にもなってみろよ。神殿遺跡に着いたら、こいつの羽むしってやる」

 

 ひたすら髪の毛の心配をするラストに、セアルは笑いをかみ殺した。

 

 吹きすさぶ風の向こうに、ふいに建造物が見えた。

 陽炎のようにゆらゆらと揺れるそれは、ともすれば狐火のようだ。

 

「何か見えるな。あれが神殿とやらならいいんだが」

 

 カラスが止めないのを見て、二人は建造物へと向かう。向かうにつれ、辺りの木々は枯れ果て、無機質な瓦礫だけが増えていく。

 

 導かれて辿り着いた先は、とても神殿と呼べるものではなかった。

 

 どれほど昔の遺跡なのかは不明だが、石壁は崩れて瓦礫の山を成し、住居と思しき側溝だけが、ここがかつて村であった事実を告げる。

 

「おいてめえ! 神殿じゃねーじゃねえか!」

 

 カラスを締め上げ、ラストは怒鳴る。

 

「お前が羽をむしるなんて言うから、神殿に行くのをやめたんじゃないか?」

 

 セアルは廃村を見回し、これがどこなのかと地図を広げた。

 帝都で手に入れた真新しい地図には、村を示すものは何もない。

 

 人の記憶から消えて久しいものなのか。黒い瓦礫はこの村で血が流れ、焼かれた成れの果てだろう。

 位置や規模でも廃都ブラムとは思えない。道に迷ったのは確かだった。

 

 ふと、こちらを見ている人影にセアルは気づいた。

 こんな場所に来る人間など、いようはずも無い。

 

 ほどなくラストも人影に気づき、カラスから手を離して身構える。

 

 日が傾き始めているとはいえ、まだ明るい今なら、敵に遅れをとる事も無いだろう。

 向こうもこちらに気づいたのか、歩を進めて来るのが見える。

 

 その時カラスが急に声を上げ、人影へと飛び掛った。

 

 影は驚く様子も無く、つと左手を挙げる。

 左手にカラスを止まらせ歩くその姿は、見紛う事なくマルファスそのものだ。

 

「なかなか来ないと思っていたら、ここにいたのか」

 

 いつもの口調で彼は言う。

 

「神殿遺跡は目と鼻の先だけど、もう用向きが済んでしまったから、ここでもいいか」

 

 そう言うと、マルファスは懐から掌大の石板を取り出した。彼の掌中で緑色に輝く板に、ラストは驚嘆の声を上げた。

 

「すげえなそれ。宝石の塊か。売り飛ばしたらしばらく遊んで暮らせる量だ」

 

「売り飛ばすだなんてとんでもない。これはただの原石じゃない。……代行者が生まれる元となる碑文の破片だよ」

 

「代行者ってのは石から生まれるのかよ。変わってるな」

 

 ラストの悪態を笑みで返しながら、マルファスは続けた。

 

「生まれるとは言っても、物理的に誕生するわけじゃない。ここに書かれた古代文字を理解して音読し、碑文に触れた者が代行者として生まれ変わる」

 

 ラストは疑念の言葉を投げた。

 

「そんな程度でいいなら、誰でも代行者になれそうだな……。歴史研究者なんかが大挙して押し寄せたりしたんじゃねえの」

 

「そう。碑文の存在に気づいた者は、真偽を確かめるために神殿を探し出した。中には代行者になった者もいたかも知れない。でもその大半は死を免れなかった」

 

 マルファスは石板を懐にしまい込んだ。

 

「これに触れて生き延びた者はほぼいない。いわば苦痛を受けながら死に至る、破滅そのものだ。……二千年ほど昔、僕はそれを知りながらこの碑文に触れた。自らに死を与えるために」

 

 にべなく淡々と語るマルファスに、セアルとラストは目を向けた。

 その視線を気にする事もなく、彼は続ける。

 

「ここはね、僕が生まれ育った村なんだ。未だにこれほど形を留めているとは、思っていなかった。村の住人を全て殺し、焼き払った僕への罰なのかも知れないね」

 

 気がつくと太陽は没し、辺りには黄昏が押し寄せている。

 北部には珍しい雨が、ぱらぱらと彼らを打ち始めた。

二 ・ 大罪

 

 降りしきる雨を避けるため、三人は粗末な屋根のある小屋へと入った。

 

 神殿へ行く者が急造したのか、最近のものと思える簡素な建物だ。

 

 次第に強まる雨足は、残骸ともいえるトタン屋根に不規則な音階を与える。

 彼らはそれぞれ柱の下や瓦礫に腰を下ろした。無言の中繰り返される奏鳴を破ったのは、マルファスだった。

 

「僕はこの村で育ったんだ。妻との間には娘も生まれて、幸せなまま年を取って死んでいくんだと思っていたよ。あの日までは」

 

 体温を奪う冷気に、セアルは火をおこした。小さな灯火は弱々しく三人を照らす。

 

「ちょうどこんな夜だった。娘が嫁いでいってからというもの、妻は長らく死病に臥せっていた。薬師として生計を立てていた僕は、妻のために薬を調合したんだ」

 

 娘が嫁いだ、という言葉にラストは違和感を憶える。マルファスはどう見ても、二十三、四歳くらいだ。

 ラストの怪訝な表情に、マルファスは応える。

 

「僕が作り出した薬は、老化した体を退行させる副作用があった。分かりやすく言えば、若返ってしまうんだ。この効果を、村の連中に知られたのが運の尽きだった」

 

「この世に不老の薬なんぞあったら、当時の王族が派手に奪い合いするだろ。聞いた事もねえぞそんなの」

 

「そうだよ。だから僕がこの村を滅ぼした。争いの火種を、これ以上増やさないためだ」

 

 暗い菫色の瞳を覗き込み、ラストはぽつりと言う。

 

「いいや。アンタは見ちまったんだ。私利私欲のために、人が仲間同士で殺し合いをするところを。自分の罪の深さを見ちまった、そうだろ?」

 

 その言葉に、マルファスは押し黙ったまま炎を見つめた。

 

「言わなくても想像がつくさ。人は欲望のために生きているんだからな。何があったって驚かねえよ」

 

 やみそうにも無い軒下を見つめ、ラストは呟く。

 

「まあそこにいる世間知らずは、欲があるんだか無いんだか、よく分からん奴だけどな。まれにそういう奴もいるみたいだ」

 

「……誰が世間知らずだって?」

 

「何だ、自覚があったのか。お前なんか、今頃レンと一緒に売り飛ばされててもおかしくないぜ」

 

 にらみ合うセアルとラストに、マルファスはふと笑みをこぼす。

 

「妻を殺され、多くの人を殺めた僕には、もう何も残ってなかった。村に火を放ち、自らを罰するために向かったのが、あの神殿なんだ」

 

 あまねく死を与える碑文。

 地獄の痛苦に苛まれながら、ただ命の終わりを待つ。自らの終焉にそれを選んだ者が生き残り、代行者に成り果てるなど、この世は皮肉に満ちている。

 

「この世界に、代行者など存在してはならない。二千年の時をながらえて、僕が出した結論だ。碑文を破壊した今は、新たなる代行者は現れないはずだよ」

 

「今いる連中を倒せたら、代行者はいなくなるって事か」

 

 ラストの問いに、マルファスは言葉も無く頷いた。

 

「命を創ったのが神だとしても、その人生は人のもの。道筋を指し示しても、干渉してはいけないんだよ」

 

 暗闇の中に、ただ雨音だけが響き渡る。

 

「だから僕はキミたちと共に行く決意をした。……全てを終わらせるために」

 

 言葉尻を吸い込むように、雨足はさらに強くなる。

 何もかもが死に絶えた村に降る雨は、静かなる夜想曲となって奏で上げた。

 

 

 

 

 頬にしたたり落ちる水滴に、セアルは目を覚ました。

 

 いつの間にうとうとしていたのか、すでに辺りは明るくなりかけている。

 

 もたせかけていた柱から身を起こすと、ラストが湯を沸かしていた。

 

「悪い。寝てたみたいだ」

 

「仕方ない奴だな。今晩はお前が見張りやってくれよ」

 

 セアルは茶を淹れようと荷物を探した。ふとマルファスがいない事に気づき、周囲を見回す。

 

「あいつなら一人で先に行ったみたいだぜ。ホントよく分からない奴だな」

 

 ぶつぶつ言うラストの頭上には、またしてもあのカラスがいた。

 小突き回されながら朝食の用意をするラストに、つい失笑をしてしまう。

 

「まあこんな場所で茶飲んで、飯食ってるオレらも大概だけどな」

 

 実際、日が昇って明るいとはいえ、血まみれた災禍に巻き込まれた土地だ。

 常人なら薄気味悪さに辟易するところを、屋根があるという理由で利用している図太さは、どこで身についたのだろうか。

 

 仕度を終え、トタン屋根から這い出ると、辺りは雨上がりの清々しい空気に満ちていた。

 だがこれも、昼下がりになれば再び灼熱の大地となる。その前に廃都ブラムまでは進んでおきたかった。

 

 再び二人は、カラスを頼りに廃都へと向かった。

三 ・ 千年の幻

 

 マルファスが預けていったカラスのおかげで、二人はすんなりと廃都ブラムへと到着出来た。

 

 旧ダルダン王国の都であり、千年前の大戦でも最後の本営となった街は、帝都に勝るとも劣らない規模だ。

 石工の多い北部ならではの名跡に、ラストは驚きの声を上げる。

 

「立派な遺跡だな。観光地にしたら儲かりそうなのに。ダルダン公爵家では、ここいら一帯を放棄してるんだよなあ、もったいない」

 

 感心しながら眺め回るラストを、セアルはからかった。

 

「お前も結構がめついよな。レニレウス公爵の娘でも嫁にもらったらいいんじゃないか? 気が合うぞきっと」

 

 その言葉にラストはじろりとセアルを睨んだ。

 

「アイツの狡猾さを知ってるか? すでに『当家には三人ほど娘がおりますから』とか言われてるんだぜ。あんなとこの娘もらったら、一生搾取されるって」

 

 これまで散々恩を売ってきたのを見ると、公爵に腹積もりがあるのは確かだろう。

 どの道一度狙われたら、逃げ切れそうに無い相手だ。セアルは心の中で、ラストの冥福を祈った。

 

 マルファスの姿を求めて、二人は遺跡近くの丘を登った。

 丘に阻まれていた砂嵐は、容赦なく彼らを叩き付ける。

 

 風の無い晴れた日なら、どれだけ素晴らしい眺望だっただろう。

 石畳に沿って区画整理され、水路を張り巡らされた古代遺跡は、その栄華を偲ばせる。

 

 今では川も枯れ、防風林も焼き払われたその姿には、むき出しの悲哀が湛えられていた。

 

「何だか懐かしい感じがするな。帝都に似ているからかな」

 

 ふいにラストがぽつりと呟く。

 

「まあ感傷に浸ってる場合じゃないな。マルファスを探さねえと。アイツどこ行ったんだ」

 

 遺跡を見渡しても、それらしい姿はどこにも無い。日が翳り始めている今は、先に進むか、ここに野宿をするかを決断する必要があった。

 

「また一雨きそうだな。この先は峡谷しか無いはずだから、ここでやり過ごしていった方がいいかもな」

 

 見上げれば翳りは暗雲を呼び、吹きすさぶ風は湿度を帯びている。

 彼らはその足で、廃墟へと戻る事にした。

 

 

 

 

 寝ずの番に疲れたラストが眠り落ちた後、セアルは一人うずめ火の番をした。

 遺跡や廃墟に誰もいないという根拠が無い場合は、見張りを立てるのが鉄則だ。まれに盗掘者やならず者が息を潜めている場合もある。寝込みを襲われたら手練とて、ひとたまりも無い。

 

 元は家屋であったろうと思われるこの場所は、その中心に炉の跡があり、火をおこして番をするには最適だった。

 

 小さく息づく種火を見つめながら、セアルはしとしと降る雨音に耳を傾けた。

 

 その時。

 

 壁の向こうから、砂利を踏む音が聞こえた。

 

 誰かがいる。

 

 セアルは静かに剣を抜き、音も立てずに入り口へと寄った。

 

 カラスの反応が無いところを見ると、相手はマルファスではない。盗人や追いはぎの類だろうか。

 

 思考を巡らせているとふいに闇の中、無邪気な子供の声がした。

 耳を疑い目をこらすと、十歳にも満たない少年が駆けていくのが見えた。

 

 彼の後ろには十四、五歳に見える白衣の少年が続き、その背後を男が歩いている。

 

 こんなところに子供がいるはずがない。亡霊か妖魔の類に違いないと、セアルは剣を握り締めた。

 

 ふいに、最後尾を歩いていた男がこちらを向いた。

 その視線にセアルは固まる。

 

 男が急に振り向いただけではない。その顔が、驚くほどラストに似ていたからだ。

 

 立ち止まる男の様子に気づいたのか、白衣の少年が戻って来る。白衣に隠れているが、彼の腰には細身の剣が下げられていた。

 それはマルファスが携えていた、弑神の剣に酷似している。

 

 これは亡霊なのか。それとも思念なのか。

 

 彼らにはセアルが見えていない。男の視線はセアルを越えてはるか遠く、丘へと注がれている。

 

 男と少年は二言三言会話を交わした後、丘へと向かい、小さな少年もそれに続いた。

 そしてそれきり、彼らの姿は雨の中へと掻き消えた。

 

 

 

 

 翌朝ラストが目を覚ますまで、セアルは昨晩の亡霊たちに思いを巡らせた。

 

 まるで幻灯のように映し出されたあれは、恐らくはるか昔に存在していた者たちに違いない。

 少年が帯びていた剣が、それを物語っている。あれが弑神の剣であるならば、千年前の大戦時に持ち出されて以来、屋敷の奥深くに眠っていたものだからだ。

 

 遺跡の記憶が見せた幻に、セアルは覚悟を決める。

 

 宰相が逃げ込んだ峡谷の奥には、イブリスがいるだろうとマルファスは言っていた。

 イブリスが現れた事で、変容を迎えたセアルの世界。思えば彼女の存在自体が、緻密に織られた策謀の一端だったのかも知れない。

 

 セアルの訪れを、手ぐすね引いて待つ者がいるのだ。ならばそれは、彼自身に深淵を召喚した人物なのだろう。

 

 ほころぶ朝の陽光と共に、小さな種火は静かに消え入った。

 ラストが寝返りを打ったが、起こさずセアルは窓から丘を眺め続けた。

四 ・ 狂夢

 

 イブリスは夢を見ていた。

 

 これが夢なのだと、彼女自身気づいていた。

 

 何故ならすでに、彼女の母はこの世にはいない。牢内でイブリスを産んで、狂って自ら命を絶った。

 でもそれは母だけでは無い。この牢に押し込められていた、おびただしい数の女たちは皆そうして死んでいったのだ。

 

 デルミナがこの牢へ連れてこられたのは、イブリスが物心ついた頃だった。

 

 優しく気丈なデルミナに、イブリスはいつしか母の愛を求めた。

 

 ここに連れてこられる女たちは、皆何かの目的のために集められているのを、イブリスも知っていた。

 夜毎牢から女が連れ出され、奥からは彼女たちの悲鳴と泣き声が聞こえてくる。

 

 いつかは自分の番が来るのかも知れない。そう思いながらイブリスは怯えるしかなかった。

 

 デルミナの番が来た夜。彼女の悲鳴ともすすり泣きとも思える声が木霊し、イブリスは必死に耳を塞いだ。

 彼女のために何も出来ない自分を憎み、蔑んだ。

 

 同じように牢にいる女たちはすでに無反応で、生きているのか死んでいるのかすら判別もつかない。

 

 この城の主人はよほどデルミナを気に入ったのか、毎晩のように彼女が引き出される事も少なくなかった。

 

 ある日、デルミナの左胸に何かの印があるのをイブリスは見た。

 心臓の真上にあるその紋様は、円を基調に描かれ、奇怪な図形が絡み合うように組まれている。

 

 その頃から、デルミナは呆けたように何も話さなくなった。

 ただ微笑みだけを湛え、引き出される時もおとなしく従う。

 

 デルミナの変貌に、イブリスは誓いを立てた。何としてでも、彼女をこの地獄から逃がす事を。

 

 実の母のように愛してくれた人が、これ以上踏みにじられるのは耐えられなかった。

 

 デルミナを逃がすため、未だ子供といえる年齢でありながら、イブリスは自らを餌にした。

 看守がデルミナを引き出す際にすがり付き、同じように引き出される事を望んだのだ。

 

 彼女の思惑通り、イブリスは主人の前へと引き出された。

 

 初めて見るその男は、黒く長い髪に黒衣を纏い、肌は浅黒く耳は尖っている。血のように赤い眼までもがイブリスに酷似していた。

 鏡を見ているかのようなその姿に、この男が自分の父親なのだろうと、彼女は本能的に悟った。

 

「何だ、お前は」

 

 感情も抑揚も無い声色で、男は口を開く。

 

「被験体のどれかが産んだ子供か? お前などに用は無い。どこへとも去れ」

 

 振り向きもせず言い放つ男に、イブリスは食い下がった。

 

「どうか、どうか私をあなたの部下として使って下さい。何でもします。人だって殺してみせます」

 

 興味の無い人形を見る目で、男はイブリスを見た。

 瞳の奥底には、常人ならば昏倒する程の、底冷えする狂気が垣間見える。

 

「面白い事を言う。あの蟲毒のような牢で、これほどの命の輝きを目にしようとは。ならば勝手にするが良い」

 

 それだけ告げると、男はデルミナを連れ、奥へと消えていった。

 

 

 

 

 冷え切った石床の上で、イブリスは目を覚ました。

 

 目尻の冷たさが、とめどなく流れ落ちる涙のせいだと気づくまで、彼女は放心したままだった。

 

 身を起こすとそこは、見慣れたあの牢だ。

 押し込められた無数の女たちが狂い、死んでいったおぞましい地獄の牢。

 

 イブリスの母親のように孕まされ、子を産む者もいたが、その多くは我が子を手にかけた。

 デルミナが身篭ったのを知ったイブリスは、母子を救うために機を見て彼女を逃がしたのだ。

 

 そうする事で咎めを受けると分かっていたが、ひとときだけでも愛してくれたデルミナと、まだ見ぬ弟妹には自分のような思いはして欲しくなかった。

 

 だが予想に反して、シェイルードはイブリスに対して沙汰を下そうとはしなかった。むしろ冷たい微笑を浮かべ、面白い事になったと傍観を決め込んだ。

 それは実験動物を世に放って観察をする、狂った研究者の目だ。

 

 従属の術を施してまで手に入らなかった女の心は、シェイルードにはもうどうでも良かったのかも知れない。

 彼にとっては、周りにいる者は全て等しく人形でしか無い。利用できるかそうでないか、それだけが存在意義。それはイブリス自身がよく知っている事だ。

 

 ならば何故、自分は父の傍にいる事を望んだのだろうか。

 

 自らの感情すら御しきれず、イブリスは石床にうずくまった。

 彼女の傍には、あまたの女たちの血を吸った短剣が転がっている。それは錆付きもせず、鈍い輝きを放つ。

 

 明かり取りからわずかに漏れる月光だけが、彼女の嗚咽を柔らかく包んだ。

五 ・ 死神のあぎと

 

 廃都ブラムからさらに二日をかけ、セアルとラストはエルナ峡谷へと足を踏み入れた。

 

 ブラムから北は水源もほぼ無く、痩せた砂地と潅木だけが行く手に横たわる。

 

 峡谷は両側が断崖絶壁になっており、北の要所と言われるだけはあった。

 行軍では幅が狭く隊列が伸びる上に、崖上から射掛けられなどすれば、容易に突破出来る場所では無い。

 

 千年前の大戦終盤では、この峡谷での戦闘が最も戦死者を出したとされている。

 ここを突破さえ出来れば、敵の本営である山岳遺跡へ入れるが、そのために払った犠牲は多大だったのだろう。

 

 マルファスの姿を探し、二人は峡谷を抜ける。

 

 取り立てて妨害も無く、敵の姿さえ見えないのは、逆に彼らの不安を煽った。

 峡谷を抜けた先は天然の要害となっており、軍馬でまともに進める道には見えなかった。

 恐らくはこの険しい山岳を、軽装歩兵で進攻したのだろう。

 

 岩山の頂上近くにある遺跡まで進むのは骨が折れた。

 ただカラスが導いてくれる先であるという事が、二人の気力を支える。

 

 遺跡まで目と鼻の先まで進んだところで、二人は夜を待つ事にした。

 

 すでに遠見の銀盤はマルファスが手に入れている分、宵闇に紛れて忍び入る方が気取られにくいと判断しての事だ。

 ただ、森で育ったセアルには暗視能力があるが、人間であるラストは夜目が利かない。

 

 代行者の身体能力がどれ程のものかが分からなかったが、暗闇に乗じて忍び寄るのが比較的安全だという結論に達した。

 

「ここまで来たら、腹をくくるしか無いな」

 

 遺跡近くの岩場に身を潜め、ラストは呟いた。

 人の身で、人外の者にどこまで対抗しうるのか定かではない。命を落とす危険すら、無いとは言い切れないのだ。

 

 辺りが夜の帳に覆われた頃、二人は切り立った岩場をよじ登った。

 

 鳥も鳴かず、木々のざわめきすら無いこの山では、息遣いや衣擦れすら耳に届く。

 無風の不気味さも手伝い、死神のあぎとへと自ら進み出ている感覚に捕らわれる。

 

 岩山を登りきると、夜目の利くセアルが先に立ち、ラストを誘導した。

 

 山岳遺跡の入り口はぽっかりと口を開け、底なしの闇を彷彿させる。

 

 二人は言葉も無く、内部へと侵入した。

 敵の姿も、生きている者の気配すら無い虚ろな建造物は、彼らの足音だけを反射した。

 

 進んでいた廊下の先に、巨大な扉を見つけてセアルは立ち止まった。

 無言のままラストへ合図を送り、それぞれが扉の左右に立って同時に観音扉を開く。

 

 見た目よりも軽い扉は、音も無く開いた。その先には灯りひとつ無い闇が充満している。

 

 セアルは剣を抜き、警戒しながら内部へと踏み込んだ。暗視能力がある分、ある程度は判断出来るが、十歩先まではつかめない。

 

 がらんとした部屋の中央まで進むと、遠目に玉座が見えた。

 

 だが玉座には人影が見当たらない。

 

 さらに奥へ進もうとセアルが踏み出した時。

 急にラストが肩を掴んで制止した。

 

「待て。そっちは行くな。この城の造りに見覚えがある」

 

 おぼろげな記憶を辿るように、ラストは逡巡した。

 

 血。痛み。慟哭。

 そうだ。ここは夢で見た、女が身を投げた谷底のある部屋だ。

 

 帝都へ入ってからは全く見なくなっていた夢を思い出し、ラストは身震いした。

 あの玉座の向こうには、唐突に口を開けた底なしの闇が広がっている。知らず踏み出せば、真っ逆さまに転落するだろう。

 

 ふいに背後で気配を感じ、ラストは振り向いた。

 

 そこにいたものは。

 

 全身を黒い長衣で覆った小柄な老人だった。顔を上げればその双眸は爛々と輝き、憎悪の炎が揺れている。

 

「このわしを追いかけて来て下さるとは。『愛しき王』よ。マルファス様よりも先に、貴方様を血祭りに上げましょうぞ」

 

 そう言うが早く、クルゴスはラストの肩にいたカラスに呪言を投げかける。

 術符で創られた使い魔は、か細く一声鳴くと、その場で霧散し大気へと消えていった。

 

「使い魔がおらなければ、しばらくは感づかれまい。この手で八つ裂きにしてくれる」

 

 骸骨の肉薄い口角がつり上がる。

 死神のあぎとを思わせるその笑みに、ラストは静かに王器を抜き放ち、クルゴスへと対峙した。

 

 言葉も紡がないうちに辺りには無数の松明が灯され、玉座の間全体がおぼろげに浮かび上がる。

 

 不敵に嗤うクルゴスに、ラストは長柄を握り締めた。


 
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