◆ 指先
「もし指先ひとつで世界を終わらせることが出来るとしたら、どうする?」
私が顔を上げると、すぐ目の前に彼の人差し指。
先ほどまで黙ってボールペンを握っていたのに、もう飽きたのか。女の子のように伸びた爪の先が、鼻っ柱に突きつけられている。私は嘆息して彼の指を右手で包み込むと、危なくないようにそっと下げさせた。
「何を言ってるの?」
そう言って椅子に座る彼の膝もとを見てみると、薄めの文庫本が乗っているのが見える。勉強をするふりをしてずっと本を読んでいたのだろう。
私はよっぽど本を読む方が勉強よりも面倒くさいと思うのだけど、彼はそうじゃないらしい。大の勉強嫌いで、私よりもずっと脳ミソの質がいいのに学校の成績は良くないのだ。
落第されたら私が困る。だからこうして無理に勉強に付き合わせているのだけど、やはり無駄だったみたいだ。
「いや、別に。ふと思ったから訊いてみただけだよ」
彼はフッと鼻で笑って視線を逸らす。
「そんなこと言って、どうせ飽きたんでしょ?」
「飽きたは飽きた。むしろ飽きたから訊いた」
「なにそれ」
思わずしゃっくりのように笑いを溢れさせて聞き返すと、彼はノートを閉じて微笑む。どうやら本格的に勉強を続ける気はなくなったらしい。
「たとえば煩わしくなった時に、指先だけで世界を全部終わらせられるんだ。それくらいの力を手に入れたとしたら、どうする?」
「私と居るのが煩わしい?」
「そうじゃない。……いや、それでもいいや。――考えてみなよ。どんな状況でも、どんなに楽しい時でもなんでも、だ。ふと『面倒くさいな』って思うこと、あるだろう? 例えば今のキミみたいに」
まぁ、たしかに。と私は口の中だけで同意する。
彼と一緒に居るのは私にとってとても幸せで楽しいことだけれど、彼はこんな人だから、ときどきとっても煩わしい。それこそ今のように。
「そういうふとした時でもいいや。もっと重大なことがあった時でもいい。なぜだか煩わしくなった時に、自分に世界を終わらせるだけの力があったら、キミならどうする?」
「指先ひとつで?」
「指先ひとつで」
「それってどんな力?」
「どんな力―― かは考えてないな。魔法かな? まあ、そんなことはどうでもいいんだよ。……ああ、ほら、また面倒くさいなって思った。こういう時だよ。自分にそんなムチャクチャな力があったら、どうする?」
彼は質問をした時、返答が返ってくるまではずっと相手の目を覗きこんでいる。一時も逸らさずに。いつもは斜めから人を見るようなことしかしない癖に、こういうときだけ反則じみた眼力を振るう。
私はなぜだか恥ずかしくなって、声をやや上ずらせながら答えた。
「結局使わない、と思うよ。だってそんな力…… 人生色々面倒なことはあるけど、それだけじゃないんだし。その時だけで決めたくないから、きっと私は使わないよ」
「なるほど」
彼は不敵に笑う。私の答えは彼を満足させたのかどうか、わからない。彼はふざけてこういうことを訊いてくることがあるけれど、どんな答えかたをしても、とりあえず不敵に笑う。
笑っているのか、嗤っているのか。時折不安になることがある。彼はそれを知ってか知らずか、急にふっと真顔に戻ると、
「ぼくはね、あったらきっと使うと思うよ。人間は」
と言った。
「人間は? 私も? 自分が、だけじゃなくて?」
「そう、人間は。どんな力かはさておいて、そんな力が自分にあったら、人間はそれを行使せずにはいられないよ。――使い方やきっかけみたいなものはそれぞれだと思うけどね。自分だけがそういうものを持っているんだ、っていう恐怖かもしれないし。もしも世界中の人間が等しくその力を持っているとしたら、誰かが使う前に使ってみようという気にもなるかも、しれない。色々」
途中から、彼は自分の思考にずぶずぶと身を沈めていく。悪い癖だ。この人は、基本的に他人と一緒に過ごすようには出来ていない。それでいて、きっと他人が一人もいなかったら、彼はもうこの世界に居なかっただろう。よくわからないけれど、彼はそういう人間なのだ。
「でもそれは、きっとひとりで居る人間の理屈だと思うよ。大切な人が居たら、そんなに簡単に世界に見限りをつけることなんて出来ないんじゃないかなぁ」
「……そうかな」
私が精いっぱいの抵抗を見せると、彼は意外そうに私の目を覗きこみ―― 微笑った。ここ最近で、一番優しいイメージの笑み。
「……そうかもしれないな」
きっと何か、まだ言いたいことがあったのだろうけど。彼はそれ以上は何も言わずに、机に向き直った。……でもノートを開く気はないらしい。私は苦笑して、
「まったく、勉強サボってなんの本読んでたの? どうせ本の影響でこんなこと訊いたんでしょ」
「さすがにバレたか」
「バレバレです」
「厳密にいえば、ちょっと違うかもしれないけどね。この本がきっかけなのは、アタリだよ」
彼は膝の上の本をそっとコートの懐にしまい込むと、しぶしぶといった表情でノートを開いた。開いたまま放置されていた辞書は、一緒に勉強していたはずの私の辞書とはまったく明後日のページ。
「どんな本なの? 見せてよ」
気になった私は最後にそう訊ねる。
彼は爪の尖った人差し指を縦に、子供に「しーっ」とやるようなポーズで答えた。
「この本の主人公はね、自分の両目を人さし指で突いて潰すんだよ」
夏でもないのに、背筋がぞっとした。
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