No.488389

戦極甲州物語  拾弐巻

武田菱さん

戦極甲州物語の13話目です。

いつも感想を頂き、ありがとうございます!
信春の旧名、教来石時代は確かに景政ですね。wikiにも載ってる……ほかの資料ばっか読んでいて、こんな灯台下暗しのような場所に書かれていたとは……。
ご指摘ありがとうございます! すぐに既出の信春の部分を「教来石景政」に修正します。

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2012-09-25 12:33:56 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:5421   閲覧ユーザー数:4538

 信虎の覇気を武田の色とも言えよう『赤』に例えるならば、まさに地獄の赫々たる業火にして、その所業からも毒々しき『血』の色と示すが最も適当と言えよう。

 対して信玄の覇気は、信方や昌景、勘助たちを黙らせるほどの、その年にしては驚くべき圧を持ってはいるものの、信虎にはまだまだ及ばない。だがこのまま成長すれば信虎を超えて遥か高みへと至るであろう。ならばその色は『紅』が相応しい。『真紅』という言葉が持つような美しさを備えながら、『紅蓮』という凄烈なる面も持つ『紅』。誰もがその未来に惹かれ、今現在でさえもその力を発揮する『紅』こそ、信玄の覇気の色ではないだろうか。

 

 

 

 では、彼はどう示すべきであろうか?

 武田の『赤』にて例えるのであれば。

 

 

 

 

 

――――『朱』

 

 

 

 

 

 信玄は迷うことなく、これを選択することだろう。

 朱色は日ノ本においては長らく伝統ある高貴な色として知られ、位の高い者たちの間では重視される色である。武家社会でも例外ではなく、朱色とは武功を立てた者が主君より与えられる色でもあった。武田の赤備えとして知られる虎昌の部隊の色も、より正確に示すのならば朱色である。

 朱という字は、木の語源ともなった象形を、中央から一線で断ち切ることを示したものという。ただ高貴なだけではなく、かと言って野蛮じみてもいない、一種の境地へと至ったことを示している色であるとも言えよう。

 

 『朱に交われば赤くなる』

 

 信繁も武田の人間であり、意図せずともその色に染まっていく。前に出ようとせず、誰かを何かを支えることに注力する信繁の姿は、まさにその体を為していたと、信玄だけではなく、誰もが思ったことであろう。

 それが、とんだ間違いであったのだと、とんだ思い違いであったのだと、今この瞬間、誰もが気づかされたのである。

 

 

 

 

 

 信繁の『朱』が、信虎の『血』を一刀両断にした。

 

 

 

 

 

 身の毛がよだつ。

 そうした感覚を、信玄は良く知っていた――つもりだった。

 

「――――」

 

 気性の荒い信虎が戦にて檄を飛ばした――その言葉面は決して綺麗なものではなかったが――とき、思い通りにいかない戦況に苛立ったとき、勘気に触れて家臣を誅殺したとき、そして……信繁を殺せと命じ、異を唱えようとした信玄を殴ったあのとき。

 いずれも信玄を怯ませるほどの覇気を発し、威圧し、全てを飲み込む赫灼たる業火の如く。

 

「あ……あに、う……え……?」

「……あ、う……」

「……若……!」

「な、何と……」

 

 周囲に居並ぶ重鎮たちも、それは身を以って体験していたはずなのに。

 今は誰もが。例外なく。その動きを止めて。

 ただただ呆然としている。いや、唖然としている。

 

 

 

 

 

 信虎でさえも。

 

 

 

 

 

 頬に伝う一筋の汗。痙攣したように小刻みに動く眉。何か言おうにもかすれた息しか出てこぬ口。

 未だかつて他人の覇気に気圧される父など見たことはなかったが、それを成した者が兄などと、信玄にも到底想像がつかなかった。

 

(私はこの能力を毛嫌いしていながら、この能力の高さを誇ってもいた……)

 

 こんな器量と才覚があるから、自分が恐ろしかった。その反面、心の中にはその器量と才覚を誇るもう1人の自分もいた。

 特に後者の信玄は、信繁を上回るという自己評価を為し、軽んじているところがあった。それこそが信玄には受け入れ難いものであったのだが……今や後者の信玄自体、それが如何に甘い評価であったのかを知らされている。

 

(˝朱に交われば赤くなる˝……その言葉はけだしその通り。しかし兄上は……中心となる朱となれるほどの方……!)

 

 信繁は武田の色に染まりながらも、その武田を自分の色で染まらせることのできる側の人間だった。

 信虎の色に染まった武田を、信繁はその朱の武威を以って断ち切ってしまった。信虎がそれを認めようが認めまいが関係ない。今この瞬間、まさに武田は『代替わり』を果たしたのだ。

 

(兄上……)

 

 本当にこの人はわからない。いつもいつも、自分を戸惑わせる。それが憎くもあり、しかし怨めない。

 

――『舐めるな、信玄』

 

 兄の言葉は真であった。

 あのときこそ、信玄は信繁が故意に傲岸不遜を装うことで言葉に実感を持たせようとしたのだろうと、そう思っていた。そうして信玄の心を和ませようとしたのだろうと。それは事実であって、しかしそれだけではなかった。信繁にそこまでの気はなかったのかもしれなくも、それでも信玄は確かに自分が信繁を侮っていたのだと、自身の実力を毛嫌いしながらもどこかで驕っていたのだと理解せずにはいられない。

 

――『私からしてみれば、その程度だ』

 

 実際のところ、信玄とてあの悩みや迷いを『その程度』呼ばわりされたことには不快を抱いた。それ以上に頼もしさと嬉しさが勝っていたとは言え、やはり今はまだそう簡単に受け入れられないもう1人の自分は、確かに不快に思ったのだ。自身に劣る者が何を言うかと。

 だが今となっては、そのもう1人の信玄も異はない。器量と才覚があるからこそ、その信玄も認めざるを得なかった。信繁の能力は今の自分を上回っているのだと。これまでの評価は間違っていて、自身の人を見る目はまだまだ未熟。そう知らしめられた。

 それが何だか痛快で、本当なら今までそれを隠され騙されていたと、悔しさや情けなさで一杯になりそうなところなのに、まったくそんな気にならない。

 むしろ心に住まう2人の信玄が、お互いに受け入れられなかった2つの心が、今や揃って同じことを望み、同じことを思っていた。

 

――この人を、もっと見ていたい。

 

 素直に、そう思うのだ。

 だから本当に……この人はわからない。いつもいつも、戸惑わせてくれる。それが悔しくて、腹立たしくて。なのに心強くて、温かくて。

 例えこの人をいつか上回ることができても、この人を手放したくない。きっとこの人を完全に理解することはどんなに上回っても無理だろう。けれど、だからこそ。この人を見続けたい。それはきっと、武田信玄という存在にとって、一生を捧げるだけの意味があることだろうから。

 そして。

 

 

 

 

 

――『どんなに偽ろうとも、例えこの身が虚ろであろうとも――お前たちへの愛慕の情だけは偽れん!』

 

――『私のお前たちへの愛慕の情は、その程度のことでは些かも揺らがぬ』

 

――『私は、お前たちのために、生まれてきたのだ』

 

 

 

 

 

 それほどの人から自分に、自分たちに向けられる思いは、自分たちが独占できる証である。

 認めよう。この人を独占できるという優越感はたまらないと。

 信玄は笑う。

 荒れ狂っていた血の覇気を一瞬で捻じ伏せ、消し去り、それを成した朱の覇気が代わって支配する軍議の間にて。

 その覇気を発する、目の前の兄の背中を見つめながら。

 

 

 

 

 

「父上」

 

 

 

 

 

 信繁の発した言葉は信虎に向けられたものなのに、虎昌や信方ら重臣たちすらも自身に向けられたかのように喉を鳴らした。その言葉を向けられた信虎は況やの如し。

 

「貴方は、やり過ぎた」

「の、信繁……貴様」

「もはやこれ以上、武田を、そして甲斐を、父上の暴走に付き合わせるわけにはいきませぬ」

「き、貴様! このわしを冒涜するか! 父たるわしを裏切るか!」

「冒涜したは父上でありましょう。この甲斐を統一したことは甲斐源氏の名流、武田の家が誇るべきこと。しかしながらそうした功績に比して余りある父上の非道なる言動は、もはや武田と甲斐の名を貶めるものでしかありませぬ。父上とて誇りある武士。武田の家を自身の代で滅ぼすようなことにはなりたくないでしょう」

「し、信玄ならいざ知らず、この愚か者が……!」

 

 信虎が刀に手をやった。すでにこの場にいる者は信繁と虎昌、信廉や信龍を除いて皆々甲冑を着込んで戦に臨む姿。信虎もまたその赤い具足に身を包み、刀を腰に差していた。

 しかし信繁もここに来る前に刀は手にしていた。こういうことになるだろうとは思っていたからだ。父が素直に座を明け渡すわけがない。1人や2人を斬り捨てることも厭わぬことだろう。ならばそれを止めるは家臣たちではなく、自身の役目。

 信繁もまた、静かに刀を抜いた。

 

「その信玄をすら、父上は力で従えようとされた……自覚されよ、父上。少なくともその時点で、貴方は武田を貶めるだけの存在となったのだ」

「信繁ええええええええ!」

 

 信虎が上段に構え、そして躊躇することもなく踏み込んで一閃!

 それを信繁は避けることなく、真正面から受ける。

 

「父上。貴方は今、私が避けるとは考えなかったのか?」

「なに?」

「私が避ければ信玄を斬ることになってしまうと、そうはお考えにならなかったのか?」

 

 信玄は信繁の真後ろにいた。そう距離も置かず。今信繁が回避していたら信虎の刀は信玄を縦に両断していたことだろう。

 にも拘らず、信玄に怯えのようなものはない。ただ静かに、信玄は見ていた。その目に、信虎への恨みや憎しみはない。いや、むしろ信虎のことなど眼中にない。彼女の目はただ、信繁へと向けられていたから。

 気に食わない。

 信虎にとって、自身を無視されることは堪らなく腹に据えかねた。例えそれが信玄であっても。

 

「信玄が目に入らぬほど臆されたか? それとも怒りのあまりに視野が狭うなっておられたか? はたまた、私が受けるか、信玄が避けると見越しておられたか?」

「信繁ぇぇぇぇ……!」

 

 鍔迫り合い。交わる刀同士が小刻みに震え、時折金属同士がこすれ合う耳障りな音が鳴る。

 2つの刃が交錯する中で、その刀を間に据えて互いの視線もまたぶつかり合う。

 

「この私にさえ臆する程度なら、今後はやっていけませぬ。怒りはごもっともなれど、その怒りは所詮貴方ご自身だけのもの。国や家臣、領民を思わぬどころか、武田の家のことさえ頭にない。そのような方なら、もはや武田の家は任せられませぬ。しかし最後の理由であるならば、貴方はまだ当主たる自覚と器があったということ」

「よく喋りおるわ……黙らぬか、この無礼者が!」

「……なれど、やはり貴方にそのような気概はないか」

 

 それは信繁の、最後の父への情けであった。しかしすべてを言う前に、信虎は自身で自身の覚悟と器を晒すに終わる。

 儚い希望的観測。しかしそれが散ったところで、信繁はもはや迷うことも躊躇うこともない。止まらぬと、もう決めたのだから。

 

「戯れも、もはやこれまで」

 

 それは信虎への最後通牒であり、そして信玄たちや重臣たちへの宣言であり。

 信繁自身への合図であった。

 

 

 

 途端、信繁から再び覇気が放出される。

 

 

 

 それは垂れ流しの信虎の覇気など一蹴し、斬り伏せ、突き穿つが如き鋭さを持つ圧であった。

 心臓を穿たれたような感覚を信虎は味わい、やられたか、と死を感じてしまう。もちろんそれは無意識の本能的な危機意識が働いたからであったが、それが鍔迫り合いに与える影響は大きすぎた。

 僅かに怯んだ隙を見逃さず、信繁は力を込めて刀を押し出し、信虎を後退させる。それだけに留まらず、一歩踏み込んで押し込み、信虎は堪らず尻餅をついてしまう。

 

「お、おのれ!」

 

 信虎はすぐに体を起こして座り込んだまま刀を薙いだ。が、それは信繁が受け止めて叩き上げる。それでも信虎は振るう。三度。弾かれた刀を振り下ろし――

 

「虎昌殿に比べれば……ぬるい!」

 

 信繁の横薙ぎが、信虎の刀を真中から叩き折った。

 目を見開く信虎の前で、折れた刀身が信繁と信虎の間に突き刺さった。それはまるで信繁に跪くかのような印象を重臣たちに与えて。

 信繁は刀を仕舞わず、そのまま折れた刀身に並べるように床に突き刺した。

 

「˝甲山の猛虎˝に私を任されたのは失敗だった。˝越後の龍˝に˝相模の虎˝とは比ぶるまでもなし。父上に言うてもわからぬことでありましょうが」

 

 信虎とて戦では武功多き猛将。しかし信繁も37年の前世の生涯があり、そこで刃を交えた敵は数多い。隣国のみならず、離れた国の名将・猛将たちと渡り合ってきたその胆力、経験は、信虎に劣るものでは決してない。何より前世で最後に刃を交えたのは、『武田信玄』が生涯の好敵手として認めた˝越後の龍˝上杉政虎である。信繁は死んだ後のことなので知る由もないが、政虎は信繁を武田の真の副大将と褒め称えている。その信繁が信虎に劣ることなど、あるはずがないのである。

 

「今は切迫している状況。処分は追って沙汰する。今は一室にて謹慎を命じる」

「命じる……命じるじゃと!? このわしに、命令するというのか!」

「父上、いつまで武田家当主のおつもりか?」

 

 無礼であることは承知。子として、父に命令し、追放しようなどということがどれほど不孝なことであるかも。

 だがそれに悩む段階はもはやとうに過ぎたこと。信繁は意識して尊大に振る舞う。

 小山田信有が信繁たちの計画に加担しなかった理由に、信繁は弱く見えるという原因があったというのならば、尊大に振る舞うくらいがちょうどいいのだろうから。

 

「控えなさい、父上」

 

 信繁の横から、静かに信玄が前に出た。

 あのとき、信虎に叩かれて倒れ、見下ろす信虎と見上げる信玄だったが、この時その立場は完全に逆転していた。

 信玄だけではない。

 信繁の左からは信廉が。

 

「私たち武田家の、新たな当主が御前です」

 

 彼女たちにも、すでに迷いはない。

 

「信玄、信廉……この恩知らずの小娘が――」

「「黙りなさい」」

 

 信玄も信廉も、共に自身の覇気を躊躇うことなく放つ。信繁の覇気とぶつかることなく、まるで相乗効果を持つかのように一層信虎を抑えつける。

 

 

 

 

 

 甲斐源氏、武田家第19代当主――武田信繁。

 

 

 

 

 

「頭が高い」

 

 信玄の宣言は重臣一同にも響き渡り、思い出したかのように皆が膝をつき、首を垂れる。

 信虎は彼らを見ながら言葉もない。すでにここの全員が自分を見限っていたと、彼はようやく気付くに至ったのだ。

 そしてすぐに湧き起こる、どうしようもない怒り。その怒りを放とうとして――しかしそれは信繁の言葉に遮られるのである。

 

「父上」

「く……!」

「猛省なされよ」

 

 それ以上の言葉は必要ない。この状況が何よりの理由である。

 信繁は暴れるようなら拘束し、館の一室に閉じ込めておくようにと命令し、信虎を連れて行かせる。

 信繁・信玄・信廉の覇気にやられ、力でも信繁に押し切られたことが効いたのか、信虎はそれ以上抵抗しなかった。力によって他を従えてきた信虎は、案外力で押し負けると弱かったのかもしれない。

 

 

「……相変わらず、兄上は甘いですね」

 

 襖が閉まり、兄音が遠ざかっていくと、ふと信玄が言葉をかけてきた。

 その意味するところは信繁もわかっているからこそ、苦笑いで返すしかない。

 

「謀反を起こしたのなら、敵の総大将は少なくとも牢に入れるべきでしょうに」

「やもしれぬな」

 

 結局、殺しもできないし非道な扱いもできない。

 理屈はもちろんある。ここで信虎を武力で排したような印象を与えては、すでに一揆がおきているとは言え、今以上に武田からの民心離反がひどくなるからである。武力に偏り過ぎたからこそ甲斐の民は不平不満を抱いているのであり、武力による当主交代はやはり印象良く映らない。信繁や信玄への当主交代は甲斐の民も望む者がいることは事実だが、武田そのものへの不信が強まっている現状では、武田一門である信繁や信玄が武力をみだりに振るうことは逆効果でしかない。

 

「父上を今後どうするかは問題だが……今はそれどころではない」

 

 信繁は静かに軍議の間を見回す。跪いている重臣たちが一言も発さぬままに信繁を見上げていた。そこには事を成した感激に打ち震えている者はいれど、それは少数。ほとんどはこの状況に戸惑っている者ばかりだ。だからと言って目に見えて混乱している者はいない。自省を利かせ、状況の説明を望んでいる。さすがは荒事にも強い武田家臣団である。肝が据わっている。

 信繁は部屋の中央に在りながら今一度彼らを見回す。

 

「皆、心配をかけた」

 

 跪いていた虎昌たちが揃って顔を上げる。

 

「事細かに説明せずとも理解していよう。たった今、我が武田家は代替わりを行った。決して好ましくないやり方ではあったが、我々は当初の計画を1つ、達成したと言えよう。目下の問題であった信玄のことであるが、これも解決している。信玄は当主への就任を受け入れてくれた」

 

 信玄が静かに頷くことで応えると、家臣たちから歓喜の声が上がった。

 

「本来の計画ならば、あとは時を置いて信玄へ当主の座を譲渡し、信玄が私を追放すればよいのだが……皆もわかっての通り、本来の計画にはない状況になってしまっている」

 

 戦が起こらないなどと悠長に考えていたわけではない。突然の当主交代劇による混乱は自国のみならず他国にも波及し、これを機と捉えて甲斐を侵す者が現れることは当然想定していた。ただなるべくそうならないようにする……ゆえに迅速さと的確さが求められたのだ。

 だが計画は大きな狂いが生じた。現在、甲斐は国内にて一揆が起こり、西から小笠原・諏訪の連合軍、東南からは北条軍。これらすべてに対処しなくてはならない。

 

「今このときに私が兄上を追放してしまっては、その計画の意味がありません」

「けだし……信玄様の仰る通りで」

 

 たった今、代替わりが起こったばかり。ここで直接信玄が当主になれば、世の中には信繁による信虎排斥ではなく、信玄による信虎排斥と映ることだろう。それはならない。それを避けるための計画だったのだから。だからまずは信繁が当主となる段階を踏まねばならない。とは言え、直後にさらに信玄に当主の座を譲っても、余計な混乱を生むだけであり、結局は信玄が信繁を利用したのだという見方さえできよう。

 

「この状況が幸いを生むとすれば、それは信玄の能力を示す機会であるということ。ここで信玄が名を挙げれば、甲斐にこれほどの混乱を持ち込んだ私を追放するには絶好の理由となろう」

 

 それでも信繁は計画をあきらめていない。修正すればいい。今の状況に合わせて。ただ、流されるのではない。あくまで計画の根幹は変えず、目的を見誤ることはない。

 

「この状況すらも、利用なさるおつもりで?」

「天下を目指す武田がこの程度で根を上げていては話にならぬ。違うか、諸将よ」

 

 

 

 

 

「信繁様もなかなかご無理を仰いますな」

 

 

 

 

 

 信繁の声に答えたのは軍議の間の誰でもない。戸を開けて入ってきた1人の老将だった。

 正確には老将は少年――佐五の肩を借りて支えてもらいながらではあったのだが。

 

「虎泰!」

「老!」

「大将殿!」

 

 頭には包帯を巻き、顔には青痣をこれ見よがしに作った虎泰の姿を見て、信繁は自身の顔が歪むのを抑えられなかった。しかし逆に虎泰はとても穏やかな顔をしており、たった今当主となった信繁の姿をじっくりと眺めている。感慨に耽る、本当の祖父のように。

 

「……ご立派でございまする、信繁様。いや、˝御館様˝」

 

 何よりの賛辞。例え一時だけの当主であっても、信繁は虎泰のその賛辞に胸にこみ上げるものを感じつつ、静かに頷いた。

 やはりこの老将は死なせるべきではないと、信繁は痛感する。彼がいるというだけで空気が違う。もはや甘利虎泰という人物は、武田にとって切り離せぬ存在なのだ。

 

「佐五も、よく無事でいてくれた」

「信繁様……! 信繁様こそ、よくぞご無事で!」

「うむ」

 

 佐五の手には連名状が握られていた。少し強く握られたために皺が目立ってしまっているが、連名状の存在が無事であることは非常に意味のあることだ。

 信繁は佐五に自身の刀を渡し、武田一門の刀持ちではなく、改めて武田家当主の刀持ちとして軍議の間にいるように言う。佐五は「お、恐れ多くもこの山寺佐五左ェ門、拝命いたします!」と虎泰を支えながらも直立して答えた。

 信繁は頷き返し、虎泰をいつもの位置――当主のすぐそばの席に座らせ、自身は当主に用意された床几へと腰を下ろした。信玄と信廉は武田四天王と同列の位置に座す。その様子に、家臣団からは感慨深い溜息すら漏れていた。

 信繁もそれを拾い聞きしつつ、しばし口を閉ざしてその床几の感覚と、そして当主の座から見る軍議の間の光景――諸将が左右に並ぶその様を味わう。生前でもなかったこの位置。いつも副将として『武田信玄』のすぐそばの席に座っていたのに、今の自分は当主として皆を眺める場にある。これはこれでなかなか気分はいいが……責任感は副将としてのそれとはやはり比較にならない。向けられる視線、敬意、期待……それらすべてが副将へのものとはまるで違う。

 

(これが……兄上がいつも見ておられた光景。感じておられた空気か)

 

 脳裏に『武田信玄』の姿を思い浮かべ、采配を振るっていた記憶を呼び覚ます。この重圧に耐えて武田家をあそこまで繁栄させた自身の兄は、やはり偉大であったと改めて思う。

 

「御館様」

 

 慣れないその呼ばれ方。そしてこの二度目の生涯でもおそらくはもう呼ばれることもないであろう呼び方に、信繁は我に返る。ふとその呼ばれ方はやはり性に合わないなと苦笑しながら。どうやらそれだけ、副将としての在り方は染みついてしまっているらしい。

 

「如何なされた?」

「その呼ばれ方に慣れなければならぬな、まずは」

「まったくじゃ! だっはっはっはっはっは!」

 

 虎昌が豪快に笑うと、その笑いが諸将に伝播する。久しく軍議の場ではなかった笑声が続く。信虎の代ではなく、これが信繁の代の空気なのだと、早くも諸将の中で受け入れられ始めた証拠なのだろうか。

 いい感じに固かった空気がほぐれ、諸将の構えが緩まった。それは決して気が緩んだということではない。諸将の顔に浮かぶのは笑みさえ感じられる余裕さ。この状況に少しも悲観していない、先への期待を感じさせるような雰囲気を纏っている。武田家臣団が優れたと言われる所以を感じさせる頼もしさがあった。

 

「では、軍議を始める」

 

 信繁の一言で武田が動く。

 その責任の重圧と、そして少なからざる快感を得ながら、信繁は小姓が皆々の前に広げた甲斐全土を記した地図を見下ろした。

 

「状況は館までの道中である程度聞いているが、最新の情報を知りたい」

「では私めが」

 

 挙手をしたのは、細い目をした女性である。『妙齢』という言葉の合う年頃だが、見た目は童のよう。後頭部でやや雑に髪を括り、身に着けているは動くことを妨げない程度の軽装。胸の膨らみがなければ男と見紛うような風体である。

 しかし彼女を普通の童などと間違えないのは、その身に刻まれた十数の傷。唇のそばにも小さな傷が生々しく残っており、残念ながら女性としての柔らかな雰囲気というものはない。しかし本人はそれを気にしておらず、傷は誇りだと言って屈強な男たちに引けを取らぬ豪胆さを見せる。

 

 多田淡路守満頼。

 

 後に甲陽五名臣に数えられる名将である。

 信虎に長く仕えた宿将の1人であり、そして信繁にとっては他の将よりある意味で貴重な能力があることで、本計画には外せない将でもあった。

 

 

 

 彼女は童のような小柄な体格を逆に生かした夜襲の達人なのである。

 

 

 

 夜襲は昼間の戦闘と違い、視界が悪く、標的にばれてもならないために狼煙や法螺貝といったものも使えず、視覚・聴覚両面において情報が限られてしまうため、その指揮は名将と言われる者たちでも苦労するものである。取りも直さず、それは夜襲戦を得意とする将は相当の指揮能力を持つということである。

 さて信繁がなにゆえ満頼を重用したかと言えば、確かにその高い指揮能力もさることながら、それは二の次と言ってもいい。なにしろ武田家臣団は皆々精強で戦巧者であり、指揮能力という一点ならば虎泰を始め、各将が揃っているのだから。

 では何か。

 

 

 

 情報力である。

 

 

 

 そも夜襲とは、大規模な部隊の投入は隠密面で難しく、またただ襲えばいいというものでもない。少数で多数を襲って目的を遂行する場合、正面から殴り込めばいいわけではないのだ。相手の痛み所を如何にして突き、相手を弱らせるか。そのためには長らく時間はかけていられないからこそ事前に相手の位置や布陣状況、兵数、指揮官は如何なる者か……といったことを知らねばならない。

 優れた武田家中において弱点を挙げるとすれば、甲州兵の気質である荒っぽさに起因する正面からの力押しに拘ることである。信虎の気性もあって、その傾向は顕著。故に情報戦になると武田は他家にどうしても見劣りしてしまう。殊に甲斐と武田を取り巻く他家の中には、北条早雲・長野業正といった策士の存在もある。であるがゆえに、武田家の情報力の底上げは信繁にとって命題であった。勘助の登用もその一環に通じている。

 

「現在、我が軍が対処せねばならない敵は一揆勢・信州連合軍・北条軍の3軍。兵力は一揆勢がおおよそ五千、信州連合軍が八千、北条軍が八千とのこと」

 

 総数二万を超える大軍である。

 しかし家臣団には苦々しい顔、深刻に眉を顰める者はいても、オロオロと周囲を見回したり弱音を吐いたり者はいない。表情や思考の違いはあれ、まずは満頼の言葉に耳を傾けている。

 

「まず一揆勢の方ですが、指揮するのは亡き4将の遺族。彼らが農民たちを率いており、一糸乱れずとはいかずとも充分に統制がとれている様子から、4家同士、そして4家と農民、彼らの結束はかなり固いものと推測されます」

「かの4家の領地と言えば逸見筋や西郡筋。4家の繁栄を支えた地ですから。4家の民への対応も丁寧だったとのことですし、長年の領主と民の関係の良好ぶりが窺えますね」

 

 逸見筋とは律令制における国郡制度による地域区分で生まれた言葉である。甲斐国北西部のあたりを指し、特に逸見筋は八ヶ岳からの湧水といった自然の恵みを受けて甲斐国最大の米の生産地となっている。ここを拠点とする4家は、それゆえに武田家においても重用され、この武田家の軍事力と財源を支えるがゆえに手厚い保護を受けてきた。

 

「ここでの舵取りを誤れば、この戦を終わらせても今後の武田家の行く末に禍根を残しますな」

 

 高松の指摘はもっともである。

 信虎であれば力で制したことだろう。もしそうしていたら、今後の武田家の領土経営に多大な悪影響を残したことは間違いない。民の不信、4家の離反、そして甲斐国最大の米の生産地をむざむざ戦火に晒して甲斐国に飢餓をもたらした可能性さえある。

 

「うむ。ただまあ、一揆に対しては悲観せずともよい。気にするな」

「は? 信繁さま、それはいったい何故でございましょうか?」

「仔細は後で話す。まずは情報を」

「ははっ」

 

 言葉を挟んでしまったことに頭を下げながらも高松の顔は訝しげなまま。高松だけではなく、諸将の顔にやや不審が見て取れる。本当に信繁はこの事態の重みを理解しておられるのかと。

 しかしそこは虎泰。視線を高松に向け、無言で頷いておく。すると高松は虎泰がわかっていると言うのならば問題はないだろうと口を噤んだ。相手は信虎ではない。信繁だ。彼ならば自分たちの言葉にも耳を貸してくれる。ならば今は黙って従おう。

 

「多田殿……いや、多田。一揆勢はどうしている?」

「はい。現在は小淵沢から釜無川上流域に至る広範囲に小部隊を点々と配置。主力は長坂に置いている模様。主に白山神社や本源寺を拠点としております」

 

 未だに家臣たちを『殿』付けなしで呼ぶことに慣れず、何とか総大将としての威厳を保とうと苦労する信繁。そうとは知らず、そして気にすることもなく、満頼は報告を続ける。

 

「部隊の構成は?」

「基本的に4家の侍衆が1人以上。そこに農兵が複数」

「ふむ。斥候といったところですか」

 

 土地勘のある農兵を各所に配置することでその土地の人間しか知らないような道すらも網羅して警戒し、彼らを侍衆が束ねているのだろう。こういうところも互いの信頼関係が成り立っている証とも受け取れる。

 神社や寺を本拠地にしている辺り、おそらくは僧兵らも加わっているのだろう。一揆に宗教が結びつけば厄介なことになる。家臣たちの顔にも苦々しいものが混ざり始めた。

 

「我らが攻めてくるのを警戒するは当然として、小淵沢方面にまで手を回すとは……笹尾砦の小尾衆を警戒してのことか?」

「事が一揆勢だけなら原殿の推測も通りましょうが、小尾衆は現在、武川衆と共に小笠原と諏訪の連合軍を止めるために砦に籠っている。如何に精鋭と言えど、連合軍八千を相手にとても一揆にまで向ける余力はありますまい。山県殿らの家がそれを理解できていないとは思えんが……」

「小幡殿の意見に同感でござる。小笠原と諏訪の連合軍が一揆勢の拠点のある七里岩の北部側に来るのを防ぐためではとわしは見るが、如何か?」

「考えられんことはないな。敵の敵は味方とは言うが、4家も武田の臣として信州勢とは度々ぶつかってきた。互い信用できるものではないだろう」

「となると、信州勢と一揆勢に結び付きはないと飯富・板垣の両将は思われるのじゃな?」

「その……諸将に申し上げる」

 

 ふと高松が横槍を入れることを詫びながら話に入りこんだ。信方が露骨に不快を表情に出すが、虎昌が「何という厳めしい顔をする鬼女じゃ」「誰が鬼女だ!」「おお、恐ろしい。鬼じゃ、鬼がおる!」「と、虎昌ああああ!」と信方を怒らせたため、高松が不快に思う隙すらもなかった。むしろまたかとばかりに呆れを含んだ笑みを見せるだけだ。

 

「軍議の場での意見の出し合いはよろしいが、御館様を差し置いた発言は如何か?」

「いや、いいのだ、横田ど……横田」

 

 また『殿』を付けそうになったところを信玄の少し強面の笑みによって寸でのところで回避する。信繁は1つ咳払いをすると改めて高松を制した。

 

「父上の代では軍議もあくまで父上の意に沿うための質疑応答のようなものでしかなかったが、私は積極的に皆と意見を交わし合った上で決めたい。最終的に決めるは私の役目だが、それまでは諸将の忌憚のない意見を聞きたい」

 

 前世でも『武田信玄』は合議制による領土経営を進めてきた。非常に独立性の強い小領主としての家臣たちを束ねる上では、信虎のように強い権限を使って自分の意を優先させる強さを見せるのも1つの手であるが、それは同時に不満を買う危険性も背負う。信繁は合議制を取り、あくまで最終決定権は当主に残しながらも、家臣たちの活発な意見を求めた。信虎のような1人の暴走を防ぐという意味でも、合議制は適当だから。そして別の理由として、今のうちに合議制を武田家臣団に浸透させておきたいのだ。信玄の代になった際に、やり方の違いで家臣たちが戸惑わないように今のうちから。第三の理由としては、信虎による暴走が家臣や民衆の不信を駆り立てた以上、合議制を取ることで武田の強権行使ぶりを控えるという姿勢を見せて不信を和らげるためだ。小領主たる家臣たちの意見が通りやすくなれば、各々の家臣の領地に住む民衆の言葉も通りやすいということ。武田家の改善の意思が民衆に伝われば、武田家の信頼回復にも繋がるのである。

 これらはすべて一朝一夕に成るものではない。長期的な視点で行わなければならない。できれば早いうちから行うに越したことはないのだ。

 

「だからと言って、夫婦漫才は自粛してもらいたいものだがな」

「これは手厳しいのう。だが御館様のお言葉とあれば従わねばなるまい」

「信繁様……いえ、御館様! こ、このような獣と私が夫婦だなどと、この信方、さすがに異議を申し立てたく!」

「却下ですね」

「し、信玄様まで……!」

「控えなさい、信方。兄上の御前です」

「は、はい……」

 

 虎昌が愉快そうにニヤニヤと笑う中、信方は赤くなった顔を虎昌から逸らせつつ、凍てつくような視線だけは虎昌に向けて。

 その様を見ながらこの2人だけは今後もどんな状況でも変わらないなと半ば確信しつつ、信繁は軍議を続けさせる。

 

「それでは続いて信州勢の動きですが……彼奴らは甲斐に侵入後、小淵沢付近に火を放ちつつ進軍。一揆勢の様子を窺っていた節がありますが、先ほど早馬からの伝令にて、現在小尾衆の籠る笹尾砦の包囲を始めたようです」

「うむ。報告の最中だが、今度は私の方から先に皆に伝え置くことがある」

 

 すでに満頼は察しているだろうが、と前置きして。

 

 

 

 

 

「笹尾砦は放棄する。小尾衆には包囲殲滅される前に中山砦への撤退を指示した」

 

 

 

 

 

 途端に家臣たちが色めき立った。

 信玄が一言静まれと言い放つとすぐに静かにはなったものの、不満げな顔はなくならない。もちろん信繁も不満を持たれることはわかっているが、ここで小尾衆を失うような真似はできなかったのだ。

 笹尾砦はそれほど堅固な作りではない。八千の兵力を相手に持ち堪えられるものではない。最後は自害して果てるか玉砕するか……精強だからこそ降るという選択肢を持たない小尾衆。彼らを失うことは避けたかった。

 

「皆もわかっていようが、此度の我が軍の兵力を考えれば、損害を如何に減らすかが重要だ」

 

 今回集まった武田軍の兵力は六千。これでも付近の農村から少し無理をしてでも集めた結果である。

 前世においてこれに該当する戦と言えば、『武田信玄』が当主となって間もなく、小笠原・諏訪が攻めてきた韮崎合戦だろう。当時の彼らの兵力は九千六百だったことを考えれば、多少少ないと言えるが、北条が侵攻してきたことを鑑みれば前世より厳しい。

 対してこちらは前世同様に六千。だが兵をかなり無理して集めてようやくだ。此度の戦においては小山田氏がこちらの招集命令に従わず、北条軍を甲斐に迎え入れているのだ。正確には歓迎も加勢もしないが迎撃もしないという、消極的な行動に出たのだ。さらに穴山氏は駿河の今川氏を牽制するために兵を回せない。前世では武田と友好関係の強かった今川氏であるが、今回は今川氏に当主交代の計画を伝えていたわけでもなく、今川氏は『同盟を結んだ武田信虎を追放した者を討伐する』という大義名分を掲げることができる立場。北条が攻めてきた中では今川も信用しきれないのだ。抑えはどうしても必要になる。

 

「それ以外にももう1つ。小山田信有がどう動くかわからぬ今、河内の穴山勢は今川への牽制であると同時に、これから信州勢を討つべく向かう我が軍の後背を突かせぬための役割もある」

 

 北条や小山田の軍が武田の中枢である躑躅ヶ崎館に攻め上ろうとするのなら、大軍が通過可能な道は大きく3つ。

 1つは相模・武蔵方面の国境防衛を担う戦略上の要衝、岩殿城を通過して甲斐東部の笹子峠を越える。

 1つは南都留郡から河口湖の東を通過して御坂峠を越える。

 1つは青木ヶ原や多数の山々を越えて甲斐南部へ回り込んでいく。

 

「おそらく3つ目はないだろう。少数でこれを踏破して甲府へ至る策を使ったとしても、そのときには向こうの疲労も大きかろう。そしてここは我が武田が領地。余所者の北条には地の利もない」

「奴らには風魔衆という忍者どもがついていると聞きますが」

「忍者たちがいても、実際にそこを通る上では不安はつきもの。それに、此度の北条の総大将は氏康殿と聞く。氏康殿を岩殿城に縛り付けておけば、如何に別動隊を率いる綱成殿と言えど、総大将を放置してあまり先へは進めないだろう」

 

 もちろんこれも岩殿城が持ち堪えることが前提であるため、絶対ではない。

 だが岩殿城を落とさないうちに甲斐の深部にまで侵入すれば、逆に北条軍別動隊は本隊と隔離される危険性を背負う。小山田の動きも消極的で、おそらくは北条と小山田もまだそこまでの信頼関係は持っていないと信繁は見ていた。だから戦況如何によっては小山田が北条を裏切ることもまたありえる。氏康や綱成がその点を見落として3つ目の道を通っての強襲を仕掛けるとは思えない。

 

「小山田が消極的行動をとっているのもある意味で幸いでしたね。小山田勢が態度を明確にしない今、北条氏康も北条綱成も小山田を警戒しなければなりませんし」

「姉上の仰る通りですが、戦況が北条有利となれば小山田が私たち武田に明確に宣戦布告をしてくる危険もあります。そうなれば北条軍八千と小山田勢数千を相手にしなければならないことになります。小山田の抑止力になど期待はできません」

「くそっ、小山田め……! 小山田が我が方として動いていれば、上野原城も持ち堪えられたやもしれぬというに!」

「それはどうだろうな。北条軍が二手に分かれてきたのはそれも考慮してのことだと思うが」

「上野原と山中から……郡内を挟み込むように侵攻してきましたからね。こうなると例え小山田勢が我が方についていても、下手に上野原や岩殿に援軍を出せません」

「信玄の言う通りだろう。援軍に行けば綱成殿がその後背を突く。小山田は郡内の支配に拘っているゆえ、郡内を戦場にしたくないだろうしな」

 

 小山田氏の居城――正確には城というより館だが――は都留群の谷村城。詰城として勝山城も築いている。

 谷村の北方に位置する上野原城・岩殿城へ援軍に向かった場合、谷村より南方の山中から侵攻してきた北条綱成率いる三千がその後背を突く形になる。兵力的にも小山田勢には厳しい相手だ。どのみち谷村城からは動けないと見るべきだろう。

 また一方で岩殿城への攻撃は北条にとって絶対に外せないこと。これを落とさない限り笹子峠を越えることもできない。だから信繁は北条軍が上野原と山中の二方向から侵攻してきたことを知った時点で、信龍を将として岩殿城へ向かわせていた。

 

「信龍様がいらっしゃらないのはそれが理由ですか」

「信虎様が上原殿を岩殿城の守将に指名していたのは幸いでしたな」

 

 岩殿城は小山田氏が主力になって管理する城なのだが、今回の件において小山田氏は積極的な軍事的行動は行っておらず、岩殿城からも兵を退いてしまっていた。上野原城の加藤氏らは武田への忠誠を誓っているため、彼らと援護に赴いた昌辰によって岩殿城は何とか取られずにいるが。

 

「しかし私が館に着く前にもう上野原城は北条軍に陥落したとの知らせを受けている。岩殿城は上野原城よりもはるかに堅固であるが、守備兵力は信龍と上原率いる、僅か一千だ。長くは持たないだろう。早々に信州勢を退け、援護に向かわねばならぬ」

「ということは、御館様は信州勢に主力を当てるおつもりで?」

「あくまで現時点の私の考えだ」

「……御館様」

「何か、甘利?」

「すでに御館様の頭には此度の戦絵図があるものとお見受けいたしまする。先にそれを御開帳頂きたく候」

 

 信繁とて考えはあったが、合議制を取ると言った手前、自らの意見は最後にすべきかと考えていた。自身の意見を言ってしまうと、どんなに皆の意見を聞きたいと言っても、根底には自身の意見が皆の頭に刷り込まれ、結局信繁の案が根本になってしまいかねない。長らく信虎の我優先という状況にあって、それでは合議制を取る意味を失いかねないのである。

 

「御館様。この甘利、御館様のお考えに異を申すつもりはございませぬ。なれど、此度はこうして悠長に話している状況でもございますまい。一刻も早く行動せねばなりませぬ」

「……ふむ」

 

 信繁は1つ頷いて目を閉じ、腕を組んだ。その様子に家臣たちには信虎の姿がどうしても重なってしまう。自身の策に異を唱えられると途端に不機嫌になって怒鳴り散らす。それがいつものことだったからだ。

 しかし、やはり信繁に対してそれは杞憂というものでしかなく。

 

「なれば、私の案を先に披露しよう。問題点があるなら遠慮なく申せ」

 

 信繁は膝を叩いて諸将を見回した。

 その声は家臣たちを重視しようという和の精神が籠っているが、同時にこの作戦には自信があるという強さも込められていた。

 優しさだけでは将は務まらない。それゆえの気概だ。諸将はそれを歓迎した。

 

 

 

 

 

 信繁の案が諸将に伝えられる。

 

「――ゆえに、ここから先の細かい下りは諸将の臨機応変さに任せたいと思う」

「これは何とも……兵たちもさすがに混乱するやもしれませぬな。これまでの武田の戦い方とはまるで違いまする」

「どの家とて兵の多くは徴兵した民衆。我々武士や雑兵とは違って、彼らはまず死にたくない、生き残りたいという願いがある。むしろこの作戦には彼らの方が適任やもしれぬな」

「何の、農民たちに我ら武士が後れを取るわけにはいきますまい」

 

 信繁が持った指示棒が地図上を動くたび、諸将から唸りとも感嘆とも取れる音が漏れ出る。

 

「――御館様、一揆勢に対する動きがありませぬが?」

「確か御館様は先も一揆勢のことは気にするなと仰られたが、その理由をお聞きしたい」

「うむ。それはな――」

 

 時に挙手があり、それを信繁が指名して意見を聞き、活発な議論が行われ――。

 

 

 

 

 

 

 一刻後、軍議は終わった。

 武田軍総兵力、六千。

 うち一千は上野原城を落として勢いづく北条氏康率いる北条軍本隊五千を足止めすべく、武田一門の信龍を主将、昌辰を副将として小幡虎盛ら各将と共に岩殿城の防備を固める。

 

「――見えましたぞ、信龍様、上原様。北条だ」

「では信龍様、号令を」

「う、うん……え~っと、ゴホン。みんな、危なくなったらノブタツに言うのだ! あとは……うん、諦めたら駄目だ! 兄上も姉上も絶対にノブタツたちを見捨てないんだからな! ていうか負けたら信玄の姉上が怖いから絶対に負けちゃ駄目だああああ!」

 

――オオオオオオオオ!

 

 

 

 

 

 そして館を進発する主力の四千。その先頭に立つは――

 

「出陣します! 皆の働きに期待します! 存分に戦いなさい!」

 

 信玄であった。

 

「此度は信玄様が指揮をお取りになる! 勝利はもう決まったようなもの! 恐れるな! 武田の威を見せつけてやれ!」

「˝鬼美濃˝と呼ばれるこの身、此度も戦場にて敵に思い知らせてやるわよ!」

「姉上は信玄様のこととなると活気づくが、油断なさらぬかがやはり心配だな。ここは俺がやってやらねばならないなあ!」

 

――オオオオオオオオ!

 

 主将を信玄、副将に信方を据え、˝鬼美濃˝原虎胤を始め諸角虎定など武田の誇る家臣団も多くがこれに付き従う。

 

 

 

 

 

 その彼らより一足早く、館を発つ複数の影。

 

「急ぎます!」

「信廉様に遅れるな! 続けぃ!」

「はあっ!」

 

 信廉を先頭に虎泰と高松、それと数騎の兵が続く。

 

 

 

 

 

「もっともっと! もっと早く! 急ぐですよおおおお!」

 

 そして彼らが軍議をしている最中も単騎で闇夜を駆け抜ける者がいた。信繁の命を受けた教来石景政である。

 その頭の被り物を抑えながら、教来石景政は愛馬を走らせた。

 

 

 

 

 

「むう、なかなかにこの山道は厳しいものがあるな……しかし止まってはいられぬ」

 

 木々が生い茂る甲斐と信濃の国境沿いにある山を1人歩きながら、山本勘助は今一度気合を入れ直した。

 まだまだ先にある、目的地へと。ただただ足を進ませる。

 

 

 

 

 

「何としても見つけ出せ! ここで時間を食えば食うほど、信繁様に危険が迫る!」

 

 鎧など目につくようなものは外して動きやすい旅人の服装をした数人の集団が夜道を疾駆していた。

 折しも相模の地は雨。被った笠を前に倒しながら、飯富昌景は大村衆・御岳衆の者たちとこの地を走り続けていた。

 

(太郎、必ずわしはあ奴を見つけ出して戻る! それまで、絶対に死ぬな!)

 

 祖国にて自らの仕える家の当主となってこの危機に立ち向かっているであろう弟分を思い、重くなってきた足を、冷たくて寒くて震える手を、それでも動かし続ける。

 追い求めるはただ1人。信繁と昌景が見込んで逃がしたある1人を。

 

 

 

 

 

「さあて参りましょうぞ、若!」

「飯富殿。その呼び方は如何か」

「おお、そうじゃったそうじゃった! 御館様じゃ! わっはっはっはっはっはっは!」

 

 何がそこまで面白いのかわからない満頼を余所に笑い続ける虎昌を見ながら、此度の武田軍総大将である信繁は五百ばかりの兵を率いる。

 

「御館様の本隊がわずか五百とは……」

「大勢引き連れても間に合わん。速度が勝負だ。何としても綱成殿より先に御坂峠を獲るのだ」

「わっはっは! 腕が鳴るわい! ˝甲山の猛虎˝飯富虎昌と˝赤備え˝、北条と小山田の魂にしかと刻み込んでくれる!」

 

 その少ない兵をさらに2つに分け、信繁はそのうちの一隊である騎馬隊を率いて先行する。後続は逆にほぼすべてが足軽たち歩兵だった。可能な限り早く到着するよう、足腰の強い者を選抜してある。これを率いてくるのを虎昌に任せ、信繁は満頼をそばに控えさせて先頭に立った。そして兵たちの顔を一通り見回してから佐五が御していた愛馬に颯爽と飛び乗る。

 

「武田は終わらぬ」

 

 馬上より信繁は進軍してゆく信玄の部隊を目にしながら告げた。もう信玄の姿は闇夜に紛れて見えないが、きっと彼女もこちらを見ているのではないかと、ふとそう思った。

 

「ここより武田は始まるのだ」

「その通りでござる、御館様」

「若でもいいのだがな、虎昌殿は」

「いやいや、もう若とは呼べますまい。それにわしは、やはりこの日を夢見ておったのじゃ。御館様と呼べる日がくることを」

「そうか……短い間かもしれんが、存分に堪能してくれ」

「元よりそうさせてもらうつもりじゃ! だーっはっはっはっはっは!」

 

 1つ笑みを浮かべ、信繁はゆっくりと自身が向かうべき方角へと顔を向ける。甲府の街の先は真っ暗だ。住み慣れた街ゆえに普段なら怖さはない。だがその暗闇に突っ込んでいくことは、今日ばかりは恐れを誘う。だからこそそれを弾き飛ばすために、何より自身に檄を飛ばす。

 

 

 

「いざ、戦場へ! 武田典厩信繁、参る! 全軍、我に続け!――出陣!」

 

 

 

―――オオオオオオオオオオオオ!

 

 恐れなど何のその。蹄で蹴散らすが如く、信繁は馬を走らせる。それにしっかりとついてくる満頼たち。

 暗闇を朱の覇気が蹴散らしていく様を、言葉にできないほど感慨深く、虎昌はしばし、ただ、ただ、見つめているのだった。

 折しも夜が明け始め、眩い太陽が東の山の向こうにその姿を見せ始めて。

 

「…………」

 

 虎昌は眺め続ける。

 太陽の光を背に受けて走る、自らが傅役を務めた『若』の姿を。今では自らの『御館様』となった者の背中を。

 御館様――半ば諦めていたこの言葉を、信繁に向けて言うことができた。これで愉快なわけがない。気分が高揚せぬはずがない。

 

「勝ったのう、この戦」

 

 誰にともなく、虎昌は呟いた。そばの兵が見上げてくるが、虎昌は気にしない。

 

「疼くわい……後悔するがよいぞ、北条、小山田! 此度のわしは、˝甲山の猛虎˝は! これまでにないほど昂っておるわ!」

 

 猛虎の雄叫びが轟く。

 そのときのことを後に兵士たちは語る。

 こんな猛獣を相手にするとは北条も小山田も愚かなことだな……と。

 

 

 

 

 

――続く――

 

 

 

 

 

現状の各軍の動き

 

【後書き】

 

 ようやく出陣できました。(笑

 

 さて、書きたい書きたいと言ってたくせに更新遅いんだよというお言葉が聞こえてきそうですね……本当にすいません。

 いざ合戦を書こうと意気込んでいたところ、1つの問題に行き当たりまして。

 そう、動員兵力に関してです。

 

 皆さんもご存知かと思いますが、歴史を知るための価値のある資料――例えば『信長公記』などでも兵力に関してはかなり誇張された表現が多く、これが『甲陽軍鑑』などになるともう信用ならないと一般的にも認識されています。あくまで1つの指標として見るべきなんですよね。

 ネット上でも多くの方が議論されていますね。川中島も結局は数百や数千程度だったという方もいれば、もっと動員できたという方もいらっしゃいます。また度々、1万石でおおよそ250人程度、というのもよく聞きますね。大日本帝国軍が算出した数字のようですが。

 私もそれを調べていたら結局答えが出ないままでうんうん今も唸っています。軍制、そして米以外の特産物や金山銀山の存在による収入、時期、地域事情……いろいろですからね。国ごと大名ごとに考えも違うのですから、一概に言えない。

 

 なので荒っぽいかもしれないのですが、拙作では基本的に『甲陽軍鑑』に沿う形で、と以前にも言ったこともありますので、これを基準にします。できるだけリアルさを出したいところですが、だからと言って皆さんもコチコチの軍記物を読もうと思っておられるわけでもないと思うので。もしそうなら、拙作のような二次創作の上、転生だの女体化だのといった要素満載なものなど見ず、プロの方が書かれたものをご覧になるものではないかと。

 歴史的考察を取り入れるのはいいけど、ただでさえシリアスが多いのだし、兵力1つにも固くなりすぎて窮屈になるのも何ですしね。あまりに逸脱した兵力を出さなければ……ということにしました。

 

 さて、『甲陽軍鑑』では武田晴信が当主になった直後に起きた韮崎合戦(一説にはそんな合戦はなかったとも)では、小笠原・諏訪連合軍を九千六百と記しており、対する武田軍は六千としています。これをベースに連合軍は八千、武田軍六千と拙作では設定。もちろん、ここではまだ言えない理由があって連合軍兵力を減らしており、武田軍を決して楽させようなんて思って六千にしたわけではないです。そのぶん、武田軍は北条軍・一揆軍、もしかすると上杉軍にまで対応しなくてはならないですしね。

 

 戦では地名が多く出ます。生憎私も歴史家や考古学者ではないので、山梨県各地の古い地名などにはまったく詳しくありません。もしご存知の方がいれば教えて頂けるとありがたく思います。ただ、修正しきれないところも出てくるとは思うのですが。

 とりあえず、簡単な現状の各軍の動きや兵力を記した図を付け加えておきます。地図には山梨県とか思い切り現在の地名で書かれていますが、お気になさらず……って、無理ですよね。すいません。ひらにご容赦を!

 

 それでは今回はこれにて失礼いたします。

 


 
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