No.484507

竜たちの夢11

桃香との何気ない日常・蓮華の受け入れ・思春と愛紗による修羅場の巻

ここから、一刀の歪みが少しずつ見えてきます。
この歪みは今後鬱陶しいくらい出てくると思うので、重要です。

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2012-09-16 02:49:43 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:6396   閲覧ユーザー数:5356

 

 

 

先の黄巾の乱で首謀者張角を討った劉備は、その褒美として幽州涿郡の太守に任命された。

この対応に関しては様々な批判が、主に与える階級が低過ぎるという点であったものの、本人は全く気にせずにこれを受けた。

その批判をしたのが、共に黄巾党の本隊を討伐した曹操や孫堅なのだから、中々に笑える話である。

 

 劉備についていた者達は、不満はあったものの彼女の決定に素直に従った。

一刀は、滑り出しとしては出来過ぎているくらいだと考えているので、不満は無い。

寧ろ曹操や孫堅への恩赦が少な過ぎると言える……そこに両者があまり不満を抱かないのが不気味なくらいだ。

 

 しかし、そのことを考えている暇はあまり無い。

いきなり太守に任命された劉備の引き継ぎは中々に慌ただしいもので、一刀達は突然右も左も分からない状況に放り出されたも同然なのだ。

そんな中でも、しっかりと政治を行えているのは単に一刀と愛紗の教育の賜物である。

 

 

「劉備、今日の分の政務は終わらせたか?」

 

「うん、丁度終わった所。一刀さんの方は?」

 

「こちらも今明後日の分が終わった所だ。後で目を通しておいてくれ」

 

「うん、分かった。ふぅ……漸く慣れてきたね」

 

「そうだな……県の状態もしっかりと把握できて、漸く落ち着いてきた」

 

 劉備が太守となって、既に三ヶ月が経った。

最初の数日間は手探りに等しい状態であったが、すぐに混乱した体系の整理に入ったのは間違いでは無かったようだ。

御蔭で、今現在涿郡の状態は黄巾の乱以前よりも良くなっている。

劉備が敷く善政は大分民達に浸透し始め、彼女の人柄も十二分に広まってきている筈だ。

 

 ひたすらに腐敗を取り除き、殆ど一新に等しい状態に持って行った甲斐あって、涿郡は大分豊かになってきた。

劉備の人柄と、一刀達が整えた体制が民達に安らぎを齎し、流通も増える。

治安が良ければ人は来るし、更にそこに整った体制があれば、もっとやって来るものだ。

 

 幽州で最も豊かな郡は涿郡と言っても過言ではない……そこまで持っていくのに三ヶ月かかった。

三ヶ月でそこまでさっぱり変えたのは本来ならば凄いことだが、一刀の望むレベルまではまだ至っていない。

そういう意味では、この三ヶ月は皆を精進させる良い訓練となったに違いない。

 

 

「朱里ちゃんと雛里ちゃんはもう仕事を終わらせたの?」

 

「恐らくな。関羽と張飛もそろそろ終わるだろう」

 

「一刀さんと司馬懿さんの指導の御蔭で、政務が捗るね。本当にありがとう」

 

「なに、しっかりとそれについて来た劉備達自身の力さ」

 

「それでも、一刀さんが指導してくれなかったら、そうなることもなかったから。だから、ありがとう」

 

 昼前に政務を終わらせた劉備と一刀は、互いを労う。

彼女は作業が捗っていることに関して、彼に感謝しながらも、綺麗な笑顔でそれを甘受するように頼む。

彼は苦笑しながらも、それを受け入れた。

 

太守となって、更に多くの民達の笑顔を見ることができた劉備はこの三ヶ月でまた成長した。

それこそ、黄巾党を斬って震えていた時とは比べものにならない程、強くなった。

今の彼女ならば、きっと一刀がこれから教える痛みにも耐えるだろう。

苦しみはするが、乗り越えてくれる筈だ。

 

 

「どういたしまして」

 

「う~ん……明後日の分は後で見るから、お昼にしようか?」

 

「そうだな……愛紗、行こう」

 

「はい、一刀様」

 

 各県からの報告に目を通していた愛紗は、一刀の言葉に笑みを浮かべながら立ち上がる。

彼女の役割は細事の一覧から大事になり得るものを抽出することと、劉備の補佐である。

一刀は既に彼の分の政務を一週間先のものまで済ませてあるから劉備の手伝いに来ているだけであって、元来それは愛紗の仕事なのだ。

 

 愛紗はそれに口を挟まずに、一刀と劉備が共同で作業をするのを黙って見守る。

そこには劉備を逆鱗として欲しいという意思が見え隠れするが、一刀にその気は無い。

劉備に余裕を作る為にしているだけであって、そこに下心などありはしないのだ。

愛紗が期待しているようなことは、有り得ない。

 

 

「この前開いたお店に行ってみようか?」

 

「そうだな。そこで良いぞ」

 

「それでは、諸葛亮殿達にその旨を伝えて参ります。先に行っていてください」

 

「ああ、分かった」

 

 こういったことには侍女を使うものなのだろうが、隣の部屋に伝えに行くくらいならば必要無い。

侍女などはあまり雇わず、できる限り自分達で動くようにしてあるのだ。

そういった些細なことを任せる必要が無いように、常に余裕を持って仕事をできるようにしておかねば、この先やっていけない。

 

 最初は皆ヒイヒイ言っていたものの、一ヶ月もすれば慣れ始め、今や完全に馴染んでいる。

睡眠を殆ど必要としない一刀が余裕を持って仕事をしていたからでもあるが、それを抜きにしても大分素早くなった。

まさしく彼の望む形へと、少しずつ彼女達は近づいている。

 

 

「孫権さん達の受け入れ、いよいよ明日だね」

 

「ああ、明日だな。最初は反対されたが、皆理解してくれて何よりだ」

 

「むぅ……私はまだ反対なんだからね? 孫権さんと結婚なんて」

 

「孫権とは結婚する訳ではないと言っただろう? 飽く迄婚約の形であってだな……」

 

 そう、飽く迄一刀と孫権の関係は婚約者であって、婚姻を結ぶとは限らない。

劉備と関羽に大反対された末に、漸く一刀が導き出したのが婚約という形だったのだ。

孫権と孫堅も不満そうではあったものの、何も問題が無ければ一年後に結婚するという条件で、これに納得してくれた。

 

 訳を話すことですぐに彼の意図を理解してくれた孔明と士元の助け舟が無ければ、本当に孫権との婚姻は無かったことになっていた筈だ。

そうなると、孫権の命が色々な意味で危ない為、一刀は退けなかった。

数日に及ぶ説得の末、漸く劉備と関羽は納得してくれたのだ。

 

 その孫権と、思春達を受け入れる日は明日だ。

呂蒙を見つけたという報告を受けている為、何事も無ければ明日の昼にここに着くだろう。

護衛として周泰も行動を共にしているそうなので、問題は無い。

思春程ではないが、かなりのやり手であることは分かっている。

 

 

「孫権さん、絶対に一刀さんのことが好きだもん。このまま満足するとは思えないな」

 

「そうか?」

 

「そうだよ。文台さんが婚約という形を不満に思うのは良いけど、孫権さん本人も不満に思うのは絶対そう!」

 

「まぁ、少なくとも嫌われているよりは良いんじゃないか?」

 

「ああ、もう……一刀さんの鈍感」

 

 警備兵の待機している城門を挨拶と共に通り抜けながら、一刀と劉備は城下町へと向かう。

区画整理がしっかりと施されたこの城下町は、大凡どこに何があるのかが一目瞭然だ。

これによって、民達はどの店がどこにあるか迷わずに済む。

簡易な地図を区画毎に設置し、区画内での迷子を避けるという案も大分好評だ。

 

 飽く迄ここでの施行は実験的なものであって、これはまだ完成したものではない。

いずれ曹操が幽州を飲み込んだ時に、完成品をそのままくれてやる必要もその気も一刀には無いのだ。

だから、まだいくつかの問題点は確かに存在する。

とは言っても、民達に問題が生じる訳ではない程度の問題であり、困るのは治める側だけだ。

 

 言うなれば、この善政そのものが曹操を欺く為の罠であるのだ。

 

 

「あ、劉備様だ!」

 

「こんにちは、劉備様!」

 

「こんにちはー!」

 

「こんにちは、皆。今日も元気にしてる?」

 

「「「「「「「うん!!」」」」」」」

 

 城下町に入った途端に劉備を囲む子ども達の眼は輝いている。

劉備はこの郡の皆にとって大切な存在へとなりつつある……たった三ヶ月でここまで来たのは流石だ。

今の一刀では、こうは行かない。あまりにも強大になり過ぎた彼は、ただ見ていることしかできない。

 

 彼が加減を誤ることは無いが、もしもの時を考えるとそれはできなかった。

今の彼は、責任のある立場に居るのであって、かつてのように旅の者ではない。

彼が誰かを殺せば、その責任は彼だけでなく劉備達にまで及んでしまうのだ。

だから、彼は静かに見守るだけで、そこに加わりはしない。

 

 

「……見事なものだ。あそこまで子ども達に好かれるとはな」

 

「一刀様も、同じでしょうに。ただ、触れ合うのが危険だと恐れているだけですよ」

 

「愛紗……俺が本当に恐れているのはそこじゃない。俺がこうしてここに居るのは、彼女の為だ」

 

「……成程。確かに、危険です」

 

 一刀はその気になれば劉備以上に民達の心を掴むことも不可能ではない。

だが、ここは飽く迄彼女が治める場所であって、彼女以上のカリスマは必要無い。

だから一刀は大人しくしていなければならない。劉備に自分の力で人心を掌握させる為にも、彼は一歩退いておいた方が良い。

 

 

「それよりも、中央の動きはどうだ?」

 

「今はまだ静かです。董仲穎も相国に任命された後は善政を敷いているようですし」

 

「ふむ……となると、やはり何進と十常侍の争いに巻き込まれる可能性が高いか。あそこ以外は大分落ち着いたからな」

 

「私もそう予想しております。どうされますか?」

 

「……もしもの時は、程遠志達に救助を頼むか」

 

 董卓仲穎は今回、涼州の黄巾党を彼女の勢力のみで討伐した褒美として相国に任命されたのだが、これはかなり無理がある。

勿論彼女の功績は大きいが、そこまでの地位を与えるならば、劉備にもそれ相応の地位を与えるべきなのだ。

曹操と孫堅が怒ったのはこの妙な贔屓についてであって、既に漢王朝が腐敗しきっていることを示している。

 

 確かに単一の勢力で涼州の黄巾党を鎮圧したのは素晴らしいことだ。

だが、その戦力差を考えればあまりにも恩賞の程度がおかしいと、二人は言っていたそうだ。

十五万を超える本隊を相手に五万以下の戦力で勝利した劉備、曹操、孫策、袁紹に対して、せいぜい“合計すれば”八万程度に及ぶか否かの戦力を相手に精兵五万程度で勝利した董卓……この場合、劉備達の方が大きな手柄を立てているのは明白だ。

 

 しかし、実際は董卓仲穎が相国に任命され、劉備や曹操、孫権よりも多くを得た。

いきなり中央の最高権力に等しい場所に配置されたのだから、それを生かさぬ手は無い。

一刀ならば、既に朝廷内部を完全に一新していただろう……それこそ、血の雨を降らせて。

あまりにも腐敗してしまった部分は、もう焼切るしかないのだ。

 

 

「希望は残しておいてやらねば、な」

 

「では、程遠志達にはそのように伝えておきます」

 

「ああ、頼む」

 

 史実では七年の時を要したが、この世界ではもうすぐ董卓は悪とされるだろう。

あまりにも贔屓された彼女を妬む者は多いだろうし、そろそろ動き出してもおかしくない。

反董卓連合が結成されるのならば、一刀は喜んで参加する……例え事実が異なっても。

最終的に参加するか否かを決めるのは劉備だが、彼女も恐らく参加を選ぶだろう。

 

 今現在、劉備の下に集った兵は五千程度である。

黄巾党の本隊をたった千で突破し、首謀者張角を討ち取ったという情報がここまでの数を集めたのだ。

劉備の人柄もまたそこには関係しているのだが、決定的なものはやはり力だ。

力が伴った彼女の理想は強い……これからもっと強くなる。

 

 今得られる兵糧などを考慮すれば、これ以上戦力を増やすのは得策ではない。

しかし、その代わりに練度は先の義勇軍よりも大分底上げした。

勝つことよりも負けないことに重点を置いた訓練は、兵達を粘り強くし、その生存力を飛躍的に高める。

後は、実戦経験さえ積ませれば十二分に強い軍の完成だ。

 

 

「ふぅ……やっぱり子どもは皆元気だね」

 

「もう良いのか?」

 

「うん、行こう。一刀さん、司馬懿さん」

 

「……そうだな」

 

 子ども達と粗方遊び終えた劉備の言葉に静かに頷くと、一刀達は再び歩き出す。

劉備玄徳は確かに武や知力では曹操や孫堅には劣るかもしれない……だが、そこは一刀達が補えば良い。

彼女はただ、強くあれば良い。絶対に揺るがぬ理想を抱きながらも、現実との差異に絶望しない強ささえあれば良い。

 

 誰もが望む恒久平和という理想……それを実現するのは難しい。

しかし、不可能ではない。竜にならば、それができる。

逆鱗さえ失わなければ、竜は永遠に腐敗することなくその力を示し続けることができるのだ。

だから、一刀はいずれ劉備の下から離れるのだ。

 

 一匹の竜としてこの世界に平和を齎し続ける為に。

 

 

「あっ、あそこだよ!」

 

「ん? この店は――」

 

「へい、らっしゃい!! 御注文は何ですか?……って、旦那!?」

 

「ああ、やはり貴方だったか。あれからどうだ?」

 

「旦那から頂いた本の御蔭で、大助かりです!!」

 

 何処か見覚えのある装飾だと思ったが、やはり一刀が一ヶ月前に出会った店主だった。

夫婦で料理店を経営しているが、あまり店が振るわない為どうにかしたいという旨の不思議な意見が、民の意見を纏める目安箱なるものに入っていたのが始まりだ。

実際に会った彼に、一刀は彼の居た世界での有名処のレシピを纏めた本を与えたのだが……どうやら上手く行っているようだ。

 

 メニューを見遣れば、一刀には懐かしいパンやクッキーなどの名前が書いてある。

完全に再現することは難しいが、かなり近い味にすることは不可能ではない。

この店主は料理の腕は良かったので、無事それを実現してくれたようだ。

多忙な日々の中でどうなったかを聞きに行くのを忘れていたことに、思わず一刀は苦笑した。

 

 

「一刀さん、知り合い?」

 

「ああ、一ヶ月前に店の経営について相談されてな」

 

「おや、劉備様に司馬懿様じゃないですか!! 旦那、まさに両手に花ですな」

 

「そういうのじゃない。それよりも、お薦めの品はなんだ?」

 

「お薦めは、このぱんとくっきーです。ぱんの味付けは沢山種類があるので、飽きさせませんぜ!!」

 

 何故か非難するような視線を向けて来る劉備と愛紗を疑問に思いながらも、一刀は店主のお薦めを聞いた。

聞けば、パンの味付けはかなり工夫したらしく、確かにメニューにも様々な種類がある。

一刀が彼に渡した本にもここまでは書いていなかったので、店主が自分で開拓したのだろう。

 

 やはり、一刀の眼に狂いは無かったようだ。

この店主の腕は素晴らしい。しっかりとした条件下であれば、いずれ開花すると思っていたが、たった一ヶ月でここまで来たのは素直に称賛に価する。

時間はかかるが、チキンライスまでもメニューにあるのは流石だ。

 

 

「素直に凄いと思うよ、これは。まさかたった一ヶ月であの本に書いたもの全部を覚えるとは、恐れ入った」

 

「はは、褒めても何も出ませんぜ?」

 

「なに、代金はしっかりと払うから安心してくれ。営業時間はいつまでだ?」

 

「昼時から夕方までですね。結構人が来るもので、店員を増やさないと朝から営業は無理ですわな」

 

「成程」

 

 これ程の料理人が、この大きさの店に収まってしまうのはあまり良いことではない。

一刀としては、是非ともより快適で大きな場所でその腕を揮って欲しいものだ。

しかし、援助無しでいきなりその条件に彼らを到達させるのは難しい。

中々に、考え物だ。

 

 

「一日に何人くらい来るんだ?」

 

「いつもは二百人くらいですかね?」

 

「二百人!? この大きさのお店に?」

 

「劉備様、ここの品は持ち帰り可能にしているんです。時間が無い人もささっと買って食べて貰えますから」

 

「しかし、それでも厳しいだろう?」

 

 今日は人が来ていないが、本来ならば休みの日なのかもしれない。

休みとはいっても料理は仕込みが重要であり、休みの日も準備はしておくものだ。

その最中に店にやって来た者が三人程居た、というのが現状であろうか?

今日は素直に下がって、ゆっくり休んで貰った方が良いかもしれない。

 

 この規模の店に一日二百人も人がやってくるのならば、それこそ大変だ。

たった二人で店を回しているのならば、実質午前中も仕込みで潰れているのだろう。

人手さえあればどうにかなるのだろうが、それも難しいと来た。

この光り始めた原石を上手く生かしてやる方法は無いものか、一刀は考える。

 

 

「まぁ、確かにそうですが……もっと大きな店にする為に今は我慢している訳です」

 

「成程。それで、今日は休みなのか?」

 

「いつもならそうですが、旦那と劉備様達がいらっしゃったのなら話は別ですぜ!」

 

「無理はしないで良いんだぞ?」

 

「無理ではないからこそ、ここで礼をしておきたいんでさぁ。お代は結構ですぜ」

 

 一刀の誠実さはこういった時に現れる。

竜だの人間だのというものが全く関係無い時こそ、彼はその輝きを見せつけるのだ。

店主と話す一刀の姿が、愛紗と劉備には酷く眩しいものに見える。

劉備が目指す者の輝きは、密かに誰かをこうして照らしてくれるものだ。

 

 劉備玄徳が太陽であるならば、北郷一刀は月だ。

太陽が皆を照らして温めていくのに対して、月は静かにその光が生み出した影に居る者に降り注ぐ。

強い光が生み出す濃い闇の中で、その月は優しく輝いているのだ。

誰よりも何よりも歪みに優しい……否、優し過ぎるその月が、劉備は堪らなく好きだった。

 

 元来太陽の輝きが月を輝かせるものだが、彼らの関係は逆だ。

北郷一刀という月が満ちれば満ちる程に、その艶美な光を強める程に、劉備玄徳という太陽は強く光り輝く。

この歪な関係は危ういものだが、それで劉備は構わない。

月が照らしてくれる歪みの中に彼女もまた含まれるのだ……だから、これで良い。

 

 

「一刀さん、ここは言葉に甘えておいた方が良いんじゃないのかな? 店主さんはここでしっかりと恩返しができるし、私達は美味しいご飯が食べられる……とっても良いことだと思うよ?」

 

「むぅ……そうだな。では、頼んで良いか?」

 

「へぃ! 全身全霊を込めてお応えしますぜ! 旦那達はそこで座って待っておいてくだせぇ!」

 

 少しばかり苦笑しながらも一刀が頼むと、店主は満面の笑みで厨房へと向かった。

この店に入れる人数は十人少し、といった所であろうか……ここに毎日二百人もの人間が来るのは凄いことだ。

もっと良い食材を手に入れて、もっと広い場所で店を開けば、更に多くの者達がここにやってくるだろう。

 

 椅子に座って準備が終わるのを待ちながらも、一刀は劉備が彼を見ていることに気付いた。

何事かと見返せば、にこりと笑みを浮かべるだけで何も言ってこない。

愛紗に助けを求めようとしても、肩をすくめるだけで助け船を出してはくれそうもない。

仕方なく、一刀は劉備に尋ねることにした。

 

 

「劉備、俺の顔に何かついているのか?」

 

「ううん、違うよ。一刀さんはやっぱり格好良いな、って」

 

「……は?」

 

「一刀さんの声も、その姿も、仕草も、私は全部好きだから」

 

「お、おう……」

 

 劉備の言葉に、若干引きながらも一刀は返事になっていない返事をする。

いきなり告白紛いのことを恥ずかしがることもなくしてくるのは、中々に凄いことだ。

彼女は一刀への好意を隠そうともせずに曝け出している為、皆それを知っている。

彼のみがそのことに気付かず、ただただ狼狽するだけで、二人の間に進展は無いのだが。

 

 愛紗としては実に歯がゆい事態である。

一刀にとって劉備は妹分のようなものなのかもしれないが、それでも鈍過ぎる。

あそこまで剥き出しの好意に気付けない程、彼は鈍感では無い筈だ。

もしも彼が気付いていない振りをしているのならば、愛紗はすぐに気付く為、それも違う。

 

 だとすれば、残る可能性はただ一つだ。

北郷一刀は痛みや苦しみしか感じられなくなっている―――人間としての感性が消え始めている可能性である。

甘寧興覇との再会で、彼はまた一段と竜として成長した。

しかし、同時に完全ではない逆鱗を逆鱗に据えているせいで、歪みが生じているのだ。

 

春と秋の双方を備える劉備こそが最適だと分かっている筈なのに、彼は逆鱗を上書きしてくれない。

全て、甘寧興覇のせいである。

 

 

「一刀様、返事になっていませんよ」

 

「いや、返事に困るだろう? どう答えれば良いんだ?」

 

「俺も君が好きだよ、とでも仰れば良いのでは?」

 

「随分と投げやりだな……取りあえず、気持ちだけは受け取っておこう」

 

 愛紗の知る限り、この世界の劉備はかなり現実的に行動する傾向にある。

一刀はこうしてその鈍感さを発揮しているが。それ以外の者から見れば二人はそういう仲だ。

彼女が既に外堀を埋め始めていることに彼はまだ気付いていない。

げに恐ろしきは女の執念である。

 

孫権仲謀というライバルの出現が、劉備を突き動かしているのは想像に難くない。

いきなり一刀の婚約者となる者が現れたのだから、当然のことであろう。

このまま何事も無く一年もすれば、本当に結婚してしまうことが決まっている孫権に対抗して、劉備はより積極的に彼にアプローチしているのだ。

 

 今はまだ気付いていないが、一刀もそのことに気付けばその思いに応えてくれる筈だ。

愛紗は一刀を独り占めするつもりはない……ただ、彼に殉ずることさえできればそれで良い。

しかし、問題は甘寧興覇だ……彼女はかなり独占的な傾向があると見える。

孫権はともかく、劉備までもが彼に愛されることを甘受できるとは思えない。

 

 やはり、甘寧興覇は一刀にとっても劉備にとっても……そして、愛紗にとっても毒でしかない。

 

 

「劉備様、一刀様はこういう御方なので……まぁ、気長に待ちましょう」

 

「司馬懿さん……できれば一年以内に気付いて貰いたいかな」

 

「押して駄目なら引いてみろ、です。私は応援していますよ」

 

「ありがとう、司馬懿さん」

 

「……いったい何の話だ」

 

 肩身が狭いと言わんばかりの一刀の姿に、愛紗と劉備は顔を見合わせて苦笑する。

甘寧興覇というイレギュラーによって崩れ始めた彼の感性を、愛紗は取り戻さねばならない。

真の意味で完全なる竜になる為には、劉備こそが逆鱗に相応しい相手であり、甘寧興覇ではないのだ。

 

 漢王朝を建てた高祖たる劉邦の真名もまた、桃香という名であった。

この事実は『真名の書』『竜の書』にしか記されていない為、それを知り得るのは甘寧興覇と愛紗だけだ。

甘寧興覇は『竜の書』を所持し、愛紗は二つの書を以前の外史で読んだことがある。

 

 この世界で『真名の書』を誰が持っているのかは愛紗には想像もつかないが……きっと、その所持者を含めても桃香という真名の意味を真に理解できるのは四人だけだ。

一刀と、甘寧興覇、愛紗、そして『真名の書』の所持者……この四人のみが、劉備玄徳こそが北郷一刀の逆鱗として相応しいことを知っている。

 

 

「そうだ! 一刀さん、陶謙さんと劉表さんから訪問はいつでも構わないって返事が来ていたよ」

 

「そうか……それは良かった。後は徐州の問題だな」

 

「曹操殿の母である、曹巨高殿ですか」

 

「そうだ。あれは、中々に面倒な場所に居る」

 

 曹嵩巨高は曹操孟徳の母であり、現在は黄巾の乱などの影響で徐州に避難している。

史実では、曹嵩は曹操の下に向かおうとした処を陶謙の部下に殺され、それに怒った曹操が徐州で殺戮を行った。

この際、曹操の拠点である兗州内部で反乱が起き、迎え入れられた呂布によって曹操は兗州を失うことになる訳だが……中々に面倒なことだ。

 

 この世界は一刀の知る史実とは異なる道を歩み始めている。

この曹嵩の死を防ぐことさえできれば、徐州での曹操による大量殺戮を止められる筈だ。

河を死体が堰き止めたとまで言われる大量殺戮など、起こさせる訳にはいかない。

そのようなことをすれば、まさしく百年の怨念が曹操に降り注いでしまう。

 

 それでは、天下三分の計など成立しない。

曹操が殺戮すべきは北方の異民族が攻めてきた時のみであって、それ以外は律する王であるべきだ。

彼女に大量殺戮をこの大陸内で行わせる訳にはいかない。

覇王を名乗るからには、それなりの心の強さを持って貰わねば困るのだ。

 

 

「曹操は危うさを秘めている。あれは、孤独だ。曹嵩の死はその危うさを揺さぶり得る」

 

「一刀様、どうなさりますか?」

 

「簡単だ。その時になれば、俺が直接行って守ってくる」

 

「はぁ……そう仰ると思っていました。私は止めません」

 

「一刀さんらしいね……それじゃあ、時間が空いたら皆で陶謙さんの処にお世話になろう?」

 

 一刀と愛紗は劉備の提案は静かに頷くと、その勘の良さに舌を巻いた。

彼らはそうすることを考えていたし、実際問題幽州に居ても袁紹に攻められるのは目に見えている。

袁紹が居るのは冀州の北半分だ。涿郡と接しているだけに、最初に攻め込まれるのは劉備であろう。

 

今回の乱で兗州を手に入れた曹操はその勢力を強大にしている……先にまだ兵の数も練度も曹操に劣る劉備を狙うのは当然のことだ。

袁紹の土地を通っていく際に向こうが許可をくれる筈も無い……一刀は、その際の戦闘で大きく戦力を削らせて貰うつもりだ。

 

 今は皆中央に居る董卓達の動きに注目している為、下手に行動する者は居ない筈だが、もしもの時も考えておくに越したことは無い。

既に公孫賛へと手紙も送ってあり、もしもの時は幽州の全ては彼女に任せることになる。

長所も無いが、短所も無い彼女ならば十二分に彼が残した基盤を利用してくれるに違いない。

 

 

「へい、おまちどう!!」

 

「おっ……来たか」

 

「今は小難しいことは忘れて、料理を楽しむことにしましょう」

 

「うん、そうだね」

 

 店主が持ってきた料理の香ばしい匂いに期待を膨らませながらも、一刀達は難しいことは忘れることにした。

全てを忘れることができる時間は実に重要なもので、それがあるだけで作業効率はぐっと上がる。

今はただ全てを忘れて食を楽しめば良い。

 

 

 だから、三人は頭を空っぽにして、ただこの穏やかな時間を楽しむことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 孫権仲謀は緊張していた。

 

 理由は簡単……これから婚約者である北郷一刀と、彼の同志達と会うからだ。

既に一刀本人とは会っているが、彼の同志が納得してくれるかどうかは難しい。

実際問題、最初は彼女が彼に嫁ぐ筈であったのに、劉備達の大反対により婚約という形に落ち着いてしまった。

 

 北郷一刀は孫権仲謀を必要としてくれているが、他の者は歓迎してはくれないかもしれないのだ。

あまり粗相もできない為、彼女は周りから見ても分かる程に硬くなっていた。

そんな彼女に苦笑しながらも、声をかける者が居た。

 

 

「仲謀殿、そこまで硬くなられなくとも良いでしょうに」

 

「子義。そう言われても、はいそうですか、と直せる程私は器用ではないわ」

 

「蓮華様、そこまで堅くなさってもあのひとはこじ開けてはくれませんよ?」

 

「も、もう思春ったら! こんな昼間から何を――」

 

「蓮華様、私はあのひとではその緊張を解けないと言っただけです。いったい何を想像なさったのですか?」

 

「う!?……う~」

 

 孫権――蓮華が思春に遊ばれているのを見ながら、太史慈子義は苦笑する。

その横であうあう言いながらどうするか迷っている周泰と呂蒙もそうだが、やはり一刀の眼の付け所は素晴らしい。

呂蒙は武と知を併せ持つ、戦える軍師だ。その存在は諸葛亮や龐統の護衛として相応しいだろう。

 

 そもそも今回太史慈はこの蓮華達の引き渡しに参加する必要は無かった。

ただ、北郷一刀の下へと向かうのに丁度良い機会であったから、参加したのだ。

彼が欲する姫君の護衛が周泰だけでは不安だったというのもあるが、やはり一番は一刀が受け入れを円滑に行えるからである。

 

 太史慈が蓮華達と共に彼の下に加わった方が、彼も配属などを決める際に楽なのは間違いない。

真面目な彼のことだ……既に蓮華や思春、呂蒙の配属は既に決定している筈だ。

ならば、余裕がある今太史慈も加わった方が良い。

 

 

「甘寧様がご乱心に!? あう……私はどうしたら!?」

 

「ううう……どうやって止めれば良いのか分かりません」

 

「何もしないで良いです。あれはただの戯れですから」

 

「子義さん、明命は不安です……」

 

「うう……役に立てるか不安です」

 

 オロオロしてばかりの呂蒙と周泰に少しばかりイラつきながらも、太史慈はため息をつく。

最初から自信のある者など居ないし、彼女も昔はそうだった。

今だって、彼女の主である一刀に追いつけているという自信は少しも無い。

あの黄巾党の本隊が討伐された日、見せつけられた武の前では彼女など有象無象だ。

 

 太史慈子義は確かに弓矢の腕においては、黄蓋公覆、夏候淵妙才、黄忠漢升を上回る。

丁寧さでは夏候淵に、奇抜さでは黄忠や黄蓋に負けるかもしれないが、少なくとも殺傷力と命中率においては三者の追随を許さない。

孫家と同じその碧眼で相手を捉え、静かに、正確無比に、相手を殺す。

 

 そんな太史慈も、あの暴力の前では無力だ。

一里という彼女の弓矢の最大飛距離を、一刀はその氣で切り裂く。

彼女が確実に狙い撃てる百間の距離では、確実に切り殺されてしまうだろう。

氣弾ならば避けることも可能だが、あの氣刃は回避など不可能だ。

あの尋常ならざる速度で降り抜かれる剣が、実に長さ一里に及ぶなど、敵対する者にとっては悪夢としか言いようがない。

 

 

「お、あそこですね……ん?」

 

「あそこが劉備殿達のいらっしゃる城ですか。でも……なにやら、門が閉まっていますけど」

 

「門が閉まっている?……ああ、成程」

 

「思春、何か分かったの?」

 

「蓮華様、もう少し近づけば分かります」

 

 城門が何故か閉まっていることを疑問に思った蓮華達であったが、思春はその意味を理解したようだ。

意味を問いたい皆にもう少し待てと身振りで示しながらも、彼女は軽い足取りを進めていく。

いつもの無口で無表情な彼女しか知らない太史慈達にとって、これは驚きだ。

 

 蓮華の言葉では、思春は北郷一刀の妹分のようなものであるそうだ。

それを知っても、三人には鈴の甘寧と呼ばれ恐れられているあの氷のような女性が、こんなにも柔らかな笑顔をすることが信じられない。

それ程までに彼女は北郷一刀に懐いているということであろうか?

 

 

「明日は雪でも振るかもしれませんね……」

 

「子義さん、今は夏ですよ?」

 

「……ちょっと黙っていなさい」

 

「……はい」

 

 己の言葉を言葉のままに誤解し、反応した周泰に黙っているように言うと、太史慈はその碧眼を細めた。

思春のように頭の回転が恐ろしく速い訳ではないが、彼女も城門が閉じられている意味を理解する。

確かに、もう少し待てばその意味が分かるだろう。

 

 贈り物をそのまま渡すのは、面白くない……だから、少しの驚きと共に渡すのだ。

あの城門は所謂包装というもので、あの中に贈り物が隠れているに違いない。

太史慈の碧眼は、城門の上に居る隠密の瞳を見据えた。

彼女の眼は狩人の眼であり、あらゆる隠密を見抜き、その存在を明らかにする。

 

 そんな太史慈と目が合ってしまっても、怯まずに城門の内側に合図を送った隠密は実に素晴らしい。

彼女の目の前では隠れることは叶わないが、かなりの使い手なのだろう。

現に、今ここに五人の中でその存在に気付いているのは彼女と思春のみだ。

 

 

「見張りの兵も居ないなんて、いったいどうして―――」

 

「「「「「「ようこそ、孫権さん!!」」」」」」

 

「―――!?」

 

 城門の近くまで来た蓮華は、見張りの兵すらも居ないことに不審に思いながらも、扉に触れようとし―――勝手に内側から開いた扉の向こう側に沢山の笑顔を見た。

劉備玄徳、関羽雲長、張飛益徳、諸葛亮孔明、龐統士元、司馬懿仲達の六名による出迎えは、壮観であった。

未熟な蓮華でさえも分かる――彼女達がいかに強いかが。

 

 

「こ、これはいったい……?」

 

「私は劉玄徳と申します。孫権さん、私がこの度貴方を受け入れることになる者達の長です」

 

「玄徳殿、私は―――」

 

「一刀さんから話は聞いています。私達は貴方を歓迎します。ですから―――安心してください。私達が、貴方の家となります」

 

 まさか皆から笑顔で迎え入れられるとは思っていなかった蓮華は、目頭が熱くなるのを感じた。

皆が彼女を拒絶する色など少しも見せずに、ただただその存在を受け入れてくれるのだ。

まるで北郷一刀のように、この組織は彼女を受け止めてくれる。

それが、堪らなく彼女には嬉しい。

 

 そっと肩に手を置いて頷いてくれる思春に頷き返しながらも蓮華は劉備を、その後ろに控える者達を見る。

碧眼と浅葱色の瞳が合い、互いにそれが澄んでいることを確認する。

劉備は蓮華が抑圧された環境下でもその清さを失わなかったことを賛辞し、蓮華は劉備が理想と現実の狭間でさ迷うことなく確かにそこに在ることを称賛した。

 

 

「この度は、このような身を受け入れていただいて感謝の言葉も無い。私から言えることはただこれだけ―――ありがとう」

 

「私からも言えるのはただこれだけです―――ようこそ、貴方の新しい家へ」

 

「歓迎します、孫権殿」

 

「鈴々も歓迎するのだ、お姉ちゃん!」

 

「宜しくお願いします、孫権さん!」

 

「仲良くしましょう、孫権さん!」

 

 皆が笑顔で己を受け入れてくれることに、ただただ蓮華は感動するしかない。

彼女が抱いていた不安を、劉備達は見事に吹き飛ばしてくれた。

ここまで歓迎されたことは、孫呉ですら無かったし、これからも無いだろう。

今まで見てきたあらゆるものも、この光景の前では色褪せたものでしかない。

 

 蓮華は、このような所に来ることができたことを幸運に思う。

一刀が居てくれなければ、彼が興味を持ってくれなければ、彼女はこうしてここに来ることは無かっただろう。

彼が劉備の下に居たからこうして、この感動を彼女は味わうことができる。

 

 ここに彼女が来る切掛けとなったあらゆるものに感謝し、蓮華は笑う。

そんな彼女を見る思春や劉備達の眼はとても優しいものであり、ここがいかに素晴らしい場所なのかが分かる。

北郷一刀は、こんなにも優しい場所へと彼女を導いてくれた……感謝しても仕切れない。

 

 

「そうだ、北郷殿は?」

 

「俺がどうした?」

 

「あ――北郷、殿」

 

「三ヶ月振りだな、孫権、思春。それに呂蒙も―――! 太史慈、か?」

 

「はい。北郷様のお言葉に従い、この太史慈、十年の時を経て馳せ参じました」

 

 蓮華の望んでいたタイミングを知っていたかのように現れた一刀に、思わず彼女は息を呑む。

そんな彼女に静かに笑いかけながら、彼は思春達に挨拶をし――太史慈の存在を確認して驚く。

まさか、ここで再会することになるとは思いもしなかったのだろう。

 

 

「そうか……お前の真名の重さは確かだったんだな。良いだろう……約束通り、臣下に迎えよう。真名を―――捧げろ」

 

「はい! 私の真名は知華と申します。この真名を、貴方への絶対の忠誠の証として――捧げます」

 

「確かに受け取ったぞ、お前の真名も覚悟も」

 

「有難き幸せでございます」

 

 十年前とは違い、確かに一刀は太史慈の真名を――知華という本当の名を受け取った。

今になって漸く彼女が信じるに値する人間であることを、彼は認めてくれたのだ。

この十年間は無駄ではなかった……確かに、この主の信頼を勝ち取る為に必要な時間だったのだ。

 

 そんな知華と一刀だけに通用するこの誓いも、愛紗を除く他の者には驚くべきことである。

彼は、孫権は愚か関羽や張飛……挙句には劉備ですらも、真名を受け取っていないのだ。

その彼が、真名を受け取った―――この意味は、実に重い。

絶対的な忠誠を誓うことと同義であると言っても過言では無いだろう。

 

 一刀が受け取った真名は、この十年間でこれが漸く三つ目であった。

 

 

「子義……貴方の言っていた主は、北郷殿だったの!?」

 

「仲謀殿、今まで言えなかったことをお許しください。文台殿達には、あまり北郷様のことを詮索させたくなかったのです」

 

「別に構わないわ。ただ――十年も前に貴方が北郷殿と会っていたなんて」

 

 太史慈子義が十年前に北郷一刀に会っていたのならば、確かに孫呉に靡かなかった理由も納得がいく。

彼女は孫呉に十二分に馴染んでいた筈なのに、それでも優先順位は主が一番だった。

それ程までに彼女を引き寄せた者が誰なのか蓮華は不思議に思っていたが、一刀であるならば納得がいく。

 

 ここに集った者達は皆北郷一刀に惹かれて集まったに違いない。

蓮華は勿論のこと、思春も、劉備達もそうであることは、眼を見れば一目瞭然だ。

まるで闇夜に浮かぶ月のように、彼は彼女達の心を引き寄せ続ける。

鋭さの奥に潜ませた優しさを知った時、もうその月は太陽に勝る光となるのだ。

 

 

「さて……孫権、思春、呂蒙。劉備も先程言ったが、今日からここが君達の家だ」

 

「分かっているわ……今の私の家族は、ここに居る皆だと言いたいのでしょう?」

 

「そうだ。この世界で最も濃いのは血ではなく、信念だ。だから血は捨てろ。ここでは君は孫文台の娘ではなく、俺達の同志だ」

 

「ええ、私は――ただの孫権よ」

 

「それで良い。ようこそ、孫権――俺達は君を歓迎する」

 

 北郷一刀の求心力は確かに、王を従える王に相応しいものだ。

もはやその力は人間の域を超えており、もしかしたら彼は本当に人間では無いのかもしれない。

その異形の真紅の瞳は、本当に彼が化け物であることを示しているのかもしれない。

それでも、蓮華は構わなかった。

 

 この北郷一刀という男は誰よりも優しく、誰よりも厳しく彼女を導いてくれる。

彼が生み出した嵐は、回ることのできなかった彼女という風車を回してくれる。

後は、彼女が自分で回り始めればもう大丈夫だ……胸を張って、彼の妻になれる。

この圧倒的なカリスマの妻になることは、それこそ至上の名誉だ。

 

 だから頑張ろう。頑張って彼に見合う王になろう―――そう蓮華は心に誓うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 盛大に孫権達を歓迎する宴会が行われ、もう皆寝入ってしまった深夜、一刀は怪しく輝く満月を肴に物思いに耽っていた。

無事に孫権達の受け入れも終わり、明朝になれば周泰は帰るそうだ。

ゆっくりしていけと言いたい所だが、今は僅かな油断すらも許されない時代だ。

彼にそれを止めることはできなかった。

 

 

「……あわよくば殺せ、とでも言われていたのか? 周幼平」

 

「……お見通しでしたか。確かに、そのように言われています」

 

「では、試してみるか?」

 

 隠密としてほぼ完成された気配の殺し方は流石だが、一刀は気配を氣によって感じる。

氣とは、絶対に隠せない生の証だ。それを感じ取れてしまえば、気配を消されても気付ける。

真紅の瞳で暗闇から現れた周泰を見据えると、一刀はニヤリと笑う。

確かに彼女もまた一流の武人なのだろうが……それでも彼の前では赤子同前だ。

 

 

「いえ、それよりも質問があって来たんです」

 

「質問?……聞こう」

 

「北郷様は……甘寧様の何なのですか? あそこまで幸せそうな甘寧様は初めて見ました。いつも無表情で、無口なのに」

 

「思春か? 思春は、異国から来た俺が初めて会ったこの大陸の人間だ。初めて真名を受け取った人間だ。まぁ、妹分みたいなものさ」

 

「――嘘ですね。甘寧様は貴方と将来を誓い合ったと仰っていました」

 

 昼間の頼りなさそうな姿とは打って変わり、周泰は鋭い眼で一刀を射貫く。

そんな彼女に苦笑しながらも、彼は思春が彼女に話をしたとは思えないと考える。

隠密として待機している時に、偶然孫権と思春の会話を聞いてしまった、といった所であろう。

ここは丁寧に答えておいた方が良さそうだ。

 

 

「確かにその通りだ。俺と思春は将来を誓い合った」

 

「では、何故蓮華様と婚約されたのですか? あまりにも不誠実です!」

 

「何を言っているんだ? 孫権はお前達にとって、俺を孫呉に攻めこませない為の生贄でしかないのだろう? 少しは頭を働かせたらどうだ」

 

「っ……貴方は―――クズですね」

 

「ああ、その通りだ。しかし、お前達の主もまた同類だ。覚えておけ――この話を持ちかけてきたのが孫文台だということを」

 

 真紅の瞳がぶつかる……無感動な異形の眼と、鋭く歪んだ眼が。

北郷一刀は嘘吐きだ。孫権仲謀を十二分に愛することができるのに、こうして周泰にそうでないと言う。

孫権仲謀を救う為にこうしたことを、彼女には教えない。

 

 一刀は、孫呉を試しているのだ。

この周泰という隠密を通して、孫呉は今何処まで危うい状況なのかを確認している。

思春、孫権、太史慈の三人が抜けた後も無事に機能するかを確かめているのだ。

その答えは肯定だが、同時に一つの危うさを見出す。

矛盾に気付かない者達は、いつかそれに殺される。

 

 

「江東の虎に言っておけ……虎穴から出た虎の子は確かに貰った、と」

 

「――っ!!」

 

 不意に、周泰は背中の剣を抜いて一刀に切りかかろうとした。

その動作はまさに一流のそれで、軽やかに鞘から刃が出てくるのを彼はスローモーションで見ていた。

確かに一流であるが、それは人間であった場合の話だ。

 

 一刀にとって、周泰の速さは大したものではない。

その気になれば、剣の刃が鞘から見える瞬間にはその命を奪ってしまえる。

たった数間の距離ならば、まさしく一瞬で彼の氣刃は彼女を確実に殺せるのだ。

しかし、今回はその必要は無い。

 

 今にも彼に切りかかろうとした周泰は、彼女の背後に潜んでいた思春の手で地面に叩きつけられたのだから。

 

 

「そこまでだ、周幼平」

 

「ぐ……か、甘寧……様?」

 

「思い上がるなよ―――私達の関係をお前如きが理解できると思うな」

 

「う……」

 

 ただひたすらに怒りを込めた赤い瞳に射貫かれ、周泰は閉口する。

隠密として高い実力を持つ彼女も、それを超える実力を持つ甘寧興覇の前では無力だ。

ましてや、一刀に刃を向ける者に対して、甘寧――否、思春がその力を揮わない筈も無い。

彼女にとって最愛の存在に刃を向ける者は、誰であっても容赦しないのだ。

 

 無口で、無表情な彼女しか知らない周泰はひたすらに混乱するしかない。

ここまで烈火の如き怒りをその眼に宿した彼女など、周泰は見たことが無いのだ。

隠密にありがちな、感情を欠いた者であると思っていただけに、昼間の彼女も、今の彼女も、周泰にとっては未知だ。

 

 だから、静かにその眼の奥に業火を垣間見せる思春が、ただただ彼女は怖かった。

 

 

「思春、良くやった。知華に任せると、殺してしまいそうだからな」

 

「えへへ……私もそう思ったから、こうしただけだよ」

 

 十間程離れた場所で静かに弓を構えていた太史慈子義を見遣りながら、一刀は苦笑する。

たった十間では確実に太史慈の弓矢は周泰を射殺していたに違いない。

彼女程熟練した弓兵ならば、もはやこの距離は必殺の距離だ。

静かに弓矢を下げて一礼する彼女にそのまま下がるように身振りで示すと、彼は周泰を見据える。

 

 その瞳に垣間見えた温かさに、思わず周泰は息を呑む。

ここまで優しい色を宿した瞳など、彼女は今まで一度たりとも見たことが無い。

孫堅文台も、孫策伯符もここまで優しい瞳を彼女に見せたことはないだろう。

いや、そもそもこんなにも柔らかな眼を彼女達は持たないのではなかろうか?

 

 

「周泰、君は優しい。しかし、その優しさを発揮するべきはここではなく、孫呉だ」

 

「……分かっています」

 

「ならば、行け。明朝に帰るのならば、体を休めておくことだ」

 

「――!? 私を罰しないのですか!? 私は貴方を……」

 

「行け。俺の気が変わらない内に」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 一刀が何のお咎めも無しに己を解放したことに驚愕と恐怖を覚えながらも、周泰は下がった。

彼の心が寛大であるだけではない……彼にとって、周泰など塵同然の存在でしかないのだ。

彼女がここで生き残っても、彼にとって脅威にもならない……彼の態度はそう語っている。

確かに、孫権仲謀を彼に捧げることで不可侵を言外に約束させた孫堅文台の判断は正しかったのだ。

 

 

 周泰が去っていくのを見ながら、思春は鈴音をしまった。

一刀に怪我は無く、無事である……いや、そもそも彼女の助けなど要らなかった。

ただ、彼女も偶には自分の価値を示しておかねばらない。

逆鱗として竜に甘えているだけでは、彼以外への者に彼女の価値を認めて貰えないのだ。

 

 

「お兄ちゃん、蓮華様の受け入れは無事に終わったね。これが、始まりになるよ」

 

「ああ、これから始まるぞ……劉玄徳の天下が」

 

「蓮華様が王佐の才の持ち主であることを見抜けなかったのは、孫文台最大の失敗だろうね」

 

「まったくその通りだ。だが……もう遅い。孫権は確かに貰った」

 

 王に従う王とは、即ち王佐の才の持ち主である。

孫権仲謀にはその才能があった……王としての能力も今は未熟だが、そのポテンシャルは目を見張るものがある。

北郷一刀が王を従える王であったことは彼女にとって幸運なことで、まさしく彼女が求めた居場所に彼はなれた。

 

 北郷一刀という居場所を見つけた孫権仲謀は、まさしく砂のように多くを吸収していくだろう。

そんな彼女の配下として、呂蒙も思春が見つけた……一刀の言う通りの原石を、彼に送り届けた。

後は、この二つの原石を一刀達が磨いてやるだけだ。

 

 既に多くの原石が一刀の下には集っている……どれも丁寧に磨けば、一級品となるものだ。

そして、彼は原石を磨きあげることに関しては、間違いなく天性のものを持つ。

彼に見初められた原石は、まさしく至宝へとその姿を変えていくのだ。

 

 

「ああ、そうだった。言うのが遅れたが……おかえり、思春」

 

「うん……ただいま、お兄ちゃん」

 

 縋ってくる思春をそっと抱きしめると、一刀は言った――おかえり、と。

それに彼女は笑顔で、本当に嬉しそうに答える――ただいま、と。

このたった一回の言葉のやり取りには、とても重い意味が隠されている。

思春の居場所は北郷一刀の隣である――そういう意味だ。

 

 本来ならば最も逆鱗に相応しいのは劉備玄徳であり、甘寧興覇ではない。

思春は、己の名前に秋が無いことを知っている。だから、竜にとって完全な逆鱗になれない。

春だけでは竜はただ天に昇っていくだけで、そこからこの地に再び降り立ってはくれないのだ。

彼を独占したい思春にとっては構わないことだが、この世界はそれを許さない。

 

 愛紗の一刀への愛が――数十万回もの繰り返しの愛の積み重ねがこの世界を生み出した。

外史でありながら正史から完全に切り離された、まさしく彼女の見る夢に等しいのが、この世界なのだ。

北郷一刀を天に……正史に戻さない為に、必死にこの世界は彼を繋ぎ止めようとする。

故に、北郷一刀は思春を逆鱗としていては完全な竜になれない。

既に崩れ始めている感性を取り戻すことができない。

 

 北郷一刀を天で独り占めしようとはしない劉備玄徳だけを、この世界は彼の逆鱗として認めるのだ。

 

 

「お兄ちゃんを導いてくれたのは、司馬懿なんだよね?」

 

「ああ、不完全ながらも、彼女も竜だ」

 

「……それじゃあ、竜についてはあのひとから聞いたの?」

 

「そうだ。俺の知り得る竜の情報は全て愛紗から聞いたものだ」

 

「そう……なんだ」

 

 思春にとって、司馬懿仲達――愛紗の存在は嬉しさ半分、嫉妬半分だった。

一刀を彼女の代わりに導いてくれたのは確かにであるし、その御蔭で再会することができた。

それでも、思春は自分以外の女性が一刀と肌を重ねるのは嫌だった。

既に、二人はその一線を越えてしまっている。

 

 十年もの時があれば、一刀が心を許してしまうのは仕方がないだろう。

あの状況下では、変化していく彼を支えてくれるのは愛紗だけであったのは想像に難くない。

しかし、それでも思春は司馬懿仲達という存在が好きになれない。

 

十年もの間彼女の代わりに彼に寄り添い続け、遂にはその肉体すらも貪ったのだ。

依存心も強いが、同時に独占欲も強い思春には、そのことを考えるだけであの司馬懿仲達を八つ裂きにしたくなってしまう。

彼女が逆鱗であることを否定する世界を代表するかのような、あの女性が彼女は嫌いだった。

 

 

「お兄ちゃん、聞いて。もう気付いているかもしれないけれど――私達甘家も竜のことは知っていたの」

 

「ああ、気付いたよ。本当に最近になってだが」

 

「だから、あの時お兄ちゃんにそのことを教えられなかったことを――赦してください」

 

「過去はもう変えられない。俺も思春もここに居る。それで十分だ……だから、赦そう」

 

「っ……ありが、とう……」

 

 思春は知っている。一刀の眼は多くを語り、多くを理解することを。

どうすれば竜が興味を抱き、愛してくれるようになるのかを彼女は知っていた――だから、一刀にそれを行った。

彼女は純粋な逆鱗ではない……歪みに歪んだ、偽りの逆鱗だ。

ただ竜に愛されたかったが故に生まれた、仮初の逆鱗なのだ。

 

 だから、思春は劉備玄徳には絶対に勝てない。

武も知も殆ど持たないと評される劉備は、まさしく天然の逆鱗である。

彼女は決して凡才ではない。竜が望むことを彼女は本能で理解している。竜が愛したくなるような仕草を本能で行う。

竜の逆鱗として、彼女は間違いなく天性の素質を持っているのだ。

 

 北郷一刀の御蔭で劉備の勢力は日に日に増大している。

しかし、そこに居るのが劉備では無く思春であったならば、彼はここまで優しくなれただろうか?

思春が劉備の居る場所に居たならば、こんなにもこの勢力は強大になっただろうか?

答えは否―――劉備玄徳でなければ、この勢力は形成されなかった。

 

 

「弱かった私を許してとは言わないから、もう同じ間違いは繰り返さないから、だから……捨てないで」

 

「……捨てる筈が無い。思春は――俺の逆鱗なんだ。だから、大丈夫だ」

 

「その言葉は本当? 本当に捨てない? 最後まで傍に居てくれる? 真名に価するだけの信頼を示してくれる?」

 

「ああ、俺は―――「駄目です!!」愛紗!?」

 

 思春の言葉に答えようとした一刀は、突然現れた愛紗によってそれを止められる。

黄金の瞳を苦痛に歪ませて肩で息をする彼女を見た彼は、不意にその言葉に従わねばならないと感じた。

思春の言葉よりも、愛紗の言葉を信じるべきだという直感が彼にそうさせたのだ。

 

 

「司馬懿……何のつもりだ?」

 

「甘寧、そこまでにして貰うぞ! 逆鱗でも竜でも無い分際で竜を貪る貴様には虫唾が走る!!」

 

「……なんだと? 半端な竜の分際で、竜と逆鱗の関係に踏み入るつもりか?」

 

「笑止……真なる逆鱗は桃香様ただ御一人だ!!」

 

 そして、それは正しかった。

思春の行おうとしたことは、彼がどこまで苦しんでも彼女を放させない呪いをかけることだ。

それも、彼女は最後まで彼の傍に居なくても良いという、一方的なものである。

竜にとって、真名をかけた誓いは絶対であり、破ることは許さないし、許されない。

 

 愛紗はそれを理解していたからこそ、一刀を止めたのだ。

真名を持たない彼に真名で誓いを行うことは、まさしく呪いをかけるのと同義だ。

その彼の弱さを、誠実さを、優しさを利用する行為が彼女には許せなかった。

甘寧興覇は殺さねばならない――そう彼女の本能が告げている。

 

 

「愛紗? 思春? いったい何を言っているんだ?」

 

「お兄ちゃん、これは――」

 

「一刀様、甘寧がしようとしたことは一刀様の御心を殺すに等しい行為です!! この約束を守っても、一刀様は苦しいだけで、何も得られません!!」

 

「黙れ、司馬懿!! お兄ちゃん、この約束は呪いではないの。だから……」

 

「……思春―――同じ間違いは繰り返さないんだよな?」

 

 愛紗の言葉によって、一刀は思考が澄みきっていくのを感じる。

だから、彼は思春に向かって尋ねた――彼女の覚悟を試す為に。

そんな彼に、思春は目を見開き、愛紗は安堵の笑みを浮かべる。

彼が守るべき存在は確かに逆鱗である思春だが、ここで彼が選ぶべきは愛紗の言葉だ。

彼にはそれが分かった……分かってしまった。

 

 竜はその眼でより多くを語り、多くを理解する。

一刀は愛紗の眼が口よりも勇猛に、切実に、彼を心配していることを告げているのを理解し、思春の眼に彼を呑みこもうとする蛇の片鱗を見てしまった。

だから、彼は尋ねるしかなかったのだ……その口で甘い果実に噛り付こうとしている思春に、それで良いのか、と。

 

 

「わ、私は……私、は……」

 

「……答えてはくれないのか。ならば、俺も先程の問いには答えない」

 

「お、お兄ちゃん。私は……」

 

「……今日はもう遅い。風邪をひく前に寝るんだ」

 

 一刀は答えを聞けないと理解し、戻ることにした。

逆鱗とは言っても、思春も一人の人間である。考える時間が必要だ。

だから、彼はその為に下がることにしたのである。

愛紗にすぐに戻るように眼で伝えると、彼はそのまま歩き出す。

 

 思春は真名を軽視した……しかし、その重さを理解していない筈は無い。

もしもそれができなかったのだとすれば、彼女は逆鱗として相応しくないことになる。

劉備のように本能的に真名の重さを理解し、扱えなくては逆鱗など務まらないのだ。

やはり、思春はまだ劉備に追いつけていない……否、この三ヶ月の劉備の成長を考慮すれば、寧ろ差は開いている。

 

 

「ま、待って!! 私は――!」

 

「しつこいぞ、甘寧。一刀様を煩わせるな」

 

「退け、司馬懿!!」

 

「我儘はそこまでにしろ!! 甘興覇!!」

 

「がっ!?」

 

 去っていく一刀を追いかけようとした思春は、立ちはだかる愛紗を怒りに任せて鈴音で斬ろうとするが、いとも簡単に地面に叩きつけられてしまった。

まるで空を飛んだかのような浮遊感の後に、呼吸を許さない程の衝撃が彼女の背中を襲う。

必死に呼吸をしようとする彼女であったが、あまりにも強い衝撃は呼吸をしている実感すら奪ってしまう。

 

 そんな思春を見据える愛紗の眼は鋭く、敵意に満ちていた。

彼女の主である一刀を思春は己の欲望から縛ろうとしたのだから、当然だ。

本当に最後まで彼に寄り添うことも約束せずに、先にそれを約束させるなど、愛紗にとっては最も許されざる行為であった。

 

 あまりにも一刀に対して無礼で、彼を軽んじる思春の行為は、愛紗をかつてのように戻すには十二分過ぎた。

誰に対しても敬語で、落ち着いて話す司馬懿仲達の姿はそこには無く、ただ主である北郷一刀の為だけに怒る愛紗という本当の彼女の姿が、そこにはあったのだ。

 

 

「お前が周幼平に言った言葉をそのままお前にくれてやる。思い上がるなよ―――私達の関係をお前如きが理解できると思うな」

 

「ぐ……あ……ふざ、けるな……」

 

「ふざけているのはお前の方だ! 誰よりも一刀様の御心をお守りせねばならない逆鱗があのようなことをするなどあり得ない!! 桃香様ならば、絶対にあのようなことは言わなかった。竜の優しさに優しさで応えた!!」

 

「偽物は……本物に、勝てないとでも……言いたいのか?」

 

「いいや、お前は偽物ですらない……お前は、ただのまやかしだ」

 

 愛紗は今まで自分でも何故、ここまで甘寧興覇が嫌いなのかが理解できなかった。

しかし、今になって漸く彼女はその理由を理解する。

甘寧興覇は今まで彼女が過ごした数十万の外史の残光の塊だ……彼女から一刀を奪おうとする“世界”が彼女の世界に入り込ませた、呪いだ。

これを壊さなければ、再び一刀は天に帰ってしまう……彼女の元から去ってしまう。

 

 もう二度と繰り返させたくはない。何度別れに苦しんだ?何度嘆き叫ぶ皆の姿を見てきた?

数十万回に及ぶ別離の果てに漸く辿り着いた楽園に、突如現れた甘寧興覇というイレギュラーは今までのどの外史とも違った。

彼女こそが愛紗にとって最後の敵であり、今まで一刀と共に歩んできた数十万の外史の証なのだ。

 

 

「まやかし?……何を……言っている? 私は―――私だ」

 

「そうやって誤魔化し続ければ良い。そうやって逃げ続ければ良い。そして、気付け――お前が愛すれば愛する程に、一刀様が傷ついていくという事実に」

 

「嘘だ……嘘、だ……私は、認めない……認めないぞ! その言葉も!! お前も!!」

 

「構うものか。お前が何度拒絶しても言ってやる。お前は―――まやかしだ」

 

 だから、愛紗は決めた。

この数々の苦悩と思い出の証を壊して、今までの数十万の別離に決着をつけようと。

今はまだそれは叶わない……一刀はまだ甘寧がまやかしの逆鱗であることに気付いていない。

春の名を持つが故に逆鱗の資格を得ただけで舞い上がり、秋を持たないにも関わらず逆鱗に収まろうとしたこの証を完全にこの世から消し去る日はまだ来ない。

 

 だが、いつか一刀は気付く。

甘寧興覇がいかに醜い存在であるか、魔法が解けた時彼は気付いてしまう。

たった二ヶ月半でかけた魔法など、本物の逆鱗である劉備玄徳の前では無力だ。

愛紗はその時一刀の傍に居て、そっと背中を押してやるのだ。

劉備という本当の逆鱗が待っている場所に、彼は行かなければならない。

 

 愛紗が望むのは一刀の幸せであり、彼の崩壊ではない。

いかにこの世界が歪みに歪んだ愛の結晶であったとしても、それは確かに彼の為にあるのだ。

この世界に居る限り彼は自由だし、元の世界に戻ればもはやそこに彼の魂の器は無い。

彼が望み続ける限り、彼女は傍に居る。傍に居られる。

 

 

 

 

 

 

 北郷一刀の一の家臣である“最初”の愛紗は、どこまでも彼に寄り添ってみせる。

 

 

 

 

 

 


 
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