第十三話 夜話は朧に融けて
夜の幻影に少女を見るのは怪奇譚の一つと言えるだろう。
泡沫(うたかた)は宵の刻を引きずり、やがて闇の中に結実する。
世界の黒より深い色合いを湛えて少女はビルの表面を急ぐ。
夜の霧がけぶるビルの狭間を意に介さず、重力すら超越した少女の動きは緩やかな波紋となって周囲の霧を広げてゆく。
流れるような金色の髪が常夜灯の明かりに僅か照り返して煌く。
「・・・・・・・・」
ビルの遥か下で久重は事前情報通りの道を急いでいた。
(次の角を十二時までに曲がって後は直線距離で一キロか。バイアスロンでもさせてるつもりなのか? このジオプロフィットを設定した奴は・・・・・・)
ジオネット上に設定されているジオプロフィットは限られた領域での滞在時間や様々な設定にGPS情報が合致した時点で初めて得られる。
細かい設定が加算されジオプロフィットには得られる利益に幅を持たす事もできる。
例えば、とある品を買う為に並んだ人々に整理券が配られ、一人だけあぶれてしまった。
その人は数時間前から並んでいる。
店側が設定していたジオプロフィットの条件に合致すれば、並んでいた時間に比して何かしらのクーポンや特典を得る。
GPS情報のやり取りがそのまま利益となるジオプロフィットの使われ方は幾つもの商業利潤を生み出した。
深夜に開いているコンビニに来て受け取るクーポン。
祭りの会場をくまなく回って得られる商品。
店舗前を通り過ぎただけで得られるジオプロフィットすらある。
政府のサーバーを介して行われるGPS情報とジオプロフィットのやり取りが日常となりつつある日本では、並ぶだけ歩くだけ領域内にいるだけで何かしらの利益を得られる事がある。
その個人利用が増加するのは必然だった。
ジオネット上で様々なジオプロフィットを個人が設定するのも常識となりつつある。
法整備が進んだ昨今ジオプロフィットに関する犯罪は横行しつつあり、厳しい管理と警察に新たな部署を設ける事で国は対応していた。
(これで十万とか如何にも怪しいのに引っかかる奴・・・いるんだろうな・・・)
人気の無い道を急ぐ久重が脳裏でジオプロフィットを思い起こす。
所定の場所まで指定のポイントを一定時間で通り抜けて十万円。
正にボロい儲け。
普通なら怪しんで当然。
しかし、それでもやる人間はいる。
遊ぶ金欲しさか。
止むに止まれずか。
どちらにしろ他人から食い物される可能性があろうと人々は利益に群がる。
久重は多くの失踪者達に己を重ね合わせて思う。
(もしも、オレがアズと出会ってなかったらやってただろうし・・・・)
借金苦は藁にも縋る。
それでなくても金が無くて困る人間はいつの時代にもいる。
日本でその最底辺より少し上辺りをウロウロしている久重にはそれがよく解る。
そんな人間が今の日本には溢れ過ぎていると知る故に久重にはこの事件が他人事だとは思えなかった。
久重にとって金とは命より重くない。
だが、命を繋ぐ為に必要不可欠なものだとも知っている。
己の境遇がまだ報われているからこそ、ジオプロフィットに仕掛けられた罠が久重には許せなかった。
「生きてろよ・・・」
僅かに今まで保ってきたペースが崩れ、息が乱れた。
その途端。
「?!」
久重は不意打ちの浮遊感に抗って虚空に手を伸ばした。
ッッッ。
その手の端がマンホールの端に引っかかる。
(抜かった!? 時間指定が月に一度の理由はこれか!?)
月の無い夜。
スモッグで覆われた都市に星の光は微弱。
金の為に急いている被害者は足元が疎かになる。
不意に一つだけ切れている常夜灯の一角。
都市の光が僅かも届かない死角に開いたマンホール。
注意力散漫な人間はズッポリと嵌ってしまうに違いない。
偶然の落とし穴と言うには計画的過ぎる奈落の淵で久重が声を聞く。
【アナタが新しい・・・おにーちゃん?】
「!?」
己の足元から響く女の声に久重の背筋が震えた。。
その声は悍(おぞま)しい響きを伴っていた。
子供が蟲を千切るような純粋さと甘く幼い陶酔が交じり合う声。
思わず下を見た久重が僅かに血の気を引かせる。
黒々とした穴の底で赤い瞳が輝いていた。
人の瞳が放つわけのない輝きには【人間らしい光】があった。
ギラギラとした揺らめきの中に【理性と感情】も含まれている。
(――――やばい)
こんな異常な状況でまったく周囲の暗さを気にしない。
闇の底で不安すら無い。
そんな人間が理性と感情を持って人間らしい光を携えて待ち構えている。
人によってはそれを【狂気】と呼ぶだろう。
(こいつ!?)
直感的な震えが久重を慌てさせる。
狂気に走るだけの人間なんて久重は恐れない。
しかし、久重は知っている。
世の中には狂気よりも恐ろしいものがある。
口で何と言おうと己の行動を断じて肯定する【折れる事が出来ない強さ】を持つ者。
そんな【人間】は狂気に駆られただけの【化け物】より恐ろしい。
どんなに酷い事もどんなに醜い事もどんなに異常な事もできるのが人間という生き物だ。
絶対的な精神の主柱を持つ人間は理由さえあれば何でもやる。
大学を出て理論的な思考能力が高い人間が宗教の下テロを行うように。
軍隊の指揮官が無情な作戦を断じて遂行するように。
狂気とは思考停止した人間が陥るもの。
人間らしい思考と感情と理屈に折り合いを付けた結果から人道を外れる者は狂気に取り付かれただけの者と比べても段違いの性能を発揮する。
明らかに女は狂気に駆られただけの【化け物】ではない【人間】だった。
【さぁ、行こうよ。おにーちゃん♪】
何かに足を掴まれて久重の指が急激な負荷に耐えられず穴の淵から離れる。
(何を言っても無駄なタイプか!)
明らかに待ち構えていた女が何も用意していないわけがない。
話し合っても結果が変わらないタイプの人間に状況を掌握された場合、問題は時間との勝負になる。
何かされてしまうのが先か。
救出が先か。
(ソラ!!)
闇の底に落ちた瞬間、久重の意識は落ちた。
彼女の一番最初の記憶は大きな手で抱きしめられているところから始まる。
それが父ではなく四歳歳年上の兄の手であると知ったのは彼女が七歳の頃。
その頃、彼女の両親は消えた。
ジョウハツという言葉を知ったのは確かその頃だったと彼女は記憶する。
それ以来、兄と共に彼女は生きた。
学校で虐められても、世間の冷たい目に晒されても、彼女は兄と共にならば耐えられた。
恐れるものは人間ではなく狭い四畳半の部屋に吹き込む隙間風だけ。
そんな生活が終わりを迎えたのは彼女が九歳の時。
親戚の家から逃げ出した後。
保護された兄と共に施設へと送られ、彼女は兄と離れ離れになった。
それから兄は学校の卒業と共に彼女を引き取った。
懸命に働き養ってくれる兄を彼女は敬い愛した。
それから、それから、それから。
彼女は兄の勧めで養女として引き取られた。
彼女を引き取ったのは裕福な家だった。
そこで彼女は全てのものを失った。
一月目。
彼女は学校を辞めた。
行く必要が無いからと退学届けが出されていた。
二月目。
彼女は外出できなくなった。
首輪に鎖が繋がれていたから。
三月目。
彼女は笑顔を忘れた。
小屋の床が冷たくて。
四月目。
彼女は人間では無くなった。
誰も彼女を人間として扱わなかった。
五月目。
彼女はいない事になった。
彼女は死んだ事にしたと誰かが言った。
いつの間にか。
彼女は動けなくなった。
手足が無くなってしまっていた。
――――――夥しい時間の果て。
彼女は兄を失った。
偶然に聞いた留守電。
聞こえたのは懐かしい人の声。
【アレのダイキンはマダマダ支払ってモライマス】
留守電に吹き込まれていく悪魔の声に彼女はオワリを聞いた。
家主は彼女に薬を撒いた。
【コレハオマエヲクイツクシテシマウクスリサ】
小瓶に入った銀色の綺麗な粉。
彼女を食べてしまうはずの薬。
けれども、彼女はグズグズに解けていく最中思う。
少しだけ、ほんの少しだけ。
【ああ、おにーちゃんに会いたい】
銀色の粉が彼女の心を食べた時、彼女は銀色の粉となった。
解けてしまいそうな体で彼女は家主に一つお願いをした。
【おにーちゃんに会いに行ける腕を下さい】
家主はとても驚いて彼女を叩こうとした。
彼女は感謝した。
【ぎぃううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう】
彼女は家主にもう一つお願いをした。
【おにーちゃんに会いに行ける足を下さい】
家主はバタバタ暴れながら彼女から離れようと足を向けた。
彼女は感謝した。
【ひぃぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい】
彼女は家主に最後のお願いをした。
【おにーちゃんに会いに行ける体を下さい】
家主は涙と涎に塗れながら笑ってくれた。
彼女は感謝した。
【あ゛ぎ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛】
彼女は貰った足で、貰った腕で、貰った体で出かける事にした。
兄はすぐに見つかった。
彼女はとても嬉しかった。
兄は昔とは見違えるような格好をしていた。
高級外車に乗って高級スーツを着込んで高級マンションに住まい高級食材を食べ高級そうな女を抱き何不自由無く微笑んでいた。
彼女はとても嬉しかった。
涙が出る程に嬉しかった。
ようやく、ようやく、ようやく。
会いたかった人に会えたから。
【おにーちゃん。ただいま。もう何処にも行かないでね?】
彼女の声に兄は振り向いた。
彼女は笑ってちょっと悪戯をする。
【へ? は、ひぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!??】
兄は彼女の悪戯に変な声を上げて笑った。
【おにーちゃん。これからもずっと抱きしめててね】
彼女は嬉しくなってもう少し悪戯をする。
【ひうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう?!!】
兄は奇特にも彼女に腕をくれた。
【おにーちゃん。これからどうしようか?】
【あ、あ、あや、あやまッッッ?!!】
【おにーちゃん。これからどうしようか?】
【か、か、代わッ、代わッッ!!!】
【おにーちゃん。これからどうしようか?】
【た、た、たたた、助けッッ!?】
【もう、少し五月蝿いよ?】
彼女が怒ると兄は沈黙した。
【あ、死んじゃったのおにーちゃん? 代わりって言いたかったの?】
彼女は兄の亡骸をそっと抱きしめる。
【ごめんね。おにーちゃん。殺しちゃって。でも・・・・・】
彼女は孤独に苛まれそうになって気付く。
【おにーちゃんホントは私の事嫌いだったんだよね? ホントはいない方が良かったんだよね? だから、私の事を売ったんだよね? 大金を手に入れて良い暮らしがしたかったんだよね? あんな生活するくらいなら妹一人売ろうって思うよね】
彼女は兄を撫でて思う。
【何処で間違っちゃったんだろう私達。ホントは一杯話したい事があったのに・・・・・・】
兄の顔を見て彼女は気付く。
【あ、そうだ。おにーちゃんの代わりを探してみようかな。良いと思わない? だって、おにーちゃんは良い暮らししたんだから、私にだっておにーちゃんみたいに人生を楽しむ権利くらいあるよね?】
何も言わない兄にそっと彼女はキスする。
【じゃあね? おにーちゃん。今度のおにーちゃんはちゃんと愛してあげるから心配しないで】
彼女の新たな始まりは凡そ何処にでもある話で始まった。
【彼女の話】を見終えた久重は覚醒した。
「そういう、事か」
「え?」
女が不意を突かれた。
久重が思い切り体を投げ出す。
肩に担がれていた久重は土手を転がり落ちた。
転がり切った場所で痺れている体を無理やり起こした久重は暗い夜道から降りてくる紅い輝きを睨む。
「自分のママゴトに他人を巻き込むなよ」
僅かに霞む意識を維持しながら久重は紅い輝きに怯む事なく拳を握る。
「あなたは新しいおにーちゃんになってくれないの?」
「生憎と今は居候一人で手一杯だ」
「そうなんだ。あなたは私と同じみたいだから、きっと良いおにーちゃんになれると思ったんだけどな」
久重に向かい合い佇む女から放たれる声は細かった。
人一人を持ち上げ逃走しているとは思えない肉体は頼りなく風に吹かれている。
「今まで行方不明になった奴は全員が日本人だ。お前のおにーちゃんとやらは日本人でいいのか」
「おにーちゃんは出会った時、日本人の顔をしてた。あなたが見たみたいに」
僅かに久重の目が細められる。
「アレを見せたのはお前か?」
「あなたも【銀色の粉】を持ってるから、教えてあげられるかなって」
会話時間を引き延ばしながら肉体のコンディションを少しずつ戻していく。
「お前の今までの【おにーちゃん】はどうなった?」
半身の構えで久重が訊く。
「えっと、六人は死んじゃったけど三人は生きてると思う」
その答えが予想通り過ぎて久重が拳が白くなるまで握り締めた。
「一つだけ訊きたい」
「何?」
「お前は今幸せなのか」
思ってもみなかった質問なのか。
女が僅かに目を見開いた。
「あなたはどう思う?」
「楽しそうには見えても幸せそうには見えない」
女がまるで悪戯を叱られた子供のように目を伏せた。
「そっか・・・・・・」
久重は女に拳を向ける。
「復讐、理不尽、無理解、どれもこれも自分で抱えて背負っていくしかない。それを他人に強要した時点でお前はお前をそんなにした誰かと同じだ」
女が自嘲気味に嗤う。
「それはやられた事が無い人間の言葉。やられたらやり返して、取られたら取り戻して、やっと少しだけ私は満たされたの。誰にもそれを否定させたりしない」
女の気配が膨れ上がる。
それ以上の会話は危険。
激昂させれば、命も危ない。
そうと知っていても久重は言葉を躊躇しなかった。
「やられたらやり返せばいいし、取られたら取り戻せばいい。それは人間から容易には奪えない自然な感情だろう」
闇の中、紅い輝きが僅かに揺らめく。
「だが、やり返しても虚しくて、取り戻しても同じじゃない」
「え?」
「他の誰かにやり返したら加害者になるだけだ。それで何かを決して取り戻しても、それはきっと失ったものじゃない」
「そんな綺麗事じゃ私は満たされない!」
女の声と共に肉体が膨れ上がっていく。
「胸に満たされたものが薄汚いと知っていて尚求める事は綺麗なのか?」
女が襲い掛かってくるのも構わず、久重がその突進を紙一重で横へすり抜けた。
「全てに目を背けて、悪い酒に溺れていれば誰だって楽だろう」
「知った風に!?」
横薙ぎの腕を己の体勢を無理やり崩してやり過ごす。
「本当に望んだのはそんな人殺しのママゴトだったのか?」
「うるさい!」
女が腕を振り下ろす。
その腕は人を薙いだだけで殺すに余りある力を秘めている。
背後へと飛んで転がり様に久重は言葉を繋げてゆく。
「本当はただ大好きな人と笑いあっていたかっただけなんじゃないのか?」
「うるさい!?」
人ではありえない速度で女が跳ぶ。
上から降ってくる女の足を避けるも蹴り砕かれた地面と共に久重は転がった
「一緒に食事をして、今日は職場で何があったって馬鹿な話に花を咲かせて、暇な日に出かけようとか計画を立てて」
「黙ってよ!!」
完全に体勢を崩した久重の上に女の影が落ちる。
片腕で首を掴まれ持ち上げられた。
今にももう一方の腕は鉄槌のように打ち下ろさようとしている。
それでも久重は険しい顔で女の額に己の額をぶつけ視線を突き合わせる。
「思い出せ。お前が望んだのはこんな薄汚い満足で贖えるものだったのか?」
「――――止めてよ?!」
女は表情を歪ませ、久重を投擲した。
あっさりと宙を飛んだ久重の体がノーバウンドで土手へと大きな音を立ててめり込んだ。
(肋骨が三本、か・・・)
他にも全身打撲や内臓破裂の可能性もあった。
「あなただってお金が欲しいだけの卑しい日本人の癖に!!」
女がゆらりと久重の前に立つ。
「もう消えて・・・・・・」
女の表情は暗がりの中で歪んでいた。
憎しみでも怒りでもない哀しみで。
「確かにオレも金の為に色々とやってきたさ。だが、金に貴賎があることぐらい知ってる。お前はジオプロフィットを人間の命を買う為に使った。その時点でお前はお前を虐げた奴と何も違わない」
「――――――」
女が拳を思い切り振りかぶり久重の胸に叩きつけた。
辺り一体に響く衝撃。
普通の人間ならば臓物をぶちまけているはずの一撃が細い手に遮られていた。
「ソラ!!」
「ひさしげ。大丈夫!?」
「ッ」
目の前に疾風の如く駆けつけてきたソラを警戒するように女が咄嗟に後ろへと下がった。
「お約束のようにギリギリだが助かった」
久重が笑いながらその場から立ち上がる。
「もう!! ひさしげッ、心配したんだから!? 解ってるの!!」
軽い久重のノリにソラが怒る。
「それよりまずはあいつを止めないとな」
ソラが油断無く女を見据える。
何処にでもいそうなOL風の女はところどころはち切れたスーツの内側から銀色とピンクの斑な肌を見せていた。
「アレって!?」
その姿に僅かな驚きを持ってソラが久重に訊く。
「どうやら闇ルートに流れたNDの一部らしい」
「やっぱりND!?」
「詳しい事は知らないがそいつを殺す為に使われたNDがそいつを生かしてる」
ソラが女の姿態に正体を探る。
(NDの暴走? 旧世代型のNDにそこまでの力があるなんて聞いた事ない)
「あなたも【銀色の粉】を持ってるの?」
女の問いにソラが目を細める。
「あなたも同じなの?」
女の視線に僅かな変化を見て、ソラがその感情が何なのか気付いた。
「・・・違う」
「?」
「私とあなたは同じじゃない。この力は私の大切な人が与えてくれたもの。その使い道は目の前の人と共に歩んでいく術。だから、私とあなたは違うわ」
女が傷ついた様子で微笑んだ。
「なら、死んでくれる?」
「断る!!」
女の体が跳躍した。
久重を抱えてソラが超人的脚力で回避する。
女が落下し蹴り砕いた地面が鳴動して、爆裂した土石が周囲に飛び散る。
「ひさしげ。あの人のNDについて他に知ってる事は!?」
「あいつは本来四肢を失ってたはずだ。だが、NDを投与されてから他の人間の肉体を取り込んで再生させてる」
「再生?! そんなの普通のNDじゃ絶対―――」
その事実に気付いたソラが黙り込む。
「ソラ?」
「・・・・・・昔、研究途中のNDを市場に放出して実験させられたことがあるって博士が言ってたの」
「まさか!?」
「うん。たぶん未完成品を流通させて人間に対する作用を観察してた。でも、被検体は全部【連中】が追跡して廃棄処分にしたってデータにあったから」
「そういう事か・・・」
女が二人の会話を隙と捉えたのか一直線に駆け手を伸ばす。
その手に掴まれれば人間の体如きは毟り千切られる。
襲い掛かってくる女に対してソラが咄嗟に黒い霧を解き放つ。
「イートモード!!」
「!?」
女がその霧を避けて距離を取った。
イートモードは領域に入った対象となる全ての存在をNDの力により分子レベルで解体する死の圏域。
対抗できるのは同じNDを身に纏った人間だけ。
女の不完全なNDでは防げない。
敏感に脅威を感じ取った女が警戒しながら圏域ギリギリの場所で黒い霧に覆われた内部へと意識を向ける。
「ソラ。もしも博士が作ったNDならオレに止められるか?」
「・・・たぶん基本設計もプログラムも同じはずだから。でも、そんなケガじゃ」
「やらせてくれ」
「何があったのひさしげ?」
「あいつに過去を見せられた」
「過去?」
人間を人間とも思わないクズが人間を化け物にする力とは知らずNDで少女を一人処分しようとした。
移民として虐げられ、世間から抹消され、記録すら残らなかった少女はだからこそ生き残った。
その事実を女が久重に知らせる意味なんて無かった。
それは女と同じようにNDの力に関わった久重だとしても変わらない。
同情が欲しかったなら過去なんて幾らでも誤魔化せる。
自分と似た力を持つ人間だからと全てを見せる必要も無い。
ならば、どうしてあそこまで過去を見せたのか。
「そこであいつは泣いてた。ずっと何かを求めていた。知った以上見て見ぬフリなんてできない」
「ひさしげが、それはひさしげがやらなきゃいけない事?」
心配そうなソラに久重が首を横に振る。
「たぶん違う。これはあいつの傍にいた誰かの仕事だ。本当ならな。だが、此処で止めてやれるのはオレ達しかいない。だから」
女が意を決したように半径二十メートルにも及ぶ黒い霧【ITEND】のイートモードの中へと突入する。
まず服が全て食い尽くされ、更に膨れ上がった肉体のあちこちが黒く蝕まれ始める。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ?!!」
下手に全身をNDによって構築している女にとって黒い霧は硫酸の雨にも等しく。
なまじ耐性がある分だけ少しずつ解けていく体に女は転げ回った。
「ソラ」
「・・・ステイモード」
逡巡したソラが躊躇いがちながらもイートモードを切った。
黒い霧が晴れ、漆黒を染める輝きが女の目に飛び込んでくる。
ソラの額に微かな光の文字が連なっていく。
【ITEND】Annihilation Mode。
Energy Source 【SE】。
Full Drive。
「おい。憎い日本人なら此処にいるぞ」
「ッッッ!!」
女が全身から血に似た何かを零しながら立ち上がる。
久重の右手に集まる輝きが増した。
「掛かって来い。受け止めてやる!!」
「―――――――!!!」
女が一直線にその手で久重を引き裂こうと跳ぶ。
その手を掻い潜り、真下から【左の拳】でのカウンターが仕掛けられた。
胸を打ち抜かれた女が久重の倍はあるだろう巨躯を浮き上がらせ、地面へと膝を付く。
「――――あなたみたいな人が私のおにーちゃんだったらなぁ・・・・・」
女が胃液と体液に塗れた口元を緩ませた。
膝を付き、上を見上げる額に久重の手はもう触れている。
「自由に生きれば良かったんだ・・・・・・」
「あはは・・・そう、出来たら、良かったんだけど」
「出来たはずだ」
「悪い夢に掴まっちゃったから」
「なら、もう一度やり直せ。夢は起きて見るもんだ」
女が首を振る。
「もう、疲れちゃった」
「・・・・・・・・・そうか。なら、休むといい」
NO.000“Exhaustion Crest”
白い輝きが久重の手と女の額の間に溢れ、世界は白い静寂に満たされていく。
「ねぇ、少しだけ傍にいて、くれる?」
「ああ」
「ありがと。おにーちゃん・・・・・・・・・・・・」
女はどこか少し残念そうに笑った。
「おやすみ」
事件の終わりは呆気なく訪れ、世界は再び闇に沈んだ。
『では、次のニュースです。本日未明、男性数名が○○区の廃工場跡から発見されました。彼らは連続失踪バラバラ事件の被害者達と思われ、四肢を―――』
未だ絶滅していないラジオが垂れ流すニュースに耳を傾けるでもなく了子は横の男の顔を見つめる。
『尚、容疑者と目される移民の女は死体で見つかっており、その体の―――』
「戒十さん。事件解決しちゃいましたね」
「ああ」
「何か呆気ないですね」
「ああ」
「容疑者の身元どうやって調べたんですか?」
「タレこみがあった」
「タレこみ?」
「死んだ女の身辺情報をロッカーに置いておくとさ」
「それって、誰が・・・・」
「知らねぇよ。ただ、ロッカーの中身に事件の全容が殆ど乗ってやがった。調べたらドンピシャだ。移民が人身売買に関わってるってのは常識だが、売られた先でどうなってるのかは実態が定かじゃない。というより、お上はそんな都合の悪い事実は無かった事にしたいからだろうな。調べなんかしねぇ」
「だけど、今回の件で調べないわけにはいかなくなった?」
「移民の子供を達磨にして遊んでやがった男がいて、その養女として女が買われ、女は同じように日本人の男を達磨にして弄んだ。男はジオネットの管理機構役員で、同僚の男は自分達の趣味の発覚を恐れて証拠のジオネット登録を消してた。女は結局何かの薬で誰かに殺され、男の同僚は今でも何食わぬ顔で生きてる」
「絶対捕まえてくれますよね?」
「当たり前だ。社会正義なんて胡散臭い言葉は好きじゃないが、今回の件でこれから世論は移民の人身売買利権を追求するだろう。移民に対する風当たりは強くなるだろうが子供に対する保護は厚くなる、と信じたいな」
佐武がコップの中身を空にした。
「戒十さん・・・・・・どうして人間て分かり合えないんでしょうね」
「了子。お前第三世界の現状知ってるか?」
「いきなり何です?」
「ほら、答えてみろ」
「え、えっと、アフリカの殆どの国は崩壊、現在は内戦すら人口の減少で消滅してるって聞きますけど」
「分かり合えない民族紛争地帯が今じゃただの無人の荒野って事だ。ここ数年は更に疫病の流行で二千万人が死んだ」
「何が言いたいんですか?」
「単純な話。分かり合えない人間がいるだけマシって事だよ。争い諍い全ては他人がいるからこそ。やがて分かり合う事ができるかもしれない希望がある分な」
「人間がいなきゃ分かり合えないも何も無いと?」
「無論、数百年どころか千年経っても分かり合えない民族同士もいるだろうがな」
「戒十さんは分かり合えない人っています?」
「いるとも。消えてくれと思うような人間なら両手の数で足りない」
「いつか分かり合えると思いますか?」
「思わないな。人間の人生なんてあっという間だ。死ぬ前に分かり合えると思えない人間ばっかりで困る」
佐武の苦笑に警察内部での苦労が透けて見えて了子が複雑そうな顔をした。
「日本の世の中は悪くなる事はあっても良くなる事はない。オレの先輩刑事がそう言ってた事がある。どうしてだか解るか?」
「悪事が尽きる事は無いから・・・とか?」
「いや、理由は日本人は前に進んでも何とも思わず、後ろのことが気になる人種だから、だったかな」
「それは・・・何か解る気がします」
「ホントか? 要はアレだ。日本人にとって良い事ってのは当たり前なんだよ。当たり前過ぎて誰も誇らないし、誰も気にしない。けれど、悪い事は注目して改善しようとする。そんなだから、日本人は世界でも珍しい人種になった」
「確かに日本人て未来の栄光より過去の失敗を省みる方が多いかもしれません」
「そんな奴らが多いから日本は平和を保ち続けてる。悪い悪いと言いながら、その平和を脅かす過去の失敗を跳ね除けていく。未来志向だなんだと世の中の連中は言うが、過去を省みなければ国だろうと民族だろうと進歩は無い。きっと、移民問題だってそうだ。後数十年もしたら人身売買や道徳や人権の問題より『どうして近頃の若者は自分の民族に誇りを持たないんだ』とか平和ボケしたものが主題になってんだろ。それがどんなに平和な時代でしか主題にならない問題か無自覚なままな」
「ずっと世の中は悪いのに平和なんておかしな国ですね」
了子の言葉に佐武が笑った。
「昔の日本はもっと悪かったぞ。不況に次ぐ不況。政府と政治家の無能。外国に随分と酷い目に会わされてデモが絶えなかった。それでも平和は続いてる。悪い悪い平和がな」
「どれだけ平和になっても悪いまま、ですか?」
意地悪く訊いた了子に佐武が頷く。
「逆に世の中が良くなったなんて話をし始めたら日本は終わってる。どんなに今が進んでいる平和の最中か無自覚なまま過去を悔い続けるからこそ、日本は悪い世の中を変えていけるんだ」
了子はコップに残っていた日本酒を空にして屋台の外に出た。
思い切り伸びをして空を見上げる。
「おい。どした?」
「外字久重」
「あ?」
「今、追ってるネタの中心人物の名前です」
「あぁ、あいつか。お前の手帳にも書いてあったな確か」
「戒十さんもよく覚えておいて下さい。ごちそうさまでした」
了子が一万円をポンと置いてバックを取って歩き出した。
「私もこんな悪い世の中を少しでも変えてみます」
置いていかれた佐武が頭を掻いて、その背中に小さく声を掛ける。
「無理、すんなよ」
声は星の見えない空に融け戒十は再びコップの日本酒に口を付けた。
ジオネットの登録を操作し、移民の女と己の罪を隠蔽しようとした男が児童虐待及びその他余罪十六件で立て続けに起訴されたのはそれから三日後の事だった。
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それは移民の女と青年達の物語。